越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記【元亀2年3月〜同年4月】

2024-03-08 23:59:20 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

元亀2年(1571)3月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


3月4日、代官の蔵田秀家が、越後国蒲原郡青海荘小吉条茨曾根の中使(郡司・代官の下で村政を司った首長)である関根 某へ宛てて年貢請取状を発し、納めた蒲原郡内小吉東嶋の御年貢請取りの件について、都合六拾八貫六拾文は、右は去年分の御皆済(完納)として、(関根)中使が徴収した分であること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1031号 蔵田「秀家」年貢請取状写 ●『白根市史 巻一 古代・中世・近世史料』168~169頁)。

当文書の蔵田秀家は、実名のみで名字は書かれていないが、同年8月15日付「瀬木根殿」宛「蔵田 秀家」印判状写(『白根市史 巻一 古代・中世・近世史料』168~169号)により、名字は蔵田と分かる。弘治2年9月朔日に長尾景虎の奉行衆である庄田惣左衛門尉定賢・某 貞盛と共に段銭請取状(『上越市史 上杉氏文書集一』138号)を発給した某 秀家がおり、『上越市史 上杉氏文書集一』では同一人物の可能性があると考えられている。もしそうであるとしたら、謙信から府内代官・青苧座の座頭をはじめとした様々な役目を仰せ付けられ、貢租の徴収も行っていたとされる伊勢御師出身の蔵田五郎左衛門尉その人ではあるまいか。

中使の関根某は、天正13年11月10日付関根孫八郎宛山吉景長判物(『白根市史 巻一 古代中世近世史料』176頁)の受給者である孫八郎(孫太郎とも)の前代に当たる人物であろう。


※ 当文書は、『上越市史 上杉氏文書集一』では関根氏所蔵文書が採録されているところ、『白根市史 巻一 古代中世近世史料』では関根氏文書と板垣家文書の二種類が採録されている。『広報しらね』第302号の「市史よもやま話」には、前者の文書写では「三人中使」とあるが、後者では三人の文字がないことから、「中使」と解しておく、というような相違点が示されており、前掲の元亀2年8月15日付瀬木根宛蔵田秀家印判状写も双方に伝わっているが、それを見比べても、どちらかといえば後者の方が正確に書き写されているようである。



11日、同盟関係にある相州北条氏政は、津久井衆(相州北条家の家老衆である内藤左近将監康行が管轄する)の有力者である野口遠江守・井上某へ宛てて朱印状を発し、深沢城(駿河国駿東郡)を敵(甲州武田軍)が抱えてしまったからには、河村・足柄(駿・甲と国境を接する相模国西郡の河村・足柄城)の普請を申し付けること、人足が不足していること、各々は自戦を同意もしているので、磯辺(相模国東郡)両分の人足二人を申し付けるべきこと、昨年は十日間みっちりであったこと、当年の日数については、五日雇いであるので、来る16日に足柄へ差し向け、奉行の山角・石巻(御馬廻衆の山角刑部左衛門尉定勝・石巻彦六康敬)の代理へ引き渡し、五日の普請に従事させたのち、早々に帰郷するよう、申し付けるべきこと、なお、ただ今は大切な時期であるので、苦労とは思うが、このたびの五日の日限を、速やかに奮励するべきであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1466号「野口殿・井上殿」宛 北条氏朱印状 奉者「安藤豊前守(号良整)」●『戦国人名辞典』野口遠江守の項)。


同日、北条氏政は、昨年末から当年2月まで行われた駿河国駿東郡の御厨陣において、戦功を挙げた紅林八兵衛尉を忠賞し、感状と太刀を与えている。


別して、氏政の大叔父にあたる幻庵宗哲が、今川氏旧臣の紅林八兵衛尉へ宛てて感状を発し、御厨陣の時節は、奮戦したにより、(氏政から)御感状ならびに御太刀を下されたこと、各々が面目を施したこと、よって、(宗哲からも)太刀一腰を遣わすこと、今後においても、ますます戦功を尽くすべきこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1467号「紅林八兵衛尉殿」宛幻庵「宗哲」感状)。



