越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【47・下】

2013-04-27 23:32:24 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)3月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

17日、関東味方中の多賀谷入道祥聯(政経。常陸国衆。常陸国下妻城主)が、「佐貫 御館(房州里見義弘)」の宿老中に宛てて書信を発し、先頃に彼方(房州里見義弘の使僧)を越府(輝虎)へ指し越されるにあたり、彼方(房州里見義弘の使僧)をもって御状を寄越してくれたので、ひたすら過分な御心遣いであること、当口の路次を安全を確保し、支障のない通行が可能なので、このたび上総国佐貫城(天羽郡)へ帰参されること、彼方から越国の様子をつぶさに聞かれるべきこと、佐竹(義重。常陸国衆。常陸国太田城主)は、近日中に常陸国小田領(筑波郡)へ御出馬するため、準備に御奮励の最中であること、言うまでもなく、(佐竹)と御相談された上で御出張を果たされるのが、吾等(多賀谷入道祥聯)に於いても適当であると思われること、簗中父子(簗田入道道忠・同八郎持助。下総国関宿城主)が使僧をもって申し達せられたこと、この口の様子を彼方(簗田父子の使僧)が申し達せられること、つまりは、今こそ適切な御判断に極まれること、詳細は御使者が申し達せられるので、この書面を略したこと、よって、これらを披露してくれるように伝えている。

18日、相州北条「氏康(相模守)」が、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に滞在中の「天用院・善得寺」に宛てて返書を発し、14日の注進状が、今18日に到着したので、つぶさに披読したこと、彼の書中によれば、(輝虎は)越・相和融に異論はないとの意趣であり、本望満足であること、すぐにも駿河国薩埵山陣(庵原郡)へ申し越すこと、きっと松石(松本景繁)が沼田に帰荘するであろうこと、遠山左衛門(左衛門尉康光。北条氏康の側近)・垪和刑部(刑部丞康忠。北条氏政の側近)も上野国金山城(新田郡新田荘)に参着するであろうこと、この上は彼の(輝虎)御出馬が一日も早く挙行されるように、遠左(遠山康光)と相談し、(沼田)三人衆に申されるべきこと、(北条氏康・氏政の)誓詞の御返事を受け取り次第、たとえ夜中であろうとも遠左(遠山康光)が早馬を催して複写を指し越すべきこと、いよいよ入魂を確かなものとするため、相応の血判については、遠左(遠山康光)に申し含めること、(沼田)三人衆と相談し、その意見により、両僧が証人として立ち会うために逗留を続けるべきこと、帰荘後の松石(松本景繁)から越陣の様子を聞き届けて、改めて申し越すべきこと、これらを懇ろに伝えている。

19日、関東味方中の太田美濃入道道誉(三楽斎。資正。常陸国片野城主)の一族である太田下野守資叶が、房州里見家の宿老衆である小田喜「正木弥九郎殿(憲時。下総国小田喜城主)」に宛てて書信を発し、先日は恐れながら御懇書が寄せられたので、御返報を寄せたこと、参着したかどうか気になっていること、当表に立ち寄らせてくれた越府から佐貫に戻る途中の使者を、早々に帰さなければならないところ、下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)や常陸国下妻城(真壁郡)を経由し、このほど漸く当地を罷り立ったこと、越後奥郡の本庄(繁長)については、ほぼ決着がついたようであり、先ずはめでたいこと、当方(佐竹氏)は困難な状況にあり、しきりに御当方(房州里見家)へ懇望したいとの仰せ越されていること、何分にも旦那父子(太田入道道誉・梶原源太政景)が本意を遂げられるように、御奮励してもらいたいこと、再び(房州里見義弘)が御出馬されて、下総国小金(葛飾郡風早荘)辺りに御馬を立ててもらえれば、旦那(太田入道道誉)も関宿へ罷り移り、御陣場へと参上して御協議に臨むこと、(旦那父子が)武蔵国岩付城(埼玉郡)に復帰を遂げるためには、(房州里見家の)御力添えが不可欠であること、詳細については、彼の御使者(房州里見義弘の使僧)に口述を頼んだので、この書面を略したこと、よくよく御理解してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。

