越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【45】

2013-02-19 10:26:43 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)正月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

2日、相州北条「左京太夫氏康」から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆である「松本石見守殿(景繁。大身の旗本衆)・河田伯耆守殿(重親。同前)・上野中務丞殿(家成。譜代衆)御宿所」に宛てて書信が発せられ、これまでの経緯を省みることなく一翰を認めた意趣は、このたび息子の氏邦(藤田新太郎氏邦。氏康の四男。武蔵国鉢形城主)を通じて越・相両国の一和を打診したところ、懇ろな回答を寄せられたので、ひたすら本望であること、相・甲両国の同盟が破綻したのは、当家の氏政(氏康の次男)と甲州武田信玄は長年に亘って厚誼を深め、事あるごとに誓詞を取り交わしてきた間柄にも係わらず、突如として一方的に断ち切ると、旧冬13日に謂れもなく駿府へ攻め入ったからであること、不意の凶行に応戦もままならなかった駿州今川氏真(氏康の娘婿)は、何とか遠江国懸川城(佐野郡)へと逃げ延びたものの、輿車に乗ることもできなかった娘(氏真の妻)の逃避行は辛苦を極め、親として拭い難い屈辱を味わったこと、このまま今川家を断絶させてしまうのは嘆かわしく、何としても食い止めるに越(越後国上杉家)を頼みとするほかないこと、我ら親子の思いは一致しており、提示された三項目の必要条件を受け入れて証文を差し出すこと、氏政らが駿州に出張っているため、当地(小田原城)に在城する愚老が対応すること、願わくば越・相一和の合意が得られるように、各々に奔走してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。
一方、別枠の交渉編成で和平を申し入れてきた北条源三氏照(氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)と厩橋北条丹後守高広(相州北条家に他国衆として属する。もとは越後国上杉家の譜代家臣。上野国厩橋城主)からの交渉依頼を無視していたところ、7日、再び北条源三氏照(下総国在陣中)から書信(「越府江」)が発せられ、またもや使僧を企てたこと、先日は、これまでの経緯を憚らずに不躾な申し出をしたこと、遠路と深雪の障害により、使者の通行が滞る事態を予想し、幾通りもの書信を発したところ、参着しているのかどうか、未だに回答が寄せられないので、事情が分からず御心配していること、先書に表したように、駿・甲・相三ヶ国は親子兄弟同前の間柄であるにも係わらず、信玄(甲州武田信玄)が国を奪うか奪われるかの強硬な理屈を唱えて駿州に攻め込むと、対する今川殿(駿州今川氏真)は成すすべなく駿府を放棄して遠江国懸川城に逃げ込んだので、当方は海路から三百余名の援軍(伊豆衆の清水新七郎(家老の清水太郎左衛門尉康英の子)・小田原衆の板部岡右衛門尉康雄・諸足軽衆の大藤式部丞政信ら)を送り込み、堅固に懸川城を支えていること、信玄は当方に対して、今回の甲・駿間の同盟破談は、今川殿が数年に亘り、駿と越(越後国上杉家)で示し合わせて信玄の撃滅を画策していた事実が明白なため、信・越国境が積雪に閉ざされた機会を捉えて駿州へ先制攻撃を加えたとの言い分を示し、自らの正当性を主張してきたこと、そういうわけであり、これを契機に当方と一味同心されて、信玄に対する積年の鬱憤を晴らされるべきこと、一和の合意が得られれば、早速にも共同軍事作戦の協議を開始したいこと、御尊意が伝わらないため、心ならずも一方的に自分の存念を示したので、どうか御理解してほしいこと、これらを懇ろに伝えられている。
同日、北条「氏照」から、年寄の「直江太和守殿(政綱)」に宛てて初信が発せられ、そもそも駿・甲・相三ヶ国は不離の間柄であったにも係わらず、駿・越両国が手を結んで信玄の滅亡を企てているとの言い掛かりを付け、信玄は三ヶ国の同盟を反故にして駿州に攻め入ったこと、この機会に当国と御一味同心されて信玄に対する積年の遺恨を晴らされるように、然るべく取り成してほしいこと、一和の御同意が得られれば、当方については、自分が両国の間に立って力の限り奔走するので、貴国については、其方が御取り成しに奔走されるべきこと、貴国の事情や別枠の交渉態勢で先行する者の存在があるといえども、ここまでの覚悟で臨む氏照にこそ、万障を排して交渉役を任せてほしいこと、よって、これらの本望が達せられるためには、ひたすら其方を頼むほかないことを伝えられている。

