越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【12】

2023-04-30 23:59:32 | 雑考


【史料1】天正5年9月26日付荻野悪右衛門尉宛下間頼廉書状(個人蔵)
内々従是被申度之刻、遮而貴簡、殊太刀一腰・馬一疋、被進之趣、遂披露候、一段被喜入候、誠連年籠城之儀、可有御高察候、随分中国申合、無越度様可令才覚候間、可被御心安候、先々牧雲御書中、御懇慮之至、不知所謝候、加州へハ同名侍従法橋、去二日無事令下著之由、注進候間、是又可御心安候、謙信被任御指南事候、能州之模様、属御勝手之由候間、珍重候、謙〔信脱ヵ〕御人数、至加州御加勢之儀候、就其、去十一日遂一戦、敵八百計加州へ討捕之由候、定而、貴辺不可有其穏候条、不能懇筆候、次紀州小倉監物与申者、一城計候ヲ、去廿四日令懇望、高野へ罷退、令落居候間、無残所、任存分候、此上根来寺申合、泉州へ可為出張候、芸州警固衆渡海次第、計策之方々可立色旨候間、公儀御入洛不可有程候、随而、貴国・丹波・雲・伯之儀、吉川殿(元春)御行之由、旁以目出度候、弥貴殿御一身相極御分別候、返々被思食寄御懇書、本望之至候、軈而、自是可被申入候、期後慶候、恐々謹言、
    九月廿六日                頼廉(花押)
    荻野悪右衛門尉殿
          御返報


 この【史料1】は、摂州大坂本願寺の筆頭坊官である下間頼廉が丹波国黒井の荻野直正へ宛てたもので、謙信が加賀国一向一揆への加勢として人数を遣わし、天正5年9月11日に一戦が行われ、八百ほどの敵勢を討ち取ったことが分かる。
 これについては、天正5年9月15日付北条安芸守・同丹後守宛謙信書状(『上越市史 上杉氏文書集』1387号 以下は『上越』と略す)における「七尾之凶徒、以数千人越・賀之間乗出、殊信長招出候、此度信長雖令出勢候、両越之諸勢、賀国依差使、不堪凶徒敗北、于今賀国助勢之者共差置候
」と同年9月10日付堀久太郎宛柴田修理亮・惟住五郎左衛門尉・瀧川左近允(ママ)・武藤宗右衛門尉連署書状(滋賀県 宮川文書)における「謙信人数、当国高松、越後之内七手組を為頭、人数三千計、当国之一揆を相加在之由、末森より申来候事」により、もう少し詳しい状況が分かる。
 ただし、1387号文書の謙信書状では信長とあり、確かに信長は閏7月20日の時点で来月8日の「加州出馬」を公言していたが、他方面の情勢によって出馬は叶わなかったようで、柴田勝家・惟住長秀・羽柴秀吉・瀧川一益たち織田家の有力部将による遠征軍が遣わされている。

 数千人規模の能州畠山軍が七尾城(鹿島郡)から越中・加賀両国の間の能登国末守城(羽咋郡)に移って織田軍を招き寄せ、このたびも信長が加賀国に出勢するとの情報を得た謙信が、越後衆の七手を主力とした越後・越中両衆から選んだ人数三千ほどを加勢として加賀国高松城(河北郡)へ遣わしたところ、9月11日に賀・能国境辺りで、加賀国一向一揆・両越の加勢衆と末守城を出撃した畠山軍との間で一戦が行われ、賀州衆・両越の加勢衆が畠山軍の八百ほどの人数を討ち取って勝利すると、両越の加勢衆は織田軍に備えてそのまま加賀国に在陣を命じられており、その織田軍はといえば、七尾城と連絡が取れないなかで、9月11日に加賀国宮越(石川郡)の地から攻め進むつもりでいたが、降雨による河川の増水で身動きできなった。
 この間、謙信自身は『上越市史 上杉氏文書集』1387号によれば、「馬廻」「越中手飼」の者だけを率いて能登国七尾城を昼夜にわたって激しく攻め立てている。「越中手飼」とは謙信寵臣の河田豊前守長親・鯵坂備中守長実であろうから、謙信と能州畠山家との間の取次を担っていた河田長親が七尾城攻略の前面に出たであろうことは想像に難くない。一方、織田軍と戦うことになるかもしれない、加賀国へ加勢として派遣された七手(敵方の情報なので数字が正確であるのかは分からない)からなる越後衆を率いたのは、謙信と織田信長との間の取次を担っていた直江大和守景綱ではないだろうか。