21日、相州北条「相模守氏康」が、将軍足利義昭から将軍家再興の成就を告げる御内書が届いたことを受け、奉公衆の「細川兵部太輔殿(藤孝)」に宛てて返書(進上書)を発し、御内書を拝受したこと、御入洛の件について、このまま上使の森坊が奥州へ下り、奥州諸士にも御内書を下付されるそうであること、これにより、森坊に氏政の書簡を託し、上意の意趣を奥州諸士へ申し遣わすこと、詳細については、森坊が申し上げるので、御披露に預かりたいこと、これらを懇ろに伝えている。
同日、(北条「氏康」)、「細川兵部太輔殿 御宿所」に宛てて別紙の書信(謹上書)を発し、御入洛の祝儀のため、内々に代官を差し上せる覚悟であったところ、駿・甲・相三ヶ国の間で不慮の争乱が起こり、去る正月27日以来、氏政は駿州興津山(薩埵山)へ打ち出し、小河一瀬を挟んで甲(甲州武田軍)と対峙し、多忙を極めているために準備が整わなかったこと、決して無沙汰をしているわけではないところを、御取り成してもらいたいこと、輝虎と氏政の和融が落着するのも間近なので、この夏中には必ず代官を上洛させて御祝いを申し上げること、この趣旨を御披露に預かりたいこと、これらを懇ろに伝えている。

26日、出羽国の味方中である土佐林「杖林斎禅棟(出羽国衆・大宝寺氏の重臣。出羽国藤林城主)」から、年寄衆の「柿崎和泉守殿(景家。譜代衆)・山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)・直江大和守殿(景綱。同前)」に宛てて返書が発せられ、確かな御音毫が寄せられたので、ひたすら本望であること、このほど伊達(羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達輝宗)と会津(奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名止々斎)の御仲介をもって、本弥(本庄弥次郎繁長)を御赦免の上、息子の千代丸を出仕させること、吾等(土佐林禅棟)に於いても大きな喜びであること、このように他方面でも思し召すままに成果を得られたそうであり、これまた御めでたく思われること、越後国藤懸城(瀬波郡小泉荘府屋)について、詳細は進隼(進藤家清。旗本衆)が申し越されるので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えられている。

同日、関東味方中の房州里見「義弘(左馬頭)」が、三楽斎「道誉(太田資正)・梶原源太殿(政景)」父子の許に条書を託した使者を立て、一、駿・甲両国の抗争を見極めること、この補足として、(今川)氏真に(北条)氏康父子が同心したこと、一、いよいよ輝虎が関東へ出陣してくること、一、相州(相州北条家)が房・相一和を打診してきたこと、これらの三ヶ条について説明している。

同日、相州北条「氏康」が、他国衆の「阿久沢左馬助殿(上野国衆。上野国深沢城主)」に宛てて書信を発し、越・相和融について、使者の送迎に尽力してくれたので、ひときわ喜ばしいこと、なおいっそう精励されるべきこと、これらを懇ろに伝えている。

27日、養父の山内上杉光徹(五郎憲政・憲当。号成悦・光哲)が、関東味方中の「梶原源太殿(政景)・太田美濃守殿(三楽斎道誉。資正)」の許に条書(輝虎の「地帝妙」印判が押されている。但し、上部の獅子の図柄が取り外されている)を託した使者を立て、一、武田信玄と(北条)氏政の対陣により、輝虎は越・相一和を考えざるを得ないと申されていること、一、先例からすれば、きっと和談の打診は謀略であり、輝虎もそれを覚悟した上で交渉に臨んでいるのではないかと思われること、一、北条氏政父子が滅亡すれば、輝虎の滅亡も時間の問題であること、一、越・相一和を成就させなければならない事情を弁えた上で、佐竹(義重)に意見してほしいこと、一、信玄は親子の情愛を知らないので、骨肉の間柄にある駿州を我がものとするため、同盟を一方的に破棄したこと、一、輝虎の呼び掛けに応答のない関東衆は、相越無事に反対の立場と認識するほかないであろうこと、この補足として、(佐竹)義重に宛てた条書を付したので適宜に取り成してほしいこと、一、輝虎が越後奥郡の戦陣から戻るのは間もなくであり、諸軍に関東出陣の準備を申し付けるはずなので、安心してほしいこと、これらの条々について説明している。