先月末に、越中国味方中の神保長職(惣右衛門尉。越中国増山城主)からの救援要請を受けて出馬しようとしたところ(そもそも2・3月に越中国へ出馬するつもりでいた)、越後国奥郡で騒動が起こり、少々出遅れたが、当月中旬に越中国へ向けて出府すると、17日、神通川を渡って西部へ入り、そのまま敵地への攻撃を開始した。

19日、この日までに越中国中郡の敵地を残らず平らげると、続けて奥郡の守山城(射水郡)・湯山城(氷見郡)を攻撃するため、射水川を渡ろうとしたが、増水によって果たせず、滞陣を余儀なくされた。

そうしたなか、20日、友好関係にある能州畠山家の年寄衆である遊佐孫太郎盛光・温井兵庫助景隆・長 九郎左衛門尉綱連・平 新左衛門尉堯知へ宛てて返書を発し、(畠山家年寄衆が)申し越された通り、(越中国増山の神保)長職から色々と泣き付かれたので、だしぬけに出馬し、17日に神通川を渡ってから、19日までの三日のうちに、敵地を残らず落居させ、人目に立たずに守山・湯山へ押し寄せるつもりでいたところ、六渡寺渡が激しく増水し、未だに渡河できずにいること、安心してほしいこと、行き届いた配慮を示され、飛脚を早々に寄越してもらい、喜悦であること、ますます懇意を加えるべき心中なので、同意されるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1037号「遊佐孫太郎殿・温井兵庫助殿・長 九郎左衛門尉殿・平 新左衛門尉殿」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。


守山城は、『日本城郭大系 7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)の守山城の項
によると、かつては獅子頭城、二上城と呼ばれ、城主は神保安芸守氏張(宗五郎)とされる。神保氏張は、のちには越後国上杉家に従い、天正5年12月の上杉家分国中交名注文に越中衆として見える(『上越市史 上杉氏文書集一』1369号)。宗家の神保長職と対立している氏張といえば、

『寛政重修諸家譜』(巻1182 惟宗氏流)によると、能州畠山左衛門佐義隆の次男で、守山の神保越中守氏純の養子になったと記されているが、久保尚文氏の論集である『越中中世史の研究 室町・戦国時代』(桂書房)の「第六章 越中神保氏の諸問題(Ⅱ)長職期 第一節 天文ー永禄期の越中と能登の関係 (二)神保氏張の出自について」によると、畠山義隆は義総あるいは義続、神保氏純は職広に当たると考えられている。しかし、氏張に関しては、研究ノート「越中神保氏歴代の概説と研究史 ― 慶宗期と長職・氏張・長住期、付小嶋職鎮」(『富山史壇』第185号)において、立山神領の針原(新川郡富山)に置かれていた庶家神保豊前守氏重の男子であり、神保家の再起を遂げた宗家神保惣右衛門尉長職が一族家中の結束を図る一環として猶子に迎え、能州畠山家と連携して氷見を掌握するために守山城へ移した、というように考えを進められている。
そして、森田柿園著『越中志徴』(石川県図書館協会編纂)の神保氏館跡(巻六 新川郡一)の項によると、針原中村に構えた当館には、庶子筋の神保一道・同安芸守が住んだといい、のちに安芸守は氷見を切り取って移り住み、さらには佐々陸奥守成政(織田信長の部将)に従ったことが記されており、こちらを参考にされているので、神保氏重と神保一道は同一人物と考えられているようである。つまり氏張は能州畠山家出身ではないことになる。
近年に取り上げられたという永禄9年6月12日付氷見金橋山千手寺宛神保宗五郎氏張判物写(『氷見市史 6 資料編四 民俗・神社・寺院』第二章 寺院史料)には、「老親一道」と書かれており、氏張の父親は一道であることを裏付けられている。


