越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の略譜 【64】

2014-06-23 01:17:00 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)10月 上杉謙信(不識庵)  【41歳】

8日、三(遠)州徳川家康から、このたび派遣した使僧の玄正に起請文(「上杉殿」)が託され、先頃に権現堂(叶房光播)をもって、愚拙(徳川家康)の本心を示したところ、御同意してもらえたので、すこぶる満足していること、よって、一、家康は(武田)信玄と断交する意思を深く心に定めており、いささかも偽りのないこと、一、信長と輝虎(謙信)の間で厚誼が結ばれるように、力を尽くして後押しし、また、甲(武田)・尾(織田)の縁談を破棄されるように、努めて忠告すること、これらを固く誓言されている。
同日、徳川「家康」から、取次の「直江大和守殿(景綱。大身の旗本衆)」に宛てて初信が発せられ、このたび御使僧が到来したので、喜び勇んで返書を送ったこと、このほど輝虎から示された御内意については、いずれの条々も逐一納得できたので、ともかく河田豊前守(長親。大身の旗本衆。越中国魚津城代)にも伝達したこと、その河田豊前守の越中在国に伴う貴辺(直江景綱)への取次の交替にも満足しており、いよいよ両家の厚誼を確かなものとするために力の限り奔走してもらいたいこと、貴国から示された条々への返答を御使僧に詳説したので、きっと余す所なく伝達されるはずであること、よって、これらの詳細については再便を期することを伝えられている。
同日、徳川家康の使僧である「権現堂叶(光播)」から、「直江大和守殿(景綱)」に宛てて書信が発せられ、この秋に参上した折は、手厚くもてなしてもらったこと、このたび御使僧が到来されたので、当方は喜びに沸いていること、去秋に当方の宿老である酒井左衛門尉方(忠次。三河国吉田城主)と石川日向守方(家成。遠江国懸川城代)・同伯耆守(数正。家成の甥)をもって、当方の存念を丁寧に申し入れたところ、速やかに取り成してもらえたおかげで、滞りなく御屋形様(謙信)の承諾を得られたこと、いよいよ両家の厚誼を確かなものとするために、よくよく御貴所(直江景綱)に御取り成してもらいたいこと、ともかく(家康は)誓詞を紛れもなく進められたので、諸事については、来春中に愚僧が参上して詳説させてもらうこと、このほど其方(越後国上杉家)から拝領した御馬は遠路をものともしない逸物なので、愚僧にとっても名誉であるため、あちらこちらで言広めていること、よって、これらについての詳述は玄正に頼んだことを伝えられている。更に追伸として、返す返すも上様(謙信)にあらましを御披露してほしいことと、わざわざ手を尽くして御鷹を下されたので、ことのほか(家康も)満悦されており、酒井左衛門尉方(忠次)に下された御鷹も誉れ高いとの評判であることを伝えられている。
同日、酒井「忠次」から、取次の「村上源五殿(国清。一家衆に準じる信濃衆)御報」に宛てて返書が発せられ、仰せの通り、これまで音信を通じていなかったところ、このたび御書を頂戴して、満足しきりであること、輝虎様(謙信)と家康の間で格別な厚誼が結ばれたので、自分のような下輩の者まで歓喜していること、何事に於いても手抜かりなく対応するので、よしなに御取り成し願いたいこと、御直書ばかりか、わざわざ御鷹まで下さり、過分な御厚意に感謝してもしきれないこと、よって、また改めて念入りに連絡することを伝えられている。

10日、(上杉「謙信」)、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に着陣した先遣部隊と沼田城衆の「新発田右衛門大夫殿(綱成ヵ。外様衆)・本庄清七郎殿(綱秀ヵ。大身の旗本衆)・河田伯耆守殿(重親。沼田城衆。大身の旗本衆)・小中彦兵衛尉殿(清職ヵ。沼田城衆。旗本衆)・竹沢山城守(沼田城衆。大身の旗本衆。もとは下野国衆・佐野氏の家臣)・発智右馬允殿(長芳。沼田城衆。旗本衆)・栗林次郎左衛門尉殿へ(房頼。甥である上田長尾喜平次顕景の陣代)・板屋修理亮とのへ(光胤ヵ。大身の旗本衆・松本鶴松丸の陣代)に宛てて書信を発し、このたび(武田)信玄が利根川を越えたとの報告を受け、確かに了解したこと、先だって飛脚をもって指示した通り、本隊に合流する軍勢が、上・越国境の越後国河治(魚沼郡上田荘)の地に二、三手が続けざまに着陣してくるので、明日の内には国境を越えるつもりであること、沼田領の至る所から十五歳以下の少年と六十歳以上の老人を徴兵するべきこと、無禄の者は言うまでもないが、たとえ誰人に扶持されている者でも、このたび積極果敢に奮闘したならば、そのまま所属させるように努めるので、皆々によく言聞かせるべきこと、間もなく国境を越えるので、ともあれ安心してほしいこと、これらを今一度伝えた。
24日、(朱印)、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である北条丹後守高広(譜代衆)に宛てた条書(印文「摩利支天 月天子 勝軍地蔵」)を使者に託し、一、(武田)信玄の関東出陣に対応して、この20日に国境を越えて上州に進陣したところ、たちまち敵(甲州武田軍)は退散してしまったので、こうなれば相・越両軍が同陣して武田領に攻め込むのみであり、その連絡調整に当たるべきこと、一、奥信濃と越中の警戒に当たらせるため、景虎(謙信の養子である上杉三郎景虎。相州北条氏康の末子)を越府に留め置いていたが、漸く降雪期を迎えたゆえ、このほど関東に出陣させるので、先ずは愚老(謙信)の方から使者をもって相府に伝達すること、一、何はともあれ攻戦については、ひたむきに覚悟を決めていること、これらの条々を伝えた。また、風雪の厳しい時分の出陣になったので、寒風吹きすさぶ露営で筆を執る手が震えるため、やむを得ず花押の代わりに印判を捺したことへの理解を求めた。

これから間もなくして帰国の途に就いた。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、12日、下野国衆である「佐野殿(昌綱。下野国唐沢山城主)」に対して条書を託した使者を派遣し、一、このほど挙行した関東陣に於ける戦況のこと、この補足として、武蔵国藤田(榛沢郡。鉢形藤田氏領)・秩父(秩父郡。同前)・深谷(幡羅郡。深谷上杉氏領)領域の耕作を薙ぎ払ったこと、一、利根川の増水により、このたびは越河できず、はなはだ心残りであること、この補足として、上野国漆原(上野国群馬郡桃井郷)に陣取り、上野国厩橋領に火を放ったこと、一、越後衆が野州に出陣してきたならば、ためらわずにその方面へ進陣すること、この補足として、若し野州に進陣した場合の戦略のこと、これらの条々を伝えている。
27日、関東衆の「一色殿(房州里見氏に庇護されている足利藤政らに属する一色氏か)」に対して書信を送り、この20日以前にも連絡を入れたが、伝わっているかどうか心許ないこと、先頃に上野国沼田・厩橋の全域を荒らし回って壊滅させ、この19日から昨日の間には、武蔵国秩父郡に在陣して、彼の領域の人民を分断させるような作戦を実施したので、安心してほしいこと、この機会に相模国鎌倉(東郡)の地で参会し、今後の戦略について御意見を求めたいとは考えていたが、十分な戦果を得られたゆえ、ここは一旦帰陣し、来月中旬に出直して相府小田原を攻めるつもりなので、武蔵国江戸(豊島郡)辺りで面談したいこと、よって、これらを使者をもって詳述することを伝えている。

『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 942号 徳川家康起請文、943号 徳川家康書状、944号 権現堂光幡(播)書状、945号 酒井忠次書状、964号 上杉謙信書状(写)、948号 上杉輝虎(謙信)条書 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1743号 武田家朱印状写、1744号 武田信玄書状

◆ 『戦国遺文 武田氏編』等は1743・1744号文書を元亀2年に比定しているが、柴辻俊六氏の論集である『戦国期武田氏領の形成』(校倉書房)の「第一編 権力編成と地域支配 第七章 越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。
◆ 同じく1743文書の解釈については、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ―文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第二章 文書はこう読め 一 正確な読解 ―小さな不注意から文意が正反対に」を参考にした。


元亀元年(1570)11月 上杉謙信(不識庵)  【41歳】

24日、(上杉「謙信(花押a)」)、越後国坂戸城(魚沼郡上田荘)に戻っている上田衆の「栗林二郎左衛門とのへ(房頼ヵ)」に宛てて書信を発し、倉内(上野国沼田城)へ飛脚を立てるように頼んだところ、直ちに手配してくれたので、すこぶる満足していることと、信・越国境から伝わってきた情報によれば、(武田)信玄が再び上州に出陣してくるようなので、若しも沼田荘内に攻め込んできたら、速やかに来援するべきことを伝えた。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 950号 上杉謙信書状