 直江景綱は、「御家中諸士略系譜」(『上杉家御年譜23 』)では天正5年3月5日に、「越後国供養帳」(高野山清浄心院蔵)では同年4月26日に死去したとされるが、同年に比定できる4月10日付吉江喜四郎宛直江大和守景綱書状写(『上越』1285号)、近年では同年の文書として扱われている7月28日付越後国上杉家宛伊達輝宗書状(『上越』1342号)に取次として見え、花ヶ前盛明氏が「上杉景勝関係人名事典」(『上杉景勝のすべて』)で言われているように同年12月23日付の分国中交名注文(『上越』1369号)に記載されているわけであるから、確かな没年とは言いがたい。
 1285号文書によれば、天正5年4月10日当時、謙信による北陸遠征中、能・越国境に在陣を命じられていた景綱には、能登国大吞口へ軍勢を独断で動かしたのではないかという越権行為が疑われており、謙信に対して弁明しなければならない事態に見舞われており、それが原因で不慮の結末を迎えた可能性もないとはいえないし、謙信直筆とされる1369号文書の「直江大和守」は次代の「直江与右兵衛尉」と書くべきところ、つい書き慣れていた大和守と書き損じてしまった可能性もないとはいえないが(事実、関東衆の倉賀野尚行の通称を左衛門五郎と書くべきところ、書き慣れていたであろう左衛門尉と誤っていたりもする)、しかし、くだんの書状の主旨は謙信が景綱に風物を調達させているもので、さほど深刻さは感じられず、却って略系譜と供養帳に誤字脱字が目立っており、何といっても、天正6年春に謙信が挙行する予定の関東大遠征では、同5年秋の能登国平定直後に同国代官を任された鯵坂備中守長実が能登衆を率いるのではなく、能州畠山家出身で謙信一家の上条弥五郎政繁が率いることが決まっており、それを補佐監視する立場に配されているのが「直江大和守」となると、その難役が務まるのは景綱をおいて他にあるまい。


※ 天正4年に仮定されている4月10日付吉江喜四郎直江景綱書状写を天正5年に比定した理由は、『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【9】に補足した。

https://blog.goo.ne.jp/komatsu_k_/e/309cc4414ad3c7c2f954bb114037539a


【史料2】天正5年10月11日付雑賀惣国一揆宛下間頼廉書状(和歌山県 浄土真宗本願寺派鷺森別院文書)
  以上、
態被差下飛脚候、松永(久秀・久通)色立付而、泉州表可有出張之由、先度申下候畢、然処、去夜十日亥刻、信長不慮之調略候て、落城候、絶言語候、然者、当表へ手遣之由、慥注進候間、鉄炮衆三百人可有早参候、時分柄之儀、又者毎度之造作、雖被痛思食候、既敵競来之由候間、被排御印判被仰出事候、無由〔油〕断可有馳参事、肝要候、次信貴之儀付而、相残所無越度様ニ、早々警固可有渡海之由、追々毛利家へ以早船被成御催促候事候、将亦、加州表之儀、能州七尾城就一著、敵敗北之由、御注進状本文一通、案文両通、則差下候、可被遂披見候、猶宮一兵(宮部一兵衛尉)可為演説候、恐々謹言、
    十月十一日                頼廉(花押)
   雑賀
    御坊惣中


  この【史料2】は、やはり下間頼廉が紀州の雑賀衆へ宛てたもので、「加州表」の上杉・織田の競合は、「能州七尾城」が落居し、大坂・雑賀にとっても共通の敵である織田勢が敗北したという情報が伝えられている。
 天正5年9月29日付けで関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子へ宛てられたであろう謙信書状写(『上越97』1349号)から、織田勢の敗北を見てみると、謙信は、9月15日に能州七尾城を思うがままに手中に収め、同17日に賀・能国境に位置する能州末守城も手中に収めて一家の山浦(村上)源五国清と重臣の斎藤下野守朝信に守らせ、能登国の形勢を一変させた。この状況を全く知らない織田軍が同18日に賀州湊川(手取川)を越えて数万騎が陣取ったという情報を得て、両越・能州の軍勢を先衆として遣わし、続いて自らも「直馬」に及んだところ、織田軍は謙信の「後詰」を知ってか知らずか、同23日の夜中に戦わずして遁走したので、勢い込んで千余人を討ち取り、残る軍勢を悉く川中へ追い込むと、折からの増水によって立つ瀬がない人馬は残らず押し流された。というようなものであり、こうして織田軍を退けた謙信は、誠にこのような万全な果報を受け、長年にわたって神仏の加護を信じ敬った祈りが通じたと歓喜している。
 続く「重而信長 (可ィ)打出候間」は「可」が付かないのか、それとも付くのかで解釈は変わってしまうが、前者であるならば、先の9月15日付謙信書状の「此度モ信長雖令出勢候」に懸り、今回もまた信長が打ち出してきたので、「一際(一戦ヵ)可有之令校量候処、安(案)外手弱之様体」(いよいよはっきりさせるべき時がきた(一戦になるはずヵ)と推量したところ、予想に反して信長は逃げ去ってしまう有様であった)、「此分ニ候ハ丶、向後天下迄之仕合心安候、」(この分であれば、これから先の天下までの道程は容易い)といったように、今後の見通しが明るいことへの手応えを感じて誇らしげではあるが、対決には至らなかった追撃戦での勝利についての物足りなさを表したものとなろうし、
後者であるならば、態勢を立て直した信長が打ち出してくるようなので、いよいよ決着をつけるべき時がきた(一戦になるはずヵ)と推量したところ、予想に反して信長は逃げ去ってしまう有様で、この分であれば、天下までの道程は容易いと、一度は失われてしまった対決の機会がまた巡ってきたので、湧き上がったところが、結局また機会は失われてしまったので、前途への手応えを得て意気揚々である反面、追撃戦後に行われるかもしれなかった対決が立ち消えとなったことへの物足りなさを表したものとなろう。もっと言えば、さすがに謙信も実際には信長が来ていないのは分かっていたであろうから、わざわざその名を書いたあたり、信長が逃げ去ったと触れ回るためではあろうが、直接対決ができなかった歯痒さが入り混じっているように思えてならない。
 いずれにしても、手取川の追撃戦直後に両軍は一戦を交えていたかもしれないという可能性があり、
9月24日付河田窓隣軒・岩船藤左衛門尉宛謙信書状写(『上越』1452号)によれば、北陸遠征中の謙信が、最前線の城砦に置いて敵勢と対向させている旗本部将の河田窓隣軒喜楽・岩船藤左衛門尉に対し、敵が一戦するべきと申しているのだとしたら、これこそ「願事」であるから、とにかく敵に戦う気があるのかないのか、意思をしっかりと確認し、敵が戦うというのであれば、相手の希望する日取りを聞いて寄越すように、と指示を送っているので、これより前、謙信は能登国へ向かっていた最中の閏7月8日に、越中国魚津城から飛州高原の江馬輝盛へ宛てて発した書状(『上越』1344号)において、信長が加賀国に出張すると触れ回っており、累年の望みを遂げられるのは今この時であるから、必ず「実否」を明らかにする覚悟を伝えていたことからしても、謙信がここで織田軍との一戦を待望していたことは確かであろう。