湯山城は、同じく『日本城郭大系』では森寺城の名称で立項されており、戦国期の城主は長曽筑前守という伝承を挙げて、元亀3年に氷見の朝日山上日寺へ石仏を寄進している長沢筑前守光国であろうと考えられている。長沢光国も神保氏張同様、のちには越後国上杉家に従い、天正5年12月の上杉家分国中交名注文では能登衆として見える(『上越市史 上杉氏文書集一』1369号)。



同日、友好関係にある濃(尾)州織田信長(弾正忠)から返書が発せられ、昨年に畿内の所々で在陣していた件について、案内を承ったこと、本望の極みであること、天下の形勢については、何事も起こらず異常はないこと、恐れながら賢慮を静められてほしいこと、従って、貴辺(謙信)の隣国を御存分に従えたそうであり、当然であろうこと、よって、鷹の件については、繰り返し申し入れているとはいえ、珍しい鷹がいるらしいと、聞き及んだので、重ねて(鷹師を越後国へ)差し遣わすこと、(謙信の)御分国に異変がないのであれば、快然であること、なお、後音を約束すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1036号「上杉弾正少弼殿 進之候」宛織田「信長」書状)。


謙信は、織田信長から送られた2月23日付けの書状により、信長が陸奥国へ派遣した鷹師の通交に便宜を図ってくれるように依頼され、その返事を送ったなかで、昨年の冬頃に越前国朝倉義景にもそうしていたように、もう一方の当事者である信長へも畿内争乱の様子を尋ねていたことが分かる。



25日、同盟関係にある相州北条氏政から書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、もとより(甲州武田)信玄が退散したによって、まずは納馬されたそうであり、本庄清七殿(謙信の重臣)が帰路の折に、(謙信からの)御状を受け取ったこと、その旨を承知したこと、されば、信玄が重ねて当方に向かって出てくるとの情報が、方々から入ってきたこと、実説であろうこと、このたびひたむきな御助力を受けられなければ、いよいよ当方は滅亡から逃れられないであろうこと、御考慮を尽くされ、今この時に上州口へなりとも、信州口へなりとも、(上杉軍の)御出勢を頼み入るばかりであること、委細は景虎へ条書をもって申し届けるので、必ずや見聞に達せられるべき趣を、伊勢右衛門佐が申し述べられること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1039号「山内殿」宛北条「氏政」書状写 ●『戦国遺文 後北条氏編二』1469号)。


※ 北条氏政へ謙信の「御状」を送り届けた人物は、『上越市史 上杉氏文書集一』1039号では「本郷彦七」、『戦国遺文 後北条氏編二』1469号では「本庄彦七」となっており、両方を見て最初は、謙信の重臣である本庄清七(郎)の誤写ではないかと考えたが、謙信の場合、本庄清七郎のような大身の近臣を使者として立てた例がなく、越後衆には本郷(江)氏がいることから、謙信旗本の本郷彦七が使者を仰せ付けられたものと考え直した。しかしよく考えてみたら、相州北条家側が越後国上杉家の使者に敬称を付する場合、「殿」ではなくて「方」がほとんどであることや、北条氏政は本庄の帰路に謙信の「御状」を受け取ったと述べており、使者が帰り際に「御状」を渡したというのも不自然であるし、そもそも使者の文言はないことから、やはり彼の人物は本庄清七郎として見るのが適当であろうと、またもや考え直した。
本庄清七郎は、2月に上野国沼田城へ上田衆や直江大和守景綱たちが派遣された(越山することなく、越府へ戻ることになったが)以前に沼田加勢を仰せ付けられていて、しばらく沼田に滞在していたと考えられ、先に謙信が上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼に命じ、相州北条氏政へ宛てた謙信の「書中」と、北条側の取次・使者である遠山左衛門尉康光へ宛てた副状を案文通りに書かせて送り届けさせたのと同じように、3月中旬に越中国へ出馬した謙信は、本庄に越府へ戻ることと合わせて、その帰路に当たり、「御状」を相州北条氏政へ送り届けることを指示したのであろう。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄は、味方中である常陸国太田の佐竹義重(次郎)と連絡を重ねており、3月3日、義重の側近である岡本梅紅斎(号禅哲)へ宛てて書状を発し、去る頃に申し上げたところ、(佐竹義重から)懇報が到来し、祝着であること、よって、駿・相の国境に長々と在陣し、存分の通りに勝利を得たこと、御安心してほしいこと、これにより、愚存を、重ねて高尾伊勢守(甲州武田家の直参衆)をもって申し述べること、相変わらずの御指南は本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1663号「梅紅斎」宛武田「信玄」書状写)。