元亀元年(1570)12月 上杉謙信(不識庵)  【41歳】

10日、越中国魚津城(新川郡)の城代である河田「長親(豊前守。大身の旗本衆)」が、被官の「山田平左衛門尉殿」に証状を与え、越後国古志郡内に於ける知行地の替地として、同頸城郡保倉北方の地を宛行っている。

13日、(上杉「謙信(花押a)」)、府城である春日山城(越後国頸城郡)の「御ほう(宝)前(看経所)」に「看経之次第」を納め、来春の2・3月に越中へ出陣するので、その留守中に越後・関東が何事もなく平穏であることと、越中を思うがまま一挙に平定することが達せられれば、一、阿弥陀如来の真言三百遍・念仏千二百篇・仁王経一巻、一、千手観音の真言千二百篇・仁王経二巻、一、摩利支天の真言千二百篇・摩利支天経二巻・仁王経一巻、一、日天子の真言七百遍・仁王経二巻、一、弁才天の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛宕勝軍地蔵の真言七百遍・仁王経二巻、一、十一面観音の真言七百遍・仁王経二巻、一、不動明王の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛染明王の真言七百遍・仁王経二巻を、明けて一年間、必ず毎日読誦することを誓った。

同日、河田「長親」が、伊勢神宮に宛てて証状を発し、越中国新川郡上条保飯坂村内の八十俵一斗五升、但し、引物は前々の通り、同保同村内の六十八俵、但し、引物は前々の通り、越中国新川郡小出保高寺村内の三俵、同佐美郷浦山本光院方の内屋敷、同藤保折立村の禅徳寺を寄進している。

18日、相州北条「氏康(相模守)」が、駿・相国境の相模国足柄城(西郡)に在番する「岡部和泉守殿(今川氏の旧臣)・大藤式部少輔(式部丞政信。諸足軽衆。相模国田原城主)に宛てて書信を発し、今18日付の(玉縄北条康成(玉縄北条左衛門大夫綱成の世子)からの)注進状が夕暮れ時に届いたこと、駿河に進攻してきた敵(甲州武田軍)は本陣を構えていた瀧之瀬(駿東郡鮎沢御厨須走の滝之沢)から阿多野原に進陣したので、(氏政は)善九郎・孫二郎兄弟(北条康成・康元)を小足柄(相模国西郡足柄峠)に上らせること、(氏政は)以前から両名を彼の地に留め置く考えであり、萱野の地より後方に下がらせるつもりはないらしいこと、但し、その時々で各人の報告内容が変わるので悩ましいが、善九郎(康成)の見解は筋が通っており、あのような高所に敵が執着するとは思えないので、とにかく五・六百名ほどを増派するのは適切であること、よって、現時点に於いて第一の防衛線は小足柄になったとの理解で臨むべきこと、これらを伝えるとともに、(康成らが)大将陣を構える場所は、峠には適当な陣場がないので、地蔵堂辺りが尤もと考えているが、こちらからは地形が見えないために推測するしかなく、しっかりと彼の本陣を見届けて、すぐさま報告するべきこと、また、必ず大手(氏政)へも速やかに使者を派遣して知らせるべきこと、駿河国深沢城(駿東郡)を後援したいので、坂の中腹に一千・二千名を配備できる地形があるかどうかを知りたいこと、これらを指示している。
24日、相州北条「氏康」が、「岡部和泉守殿」に宛てて書信を発し、敵陣の様子を頻繁に知らせるべきこと、現在の状況を今一度知らせてほしいこと、決して敵方に深沢城の後詰を悟られてはならないこと、よって、これらを城将の四郎(氏光。氏康の弟である左衛門佐氏堯の子で、父の死後、兄の六郎氏忠と共に氏康の養子となったらしい)に言い含めることを指示している。

21日、公銭衆の「飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟(いずれも旗本衆)」が、越後国頸城郡大貫村に於ける六貫文分の年貢を納めた「色部弥三郎殿(顕長。外様衆。越後国平林(加護山)城主)参」に宛てて請取状を発している。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、7日、下総国衆の簗田「洗心斎(道忠。中務大輔晴助。下総国関宿城主)」に対して起請文を送り、一、貴辺(簗田入道道忠)の御要望に沿い、相馬(下総国衆の相馬治胤)の遺跡及び要害(下総国守屋城)を領有できるように、(武田信玄が)里見義弘と相談して取り計らい、たとえ一国の内であったとしても、彼の地を誰人にも干渉させずに末代まで任せるので、とにかく房州(里見義弘)との厚誼を確かなものにするべきこと、一、腹黒い人物が貴辺を讒言したとしても、内密に何度でも双方の言い分を聴取すること、一、貴辺からは証人を要求しないこと、一、貴辺が苦境に陥った際には、決して見放さず手厚く援助すること、一、信玄が関東に出陣した際に、洗心斎(簗田入道道忠)も相馬の一件が落着した上で同陣してくれるのならば、戦陣の終了後には即座に帰宅してもらうこと、これらの条々を固く誓言している。

これから暫くして駿河国深沢城を攻めるために出陣し、同御厨地域の瀧之瀬(滝之沢)に本陣を構えると、18日、同阿多野原に進陣している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 952号 河田長親知行宛行状、953号 上杉謙信願書、954号 河田長親寄進状、955号 飯田長家等三名連署請取状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1358・1363号 北条氏康書状 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1630号 武田信玄起請文

◆ 『戦国遺文 後北条氏編』は1358・1363号文書を永禄12年に比定しているが、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅰ部 第四章 北条氏の駿河防衛と諸城」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。
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越後国上杉輝虎(謙信)の略譜 【63】

2014-05-26 11:00:10 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)9月 上杉謙信(不識庵)  【41歳】

8月下旬から9月上旬の間に謙信と号する。

3日、相模在国の今川「氏真(上総介)」から、年寄三人衆の「柿崎和泉守殿(景家。譜代衆)・山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)・直江大和守殿(景綱。同前)」に宛てて書信が発せられ、ここ暫く音信を通じていなかったところ、いよいよ信州へ出陣されるそうなので、大いに喜んでいること、それに連動した(北条)氏政の出陣が実現するように、力の及ぶ限り奔走すること、当方の思いを然るべく取り成してほしいこと、こちらの様子は大惣(大石惣介芳綱。旗本衆)に詳述してもらうこと、これらを懇ろに伝えられている。
同日、今川氏真の側近である朝比奈「泰朝(備中守)」から、「柿崎和泉守殿(景家)・直江大和守殿(景綱)・山吉孫次郎殿(豊守)御宿所」に宛てて副状が発せられ、まめに使者を派遣して音信を通じるべきところ、相州に居住するようになって以来、心ならずも連絡が滞ってしまったこと、いよいよ信州へ出陣されるそうなので、(今川)氏真にとっても大変喜ばしい吉事であること、ますます両家の厚誼を確かなものにするため、御取り成しを頼みとするほかないこと、よって、これらを大石惣介殿(芳綱)が詳述することを伝えられている。
同日、今川「氏真」から、別して取次の「山吉孫次郎殿(豊守)」に宛てた書信が発せられ、このたび輝虎に直書を送るつもりであったが、これまで三度に亘って直書を送ったにも係わらず、輝虎からは一向に返事が寄せられなかったので、いぶかしんでいたところ、あしらわれた原因は、当方の貴国に対する不躾な書札礼にある旨を伝え聞かされたこと、ここ一、二年については、決して書礼を誤ったつもりはないが、若し不躾と思われるのであれば、貴国が望まれる通りの書礼に則って、非礼のないように注意を払うこと、貴国と当国は遠く隔たっているゆえ、行き届かない点が多いところは斟酌してもらうほかなく、当方の誠意が輝虎の理解を得られるように、なおいっそう其方の奔走を頼みにしていること、当口の模様は大惣(大石芳綱)に詳述してもらうこと、これらを懇ろに伝えられている。

7日、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である北条丹後守高広(譜代衆。関東代官)が、取次の「山吉殿(豊守)」に宛てて夜分に急報を発し、先月29日付の御直札が一昨5日に到来したので拝読したところ、その5日に御出府されて、早々に上田(越後国魚沼郡上田荘)の地に御着陣されるとの仰せを受け、これを知れば南方(相州北条家)を始めとした味方中の意気が揚がるはずなので、何より最も待ち望まれていた機会であり、直ちに相府小田原へ伝達したこと、(武田)信玄が信濃国岩村田(佐久郡)に着陣したのに伴い、上野国箕輪城(群馬郡)の城代である内藤修理亮(昌秀。譜代衆)が出迎えに向かったとの情報を、箕輪領に忍び込んだ境目衆の者が昨晩に寄越してきたので、こうした状況を承知して頂くために急報したこと、信玄が碓氷峠を越えてくるのかどうか、詳しく正確な情報を収集し、改めて報告を上げること、いずれにしても、こうして速やかな御出陣を肝心な時節に実行されたので、いよいよ当方の皆々が活気づいていること、これらをよしなに披露してほしいことを伝えている。更に追伸として、信玄が岩村田に着陣したとの情報は、敵領の上野国小幡谷(甘楽郡。西上野先方衆の小幡氏領)・武蔵国御嶽(児玉郡。武蔵先方衆の長井氏領)で諜報活動をしていた者からの報告とも一致することを伝えている。