13日、(上杉「輝虎」)、越・羽国境の越後国瀬波(岩船)郡小泉荘燕倉に在陣する「三潴出羽守殿(長政。大身の旗本衆)」に宛てて書信を発し、このほど色部修理進(勝長。外様衆。越後国平林(加護山)城主)が不慮の死を遂げたのは、ひたすら残念であるが(9日未明の村上本庄方による襲撃の際に負った傷が元で10日に死去したと伝わるが、実際のところはよく分からない)、幸いにも弥三郎(顕長。勝長の嫡男)がいるので、其方からも色部の家中衆に対し、家中一丸となって守り立てていくように鼓舞激励するべきこと、漸く海上が安定して船舶の運行が可能になったので、越・羽国境在陣の軍勢を順次に当陣へ戻すので、号令があるまでは辛抱するように、各々へ周知徹底させておくべきこと、村上本庄方の越後国藤懸城(瀬波郡小泉荘府屋)については、出羽国の味方中である大宝寺(九郎義増。出羽国衆。出羽国大浦城主)との連携が整わなくても、攻略の好機を捉えたならば、三郎次郎(大川長秀。外様衆。本庄弥次郎繁長に一味した弟ふたりに居城の藤懸(府屋)城を奪われた)と協力して攻め寄せるべきこと、頸城郡を始めとする諸口は安泰であり、すでに当陣で長い時日を過ごしているが、確実に敵城を追い詰めているので、決着がつくのは間近であること、駿・甲の同盟が破談となり、甲州衆(甲州武田軍)が駿州に攻め入るも千余の損害を出したばかりか、南方(相州北条軍)が救援するために駿州へ進撃して甲州衆を一騎一人も余さずに封じ込めていると、氏康父子(相州北条氏康・同氏政)が旱虎かた(輝虎。色部勝長の死去が一因となって併用を始めたか、それとも節目の年齢を迎えた心境の変化によるものか)へ直報されたのに伴い、南方と当方の一味が成就するので、いかにも安心するべきこと、その方面で奮闘するべきこと、よって、これらを三郎次郎(大川長秀)にも言い聞かせるするように伝えた。

村上本庄方との講和の仲介を買って出た奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)の許へ使節として後藤左京亮勝元(旗本衆)を派遣すると、14日、後藤左京亮勝元が、取次の「和州(直江大和守政綱)」の年寄中に宛てて書信を発し、経由地である越・奥国境の会津領赤谷(越後国蒲原郡小川荘)に於いて、昨日13日付の尊書を受け取り、新たな講和の必要条件をもれなく承ったこと、黒川に到着したならば、直ちに御様相を報告すること、あらかじめ示されていた講和条件に加え、新たに示された講和条件に副って游足庵(淳相。蘆名家の使僧)と御談合すること、本庄を赦免される場合の御意についても承知したこと、このたびの駿州を巡る御仕合(不慮の事態)により、取り分け相州北条方の大石源三殿(北条氏照)から和睦を懇願された事実は、大いに当家の面目が施されたので、自分にとっても晴れがましいこと、会津と同様に講和の仲介に関与する伊達(羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達輝宗)には、これより仲介者に御書(輝虎の書簡)を託し、遠藤内匠助方(基信。伊達次郎輝宗の側近)の許へ送り届けさせるので、御安心してもらいたいこと、よって、これらをよく理解してもらった上で、然るべき時期に御披露してほしいことを伝えている。また、別紙にて追伸を発し、準備に手間取ったことに加え、山間の隘路ゆえに予定の行程よりも遅れそうなので、この弁明をよしなに御取り成してもらいたいことと、首尾については、改めて報告することを伝えている。

16日、(上杉「旱虎」)、越府の「長尾喜平次殿(甥にあたる上田長尾顕景。越後国坂戸城主)」に宛てて書信を発し、新年の慶賀として、太刀一腰と鵝目(銭)二百疋を贈られたことへの謝意を表した。