27日、安房国那古寺御所足利藤政の側近である木戸左近大夫将監氏胤へ宛てて書状を発し、当御代(足利藤政)へ格別な御礼を申し上げるべきところ、北条氏康の邪魔立てゆえに遅れてしまったこと、七年以来、戦陣については里見義弘と格別に申し語らってきたにより、彼の(里見義弘)意見を得て、ただ今、言上したこと、すべて残らず御取り次ぎを頼み入ること、遠国といい、小身といい、多難であるとはいえ、義弘と相談し、(足利藤政の)鎌倉御帰座を、またとない奔走をする存分であること、詳しい細説は彼の使僧が口上するので、この紙面を略すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1527号「木戸左近大夫将監殿」宛武田「信玄」書状写)。



元亀2年(1571)4月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


4月朔日、越中国中郡での戦陣を終えるにあたり、相州北条氏政へ宛てて書状を発し、、越中国西部へ進んで、敵城十数ヶ所を攻略したことを伝えるとともに、甲州武田軍が現れたならば、ただちに後詰めすることを約束した。

11日、同盟関係にある相州北条氏政から書状が発せられ、去る朔日の御状が、一昨9日に到来して披読し、本望の極みであること、よって、越中へ向かって御出馬し、神通川を取り越えられると、東西一変に御本意を遂げて、敵城十余ヶ所の落居を付けられたのち、御納馬されたそうであり、実にめでたく意義深く、氏政にとっても大慶に勝るものはないこと、とりわけ、信玄が出張してくるならば、即刻に後詰めをしてもらえるそうであり、御紙面で明言されたこと、恐れ多い思いであること、愚意の委細は伊勢右衛門佐を雇って申し届けること、必ずや参着するであろうこと、敵が出張した事実を、聞き届けたならば、夜通しの早飛脚をもって申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1040号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

