越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

関東管領山内上杉顕定(号可諄)の越後乱入に於ける蒲原郡司・山吉氏の分裂について

2013-12-29 21:36:41 | 雑考
 
 永正4年8月に越後守護代長尾為景は、主君の越後守護上杉房能を討ち滅ぼしたところ、同年11月に越後奥郡国衆の本庄輔長(三河入道)・色部昌長・竹俣清綱らが反乱を起こしたので、これらを与党の越後奥郡国衆の中条藤資らに鎮圧させた。ところが、翌永正5年5月に本庄輔長・色部昌長らが再挙すると、越後各地で反為景派が一斉に蜂起し、色部昌長が関東管領山内上杉顕定(号可諄。房能の兄)に支援を求める事態へと発展した。

 すると長尾為景は、越後国上杉家の譜代衆である長尾長景・斎藤昌信・毛利新左衛門尉・宇佐美房忠、越後奥郡国衆の中条藤資・安田但馬守、越後国蔵王堂城衆・同三条城衆・同護摩堂城衆らを味方につけ、越後国上杉家の一族衆である八条修理亮・同左衛門尉・上条定憲、同譜代衆の上田長尾顕吉(山内上杉家の越後に於ける代官でもある)・古志長尾房景・桃井讃岐守・石川駿河守(駿河入道)・平子牛法師・発智六郎右衛門尉・毛利広春・山吉孫次郎(孫四郎であろう)、越後奥郡国衆の本庄輔長・色部昌長・竹俣清綱ら反抗勢力に立ち向かい、永正6年の初夏には、これら反為景方の求めに応じた山内上杉憲房が越後に侵攻してきたので、味方につけた信濃国衆の小笠原長棟・市川甲斐守・泉信濃介・高梨政盛らを頼み、魚沼郡妻有荘の地で迎撃して勝利を得た。

 しかし、同年7月、その報復のために自ら軍勢を率いて越後に攻め込んできた山内上杉顕定により、信濃勢が蹴散らされて戦線が崩壊したことから、推戴する新守護の上杉定実を連れて越中へと逃亡した。

 こうして越府を制圧した上杉顕定・憲房父子ではあったが、越後の統治は思うように進まなかったばかりか、長尾為景の盛り返しに加え、関東に於ける相州伊勢宗瑞と叛臣・長尾景春の動向に苦慮するところとなり、永正7年2月、山吉孫五郎(孫四郎であろう)に対して、戦忠を尽くせば恩賞は望みのままであることを、再三に亘って示すなど、必死に陣営の引き締めを図っている。結局、同年6月12日に越後国刈羽郡椎谷の為景本陣の攻撃に失敗し、為景軍の猛反撃を受けて敗走すると、同20日に越後国魚沼郡長森原の地で補足された顕定は戦死してしまい、辛くも難を逃れた憲房は上州へと去っている。

 このように、越後国上杉家の蒲原郡司及び、越後国蒲原郡三条城主の山吉孫四郎は、反為景陣営に属していたことが分かる。山吉氏といえば、かって蒲原郡司であった長尾氏の譜代家臣で、その長尾氏が守護代として上府したのに替わり、郡司職と三条城主を引き継いだと伝わっていることから、つねに山吉氏は守護代長尾家に忠節を尽くしていた印象が強く、この事実に気が付いた時は意外に感じた。しかし、考えてみれば山吉氏とて独立した領主であり、一旦戦乱が起これば、自らの存続を図って、反為景派に属することは至極当然な対応であった。そして、興味深いことに、三条城代の山吉能盛らは、当主の山吉孫四郎に同調せず、為景を支持したのである。こうした府内に常駐する当主と城代らの対応が分かれる事態は、上杉謙信没後の御館の乱に於いても顕著な現象であった。

 こうして分裂した山吉氏であったが、城代以下の功績によるものなのか、山吉孫四郎の寝返りが効果的だったからなのか、これまで通りの体制で山吉氏の存続が認められている。ただし、永正16年に初見される山吉孫四郎政久(丹波守。丹波入道。恕称軒政応)と同一人物であるのかは分からない。

『新潟県史 通史編2 中世』◆『三条市史 資料編 第二巻 古代・中世編』◆『上越市史 通史編2 中世』
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上杉輝虎(政虎)期の越後衆一覧 【3】

2013-12-24 11:59:28 | 上杉輝虎(政虎)期の越後衆

 旗本衆

 直江大和守景綱(なおえやまとのかみかげつな)
 初名は実綱、次いで政綱を名乗った。仮名は神五郎、官途名は与右兵衛尉を称した。直江掃部入道酒椿の名跡を継いだ。輝虎から二度に亘って一字を賜った。妻は山吉丹波守政久(号政応)の娘か。年寄衆。河田豊前守長親と奉書に連署したのに始まり、時には柿崎和泉守景家、山吉孫次郎豊守、鯵坂清介長実らと年寄三人衆を構成した。柿崎景家と共に駿州今川家、河田長親と共に将軍家、関白近衛家、河州畠山家との間の取次を務めた。単独では能登畠山家、越前国朝倉家、尾州織田家との間の取次を務めた。越後国山東(西古志)郡の与板城主。外様衆・本庄弥次郎繁長の反乱に際し、輝虎の着陣まで譜代衆の柿崎景家と共に越後国瀬波(岩船)郡の村上城攻囲軍の主将を務めた。


 山吉孫次郎豊守(やまよしまごじろうとよもり)
 山吉丹波守政久(号政応)の次男で、早世した兄の名跡を継いだ。年寄衆。河田豊前守長親と奉書に連署したり、時には柿崎和泉守景家、直江大和守景綱(政綱)、鯵坂清介長実らと年寄三人衆を構成した。越後国蒲原郡の三条城主。