同日、上野国沼田城の城衆である「松石景繁(松本石見守。大身の旗本衆)・河伯重親(河田伯耆守。同前)・上中家成(上野中務丞。譜代衆)」が、取次の「山吉殿(豊守)参御陣中」に宛てて書信を発し、このたび敢えて申し達すること、松石(松本景繁)が帰宅したこと、(輝虎の)御諚の通り、両僧(天用院・善得寺)へ申し渡したので、両僧は昨日26日に越後へ向かったこと、立て続けに御父子(相州北条氏康・同氏政)からの書簡が届いたので、(輝虎へ)まとめて差し上せたこと、新田(上野国金山城)に到着した遠左(遠山康光)・垪刑(垪和康忠)が、去る16日以来、盛んに会談を我等(沼田三人衆)に申し入れてきており、使者の夏昌(小川夏昌斎)と日限を来月7・8日頃に定めたので、夏昌は帰って行ったこと、各々(沼田三人衆)は、今般の仕儀に複雑な思いを抱いていながらも、越・相一和を決断された強い御意向を踏まえ、由信(由良成繁)と定めた日限に罷り出て、決然と会談に臨むこと、会談の結果は追って御報告するので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、由信(由良成繁)からの情報によれば、上野国倉賀野城(群馬郡)に在陣していた甲州衆は退散したそうであり、これは倉賀野寄居(甲州武田方の倉賀野城に対する越後国上杉方の城砦)からも同様の情報が寄せられていることと、彼の方面については、伯耆守(河田重親)が抜かりなく処置を講じており、異変があれば急報することを伝えている。

28日、土佐林禅棟の一族である土佐林掃部助時助から、取次の「直江太和守殿(景綱)参御陣所」に宛てて書信が発せられ、越後国藤懸城の自落について、上様(輝虎)から我等(土佐林時助)のような陪臣まで御直書に預かり、謹んで拝読したこと、まさに恐悦するばかりであること、回覧に供した家督(大宝寺新九郎義増)に於いても、ひたすら恐悦されていること、取り分け同心の者共にまで、貴意(直江景綱)から過分な配慮を示されたので、これまた恐悦の極みであること、この喜びをしかるべく御披露に預かりたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

晦日、由良「信濃守成繁」から、取次の「山孫(山吉孫次郎豊守)参」に宛てて書信が発せられ、敢えて申し上げること、このたび南方(相州北条家)から和談を申し入れられたところ、直和(直江大和守景綱)と御談合された上で、(輝虎へ)御取り成しされたそうであり、まさしく適切な対応を尽くされたこと、氏康父子・新太郎方(藤田氏邦)も恐悦しており、愚(由良成繁)に於いても祝着千万であること、速やかな信州への御越山が挙行されるのは、ひとえに御尽力次第であり、万端の御取り成しを頼み入ること、これらを懇ろに伝えられている。

