越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(政虎)期の戦歴 【下】

2016-01-14 17:30:09 | 上杉輝虎(政虎)期の戦歴


 【28】(49) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄10年3月18日、甲州武田軍に奪われた信濃国野尻城を取り返す。

 永禄10年の年明け早々、昨年の11月から滞在している下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城において、自陣営と相州北条陣営の間にあって態度を明らかにしない常陸国衆・佐竹義重(常陸国久慈郡太田城主)や河南(利根川以南)にあって自陣営に唯一留まる武蔵国衆・広田直繁(武蔵国埼玉郡羽生城主)を初めとした関東味方中の参陣を待つなか、越府から一千人ほどの増援軍を呼び寄せると、下野国佐野陣と越府の間に在陣させている遊軍の水原蔵人丞(実名は実家か。外様衆)・竹俣三河守慶綱(同前)・加地彦次郎(実名は知綱か。同前)、遊軍の軍監である富所隼人佐(実名は重則か。旗本衆)・松木内匠助(実名は秀朝か。同前)に対し、増援軍の進軍を支援するように命じる。9日には参陣の呼び掛けに応じない下総国衆の結城晴朝が拠る下総国結城郡の結城城の攻略を期したところ、下野国衆・宇都宮広綱(下野国河内郡宇都宮城主)とその宿老衆(一族)である塩谷義孝(下野国塩谷郡川崎城主)が参陣の意向を示してくる(結局のところ結城攻めは挙行されなかったようである)。その後、相州北条陣営に属する上野国衆の由良成繁が拠る上野国新田郡新田荘の金山城の攻略を期して上野国利根郡沼田荘の沼田城に移るも、佐竹軍は河西(鬼怒川以西)に滞陣したまま動かなかったので、越後衆の吉江佐渡守忠景(旗本衆)と五十公野玄蕃允(外様衆)からなる唐沢山城衆の増員として色部修理進勝長(外様衆)と荻原伊賀守(旗本衆)を加えたのち、3月初め頃に帰国の途に就く。そこへ輝虎の留守を狙って越府の攻略を期する甲州武田信玄が、3月18日に信・越国境の信濃国水内郡芋河荘の野尻城を攻め落とし、国境を越えて付近の郷村を荒らし回ったので、休む間もなく信・越国境へ向かい、即日、野尻城を取り返した。また、4月上旬から中旬に掛けて、甲州武田軍と連動して越後に攻め入るはずだった奥州会津の蘆名軍(重臣が率いる軍勢)が一月遅れで越後に侵攻すると、越後・陸奥国境の越後国蒲原郡菅名荘の雷城と神洞城を攻め落としたので、上田衆(甥である上田長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)を初めとする軍勢を派遣し、下旬には蘆名軍の多数を討ち取って追い払うと、慌てて詫びを入れてきた蘆名盛氏(止々斎)・同盛興父子と和解した。


 【29】(50) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄10年の秋中、信濃奥郡に在陣して甲州武田軍と駆け引きする。

 永禄10年7月、信濃国の奥郡に出陣し、甲州武田陣営に属する信濃国衆の市川信房が拠る信濃国水内郡の野沢要害などを威圧したのち、自陣営の拠点である信濃国水内郡の飯山城に改修を施すなどしながら、信濃国のどこかに在陣中の甲州武田軍と駆け引きした。9月中旬には本陣のほか、越後国頸城郡の祢知城衆(譜代衆の斎藤下野守朝信・信濃衆の赤見六郎左衛門尉・旗本衆の小野主計助で編成し、信濃口と越中口を警戒させている)の目付を広く展開して敵の陣容を探るなか、濃州を併合した尾州織田信長が甲府へ攻め込むので、甲州口が激しく動揺しているらしいとの情報を入手し、これが関東表から寄せられた情報とも一致していることから、甲州武田軍の撃破に期待を抱いたが、好機は訪れなかったので、間もなく帰府した。

 【30】(51) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄10年10月27日、下野国唐沢山城下で相州北条軍と戦う。

 永禄10年10月中旬、下野国唐沢山城の主郭に拠る唐沢山城衆(越後衆)と各所からの急報によって、唐沢山城衆が相州北条軍(先遣軍)及び佐野地衆に手引きされて反逆した佐野昌綱(本来の唐沢山城主。当時は副郭に居住していたか)の攻撃を受けて窮迫していることと、相州北条軍(増援軍)が利根川に船橋を渡して上野国邑楽郡佐貫荘の赤岩の地から唐沢山城に向かっていることを知り、直ちに関東へ向けて出馬し、24日には上野国利根郡沼田荘の沼田城に着陣する。翌25日には上野国の中央部に進み、27日までの間に、上野国群馬郡の厩橋城、同じく新田郡新田荘の金山城、下野国足利郡足利荘の足利城を初めとした二十ヶ所の敵地を突っ切り、利根川を渡って赤岩の船橋を切り落とすと、唐沢山城を取り巻く両北条軍に突撃し、本営に肉迫するほどの勢いで敵陣を蹴散らしたところ、両北条軍は総大将の相州北条氏政が在陣する武蔵国埼玉郡の岩付城へ、唐沢山城の主郭を攻め立てていた佐野軍は下野国都賀郡の藤岡城へと、いずれも真夜中に逃げ去った。その後、佐野昌綱を降伏させて戦後処理を行い、佐野は越後から遠隔地であることから、唐沢山城の番城体制を諦め、昌綱の懇願を受け入れて城主に復帰させると、色部・吉江・荻原ら在城衆はもちろん、昌綱の子である虎房丸と佐野家中からも差し出させた三十余名の証人を伴い、11月12日に上野国沼田城へ戻り、21日に帰国の途に就いた。


 【31】(52) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年3月中旬、越中国守山(二上山)城を攻める。