同日、相州北条家の他国衆である「由信成繁(上野国衆の由良信濃守成繁。上野国金山城主)」から、年寄の「河豊(河田豊前守長親)御宿所」に宛てて書信が発せられ、このたびは敢えて申し入れさせてもらうこと、先年に不行跡を咎められ、身の置き場を失ったとの思いから、心得違いにも小田原(相州北条家)に帰属してしまい、あえなく敵味方に別れていたこと、このほど駿・甲両国の間で不慮のいざこざが起こり、すでに甲(甲州武田軍)が駿(駿河国)に攻め入ったので、あれほど親密であった駿・甲・相三ヶ国の同盟は破綻したこと、信玄(甲州武田信玄)は、今川氏真が越府(越後国上杉家)と密かに提携して信玄の滅亡を企てたとの言い掛かりを付け、いきなり駿へ攻め入ったので、氏真は迎撃態勢を整えられず、駿府を捨てて遠江国懸川城へ逃れたので、相府(相州北条家)は盟約を公正に遵守して氏真の支持を唱えられ、伊豆国三嶋(田方郡)に張陣し、豆・相の軍勢を駿州に送り込んで蒲原(庵原郡)・興国寺・長久保(ともに駿東郡)・吉原(富士郡)などの要衝を堅持していること、このような情勢の変転に伴い、これまでの対立を解消して越府と同盟を結び、信玄に対抗する覚悟を決した相府の指示を受け、昨冬に旧縁を頼って倉内(沼田)在城衆へ内々に一和を打診したところ、在城衆の松石(松本石見守景繁)と河伯(河田伯耆守重親)が越府へ使者をもって申し立ててくれたそうであり、このたび両所(松本・河田)を通じて越府からの条件提示を承ったので、こうして再び相府の直札を当方から送り届けること、よく事情を理解された上で、適切な口添えをされて一和を成就へと導かれるべきこと、今こそ越府は信・甲州に進撃して積年の遺恨を晴らされるべきこと、これらを懇ろに伝えられている。

17日、越・羽国境に在陣中の「大三 長(大川三郎次郎長秀。外様衆)」が、年寄衆の「柿泉(柿崎和泉守景家。譜代衆)・山孫(山吉孫次郎豊守。大身の旗本衆)・直大(直江大和守政綱。同前)」に宛てて書信を発し、この13日に大宝寺勢と合流して越後国藤懸城の奪還を図ると、城内に内通者を得たので、一両日激しく攻め立てるも、内通者が工作に失敗して自害を遂げてしまい、攻め倦む結果となったが、このまま撤退するのは口惜しく、あと五日でも十日でも強攻する覚悟を決めたところ、軍監の仁中(山吉豊守の重臣である仁科中務丞か)と三出(三潴出羽守長政)から後陣の不備を理由に撤退を強く促され、自分は若輩であるため、方々の意見に従い、翌日には越・羽国境の越後国燕倉へ後退したこと、この上は、拠点の黒川俣・中次・燕倉(何れも越後国瀬波(岩船)郡小泉荘)の整備を万全に施し、大宝寺の軍勢と連携を図り、再び藤懸城の奪還を試みたい考えであり、御番手の衆を引き戻されないように、御取り成し願いたいこと、御陣は強固であるため、村上城は日々追い詰められているそうなので、めでたく喜ばしいこと、急を要するほどではないところ、新年を賀して以来、無沙汰をしていたので、慌しく使者を派遣したこと、適宜に御取り次いでもらいたく、詳細な御回答が待たれること、これらを取り急ぎ伝えている。
同日、「大三 長(大川三郎次郎長秀)」が、年寄三人衆(いずれも大身の旗本衆)の「山孫(山吉孫次郎豊守)・直大(直江大和守政綱)・鯵清(鰺坂清介長実)」に宛てて(実務的な)書信を発し、このたびは藤懸城の奪還に失敗してしまったが、態勢を整えたのち、再び奪還を試みるので、御番手衆を引き上げさせないように、御取り成し願いたいこと、また、昨秋は私領の年貢を藤懸に一物も徴収できず、某(大川長秀)は仕方ないにしても、戦災者の扶助が困難であるため、何もかも悩ましいこと、御台飯(糧米)の支援継続について、藤懸在城時であれば、誠に憚られる申し出ではあるが、こうした非常時なので、どうにか支援を継続してもらえるように、(輝虎の)御機嫌を見計らって、御取り成し願いたく、ひたすら頼み入るばかりであること、これを取り急ぎ伝えている。