※ 9月24日付謙信書状写は、『上杉家御書集成1』において、謙信の越中出陣から天正4、5年のものとみられるが特定できない、とされているもので、4年の謙信は、9月に越中国を平定したあと、能登国を攻める11月までの間、この春に和睦して指揮下に加えた加賀国一向一揆の内紛を収めるために仲介の労をとっていたりしているので、日付からしても、発給年次は5年と考えられる。


◆『加能史料 戦国16』(加能史料編纂委員会編)332頁 堀秀政宛柴田勝家・惟住長秀・瀧川一益・武藤舜秀連署書状、340頁 雑賀御坊惣中宛下間頼廉書状、荻野直正宛下間頼廉書状
◆『上越市史叢書6 上杉家御書集成1』(上越市史編纂委員会編)8号 河田窓隣軒・
岩船藤左衛門尉宛上杉謙信書状写
◆『上杉家御年譜23 御家中諸士略系譜 上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜(1)』(米沢温故会編)
◆ 山本隆志・皆川義孝【史料紹介】高野山清浄心院蔵「越後国供養帳」(『上越市史研究 第9号』上越市史専門委員会)
◆『新修七尾市史14 通史編1 原始・古代・中世』(七尾市史編纂専門委員会編)「中世  第三章  戦国の動乱と大名領国  第五節  能登畠山氏の滅亡と上杉氏の支配」
◆ 柴 裕之「織田・上杉開戦への過程と展開  ーその政治要因と追究ー」(『戦国史研究 第79号』戦国史研究会)
◆ 竹間芳明「本願寺・加賀一向一揆と上杉謙信  ー敵対から和談・提携への道程ー」(『戦国史研究 第79号』戦国史研究会)
◆ 竹間芳明『戦国時代と一向一揆』(日本史史料研究会ブックス)
◆ 花ヶ前盛明編『上杉景勝のすべて』(新人物往来社)

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【11】

2023-04-23 19:51:31 | 雑考


【史料】天正5年閏7月7日付片山三郎兵衛尉宛長九郎左衛門尉綱連書状写(長家文書)
  追而、自番頭方弐苛・三種到来候、毎度造作之儀祝著旨、能々伝語たのミ存候、委曲近日令
  帰城可申談候、
仁岸方迄之芳札、令披閲候、仍当表無相替儀候、随而笠師番頭手前公用之儀、自池掃催促由、時分之儀間、無余儀候、就其替地之事、并林御扶持之事候、盛光・平加・温備、其方之御事候、及懸者、御談合難相済候間、今少之儀被待候様、御伝達干〔肝〕要候、城従上口之馬近日目出由候間、早速可相果候、目出如存分敵攻崩、令帰城、万緒可申述候間、閣筆候、恐々謹言、
                       長九左
    壬七月七日               綱連(花押影)
     片三兵
        進之候、