15日、御本城様の北条氏康(相模守)から書状が発せられ、○前欠、一、(謙信は)御加勢は、もちろん行うつもりであるとのこと、当家の大小の者たちは、輝虎の御威光をもって、迅速に本意を達したいと、一和を結んで以来、思っていたところ、日を追って弓箭が劣勢になるにより、いよいよ氏政の手並みを見限って、何とも国中の仕置に従事しないこと、必ず必ず来秋は、7月上旬に御出馬されて、当家を引き立てられてほしいこと、一、相・甲が一和を遂げたそうであると言っている人がいたとかで、これにより、御誓詞を給うこと(互いに誓詞を取り交わそうという提案か)、一方では恐れ多く、一方では戸惑っていること、どうして御越山は御苦労であると理解しているこちらが、虚言を仰せになられたという
ように思うのかと、讒言の所行とは、古今の習わしであること、よくよく御糺明を遂げてほしいこと、氏康父子が不当に自己の利益だけを図っているわけではないところを、伊勢右衛門佐をもって申し届けること、しっかりと御聞き届けてもらいたいこと、一、境目の要害や仕置に関する助言を、仰って下さったこと、誠にもって御懇意のほど、本望満足であるのは紙面に書き尽くせないこと、もとより信玄・氏政が骨肉を結んで以来、当方の事情は内外に限らず知っているところ、信玄は表裏を近年してやまず、豆・相境目の普請や仕置を堅固に致され、不慮に駿州を攻めたので、(氏康は)義理に任せ、相・甲が対立した以来、にわかに仕置に及んだゆえ、数ヶ所の口々の普請以下は完成しておらず、今も苦労していること、間違いなく油断ではないこと、一、万人を勇気づけるべきであるとは、いかにもその意を得たこと、とにもかくにも貴国を頼らなければ、大小に関係なく皆が終わりを迎えてしまうこと、氏政を御覧になり続けられれば、来る7月の調儀に極まること、ここのところを御見逃しあれば、当方の侍共が氏政を見捨てるのは、歴然ではないかと思われること、諸証人の件については、御越山のあかつきには、とりもなおさず、引き渡すつもりであるとは、前にも申し述べたこと、今なお異議はないこと、氏政の立場については、御疑心を抱かないでほしいこと、ひとたび国分けを定め、甲・信を討つべき覚悟を決めたからには、諸証人の出し惜しみを一切しないこと、幸いにして召し寄せられるべき模様があること、沼田へ御越山のあかつきには、(小田原には)一人も残しては置かないこと、一、麦秋に至り、信玄が出張してきたならば、即刻に後詰めするつもりであるとは、誠に恐れ多い思いであること、西上州へでも、信国へでも、ひたむきな御手立てを頼み入るもので、伊右(伊勢右衛門佐)が申し述べること、敵の進撃で事態は切迫しており、強く知らせること、早速にも御出勢に極まること、ここから注進したのでは遅くなってしまうこと、ひたすら敵の動向を切々と申し入れるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1041号「山内殿」宛北条「氏康」書状【体調を崩しているために朱印(印文「機」)を据えたとされている。】)。


この間、7日、北条氏政の兄弟衆である藤田新太郎氏邦が、鉢形衆(藤田氏邦の被官集団)の山口上総守へ宛てて朱印状を発し、山中(上野国甘楽郡山中地域)のうち、あそふ村(麻生村)、をより(大寄村)、なか嶋(中嶋村)、以上、度々において、粉骨を尽くして奮励し、なかでも息孫五郎が討死したこと、類い稀な忠節であること、褒美として、ここに示された三ヶ村を扶助するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1471号「山口上総守殿」宛 藤田氏邦朱印状【奉者「三山」綱定】)。

同日、藤田氏邦が、鉢形衆の高岸対馬守へ宛てて朱印状を発し、御赦免の条々、綿一把、漆半分、舟役三艘、人足五人、以上、2月27日に石間谷へ敵が攻め掛けてきたところに、各々が出合わせ、粉骨を尽くし、高名を極めたところ、(藤田氏邦が)御感心されたので、彼の御褒美として、ここに示された役を長く免許されること、ますます勇敢に奮励するべきであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1470号「高岸対馬守とのへ」宛 藤田氏邦朱印状【奉者「三山」綱定】)。



16日、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国群馬郡の厩橋城の城代)が、厩橋八幡宮の金蓮坊へ宛てて証状を発し、当地厩橋八幡宮の御神領から出されている夫役と伝馬役を宥免し、ならびに祭礼の際には地頭人の策配もさせないこと、およそ諸役の停止は、永代にわたって違乱はないにより、わけても当家の武運長久の御祈念、ことさらに社領の造営を丹精に励まれるべきであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1042号「金蓮坊 参」宛「北条丹後守高広」判物)。

同日、北条高広の近親者である北条下総守高定(上野国勢多郡の真壁城の城将)が、同じく厩橋八幡宮の金蓮坊へ宛てて寄進状を発し、当地 厩橋八幡宮の御神領があの通り失われているゆえ、御拝殿は残らず破損しているので、真壁三清寺分のうち、赤城の御神領である泉浄寺三貫文の所を寄進すること、ますます御神前において、武運長久の御祈念を、わけても当坊に頼み入ること、御世間が御一統されるからには、赤城御造立が肝心であること、ならびに真壁八幡宮の御工面された百疋の所も差し添えること、南八幡・赤城共に御修立が相当であること、後日のために一筆を差し上げるものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1043号「金蓮坊 参」宛「北条下総守高定」寄進状)。