20日、上野国沼田城の城将である「松石景繁(松本石見守景繁。大身の旗本衆)」が、取次の「山吉殿(山吉豊守)参御陣所」に宛てて書信を発し、越・相一和について、今月中に足利(相州北条陣営の足利(館林)長尾但馬守景長。上野国館林城主)にも一和の協議に応じる旨を通告し、今春中には一和を成就させたいとする上様(輝虎)の御存念は、時宜を得た相当な御判断であり、先書に示した通りなので詳述を避けるが、適切な対応が図られるように御口添えしてほしいこと、よって、これらを彼の使者が詳述することを伝えている。更に追伸として、返す返すも、南方(相州北条家)の使者が御吉報を待ち侘びているので、速やかに御返報が寄せられるべきことを伝えている。

21日、(上杉「旱虎」)、旗本の「岩井備中守殿(昌能。もとは信濃国衆・高梨氏の旧臣)」に宛てて朱印状(印文「量円」)を発し、新年の慶賀として、太刀一腰を贈られたことへの謝意を表した。

23日、濃(尾)州織田「弾正忠信長」から書信(「謹上  上杉弾正少弼殿」)が発せられ、昨秋以降は音問が途絶えていたのは心外であること、陸奥の鷹を尋ね求めるために鷹師二名を奥州へ下向させたので、両人の通行に便宜を図ってほしいこと、あらかじめ謝礼として豹皮二枚を贈ること、また音信を通じること、これらを懇ろに伝えられている。

27日、遠江国懸川城の今川「氏真」から書信(「上杉弾正少弼殿」)が発せられ、昨冬に力添えを求めるために派遣した使僧が参着したかどうか、未だに御返事が寄せられないので、心許ないこと、相・甲両軍は僅かに河を挟んで対陣を続けており、氏真も近日中に参戦するつもりであること、越・相一和の進捗状況が案じられてならず、願わくば速やかに妥結し、一日も早く信州へ御出張願いたいこと、よって、これらを賀首座(善得寺茄首座)が詳述することを伝えられている。


この間、駿府に在陣する甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、遠江国懸川城を攻囲中の三州徳川家康(三河守)から、秋山伯耆守虎繁(譜代衆。信濃国大島城代)の率いる甲州武田軍の別働隊が遠州に進出したことへの抗議を寄せられると、8日、「徳川殿(左京大夫家康)」に対して書信を送り、このたび使者を寄越されたので、めでたく喜ばしいこと、信玄の存分は山岡(半左衛門尉。徳川家の旗本衆)の口述に任せるので、この書面での重説を避けること、聞くところによると、その表(遠江国)に秋山伯耆守以下の信州衆(下伊奈衆)が在陣している事実から、当方が遠州を奪取するとの御疑いがあるようなので、早々に秋山以下の下伊奈衆を引き上げさせること、必ずや懸川城の攻略を果たされるべきこと、これらを懇ろに伝えている。
9日、「織田弾正忠殿(濃(尾)州織田信長)」に対して書信を送り、先日に使者を派遣して存念を述べたところ、数々の御入魂を施されたこと、取り分け懇答を寄せられたので、めでたく喜ばしいこと、図らずも当国(駿河)へ出馬したところ、今川氏真は一戦を交えることなく、懸川城に逃げ込んだので、彼の地へ進陣して決着をつけようとしたが、連動して遠州に出陣した三州衆(三州徳川家康)が当方による遠州争奪を危惧されており、自制して当府(駿府)に留まったこと、よって、これらの趣旨を申し述べるために市川十郎右衛門尉(直参衆)を派遣したので、彼の口上の旨に同意してもらえれば本望であることを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 636号 北条氏康書状(写)、637・638号 北条氏照書状、640号上杉輝虎書状(写)、641・642号 後藤勝元書状、643号 由良成繁書状(写)、644・645号 大川長秀書状、646号 織田信長書状(写)、647号 今川氏真書状(写)、869号 松本景繁書状、962号 上杉輝虎書状(写)、965号 上杉輝虎書状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1350号 武田信玄書状、1351号 武田信玄書状写