 天正5年閏7月、能州再征のために謙信が越中国へ向かっているなかで、謙信の第一次能州攻略時に能登国内の要地に配置された越後衆と交戦中である能州畠山家年寄衆の長綱連が、畠山家の本拠の七尾城に残留している片山三郎兵衛尉に返書を送り、仁岸(友連)方の許に届いた芳札を披閲したこと、当表の状況に異変はないこと、笠師村(鹿島郡)番頭領分の公用を池田掃部助から催促されたそうで、時分からしてやむを得ないこと、それについて替地の件ならびに林の扶持の件を承ったこと、遊佐盛光・平堯知・温井景隆と「其方」(片山三郎兵衛尉)たちで直接に処置をするには、談合が難しい状況であるから、池田には今しばらく待つように伝達してもらいたいこと、七尾城より上口からの軍勢(織田信長から幾ばくかの加勢が送り込まれていたということか)が近日中に出撃するそうなので、すぐにでも実行に移すべきであること、めでたく思い通りに敵を攻め崩し、帰城したあかつきには、全ての件について申し述べるつもりであること、追而書では、笠師番頭方が物を送ってくれたことへの謝意を伝達してくれるように頼んでいる。おおよそこのような内容だと思われるが、当時の長綱連(長氏の本拠は鳳至郡の穴水城)は、長氏の由緒書や覚書に記されているように七尾城を出撃して、謙信が能登国内の要地に配備した越後衆(越中衆も加えられていたであろう)と抗戦中であったことが分かる。
 ただし、「恕庵(長連龍)様御合戦場ノ覚」に記されているような、羽咋郡富来陣における「城主相浦落城」、鹿島郡熊木陣における「城主越後衆三方字(山本寺)平四郎・斎藤、但両人生捕、七尾ニ而切腹」、鳳至郡穴水の「新崎カセン(合戦)、大将大楽御勝利」が真実を伝えているものかは分からない。
 それは、「相浦」といえば謙信旗本の相浦主計助であろうが、敵地の要所に在番を命じられたのであれば、大身の部将たちとその監察の役目を担う謙信旗本たちで城衆を構成していそうなところ、相浦が「城主」というのは気になること、「三方寺・斎藤」が同じく敵地の要所に配置されていたとなると、謙信一家の山本寺伊予守定長と上杉家譜代の重臣である斎藤下野守朝信といった大身の部将に当たるはずだが、天正5年12月23日に謙信が作成した分国中交名注文(『上越市史 上杉氏文書集』1369号)に両人の名も越後衆の一員として記載されており、長氏に敗れて生け捕られた末に七尾城で切腹させられた事実は認められないこと、「大楽」といえば譜代家臣の平子若狭守であり、同じく交名注文に能登衆の一員として記載されていることからして、若狭守が能登国に配備されていたのは事実と思われるが、謙信の能州平定後も若狭守は継続して同国に置かれているので、若狭守が長綱連に敗戦したという記述をそのまま受け取れなかったこと、こうした理由によって疑問を感じたからである。


※ 斎藤朝信は、天正4年春には外様衆の色部惣七郎長真・五十公野右衛門尉重家、謙信旗本の岩井民部少輔(当時の岩井一族は式部少輔あるいは備中守昌能・源三信能(民部少輔。備中守)父子であり、民部少輔は式部少輔の誤記か)・小倉伊勢守たちと共に、北陸の要地に在番衆として配備されていた(同前1281号)が、翌5年2月に越後国山東郡出雲崎の法持寺に掲げる制札(同前1324号)を発給しているので、天正4年秋から翌5年夏にかけて謙信が挙行した北陸遠征では越府留守衆を任されたと考えた方が良いかもしれない。


◆『新修 七尾市史14 通史編1 原始・古代・中世』(七尾市史編纂専門委員会編)「中世  第三章  戦国の動乱と大名領国  第五節  能登畠山氏の滅亡と越後上杉氏の支配」
◆『新修 七尾市史 7 七尾城編』(七尾市史編纂専門委員会編)「第六章  上杉時代の七尾城  41号〔参考〕恕庵様合戦の覚」

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【10】

2023-04-22 16:56:26 | 雑考


【史料1】(天正4年ヵ)正月28日付寺崎民部左衛門尉宛上杉謙信書状(弘文荘侍賈古書目)
急度申遣候、旧冬如見聞者、賀州一向無正体候間、来月中与風出馬可成之候、連々労兵雖痛間敷候、如何共相嗜、一際走廻肝心候、賀州凶事出来候者、慥可為北国敗候、為其可伐先手心中候、今度之調儀、越・賀・能州初而之差合候間、可為倩候歟、相嗜、且身之方へ之奉公、且可為自由候、目出弥可申候、穴賢々々、
    正月廿八日                謙信(花押)
     寺崎民部左衛門〔尉脱ヵ〕とのへ


【史料2】天正6年2月9日付吉江喜四郎・三条道如斎宛小嶋六郎左衛門尉職鎮書状写(『上越市史 上杉氏文書集』1373号 以下は『上越』と略す)
為御両所様御承、近々南方表可被成御進発 御書頂戴、忝奉存候、就其自分嗜之儀、聊不可存由(油)断之旨、及御稟候、弥可然様御取成奉憑候、恐惶謹言、
    二月九日   小六左 職
     三道
     吉喜
       参人々御中