同日、上野国金山城に滞在中の遠山左衛門尉康光から、沼田衆の「発智右馬允殿(長芳)御宿所」に宛てて初信が発せられ、これまで申し交わしていなかったところ、このたび書信をもって申し述べること、越府へ氏康父子が一儀を申し入れたところ、その表(沼田)に於いて格別に御奔走してくれたそうであり、本来であれば早々に拙者(遠山康光)をもって挨拶に参るべきところ、松石(松本景繁)が御帰荘していないため、当地(金山)で待機を余儀なくされていること、必ず近日中に参ること、氏康からの一荷一種を贈られること、氏康の直書は拙夫(遠山康光)が持参すること、よって、これらを使者の上式(上野式部少輔)・志津野(一左衛門尉。藤田氏邦の被官)が詳述することを伝えられている。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、23日、漸く美濃国岐阜城(厚見郡)に到着した使者の「市川十郎右衛門尉殿(直参衆)」に対して書信を送り、一、信・越国境は融雪の時期を迎えて人馬の往来が自由になったとの報告が寄せられたので、こうなると輝虎が信州へ出勢してくるのは確実であり、抜き差しならない状況に陥るため、駿河国薩埵山(相州北条陣)へ攻めかけて興亡の一戦を遂げるつもりであるが、輝虎の信州出勢を押さえるため、将軍から甲・越和融の下知を引き出し、(織田)信長の仲介を得たいので、岐阜から信濃国長沼城(水内郡)へ特使の急派を信長に催促するべきこと、一、(徳川)家康は一途に信長の意見に従う人物であり、互いに協力して今川氏真を没落させたゆえ、家康の遠州一国支配に異議を唱えるつもりはないが、信長による掛川(今川氏真)と岡崎(徳川家康)の和融の調停については得心がいかないため、信長の料簡を聞き出すべきこと、一、この味方のいない苦境のなかで、信長に見捨てられれば信玄の滅亡は必至であり、こうした現況をよく弁え、信長の理解を得られるように言葉を尽くすべきこと、これらの三ヶ条を示し、とにかく、その表に於ける対応に疎隔があってはならないことを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 690号 北条氏康書状、691号 土佐林禅棟書状(写)、692号 河田重親等三名連署状、693号 土佐林時助書状、694号 由良成繁書状、695号 遠山康光書状(写) 『戦国遺文 房総編 第二巻』 1324号 多賀谷祥聯書状写、1325号 太田資叶書状写、1326号 里見義弘覚書写 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1182号 北条氏邦書状写、1185号 北条氏康書状、1186号 北条氏康書状写、1192号 北条氏康書状、1193・1194号 北条氏政書状写、1196号 可直斎長純書状写 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1379号 武田信玄書状写

◆ (永禄12年)3月27日付上杉輝虎朱印状は、新井浩文氏の論集である『戦国史研究叢書8 関東の戦国期領主と流通 ― 岩付・幸手・関宿 ―』(岩田書院)の「第一部 岩付太田氏 第五章 岩付太田氏関係文書とその伝来過程」に於ける史料紹介から引用した。
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【47・上】

2013-04-14 16:01:15 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄12年(1569)3月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼) 【40歳】

引き続き越後国村上城(瀬波(岩船)郡小泉荘)の攻囲を続けるなか、朔日、(上杉「旱虎」)、越後奥郡国衆の「新発田尾張守殿(忠敦。越後国新発田城主)」に自筆の書簡を送り届け、取り急ぎ申し遣わすこと、先月の初め時分、陣衆の各々は労兵ゆえか、村上要害へ攻勢をかけた際、まるで戦いに身が入らず、輝虎に任せっきりであるばかりか、指示通りの行動も取れないので、よもやの事態に直面して慄然としたこと、若しも他国に付け込まれて凶事を招きでもすれば、何を言っても、旱虎が敗れ去ってしまえば、どれほど多くの言葉を費やして後悔したところで、もはや誰の耳にも届かないこと、そこで諸将に証人の提出を要求したところ、色部弥三郎(顕長。同平林城主)の家中は地下人まで証人を取り、そのほかでは黒川(四郎次郎平政。同黒川城主)も同様に、安田(蒲原郡白川荘の大見安田氏。同安田城主)は重臣の神子田を、わざわざ他所から呼び寄せてまで、しっかりと差し出す気遣いぶりであること、世間にはびこる叛意のほど、旧冬に誓詞を取り交わして確認した通り、其方(新発田忠敦)については疑う余地もないが、この先どのような変転があるかもしれないとの思いから、証人を取る決断に至ったこと、国中に於いて、其方(新発田忠敦)だけが証人を差し出していないので、このように説き勧めていること、決して其方(新発田忠敦)が叛意や悪意を抱いていると考えて、このように説いているわけではないこと、爰許の地形は、其方(新発田忠敦)も深く存じているように、三ヶ津に分け隔てた阿賀野川・信濃川・荒川のような徒歩では渡れない大河を始め、数々の難所を越えて、漸く当地に到着したわけであり、若しも更なる苦難に見舞われ、たとえ一頭でも二頭でも、(国衆が)陣を払ってしまえば、いよいよ当陣の崩壊が現実味を帯びてくること、(国衆の)協力を得られなければ、滅亡してしまう愚(輝虎)の立場をしっかりと弁え、折に触れて懇意を示し、交誼の維持に努めていくつもりなので、これに即して証人の提出に応じてほしいこと、今頃になってこのような要求をした過ちは、八幡・摩利支天・愛宕・日本中の大小神祇に加え、旧冬に交わした誓詞の罰を被って然るべきこと、今日に至るまで其方(新発田忠敦)に不審な様子は微塵もないが、様々な有事に備えるため、是非にも証人を提出してほしいこと、よって、これらの詳細については、孫次郎(鮎川盛長。越後国大葉沢城主)・源二郎(新発田長敦。忠敦の嫡男)が見聞きしており、いささかも愚(輝虎)の存分に偽りはないことを伝えた。更に追伸として、其方(新発田忠敦)も五百から一千ほどの人数を従える身であり、旱虎が長年抱いてきた、家中に証人を差し出させて保障を得るといった対応は、当然ながら理解できると思われること、国中の諸士の安心につながるため、これよりは一律に証人を徴収するので、諸人に根気よく説明を施すつもりであること、これまで本庄弥次(繁長)には数々の懇意を示してきたにも係わらず、このような大事を引き起こしたので、あまねく証人を徴集するに至ったのも仕方がない事情であると思ってほしいこと、よって、其方(新発田忠敦)との交誼を疎かにしないところを誓詞で表すことを伝えた。