 永禄11年3月上旬から中旬に掛けて越中国へ出馬(近江国に流寓中の畠山悳佑(義続)・同義綱父子の能登国への復帰支援といわれる)し、15日に中部まで進陣すると、越中国増山の神保氏一族の神保氏張が拠る越中国射水郡の守山(二上山)城攻略のために放生津に布陣する。その攻囲中、甲州武田信玄と内通していた外様衆の本庄繁長が、輝虎に遺恨の一理があると称して、13日に留守居していた越府から本拠地の越後国瀬波(岩船)郡小泉荘の村上城に戻って挙兵したばかりか、越中国味方中の椎名康胤(越中国新川郡の金山(松倉)城主)も甲州武田信玄と結んで、越後国上杉軍の帰路を断つ形で挙兵したとの凶報を受けると、急遽、25日の未明に放生津陣を撤収した。この本庄繁長の反乱には、外様衆の大川三郎次郎長秀(本庄氏の庶族)の弟である孫太郎・藤七郎兄弟が荷担し、兄の大川長秀を居城(越後国瀬波(岩船)郡小泉荘藤懸(府屋)城)から追い出している。


 【32】(53) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年4月中、越中国金山(松倉)城を攻める。

 永禄11年3月25日に越中国放生津陣を引き払ったのち、椎名康胤が立て籠もる越中国金山(松倉)城を取り囲んだが、ひと月ほどして攻略を諦め、5月の初め頃には帰府した。


 【33】(54) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年8月中旬、信濃国の奥郡に出陣してきた甲州武田信玄と駆け引きする。

 永禄11年4月の終わりから5月初めに掛けて、越中国松倉陣を引き払って帰府すると、自身は越府防衛のため、まだ越後国の奥郡へは下れないことから、5月4日前後に、譜代衆の柿崎和泉守景家と旗本衆の直江大和守政綱を主将とした軍勢を、本庄繁長が拠る越後国村上城へ派遣する。この間に本庄繁長は、同族の鮎川孫次郎盛長の居城である越後国瀬波(岩船)郡小泉荘の大場沢城を攻め落とす一方、外様衆の同輩である中条越前守らに密書を届けて味方に誘う。しかし、中条越前守は密書の封を切らずに輝虎へ差し出している。その後、柿崎・直江両名を主将とした派遣軍と鮎川盛長をもって、6月中旬までに村上城の向城である下渡嶋城の整備と庄厳城の再興を完了させる。7月中旬、敵領の信濃国水内郡太田荘の長沼境に軍勢を派遣したところ、甲州武田信玄が信濃国の奥郡に出陣してきたが、連雨による増水のために千曲川と犀川を渡れず、滞陣を余儀なくされている。8月中旬、甲州武田軍が長沼に現れたので、自ら出馬して信濃・越後国境まで進むも、敵軍は逃げ去ってしまったので、やむなく後退したところ、敵軍が押し出してきたことから、再び前進するも、またもや敵軍は逃げ去ってしまったので、越府に帰還した。


 【34】(55) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年11月7日、越後国村上城を攻める。

 永禄11年8月中旬、越中国金山(松倉)の椎名康胤が攻勢に出てきたことから、越後国村上陣の柿崎和泉守景家・直江大和守政綱に対し、山浦某(一家衆)・色部修理進勝長(外様衆)・北条弥五郎景広(譜代衆)・新発田衆(外様衆・新発田尾張守忠敦の軍勢。新発田忠敦自身は信濃国飯山城の守備に就いている)らを越府に寄越すように指示する。この頃までに、信濃・越後国境の手当てとして、信濃衆(外様平衆)が守る信濃国水内郡の飯山城へ新発田尾張守忠敦・五十公野某(玄蕃允か。外様衆)・吉江佐渡守忠景(旗本衆)と十騎から十五騎の旗本衆(横目)を、信濃衆の須田順渡斎・同左衛門大夫、越後衆の平子若狭守(実名は房政か。譜代衆)・宇佐美平八郎(実名は実定か。同前)・越後国関山宝蔵院の衆徒が守る越後国頸城郡の関山城へ上杉十郎(実名は景満か。一家衆)・山本寺伊予守定長(一家衆)・竹俣三河守慶綱(外様衆)・山岸隼人佑(実名は光重か。譜代衆)・下田衆(譜代衆・下田長尾氏の同名・同心・被官集団)と十騎から十五騎の旗本衆を増援に向かわせ、越中・越後国境の手当てとして、越後国西浜の根知城と不動山城へも多数の旗本衆を派遣する。そのため、自分の手許には河田豊前守長親の率いる軍勢、山吉孫次郎豊守の率いる三条衆と本庄清七郎(実名は綱秀か)の率いる栃尾衆が半数づつしか残らず、地下鑓を召集して軍勢を補い、信濃・越中国境が積雪で閉ざされる時期を待つ。9月中には、本庄繁長の反乱への荷担が疑われる出羽国の味方中の大宝寺義増(出羽国田川郡大泉荘大浦城主)に対し、その嫌疑を晴らすように迫る。同月22日に、村上城の付城である下渡嶋城を城衆が放棄したとの急報を受け、もうひとつの付城である庄厳城を守る鮎川孫次郎盛長(外様衆)と三潴左近大夫(実名は長能か。旗本衆・三潴出羽守長政の嫡男)に城の堅持を命じ、10月上旬には鉄炮の玉薬を補給するとともに、いよいよ来る17日に本庄口に出馬することを伝える。20日以前に出府すると、11月の初めには村上の地に着陣し、7日に督戦を開始した。同月下旬、陣衆の中条越前守から、同族である黒川四郎次郎平政の被官・石塚玄蕃允が敵方に内通しているとの情報を寄せてきたので、石塚を取り調べて不義の事実を自供させると、中条越前守に血判起請文を与えて、その忠節に報いることを約束した。


 【35】(56) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年正月9日、夜襲を仕掛けてきた本庄繁長を退ける。