 河田豊前守長親(かわだぶぜんのかみながちか)
 官途名は九郎左衛門尉を称した。父は河田伊豆守(実名は憲親、元親と定まらない。謙信期に見える河田実清軒の前身か)。年寄衆。直江大和守実綱(政綱。景綱)、次いで北条丹後守高広、山吉孫次郎豊守らと奉書に連署した。直江政綱と共に将軍家、河州畠山家、山吉豊守と共に常陸国衆の佐竹氏の客将である太田氏との間の取次を務めた。単独では飛州姉小路三木家、沼田城代として関東味方中との間の取次を務めた。越後国古志郡の栖吉城主か。上野国利根郡の沼田城代を経て越中国新川郡の魚津城代となった。


 鰺坂清介長実(あじさかせいすけながざね)
 上杉謙信期の天正4年11月には備中守を称する。年寄衆。時には直江大和守政綱、山吉孫次郎豊守らと年寄三人衆を構成した。


 吉江織部佑景資(よしえおりべのすけかげすけ)
 初名は長資を名乗った。仮名は与橘を称したか。妻は河田窓隣軒喜楽の娘か。年寄衆。


 松本石見守景繁(まつもといわみのかみかげしげ)
 輝虎から越後国長尾家に縁の一字を賜ったか。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において部将としての勲功を挙げた松本大学助(実名は忠繁か)の後身か。越後国山東(西古志)郡の小木(荻)城主。永禄9年冬から同12年夏までの間、上野国利根郡の沼田城将を務めた。その花押形は、関東代官で上野国厩橋城代の譜代衆・北条丹後守高広が用いた花押の影響が見て取れる。


 河田伯耆守重親(かわだほうきのかみしげちか)
 仮名は新四郎を称したか。河田豊前守長親の叔父。松本石見守景繁を筆頭とする沼田城衆の一員として上野国利根郡の沼田城に在番し、松本景繁が城将を退任すると、輝虎から後任に指名された。


 本庄新左衛門尉(ほんじょうしんざえもんのじょう)
 実名不詳。仮名は玖介であろう。父は本庄新左衛門尉実乃(新左衛門入道・美作入道。号宗緩)。越後国古志郡の栃尾城主。


 本庄清七郎(ほんじょうせいしちろう)
 実名は綱秀と伝わる。本庄実乃の次男で、早世した兄の名跡を継いだ。越後国古志郡の栃尾城主。


 金津新右兵衛尉(かなづしんびょうえのじょう)
 実名は弘雅と伝わる。輝虎の乳母夫と伝わっており、輝虎にとって、本庄美作入道宗緩・吉江中務丞忠景と並び、心情を吐露できる老将であったことからすると、信憑性は高い。輝虎の関東在陣中、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であったりした。


 吉江佐渡守忠景(よしえさどのかみただかげ)
 官途名は中務丞を称した。越後国蒲原郡の吉江城主か。輝虎にとって、本庄美作入道宗緩・金津新右兵衛尉と並び、心情を吐露できる老将であった。輝虎の関東在陣中、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であったりした。永禄9年春から同10年冬までの間、下野国安蘇郡の唐沢山城将を務めた。


 吉江喜四郎資賢(よしえきしろうすけかた)
 のちに信景を名乗る。


 荻原伊賀守(おぎわらいがのかみ)
 実名不詳。官途名は掃部助を称した。輝虎の関東在陣中に直江大和守政綱と共に越府留守将に対する旗本検見をよく務めたりした。永禄10年春から同年冬までの間、外様衆の色部修理進勝長と共に、吉江佐渡守忠景を筆頭とする唐沢山城衆の増援として下野国安蘇郡の唐沢山城に在番した。


 三潴出羽守長政(みづまでわのかみながまさ)
 母は外様衆・新発田氏の娘か。越後国蒲原郡の中目城主。


 三潴左近大夫(みづまさこんのだいぶ)
 実名は長能と伝わる。三潴出羽守長政の世子。反乱を起こした外様衆の本庄弥次郎繁長が同族の鮎川孫次郎盛長の居城を奪取すると、輝虎の命を受けて鮎川盛長と越後国瀬波(岩船)郡の庄厳(笹平)城に拠り、本庄繁長の拠る越後国瀬波(岩船)郡の村上城に対抗した。


 河田窓隣軒喜楽(かわだそうりんけんきらく)
 河田対馬守貞政の後身で、信濃衆・高梨氏の旧臣であろう。


 河田対馬守吉久(かわだつしまのかみよしひさ)
 上杉謙信期の元亀3年から見えるので、おそらく上杉輝虎期には活動していたであろう。河田窓隣軒喜楽の世子。


 小中大蔵丞(こなかおおくらのじょう)
 実名は光清か。もとは上野国利根郡根利の地衆。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年春にかけて挙行した関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。永禄10年夏頃から松本石見守景繁を筆頭とする上野国利根郡の沼田城の城衆として見える。譜代衆・北条毛利氏の一族である北条右衛門尉親富(源八郎。長門守)の子か孫に娘が嫁いだ。


 小中彦右兵衛尉(こなかひこびょうえのじょう)
 実名は清職か。小中大蔵丞(光清か)の弟。永禄12年3月に病身の兄の許へ派遣された。


 堀江駿河守(ほりえするがのかみ)
 実名は宗親と伝わる。長尾為景の功臣であった山村若狭守(藤三)の三男という伝承がある。この堀江氏は越前国から移ってきた可能性がある。上杉輝虎による永禄7年秋から冬にかけての信濃国川中嶋陣では、戦線が膠着状態に入ったことから同国飯山城まで後退した輝虎の指示を受け、岩船藤左衛門尉と共に最前線の陣城に拠って、甲州武田軍の動向を注視し、冬に輝虎が帰陣すると、さらに指示を受けて、しばらく飯山地域に留まり、横目として甲州武田軍の動向を注視し続けた。