同日、駿河国薩埵山(庵原郡)に在陣中の相州北条「氏政(左京大夫)」が、他国衆の「由良信濃守殿(由良成繁。上野国金山城主)」に宛てて返書を発し、26日付の一札が昨晦日に到来したこと、当府(相州北条氏康・氏政父子)からの誓詞を松本(石見守景繁。大身の旗本衆。上野国沼田城将)が受け取り、輝虎の許へ向かったであろうか、取り分け誓詞を受け取り次第、(輝虎が)即時の出張(信州出陣)を約諾してくれたことは、何といっても其方(由良成繁)の奔走によるものであり、いよいよ遺漏なく出陣が実現するように力を尽くされるべきこと、繰り返し知らせているように、当軍は優勢を誇っており、先月26日に興津河原で新太郎(藤田氏邦。氏康の四男。武蔵国鉢形城主)の伏兵が二十余名の敵兵を討ち取り、同28日には本隊が山手に於いて、信玄(甲州武田信玄)の縁者という長延寺(実了師慶)の弟である本郷八郎左衛門(尉)を始めとして十余名の敵兵をを討ち取るなど、今日に至るまで連戦連勝を遂げていること、詳細はその地(上野国金山城)から来た人衆が見聞したので、逐一を報告するであろうこと、信州衆(甲州武田軍)に動きが見られるそうであり、その状況は理解したこと、いずれにしても、その口(上野国)の事態であり、しかるべく対応するように、貴所(由良成繁)が御差配してほしいこと、これらを懇ろに伝えている。
3日、相州北条「氏康(相模守)」から書信(「上杉弾正少弼殿」)が発せられ、先だって、宝印を翻し、使僧の天用院をもって申し届けたこと、薩埵陣の様子については、なおも小河を挟んで対陣を続けており、この好機を逃されずに信濃国飯山口(水内郡)への御出張を一日も急いでもらいたいこと、万が一にも氏政が敗北したならば、当家は計り知れない危機に直面するため、嘘偽りなく真実を申し入れたので、御同意願いたいこと、これらを懇ろに伝えている。
同日、相州北条「氏康」から、取次の「柿崎和泉守殿(景家。譜代衆)」、同じく「直江太和守殿(景綱。大身の旗本衆)」のそれぞれに宛てて書信が発せられ、先だって善徳寺茄首座(今川氏真の使僧)と天用院(相州北条氏康・同氏政父子の使僧)をもって申し届けたところ、両人は上野国沼田の地に押さえられ、松石(松本景繁)が越山してくれたそうであること、それ以来は音沙汰がないので不安に駆られており、久しく信頼を寄せて召し仕っている猿楽(勝田)八右衛門尉を差し上せること、駿河国薩埵山陣については、いよいよ緊迫の度を増し、2月26日と同28日の二度の競り合いで勝利を得たこと、二日で百余人を討ち取り、そのうちには長延寺(実了師慶)の弟である本郷八郎左衛門尉を始めとした旗頭が含まれていること、このように甲軍の動きを堅く封じたので、一日も早い信州への御出張を念願していること、そのため彼の者(猿楽八右衛門尉)をもって繰り返し申し届けること、よって、これらを彼の者が詳述することを伝えられている。
同日、相州北条「氏康」から、沼田在城衆の「松本石見守殿(景繁)・河田伯耆守殿(重親。大身の旗本衆)・上野中務少輔(丞)殿(家成。譜代衆)」に宛てて書信が発せられ、一、越・相の取り扱いについて、旧冬より源三(北条氏照)と新太郎(藤田氏邦)が一途に思い込んで、色々と懸命に取り組んでいること、愚老(北条氏康)が起用した新太郎(氏邦)は、由信(由良信濃守成繁)を仲介者に立てて順調に交渉を進めている一方、独自で交渉に臨んでいる源三(氏照)も奮励しており、見過ごし難いので、天用院をもって誓詞を進める際には、源三・新太郎の交渉機関を統合し、誓句に両名の副状を付すつもりでいたところ、それぞれの陣所から書簡が届いたのが2月13日であり、同10日の天用院の発足までに整わなかったので、このほど自分が預かっていた両判副状を進めること、一、今後については、このまま源三(氏照)・新太郎(氏邦)の両人とも交渉に携われるか、それとも一人のみに任されるのかは、とにもかくにも輝虎の御意向次第ではあるが、愚老の真意としては両名共に任せてもらえれば、この上ない喜びであり、いずれにしても、各々に首尾よく取り成してほしいこと、一、若しも源三(氏照)に一任された場合でも、変わらず由信方(由良成繁)に頼み入り、その手筋をもって申し入れること、よって、これらの条々に嘘偽りのないことを伝えられている。
同日、相州北条「氏康」が、「由良信濃守殿(成繁)」に宛てて書信を発し、漸く松本石見守(景繁)が沼田に帰城する時期を迎えるので、それに合わせて使者の勝田(猿楽)八右衛門尉を進め越すので、こちらの存意をつぶさに聞き届けられて、彼の者に御助言を加えてほしいこと、このたび彼の国(越後)が一和に納得される上は、西口(駿州)の勝負が決するまでに、一日も早く引き立てられるのは、其方(由良成繁)の手腕に掛かっていること、是非に係わらず、勝負が決したあとでは、これまでの苦労も無駄に終わること、あれほどまでに調えなければならないこと、今こそ励まれるべきこと、いささかも油断があってはならないこと、よって、これらを彼の者(勝田八右衛門尉)が詳述することを伝えている。