 永禄12年正月9日未明に本庄繁長が夜襲を仕掛けてくるも、上田衆らの奮闘によって撃退した。陣衆のうち色部修理進勝長(外様衆。村上本庄氏とは同族)は、この戦いにおける傷がもとで10日に死去したともいわれる。一方、13日に越・羽国境の越後国瀬波(岩船)郡小泉荘の燕倉城に在陣する大川三郎次郎長秀に対し、その大川長秀の許に軍監として派遣した三潴出羽守長政(旗本衆)を通じて藤懸(府屋)城奪還を励ますと、ちょうどその日に大川が大宝寺衆の加勢と内通者を得て奪還作戦を実行に移し、二昼夜に亘って攻め立てるも、城方に内通者が摘発されてしまい、あえなく失敗に終わっている。それでも大川は攻囲を続けるつもりでいたが、軍監の三潴長政らの反対に遭うと、若輩の身であることを弁えて反対意見に従い、16日に燕倉城へと後退している。


 【36】(57) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年正月中旬、越後国村上城の外郭を焼き払う。

 永禄12年正月中旬、先の本庄繁長による夜襲を受けて、村上城への攻勢を強めようとするも、外様衆を初めとする在陣衆が攻撃に身を入れないため、自ら旗本衆を率いて村上城の外郭を焼き討ちした。2月から3月に掛けて、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達輝宗と奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名盛氏(止々斎)の仲介により、本庄繁長の赦免に傾く一方、村上城の攻撃に身の入らない在陣衆から証人を徴集する。それから3月下旬までには交渉がまとまり、本庄繁長が僧体となって詫びを入れるとともに、嫡男の千代丸を証人として差し出し、藤懸城も自落して大川三郎次郎長秀が城主に返り咲いたので、本庄繁長の降伏を認めて帰途に就くと、4月2日に着府した。


 【37】(58) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年8月20日、越中国堀切城を攻め落とす。

 永禄12年6月に同盟が成立した相州北条家と連携するため、7月下旬に信濃国へ出馬しようとしたところ、甲州武田信玄が講和を打診してきたことから、とりあえず信濃国への出馬を延期する。それでも、信濃・越中国境の状況が案じられたので、両口に軍勢を展開するため、関東から味方中や上野国沼田城衆を呼び寄せる。8月に入ると、改めて相州北条家と連携するため、直江大和守景綱に留守を任せ、今度は関東へ向けて出馬したところ、甲州武田氏と連携している越中国金山(松倉)の椎名康胤が攻勢に出てきたことから、柏崎の地から反転して越中国へ向かう。20日に国境を越えると、各所を焼き討ちしながら進み、その日のうちに新川郡布施保の堀切城を攻め崩した。翌日は堀切から程近い石田の地で人馬を休ませた。


 【38】(59) 越後国上杉(山内)輝虎(旱虎)、永禄12年8月23日、越中国金山(松倉)城を攻める。

 永禄12年8月22日、自身は金山(松倉城)に押し寄せて要害際に陣取る一方、別働部隊をもって新川郡太田保の新庄城を乗っ取らせると、それを堅持させている。23日の夕刻には金山根小屋を焼き討ちし、松倉城を丸裸にして椎名康胤を追い詰めた。


 【39】(60) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年9月中、越中国森尻荘を押さえる。

 永禄12年9月下旬までに、金山(松倉城)に押さえの軍勢を残した上で、自らは新川郡森尻荘に進陣して要所を制圧した。それに伴い、従軍した年寄衆のうち柿崎和泉守景家(譜代衆)・山吉孫次郎豊守(旗本衆)・河田豊前守長親(同前)を奉者として制札を掲げ、森尻荘内における諸軍勢の濫妨狼藉を停止している。


 【40】(61) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年10月中、神保家中の反乱を鎮める。

 永禄12年10月上旬、越中国味方中である神保長職(これより前に甲州武田陣営から転じていた。越中国砺波郡増山城主)の家中の一部が造反したことを受け、神通川を越えて越中国の中部へ進陣する。この直前に越中国新川郡の魚津城の城代に任命した河田豊前守長親(旗本衆)の家中衆である長尾紀伊守と小越平左衛門尉に対し、越中国の中部に伴った河田長親の不在中、椎名軍が魚津城に攻め寄せてきても、城に籠って取り合わないように厳命している。下旬までに事態を収めると、金山(松倉城)の押さえとして河田長親を残して帰国の途に就いた。


 【41】(62) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄13年正月から同年3月の間、下野国唐沢山城を攻める。

 越中陣を終えて永禄12年10月28日に帰府したのもつかの間、ほとんど休むことなく明後日には関東へ向けて進軍する。その進軍中、越・相同盟に反対している味方中の太田道誉(資正。常陸国衆・佐竹氏の客将。常陸国北郡片野城主)を通じて佐竹義重(常陸国久慈郡太田城主)・宇都宮広綱(下野国河内郡宇都宮城主)ら東方衆の参陣を求める。そして、11月20日に上野国利根郡沼田荘の沼田城に到着すると、そこでまた関東味方中に参陣を呼び掛けた。相州北条家との盟約に従って12月24日に西上野へ攻め込むことを表明したにもかかわらず、相州北条家と同盟を結んだ一方で、内密に甲州武田家とも和睦をしていたことから、年明けの永禄13年正月には、参陣に応じない下野国衆の佐野昌綱が拠る下野国唐沢山城を攻め囲んだ。この佐野陣には、味方中の広田直繁(武蔵国羽生城主)がすぐさま参陣してきた。ここでもまた東方衆に参陣を呼び掛けるなか、2月2日に唐沢山城を激しく攻め立てると、甥の上田長尾喜平次顕景の被官である広居善右衛門尉忠家・下平右近允・小山弥兵衛尉らが戦功を挙げたので、甥とは別で彼らに感状を与えた。3月に入ると、上野国沼田城に戻り、相州北条家と同盟を結び直し、甲州武田家との和睦を破棄することや、初秋に共同で大軍事作戦を挙行することなどを約束する一方、ついに参陣しなかった東方衆とは交渉を絶った。4月11日、養子に迎えた、相州北条氏康の末子である三郎(上杉景虎)と沼田城で対面すると、そのまま帰国の途に就き、18日に着府した。