 楡井治部少輔(にれいぢぶのしょう)
 実名は光親と伝わる。仮名は又三郎であろう。父は天文11年8月28日に死去した修理亮(信高静賢居士)であろう。越後国魚沼郡の桐沢城主と伝わる。


 河隅三郎左衛門尉忠清(かわすみさぶろうざえもんのじょうただきよ)
 奉行衆。長尾景虎期に見える河隅藤七の後身か。


 飯田孫右衛門尉長家(いいだまごえもんのじょうながいえ)
 奉行衆。長尾景虎期に見える飯田藤六の後身か。


 五十嵐 盛惟(いからし・いがらし もりこれ・もりただ)
 官途名は主計助か。もとは古志長尾氏の被官。奉行衆。


 庄田隼人佑(しょうだはやとのすけ)
 実名は秀直と伝わる。もとは古志長尾氏の被官。


 本田右近允(ほんだうこんのじょう)
 実名は長定と伝わる。永禄4年の信濃国川中嶋合戦において勲功を挙げた。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年夏にかけて挙行した関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。


 高梨修理亮(たかなししゅりのすけ)
 実名不詳。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年夏にかけて挙行した輝虎の関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。


 吉江民部少輔(よしえみんぶのしょう)
 実名は景淳と伝わる。吉江佐渡守忠景の一族か。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年夏にかけて挙行した関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。


 吉江玄蕃允(よしえげんばのじょう)
 実名は景利と伝わる。吉江忠景の一族か。永禄9年の越中陣において勲功を挙げた。


 小野主計助(おのかずえのすけ)
 実名不詳。上杉輝虎が永禄10年秋に信濃国川中嶋へ出馬したなかで、譜代衆の斎藤下野守朝信、信濃衆の赤見六郎左衛門尉と共に越後国頸城郡の祢知城の城衆を務めていた。そのほか、関東在陣中の輝虎の指示を受け、越府の留守将である上田長尾越前守政景の許への使者を務めたり、信濃国へ出馬する輝虎の指示を受け、輝虎から上野国西郡での在陣を求められた関東代官の北条丹後守高広と関東味方中たちに対する遣使を務めたりした。


 行方六右衛門尉(なめかたろくえもんのじょう)
 実名は兼刑と伝わる。横目を務めた。


 開発中務丞(かいほつなかつかさのじょう)
 実名不詳。仮名は三介を称した。常陸国太田の佐竹氏の許への使者を務めた。


 林平右衛門尉(はやしへいえもんのじょう)
 実名不詳。越前国朝倉家、武蔵国衆・河田谷(木戸)氏、上野国衆・倉賀野氏の許への使者を務めた。


 楠川左京亮将綱(くすがわさきょうのすけまさつな・ゆきつな)
 源姓佐々木加地一族と考えられている。上田長尾越前守政景が急逝したあとの一時期、上田衆に対する検見を務めた。永禄7年2月の下野国佐野唐沢山城攻めにおいて上田衆と共に勲功を挙げている。


 草間出羽守(くさまでわのかみ)
 実名不詳。信濃衆・高梨氏の旧臣。越前国朝倉家、飛州姉小路三木家、武蔵国衆・成田氏、下野国衆・小山氏の許への使者を務めた。


 岩船藤左衛門尉(いわふねとうざえもんのじょう)
 実名は忠秀と伝わる。信濃衆・高梨氏の旧臣。上杉輝虎が永禄6年冬から翌7年夏にかけて挙行した関東遠征において、越府留守将に対する旗本検見衆の一員であった。輝虎による永禄7年秋から冬にかけての甲州武田軍との信濃国川中嶋陣では、膠着状態に入って同国飯山城まで後退した輝虎の指示を受け、堀江駿河守と共に前線の陣城に拠って甲州武田軍の動向を注視し、冬に輝虎が帰陣すると、さらに指示を受けて、しばらく飯山地域に留まり、横目として武田軍の動向を注視し続けた。


 岩井大和守(いわいやまとのかみ)
 実名は能歳と伝わる。信濃衆・高梨氏の旧臣。


 岩井備中守昌能(いわいびっちゅうのかみまさよし)
 信濃衆・高梨氏の旧臣。岩井大和守(能歳か)の弟と伝わる。上杉輝虎が永禄7年秋に挙行する信濃国川中嶋陣に先んじて、同年4月に譜代衆の安田惣八郎顕元と共に信濃国水内郡の飯山地域に在陣を命じられた。


 大瀧新兵衛尉(おおたきしんびょうえのじょう)
 実名は信安と伝わる。信濃衆・高梨氏の旧臣。


 羽田六介(はたろくすけ)
 実名不詳。信濃国出身と伝わる。


 岡田但馬守(おかだたじまのかみ)
 実名は重堯と伝わる。信濃国出身で、輝虎の実父である越後守護代長尾為景に仕えたという。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において勲功を挙げた。


 蔵田兵部左衛門尉(くらたひょうぶざえもんのじょう)
 実名は正綱と伝わる。府内代官・蔵田五郎左衛門尉の一族。


 諏方左近允(すわさこんのじょう)
 実名不詳。上杉輝虎から永禄11年初頭、譜代衆の山岸隼人佑(実名は光重か)と共に、松本石見守景繁を筆頭とする沼田城衆への加勢として上野国利根郡の沼田城に在陣を命じられた。