◆ 『上越市史』等は962・965号文書を年次未詳としているが、今福匡氏の論考である「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究 第502号』)に従い、永禄12年の発給文書として引用した。
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越後国上杉輝虎の略譜 【44】

2013-02-06 20:28:54 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄11年(1568)11月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

7日、本庄弥次郎繁長が立て籠る越後国村上城(瀬波(岩船)郡)への督戦を開始し、反乱の鎮圧を本格化する。

27日、朝方に越後奥郡国衆の中条越前守(越後国鳥坂城主)が、年寄三人衆の山吉孫次郎豊守(同三条城主)・直江大和守政綱(同与板城主)・鰺坂清介長実(いずれも大身の旗本衆)に対して、中条と同族の黒川四郎次郎平政(越後国黒川城主)の重臣である石塚玄蕃允の背信行為について通報したところ、重大な事実であるにも係わらず、すぐに年寄三人衆が輝虎へ披露しなかったことを知り、彼らに対して強い懸念を示したところ、山吉「豊守」・直江「政綱」・鰺坂「長実」が、中条越前守の許に書簡(礼紙ウワ書「越州へ 参御陣所  三人 より」)を送り届け、今朝方に仰せになられた事実については、ただ今まで山孫(山吉豊守)が御異議を唱えていたので、上様(輝虎)への披露が遅れていたこと、綿密に検討した結果、山吉も納得されたこと、とにかく相談を済ませたので、御安心してほしいこと、余りに御心配されているので、何はさておき申し入れたこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、このように披露が少しばかり遅延してしまったが、我らは御前(中条越前守)に不利益を被らせるような対応はしないので、御心配されないでほしいことを伝えている。
それから間もなくして輝虎への披露を終えた年寄三人衆の山吉「豊守」・直江「政綱」・鰺坂「長実」が、改めて中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御宿所  山孫 豊守・直大 政綱・鯵清 長実」)を送り届け、先刻は書中をもって申し達したところ、すぐさま御返報に預かり、ひたすら恐縮していること、石玄(石塚玄蕃允)の背信については、ただ今は上様(輝虎)の御機嫌が良いのをみて、すばやく御耳に立てたところ、この夏に本弥(本庄繁長)から反乱への荷担を誘われた際にも、その密書を差し出されており、このように、一度ならずも二度までも御忠義を尽くされたのは、ひとえに御厚誼のおかげであると、いやが上にも御信頼が増したとして、ひときわ御悦喜されていること、(輝虎の)御手が空いたあかつきには、内々に御対面の時間を設けて謝意を述べられること、よって、これらを御書に於いて謝意を表されるため、あまねく御安心されるべきことを伝えている。更に追伸として、まだ上様が越府を離れられないでいた頃、春日山城に於いて国中の在府衆と意思の統一を図るため、御舎弟である新発田源二郎方(長敦。外様衆・新発田尾張守忠敦の嫡男)と、色部弥三郎方(顕長。同じく色部修理進勝長の嫡男)が見届けるなかで、貴所を含めた国中の在府衆と御誓詞を取り交わされたが、またもや尽くされた御忠義への謝意を表されるため、今再び貴所へ御誓詞を進められる御決断を下されると、すかさず我らに仰せ出されたので、もはや貴所の御憂慮も晴れるであろうことを伝えている。
同日、(上杉「輝虎」)、「中条越前守殿」の許に書簡を送り届け、山吉・直江・鰺坂かたを通じて示された石塚玄蕃允の背信が事実であれば、実に残念であること、この夏中に本庄弥次郎かた(繁長)からの密書を差し出してくれたのに引き続き、このほど尽くしてくれた忠義を輝虎の一生涯こころに留めておくこと、何はともあれ、その思いを対面の折に直接述べること、これらを特記して伝えた。
28日、(上杉「輝虎(花押a)」)、面談を約束した中条越前守が来訪するも、本陣の大混雑により、満足な応対ができないままに帰らせてしまうと、自ら認めた書簡(礼紙ウワ書「中条越前守殿  輝虎」)を送り届け、先刻は来訪してくれたにも係わらず、余りの人だかりゆえ、懇ろに声を掛けられず、疎略のままに返してしまい、はなはだ気の毒であったこと、石塚を自ら詮議したところ、なかなか口を割らなかったものの、多様な追求を試みて自供を引き出し、背信の事実を掴んだこと、さぞかし気を揉んだものと思われたので、敢えて自ら筆を執ったこと、このように折良く落着したので安心してほしいこと、これらを特記して伝えた。
晦日、(上杉「輝虎(花押a)」)、「中条越前守殿」に血判起請文を渡し、起請文の意趣は、このたび重大な事態に直面し、国内の諸士と意思疎通を図る必要に迫られて、すでに其方(中条越前守)を含めた主だった者と誓詞を取り交わしているが、夏中の弥次郎かた(本庄繁長)の密書の件といい、今回の(石塚)玄蕃允背信の一件といい、度重なる其方の忠義を輝虎一生涯こころに留めておくため、別して誓詞を進めること、今後も同様な事実を知り得た際には報告を寄せてもらいたく、ますます忠節を励まれるべきこと、若しも其方の讒言を耳にした際には、必ず知らせるので、安心してほしいこと、これらを神名に掛けて誓った。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 622号 上杉輝虎書状(写)、623・624号 山吉豊守等三名連署状、625号 上杉輝虎書状、626号 上杉輝虎起請文


