越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀2年9月〜同年12月】

2024-03-13 00:34:20 | 上杉輝虎の年代記

元亀2年(1571)9月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


9月5日、同盟関係にある遠(三)州徳川家康(三河守)へ音信を通じた。

同日、徳川家の家老である石川日向守家成へ宛てて書状を発し、一翰に及んだ意趣は、昨年以降、権現堂(叶坊光幡)をもって、様々に家康と交わした入魂の旨は、真実であること、愚老(謙信)においても太慶であること、このところを申し届け、唯一無二に申し合わせる心中に余念はないこと、よくよく彼の口上を聞き届けられてもらいたく、(そのうえで取り次ぎを)頼み入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1063号「石川日向守殿」宛上杉「謙信」書状写)。

同日、一家衆に準ずる信濃衆の村上源五国清(妻に迎えた謙信養女の実父は越前国朝倉義景と伝わる)が、松平左近允真乗へ宛てて書状を発し、これまで申し交わしてこなかったものの、(今より)申し上げること、よって、当府から御音信に及ばれるに当たり、(詳らかに伝えるための)使僧を差し添えたこと、今後は格別に貴国と当方の入魂については、御甚深にあらゆる事柄を御同心あるように、御取り成し願いたいこと、それからまた、爰許においては拙夫へ必要な用件を仰せになってほしいこと、よそよそしいと思われるような態度は取らないこと、委細はなお後音を約束すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』1064号「松平左近将監殿(左近允の誤写)」宛「村上源五国清」書状写)。


これを受けて、月は不明であるが、冬中に謙信の許へ徳川家康から使僧の権現堂叶坊光幡が派遣されることになる(『上越市史 上杉氏文書集一』1085号)。



25日、友好関係にある濃(尾)州織田信長(弾正忠)から書状が発せられ、換羽した鴘鷹(生後二歳の若鷹)を御所持されていて、御見せしてもらえるとの御内意の旨に従い、鷹師を差し下したこと、即時に一覧を遂げたこと、誠に稀有の次第で目を驚かせたこと、大事に飼育し、寵愛しており、まったくほかの(鷹)とは比べ物にならないこと、すぐにも使者をもって御礼を申し述べなければならなかったところ、上意の趣について、先月中旬に上洛したこと、畿内の状況に異変はないこと、この両日以前に納馬する次第であること、これにより、御礼が遅延してしまったわけであり、まずは一翰を染め、飛脚をもって申し述べること、いつもながら御懇情の極みであり、感謝してもしきれないこと、かならずや追って使者を向かわせるつもりであること、なお、その時節を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1065号「上杉弾正少弼殿 進覧之候」宛織田「信長」書状)。


謙信は若鷹を見せたいとして、信長へ連絡を入れているにもかかわらず、結局のところ信長は若鷹を手に入れており、このあたりよく分からないが、謙信は譲るつもりで連絡したということなのだろう。



この間、同盟関係にある相州北条氏政は、昨年来、房州里見軍の攻勢に難儀している下総国佐倉の千葉氏を助けるために出馬しており、9月2日、千葉郡の濱村の地に禁制(同地の本行寺に伝わる)を掲げ、右の地における当手軍勢甲乙人等の濫暴狼藉を堅く停止すること、もしも違犯の輩がいれば、速やかに搦め捕り披露を遂げるべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1509号宛 北条家禁制 奉者「遠山」政景)。


北条軍は遅くとも8日には撤退している。


同じ頃、兄弟衆の藤田新太郎氏邦の本拠である武蔵国男衾郡鉢形城域へ甲州武田軍が侵攻しており、15日、戦功を挙げた氏邦の重臣で、在地の吉田和泉守政重へ宛てて感状を発し、このたび(甲州武田)信玄が出張した折、遠物見として出向いたところ、榛沢(榛沢郡)の地において敵一人を討ち取ったこと、高名は類い稀であること、ますます粉骨を励むべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1510号「吉田和泉守殿」宛北条氏政感状【署名はなく、花押のみを据える】 懸紙ウワ書「吉田和泉守殿」●『戦国人名辞典』吉田政重の項)。

同日、藤田氏邦が、在地の鉢形衆である吉橋大膳亮へ宛てて感状を発し、このたび信玄が出張した折、遠物見として出向いたところ、榛沢の地において敵一人を討ち取ったこと、高名は類い稀であること、ますます粉骨を励むべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1511号「吉橋大膳亮殿」宛藤田氏邦朱印状写 ●『戦国人名辞典』吉橋和泉守の項)。

17日、同じく兄弟衆である北条氏規(助五郎。相模国三浦郡の三崎領を管轄する)が、三崎衆の山本信濃入道(俗名は家次。伊豆海賊衆の船大将)へ宛てて書状を発し、注進状を披読したこと、よって、向地(上総国)へ攻め入り、(息子の)新七郎(家次の次男で、実名は正次と伝わる)も高名を挙げたそうであり、心地好い結果で有意義であること、されば、敵が攻めに転じるようなので、心配していること、そうではあっても、敵が攻めてくるにおいては、(氏政が)その地へ御加勢を差し向けるそうであり、日を経るにつれて(今ではということか)安心していること、ことさら小田原に(氏政が)御馬を立てられるうちは、郡内へ攻め込んではこないと推察していること、昼夜を問わず油断しないように申し付けられるべきこと、一、当城(伊豆国田方郡の韮山城)へ敵が来る日も来る日も攻め懸けてきており、このたびは手厳しく詰め寄せてきているが、諸口はいずれも堅固に防戦を尽くしていること、とりわけ此方(北条氏規)の持ち口である和田嶋は、いかにも堅固であること、安心していてもらいたいこと、(氏規は)取り込んでいるので、(使者の)口上にて委細を知らせること、これらを謹んで申し伝えている。さらに追伸として、海賊衆が奮闘するのが肝心であること、各々には苦労を掛けていること、これらを申し添えている(『戦国遺文 後北条氏編五』4023号「山本信濃入道殿」宛北条「氏規」書状)。



一方、かつての味方中であった常陸国太田の佐竹義重(次郎)は、安房国那古寺御所足利藤政の下総国関宿城移座への協力要請に応じ、9月2日、関宿城に拠る簗田八郎持助へ宛てて書状を発し、(足利藤政の)御書を謹んで拝読したこと、上意の通り、去春(正確には初夏)に条々を仰せになられたこと、重ねて御帰座について、発せられた御内書の趣を、承知致したこと、何としても各々と申し合わせて奔走致すつもりであること、この旨をもって御披露願いたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1402号「簗田八郎殿」宛佐竹「義重」書状写)。