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上杉輝虎(政虎)期の戦歴 【中】

2015-07-12 19:17:32 | 上杉輝虎(政虎)期の戦歴


 【19】(40) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年正月中旬から同下旬に掛けて、相州北条方の常陸国小田城を攻め落とす。

 永禄7年正月中旬、関東味方中の佐竹義昭(常陸国衆。常陸国久慈郡太田城主)との盟約に従って相州北条陣営に属する常陸国衆の小田氏治が拠る常陸国筑波郡の小田城に攻め寄せる。常陸・下総・下野の味方中は、佐竹義昭が常陸国信太郡信太荘の真鍋台に布陣し、結城晴朝(下総国衆。下総国結城郡結城城主)・山川氏重(結城一家。下総国衆。下総国結城郡山川荘山川綾戸城主)・水谷政村・政久(結城一家。常陸国衆。下野国芳賀郡久下田城主・常陸国伊佐郡下館城主)の軍勢は、小田城の救援に駆けつけた多賀谷政経(常陸国衆。もとは結城氏に従属していた。常陸国関郡下妻荘下妻城主)に、小山秀綱(号良舜。下野国衆。下野国都賀郡小山荘祇園城主)・宇都宮広綱(下野国衆。下野国河内郡宇都宮城主)・座禅院(下野国都賀郡日光山座禅院。相州北条方の下野国衆・壬生氏から院主を迎えている)の軍勢は、同じく壬生某(綱雄、若しくは子の義雄か。下野国衆。もとは宇都宮氏に従属していた。下野国都賀郡壬生城主)・皆川俊宗(下野国衆。もとは宇都宮氏に従属していた。下野国都賀郡皆川荘皆川城主)に対向した。正月29日、小田氏治が常陸国新治郡の土浦城(重臣の菅谷政貞の居城)に逃走したことから、多数の残党を討ち取ったところ、その日のうちに小田配下の三十余ヶ所の領主が投降してきたので、それぞれから証人を取って赦免すると、2月中旬頃まで小田領に留まって戦後処理を施した。


 【20】(41) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年2月中旬から同下旬に掛けて、相州北条方の下野国唐沢山城を攻め降す。

 永禄7年2月中旬、北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱が拠る下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に攻め寄せる。17日に険しい要害の外郭を制圧すると、佐野昌綱が降伏を申し入れてきたが、すぐには回答を示さなかった。同日中、色部修理進勝長(外様衆)・上田長尾時宗丸(譜代衆。上田長尾越前守政景の長男。上田長尾政景は越府防衛のために途中帰国を命じられた)・斎藤下野守朝信(譜代衆)の主従をまとめて、楠川左京亮将綱(旗本衆)・栗林次郎左衛門尉房頼・宮嶋惣三(ともに上田衆)を個別に、それぞれの戦功を称えて感状を与えた。28日、関東味方中の佐竹義昭と宇都宮広綱の取りまとめにより、多数の証人を差し出させて佐野昌綱を赦免した。


 【21】(42) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年3月7日から同中旬の間、甲州武田方の上野国和田城を攻める。

 下野国衆の佐野昌綱を降したのち、西上野の味方中との盟約に基づいて、甲州武田陣営に属する上野国衆の和田業繁が拠る上野国群馬郡の和田城攻略に臨む。しかし、和田城は小規模ながら、甲州武田信玄が丹念に手を加えた堅城であるため、その攻略は至難と見越して逡巡する。それでも、すでにこうして和田に押し寄せたからにはと、迷いを振り払って、ひたむきに戦う覚悟を決し、永禄7年3月7日、例の如く関東国衆は頼りにならないため、白井衆(上野国衆・白井長尾憲景の同名・同心・被官集団)の先導のもと、自ら先手の越後衆を率いて和田城を攻め立てると、北条高広(越後衆。上野国群馬郡厩橋城代)・箕輪長野氏業(上野国群馬郡箕輪城主)・横瀬成繁(上野国新田郡新田荘金山城主)を初めとする国衆の一軍が戦果を挙げられないなか、白井・越後両衆が外郭を攻め取って内郭に肉迫した。その後、敵城が小規模といっても侮ることなく、宇都宮広綱・佐竹義重・足利長尾景長(上野国邑楽郡佐貫荘館林城主)らの大軍をもって五重に取り巻いているにも係わらず、戦況は膠着状態に陥った。やがて国衆を帰陣させなければならない時期を迎えるため、11日の晩に改めて攻勢に出ようとするも果たせず、15日前後に和田城から撤収し、3月下旬から4月上旬の間に帰国の途に就いた。


 【22】(43) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年7月下旬から同9月下旬の間、信濃国の奥郡で甲州武田信玄と駆け引きする。

 永禄7年7月下旬に甲州武田信玄と戦うために信濃国へ向かい、8月3日に更級郡の川中嶋の地に着陣する。中旬から下旬に掛けて、それまで一向に姿を現さなかった甲州武田軍本隊が、ようやく更級郡の塩崎の地まで進陣してくるも、ついに決戦するには至らなかった。9月5日以前に水内郡の飯山の地まで後退したところ、最前線の陣城に配備した旗本衆の堀江駿河守と岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)からの状況報告を受け、敵の最前線である水内郡太田荘の小玉坂の陣城に対する連日の総攻撃を止めて、初更に忍衆を展開して戦機を見極め、足軽衆による大規模な夜襲を仕掛けることと、物見衆をもって、水内郡若槻荘の髻山で哨戒活動をしている敵の小部隊の監視をかいくぐり、旭山口の敵本営を探し出して報告することを指示した。その後、飯山城に改修を施し、10月朔日に帰国の途に就くと、翌日には、最前線の堀江駿河守と岩船藤左衛門尉に対し、甲州武田軍が撤収するのか、高井郡の中野辺りまで進陣してくるのかを見極めて報告するように指示した。


 【23】(44) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年2月上旬、上野国安中口で甲州武田軍と戦う。