15日、(上杉「謙信」)、今次の関東遠征に於ける先遣部隊として上野国沼田城(利根郡沼田荘)に向かっている「板屋修理亮とのへ(光胤ヵ。大身の旗本衆・松本鶴松丸の陣代)」に宛てて夜分に急報を発し、昨日も連絡した通り、方々から寄せられた確報によると、(武田)信玄が上野国厩橋城に攻めかけてくるので、昼夜に関係なく倉内(上野国沼田城)へ急行するべきこと、兵糧は後から送らせてでも一人一騎の不足もなく夜通しで倉内に着城するべきこと、急を要する大事であり、ことさら頼りにしていること、追っ付け自分も沼田へ向かうこと、連立つ清七郎(大身の旗本衆・本庄清七郎。綱秀ヵ。本庄美作入道宗緩の世子)に対して、両衆の軍紀を徹底させるように言い含めるべきこと、これらの指示を与えた。更に追伸として、沼田に着城したあかつきには、この書簡を(本庄)清七郎の召し使う者に持たせて厩橋の北条丹後守(高広)に届けることを指示した。

17日、伊豆国韮山城(田方郡)の在城衆である北条「氏規(氏康の五男。相模国三崎城主)」が、重臣の「山本信濃入道殿(家次。水軍大将)」に宛てて返書を発し、房州里見領(上総・安房国)に攻め入り、次男の新七郎(正次ヵ)が名高い戦功を挙げたそうで、心地よい首尾に満足していること、このほど敵軍が反攻に転じるようなので、とても心配していること、しかしながら、たとえ敵軍が攻め込んできたとしても、相府から援軍が手配されるはずであり、日増しに防備が整うので、心配は要らないであろうこと、何といっても(北条)氏政の軍勢が相府に詰めているからには、おいそれと敵軍は三浦郡内に攻め入れないはずではあるが、昼夜の防備を怠ってはならないこと、連日、当城に甲州武田方の駿州在陣衆が攻め寄せており、このたび熾烈な攻勢をかけてきたが、いずれの諸口も頑強に防戦していること、取り分け自分の持場である和田嶋口は頑強に防戦しており、全く心配は要らないこと、よって、このように繁忙を極めているため、彼の使者が詳述することを伝えている。更に追伸として、各々に苦労をかけるとしながらも、ことさら海賊衆の奮闘に期待を寄せている。

27日、(上杉「謙信(花押a)」)、上野国厩橋城を経由して武蔵国鉢形城(男衾郡)に向かっている使者の「後藤左京亮殿(勝元。旗本衆)」に宛てた書簡を早飛脚に託し、相府に派遣していた大石惣介(芳綱)からの連絡によると、(北条氏政は)氏康が明日をも知れぬ容態であるとして、自身の同陣も証人の交換も拒絶し、この21日に惣介(大石芳綱)を追い返したそうなので、吾分(後藤勝元)は厩橋城に留まり、彼の地から鉢形の新大郎(藤田氏邦。氏康の四男)に対し、「すでに輝虎(謙信)は越・相両国による御同陣を挙行するため、上・越国境の越後国上田まで進陣しているにも係わらず、このたび当方の使節である大石と須田(弥兵衛尉。旗本衆)を通じ、御同陣できない旨を返答されたのに伴い、新たに自分が使節として相府へ向かわなければならず、何とか入府できるように、衷心より貴殿様(藤田氏邦)の御意見を内々に伺いたく、その御返事を拠り所として相府に案内を乞いたい」とする文面の書簡を認めて飛脚を立てるべきこと、そして新大郎(藤田氏邦)の存分を聞き届けた上で相府小田原へ向かうべきこと、すでに厩橋を通過している場合には、直に書簡を鉢形へ持参し、彼の地で小田原(北条氏政)の対応を聞き届けた上で相府小田原へ向かうべきこと、多大な辛労を負わせるが、それでもなお今が正念場であり、ひたすら使命に奮励するべきこと、たとえ中途で滞留したとしても、諦めずに使命を果たすべきこと、全てが順調に運んだ折に改めて連絡することを伝えた。

晦日、病床にある北条「氏康(相模守)」から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守)」に宛てて書信が発せられ、このたび大惣(大石芳綱)が帰国するので音信を通じたこと、それに伴って彼の者に、当方の存念を伝えてくれるように詳述を頼んだので、この書面では詳細を省いたこと、まだそちらに遠左(遠山左衛門尉(康光。氏康の側近。小田原衆)が逗留しているようならば、彼の者に御返答を託してほしいこと、若しも帰途に就いているのならば、そちらから使者一名を寄越してくれるように、万事を然るべく取り成すことを頼まれている。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、9日、甲斐国諏訪南宮神社(八代郡)に願文を納め、北越の輝虎に於いては、俄かに一族郎党が反乱を起こすか、それでもなければ、悪疾を患って没命するか、いずれかの災厄に見舞われて、越後衆が信濃・上野両国に戦火を及ぼさず、人民が太平を恙なく謳歌することと、信玄が甲斐衆を引率して関東に出陣し、怨敵に慈心を施して幕下に降らせるか、それでもなければ、悉く撃破して四散させた上で指揮に服させるか、いずれかの果報を得て、凱歌を奏でて安楽に帰府することが実現すれば、諏方南宮大明神の加護によるものとして、普賢法五百座の読誦を約束している。
26日、関東の味方中(常陸国衆・佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉か)に対して返書を送り、先書でも伝えたように、このほど武蔵国深谷(幡羅郡。深谷上杉氏領)・同藤田(榛沢郡。鉢形藤田氏領)領中を余す所なく荒らし回ったこと、明日は同秩父(秩父郡。鉢形藤田氏領)に移陣して郡中を打ち破るとともに、これから先の戦陣の手立てなどについて、そちらに使者を派遣して伝達すること、どうせならば直談してすり合わせをしたいこと、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 582号 今川氏真書状(写)、936号 今川氏真書状、937号 朝比奈泰朝副状、938号 北条高広書状、939号 上杉謙信書状(写)、940号 上杉謙信書状、941号 北条氏康書状(写) 『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』 4023号 北条氏規書状 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1592号 武田信玄願文、1740号 武田信玄書状

◆ 『上越市史』等は582号文書を永禄10年に比定しているが、長谷川弘道氏の論考である「駿越交渉補遺―「書札慮外」をめぐって―」(『戦国遺文 今川氏編 第二巻』月報2)に従い、元亀元年の発給文書として引用した。
◆ 『戦国遺文 武田氏編』等は1740号文書を元亀2年に比定しているが、柴辻俊六氏の論集である『戦国期武田氏領の形成』(校倉書房)の「第一編 権力編成と地域支配 第七章 越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。
◆ 『戦国遺文 武田氏編』1592号文書の解釈については、小林計一郎氏の著書である『信玄、謙信と信濃』(信濃毎日新聞社)の「第九章 真剣な神仏合戦」を参考にした。
◆ 北条氏規の重臣である山本氏については、下山治久氏の編著である『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)を参考にした。
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【62・下】

2014-04-22 01:17:44 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)8月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