同じく、かつての味方中であった房州里見正五(岱叟院。俗名は義堯)・同義弘(左馬頭)父子は、下総国で相州北条軍を退けると、8日、里見正五が、里見家の本拠である安房国岡本城の里見太郎義継(正五の孫)へ宛てて書状を発し、敵(北条軍)は退散し、我々の満足と(里見義頼も)同前に思われているであろうこと、よって、十左衛門を与大郎(安田広(弘)秀)が討ち殺し、延命寺へ駆け込んだのは、どうしようもない結果であること、(安田を)延命寺にも決して留まらせてはならないこと、義弘も入道(里見正五)に懇談に訪れた折、入道の陣屋にて姫君(義弘の後妻である故足利晴氏の息女か)の文、其方(義頼)の御切紙をも披読したこと、委細は使者を立てて申し述べること、早々に、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1403号「太郎殿」宛里見「正五」書状 ●『戦国人名辞典』安田与太郎の項)。

9日、里見義弘が、里見義継(義弘の嫡男)へ宛てて書状を発し、敵は退散し、再三にわたって申した通り、大慶であること、一昨日より普請の工夫を設けたこと、よって、安田与太郎が十左衛門を討ち殺し、延命寺へ駆け込んだのは、どうしようもないこと、法度を下すので、激しく憂慮しているのは当然であること、詳細は三浦平五方が(書状をもって)申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編』1404号「太郎殿」宛里見「義弘」書状 ●『戦国人名辞典』安田与太郎の項)。


『戦国人名辞典』(吉川弘文館)をはじめ、安田与太郎の実名は広秀とされているが、滝川恒昭氏の著書である『人物叢書 里見義堯
』(吉川弘文館)216頁によれば、里見義弘から「弘」の一字を授けられた家臣として挙げられており、弘秀が正しいようである。


房州里見軍が、撤退した相州北条軍を追うなかで、17日、下総国府中六所宮に制札を掲げ、下総国諏訪田における当手軍勢甲乙人の濫妨狼藉について、この旨に違犯する輩に至っては、罪科に処するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 房総編』1407号「苻中六所宮 神主」宛里見家制札)。


同じく、足利藤政は、26日、下野国衆の茂木上総介(実名は治房か。下野国芳賀郡の茂木城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ仰せになられたこと、今般は義弘の精励をもって関宿へ御座を移されるつもりであること、各々で相談し合って、ひたすらに奔走されるならば、御悦喜であること、委細は(簗田)持助が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1408号「茂木上総介殿」宛 足利藤政書状【署名はなく、花押のみを据える】)。



元亀2年(1571)10月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


10月3日、同盟関係にある相州北条家の御本城様・上様こと北条氏康が死去する。


同日、養子の上杉景虎(三郎)が、謙信側近の山吉孫次郎豊守(越後国蒲原郡の三条城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、相州(北条氏政)からの脚力が此方(上杉景虎の許)へ遣わされてきたこと、それには悴者(下級の侍)を付き添わせていること、(景虎が)相州(氏政)への書中ならびに遠左(遠山左衛門尉康光。北条氏康の側近)の所への文(手紙)、両通を(相府小田原へ)送り届けること、(謙信の)御披見に入れて、それで良いと、仰せであるについては、そのままを書いて(小田原へ)送られること、もしまた御意に召さないようであれば、御案文を寄越されてほしいこと、書き直したうえで、(小田原へ)送り届けること(脚力と悴者は小田原へ戻ったことになろう)、以上、これらを申し渡している。さらに追伸として、(北条)氏政が下総へ出馬した件について、実城(謙信)の御意をもって相州へ飛脚を遣わしたこと、前日に(飛脚が相州北条家から謙信へ宛てた返書を携えて)帰ってきたので、相州からの返札を御披見のために(謙信へ)送り届けること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』1066号「山吉孫二郎殿」宛上杉「景虎」書状)。


この10月3日以前に上杉景虎は、相州北条氏政が8月下旬に下総国へ出馬したとの知らせを受け、越府の謙信へ報告を入れ、それについて謙信から氏政へ宛てた書状を受けると、氏政の許へ謙信の書状を携えた飛脚を遣わし、そして10月2日に氏政からの謙信へ宛てた返書を携えた飛脚が景虎の許へ戻り、さらには翌日に氏政からの景虎へ宛てられた書状を携えた脚力と悴者が景虎の許へ到来したので、景虎は氏政・遠山康光主従へ送ることになる書状の文面に差し障りがないかを、謙信に確認してもらうための案書と、氏政から謙信へ宛てられた返書(氏政が下総へ出馬した件について)を一緒に、当日か数日のうちに越府へ発送したわけである。
こうした流れからすると、今回の謙信と氏政の間におけるやり取りでは、去る正月20日付けの謙信・景虎へ宛てられたような氏政の書状や、同じく3月25日付けの謙信へ宛てられたような氏政の書状と一緒に出された景虎へ宛てたような氏政の条書(同前1039号)が発せられることもなく、景虎が謙信と氏政の間に立って双方がやり取りを重ねている状況が見て取れる。
よって、景虎を中心とした脚力・飛脚の動きと時間差の程度からすると、景虎は謙信とは離れ、謙信と氏政の中間点に居たのであろうから、謙信は越・相の盟約による7月の大調儀に出馬できなかった自分に代わって、景虎に数手の越後衆を預けて関東へ出陣させたのだと思われる。そして謙信は、11月10日付の謙信書状や同月13日の小田氏治覚書からすると、遅くとも11月初めには関東に出ていたであろうから、景虎の書状が発せられた前後に関東へ向かったのであろう。



先月以来、相州北条氏政の兄弟衆である藤田氏邦新太郎の武蔵国鉢形領へ攻め入った甲州武田信玄は、10月朔日、武蔵国阿熊(秩父郡)の地に高札を立て、当手甲乙の軍勢の彼の郷中における濫妨狼藉を働いてはならず、もしこれに背く者がいれば、厳科に処せられるべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1742号 武田家高札写【奉者「内藤修理亮」昌秀】)。