 萩原主膳允(はぎわらしゅぜんのじょう)
 実名不詳。苗字は荻原の可能性がある。下野国衆・那須氏の許への使者を務めた。


 吉田美濃入道(よしだみのにゅうどう)
 法号不詳。受領名は美濃守を称した。信濃衆・高梨氏の旧臣か。奥州会津の蘆名家の許への使者を務めた。


 香西治部少輔(こうざいぢぶのしょう)
 実名不詳。房州里見家の許への使者を務めた。


 黒江修理進(くろえしゅりのじょう)
 実名不詳。出羽国檜山の安東氏の許への使者を務めた。


 真壁越中守(まかべえっちゅうのかみ)
 実名不詳。羽州米沢の伊達家に従属する出羽国衆・上郡山氏の許への使者を務めた。


 富所隼人佐(とみどころはやとのすけ)
 実名は重則と伝わる。のちに伯耆守を称するか。松木内匠助(秀朝か)と横目や作事奉行を務めた。源姓高松一族と伝わる。


 松木内匠助(まつきたくみのすけ)
 実名は秀朝と伝わる。富所隼人佐(実名は重則か)と横目や作事奉行を務めた。信濃国水内郡の出身で、本姓が泉氏と伝わるから、甲州武田家に敗れて本領を失った信濃国衆の高梨氏の旧臣であろう。


 蓼沼藤五郎泰重(たでぬまとうごろうやすしげ)
 下野国衆・佐野氏の旧臣と伝わる。


 大石右衛門尉(おおいしえもんのじょう)
 実名不詳。常陸国太田の佐竹氏の許への使者を務めた。


 大石右馬允(おおいしうまのじょう)
 実名不詳。仮名は源助を称した。下総国関宿の簗田氏の許への使者を務めた。


 楡井修理亮親忠(にれいしゅりのすけちかただ)
 楡井治部少輔(実名は光親か)の嗣子。


 後藤左京亮勝元(ごとうさきょうのすけかつもと)
 仮名は新六を称したか。羽州米沢の伊達家、奥州会津の蘆名家、下総国結城の結城氏の許への使者を務めた。


 進藤隼人佑家清(しんどうはやとのすけいえきよ)
 相州北条家、出羽国大浦の大宝寺氏の許への使者を務めた。


 大石惣介芳綱(おおいしそうすけよしつな)
 輝虎の養父である山内上杉光徹(憲政)の旧臣。相州北条家の許への使者を務めた。藤原姓宇都宮一族か。


 大石小次郎(おおいしこじろう)
 大石惣介芳綱の兄。


 大石藤右衛門尉(おおいしとうえもんのじょう)
 仮名は与三郎、実名は綱高と伝わる。大石惣介芳綱の兄か。


 堀江玄蕃允(ほりえげんばのじょう)
 実名不詳。堀江駿河守の嗣子か。相州北条家の許への使者を務めた。のちに上杉三郎景虎の直臣団に配属されている。


 須田弥兵衛尉(すだやびょうえのじょう)
 実名不詳。相州北条家の許への使者を務めた。


 小林土佐守(こばやしとさのかみ)
 実名不詳。相州北条家の許への使者を務めた。


 鶴木 某(つるき)
 実名、通称は不詳。苗字は弦木とも。相州北条家の許への使者を務めた。


 渡辺城左衛門尉(わたなべじょうざえもんのじょう)
 実名不詳。のちに越中守を称するか。もとは古志長尾氏の被官か。


 太田九右衛門尉(おおたきゅうえもんのじょう)
 実名は信能と伝わる。のちに式部少輔を称する。父は太田式部少輔資信という。譜代衆・長尾小四郎景直の配下から転属したと伝わる。


 神余隼人佑(かなまりはやとのすけ)
 実名不詳。仮名は小次郎を称した。父は神余隼人佑実綱(越前守昌綱の世子)。この神余実綱には天文元年に当時7才の男児がおり、これが隼人佑であれば、大永6年頃に生まれたことになる。もとは在京雑掌を務めていた。嫡男に神余小次郎親綱がいる。


 新保清右衛門尉秀種(しんぼせいえもんのじょうひでたね)
 越前国朝倉家の許への使者を務めた。


 村田忠右衛門尉秀頼(むらたちゅうえもんのじょうひでより)
 源姓新田岩松一族。


 毛利名左衛門尉秀広(もうりなざえもんのじょうひでひろ)
 大江姓安田毛利一族。

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上杉輝虎(政虎)期の越後衆一覧 【2】

2013-12-23 14:59:40 | 上杉輝虎(政虎)期の越後衆


 譜代衆(上・中郡国衆)

 長尾越前守政景(ながおえちぜんのかみまさかげ)
 仮名は六郎を称した。父は上田長尾越前守房長(新六。一時期、月洲・弥阿を号した)。上杉輝虎の姉婿。越後国魚沼郡の坂戸城主。永禄7年7月5日に横死した。宗得院殿匠山道宗。


 長尾時宗丸(ながおときむねまる)
 上田長尾越前守政景の長男。長尾政景の弟とされる大井田藤七郎(実名は景国と伝わる)の娘を娶り、大井田氏を継いで喜七郎(「七郎殿様」。実名は基政、景頼と定まらない)と名乗ったか


 長尾喜平次顕景(ながおきへいじあきかげ)
 幼名は卯松丸を称した。のちに上杉弾正少弼景勝を名乗った。上田長尾越前守政景の次男。上杉輝虎から山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜り、父の遺跡を継いだ。越後国魚沼郡の坂戸城主。