別紙の追伸として、越府(輝虎)から誓句の返答を松本(景繁)が沼田に持参したならば、輝虎が信州へ出張する以前、何はともあれ沼田衆は、上野国大戸・羽尾・岩櫃(何れも吾妻郡)の一帯へ手切れの軍事行動を催すべきであり、この趣旨を沼田三人衆へ申し届けるべきこと、西陣は、小河一瀬を挟んで勝負を争っているところであり、越府(越後国上杉軍)の御出張が遅れれば、(輝虎が)偉勲を逃す結果となること、先ず一日も早く沼田人数は、彼の地域を突破して信州境を脅かすべきであること、よって、其方(由良成繁)から、よくよく沼田三人衆へ説き勧めるべきことを伝えている。
更に条書にて、一、松石(松本景繁)の帰路を見計らい、使者として(勝田)八右衛門尉を進め越すこと、一、使僧の天用院をもって、宝印を翻した誓詞を越(越後)へ差し越すからには、疑心を持たないでほしいこと、すでに西陣の緊迫した様子を彼の国(輝虎)へ申し届けたところ、(勝田を)沼田に押し留められては、万事が手遅れになるので、(勝田)八右衛門尉を越陣へ向かわせるように、沼田衆へ掛け合われてほしいこと、一、彼の国(輝虎)の信濃国飯山筋への御戦陣を実現させるため、信州(由良成繁)から懇切丁寧に要請してほしいこと、一、西陣の当軍は勝利を重ねていること、一、信濃表の敵勢の動向が気掛かりであること、これらの条々について説明している。
4日、相州北条「氏政」が、「由良信濃守殿(成繁)」に宛てて書信を発し、輝虎から提示された越・相一和の必要条項については、使者の大沢下総守(政信ヵ。由良成繁の重臣)から説明を受け、十分に納得したこと、越・相一和にかける覚悟に揺るぎはないので、早々に落着するように、御尽力してほしいこと、詳細は下総守が口述するので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えている。
7日、相州北条「氏政」から書信(「上杉弾正少弼殿」)が発せられ、先頃に誓詞をもって、氏政の真意を申し届けたこと、必ず参着するであろうこと、これにより、改めて一翰に及ぶこと、いよいよ甲・相の対戦も大詰めを迎えており、一日も早く信州へ御出張を願いたいこと、そのため遠山左衛門尉(康光。北条氏康の側近。小田原衆)をもって申し入れること、よって、老父(氏康)が詳報することを伝えられている。
同日、相州北条「氏政」から、沼田在城衆の「上野中務少輔(丞)殿(家成)・河田伯耆守殿(重親)」に宛てて初信が発せられ、これまで申し交わしていなかったところ、書信をもって申し述べること、駿・甲・相三ヶ国は長年に亘って入魂の間柄であったにも係わらず、武田信玄がこれまで取り交わした数枚の誓詞の趣旨を反故にし、いきなり駿州へ攻め入ったこと、当方としては、やむを得ないので、(今川)氏真に一味して駿河国薩埵山へ出張し、今月下旬から甲・相は対陣を続けていること、このため、先頃に天用院と善得寺をもって、愚意の趣旨を越(越後)へ申し届けたこと、越が信州へ御出張されるのは、今を於いて他にないので、遠山左衛門尉(康光)をもって申し入れるので、各々に御奮励してほしいこと、これらを懇ろに伝えられている。更に追伸として、松石(松本景繁)は越府へ打ち越されたそうであるから、一翰に及ばなかったことを伝えられている。
9日、総州在陣中の北条「氏照(氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)」から、取次の「直江太和守殿(景綱。大身の旗本衆)参」に宛てた書信が発せられ、再び使僧に及んだこと、駿・甲・相三ヶ国の間で不慮に争いが起こったこと、これにより、相・越一味について、続けざまに申し届けたところ、このほど返書が寄せられたので、まさに本望であること、取り分け沼田在城衆の河伯(河田重親)・松石(松本景繁)から、三ヶ条を立てられて申し越されたこと、すぐさま披露に及び、氏政父子も十分に納得したこと、詳細は両人(松本景繁・河田重親)両人まで申し届けたので、きっと伝達されるであろうこと、すでに20日以前、天用院をもって氏政の誓詞を進め置かれる上は、当方への御疑心は晴れたと思われるので、速やかに御一味を調え、一刻も早い信州へ向かって御出張されるように御奮励してほしいこと、つまりは貴辺(直江景綱)の御尽力に掛かっていること、詳細は使僧が口述するので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えられている。
10日、相州北条氏康の側近である「遠左康光(遠山左衛門尉康光)」が、沼田在城衆と会談するために上野国金山城(新田郡新田荘)へ向けての出立を控えるなか、由良「信濃守殿(成繁)御宿所」に宛てて書信を発し、このほど沼田両所(河田重親・上野家成)へ(氏政が)御直札をもって仰せ届けられること、以前に松石(松本景繁)・河伯(河田重親)・上中(上野家成)から拙者(遠山康光)へ御書中が寄せられたので、本望であったこと、それ以後は申し交わしていなかったこと、幸いこのたび両所(河田・上野)へ一札をもって申し述べること、松石(松本景繁)は越山したと聞き届けており、改めて申し入れるつもりであること、何れも十分に御理解された上で、(沼田在城衆へ)仰せ届けてもらいたいこと、詳細は金山着城後に面述するので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えている。