【史料3】天正6年2月12日付三条道如斎・吉江喜四郎宛吉江織部佑景資書状写(『上越』1375号)
急度令啓達候、仍当国衆へ御陣触之御書、并去月廿八日之御書中、今月九日午刻参着候、河豊・某為両人可申届之旨、御先書ニ示預候、同卅日之御書中ニ拙者為壱人可申触旨蒙仰候条、任其儀、各へ相届則御請共奉進上候、将又、御書札河豊へも申越候、我等手前之儀、聊無油断致御陣用意候、可然様御取成奉頼存候、恐々謹言、
             吉織
    二月十二日      景資(花押影)
     吉喜
     三道
       参 御報


 【史料1】の発給年次は『加能史料 戦国16』では天正4年に仮定されている。
 この書状は、謙信が越中衆の寺崎民部左衛門尉盛永(越中国木船城主。謙信に敗れて没落した神保氏の旧臣)に対し、旧冬に見聞きしたところでは、加賀国での形勢が一向に安定しないため、来月中に急遽、彼の表へ出馬するつもりなので、戦陣が続いて労兵にはいたわしいが、何としても心構えを高め、さらなる奮闘が肝心であることと、加賀国に凶事が起こりでもしたら、北国での敗退を余儀なくされるので、先手を打つ考えであり、このたびの戦陣は、越中・加賀・能登三ヶ国の軍勢が初めて軌を一にするので、念入りに具合を見ておくべきかもしれず、心構えさえしっかりしていれば、謙信への奉公においても、寺崎自身のためにも思いのままに実力を示せるとして、心構えを強く持つべきことを繰り返し求めたものであるが、【史料2・3】の通り、天正6年に入って謙信が越中衆に対し、「南方表」すなわち関東へ出馬するための「御陣触之御書」と正月28日付けの「御書中」を発していて、両書は同じ9日に、謙信の側近で越中国西郡代官を任された吉江織部佑景資や、もとは神保氏の重臣であった小嶋六郎左衛門尉職鎮の許へ到着していることからすると、正月28日付けの「御陣触之御書」を発した直後に、関東への越山に先んじて加賀国への出馬を思い立って発した同日付の「御書中」こそが【史料1】に当たるであろうから、この年に比定できると思われる。


※ 「御陣触之御書」に正月28日付けの「御書中」が追いついて、2月9日に同着したのだとしたら、陣触れの日付はもう少し前になるのだろう。


 謙信としては、加賀国の形勢もさることながら、新たに配下とした賀・能・越三ヶ国からなる軍勢をいきなり関東遠征に動員するよりも、馴染みある北陸の地で、自分の指揮を前もって経験させておきたいという考えが浮かんだのかもしれない。
 それはさておき、こうして新たな動員が増えたことにより、常州太田の佐竹家の客将である太田美濃入道道誉・梶原源太政景父子宛2月10日付謙信書状(『上越』1374号)では、正月19日から陣触れを始め、越後衆へ油断無く支度するように申し付けたといい、上野国女淵城将の後藤左京亮勝元・同新六父子宛2月5日付謙信書状写(『上越』1186号)では、正月26日の吉日を選んで関東衆へ陣触れを発したといい、そして【史料1・3】では、正月28日あるいはその数日前に越中衆(当然ながら加賀国・能登衆に対しても)へ陣触れが発せられているといったように、陣触れは各方面へ段階的に発せられた様子が見て取れる。


※ 諸史料集で天正2年に置かれている2月10日付後藤勝元父子宛謙信書状を天正6年に移したのは、天正2年に謙信は正月18日に関東へ向けて出府し、2月5日には上野国沼田城に到着しており(『上越』1187号)、謙信が後藤父子に対し、父子の新田表での戦勝を伝える関東代官の北条丹後守景広と父子からの書状が到来し、いずれも披見したこと、父子の心馳せのほどに感じ入っていること、相州北条軍の動向を昼夜案じており、目付を放ち、異変があった場合の注進を待っていること、そして、当春の越山を企図し、正月26日に陣触れをしたので、その間の稼ぎが肝要であると伝えているからには、2月5日の時点で謙信が在府していたのは明らかであるため、天正2年の発給文書とは考えられない。
 では、なぜ天正6年に比定できるのかといえば、越・相同盟破談後における謙信の各年春の動向を追うと、元亀3年は前年から関東在陣中、同4年は同じく北陸在陣中、天正2年は前述の通りで、同3年は在府しているが、正月21日に甥の上田長尾喜平次顕景改め上杉弾正少弼景勝を養子に迎えたので、同人の軍役を改定するところとなり(天正2年6月20日の吉江与次改め中条与次景泰の軍役改定の事例による)、これを機に2月9日から同16日にかけて越後衆の軍役を見直し、軍役帳に取り纏めていたり、同19日には連歌百韻を催したりしていて(『上越』1211・1241・1243・1244・1245・1247・1248号)、この春に謙信がどこかへ出馬しようとしていた様子は窺えず、同4年も在府しているが、前年以来、能州畠山家の年寄衆からは越中・加賀表への出馬を勧められ続けており、勧めに応じていれば、2月20日に畠山年寄衆から北陸在陣中の越後衆へ宛てられた書状(『上越』1281号)はそれに相当する内容となったはずだが、そうではなく、越後衆に対し、謙信の出馬について、まだ知らされてはいないのかどうかを尋ねるとともに、この好機を逃さずべきではないと出馬を勧めている内容であり、一方、2月17日に謙信が佐竹義重主従へ宛てた書状(『上越』1024・1025号  『戦国遺文 下野編』1107・1108号)にも越山についての記述は一切無く、謙信が北陸にも関東にも出馬を企てていた様子は窺えず、同5年は前年の秋から越中国へ出馬して平定を成し遂げたのち、11月から当春中にかけては能登国の攻略に取り掛かっていたわけで、春中に陣触れを発していたことが明らかなのは同6年のみだからである。
 それから、吉日という観点からすると、陰陽道では極上の吉日となる天赦日が春は戊寅といい、天正6年の正月26日が戊寅に当たるそうなので、年次比定の根拠のひとつに加えられるかもしれない。