 長尾遠江守藤景(ながおとおとうみのかみふじかげ)
 上杉定実・長尾為景期に見える下田長尾平三郎景行の次代に当たるか。年寄衆。越後国蒲原郡の下田(高)城主。


 長尾小四郎景直(ながおこしろうかげなお)
 越中国金山(松倉)の椎名康胤が越後国上杉家の味方中であった頃に養子となっていた(時期は永禄5・6年であろう)。永禄の初め頃に下田長尾遠江守藤景の娘との縁談が持ち上がっていたが、実現したのかは分からない。越後国頸城郡の名立城主か。


 長尾源五(ながおげんご)
 実名不詳。仮名は源五郎とも。上杉輝虎が上・越国境の越後国上田で滞陣を余儀なくされていた永禄9年秋から、ようやく越山した同年冬にかけて、上野国山田郡の桐生城将を務めていた。


 柿崎和泉守景家(かきざきいずみのかみかげいえ)
 仮名は弥次郎を称したと伝わる。官途名は中務を称した。年寄衆。越後国頸城郡の柿崎城主。永禄11年春に起こった外様衆・本庄弥次郎繁長の反乱に際し、同年冬の上杉輝虎の着陣まで旗本衆の直江大和守政綱(景綱)と共に越後国瀬波(岩船)郡の村上城攻囲軍の主将を務めていた。


 長尾 某(ながお)
 幼名はおひこ丸を称した。柿崎和泉守景家の子で、上杉輝虎の肝煎りによって永禄6年11月に長尾土佐守の孫娘を娶り、土佐守の名跡を継ぐことが決まった。


 斎藤下野守朝信(さいとうしもつけのかみとものぶ)
 仮名は小三郎を称した。父は斎藤下野守定信。年寄衆。妻は長尾為景の娘(昌屋明玖)。この妻は早世したようで、永禄の初め頃に「おまつ」という女性(長尾氏か)との縁談が持ち上がっている。越後国刈羽郡の赤田城主。永禄7年2月の下野国佐野唐沢山城攻めにおいて部将としての勲功を挙げた。上杉輝虎が永禄10年秋に信濃国川中嶋へ出馬したなかで、信濃衆の赤見六郎左衛門尉、旗本衆の小野主計助と共に越後国頸城郡の祢知城の城衆を構成し、城将を務めていた。


 北条丹後守高広(きたじょうたんごのかみたかひろ)
 仮名は弥五郎を称した。のちに安芸守を称する。大沢毛利某の子で、北条・安田の両毛利氏の当主を兼ねた大江五郎広春(毛利丹後守)から北条氏の名跡を継いだとされる。妻は北条安芸守輔広(号祖栄)の娘か。年寄衆。越後国刈羽郡の北条城主。上野国群馬郡の厩橋城代。上杉輝虎が永禄9年冬に関東へ出馬したなかで、相州北条・武田陣営に寝返るが、同12年の越・相一和を機に復帰した。


 北条弥五郎景広(きたじょうやごろうかげひろ)
 のちに丹後守を称する。北条毛利丹後守高広の嫡男で、父が相州北条・甲州武田陣営に寝返ると、決別して上野国勢多郡の棚下寄居に拠った。輝虎から越後国長尾家に縁の「景」の一字を賜った。


 安田惣八郎顕元(やすだそうはちろうあきもと)
 安田毛利越中守景元の次男で、不行状によって出奔した兄(名は毛利安田和泉守景広と伝わる)の名跡を継いだという。妻は外様衆・竹俣三河守慶綱の娘と伝わる。越後国刈羽郡の安田城主。輝虎の隠遁に付き従った忠節により、山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜った。上杉輝虎が永禄7年秋に挙行する信濃国川中嶋陣に先んじて、旗本衆の岩井備中守昌能(もとは信濃国衆であった高梨氏の旧臣)と共に信濃国水内郡の飯山地域に在陣していた。


 上野中務丞家成(うえのなかつかさのじょういえなり)
 仮名は源六を称した。母は旗本衆・本庄新左衛門尉実乃(号宗緩)の妹と伝わる。越後国魚沼郡の節黒城主。永禄12年初頭から旗本衆の松本石見守景繁を筆頭とする上野国利根郡の沼田城の城衆として見える。


 平子若狭守(たいらくまごたろう)
 実名は房長、房政などと定まらない。仮名は孫太郎を称した。上杉定実・長尾為景期に見える平子孫太郎(若狭入道海道の子で、享禄元年に死去している)の実子で、孫太郎の次代である平子豊後守(弥三郎。孫太郎の弟か)から家督を返されたのではないか。越後国魚沼郡の薭生城主。


 宇佐美平八郎(うさみへいはちろう)
 長尾景虎期に見える宇佐美駿河守定満(平八郎)の世子であろう。宇佐美定満の世子は民部少輔実定を名乗ったと伝わる。越後国魚沼郡の真板平城主か。


 多功 某(たこう)
 実名、通称は不詳。越後国守護代長尾晴景とその弟である長尾景虎が争った時、景虎に味方して戦死した多功小三郎(肥後守の子)の世子。


 小国刑部少輔(おぐにぎょうぶのしょう)
 実名は重頼と伝わる。父は小国三河守か。越後国蒲原郡の天神山城主。永禄11年初頭から旗本衆の松本石見守景繁を筆頭とする上野国利根郡の沼田城の城衆として見える。