17日、側近の山吉孫次郎豊守(大身の旗本衆。越後国三条城主)らを伴って鷹狩りを催す。

同日、年寄の直江「景綱(大身の旗本衆。越後国与板城主)」が、在府中である越後奥郡国衆の中条越前守(房資ヵ。外様衆。越後国鳥坂城主)の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  大和守 景綱」)を送り届け、御書中で示された通り、ここ暫くは多忙を極めていたゆえ、交流の機会を得られなかったのは遺憾であること、黒川方(四郎次郎平政。外様衆。越後国黒川城主)との境界地相論について、内々に何度か説明に及んだところ、納得し難いとして御披露を望まれたが、すでに彼の地については、先年(天文24年)に信濃国塚原(更級郡)から帰陣された直後、長慶寺(天室光育。輝虎の師)の仲立ちによって無事に落着した一件であり、今また新たな主張を申し立てて蒸し返されるのは、思慮に欠けた行為であること、上様(輝虎)も無事に方が付いたと認識されており、またこのたびも同様に受け止められているので、速やかに彼の地を黒川方に返還するべきであろうこと、このように述べたからと言って、黒川方に肩入れしているわけではなく、そのところを誤解されないでほしいこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、返す返すも、このたびの御相論は黒川方の申し立てによるものであり、彼方の取次を務める拙夫(直江景綱)が御披露を頼まれたこと、上様に黒川方の主張を披露したところ、その言い分をたちまちに理解されたこと、こうした結果を十分に弁えてほしいこと、上様の御内意により、御同輩の新発田忠敦(越後国新発田城主)が仲裁人を仰せつかったので、彼方の意見によく耳を傾けてほしいこと、よって、これらを山孫(山吉豊守)からも詳報が寄せられることを伝えている。
18日、中条方の取次である山吉「豊守」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  山孫 豊守」)を送り届け、昨晩に御書が到来したので、すぐにでも御返答に及ぶべきところ、使者が見聞された通り、差し障りがあって準備が整わず、それゆえ返答できなかっただけで、いささかも貴殿(中条越前守)を軽んじたつもりはないこと、このたびの黒河方との御相論について、これまで何度も拙者(山吉豊守)を頼みとされたゆえ、このたびもすぐさま御披露に及んで、その結果をを伝えるべきところ、色々と慎重にならざるを得ず、やむなく見送ったこと、これでは頼み甲斐がないと思われるしれないが、すでに二度も貴殿の御存分を漏れなく披露していること、それにも係わらず、先年の鳥坂(越後国蒲原郡奥山荘)への御帰城時に於ける不満を事細かに申し立てられたばかりか、またもや黒河方との御相論に於ける異議を申し立てられたのは不可解であること、自分は貴殿から聞かされた以外の事情に通じていないため、従来通りの上様の御意向を御使者に詳説したこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、この一件に限らず、いささかも貴殿の御立場を侮り軽んじるつもりはなく、御存分が成就されるように念願していること、しかしながら、改めて上様が示される御意向には、たとえどのような結果であっても受け入れられるべきこと、よって、これらを御両使に詳説したことを伝えている。
同日、山吉「豊守」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参貴報  山孫 豊守」)を送り届け、このほど寄せられた二通りの御書を拝読したこと、前々から依頼されている黒川殿との御相論の御存分を早々に披露するべきところ、やむを得ず先送りしたわけは、これまで何度も御返答しているように、第一は、急いで取り次ぐべき事案とは知らなかったこと、次には、先年に本美(本庄美作入道宗緩。実乃。当時は奉行人)の調停によって解決した事案と聞いており、自分は黒川殿の言い分を聞いていないために前回の経緯を知らず、こうした準備不足のまま軽々しく御披露しては、上様の思索を混乱させてしまうかも知れないと考えたこと、幸いにも本美は入庵(中条越前守の前代にあたる中条弾正忠か)の時から御奏者を務められており、彼方にも協力を仰ぐべきであること、とりもなおさず、しっかりと事情を把握しないまま軽はずみに御披露しても、黒河方の存分に通じている取次の方が様々に論説されれば、そのまま不利な状況で審理が進んでしまうため、心ならずも先送りしたこと、それでもなお、こうした不十分な状態でも審理に臨むべきであると要望されるならば、すぐにでも御披露に及ぶのは容易いこと、よって、これらを御使者に詳説したことを伝えている。更に追伸として、前日に御書を携えた御使者が到来したにも係わらず、御返事できなかったので、はなはだ遺憾であることと、昨日は鷹狩りの御供をして留守中の状況を知らず、今朝方に留守居の者に尋ねたところ、到来した御使者は御書を持ち帰られた事実を知らされたことを伝えている。
同日、在府中である越後奥郡国衆の新発田忠敦が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 御報  尾張守」)を送り届け、このほど寄せられた二通りの御書を拝読したこと、今のところ先頃に御使者を通じて説明した状況に変わりはないこと、この上は何事にも御意の通りに従い、いささかも見苦しい反論などするべきではないこと、山孫(山吉豊守)に提出した証文を紛失などされないように、彼方には取り扱いの注意を促しておくべきであること、山孫からは老拙(新発田忠敦)のところに何の音沙汰もないこと、よって、このたびの御書は、山孫の返答を得てから寄越されたものなのかどうなのか、正確に知らせてほしいことを伝えている。更に追伸として、とにかく御書の文意を読み取れず、はなはだ心許ないので、再び上様の御意を得られた上での御返事なのかどうなのか、正確な事情を知らせてくれるように求めている。
20日、山吉「豊守」が、「越州(中条越前守)参御報」の許に返書を送り届け、仰せの通り、昨日は上様の御意向を伝えたところ、改めて御証文が届いたので、確かに拝見したこと、御存分の根拠となる大事な御証文なので、自分が保管している間に過誤があってはならず、どうにも持て余していたところ、幸いにも御証文の返却を求められたので、とりもなおさず返却すること、よって、これらを御使者に詳説したことを伝えている。更に追伸として、確かに三通の御証文を返却することを伝えている。
21日、山吉「豊守」が、新発田忠敦の許に返書(端裏ウワ書「尾州 御報  孫次郎 豊守」)を送り届け、仰せの通り、近日は対面の機会がなく、とても気がかりであったこと、越州(中条越前守)から証文が差し越されるも、大事な家伝文書であるため、写しを取って返却したこと、貴殿(新発田忠敦)と協力して彼の写しを有効に活用し、改めて(輝虎の)御意を得たいところ、昨今は差し障りが多いゆえに延引せざるを得ず、はなはだ残念であること、よって、只今は出仕中のために詳報できないゆえ、のちのち掃部助(山吉豊守の一族か)をもって、これらを詳しく説明させてもらうことに理解を求めている。更に追伸として、このほど頂戴した鷹狩りの獲物である鴫三羽を、ありがたく御賞味に預かることを伝えている。
同日、新発田忠敦が、中条越前守の許に書簡(封紙ウワ書「越州 御宿所  尾張守 より」)を送り届け、このほど改めて拙夫(新発田忠敦)が山孫(山吉豊守)に御披露を催促したところ、彼方からは、いささかも野拙(山吉豊守)は(中条越前守を)見放すつもりはないこと、しかしながら、屋形様(輝虎)の機嫌を損ねるのは避けたく、無分別に御披露はできないため、のちのち掃部助をもって、心底から中条殿を微塵もないがしろにしていない旨を説明すること、このように返答が寄せられたので、彼の使者が到来した折に連絡することを伝えている。更に追伸として、返す返すも(山吉は)真実いささかも(中条越前守を)疎略に扱うつもりはない旨を伝えてきており、これらについては、改めて諸々を詳報することを伝えている。
同日、新発田忠敦が、中条越前守の許に返書(端裏ウワ書「越州 御報  尾張守」)を送り届け、御書を拝読したこと、昨今の山孫(山吉豊守)は多忙を極めており、(輝虎の)御機嫌を見計らって披露に及ばれるつもりなので、まだ時間を要すること、それゆえ明日は出仕されないそうなので、先ずは(山吉豊守へ)御使者を派遣されるべきこと、ただし今はもう夜分なので明日にされるべきこと、よって、これらを御使者に詳説したことを伝えている。更に追伸として、何とか我等(新発田忠敦)が力を尽くし、(中条越前守の)御存分が理解されるようにしたいところ、若しもこのように立ち回っている様子が、(輝虎の)御耳に入るところとなれば、かえって事態を悪化させてしまうと思いあぐね、御身(中条越前守)を気にかけてくれているであろう本美(本庄宗緩)に協力を仰ぐため、御存分を正確に伝達したのので、これについても御使者が詳述されることを伝えている。

22日、(上杉「輝虎(花押a)」)、遠(三)州徳川家の宿老である「酒井左衛門尉殿(忠次。三河国吉田城主)」に宛てて、直筆の初信を発し、このたび(徳川)家康が態々使僧(権現堂光播)を寄越してくれたので、心から歓喜しており、これから(徳川家と)無二の交誼を深めていく心積もりなので、よしなに取り成してほしいことと、見立てに自信はないものの、兄鷹(雄の鷹)を送るので末永く珍重してもらえれば、ひとしお満足であることを伝えた。
同日、(上杉「輝虎」)、同じく「松平左近允殿(大給松平督左衛門尉真乗の弟)」に宛てて、直筆の初信を発し、このたび家康が態々使僧を寄越してくれたので、心から歓喜していること、これから(徳川家と)無二の交誼を深めていく心積もりなので、よろしく取り成してほしいこと、よって、これらを彼の使僧が詳述することを伝えた。更に追伸として、真羽(真鳥羽。矢羽をつくる鷲の尾)二十尾を贈ることを伝えた。
同日、ここに至るまでの徳川家との交渉に関与していなかった直江大和守景綱(大身の旗本衆)が、これまで携わってきた河田豊前守長親(大身の旗本衆。越中国魚津城代)の代理として、遠(三)州徳川家の宿老である「石川日向守殿(家成。遠江国懸川城代)」に宛てた条書を使僧(権現堂光播)に託し、ここ暫く交信が途絶えていたので、心許なく思っていたところ、家康が使僧を寄越されたので、ひときわ喜んでいること、権現堂光播(叶房。三河国秋葉寺の別当)を通じて示された趣旨は、誠に頼もしい限りであること、この補足として、(織田)信長と(朝倉)義景の一和を取りまとめたく、家康と内談したい考えであること、裏表のある(武田)信玄は、親子の情愛も知らず、家臣の忠心も知らず、そして誓詞血判の重みも知らないこと、多くの言葉を尽くして越・相一和を成就させたからには、必ず信玄を討ち果たすつもりであること、権現堂から示された趣旨と同様に信長の真意通りに計画が進めるのが重要であり、よくよく斟酌された上で信玄への対策を講じてほしいこと、それからまた、誓詞を取り交わすべきであろうこと、この補足として、本来の取次である河田豊前守(長親)は越中在国のため、愚拙(直江景綱)が代理を務めたこと、これらの条々を説明している。