当月中には帰陣したようである。



元亀2年(1571)11月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


関東越山して甲州武田領の上野国惣社城(群馬郡)へ攻め寄せたが、越・相同盟は破綻を迎えたので、甲州武田家との同盟を図るなか、11月10日、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国厩橋城の城代)へ宛てて書状を発し、〇前欠 無事であること、身(謙信)のかたへは引くべきであろうか、そのゆえは、相・甲一緒になって攻め懸けてきたとしても、身(謙信)の滅亡しない現実を目の当たりにしているうちに、小田原(北条氏政)は信玄に不安を感じるようにでもなれば、(北条氏政が心変わりし)近いうちにたとえ身(謙信)の前へ信玄とは手切れしたと言ってきたとしても、(その時は)まずは越・甲が無事を遂げるまでで、相・豆を信玄が攻めるにより、ここは相・越の運比べであること、(北条氏政が)このように馬鹿者と兼ねてより知っていながら、房州(里見家)・佐竹(義重)・太美(太田道誉)と手切れをしてしまい、(謙信は)後悔していること、小田原の形姿はどうにでもなってしまえば良く、其方(北条高広)も存じている通り、道七(長尾為景。謙信の実父)から身(謙信)の代まで、儀礼にかなった応対で劣ったりは、ほんのわずかでもなかったこと、(北条家へ贈った)樽肴・馬・太刀は、まったく弓箭の際には無駄なものであったこと、どれほども小田原を見損なっていようとも、切りがないので、まずは越山してから見計らうこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、昨日までは、(藤田)氏邦をかならずや(弁明のために)寄越されるのではないかと、あるいは氏政は見込みが外れて、ひたすらに言って寄越されるのではと、思っていたところ、そのようにはならず、いずれもの馬鹿にはっきりと言ってやる必要もないこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1068号「北条丹後守殿」宛上杉「謙信」書状)。



一方、同盟を持ち掛けられた甲州武田信玄(法性院)は、同日、西上野先方衆の小幡上総介信真(上野国国峯城を本拠とする)の一族である小幡民部助(実名は昌高と伝わる)へ宛てて書状を発し、このたび厩橋(上野国厩橋城の城代である北条丹後守高広)の件について、雨宮淡路守(号存哲。諸国御使者衆)を遣わしたところ、其方(小幡民部助)が格別に世話をしてくれたそうであり、祝着であること、これにより、刀一腰を渡すこと、されば、北丹(北条高広)の対応といささか食い違いがあったところを、密談するために雨宮淡路守を遣わしたこと、ますます面倒を見てくれれば本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1747号「小幡民部助殿」宛武田「信玄」書状)。



また一方で、関東味方中の小田氏治(太郎。常陸国土浦の木田余城に拠る。本拠の小田城は佐竹氏に攻め取られていた)が、謙信による東方陣(小田氏治と敵対する佐竹義重攻略)を強く求めてくる。


13日、常陸国木田余の小田氏治から条書が発せられ、覚、一、このたびの(謙信からの)御懇答に歓喜していること、一、中筋の味方中と御指図通りに相談したこと、一、西上州へ御戦陣を催されたのち、当口へ御陣を進められるとのこと、一、(下総国結城の結城)晴朝・(下野国烏山の那須)資胤へ意見するべきとの仰せについては、それを心得たこと、一、本地のこと、口上、御陣底(陣庭)のこと、口上、一、(常陸国真壁の)真壁(久幹)のこと、口上、一、(常陸国下妻の)多賀谷(祥聯。俗名は政経)、一、結城の各々が言って寄越した子細は不審であること、以上、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1069号「越御陣所」宛小田「氏治」覚書写)。

吉日、小田氏治の側近である菅谷摂津入道全久(俗名は政貞)から、越後国上杉家側の取次である山吉孫次郎豊守へ宛てて条書を発せられ、一、昨年に御内談された通り、今後においては御当方(上杉家)と唯一無二に申し合わされるつもりであること、一、御厚誼を永続すること、口上、一、所領のこと、口上、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1070号「山孫江 参御宿所」宛「菅摂津入道全久」条書写)。



この間、11月10日、安房国那古寺御所足利藤政の下総国関宿城移座に向けて、簗田洗心斎道忠(俗名は晴助)が、茂木上総介(実名は治房か)へ宛てて書状を発し、あらためて申し上げること、近年は世上に思慮が多いので、申し交わしていなかったこと、覚えのほかの極みで、蔑ろにしていたわけではこと、太田(佐竹義重)・那荘(那須荘。那須資胤)と仰せ合わされたうえで、諸方が無事を成就されるのが肝心と思われること、きっと御同意であろうこと、よって、房州から御使節をもって、 (足利藤政が)仰せになられたこと、世外の次第を思慮しているとはいえ、(茂木上総介へ簗田)父子同前に、 (足利藤政が)仰せ付けられたにより、一翰を差し添えること、委細においては子である八郎が申し述べるにより、よくよく御塩味あって御請けに及ばれる時節は、(佐竹・那須へ)御進言されるのが適当であること、余事は後音を約束すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1411号「茂木上総介殿」宛簗田「洗心斎道忠」書状 封紙ウハ書「茂木上総介殿 洗心斎」)。

同日、簗田八郎持助が、茂木上総介へ宛てて書状を発し、あらためて申し上げること、今般は房州から御使節をもって、(足利藤政の)御書を下されたこと、何としてでも当年中に、 (関宿城へ)御座を移されたいとの、 上意であること、適切に御受けなされるのが肝心であること、委細は彼の口門に申し含めたので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1410号「茂木上総介殿」宛簗田「八郎持助」書状 封紙ウハ書「茂木上総介殿 八郎」)。



元亀2年(1571)12月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


12月10日、小田氏治から、山吉豊守の側近である飯田与三右衛門尉へ宛てて書状が発せられ、いささか申し述べること、このたび使いをもって申し達したところ、当口への御出馬が落着となり、安堵の時を迎えたこと、されば、其方(飯田与三右衛門尉)が奔走してくれたそうであり、実にありがたいこと、山吉方へ格別に頼み入るからには、今後については、なお相応に任せ置くこと、かならずや、(謙信が)御陣を進められた時分に、あれやこれや詳しく申し上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』1071号「井(飯)田与三右衛門尉殿」宛小田「氏治」書状写 封紙ウハ書「井田与三右衛門尉殿 従喜多里(木田余)」これには異筆で、元亀二年十二月廿六日、御ひきやく(飛脚)二被申下候、と書き添えられている)。

同日、菅谷摂津入道全久から、飯田与七郎(与三右衛門尉の世子)へ宛てて書状が発せられ、このたび真河入道方をもって、氏治が申し達せられたところ、貴所(飯田)の御取り成しをもって、山孫(山吉豊守)が色々と御念を入れられた御披露ゆえ、 屋形様(謙信)の御懇答があり、氏治の歓喜している様子を御推察してほしいこと、彼の向地(上野国西部の甲州武田領)を攻め平らげられ、そのうえにおいては、早速にも東方(佐竹攻略)へ御旗を進められ、氏治が本意を達する時節を迎えるように、さらなる御精励を、孫二郎殿へ御進言してもらいたく、貴所(飯田与七郎)の御手並みにかかっていること、かならず面述の時分に、これらの御礼を詳しく申し述べるので、諸々を省略させてもらったこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1072号「井田与七郎殿 御陣所」宛「菅摂津入道全久」書状写 封紙ウハ書「井田与七郎殿 御陣所 菅谷」これには異筆で、元亀弐年十二月十六日(十は廿の書き誤りであろう)、くわんとうそうしや(関東惣社)御陣所へたまはり候、と書き添えられている)。