 将軍足利義輝からの上洛要請に応じるため、関東府足利氏の足利藤氏を下総国葛飾郡の古河城に復帰させて関東の安定を図る必要から、永禄8年11月24日、関東へ向けて出馬する。翌9年正月下旬に関東味方中の参陣を募るために上野国から下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城へ向かおうとするなか、佐野昌綱の一族である天徳寺宝衍が相州北条方に内通したとの情報を得たことから、唐沢山城へ急行しようとするも、自陣営に寝返った上野国衆の安中景繁が拠る上野国碓氷郡の諏訪(松井田)城に甲州武田軍が攻め寄せてきたことから、夜毎に軍勢を繰り出して攻撃布陣を整えると、2月上旬に甲州武田軍と戦って多数の敵兵を討ち取った。その後、唐沢山城に入って反抗勢力を鎮めると、側近の吉江佐渡守忠景(大身の旗本衆)を城将に任じ、越後奥郡国衆の五十公野玄蕃允と佐野衆の大貫左衛門尉を添えて主郭に配置した。それから、相州北条陣営に属する常陸国衆の小田氏治が拠る常陸国筑波郡の小田城攻略と下総国の経略に参加する関東味方中の結城晴朝(二百騎。下総国衆。下総国結城郡結城城主)・小山良舜(秀綱。百騎。下野国衆。下野国都賀郡小山荘祇園城主)・榎本(小山良舜の弟である高綱か。三十騎。下野国都賀郡榎本城主)・佐野昌綱(二百騎を代官が率いることを認められた。下野国衆。下野国安蘇郡佐野荘唐沢山城主)・横瀬(由良)成繁(三百騎。上野国衆。上野国新田郡新田荘金山城主)・足利長尾景長(百騎。上野国衆。上野国邑楽郡佐貫荘館林城主)・成田氏長(二百騎。武蔵国衆。武蔵国埼西郡忍城主)・広田直繁(五十騎。武蔵国衆。武蔵国埼玉郡太田荘羽生城主)・木戸忠朝(広田直繁の弟。五十騎)・簗田晴助(百騎。下総国衆。下総国葛飾郡下河辺荘関宿城主)・富岡主税助(三十騎。上野国衆。上野国邑楽郡小泉城主)・北条丹後守高広(越後国上杉家の譜代衆。上野国群馬郡厩橋城代)・沼田衆(越後衆。上野国利根郡沼田荘沼田城衆)・房州衆(房州里見義堯・同義弘父子。五百騎。房州勢は総州経略から参戦する)・土気酒井胤治(百騎。上総国衆。上総国山辺郡土気城主)・太田道誉(資正。百騎。常陸国衆・佐竹氏の客将。常陸国北郡片野城主)・野田景範(五十騎。下総国衆。下総国葛飾郡野田城主)・宇都宮広綱(二百騎を代官が率いることを認められた。下野国衆。下野国河内郡宇都宮城主)・佐竹義重(同心・代官が二百騎を率いることが認められた。常陸国衆。常陸国久慈郡太田城主)らの軍役を定めた。そして、常陸国小田城攻略に向かおうとしたところ、小田氏治が結城晴朝を通じて降伏を申し入れてきたことから、これを受諾したばかりか、そのまま居城に留まることを認めた。


 【24】(45) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年2月下旬から同年3月上旬の間、相州北条方の下総国大谷口(小金)城を攻める。

 永禄9年2月下旬に相州北条陣営に属する下総国衆の高城胤辰が拠る下総国葛飾郡風早荘の大谷口(小金)城に攻め囲んだ。その間、城下の平賀法華寺(本土寺)の懇望に応じ、譜代衆の北条丹後守高広と旗本衆の直江大和守政綱・河田豊前守長親を奉者として関東・越後諸軍勢の濫妨狼藉を禁ずる制札を掲げる。このたび帰属してきた下総国衆・相馬治胤(下総国相馬郡(御厨)守谷城主)が代官の率いる軍勢を寄越す。3月初めに大谷口城を封じると、相州北条陣営に属する下総国衆の原胤貞の拠る下総国印旛郡臼井荘の臼井城に向かった。


 【25】(46) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年3月9日から同25日の間、相州北条方の下総国臼井城を攻める。

 永禄9年3月9日、下総国臼井城に攻め囲んだ。猛攻して20日までに外郭の全てを制圧して堀一重の裸城にした。その後も昼夜に亘って攻め立てるも、強攻に失敗した房総勢が三百余名を失って戦場からの離脱を余儀なくされたことから、日没に越後衆の一部を房総勢の立ち去った陣場に移して攻城戦を続行すると、上田衆(甥である上田長尾顕景の同名・同心・被官集団)や味方中の下総国衆・結城晴朝の軍勢が奮戦したが、相州北条氏政の率いる援軍が迫ってきているため、25日に総州経略を断念して臼井城から撤収した。その後、4月13日に甲州武田陣営に属する上野国衆の和田業繁が拠る上野国群馬郡の和田城攻めるつもりでいたが、断念して関東を後にした。


 【26】(47) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年6月朔日から同7月中旬の間、越中国の中部で神保長職と戦う。

 関東から帰陣して間もなく、永禄9年5月中旬から下旬に掛けて、上野国厩橋城代の北条丹後守高広から甲州武田軍が上野国安中口に侵攻してきたとの知らせを受け、急いで出馬の準備をするなか、上野国沼田城衆(城代の河田豊前守長親は越府に滞在中)から誤報との知らせを受けたのもつかの間、隣国越中で争乱が起こったことから、直ちに出馬すると、6月朔日、越中増山の神保長職が立ち向かってきたので一戦に及んだ。7日には、この一戦に於ける吉江玄蕃丞(旗本衆)の殊勲を称えて感状を与えた。その後、7月中旬には、甲州武田軍が上野国沼田城を攻めるとの急報が寄せられたので、河田長親を沼田に戻し、信・越国境の越後国魚沼郡上田荘の坂戸城に残る上田衆を加勢として急行させて、自らはそのまま信濃国に進攻しようとするも、状況が変わったことから、関東遠征に切り替える。一旦、帰府してから、24日に出府し、下旬に信・越国境の越後国魚沼郡上田荘に着陣する。しかし、従軍将兵の遅参、甲州武田軍の信州出陣、関東味方中の離反によって滞陣を余儀なくされると、閏8月、長尾源五(譜代衆)を派遣して、このたび敵陣営に寝返った上野国衆の由良成繁が拠る上野国新田郡新田荘の金山城を攻めさせるも、自らは国境を越えることなく帰府した。