同日、老臣の本庄「宗緩(美作入道。実乃。大身の旗本衆・本庄清七郎(綱秀ヵ)の父)」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  本庄入道 宗緩」)を送り届け、仰せの通り、ここ数日は交信が途絶えていたので、早く連絡を取りたいと思いながらもままならず、ひどくもどかしかったこと、それは愚入(本庄宗緩)が老齢ゆえに体調を崩しがちなので、気に留めながらも無理であったこと、このたび(中条越前守が)懇望された一件について山孫(山吉豊守)の身勝手を許してはならず、各々方から彼方に談じ込むべきであること、吾等(本庄宗緩)も孫次郎を問い質すつもりなので、御安心してほしいこと、間違いなく彼の者に道理を説きつけるつもりであり、微塵もないがしろにしないこと、たびたびの御懇書に恐縮しており、何はともあれ病状が快復したら、万全な状態で御存分の一切を承るつもりであること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、返す返すも病状が快復したら、万全な状態で御存分の一切を承ることを伝えている。

23日、再び鷹狩りを催す。

24日、新発田「忠敦」が、中条越前守の許に書簡(端裏ウワ書「越州 御宿所  尾張守 忠敦」)を送り届け、昨日は留守中に御使者を寄越してくれたので、ひたすら恐縮していること、昨日は鷹狩りに参上したところ、山孫(山吉豊守)から目立たないように、以前とは状況が変わりつつある旨を知らされたので、手ごたえを感じられたこと、ただし山孫の所から未だに掃部助は到来していないこと、すでに(山吉豊守は)御存分を(輝虎へ)御披露されたのは必定であること、そうでなければ内々にあのような応対はされなかったはずであること、まだ雲雀は早過ぎるので鴫二羽を贈ること、必ず面談して一切を説明するので、詳細については略したこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、返す返すも以前に比べて状況が良くなったと感じており、きっと同意してもらえるはずなので、必ず面談して一切を説明することを伝えている。

30日、河田「長親」が、「松平左近允殿 御宿所」に宛てて初信を発し、長年培ってきた(徳川)家康と輝虎の格別な交誼について、このたび権現堂(光播。徳川家康の使僧)を通じ、懇ろに厚情を示されたので、(輝虎は)ひときわめでたく喜ばしい旨を返報したこと、これにより、貴所(松平左近允)にも直書をもって申し届けられたゆえ、なおいっそう両家が無二の懇親を図れるように、よろしく取り成してほしいこと、自分も若輩ながら御取次を務めるからには、両家の連帯のため、何事もこだわりなく相談に乗り、決して疎かにしないこと、よって、これらを彼の使僧が詳述されることを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 790・791号 新発田忠敦書状、793号 直江景綱書状、794・795・796・797号 山吉豊守書状、798号 本庄宗緩書状、800・801号 新発田忠敦書状、 931号 上杉輝虎書状、932号 上杉輝虎書状(写)、933号 直江景綱条書(写)、935号 河田長親書状(写)

◆ 徳川氏との外交については、栗原修氏の論考である「上杉氏の外交と奏者 ―対徳川氏交渉を中心として―」(『戦国史研究』32号)を参考にした。以下、越・三(遠)同盟については同論考を参考にする。
◆ 徳川家中の松平左近允と徳川家の使僧である権現堂光播については、『戦国人名辞典』(吉川弘文館)を参考にした。
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【62・上】

2014-03-27 01:08:30 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)8月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

4日、相州北条「氏政(左京大夫)」から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)」に宛てて書信が発せられ、(武田)信玄が豆州に出張してきたので、後詰の約束を果たしてもらいたいこと、遅延すれば、深刻な事態に陥るので、(輝虎への)御取り成しに御尽力してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えられている。

6日、老臣の本庄「宗緩(美作入道。実乃。大身の旗本衆・本庄清七郎(綱秀ヵ)の父)」が、在府中である越後奥郡国衆の中条越前守(房資ヵ。外様衆。越後国鳥坂城主)の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  本庄美作守 宗緩」)を送り届け、このたび御懇書が寄せられたので、ただただ恐縮していること、黒川方(四郎次郎平政。外様衆。越後国黒川城主)との間で再燃した同族間の領界地相論については、これまで何度も説明を受けたので、つぶさに事情を理解していること、時宜を弁えて冷静に対応されているので、ひたすら御実城(輝虎)への御気遣いが感じられること、一方の黒川方は、当主が若輩の上に、補佐する家中も力量不足であるがゆえ、このほど時宜を弁えずに訴訟を申し立てたのは、誠に遺憾であること、この件の反訴については、山孫(山吉豊守)に取次を依頼して陳述されるべきであること、老後の愚入(本庄宗緩)が出仕するのは五日か六日に一度であり、率先して口添えする立場にはないが、問い合わせには真摯に応じること、前回の相論で下された裁定については、愚入から山孫の所に使者を立てて子細を説明するが、敢えて心構えに関する助言はしないこと、この一件については、今後も相談に乗らせてもらうこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、このたび御懇書に預かり、つくづく恐縮していることと、本来であれば内々に面談するべきところ、すでに御存知であろうが、老後の身で思うに任せず、方々との接触は控えており、いささかもないがしろにする気持ちはないことを伝えている。
8日、本庄「宗緩」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越州 参御報  本美入 宗緩」)を送り届け、このたびの境界地相論についての存念を上聞に達するため、取次の山孫(山吉豊守)に御披露を催促してほしいとの御懇書を精読したこと、たっての御依頼ゆえ、山孫に連絡を入れて御存念を披露するように催促すること、しかして、そちらからは同輩の新尾(新発田尾張守忠敦。外様衆。越後国新発田城主)にも協力を仰ぐべきであり、彼方(新発田忠敦)から評定の場に公表されるのが、取り分け妥当な手段であること、彼方の関与は、中条・新発田両家の由縁からして有効であると見込んでおり、大いに期待していること、この提案に満足してもらえれば、我等(本庄入道宗緩)にとっても大きな喜びであること、よって、これらをのちのち面談して詳説する考えであり、先ずは取り急ぎ連絡したことを伝えている。

9日、養子の上杉景虎(相州北条氏康の末男)が、取次の直江大和守景綱(大身の旗本衆)に宛てて返書(礼紙ウワ書「直江殿  三郎」)を発し、御書を拝読してその意趣を理解したこと、この時期に(武田)信玄が豆州に侵攻したのは不可解であり、つまりは甲軍に対して消極的な相州の油断が招いた事態であること、このたびの出陣同陣については、越・相両国にとって昨年来の命題であり、相州は最終調整をするために、必ず越府に使者を寄越すべきところ、不覚にもそれを怠ったこと、こうしたなかで篠窪(治部。相州北条家の使者)を寄越し、ただ救援を要請したのでは、筋違いを難詰されても仕方ないこと、今年の春、越陣に到来した伊右(伊勢右衛門佐。相州北条家の一家衆である伊勢氏の一族)と幸田(北条氏政の側近である幸田大蔵丞定治、若しくはその一族か)の両使が、しっかりと御内意を氏政父子(氏康と氏政)に報告していれば、このような形で篠窪を寄越してくるはずがなく、伊勢・幸田両人が失念して正確な報告を怠ったのではないかと思われ、はなはだ困惑していること、よって、これらを懇ろに披露してほしいことを伝えている。更に追伸として、このように越後衆が出陣を控えて当府に参集しているにも係わらず、いかにも甲軍の豆州侵攻は不可解であること、返す返すも御同陣については、前もって使者を寄越して御意向を確かめるべきところ、かえって当方から大石(惣介芳綱。旗本衆)を派遣する結果となり、総じて相州は失態の謗りを免れないこと、それでもなお速やかに武田領に出陣して下されば、自分にとってはこれ以上ないほどの喜びであり、相州に於いては、その時期に合わせて間違いなく同陣するようにと、必ず明日には相府へ使者を立てること、これらも併せて披露を頼んでいる。