16日、菅谷摂津入道全久から、飯田与三右衛門尉へ宛てて書状が発せられ、御陣下の御様子を伺うため、前日に書状を差し上げたこと、(書状を託した)飛脚が未だに帰ってこないこと、世間の噂が色々と入ってくるとはいえ、当然ながら正否は明らかではないこと、(小田氏治は)それではあまりに心許ないと思われて、氏治の所から、 御屋形様(謙信)へ重ねて申し達せられること、山吉殿・北条殿としっかり御相談して(謙信へ)御披露に及ばれてほしいこと、再三にわたって申し述べた通り、つまりは氏治が本意を達したうえは、(謙信も)急速に思召される通りとなるわけで、東方の御戦陣は、我々以下に至るまで念願申し上げるばかりであること、なお、詳細を申し入れたいとはいえ、(小田氏治は)物極(物裏か)の御張陣により、御手が塞がってしまうと思われるので、早々に申し上げたこと、そうではあっても、おおよその御知らせを伺えれば、祝着であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、孫二郎殿(山吉豊守)へ適切に御理解してもらえるよう、ひたすら任せ入る思いであること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』1074号「井田与三左(右)衛門尉殿 御陣所」宛「菅谷摂津入道全久」書状写 封紙ウハ書「井田与三左(右)衛門尉殿 御陣所 菅摂津入道」)。

17日、小田氏治から、飯田与三右衛門尉へ宛てて書状が発せられ、去る10日に(越陣へ)向かわせた脚力が未だに帰着しないため、重ねて申し届けること、御陣中の現状の委細を承りたいという(氏治の)要望を、山孫(山吉豊守)へ申し届けること、適切に(取り成しに)努めてもらいたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1075号「井田与三右衛門尉殿」宛小田「氏治」書状写 封紙ウハ書「井田与三右衛門尉殿 従喜多里」これには異筆で、元亀二年十二月廿六日、御ひきやく被下候、と書き添えられている)。


友好関係にあり、佐竹義重とは敵対している隣国奥州会津の蘆名止々斎(俗名は盛氏)・盛興父子と交信するなか、19日、蘆名盛興(平四郎)へ宛てて書状を発し、(謙信の)関東越山について、(蘆名父子から)わざわざ脚力が参ったこと、本望であること、当口(上野国西部)の様子は、盛氏の方へ直報に及ぶつもりなので、(この盛興宛書状には)再筆はしないこと、何としても当口を平らげたのちに東方の戦陣を催すので、(蘆名父子の)御手合わせ(連動)を頼み入ること、なお、重ねて申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1077号「蘆名四郎殿」宛上杉「謙信」書状写)。


26日、上野国惣社陣へ小田氏治の書状を携えた飛脚が到着する。


この間、越中国の代官を任せている河田長親(豊前守)が、12月11日、重臣の河田孫五郎(実名不詳。のちに右衛門佐を称する)へ証状を与え、(越中国新川郡)上条保内の中村分を進め置くこと、知行を保証するものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1073号「河田孫五郎殿」宛河田「長親」宛行状写)。


河田孫五郎は、栗原修氏の論集である『戦国期上杉・武田氏の上野支配 戦国史研究叢書6』(岩田書院)の「第一編 上杉氏の関東進出とその拠点 第二章 上杉氏の隣国経営と河田長親」によれば、越中国の一勢力である土肥孫十郎の弟で、河田長親に仕え、河田名字を与えられて河田の一族に加えられたという(鳥取県立博物館所蔵「土肥莠家譜」)。


同じく、関東代官を任せている北条丹後守高広を通じて、甲州武田家と一和の交渉をしているなか、17日、甲州武田信玄の側近である跡部大炊助勝資から、北条丹後守高広・同弥五郎景広へ宛てて書状が発せられ、思いも寄らなかったところ、先日は御札に預かり、珍重であること、よって、御密談するべき旨があるにより、雨宮存哲を寄越してほしいとの趣を、仰せを承ったので、御意向に従い、内藤修理亮(昌秀。甲州武田家の家老で上野国箕輪城の城代を任されている)と相談し合ったうえで、(厩橋城へ)向かわせたこと、そこで三ヶ条の御書付をもって承った通り、すべてもれなくその意図を理解したこと、ただし、彼の修理(内藤昌秀)が言うには、去る頃に殖野陣(上野国群馬郡惣社の植野)で話し合いを尽くされた筋目と変わらず、それゆえに信玄・勝頼に申し聞かせるには及ばないとのことなので、(武田父子に)黙っていたこと、およそ当時は甲・相入魂をひたむきに申し合わされたからには、(甲・相・越の)三和一統のほかは成就し難いこと、つまりこのところは御分別を誤らないでもらいたいこと、委細は金井淡路守が申し達すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1076号「北丹・同弥 御宿所」宛「跡大 勝資」書状)。


植野陣とは、先月あたりから上野国惣社城を攻撃していた上杉軍に対する武田軍(西上野衆)の戦陣であろう。


越中味方中であった神保宗昌(俗名は長職)・同長城父子は、甲州武田家と同盟関係にある越中国一向一揆と再び手を結んだようであり、12月2日、越中国八尾の聞名寺へ宛てて証状を発し、数年にわたる瑞泉寺殿(越中国両一向一揆の一方)からの御懇望により、聞名寺の不入を申し付けること、一、押買・狼藉を禁ずること、一、棟別・徳米を用捨すること、一、催促しての人頭取り、ならびに兵糧懸けをしてはならないこと、右の条々を厳しく停止すること、万が一にも違犯する輩がいれば、速やかに罪科に処するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『富山県史 史料編Ⅱ』1743号 神保「長城」・同「宗昌」禁制)。



越・相同盟がほぼ破談となったなか、12月3日、北条氏政の兄弟衆である藤田氏邦(小田原滞在中)が、9月に在地の鉢形衆が甲州武田軍を迎え撃った際の戦功を忠賞し、高岸対馬守へ宛てて感状を発し、このたび(甲州武田)信玄が出張した折、野伏以下を集めての奮闘は飛び抜けていたそうであり、諏方部主水助(氏邦の重臣)が申し上げたこと、実に感悦であること、ますます今後も武具等を用意し、奮闘するについては、扶持を加えること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1563号「高岸対馬守殿」宛藤田「氏邦」感状写 )。