 【27】(48) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年11月9日、甲州武田方の上野国高山領と相州北条方の武蔵国深谷領を焼き払う。

 永禄9年10月11日、再び関東へ向けて出馬する。22日までに上野国利根郡沼田荘の沼田城に着陣すると、上野国金山城を攻撃するために関東味方中の参陣を呼び掛けた。11月8日に上野国勢多郡の大胡の地に本陣を構えると、相州北条軍が武・上国境に在陣しているとの情報を得たことから、翌9日、これを追い払うために利根川を渡ったところ、敵軍は跡形も無く退散していたので、甲州武田・相州北条陣営の勢力圏内である上野国緑野郡の高山城から武蔵国幡羅郡の深谷城の周辺を焼き尽くし、五十余の敵兵を討ち取り、多数の人馬を生け捕ると、大胡の本陣へ取って返した。その後、19日には下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に移り、関東味方中の参陣を催促するも、そうしたなかで上野国衆の富岡主税助(上野国富岡城主)、12月上旬までには、同じく足利長尾景長(上野国館林城主)と越後衆の北条丹後守高広(上野国厩橋城代)が敵陣営に寝返ってしまい、あろうことか北条高広に至っては、輝虎の金山城攻略中に上野東西境界の防衛を厩橋衆と共に担う上野国衆・惣社長尾能登守の許から協議のために厩橋城を訪れた越後衆の松本石見守景繁(上野国沼田城将。加勢として惣社城に入ることを命じられていた)を拘束して相州北条軍の陣所に引き渡す有様で、相次ぐ味方中の離反に金山城攻めを断念せざるを得なかった。こうしたなか、父の北条高広とは行動を共にしなかった北条弥五郎景広が上野国勢多郡の棚下寄居に拠ったことを知ると、そのまま景広に厩橋城と対向させて、自らは唐沢山城での越年を決めた。

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上杉輝虎(政虎)期の戦歴 【上】

2015-06-01 18:46:58 | 上杉輝虎(政虎)期の戦歴


 【1】(22) 越後国(山内)上杉政虎(永禄4年閏3月に関東管領山内上杉憲政(号光徹)の養子となって名跡を継いだ)、永禄4年6月上旬から同年7月中旬の間、武蔵国由井口で相州北条氏康・同氏政父子と駆け引きする。

 永禄4年5月の初めに相模国東郡の鎌倉陣から旗本衆に殿軍を任せて武蔵国比企郡の松山城まで後退すると、相州北条氏康・同氏政の軍勢が相府小田原城から武蔵国多西郡の由井の地に進陣してきたので、武蔵国松山城を出撃して由井に程近い勝沼の地に布陣し、相州北条軍と対峙したが、決戦するまでには至らず、三田に新城(唐貝山城)を築いたのち、別格な縁者の古志長尾右京亮景信を、鎌倉公方足利藤氏の御座所である下総国葛飾郡の古河城(盟友の関白近衛前嗣と養父の山内上杉憲政(号光徹)もいる)に警護役として、寵臣の河田九郎左衛門尉長親を、上野国群馬郡の厩橋城に城代として配し、帰国の途に就いた。


 【2】(23) 越後国(山内)上杉政虎、永禄4年9月10日、信濃国川中嶋の地で甲州武田信玄と戦う。

 永禄4年8月29日前後、姉婿の上田長尾越前守政景を越府に残し、奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名止々斎(盛氏)と出羽国の味方中である大宝寺義増(出羽国田川郡大泉荘大浦城主)に越府防衛のための援軍を頼み、一家衆の山本寺伊予守定長と譜代衆の斎藤下野守朝信を越中国に在陣させた上で信濃国に出陣すると、9月10日、更級郡の川中嶋の地に於いて、甲州武田信玄(晴信)と決戦し、信玄の弟である武田左馬助信繁や重臣の室住豊後守虎光・山本菅助を討ち取るなどした。一説には、自ら旗本衆を率いて敵の本営を強襲すると、その最中に庄田惣左衛門尉定賢が戦死したとか、敵も味方も総崩れしたような混乱のなかで旗本衆と離れ離れになり、落馬して敵兵に取り囲まれるも、主君を見つけ出して駆け込んできた本田右近允(実名は長定か)が人馬ともに負傷しながらも敵を防ぐうち、牢人衆の須田尾張守(足利長尾家中の須田尾張守栄定か)が駆けつけたので、乗馬を得て二人に守られながら危地を脱したという。11日に本田右近允を馬廻としての働きを称えて感状を与えた。13日に外様衆の中条越前守(実名は房資か)・色部修理進勝長・安田治部少輔・垂水源次郎、旗本衆の松本大学助(実名は忠繁か)らの部将としての働きを称えて感状を与えた。その後、水内郡の野尻城や高井郡の市川城に守備兵を配し、帰国の途に就いた。帰国後の22日に旗本衆の岡田但馬守(実名は重堯か)の忠功を称えて感状を与えた。


 【3】(24) 越後国(山内)上杉政虎、永禄4年11月27日、武蔵国生山の地で相州北条軍と戦う。

 武蔵国比企郡の松山城が相州北条軍に圧迫されているため、永禄4年10月中旬、姉婿の上田長尾越前守政景、譜代衆の下田長尾遠江守藤景、旗本衆の直江大和守政綱・荻原伊賀守らに留守を任せて関東へ出陣すると、相州北条軍と連動した甲州武田軍が西上野の経略を進めるなか、11月中旬から下旬に掛けて上野国から武蔵国へ進陣し、武蔵国児玉郡の生山に布陣した。11月27日、生山を下ると、相州北条軍の攻撃を受けて利根川端に追いやられた。