 山岸隼人佑(やまぎしはやとのすけ)
 実名は光重と伝わる。越後国蒲原郡の黒滝城主。永禄8年春に旗本衆の草間出羽守と共に、武蔵国衆の成田氏・下野国衆の小山氏の許への使者を務めた。同11年春には旗本衆の諏訪左近允と共に、旗本衆の松本石見守景繁を筆頭とする沼田城衆の加勢として上野国利根郡の沼田城に在陣した。


 村山善左衛門尉慶綱(むらやまぜんざえもんのじょうよしつな)
 山岸隼人佑(光重か)の次男である孫五郎が村山氏の一流を継いだ。越後国頸城郡の徳合城主と伝わる。


 計見出雲守(けみいずものかみ)
 実名は堯元と伝わる。上杉輝虎が永禄4年末から翌5年春にかけて関東の各地を転戦するなか、輝虎旗本の吉江中務丞忠景と共に関東の某城に配備されていた。越後国刈羽郡の畔屋城主と伝わる。


 青海川図書助(おうみがわずしょのすけ)
 実名不詳。幼名は梅千代を称した。上杉輝虎から永禄9年6月に、代々の忠節を鑑み、前代が残した証文の通り、青海川氏の家督を継ぐことを認められた。越後国刈羽郡の青海川城主。


 千坂対馬守(ちさかつしまのかみ)
 上杉謙信期の天正3年に千坂対馬守が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していたであろう。実名は朝儀、景親と定まらない。上杉定実・長尾為景期に見える千坂藤右衛門尉景長の世子と伝わるが、長尾景虎期の天文18年に上杉家譜代の重臣として見える千坂対馬守と景長が別人の場合は、対馬守の世子という可能性もある。輝虎から長尾家に縁の一字を賜ったか。越後国蒲原郡の鉢盛城主と伝わる。


 石川中務少輔(いしかわなかつかさのしょう)
 上杉謙信期の元亀4年に石川中務少輔が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していたであろう。実名は重次と伝わる。上杉定実・長尾為景期の永正18年に見える石川新九郎景重の次代に当たるか。越後国蒲原郡の石川城主と伝わる。


 和納伊豆守(わのういずのかみ)
 上杉謙信期の天正5年に和納伊豆守が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していたであろう。越後国蒲原郡の和納城主。


 新保 某(しんぼ)
 上杉謙信期の元亀・天正の頃に新保長松丸が謙信から孫六の仮名と越後国長尾家に縁の「長」の一字を賜っているので、上杉輝虎期には長松丸の父に当たる人物が活動していたであろう。越後国蒲原郡の新保城主か。


 竹俣 某(たけのまた)
 上杉謙信期の天正3年に竹俣小太郎が見えるので、上杉輝虎期には小太郎の父に当たる人物が活動していたのかもしれないし、すでに小太郎が活動を始めていたのかもしれない。


 大関弥七親憲(おおぜきやしちちかのり)
 父は大関阿波守盛憲と伝わる。越後国魚沼郡の浦佐城主か。


 甘糟近江守長重(あまかすおうみのかみながしげ)
 妻は上田衆(上田長尾越前守政景の同名・同心・被官集団)・黒金兵部少輔景信の妹と伝わる。越後国山東(西古志)郡の枡形城主や同蒲原郡の村松城主と伝わる。

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上杉輝虎(政虎)期の越後衆一覧 【1】

2013-12-22 17:05:34 | 上杉輝虎(政虎)期の越後衆


 一家衆

 上杉十郎(うえすぎじゅうろう)
 実名は景満と伝わる。上杉輝虎期に、輝虎以外では唯一、上杉名字を名乗ることを許された人物である。父は古志長尾右京亮景信。長尾景信は元亀元年6月2日に57歳で死去したと伝わる。


 山本寺伊予守定長(さんぽうじいよのかみさだなが)
 前代の山本寺陸奥守定種(又四郎)は、上条播磨守定憲(憲定。弥五郎)と協力して長尾為景と戦った。母は為景の妹(法名は異天玄忠大姉)か。妻は外様衆・小河右衛門佐長資(長尾景虎期の天文22年に甥の本庄弥次郎繁長によって自害させられ、本庄氏の実権を取り返された)の娘と伝わる。越後国頸城郡の不動山城主。


 桃井伊豆守義孝(もものいいずのかみよしたか)
 官途名は右馬助を称した。上杉定実・長尾為景期の享禄4年にみえる桃井伊豆守義孝の世子であろうから、父と同じ義孝と名付けられ、永禄4年の初めには伊豆守を称している。越後国頸城郡の鳥(富)坂城主と伝わる。永禄9年秋に外様衆の加地安芸守と共に信濃国水内郡の飯山城に在番した。


 山浦 某(やまうら)
 実名、通称は不詳。この頃の山浦氏をとして、主税入道頼親と源五頼長を伝えるものもあるが、どちらも当事の文書では確認できない。越後国蒲原郡の笹岡城主。


 上条 某(じょうじょう)
 天文22年に死去した上条惣五郎頼房と、元亀年間から活動が見られる上条弥五郎政繁(能州畠山義続(号悳祐)の末男といい、輝虎の肝煎りによって上杉上条家に入嗣した)の間に上条家の当主であった人物。永禄8年に鵜川荘柏崎鯨波の妙智寺に土地を寄進した「小せうしゃう(小少将)」は、「じゃうてうのかみさま(上条の上様。法名は光妙智大姉)」と呼称された輝虎の姉であり、上条某の妻であったと思われる。この人物は早世してしまったようなので、小少将がしばらく家政を取り仕切っていた可能性があろう。越後国刈羽郡の上条(黒滝)城主。