同日、藤田氏邦が、在地の鉢形衆である栗原宮内左衛門尉へ宛てて感状を発し、このたび信玄が出張した折、郡内において、馬上一騎を討ち落としたそうであり、諏訪部主水助が申し上げたこと、感悦であること、ますます今後も奮闘を励むについては、扶持を加えるものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1564号「栗原宮内左衛門尉殿」宛藤田「氏邦」感状写)。

同日、藤田氏邦が、在地の鉢形衆である新井新二郎へ宛てて感状を発し、このたび信玄が出張した折、郡内において、歩兵一人を討ち取ったそうであり、誠に心地良いこと、ますます忠信を励んで奮闘するにおいては、褒美を与えるものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1565号 藤田氏邦感状写 奉者「諏訪部主水助」)。


藤田氏邦の重臣である諏訪部主水助は、実名は定勝と伝わるが書状等では確認できない。のちに遠江守を称する。氏邦本拠の武蔵国鉢形城(男衾郡)の支城である日尾城(秩父郡)の城主(『戦国遺文 後北条氏編四』2841号 法養寺所蔵「薬師堂十二神将像胎内銘」 ●『戦国人名辞典』諏訪部遠江守の項)。



下総国関宿城移座を目指す足利藤政による関東衆への奔走を促す呼び掛けが続くなか、12月4日、下野国宇都宮の宇都宮広綱(弥三郎)が、簗田八郎持助へ宛てて書状(謹上書)を発し、(足利藤政の)御書を謹んで拝読したこと、もとより里見義弘の奮励をもって、去る夏に、御帰座される心積もりを仰せになられたこと、御めでたいこと、このようになったからには、忠信を励むべきとの仰せを、当然ながら懈怠なく務めさせて頂くこと、この旨を御披露してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1417号「謹上 簗田八郎殿」宛「藤原広綱」書状写)。


20日、下野国佐野の佐野昌綱(小太郎)が、やはり簗田八郎持助へ宛てて書状を発し、御書を謹んで拝読したこと、もとよりこのたび(里見)義弘の奮励をもって、御座を帰される心積もりを仰せになられたこと、御めでたく御肝心との思いであること、御威光を仰ぐ以外に余事はないこと、この旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1418号「簗田八郎殿」宛「佐野 昌綱」書状写)。



12月27日、越・相同盟が正式に破談となる。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』(富山県)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第四巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)

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越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀2年5月〜同年8月】

2024-03-09 19:39:50 | 上杉輝虎の年代記

元亀2年(1571)5月6月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


5月2日、旗本部将の大石惣介芳綱と、上田衆(甥である上田長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)を率いる栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、信玄の出張が延引するようであれば、早々に浅貝(信・越国境の越後国魚沼郡)へ上田衆を召し連れて向かい、寄居を取り立てるのが相当であること、さりながら、例の通り、人目を避けての手立てなので、人数は一騎一人も帰してはならないこと、当府まで注進していたら遅くなるので、信玄出張と聞き届けたならば、(上野国沼田城へ)加勢に向かうのが肝心であること、この件は河田伯耆守(重親。沼田城の城将)にも、(大石芳綱・栗林房頼から)知らせておくべきこと、以上、これらを申し伝えた。さらに追伸として、(味方に属すことになった)山鳥原(上野国群馬郡。上杉領の厩橋と武田領の倉賀野・和田の三角地帯の真ん中あたりに位置する境目の地)の者共が、(甲州武田家へ証人として差し出した)妻子を受け取りたいと言っているのであれば、厩橋へ(話を通すのは)無用であること、伯耆守(河田重親)に申し付け、(武田側と)話をまとめられ、(証人を)受け取らせるべきこと、(河田重親に)もしも手筋がないのであれば、惣介・小中彦兵衛尉(実名は清職か。謙信旗本)と相談し合って、(証人を)受け取らせるべきこと、万が一にも使いの者をあなた(彼方。敵方)へ連行されでもしたならば、痛ましい事態となるため、二郎左衛門尉の請け乞い(証人を引き取るための交渉)をもって、かのもの(栗林の手の者)壱人をこなか(小中)の者に差し添え、油断なく申し付けるべきこと、たれ(誰)にても無分別に敵から返事(拒否回答)が来たならば、妻子を差し出した(山鳥原の)者たちは上田(越後国魚沼郡の坂戸城)へ招き寄せ、浅かい(浅貝)には置いてはならないこと、偏った取り計らいは、どうにも危ぶまれること、これも二郎さえもんの請け乞い(山鳥原の者を納得させて上田へ移ってもらうための交渉)にて、うまく事が運ぶであろうこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1047号「大石惣介殿・栗林ニ郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。


当文書の解釈については、大貫茂紀氏の論集である『戦国期境目の研究 大名・領主・住人』(高志書院)の「第四章 越後国上田衆栗林氏と上杉氏権力 一 栗林氏の活動 (2)境目における栗林氏の活動」を参考にした。


16日、譜代の重臣である斎藤朝信(下野守。越後国刈羽郡の赤田城を本拠とする)が、領内の菊尾寺別当の分春へ宛てて証状を発し、菊尾寺のことは、まず別当の庇護に任せる旨を申し付けること、寺社役を無沙汰するにおいては、その意を汲むこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1048号「菊尾寺 分春へ」宛斎藤「朝信」判物)。


20日、上野国沼田(倉内)城の城将を任せている河田伯耆守重親へ宛てて書状を発し、わざわざ音信として樽肴をならびに脇差が到来し、めでたく祝着であること、なお、万事めでたく片が付いたあかつきには、重ねて申し越すつもりであること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、先衆は間違いなくその地(沼田城)へ打ち着くこと、諸軍すべてに、以前から触れ立てておいたので、諸衆も近日中に越山すること、身(謙信)の事も、明後日に当地春日山(越府)を打ち立ち、松山(越後国頸城郡松山保)を通り、昼夜兼行で塩沢(同魚沼郡上田荘)へ着馬するつもりであること、このたびは諸勢が連なって進むので、越山は瞬く間であること、安心してほしいこと、この旨を厩橋(上野国厩橋城の北条丹後守高広)へも申し越すべきこと、また、其許(河田重親)より目付を差し越し、(目付から)敵の様子を正確に聞き届けて、注進するのが第一であること、其方に限らず、その地の城衆が頼りであり、目付を差し越しては差し越し、敵の様子の実態を聞き届けて注進するべきように、(目付へ)申し付けるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1049号「河田伯耆守殿」宛上杉「謙信」書状写)。