永禄11年(1568)12月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

5日、これより前に関東味方中の佐竹次郎義重(常陸国衆。常陸国太田城主)の許へ使僧を派遣すると、その義重の族臣である北「義斯(佐竹又七郎)」から返書(「山内殿 御宿所」)が発せられ、再び御使僧をもって(佐竹)義重の所へ仰せ届けられたので、ひたすら歓喜されていること、このたび申し述べる通り、関東御出陣に極まれること、取り分け御遅延されれば、もはや下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)の陥落は避けられないこと、このところを承りたく、御使僧に此方の脚力を添えたこと、重大な局面を迎えているところを十分に理解されて、然るべき御対応を願いたいこと、なお、取次の河田豊前守(長親。大身の旗本衆)から申し達せられるので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えられている。

13日、交誼を結んでいる駿州今川氏真が、12日に甲・相・駿三ヶ国同盟を反故にして駿州へ攻め入った甲州武田信玄により、駿府を逐われている。

20日頃、これまで激しく敵対してきた相州北条氏康が、出し抜けの甲州武田軍の駿州乱入について、駿州今川氏真が越後国上杉家と共謀して甲州武田家の撃滅を図ったゆえ、やむなく先制攻撃をしたとする甲州武田信玄の言い分を承服できず、このほど甲州武田家と断交して、新たに越後国上杉家と同盟を結ぶことに決し、四男の藤田新太郎氏邦(武蔵国天神山城主)を立てて、永禄9年まで越後国上杉氏陣営に属していた上野国衆の由良信濃守成繁(上野国金山城主。藤田氏邦の指南を受ける)の伝手を頼りに接触を図ってくる。
この直後には、同じく永禄9年に越後上杉陣営を離反して相州北条・甲州武田陣営に寝返った厩橋北条丹後守高広(上野国厩橋城主)が、相州北条氏康の三男である北条源三氏照(武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務している。厩橋北条高広を指南する)から、旧縁を頼って越後国上杉家に接触を図るように指示さている。

24日、厩橋北条氏の重臣である専柳斎秀仙(山崎氏。近江国出身か。のちに輝虎の右筆となり、使者をよく務める)・北条下総守高定(高広の弟と伝わる。のちに輝虎の旗本衆に転属する)から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆である「松石(松本石見守景繁。大身の旗本衆)・河伯(河田伯耆守重親。同前)・小中(小中大蔵丞。光清ヵ。旗本衆)参御宿所」に宛てて書信(封紙ウワ書「五大力菩薩 松石 河伯 小大 参御宿所  専柳斎 北条」)が発せられ、越・相御一和について、源三殿(北条氏照)から貴府(越府)へ御一札を呈されること、此方(厩橋)から彼の御一札を届けるので、直和(直江大和守政綱)へ脚力をもって申し達せられること、それゆえ脚力の通行に便宜を図ってほしいこと、めでたく彼の御一札の御返事が御到来したあかつきには、改めて御音信を通じるため、その時分に詳説すること、これらを懇ろに伝えられている。