【史料4】天正5年2月10日付吉江喜四郎宛神保安芸守氏張書状写(『上越』1318号)
御書致拝見候、賀州未落居付、可被進御馬之由、尤奉存知候、手前之儀、分際相当嗜、不可存油断候、此等之趣可預御披露候、恐々謹言、
            神保安芸守
    二月十日         氏張居判
       吉江喜四郎殿


 この【史料4】もまた神保氏旧臣である神保安芸守氏張(越中国守山城主)から、謙信最側近の吉江喜四郎資賢(信景)へ宛てられた書状であり、諸史料集では天正5年に置かれているが、同じく小嶋職鎮が吉江資賢・三条道如斎信宗へ宛てた【史料2】と通ずる内容であるし、日付もほぼ同じであるから、これも天正6年に移した方が良いと思われる。
 ただし、【史料2】には関東への「御進発」と見えるにもかかわらず、【史料4】では触れられていないのは、正月30日付けの「御書中」で謙信の加賀国への出馬は撤回されたのだと思われるが、越中西郡衆に同書の内容を申し触れる立場にあった吉江景資との在所の距離的な事情によって神保氏張にはまだ伝わっていなかったからではないか。


◆『加能史料 戦国16』(加能史料編纂委員会編)247頁 寺崎民部左衛門尉宛上杉謙信書状

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【9】

2023-04-17 23:59:43 | 雑考


【史料1】天正4年9月朔日付水越左馬助宛織田信長印判状写(歴代古案 巻十一)
至其表謙信就出馬、注進之趣聞届候、即彼備飛脚差遣候、随返事、無事可相談候、不然者、加勢之義〔儀〕、急度可申付候、何篇不可見放候、其間之事、当城堅固可被相踏儀、簡〔肝〕要候、猶権左衛門尉可申候、謹言、
    九月一日                 信長
     水越左馬助殿


 水越左馬助は、かつて越中国中央部の富山地域まで勢力を広げた西部の神保長職(増山城主)の重臣であった水越孫次郎職勝(富山城の築城を任されたと伝わる水越越前守勝重の世子とされる)の一族であろう。水越一族は、元亀3年夏に加賀・越中両国一向一揆が大挙して越後国上杉家に立ち向かってくるまでは上杉方であった神保長職(号宗昌)・同長城(長国)父子が賀・越両一向一揆方に転身すると、小嶋六郎左衛門尉職鎮をはじめとする神保家の重臣たちと共に、主家とは別行動を取って上杉方に留まったが、やがて小嶋職鎮たちとは袂を分かち、主家に復帰したようで、上杉軍の攻勢によって賀・越両一向一揆方が後退を余儀なくされているなかで、水越惣領の職勝は姿が見えなくなり、左馬助が代わって神保長国(長住)を支え、織田信長の後援を受けて上杉軍に抵抗し続けていた。
 信長はその水越から、謙信が神保領内に出馬したとの注進を受けて返書を送り、柴田勝家が率いる北国衆の陣中へ飛脚を遣わして、謙信との無事がまとまるようであれば、交渉を進めさせ、それが達せられなければ、北国衆に必ず加勢を申し付けるので、いずれにしても見放したりはしないので、成り行きが判明するまでの間、守城を堅持するように伝えたもの。副状を取次の佐々権左衛門尉(のちに信長から一字を拝領して長秋を名乗る)が送っている。


【史料2】天正5年3月朔日付織田信長黒印状(福井県 個人蔵文書)
七尾表謙信引退之趣、委細申越候、誠入情〔精〕注進悦入候、猶以実儀承合可申上之段専一候、漸可雪消候条、至賀州進発不可有遅々候、次堅〔海脱ヵ〕苔一桶到来、遥々懇情珍重候、猶武藤宗右衛門尉(舜秀)可申候也、
    三月一日                 (黒印)
                          (馬蹄形、印文「天下布武」)