この頃に浅貝寄居が完成する。


28日、上田衆を率いる栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、沼田の加勢として、そのまま詰めると、浅貝の寄居の普請を成就させ、ことさら軍役のほかに五十余人の足軽を置いているとのこと、喜平次の者共(上田衆)には毎時の辛労をかけており、感じ入っていること、この旨を傍輩共に申し聞かせるべきこと、これらを畏んで伝えた。さらに追伸として、彼の地の城衆は例によって我儘に振る舞い、用心を怠り、凶事でも起こったならば、敵味方にあげつらわれるのは口惜しいこと、きつく(用心を)申し付けるべきこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1050号「栗林ニ郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。


この書状の内容からすると、謙信自身が関東越山した様子は窺えず、5月22日に出府したとしても、何らかの理由により、関東へ出ることはなく、途中で引き返したのではないか。いずれにしても、この間に、かつての越中国味方中で、甲州武田信玄と手を結んで敵対している越中国松倉(金山)の椎名右衛門大夫康胤との和睦交渉が行われているので、こうした動きが関係しているのかもしれない。


5月24日、椎名側の交渉人である「悳信」から、「左川」某へ宛てて書状が発せられ、越府と(椎名)康胤の和親の件について、再び貴札に預かり、本望の極みであること、最前より申し入れている通り、彼の表に対し、まったく疎んじる気持ちはないこと、神前孫兵衛尉・薗 新左衛門尉(椎名康胤の側近)の手腕に、越国(越後国上杉家)は疑心が拭い去れないそうであり、これにより、両人に利己心がないところを、誓詞をもって申し出でる場合は、以徳軒が御演説する旨、尊意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『富山県史 史料編Ⅱ』1740号「左川殿 参尊報」宛「悳信」書状写)。


椎名側の「悳信」を、『富山県史 通史編2 中世』の「第四章 戦国時代の越中 第二節 神保・椎名の角逐と上杉氏の越中進攻 三、謙信と一向一揆 上杉と椎名」では、史料の内容から推測すれば、椎名康胤に近い人物で、神前などよりも身分的に高貴な人物と推測される、として永禄7年9月16日に、椎名徳翁以来の祈願所であった小佐味万松寺に寺領を安堵している椎名源太憲信がおり、「悳」は「徳」であるから、「悳信」は徳翁、憲信に近い人物であろうと記しているが、「悳信」は「憲信」の誤記で、椎名憲信その人という可能性もあろう。

上杉側の「左川」は、上杉家の外交に関与するような有力者に「左川」という人物はおらず、こちらも誤記であると思われ、永禄12年から越中国代官を任されている河田豊前守長親、同年に上杉と椎名の間で和睦交渉が行われた際に交渉役を任された村上兵部少輔義清といった人物が考えられよう。


この和睦が一時的にでも成立したのかは分からない。



この間、甲州武田信玄(法性院)は、先月から今月にかけて、謙信が上野国の武田領内に攻め入って来るとの情報を得て、自ら出馬したが、実際には謙信は関東へ出てこなかったので、武蔵国の北条領へ攻め込むと、戦陣は翌月まで続き、6月12日、武蔵国の甘棠院(埼玉郡)に高札を立て、当手甲乙の軍勢の彼の寺中における濫妨狼藉については、一切を停められたこと、もしこれに背く者がいれば、厳科に処されるべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1722号 武田家高札【奉者「土屋右衛門尉」昌続】)。

その後、間もなくして帰陣したようであり、18日、同盟関係にある常州太田の佐竹義重(次郎)へ宛てて書状を発し、去月2日付の書札、殊に目録表を給わったのは、過分の極みであること、その時分には、謙信が我等(信玄)の領分に出馬してきたと、領内境目から注進が届き、我等もその時分に出陣したにより、右の御報が延引してしまった旨を、このたびの帰陣により、御礼を申し述べること、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1556号「佐竹殿」宛武田「信玄」書状写)。


※ 当文書を『戦国遺文 武田氏編二』は元亀元年に置いているが、書中には「謙信」と記されており、輝虎から謙信の変わり目は8月から9月の間であること、元亀3年5月の加賀・越中両国一向一揆が越中国東部への進撃し、謙信が武田領へ出馬できる状況ではなかったこと、元亀4年(天正元年)4月に信玄は死去したこと、これらの理由から、いずれも除外できるため、当年の発給文書と考えた。



元亀2年(1571)7月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


7月29日、外様衆(揚北衆)の鮎川孫次郎盛長(越後国瀬波(岩船)郡の大場沢城を本拠とする。同族である本庄弥次郎繁長(雨順斎全長)が蟄居している猿沢城の監視のため、庄厳城に在番中)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、其方(鮎川盛長)の家中の証人を、吉江織部佑(景資。謙信の側近)に預け置いたところ、このうちの須河原証人(菅原太郎左衛門尉の息子であろう)が、織部佑の召し使う佐山という者の妻と密会していたのが歴然となったこと、残りの証人共が見聞して届け出たこと、そうは言っても、元来より其方は忠信を存続しているわけで、(証人が)たとえどのような大罪を犯したとしても、其方に免じるほかなく、色部弥三郎(顕長。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城を本拠とする。鮎川とは同族関係にある)に、彼の須河原の子を預け置いたこと、(菅原の子息は)馬鹿者なので、このうえ万が一にも欠落でもしてしまったならば、色部の方が、そうなっては困ると言っているので、吾分かた(鮎川)へ召し帰すのが相当であろうこと、そのため、一翰に及んだこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、あのような三ヶ条を申し述べたのは、(鮎川の)忠信に免じて助け置いたところを、よくよく其方は存じ忘れず、ますます忠信を励むのが肝心であること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1447号「鮎川孫二郎殿」宛上杉「謙信」書状【花押a】)。


※ 当文書は年次未詳とされているが、やはり鮎川家中の証人である菅原子息の不儀密通の件に触れている年次未詳6月27日付鮎川盛長宛謙信書状写(1439号)には、この件が「菅原兄之子去年徒を申候…」と昨年の出来事であることと、当該期に謙信が「大途之弓箭」を控えていたことが書かれており、「大途之弓箭」とは、甲州武田信玄と連帯する加賀・越中国の両一向一揆ならびに椎名康胤・神保長城の越中国東・西に分立する勢力の大攻勢を受け、謙信が総力を挙げて対決に臨もうとしていた状況であろうから、1439号の年次は元亀3年に比定できるため、菅原証人の不儀密通は元亀2年と考えられる。