10日、濃(尾)州織田信長に対抗する江州旧主の佐々木六角「承禎(抜関斎。左京大夫義賢。伊賀在国か)」が、近江国甲賀郡に拠る国衆の「馬場兵部丞殿」に宛てて書信を発し、その地に織田軍の森三左衛門(可成(近江国宇佐山城主)が攻め寄せてきたと聞いて心配していたところ、見事に大勝したそうなので、毎度ながらの名高い軍功に感じ入っていること、各方面で織田軍と対峙している友軍の越前国朝倉軍や南方衆(細川六郎(昭元)・三好宗功(長逸)・三好康長・安宅神太郎・十河存保・篠原長房・石成友信(友通ヵ)・松山某・香西越後守・三好為三・斎藤龍興・長井不甘)の戦況は定かではないが、このたび「越後長尾(上杉)」が使者を寄越し、合力を堅く約束したので、念願の織田軍撃破も間近であること、よって、これらを落合家光と松原(弥兵衛尉ヵ)が詳報することを伝えている。

11日、本庄「宗緩」が、中条越前守の許に返書(礼紙ウワ書「越前守殿 参御報  本庄美作入道 宗緩」)を送り届け、このほど寄せられた貴札を精読したこと、御要望の通り山孫(山吉豊守)に連絡を入れ、(中条越前守の)御存念を伝えるかたわら、貴方が愚入(本庄宗緩)に寄せてくれた御書中を渡し、何度も御披露の催促をしたこと、この状況が伝わっていないようで、またもや催促の書簡が届けられたが、総じて吾等(本庄入道宗緩)は耄碌して引退した身なので、公事への干渉などもってのほかであり、御披露に及ぶ立場ではないこと、失念されているかも知れないが、これまでに説明は済ませていること、いささかも貴方を侮り軽んじるつもりはないが、何れにも肩入れはしないので、ありのままを知らせること、長年の付き合いから同情にほだされて肩入れし、でしゃばって御披露に及べば、永代の不興を被る事態になること、とにかく山孫に直談して御披露を催促するゆえ、安心してほしいこと、状況に変化があれば、改めて連絡すること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、先述の通り拙者は御披露はできないが、若しも屋形さま(輝虎)から御下問を受ければ、ありのままを申し上げるので、ひとえに安心してほしいことを伝えている。

12日、相州北条「氏政」から、上野国厩橋城(群馬郡)の城代である「毛利丹後守殿(北条高広。譜代衆)」に宛てて返書が発せられ、去る9日付の注進状が今日の昼過ぎに届いたこと、繰り返し越府に出陣要請をしてくれただけではなく、そのたびに飛脚を寄越して報告を入れてくれたので、満足しきりであること、甲州武田軍は昨年に布陣した伊豆国黄瀬川に再び陣取り、毎日欠かさず伊豆国韮山城(田方郡)と駿河国興国寺城(駿東郡)を攻撃していること、韮山城については、現在も外宿を堅守して要害に敵勢を寄せ付けないでいるが、当府の軍勢は未だに救援する態勢が整わず、無念極まりないこと、たとえこれから敵軍が退散したとしても、輝虎には盟約の通りに出陣してもらい、当方が実行するべき戦略の助言を加えてほしいこと、若しそれが果たされなければ、越・相両国の厚誼は一向に深まらず、このまま現状を放置されたのでは、世間体も実益も損なわれて、はなはだ無様であること、よって、貴辺(北条高広)もよくよくこのところを理解し、両国の連帯が機能するように奔走してほしいことを伝えられている。
同日、相州北条氏政の側近である「山四康定(山角四郎左衛門尉康定。馬廻衆)」から、「毛丹(北条高広)御報」に宛てて副状が発せられ、去る9日付の書簡が今日の昼過ぎに届いたので、去る7日付の書簡と同前に氏政父子へ披露したこと、たびたび念入りに飛脚を寄越されたので、父子はこの上なく満足していること、伊豆国韮山口に侵攻してきた甲州武田軍は、今日に至るまで毎日欠かさず韮山城を攻め立てており、この機を捉えて一戦するため、当府に総員を召集したところ、物主衆は何れも到着したが、それ以外の者共が追いつかず、一両日は延引せざるを得なかったこと、この18・19日には必ず出陣して敵軍に立ち向かうので、勝利は疑いのないこと、敵軍は八千人ほどであり、当方は各所に人員を配置しているため、七・八千人での出撃になること、当方が優位に立てる戦地なので、たちどころに信玄を討ち果たすであろうこと、韮山籠城衆は、氏政の弟である助五郎(氏規。氏康の五男。相模国三崎城主)・六郎(氏忠。氏康の弟である左衛門佐氏堯の長男で、氏康の養子となったらしい)のほか、家中衆の清水・大藤・山中・蔵地・大屋が三方の要所を堅守しているので、ひとえに安心してほしいこと、去る9日には、韮山城から一里ばかりに位置する外宿の町庭口へ、敵将の山県三郎兵衛(昌景。譜代衆。駿河国江尻城代)・小山田(信茂。甲斐国衆。甲斐国谷村城主)・伊奈四郎(勝頼。甲州武田信玄の四男で世子)ら五・六手が攻め寄せてきたところ、籠城衆が出撃して応戦し、敵兵十余名を討ち取ったこと、彼の地は難所であるため、敵方は負傷者で溢れかえっているらしいこと、取次の氏照(北条源三氏照。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)からも詳報されること、越軍の出陣が遅れると当方は立ち行かないので、とにかく急報したこと、よって、これらを越府に取り成すことを頼まれている。
13日、北条「氏政」から、その氏政によって越後への帰国を促された「大石惣介殿(芳綱。旗本衆)・須田弥兵衛尉殿(旗本衆)」に宛てて条書が認められ、一、先頃に使衆をもって示したように、このたび実行に移されるべき盟約の趣旨を、速やかに検討してもらいたいと望んでおり、よって、西上野から碓氷峠を登り詰められたのが確認されれば、相府に守衛軍などは残さずに総軍をもって、先ずは自分だけでも夜通しで越陣に駆けつける覚悟であるが、若しも峠を越えられずに、西上野の掃討のみを実行されるのであれば、本国を捨ててまでの同陣は憚られるため、当方は、軍勢のみを派遣するのか、別働で甲州へ進攻するのか、何れも御意向次第であること、一、御望みであれば、西上野に御着陣されるのに合わせて新大郎(藤田氏邦)を派遣し、戦略の御協議に臨むこと、一、越・相両国が浮沈を共にするからには、一刻も早く出陣してほしく、敵軍は山をひとつ隔てた場所に布陣しており、もはや猶予はないこと、これら三ヶ条の詳述を託されている。
同日、相州北条方の取次である藤田新大郎氏邦(氏康の四男。武蔵国鉢形城主)から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守)」に宛てて返書が発せられ、去る19日付の御書(輝虎の直書)を謹んで拝読したこと、御同陣について協議するために大石惣介(芳綱)と須田弥兵衛を寄越されたのに伴い、氏政は認めた条目の趣旨を一つ一つを両使に説明したので、よろしく御返答を賜りたいこと、よって、一刻も早く西上野に出陣してもらい、碓氷峠を登り詰められたのが確認されれば、氏政は夜通しで越陣へ駆けつける覚悟であり、これらを彼の両使に詳述を頼んだとして、懇ろな披露を求められている。