 宛所を欠いているが、越前国三国湊の商人森田三郎左衛門尉であるらしい。
 天正4年8月中に越中国へ出馬した謙信は、同年9月8日以前に栂尾城(新川郡か)と増山城(砺波郡)を続けざまに攻め落として神保家を没落させ(『上越』1307号)、織田陣営に属する飛州姉小路三木氏の押さえとして飛州口に地利二ヶ所を築き、8日からさほど経ずして、別動隊に攻めさせていた氷見の湯山城(射水郡)も手に入れ、この春に和睦して指揮下に加えた加賀国一向一揆の内紛が起こったので、これを収めるために仲介の労をとり、11月中旬までには、越中国全土の平定と内紛の調停を成し遂げると、11月下旬に能登国へ進んで、能州畠山家の本拠である七尾城以外の要地を攻め落とし、残る七尾城を攻め立てるなか、向城の石動山城を築いて本陣を構え、12月24日には旗本部将の直江大和守景綱・山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久・船見衆らに、今後の西進を見据えた能州攻略に向けて、軍役の人数を一騎一人も欠けてはならず、それでも欠員を出した場合には本国から人数を呼び寄せることや、軍役の如何を問わずに御諚次第では、明けて正月10日以内の御用に合わせた増員の人数を呼び寄せることなどを誓わせ(『上越』1315号)、同28日に七尾城下の大寧寺口攻め(「多功勘之丞由緒」)で年内の攻撃を納めると、石動山城で越年したと思われる。
 年が明けて謙信は七尾城攻めを再開し、そうしたなかで奥能登衆が七尾城に入城するとの情報を得て、草の者を主体とした軍勢を待ち伏せさせて阻止する(「多功由緒」)などしており、2月10日に備後国鞆の御所足利義昭の許へ書状を発し、能州攻略が間もなく落着することを知らせ(『上越』1317号)、同17日には、先の増山城攻めや七尾城攻めで活躍した十代半ばの多功勘之丞のように手柄を挙げたものか、近習の荻田孫十郎からの要望を受けて長尾家にゆかりの「長」の一字を与え(『上越』1321号)、3月27日には石動山城に在番する河田窓隣軒喜楽・同対馬守吉久・上田衆からの増員要請に応じ(『上越』1330号)、文意からして謙信は石動山城からそれほど遠くない場所に居るのは確かなので、これより以前に上杉軍本隊は越中国に移陣したと思われるが、それは先の『上越』1317号と、ここに掲げた【史料2】により、七尾表を引き上げたのは2月中旬から下旬にかけての頃であったことが分かる。
 3月以降の謙信の動向は詳らかでないが、6月朔日には、越中国奥郡に在陣して能登国七尾城と対向している旗本部将の河田豊前守長親(越中国東郡代官)・鯵坂備中守長実(同西郡代官)・吉江織部佑景資へ宛てて書状(『上越』1338号)を発し、大吞口放火の報告に対して満悦の意をしたことと、同7日には、前年夏以来の懸案事項である会・佐一和を取り持つため、隣国の奥州会津の蘆名盛氏(止々斎)と関東味方中の佐竹義重の許へ使者として萩原主膳允を遣わしており(『上越』1103・1104号)、盛氏へ送った別紙の覚書(『上越』1340号)では、「上口」からの帰陣後、すぐにでも連絡するべきところ、少し体調を崩していたので、遅れてしまったと弁明していることから、謙信は5月中に帰府していたであろう。
 謙信は5月12日に近習の本田弁丸からの要望を受けて長尾家にゆかりの「長」の一字と、ついでに孫七郎の仮名を与えているが(『上越』1334号)、この一字授与は、北陸在陣中と帰府後のどちらに行われたのかは分からない。


※ 記事を投稿した際には失念していたが、次に挙げる史料により、謙信が4月10日の時点でも越中国に在陣していたことが分かるので、説明を補足する。

【史料3】(天正4年ヵ)4月10日付吉江喜四郎宛直江大和守景綱書状写(『上越』1285号)
昨日御懇趣具奉得其意候、仍鶯儀、被仰付候間、彦三申付候、かこ花桶之事、山相尋申、重上可申由、御心得尤候、然、大呑動仕候由被聞召候段、努々不存儀、惣別去月四日御当地罷移以後、何一騎一人差遣不申、先日参上仕時分、彼口動之儀、御直仰出之旨(無脱ヵ)御座候、弥以致思慮御事候条、不被仰付候処可仕候哉、御次之時分被御申上奉頼候、随、昨日石動罷上見舞申候、各無在女(如在ヵ)稼被申候、目出重可申達候、恐々謹言、
              直和
    卯月十日       景綱
    吉喜
      御陣所