謙信は、この7月に相州北条軍と共同で甲州武田軍と戦う予定であったはずだが、関東あるいは信州へ出馬した様子はない。2月の本庄繁長を巡る騒動では、鮎川盛長が本庄に手出しした軽挙妄動への忌々しい思いを露わにしていた謙信が、ことさら鮎川の忠信を理由に証人の過ちを不問に付して、彼の者を鮎川の許に帰したのは、8月に謙信が色部顕長の忠義に報い、顕長の望み通りに、今後は本庄の席次を下回らない約束をしていることからしても、7月に今度は本庄に非のある騒動が起こったのではないだろうか。


この前後に、友好関係にある織田信長へ音信を通じ、見せたい鷹があるので、鷹師を寄越すように伝えた。


この間、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)は、甲州武田軍の侵攻に備え、7月16日、準一家衆の玉縄北条左衛門大夫綱成(相模国東郡の玉縄領を管轄する)へ宛てて書状を発し、彦六(氏政側近の石巻康敬)の所へ届いた15日の一札を、今16日辰刻(御前8時前後)に披読したこと、返答を失念していたわけではないこと、よって、去る朔日に四郎人衆(相州北条家の一家衆である北条氏光が率いる小机衆)・其方人衆(北条綱成が率いる玉縄衆)は足柄(相模国西郡)へ駆け付け、5日に罷り帰ったこと、そうであれば、4日間は番に全力を注いだわけであること、また、大藤(式部丞政信。諸足軽衆の筆頭)は一日、番替えが遅くなり、先番を務めたこと、合わせて五日間に当番が延びたので、来る21日に人衆を立てられ、22日に置き替えるのが適当であること、従って、足柄の敷地は広大であるため、其方(北条綱成)の人衆では不足であるのは、仕方がないこと、我々も心底では深くその程度と見積もってはいても、どう考えても人衆の引き継ぎはないので、どうにもしようがない無衆(人手不足)が積りに積もっていること、第二には小田原に程近いので、小旗先を見たら、片時のうちに小田原からは駆け付ける覚悟であるゆえ、無衆が積もったままにしていること、いずれにしても敵味方の御戦陣の機会であるので、何としても人衆を増やすつもりであること、とにかく放生会(8月15日)までには、諸卒を小田原へ集める覚悟であること、委細と愚意は重ねて申し述べるつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1495号「左衛門大夫殿」宛北条「氏政」書状)。


15日、北条氏政の兄弟衆である北条氏規(助五郎。相模国三浦郡の三崎領を管轄する)の三崎衆に属し、氏規の側近でもある朝比奈甚内泰寄が、同じく三崎衆の山本信濃入道(俗名は家次。伊豆海賊衆の船頭)・同新七郎(実名は正次と伝わる。信濃入道の次男)へ宛てて書状を発し、(山本父子から)取り急ぎ飛脚を遣わされたこと、とりもなおさず(氏規へ)披露したこと、よって、このたびの御奮闘の事実については、類い稀ななされようなど、前代未聞の戦功であり、 殿様(氏規)の方から、この段をつぶさに仰せ下されるべきであるが、(氏規は)御城(小田原城)にしばらく居られるから、少しの御隙もないので、この趣は我々の方から詳細を申し届けるようにとの(氏規の)御意であること、なお、これからの次第については、海上での戦いにおける采配の全てを(山本)父子へ任せられるつもりであると、揺るぎない(氏規の)御意であること、我等(朝比奈泰寄)も満足そのものであること、ますますの御奔走が肝心であること、 御本城様(北条氏康)の煩いが急変する状況ではなく、とにかく昼夜にわたって御詰めなされているので、御支障はないこと、拙者(朝比奈)も韮山(伊豆国韮山城)の番を仰せ付けられていること、御用があり、一昨日に此方(相模国三崎城)へ罷り越したこと、明後日に(韮山城へ)罷り越すこと、重ねて御用があるならば、六大夫(朝比奈泰之)に仰せ渡されるべきこと、何事も近内の口上に申し含めるので、早々に申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』4059号「山信・同新 御報」宛「朝甚 泰寄」書状 ●『戦国人名辞典』山本家次の項)。


27日、同じく兄弟衆である藤田氏邦(新太郎。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)が、鉢形衆の山口物主・上吉田村の一騎衆・その外の衆中へ宛てて感状を発し、このたび日尾(武蔵国秩父郡)より野伏に触れを出したところに、いずれも罷り出で奮闘したそうであり、諏方部主水助が申し越したこと、意義深いこと、帰城してから褒美を与えるものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1496号「山口物主 上吉田壱騎衆 其外衆中」宛北条氏邦感状)。




元亀2年(1571)8月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


6日、外様衆(揚北衆)の色部弥三郎顕長(越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城を本拠とする)へ宛てて証状を発し、本庄弥次郎(繁長)が先年に逆心した折に、同名の縁故を差し捨て、父の修理進(勝長)以来、其方(色部顕長)の代においても、並びない忠義で愚老の手前を守っていること、これにより、望みに任せて、今後においては、本庄弥二郎座敷(席次)より下位には置いたりはしないものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1058号「色部弥三郎殿」宛上杉「謙信」書状)。


15日、代官の蔵田秀家が、越後国蒲原郡小吉条東嶋の中使である関根 某へ宛てて書状を発し、当年は日照り続きについて、様々に御嘆願されたこと、(謙信が)御承知されたのに伴い、六貫文の所の用捨が決まったので、安心してほしいこと、そのために一札をもって申し遣わすこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『白根市史 巻一 古代・中世・近世史料』168~169頁)。


こうしたなか、先月には、越後国奥郡や越府で起こった騒動の処理に追われて関東へ出馬できなかった謙信ではあるが、8月下旬に、甲州武田軍の脅威にさらされていたはずの相州北条氏政が下総国へ出馬する一方、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国厩橋城の城代)の世子である北条弥五郎景広が信州口から退却する上杉軍の殿を務めていることからして、謙信自身は関東へ出馬した様子は窺えないが、養子の上杉景虎が当年10月3日に謙信側近である山吉孫次郎豊守へ宛てた書状(『上越市史 上杉氏文書集一』1066号)によると、明らかに景虎は越府の謙信とは距離を遠く隔てた場所に居るので、謙信は景虎を早くから関東へ先行させていたようであり、景虎に預けた数手の越後衆と
北条高広・同景広父子が率いる関東衆を上野国西部の武田領へ攻め込ませたものと思われる。それを知った氏政は、昨年より下総国佐倉の千葉胤富から救援を求められていたので、それに応じる好機と捉えて下総へ向かったのであろう。