25日、甲州武田軍の駿州侵攻により、駿府を逃れて遠江国懸川城(今川氏の家老衆・朝比奈備中守泰朝の居城)に移ったばかりの今川「上総介氏真」から書簡(「上杉弾正少弼殿」)を携えた使僧が立てられ、去る13日、突如として信玄(甲州武田信玄)が府中に攻め込み、なす術なく味方は敗れたので、力及ばず懸川の地に移るしかなかったこと、先年に其国(越後国上杉家)と提携を図ったところ、甲州(武田信玄)の妨害工作により、大途(将軍)の勧告で越・甲・相三ヶ国の和睦が進められてしまい、越・駿の提携は滞ってしまったが、これまで培ってきた交流を無駄にせず、この機会に御厚誼を深められれば、ひたすら本望であること、詳しい事情については、氏康父子(相州北条氏康・同氏政)が詳説するので、書面を略したこと、よって、これらを使僧が詳述することを伝えられている。

27日、関東味方中の佐竹「義重」から返書(「山内殿 御宿所」)が発せられ、先頃は御使僧をもって御存分を承り、ひたすら本望であること、このたび当方の存分を返報すること、先だって武田晴信(甲州武田信玄)が駿州と断交されたばかりか、駿府を攻め破ったので、小田原(相州北条家)が混乱して前後不覚の今こそ、直ちに関東へ御出陣されるべきであること、少しばかり人数が整わなくとも、とにかく一刻も早い御出陣に極まれること、よって、これらを太田美濃守(三楽斎道誉。資正。常陸国片野城主)が詳報することを伝えられている。

奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名止々斎(修理大夫盛氏)に越後国村上陣の戦況を知らせたところ、28日、使僧として立てられた游足庵淳相が、到着した越・奥国境(会津領越後国赤谷か)から、年寄衆の「柿崎殿(和泉守景家。譜代衆)・山吉殿(孫次郎豊守。大身の旗本衆)・直江殿(大和守政綱。同前)御返報」に宛てた書信が使者に託され、内心では本庄口の御様子を御心配していたところ、折りよく御音信が寄せられたので、ただひたすら喜んでいること、本庄を日々追い詰めている御様子を承り、当方(蘆名止々斎)に於いても、すこぶる満足されていること、このたび御無事を取り計らわれるため、(游足庵淳相が)境目まで派遣されるに至ったこと、御回答次第により、必ず御無事を取りまとめられること、よって、これらを彼の者が詳述するので、書面を略すことを伝えられている。

同日、相州北条方の他国衆である「由良成重(由良信濃守成繁)」から、沼田城将の「松石(松本石見守景繁)参」に宛てて条書が発せられ(由良成繁は景繁に配慮して成重と署名したか)、一、幻庵(宗哲。相州北条家の長老)の息子である新三郎(久野北条氏信)が先遣隊を率いて富士川を越え、駿河国蒲原(庵原郡)の地に進出したこと、この補足として、大石源三(氏照)から屋形(輝虎)へ直書をもって説明されること、一、この12日に氏政(相州北条氏政)が駿州へ向けて小田原(相模国西郡)を出府したこと、一、この13日に先遣隊が駿河国興津(蒲原郡)の地で甲衆(甲州武田軍)と戦い、四百四名を討ち取る戦果を挙げたこと、一、氏政は駿河国沼津(駿東郡)の地に本陣を据えること、一、甲(武田信玄)が本陣を駿府(安倍郡)から葛山(駿東郡)に移したこと、一、駿河の氏真(今川氏真)は安倍山(駿府をさすか)から逃れ、従った者達は一騎一人も欠けずに無事であること、一、この23日に新太郎(藤田氏邦)も駿州に出陣したこと、一、相州北条軍は葛山要害・興国寺城(いずれも駿東郡)を確保していること、これらの条々を伝えられている。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、駿州今川氏真が越後国上杉家と共謀して甲州武田家の撃滅を図ったことへの報復であるという名分をもって駿州の征服を目論み、12日、先制攻撃を開始する。
同日、信濃先方衆の「赤見源七郎殿」に対して感状を与え、今12日に駿州へ押し入った際、薩埵山(庵原郡)於いて敵首ひとつを討ち取ったのは、殊勲の限りであることと、今後ますます忠節を尽くすべきことを通達している。
23日、駿州攻略の盟約を結んでいる「徳河殿(三州徳川家康)」に対して書信を送り、ここ暫く交信がなかったのは遺憾であること、このたび盟約に従って当国(駿河)へ出陣したところ、すぐさま連動して遠州に攻め入ってくれたので、本望満足であること、すぐにも遠州へ進陣するべきところ、当方に従属した当国の諸士(駿河衆)の統制を図っているため、この一両日は延引し、三日後には国境を越えるつもりであること、そちらは早々に遠江国懸川を取り囲まれるべきこと、まさしく面談を遂げられるので、ひたすら喜ばしいこと、これらを懇ろに伝えている。
24日、後詰めとして駿州への出陣を命じた西上野先方衆の「信竜斎(小幡尾張入道全賢)・小幡上総介殿(信真。上野国国嶺(峰)城主)」父子に対して返書を送り、このたび寄せられた書状を披読したこと、後詰の出陣が遅れているのは、必ず果たさなければならない任務であり、不可解であること、駿・甲両国の間に調略を仕掛けるため、分国中の人数を動員した恒例の出馬であり、この時期に不満分子の征討により、未だに父子が在国しているのは、予想外の事態であること、何はさておき、その地から伏兵や物見を駆使して万全を期して征討するべきこと、よって、事実を確認させるために馬場美濃守(信春。譜代衆。信濃国牧之島城代)か春日弾正忠(虎綱。同前。同海津城代)か、どちらかの一勢を派遣するので、何事も協力し合って対処するべきことを指示している。