 この書状は『謙信公御書集』が天正4年に置いているもので、能登・越中国境辺りに在陣している直江景綱が、謙信側近の吉江資賢を通じ、仰せ付けられた鶯・鳥籠・花桶などの調達についてのこと、能登国大吞口(鹿島郡。能・越国境に位置する)へ軍勢を動かしたと聞し召されているそうであり、それは全くの事実無根であること、去る4日にこの地への在陣を命ぜられ、移って来て以来、一騎一人も遣わしてもおらず、つい先日、参上した折にも、彼の口へ軍勢を動かすといった命令は仰せ付けられていないにもかかわらず、勝手に遂行したりはしないこと、昨日には石動山城へ上って城衆を見舞ったところ、いずれも抜かりなく任務に励んでいることなどを、書状が翌日には届くほどの地に在陣中の謙信へ申し上げている。4年の4月にはまだ越後国上杉軍の能登国大吞口への進攻が取り沙汰されるような時期ではなく、越後衆が同国石動山城に配備された時期は4年の12月からなので、発給年次は天正5年と考えられる。よって、謙信は4月10日の時点でも越中国に在陣しており、帰国の途に就いたのは、これ以降となるであろう。
 


◆『加能史料 戦国16』(加能史料編纂委員会編)288頁 水越左馬助宛織田信長印判状写、309・310頁 織田信長黒印状
◆ 柴裕之「織田・上杉開戦への過程と展開 ーその政治要因の追究ー」(『戦国史研究』第75号 戦国史研究会)
◆『先祖由緒帳』122齣「多功勘之丞由緒」(米沢市立図書館デジタルライブラリー)
https://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/pdf/KG014/003r.pdf

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『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【8】

2023-04-16 15:21:27 | 雑考


【史料1】天正4年9月21日付国司右京亮・児玉三郎右衛門尉宛常在院日珠・大館藤安連署書状(山口県 毛利博物館所蔵 毛利家旧蔵文書)
(封紙ウワ書)
「          常在院
 国司右京亮殿    大館兵部少輔
 児玉三郎右衛門尉殿     藤安」
越・甲・相三和之儀、上意之趣対上杉謙信申渡候処、彼存分条々言上候、就其公儀御注進申上候、随而謙信出馬之儀、被応御下知、既至賀州境目居陣候、然者貴国御出勢待合、上表へ可有出張由候条、弥急度御行簡〔肝〕要令存候、猶委細佐々木源兵衛尉・長巻軒へ申渡通、可然様可被申入候、恐惶謹言、
    九月廿一日                藤安(花押)
                         日珠(花押)
    国司右京亮殿
    児玉三郎右衛門尉殿


 越・甲・相三和について、足利義昭が東国へ使者として常在院日珠と大館藤安を遣わすと、その両使が芸州毛利家の重臣である国司元武と児玉元良へ宛てて書状を送ったもので、上意の趣を「上杉謙信」に申し渡したところ、謙信が条々をもって存分を言上したこと、謙信はすでに「賀州境目」へ出馬し、毛利軍の出勢に待ち合わせ、「上表」へ進むつもりでいるので、いよいよ迎えたこの機会に必ず毛利家も戦陣を催されるべきこと、これについては同行した毛利家の使者である佐々木源兵衛尉と長巻軒に申し渡したので、両人からも申し入れられることを伝えており、『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【7】に掲げた【史料4・5】で、謙信が反織田信長陣営の各所へ伝えていたように、謙信は「越前口」・「越前表」へ進むことを見込んで、この秋に「賀州境目」へ出馬したことが分かる。

※ 当ブログの『芸州毛利家からの使者』において、毛利家から越後国へ遣わされたであろう使者の佐々木源兵衛尉は、必ずしも毛利氏あるいは吉川氏の家臣とは限らない、としましたが、『吉川史料館たより』第70号(2)「部屋住み時代の頃」によりますと、吉川元春の三男で、兄の元長の跡を継いだ広家(経言)が部屋住み時代であった頃の奉公衆にその名が見えますので、もとは元春に仕えていた人物のようです。

https://www.kikkawa7.or.jp/hokanko/70_2.pdf



【史料2】天正4年9月15日付河田長親・直江景綱連署覚書写(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1310号)
   覚
一、謙信於心馳、毛頭不被存油断候、淵底御使者中御見聞之事、
一、今日迄者存分之侭候、三ヶ国無事之儀、是謙信存分之旨候間、於越・甲計可応 上意候歟、相州於可被差添、被致滅亡候共、亦得御勘当候共、無二存切候事、
一、此度御入洛至御延引、末々之御本意不及分別候由之事、
一、西御行於御遅延内意之事、
一、手前々々御奉公被仰付、其上真 上意申処可被御覧望由之事、
   以上、
    九月十五日      景綱
               長親


 ここに掲げた【史料2】は、謙信が足利義昭に対し、義昭から勧告されている越・甲・相三和について、越・甲無事は上意に応じたとしても、これに相州が加わることは、自分が滅亡しようとも、また義昭から勘当されようとも、絶対に応じられない覚悟であるといった存分などを、重臣の河田長親(越中国代官)と直江景綱をもって申し上げたもので、近年は天正3年に発給された文書として扱われているが、【史料1】に見える謙信が義昭に存分を言上した「条々」とは、この条書に当たる可能性があり、発給年次は『上越市史 上杉氏文書集』に置かれている天正4年のままで良いのかもしれない。


◆『加能史料 戦国16』(加能史料編纂委員会編)289頁 国司右京亮・児玉三郎右衛門尉宛常在院日珠・大館藤安連署書状

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