同日、大石惣介芳綱が、「山孫(山吉豊守)」の年寄中に宛てて書信を発し、去る10日、相府に到着した際、すぐさま御状などを北条側に手渡すべきところ、道中に報告した通り、遠左(遠山左衛門尉康光。氏康の側近。小田原衆)は親子四人で韮山城に、新大郎殿(藤田氏邦)は本拠の武蔵国鉢形城(男衾郡)に居るため、取次が両人共が不在といった状況であり、契約外の御奏者には御状・御条目を手渡せない旨を示した上で、新大郎殿が上府する昨12日まで待機し、その当日、氏邦・山角四郎左衛門尉(康定)・岩本大郎左衛門尉(定次。氏政の側近。馬廻衆)に手渡したので、今13日に氏政から回答が示されたこと、先ず、双方から家老を一名を出して中途(上州東西の境目辺りか)で会談し、御同陣の日取りを定めるか、若し中途での会談が憚られるのであれば、新大郎殿に松田(憲秀。準一家衆。小田原衆)ほどの家老を一人か二人を加えた顔触れを出してもらい、利根川端(上・武国境の上野国那波郡堀口の渡し付近か)で会談するか、両案を言葉を尽くして提示したところ、豆州に甲軍が侵攻したなかで、会談に時日を費やす余裕などはなく、そうしている間に豆州は焦土と化し、取り返しが付かないとして、言下に断られたこと、次に、(輝虎が)越・相両国による共同軍事作戦を成し遂げられて上野国厩橋城(群馬郡)に帰陣するまでの間、氏政御兄弟衆の一人を倉内(上野国沼田城)に証人として置かれる案を、これも言葉を尽くして提示し、若し長期間の在留に疑心があるようならば、輝虎は三郎殿(上杉景虎)の眼前に於いて幾らでも血判誓詞を認める心積もりであると、山孫(山吉豊守)から言付かっている旨を丁寧に説明したところ、これもまた一切合財を納得されず、にべもないので、それならば左衛門大夫方(玉縄北条綱成。準一家衆。相模国玉縄城主)の息子二人のうち一人か、松田の息子を倉内に証人として置かれる案を提示したところ、やはり納得されないばかりか、かえって、輝虎が武田領へ御出陣されれば、御家老衆の息子・兄弟のうちニ人でも三人でも越陣に差し出すので、越陣からも家老衆の息子のうち一人でも二人でも瀧山(武蔵国多西郡)か鉢形に置くべきであるとの意向を言募られたこと、このほど御本城(北条氏康)は重い病に倒れられたようで、今では御子たちのそれぞれを見分けられないとの噂を耳にしたこと、更には、食事も飯と粥を供すると、食べたい方に指を示すばかりで、一向に言葉を発せられないほどの容態ゆえ、越・相両国を取巻く現状を認知していないと見られており、方々の間では、わずかでも病状が快方に向かえば、このたびの難題にもひたむきに助言を加えられたであろうが、一向に回復の兆しが見られないため、残念ながらどうにもならないとの噂が立っていること、こうしたなかでの遠左(遠山康光)の不在には呆れ果てており、もはや自分が相府に滞在する意味はないが、自分の帰還については指示が下されるのを待つのが前提であり、先ずは予定通りに須田(弥兵衛尉)を一人で帰すこと、氏政からも、ほかに用件がなければ帰国するように通告されているが、帰還の指示が下されるまでは滞在を続けること、相府の取り乱した様子については須田から詳しく聴取してほしいこと、大筋については、甲軍が伊豆国黄瀬川に陣取り、毎日欠かさず韮山城に攻めかけては柵囲いを引き剥がし、要所に押し迫っているそうで、昨年には相模国箱根(西郡)に押し入られると、だれかれ構わず切り捨てられた苦い思いから、慄然とした様子であること、某(大石芳綱)に帰国の指示を下される場合には、兄である小次郎に申し付けて、早々に家中の者を寄越して下されば十分であること、篠窪(治部)の件については、直に新大郎殿へ抗議しておいたところ、それから一向に音沙汰がないこと、遠左(遠山康光)から届いた二通の書簡を須田に持たせること、よって、これらを須田が詳述することを伝えている。更に追伸として、改めて御用件がある場合には、再び須弥(須田弥兵衛尉)を寄越されるべきであろうこと、もはや自分が相府に居座ったところで、これ以上は交渉が進展する見込みはなく、帰国の指示が下されるためには、つまるところ御前への取り計らい次第であること、御本城(北条氏康)の容態はなお厳しく、今般の(武田)信玄による豆州侵攻も認知されていないとの観測が取り沙汰されていること、こうした事柄を伝えている。

同日、越後奥郡国衆の新発田「忠敦(尾張守)」が、山吉孫次郎豊守の許に書信(端裏書「山孫  案書」)を送り届け、今し方、直太(直江大和守景綱)の所から使者として寺内方が到来し、中越(中条越前守)と黒四(黒川四郎次郎平政)の間で起こった領界地相論について、双方を和解させるため、このたび上様(輝虎)からも拙者(新発田忠敦)が中越を説得するように仰せ付けられたこと、以前にも書簡で伝えたように、中越は貴所(山吉豊守)の御披露を頼みとしていること、そろそろ上様(輝虎)の御目に立てられているのではないか、また、黒四の主張は昨夕に直太(直江景綱)が御披露されたのではないか、事実を承りたいので、詳しい御返事を頂戴したいこと、先だって蔵王堂別当から切書が届くも、どのように返答するべきなのか考えが及ばず、掃部(山吉豊守の一族である山吉掃部助か)の許に書簡を送り届けたところ、未だに御返事がないので、これについても詳しい御返事を頂戴したいこと、こうした事柄を伝えている。更に追伸として、このたび某(新発田忠敦)が中越の説得を仰せ付けられたゆえ、はなはだ戸惑っている胸の内を伝える一方、たっての御下命であるからには、不服を唱えるわけにはいかないとして、仲裁に奔走する決意を表している。
同日、新発田尾張守忠敦が、中条越前守の許に書信(端裏ウワ書「越州 御報人々  尾張守」)を送り届け、今し方、直和(直江景綱)の所から使者として寺内方が到来し、中越と黒四の境界地相論について、このたび(輝虎から)拙者が中越を説得し、現状維持で和解させるように仰せ付かったこと、差し出がましいかも知れないが、これまでの経過に不安を覚えたので、山孫(山吉豊守)に諸々の問い合わせをしたこと、山孫が繰り返し連絡することを伝えている。更に追伸として、返す返すも黒四の取次である直和は昨夕も御披露しているわけで、はなはだ不安を感じており、その旨を山吉に伝えたことを知らせるとともに、山吉から返答が寄せられ次第、連絡することを約束している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 783・784・787号 本庄宗緩書状、788・789号 新発田忠敦書状、922号 北条氏政書状、923号 上杉景虎書状、925号 北条氏政書状、926号 山角康定書状、927号 北条氏政条書、928号 藤田氏邦書状、929号 大石芳綱書状 『戦国遺文 佐々木六角氏編』 972号 六角承禎書状

◆ 南方衆については、奥野高広氏・岩沢愿彦氏の校注による『信長公記』(角川日本古典文庫)の「巻 三」(8月10日条)と天野忠幸氏の論集である『戦国期三好政権の研究』(清文堂出版)の「第一部 国人編成と地域支配 補論 三好一族の人物比定について」を参考にした。
◆ 『上越市史』929号の解釈については、久保健一郎氏の論集である『戦国大名と公儀』(校倉書房)の「第一部 公儀の構造と展開 第一章 「大途」論 第三節 北条氏における「大途」の確立 Ⅰ北条領国外部の「大途」」と丸島和洋氏の著書である『戦国大名の「外交」』(講談社選書メチエ)の「第六章 外交の交渉ルート 3 越相同盟の崩壊 【越相同盟交渉の頓挫】」、高村不期氏のウェブサイトである『歴探』の「大石芳綱、山吉孫五郎に後北条氏の状況を伝える」を参考にした。
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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【61】

2014-02-09 00:57:15 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
元亀元年(1570)5月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

朔日、(上杉「輝虎」)、関東味方中の「広田出雲守殿(直繁。武蔵国衆。武蔵国羽生城主)」に宛てて書信を発し、未だに義氏(古河公方足利氏)への御請を果たしていないため、その懸念は尤もであること、早々に御請するべきところ、景虎(相州北条氏康の末男を養子として迎えた)の祝儀を執り行わなければならなかったので、大幅に遅れてしまったが、いささかも他意はないこと、すでに請状は認めてあり、このたび幸便を得たので送り届けること、来秋には(北条)氏政と内々に計画を練り上げた共同の戦陣を催すので、安心してほしいこと、よって、これらを改めて詳報することを伝えた。更に追伸として、このたびの一件は其方名字中(広田氏)の名誉であるため、義氏への請書の添状として、一筆を其方(広田直繁)へ送り届けるので、弁舌が立つ者に託し、必ず申し届けるべきことを伝えた。

9日、越後奥郡国衆の鮎川孫次郎盛長(外様衆。越後国大葉沢城主)から、取次の「山吉孫次郎殿(豊守。大身の旗本衆)」に宛てて書信が発せられ、このたび存分に成果を挙げられて、整然と関東から御帰陣されたのは、慶賀の至りであること、恐れながら祝意を表するために御酒肴を献上したこと、これらを山吉方(豊守)に詳報したとして披露を懇請されている。

12日、相州北条「氏康(相模守)」から返書(「山内殿」)が発せられ、先月25日に息三郎(上杉景虎)のため、御城中に於いて御祝儀を催されたと聞き、まさしく両家の繁栄の基であり、愚老(北条氏康)にとっても本望満足であること、近日中に使者を派遣して御祝意を表するつもりであること、(北条)氏政は敵軍と間近に対陣しており、このたびは返事を出せなかった事情を理解してほしいこと、前述の通り近日中に使者を派遣するので、その際に改めて愚意を示すこと、これらを取り急ぎ伝えられている。