 琵琶嶋 某(びわじま)
 上杉謙信期に元亀4年に琵琶嶋弥七郎が見えるから、すでに輝虎期には活動していた可能性がある。弥七郎の実名は政勝であろう。関東三長尾氏の一つである白井長尾氏の出身で弥七郎景通を名乗ったと伝えるものもあるが、当事の文書では確認できない。越後国刈羽郡の琵琶嶋城主。



 奥郡国衆(阿賀北の外様衆)

 中条越前守(なかじょうえちぜんのかみ)
 実名は房資、次いで上杉輝虎から越後国長尾家に縁の「景」の一字を与えられて景資に改めたようである。仮名は弥三郎を称した。父は中条弾正忠。祖父の中条越前守藤資(弥三郎。弾正左衛門尉)は長尾為景と縁戚関係にあったが、どのような続き柄であったのかは分からない。妻は信濃衆・高梨刑部大輔政頼(長尾景虎期に、甲州武田信玄の信濃国侵攻により、中野領を失なって越後国に亡命した。永禄3年には世子の源太に代わっている)の娘(輝虎の養女)と伝わる。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において部将としての勲功を挙げた。越後国蒲原郡の鳥坂城主。


 黒川四郎次郎平政(くろかわしろうじろうひらまさ)
 幼名は竹福丸を称した。永禄10年に元服している。父は黒川下野守(実名は平実であろう)。越後国蒲原郡の黒川城主。


 本庄弥次郎繁長(ほんじょうやじろうしげなが)
 幼名は千代猪丸を称した。雨順斎全長。父は本庄大和守房長(対馬守)。妻は古志長尾右京亮景信の娘と伝わる。越後国瀬波(岩船)郡の村上城主。甲州武田・相州北条陣営に通じて反乱を起こすが失敗に終わり、出家して越後国瀬波(岩船)郡の猿沢城に蟄居するとともに、嫡男の千代丸を人質として越府に差し出した。千代丸は、おそらく謙信期に元服し、謙信から山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜り、新六郎顕長と名乗る。


 色部修理進勝長(いろべ しゅりのじょう(しん) かつなが)
 仮名は弥三郎を称した。父は色部遠江守憲長(弥三郎)。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦と同7年2月の下野国佐野唐沢山城攻略において部将としての勲功を挙げた。永禄10年春から同年冬までの間、旗本衆の荻原伊賀守と共に、旗本衆の吉江佐渡守忠景を筆頭とする唐沢山城衆への加勢として下野国安蘇郡の唐沢山城に在番した。同族である本庄弥次郎繁長が起こした反乱の最中の永禄12年正月10日に陣没した。


 色部弥三郎顕長(いろべやさぶろうあきなが)
 幼名は虎黒丸を称した。色部修理進勝長の世子。永禄7年12月に上杉輝虎から山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜った。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主。


 鮎川孫次郎盛長(あゆかわまごじろうもりなが)
 幼名は市黒丸を称した。父は鮎川摂津守清長(号元張)。越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主。反乱を起こした同族の本庄弥次郎繁長に居城を奪われると、上杉輝虎の命を受けて旗本衆の三潴左近大夫(実名は長能か)と越後国瀬波(岩船)郡の庄厳(笹平)城に拠り、本庄繁長が拠る越後国瀬波(岩船)郡の村上城に対抗した。


 大川三郎次郎長秀(おおかわさぶろうじろうながひで)
 父は大川駿河守忠秀と伝わる。越後国瀬波(岩船)郡の藤懸(府屋)城主。反乱を起こした同族の本庄弥次郎繁長に同調した弟ふたり(孫太郎・藤七郎)によって、一時は居城を占拠された。


 加地安芸守(かぢあきのかみ)
 実名不詳。上杉定実・長尾為景期の享禄4年にみえる加地安芸守春綱の次代であろう。越後国蒲原郡の加地城主。永禄9年秋に一家衆の桃井伊豆守義孝と共に信濃国水内郡の飯山城に在番した。


 加地彦次郎(かぢひこじろう)
 実名は知綱と伝わる。天正3年には安芸守を称している。加地安芸守の世子。上杉輝虎が永禄9年冬に挙行した関東遠征において、同輩の水原蔵人丞・竹俣三河守慶綱、輝虎旗本の富所隼人佑・松木内匠助(この両名は軍監)らと共に遊軍として上・越国境に配備され、翌10年正月に輝虎から関東へ急行するように命じられた。越後国蒲原郡の加地城主。


 新発田尾張守忠敦(しばたおわりのかみただあつ)
 仮名は源次郎を称した。父は上杉定実・長尾為景期に見える新発田源次郎能敦(尾張守を称したか)であろう。越後国蒲原郡の新発田城主。


 新発田右衛門大夫(しばたえもんのだいぶ)
 実名は綱成と伝わる。のちの五十公野右衛門尉重家。父は新発田源次郎能敦の次代である新発田伯耆守綱貞(能敦と綱貞は兄弟の可能性がある)。上杉輝虎(長尾景虎)の小姓を務めたと伝わる。永禄8年冬から同11年冬までの間、旗本衆の松本石見守景繁を筆頭とする沼田城衆の一員として上野国利根郡の沼田城に在番した。


 五十公野玄蕃允(いじみのげんばのじょう)
 上杉定実・長尾為景期の享禄4年にみえる五十公野弥三郎景家と同一人物か。あるいは景家の次代か。越後国蒲原郡の五十公野城主。永禄9年春から翌10年冬までの間、旗本衆の吉江佐渡守忠景と共に下野国安蘇郡の唐沢山城に在番した。その在任中に出奔して相州北条軍に捕らえられてしまうが、すぐに解放されると、望み通りに奥州会津経由で本領に帰った。


