越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【18】

2023-06-13 23:58:51 | 雑考


【史料】年次未詳12月26日付太田新六郎宛佐竹義重書状写(神保誠家文書)
如来意、去頃氏政其口へ調義(儀)之由、無心元候処、別無子細之段、其聞簡用(要)至極候、如此露紙面候、越衆出張其口可為後詰之由、令校量候、従当方通路不自由之間、相互不及通信候、爰元手成従中務太輔所可申越候、恐々謹言、
   極月廿六日        義重(花押)
    太田新六郎殿


 またしてもすっかり忘れていたが、
『上越市史 上杉氏文書集』に未収録の謙信関連文書【16】 - 越後長尾・上杉氏雑考で取り上げなければならなかった文書であり、常州太田の佐竹次郎義重が、房州里見家の客将である太田新六郎康資へ宛てた返書となる。こちらでは佐竹東家の佐竹中務大輔義久が佐竹側の取次を務めている。
 去る頃に相州北条氏政が上総国に攻め寄せてきたというので、心配していたところ、取り立てて別条はないと聞いて、それが最も肝心であること、越後衆が関東へ出張してきたのも、そちらへの後詰めのためであるのは、まず間違いないであろうこと、当方側の通路が遮断されているので、越後衆とは交信できないでいることなどを伝えており、これらは、天正3年10月9日付太田新六郎宛北条下総守高定書状(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1270号)の「(里見)義弘・氏政御対陣」「其国之為後詰被遂御越山」、同年11月7日付山内(越後国)上杉家宛佐竹義重書状(同前1230号)の「今度(御を欠いている)越山之由」「通路断絶」などと一致する状況であるから、発給年次は天正3年となり、12月24日付けで正木大膳亮憲時と太田新六郎康資のそれぞれへ宛てた佐竹北家の佐竹左衛門督入道賢哲(俗名は義斯)書状(『勝浦市史 資料編 中世』198・199号)と同時期に送ったものであろう。

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