同日、関東味方中の太田「三楽斎道誉(資正。常陸国片野城主)」が、房州里見家の宿老である小田喜「正木弥九郎殿(憲時。上総国小田喜城主)」に宛てて書信を発し、越府(越後国村上陣)へ派遣された使者が早くも帰宅したこと、拙使の持ち帰った(輝虎の)御直書を回覧するが、今回は注目するべき内容がなかったこと、(房州里見軍の)諸方に於ける軍事作戦が支障なく見事に展開されているようであり、当然ながらこの機に乗じて躍進を遂げられるべきこと、佐竹(義重)は当月中に下総国結城(結城郡)・下野国小山(都賀郡)の領域に出陣すること、諸々伝えたい事柄はあるが、総州への道筋の情勢が緊迫しており、詳細を省いたので、何とぞ御理解してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。

13日、相州北条「氏康」から、沼田在城衆の「小中大蔵丞殿(光清ヵ。大身の旗本衆)」に宛てて書信が発せられ、越・相和融を繰り返し打診したところ、御同意してくれたそうであり、本望極まりないこと、取り分け天用院へ御入魂に対されているそうであり、めでたく喜ばしいこと、このほど遠山左衛門尉(康光)をもって申し届けるので、ますます御便宜を図ってほしいこと、一荷一種(酒肴)を進ずること、よって、これらを左衛門尉(遠山康光)が詳報することを伝えられている。