 竹俣三河守慶綱(たけのまたみかわのかみよしつな)
 官途名は太郎左衛門尉を称したか。父は竹俣三河守為綱か。竹俣氏は、長尾為景・同晴景父子期に筑後守清綱(式部丞)-筑後守昌綱-式部丞と続いたが、式部丞は天文の乱において進退を誤って長尾父子の怒りを買い、当主が筑後守系から三河守系に代えられたようであり、為綱は式部丞と同時期に文書で確認されるので、実在した人物ではあるが、慶綱との親子関係と三河守の通称は系図でしか確認できず、為綱と式部丞は同一人物という可能性がある。その場合、式部丞の後を受けたのは慶綱となろう。上杉輝虎が永禄9年冬に挙行した関東遠征において、同輩の水原蔵人丞・加地彦次郎、輝虎旗本の富所隼人佑・松木内匠助(この両名は軍監)らと共に遊軍として上・越国境に配備され、翌10年正月に輝虎から関東へ急行するように命じられた。
越後国蒲原郡の竹俣城主。

 水原蔵人丞(すいばらくらんど(くろうど)のじょう)
 実名は実家と伝わる。父は水原壱岐守隆家と伝わるが、この人物は当事の文書では確認できない。上杉輝虎が永禄9年冬に挙行した関東遠征において、同輩の竹俣三河守慶綱・加地彦次郎、輝虎旗本の富所隼人佑・松木内匠助(両名は軍監)らと共に遊軍として上・越国境に配備され、翌10年正月に輝虎から関東へ急行するように命じられた。越後国蒲原郡の水原城主。


 安田治部少輔(やすだぢぶのしょう)
 この時期の治部少輔は、上杉定実と長尾為景・同晴景父子期にみえる長秀とも、すでに世子(通称は新太郎あるいは新八郎か。実名は有重と伝わるが疑わしい)に代替わりしているともいわれ、どちらなのか、よく分からない。越後国蒲原郡の安田城主。永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において部将としての勲功を挙げた。


 下条 某(げじょう)
 謙信期の天正3年の初めから下条采女正忠親が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していた可能性がある。忠親は旗本衆・河田豊前守長親の長弟。越後国蒲原郡の下条城主。


 荒川 某(あらかわ)
 謙信期の天正3年の初めに荒川弥次郎が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していた可能性がある。父は荒川伊豆守長実か。越後国蒲原郡の荒川城主。


 垂水源次郎(たるみげんじろう)
 永禄4年9月の甲州武田軍との信濃国川中嶋合戦において部将としての勲功を挙げた。越後国蒲原郡の垂水城主。



 中郡国衆(阿賀南の外様衆)

 菅名 某(すがな)
 上杉謙信期の天正3年の初めに菅名源三が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していた可能性がある。越後国蒲原郡の菅名城主。


 村松山城守(むらまつやましろのかみ)
 実名不詳。越後国蒲原郡の村松城主か。


 平賀左京亮重資(ひらがさきょうのすけしげすけ)
 仮名は助四郎であろう。父は平賀左京進為資と伝わるが、この人物は文書では確認できない。越後国蒲原郡の護摩堂城主。


 新津 某(にいつ)
 上杉謙信期の元亀4年4月に新津大膳亮(実名は資相か)が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していた可能性がある。上杉定実・長尾為景期の大永6年に見える新津上総介景資の次代か。越後国蒲原郡の新津城主。

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越前国朝倉家との友好関係について

2013-12-21 18:48:19 | 雑考
 
 越後国長尾景虎(上杉輝虎)は、永禄3年に常陸国衆の佐竹義昭から関東出陣を求めらた際、どのような勢力からでも、支援を求められれば、分け隔てなく手を差し伸べることと、累代の友好国である越前国朝倉家と協力して、北国に安寧をもたらすことを標榜している。

 この越前と越後の両国間で結ばれた盟約に従って朝倉義景は、長尾・上杉軍が信州や関東へ出陣すると、加賀一向一揆を封じ込めるため、しばしば賀州へ軍勢を派遣している。一方、上杉輝虎は永禄8年2月に、越前国朝倉義景からの出陣要請に従い、賀州へ向けて進発するつもりでいたが、関東情勢の悪化により、同月下旬に関東へ出陣したので、朝倉家との約束を果たせなかった。そして、永禄8年6月に輝虎は朝倉義景に対し、将軍足利義輝が横死した事実を問い合わせるとともに、朝倉軍との賀州に於ける初秋の合同軍事作戦を承諾したところ、朝倉家の取次である山崎吉家と朝倉景連から上杉家の取次である直江政綱に宛てて返書が送られ、将軍家遭難について子細を伝えられるとともに、合同軍事作戦の実施について念を押される一方で、朝倉景連から直江政綱に宛てて私信が送られ、上杉軍と賀州で共闘するに当たって、両家の円滑な連携を図るために万事を取り持ち、上杉家について色々と不平を鳴らす連中の形勢は抑えることを保証されており、このように約束を反故にした上杉家を快く思わない朝倉家中が少なからず存在していたことが分かる。結局、この時も上杉軍は賀州に出陣できなかった。

 それから天正元年8月に朝倉家が織田信長によって滅ぼされるまでの間にも、越前と越後の連合軍による賀州進攻が実現することはなかった。

『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』80号 朝倉宗滴書状、205号 長尾景虎書状(写)、452・453号 上杉輝虎書状(写)、459号 山崎吉家・朝倉景連連署状、460号 朝倉景連書状 ◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』1575号 朝倉宗滴書状(写) ◆『福井県史 通史編2 中世』
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