 【4】(25) 越後国(山内)上杉政虎、永禄4年12月上旬、上野国倉賀野城域で甲州武田・相州北条連合軍と駆け引きする。

 永禄4年12月上旬、態勢を立て直したのち、関東味方中の倉賀野直行が拠る上野国群馬郡の倉賀野城を攻囲する甲州武田・相州北条連合軍と対峙した。そうしたなか、敵軍の撃退に貢献した倉賀野衆の橋爪若狭守に感状を与え、7日に忠功を称えて一所を宛行うことを約束し、15日には、改めて忠功を称えるとともに、約束通りに一所を宛行った。


 【5】(26) 越後国(山内)上杉政虎、永禄4年12月中旬から同下旬の間、相州北条方の下野国唐沢山城を攻める。

 永禄4年12月15日前後に甲州武田・相州北条連合軍が上州倉賀野表から退散したので、相州北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱が拠る下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に攻め寄せると、21日、佐野と足利(下野国足利郡足利荘)の境目の城砦を、越後衆の計見出雲守(実名は堯元か。譜代衆)・吉江中務丞忠景(旗本衆)と共に守る足利衆の稲垣新三郎の忠功を称えて感状を与えた。27日以前には退陣し、年越しのために上野国勢多郡の三夜沢神社一帯に宿営した。


 【6】(27) 越後国(山内)上杉輝虎(永禄4年12月中に将軍足利義輝との間で使者の往来があり、将軍から偏諱を授与されて26日までに輝虎と名乗る)、永禄5年2月9日から同17日に掛けて、相州北条方の上野国館林城を攻め降す。

 上野国勢多郡の三夜沢小屋で年明けを迎えると、永禄5年2月9日、相州北条陣営に属する上野国衆の赤井文六が拠る上野国邑楽郡佐貫荘の館林城を攻囲する。やがて赤井文六が、関東味方中の横瀬成繁(上野国新田郡新田荘金山城主)らを通じて和睦を懇願してきたことから、使者を立てて交渉に臨むと、17日に赤井文六は城を明け渡したので、28日までに、関東味方中の足利長尾景長(この頃、輝虎から偏諱を授与されて実名を当長から景長に改める。下野国足利郡足利荘足利城主)に館林城と館林領を預けた。この間に下総国葛飾郡の古河城から盟友の関白近衛前久(これより前に実名を前嗣から前久に改めた)と養父の山内上杉憲政(号光徹)を引き取った。


 【7】(28) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄5年2月下旬から同年3月4日の間、下野国唐沢山城を再び攻める。

 永禄5年2月下旬、相州北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱が拠る下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に再度攻め寄せるも、甲州武田軍が越府に侵攻するとの情報を得たことから、3月4日には撤収し、関白近衛前久と山内上杉憲政(号光徹)を伴って帰国の途に就いた。この際、譜代衆の北条丹波守高広を、上野国群馬郡の厩橋城の城代として、前厩橋城代の河田豊前守長親(妻は北条高広の三女という)を、上野国利根郡沼田荘の沼田城の城代として配した。


 【8】(29) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄5年7月中、越中国の中部で神保長職と戦う。

 越中国の東西に分立する椎名康胤(越中国味方中。越中国新川郡金山(松倉)城主)と神保長職甲州武田家と提携している。越中国新川郡富山城主)が、永禄3年に続いて再び抗争を始めたことから、椎名康胤を救援するため、永禄5年6月下旬に越中国へ出陣し、7月3日に神保方土肥主税助(もとは椎名氏に従属していたが、主家と対立して本領を失い、神保氏の重臣である寺嶋三郎職定の援助で生活していた)を討ち取るなどして、神保軍を打ち破って状況を一変させると、7月中に帰陣した。


 【9】(30) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄5年10月5日、越中国金屋村で神保長職と戦う。

 永禄5年9月に入り、この7月に隣国越中の争乱を鎮めて、中部に追いやったはずの神保長職が富山に再進出し、9月5日の一戦で椎名方の神前孫五郎・神保民部大輔(神保長職から離反した一族の者)・土肥次郎九郎(7月の戦いで神保方として戦死した土肥主税助の長男)を初めとする多数の味方中が戦死したとの連絡を受け、再び越中国に出陣し、10月5日に神保軍と婦負郡の金屋村で一戦した。


 【10】(31) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄5年10月中旬、越中国増山城を攻め降す。

 永禄5年10月中旬、敵方の諸城を降し、神保長職が逃げ込んだ越中国砺波郡の増山城に攻め寄せ、外郭を焼き尽くして裸城にすると、神保長職が能州畠山義綱を頼んで和睦を懇願してきたことから、このあと関東遠征が控えているため、和睦を受け入れて16日に帰国の途に就いた。


 【11】(32) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年正月7日、相州北条方の武蔵国深谷城を攻める。

 相州北条・甲州武田連合軍に攻囲されている武蔵国松山城救援のため、永禄5年11月下旬に深雪の踏み越えて関東へ急ぐと、永禄6年正月7日、関東味方中の参陣を待つ間の軍事行動として、相州北条陣営に属する武蔵国衆の深谷上杉憲盛が拠る武蔵国幡羅郡の深谷城に攻め寄せて外縁部を焼き払った。


 【12】(33) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年正月8日、甲州武田方の上野国高山領と同小幡領を荒らし回る。

 永禄6年正月8日、甲州武田家の勢力圏内である上野国緑野郡の高山領と同じく甘楽郡の小幡領を蹂躙した。こうしたなか、武蔵国松山城の状況が切迫しているとの知らせにより、当初の予定を変更して武蔵国埼玉郡の岩付城に立ち寄ることなく松山口へ直行する決意を固めるも、参陣を呼び掛けた関東味方中が到着しないので、一旦、上野国邑楽郡佐貫荘の館林城に後退した。