15日、(朱印)、関東味方中の「梶原源太殿(政景。太田美濃入道道誉の世子)」に宛てた覚書(印文「梅」)を使者に託し、一、関東の無事を迎えるため、提示した条項を承諾してほしいこと、一、其方(梶原政景)の処遇についても、提示した通りに承諾してほしいこと、この補足として、父子(太田入道道誉・梶原政景)の処遇のこと、一、越後村上陣の状況のこと、一、佐(佐竹義重)と会(蘆名止々斎)の和睦のこと、一、駿州に於ける甲・相両軍の対戦状況のこと、この補足として、(甲州武田方の)上野国倉賀野城(群馬郡)と信濃奥郡の諸要害のこと、一、上野国沼田城域の防備態勢のこと、この補足として、棚下(勢多郡)・網代(不詳)のこと、一、留守中の防備態勢について、一、各所に施す計策のこと、一、使者・飛脚の派遣計画のこと、これらの条々について説明した。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、10日、「岐阜(濃(尾)州織田信長)江」に対して条目(朱印「晴信」)を送り、一、越・甲和与について、御内書の趣旨を、すぐさま御請け及ぶこと、一、取り分け信長の御意見に従うので、信玄分国中がおびやかされないように、御取り成しを得たいこと、一、関東についてのこと、これらの条々について説明している。
13日、下総国衆の「簗田中務大輔殿(洗心斎道忠。晴助。下総国関宿城主)に対して初信を送り、これまで申し交わしていなかったところ、書信をもって申し述べること、氏政と信玄の間は交誼を深かったにも係わらず、図らずも敵対するところとなり、今日明日中にも決戦を迎える状況なので、貴所(簗田入道道忠)にとっては氏政の圧迫から解放される絶好の機会であり、味方中と協力された上で、武州へ御出勢されるべきこと、今後は無二の交誼を結ぶ覚悟であり、御同意してもらえれば本望であること、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 674号 上杉輝虎書状(写)、675号 北条氏康書状、676・677・678・679・680号 北条氏康書状(写)、681号 北条氏康ヵ条書(写)、682号 北条氏政書状(写)、685・686号 北条氏政書状、687号 北条氏照書状(写)、688号 遠山康光書状(写)、689号 北条氏康書状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1165号 北条氏政書状写 『戦国遺文 房総編 第二巻』 1320号 太田道誉書状写 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1376号 武田信玄条目、1377号 武田信玄書状

◆ 『上越市史』674号文書の解釈については、山田邦明氏の論考である「上杉輝虎の人質要請」(『戦国史研究』43号)を参考にした。
◆ (永禄12年)3月15日付梶原源太(政景)宛上杉輝虎朱印状は、新井浩文氏の論集である『戦国史研究叢書8 関東の戦国期領主と流通 ― 岩付・幸手・関宿 ―』(岩田書院)の「第一部 岩付太田氏 第五章 岩付太田氏関係文書とその伝来過程」於ける史料紹介から引用した。
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