越後国村上城で抗戦を続ける本庄弥次郎繁長は、相州北条氏政の兄弟衆である由井(北条)氏照から、12月5日に相州北条軍が上野国沼田城を攻撃するとの連絡を受け、24日、(「平 繁長」)、「由井源三殿(大石氏照)」に対して返書(謹上書)を送り、このほど尊札を受け取るも、御懸念されているのは遺憾であること、当方と輝虎の通融(和睦)については、先月7日から輝虎が当城を取り囲んでおり、絶対に事実ではない旨を御理解してもらえるであろうこと、疑いが晴れたかどうかの御返書を拝読するまでは、御使者には当方領内の猿澤の地に留まってもらうので、先ずは愚書を呈すること、御知らせによれば、今月5日には沼田城へ御出馬されるそうであり、すこぶる喜ばしいこと、いうまでもなく、恐れながら一刻も早く御出陣されるべきであること、すでに当地については、輝虎が直接に指揮を執り、昼夜の境なく外郭を強攻しているが、堅牢な要害の防戦に励んでいるゆえ、御安心してほしいこと、越後衆の大方が当陣に出張っている今なら、輝虎が援軍を動かすのは容易でないため、悠々と上田荘(越後国魚沼郡)まで御馬を進められるはずであり、昼夜の隔てなく急行されるべきこと、これらを然るべく御披露してくれるように頼んでいる。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 627号 北義斯書状、628号 北条氏照書状(写)、629号 山崎秀仙・北条高定連署状、630号 本庄繁長書状(写)、631号 今川氏真書状(写)、633号 佐竹義重書状、634号 游足庵淳相書状、635号 由良成繁条書案、638号 北条氏照副状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1340号 武田信玄感状写、1343・1345号 武田信玄書状

◆ 山崎秀仙が右筆を務めたことについては、阿部洋輔氏の編著である『戦国大名論集9 上杉氏の研究』(吉川弘文館)から、藤木久志氏の論考である「Ⅳ 豊臣期上杉氏の支配 二 家臣団の編成」を参考にした。
◆ 相州北条氏が上杉氏に同盟を持ち掛けたくだりと、山崎秀仙・北条高定を厩橋北条家中としていることについては、丸島和洋氏の論集である『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版)の「第四章 大名間外交と「手筋」 ―越相同盟再考― 」を参考にした。以下、越・相同盟に関しては、この丸島氏の論考と、戦国史研究会編『戦国期東国社会論』(吉川弘文館)から、市村高男氏の論考「越相同盟の成立とその歴史的意義」、藤木久志氏・黒田基樹氏の編著『定本・北条氏康』(高志書院)から、遠藤ゆり子氏の論考「越相同盟にみる平和の創造と維持」、黒田基樹氏の著書『戦国関東の覇権戦争 北条氏VS関東管領・上杉氏55年の戦い』(洋泉社)を参考にする。
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