 【13】(34) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年2月中、相州北条・甲州武田連合軍と駆け引きする。

 永禄6年2月4日、武蔵国比企郡の松山城に程近い足立郡の石戸の地に布陣すると、房州里見正五(岱叟院。義堯)・同義弘父子を初めとする関東味方中も参陣してきたので、相・甲両軍に攻めかかる態勢を整えていたところ、援軍の到着を知らない松山城衆(岩付太田資正(武蔵国埼玉郡岩付城主)と、その同名・同心・被官集団を中核とする)が、相州北条氏康と甲州武田信玄の計略に乗せられて城を明け渡してしまったことから、城衆を収容した上で両敵軍と対峙した。その後、日々軍勢を繰り出しても相・甲両軍は陣城に籠ったままなので、11日に岩付城へ後退して利根川端に布陣すると、日々武略を駆使して敵軍を誘い出そうとしたが効果なく、下旬に至り、危険を顧みずに難所を越えて敵陣へ攻めかかろうとしたところ、これを察知した相・甲両軍は夜陰に紛れて退散してしまい、興亡の一戦を遂げられなかった。


 【14】(35) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年3月上旬から同中旬に掛けて、相州北条方の武蔵国埼西城を攻め降す。

 永禄6年3月上旬、相州北条・甲州武田連合軍と決戦に至らず、帰国する房州里見軍と別れ、下野国の経略に向かう道すがら、態度の定まらない武蔵国衆の埼西小田助三郎(武蔵国衆・成田長泰の弟)が拠る武蔵国埼西郡の埼西城を攻めようとしたところ、要害は四方を深い湿地に囲まれた難所であるとして、年配者たちは反対したが、ただでさえ相・甲両軍と一戦を遂げられなかったので口惜しい思いをしているにもかかわらず、このまま空しく武州を後にしたのでは闘志を失うとして、若者たちが攻撃を強く主張したことから、埼西城を総力を挙げて強攻し、中旬までに外郭と副郭を制圧して裸城にすると、埼西小田助三郎が、関東味方中の岩付太田資正を通じて降伏を申し入れてきたので、これを受け入れた。すると、埼西小田助三郎の兄である成田長泰(武蔵国埼西郡忍城主)と下野国衆の藤岡茂呂因幡守(下野国都賀郡藤岡城主)が帰属を申し入れてきたので、これも受け入れた。


 【15】(36) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年3月中旬、相州北条方の下野国祇園城の支城である網戸城を攻め落とす。

 永禄6年3月中旬、相州北条陣営に転じた下野国衆の小山秀綱の領内に攻め入り、下旬までに、まず下野国寒川郡の網戸城を攻め落とすと、宿将の北条丹後守高広(譜代衆。上野国群馬郡厩橋城代)に保全させた。


 【16】(37) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年3月中旬から同下旬に掛けて、相州北条方の下野国祇園城を攻め降す。

 下野国網戸城を攻略した翌日から小山秀綱の拠る下野国都賀郡小山荘の祇園城を攻め立てて、三日ほどで外郭と副郭を制圧して裸城にすると、いよいよ追い詰められた小山秀綱が出家の身なりで降伏を申し入れてきたことから、その息子、小山一族・家中から人質を差し出す条件で受諾した。また小山方として参戦した下総国衆の結城晴朝(小山秀綱の弟。下総国結城郡結城城主)についても容赦した。


 【17】(38) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年3月下旬から同年4月上旬の間、相州北条方の下野国唐沢山城を攻める。

 ここで一先ず凱旋するべきとの声が挙がるなか、関東味方中の佐竹義昭(常陸国衆。常陸国久慈郡太田城主)と宇都宮広綱(下野国衆。下野国河内郡宇都宮城主)と相談して、予定通り相州北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱に制裁を加えるため、下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城を攻め立てると、佐野昌綱が佐竹義昭と宇都宮広綱を頼って降伏を申し入れてきたが、佐野昌綱は、先年に息子を人質に差し出しておきながら、若輩ゆえに家中の専横に任せて背信を繰り返すので、見せしめとして討ち果たすべきかどうか、その処遇を考えあぐねていたところ、佐野昌綱とは同族で、やはり相州北条陣営に属する上野国衆の桐生佐野大炊助(実名は直綱か。上野国山田郡桐生城主)が出頭して帰参したので、佐竹義重と宇都宮広綱を仲介とする佐野昌綱との交渉も長引きそうなこともあり、このたびは佐野昌綱の処分を保留して陣払いし、4月6日に上野国群馬郡の厩橋城、同8日に上野国利根郡沼田荘の沼田城を経て帰国の途に就いた。


 【18】(39) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄6年閏12月中旬、下野国足利・飯塚の地に布陣する甲州武田・相州北条連合軍と駆け引きする。

 永禄6年11月下旬、越府に留守将として新発田尾張守忠敦(外様衆)、留守将の横目として金津新右兵衛尉(実名は弘雅か)・本田右近允(実名は長定か)・吉江織部佑景資・高梨修理亮・小中大蔵丞(実名は光清か)・吉江民部少輔(実名は景淳か)・岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)・吉江中務丞忠景(いずれも旗本衆)を残し、関東味方中との盟約に従って出陣するも、深雪のために進軍が滞ってしまい、ようやく閏12月上旬に上野国利根郡沼田荘の沼田城に着陣すると、相州北条・甲州武田連合軍と興亡の一戦を遂げるため、関東味方中に参陣を呼び掛けるも、最も待ち望んでいる房州里見軍が一向に着陣しないことから、仕方なく現存の軍勢で相・甲両軍と決戦する意思を固め、19日、上野国群馬郡の厩橋城に入り、翌朝に下野国足利郡足利荘の足利・飯塚の敵陣に攻めかかることを期したが、この春に続き、これを察知した敵軍は夜陰に紛れて退散しまい、またしても決戦の機会を失った。

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