15日、(上杉「輝虎(花押a)」)、奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名家の政僧である「游足庵(淳相)」に宛てて返書を発し、先頃は盛氏父子から二度も音問が寄せられたので、めでたく喜ばしいこと、ここ最近は交信が途絶えて心許なく思い、こちらから使僧を立てるので、相応の取り成しを任せ入ること、相・越一和の落着により、このたび(北条)氏康が盟約の旨に従い、輝虎の養子となる実子の三郎を寄越したので、来秋に機先を制して敵領へ攻め込む計画に合意し、先ずは関東から帰陣して先月18日に着府したこと、相・越両国が一味したからには、関東の統治は万全に整うので、安心してほしいこと、奥州米沢(置賜郡長井荘)の伊達家(輝宗)に波乱が起こり、敗れた中野常陸介父子(伊達家宿老の中野常陸介宗時・牧野弾正忠久仲)が退去したそうなので、彼の口の様子が案じられてならず、状況を詳報してほしいこと、これからますます盛氏父子との連帯を強めたいので、父子を適切に説き勧めてほしいこと、詳細は使者に申し含めたこと、これらを懇ろに伝えた。更に追伸として、赤地の金襴一巻を贈ることを伝えた。

26日、下総国衆の「相左治胤(相馬左近大夫治胤。下総国守谷城主)」が、古河公方足利家の奉公衆である「一源(一色源三郎)・芳春院(周興)御侍者中」に宛てた書信を飛脚に託し、海賊衆が御座(古河御所)の御近辺に出没して火を放っているとの情報が入り、はなはだ上意の身が案じられること、(武田)信玄が豆州に侵攻するも、あっさり退散したそうであること、当然ながら彼の口の状況を続報すること、佐竹筋については、常陸国小田城(筑波郡)の城主に太美(太田美濃入道道誉。三楽斎。資正)が配置されたので、ますます(小田)氏治(常陸国藤沢城主)は苦境に立たされたこと、異変があれば急報すること、これらの披露を求めている。

27日、(上杉「輝虎」)、「鮎川孫次郎殿(盛長)」に宛てて返書を発し、このほど関東から帰馬した祝儀として酒肴を贈ってもらい、めでたく喜ばしいこと、越中・信濃両国は平穏無事であり、安心してほしいこと、大宝寺(出羽国田川郡大泉荘)・伊達の両口に異変があれば、報告を寄越すべきこと、昼夜に関係なく鮎川要害の防備に努めるべきこと、よって、めでたく万事が整ったあかつきに詳報するので、これ以外は申し述べないことを伝えた。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、7日、濃(尾)州織田信長の取次に対して書信を送り、このたび起きた浅井(江州北郡の浅井長政)の造反は残念であること、近日中には退治されるのであろうこと、いかにも京都を平穏へと導き、無事に士卒を帰陣させたのは、誠にめでたいこと、(織田)信長に巣鷂(鷹)を贈るので、必ず取り成してもらいたいこと、其方のところへ送るので、(信長が)愛玩してもらえたら本望であること、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 911号 上杉輝虎書状(写)、912号 鮎川盛長書状(写)、913号 北条氏康書状、914号 上杉輝虎書状、1427号 上杉謙信書状(写) 『戦国遺文 古河公方編』 1417号 相馬治胤書状写、 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1547号 武田信玄書状


元亀元年(1570)6月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

11日、越後奥郡国衆の本庄「沙弥全長(雨順斎。繁長。越後国村上城主。同猿沢城に蟄居中)」から、「春日山」の年寄中に宛てて書信(謹上書)が発せられ、このたびの御祝儀(上杉景虎との養子縁組か)について、太刀一腰・大鷹一居・鹿毛馬一疋を献上したこと、限りなくめでたい首尾であり、この旨を御披露してほしいこと、これらを懇ろに伝えられている。

24日、相州北条「氏康(相模守)」が、上野国衆の「富岡清四郎殿(秀親ヵ。上野国小泉城主)」に宛てて返書を発し、ここ暫く音問が途絶えていたところ、このたび寄せてくれた一札を披読し、その旨を理解したこと、取り分け蝋燭一合を贈ってもらい、めでたく喜ばしいこと、(武田)信玄が武州に侵攻するとの情報に接し、(北条)氏政が立ち向かって一戦するつもりであるのは、先頃に使者をもって申し届けた通りであること、年来の交誼に基づいて参陣し、いっそう奮闘してくれれば、大いに喜ばしいこと、詳細は岩本(太郎左衛門尉定次。馬廻衆)が申し伝えること、これらを懇ろに伝えている。

29日、取次の「山吉豊守・河田長親(豊前守。大身の旗本衆。越中国魚津城代)」が、「富岡清四郎殿」に宛てて返書を発し、このたび寄越された書札の別紙も披読したこと、永禄9年(この年に富岡は越後国上杉方から相州北条方に寝返った)から領有している上野国上郷内の五郷の地を巡る相論(邑楽郡佐貫荘。由良成繁の一族である横瀬国広と領有を巡って相論していた)に異存があるようで、相の証文(相州北条家が富岡に与えた証文)を寄越されたこと、そのは明白であり、それに加えて越・相両国の御和睦が成立したからには、何事に於いても永禄7年当時の御下知に準拠するべきこと、詳細は(富岡の)使者に申し含めたこと、これらを懇ろに伝えている。


この間、甲州武田「信玄(法性院)」は、5日、濃(尾)州織田信長の側近である「夕庵(武井爾云。右筆と奉行人を兼ねる)」に対して書信を送り、このたび信長が越前国と近江国を抑えて御帰国したのは、めでたく喜ばしいこと、江北の浅井(江州北郡の浅井備前守長政)が背信を企てたそうであるが、断じて追討するべきであること、4月下旬に使者の市川十郎右衛門尉をもって申し伝えたところ、江北の通路が封鎖されていたゆえ、役目を果たせず信州まで引き返してきたが、そこから再び貴国へ向かわせたので、もうすでに到着したと思われること、市川の胆力が足りず音信が遅れる結果となり、(信長を)侮り軽んじてしまったようで、はなはだ面目を失ったこと、近いうちに巣鷂を贈るつもりなので、その折に改めて詳報すること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、越中先方衆の椎名(右衛門大夫康胤。越中国松倉城主)を支援を働き掛けるため、賀州衆の案内で大坂(摂津国石山本願寺)へ派遣した使僧の長延寺(実了師慶)が、江北錯乱によって中途での滞留を余儀なくされているらしいので、いぶかしんでおり、はなはだ心許ないため、彼の者の状況を知らせてくれるように求めている。
27日、常陸国衆・佐竹氏の客将である「太田美濃守殿(三楽斎道誉。資正。常陸国小田城主)」に対して書信を送り、ここ暫くは、通路の断絶しているため、思いがけず音問が途絶えていたこと、先月は豆州に攻め入って国中を蹂躙し、十分な成果を得て下旬に帰府したこと、去る5日に別働隊が武蔵国御嶽城(児玉郡)の乗っ取りに成功したので、要害を修築して矢楯と兵糧を搬入し、甲・信両国から千余名の人衆を送り込んだこと、これから直ちに関東へ出陣するつもりなので、いよいよ味方中を滞りなく結集させてほしいこと、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 915号 本庄全長書状、916号 山吉豊守・河田長親連署状 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1425号 北条氏康書状 『戦国遺文 武田氏編 第三巻』 1550号 武田信玄書状、1561号 武田信玄書状写

◆ 『上越市史』916号の解釈については、黒田基樹氏の論集である『戦国大名と外様国衆』(文献出版)の「第十章 富岡氏の研究」を参考にした。


元亀元年(1570)7月 上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】

9日、越中国魚津城(新川郡)の城代である河田「長親」が、被官の「山田平左衛門尉殿」に証状を与え、越中国新川郡小出保下条内の小池分と徳楽分の知行地を宛行っている。
19日、取次の山吉孫次郎豊守が、相州北条方の取次である「藤田新太郎殿(氏邦。氏康の四男。武蔵国鉢形城主)御宿所」に宛てた条書を、相州北条方の使者である篠窪治部に託し、一、越・相両国が御同陣するにあたり、取り急ぎ使者をもって申し入れられること、一、当方では家中の上下に係わりなく、御同陣の是非に気を揉んでいること、一、甲府(甲州武田家)から到来した使僧を成敗すること、一、互いに中途まで交渉人を出向かせて御相談し合い、双方が御納得した上で、定められた日限通りに御手合せされるべきこと、一、当秋に御同陣が実現しなければ、味方中の動揺は計り知れず、御後悔するような事態が起こり得ると考えられていること、この補足として、篠治(篠窪治部)を相府へ帰して詳述されること、こうした条々について説明している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 919号 河田長親知行宛行状、920号 山吉豊守条書案
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