※ 北条高定を上野国真壁城の城将としたのは、栗原修氏の論集である『戦国期上杉・武田の上野支配 戦国史研究叢書6』(岩田書院)の「第二編 上杉氏支配の展開と部将の自立化 第二章 厩橋北条氏の存在形態 第三節 地域的領主制の展開」による。



越中陣を終えて帰国して間もない、17日、越後国内の村々へ朱印状を発し、この御いんばん(印判)を壱人でも、御くら(蔵)から通行する人衆が携えていなければ、たがもの(誰者)であっても、てんむしゆくおくり(伝馬宿送)を務める必要はないこと、もしも騒々しいことを言う輩がいたならば、そうむら(惣村)は召し搦めて、ここもと(越府)へ連行するべきこと、以上、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』1044号 上杉謙信朱印状【印文「立願勝軍地蔵・摩利支天・飯縄明神」】)。

24日、与板衆の窪田右近允(側近である直江大和守景綱の重臣)へ宛てて感状を発し、このたび堀江駿河守(謙信旗本)に敵地へ調儀を申し付けたところ、精励して敵を討ち取り、験(首)を持参したのは、神妙奇特な振る舞いであると、 (謙信が)仰せ出されたものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』1046号「窪田右近允とのへ」宛 上杉謙信感状写【署名はなく、花押のみを据える】)。


謙信が旗本部将の堀江駿河守に命じた敵地への攻撃は、3月の越中陣におけるものであろう。そして、堀江が主将を任された敵地への攻撃で、本来は直江景綱が率いる与板衆の窪田右近允が戦功を挙げたということは、謙信は、敵地を攻撃させるにあたり、直江も越中陣に従軍していた場合は、与板衆の一部を借り受けたか、直江に越府・春日山城の留守将を任せた場合は、与板衆を二分し、陣代に引率させた一方の与板衆のうちから借り受けたかして、堀江に添えたことになるのだろう。



この間、下総国関宿城への移座を目論む安房国那古寺御所の足利藤政は、常陸国太田の佐竹義重(次郎)に尽力を求め、4月22日、義重の側近である岡本梅紅斎(号禅哲)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ御書を認められたこと、忠信を励むつもりであると、(足利藤政は)聞し召され、感心されたこと、ますます義重の手前で精励し、早速にも御帰座の件について、(義重が)奔走するならば、御悦喜であること、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1389号「梅紅斎」宛足利藤政書状写【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、別紙にて岡本梅紅斎へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、武田晴信(号信玄)は今般、武州へ向かい、出張するそうであると、そう聞こえていること、各々で相談し、御威光(足利藤政の関宿移座)の件について、精励するならば、喜悦であること、詳細は簗田八郎(持助。鎌倉公方の家宰であった簗田中務大輔晴助の世子)が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1390号「梅紅斎」宛足利藤政書状写【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。常陸国新治郡の片野城主)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、武田晴信(号信玄)は今般、武州へ向かい、出張するそうであると、そう聞こえていること、各々で相談し、御威光の件について、精励するならば、喜悦であること、詳細は簗田八郎が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1391号「太田美濃守殿」宛足利藤政書状【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、佐竹氏に従属する常陸国衆の真壁安芸守久幹(常陸国真壁郡の真壁城主)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ御書を認められたこと、されば、義弘父子(房州里見義堯・義弘)が御威光の回復に精励されていること、その口において、各々で相談し合い、御座を移される件について、奔走するならば、忠信であること、詳細は簗田中務太輔(号道忠。俗名は晴助。下総国葛飾郡の関宿城主)が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1392号「真壁安芸守殿」宛足利「藤政」書状 封紙ウハ書「真壁安芸守殿 藤政」)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『白根市史 巻一 古代・中世・近世史料』(白根市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)

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