24日、北条高広の世子である北条弥五郎景広が、配下の村山惣八郎に感状を与え、このたび信州口において、(北条景広が)しんかり(殿)に及んだところに、馬廻として付き従ったのは、類い稀な振る舞いであったこと、今後もその嗜みに及ぶべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1061号「村山惣八郎とのへ」宛北条「景広」感状)。

同日、同じく北条景広が、やはり配下の下条玄鶴に感状を与え、このたび信州口において、しんかりに及んだところに、馬廻として付き従ったのは、類い稀な振る舞いであったこと、今後もその嗜みに及ぶべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1062号「下条玄鶴とのへ」宛北条「景広」感状写)。



この間、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)は、房州里見軍の攻勢に苦しんでいる味方中の下総国佐倉の千葉胤富(千葉介)を助けるため、まず上総国へ海賊衆を攻め込ませ、続いて自身も下総国へ向けて出馬する。

8月17日、北条氏政の兄弟衆で、伊豆国韮山城に在番中の北条氏規(助五郎)が、三崎衆の山本新七郎(実名は正次と伝わる。伊豆海賊衆の船頭である山本信濃守家次の次男)へ宛てて書状を発し、注進状を披読したこと、よって、向地(上総国。新七郎は父やほかの海賊衆たちと共に、別動隊として上総国へ侵攻したので、韮山城には入らなかった)へ攻め入り、高名を挙げたのは類い稀であること、ますます奮闘するべきこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』4022号「山本新七郎殿」宛北条「氏規」書状)。


28日、千葉胤富が、重臣(下総国森山城の城将を任されている海上蔵人・石毛大和守であろう)へ宛てて書状を発し、(北条)氏政が今日、江戸(武蔵国豊嶋郡の江戸城)へ打ち着かれたそうであり、ただ今、書状をもって申し越されたので、時日を移さず、明るいうちに御馬を出されるつもりであるとのこと、その地(下総国香取郡の森山城)は一円に浮衆(予備部隊)の者ばかりを、小見川(下総国香取郡の小見川城)とその地(森山城)に差し置き、(本隊は)払って、明後朔日に菱田まで、必ず必ず出立されるべきこと、このたびはその地(森山)と小見川の用心の必要はないので、各々がそれを心得て罷り立つべきこと、敵を根切りにされるつもりであるので、かかる吉事は間違いなく、本望であること、浮衆立てをして出立しないと申す者がいるのだとしたら、よくよく申し付けられるべきこと、(海上)蔵人はまずまず無用であること(海上蔵人は浮衆と残れということか)、重ねて一報次第によって出立されるべきこと、これらを謹んで申し伝えている。さらに追伸として、そなた(其方)より伝馬の件については、無用であると、嶋田図書に通告されておくべきこと、そしてまた、東徳寺と薬師堂の伝馬を催促し、(嶋田)図書を召し連れて参るべきこと、彼のニ疋の伝馬は用意すること、兵糧を上せるべき分は、兵庫助に道理を説かれるべきこと、以上、これらを申し添えている(『戦国遺文 房総編二』1393号 千葉「胤富」書状)。



一方、下総国関宿城への移座を図る安房国那古寺御所の足利藤政は、8月7日、常陸国太田の佐竹義重(次郎)へ宛てて書状を発し、去る春(正確には初夏の4月である)は、使節をもって申し遣わしたところ、懇切に言上してくれて、悦に入ったこと、御帰座の件については、ともあれ(佐竹義重に)任せられるにより、事がうまく運ぶように絶え間なく手段を講じて精励されるならば、いよいよ感悦であること、なお、(詳細は)簗田八郎(持助)が申し届けること、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1433号「佐竹次郎殿」宛足利「藤政」書状)。

同日、足利藤政は、佐竹義重の側近である岡本梅紅斎(禅哲)へ宛てて書状を発し、去る春は、使節をもって申し遣わしたところ、懇切に言上してくれて、悦に入ったこと、御帰座の件については、ともあれ(佐竹に)任せられるにより、事がうまく運ぶように絶え間なく手段を講じて精励されるならば、ますます感悦であること、なお、詳細は簗田八郎が申し届けること、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1434号「梅紅」宛足利藤政書状写【署名はなく、花押のみを据える】)。


同じく、甲州武田信玄(法性院)は、16日、佐竹義重へ宛てて書状を発し、(佐竹が)図らずも御出陣し、殊に敵とは甚近である様子を、梶原(政景)が申し越されたこと、とにかく御心配であること、すでに火急の攻勢に出られたところを、遼遠の境により、知らなかったゆえ、はじめて申し述べること、誠に本意ではなかったこと、万が一にも関東のうちで蘆名(奥州会津の蘆名止々斎・盛興父子)へ一味する者が、(佐竹)領中へ攻め入るようであれば、御指図通りに後詰めの備えに及ぶつもりであること、当方の事情については、ただ今は向かう敵もなく、隣国は指揮に服していること、御安心してほしいこと、なお、御報次第により、その旨を承知すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1735号「佐竹殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』(富山県)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)

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越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀2年3月〜同年4月】

2024-03-08 23:59:20 | 上杉輝虎の年代記

元亀2年(1571)3月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


3月4日、代官の蔵田秀家が、越後国蒲原郡青海荘小吉条茨曾根の中使(郡司・代官の下で村政を司った首長)である関根 某へ宛てて年貢請取状を発し、納めた蒲原郡内小吉東嶋の御年貢請取りの件について、都合六拾八貫六拾文は、右は去年分の御皆済(完納)として、(関根)中使が徴収した分であること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1031号 蔵田「秀家」年貢請取状写 ●『白根市史 巻一 古代・中世・近世史料』168~169頁)。

当文書の蔵田秀家は、実名のみで名字は書かれていないが、同年8月15日付「瀬木根殿」宛「蔵田 秀家」印判状写(『白根市史 巻一 古代・中世・近世史料』168~169号)により、名字は蔵田と分かる。弘治2年9月朔日に長尾景虎の奉行衆である庄田惣左衛門尉定賢・某 貞盛と共に段銭請取状(『上越市史 上杉氏文書集一』138号)を発給した某 秀家がおり、『上越市史 上杉氏文書集一』では同一人物の可能性があると考えられている。もしそうであるとしたら、謙信から府内代官・青苧座の座頭をはじめとした様々な役目を仰せ付けられ、貢租の徴収も行っていたとされる伊勢御師出身の蔵田五郎左衛門尉その人ではあるまいか。

中使の関根某は、天正13年11月10日付関根孫八郎宛山吉景長判物(『白根市史 巻一 古代中世近世史料』176頁)の受給者である孫八郎(孫太郎とも)の前代に当たる人物であろう。


※ 当文書は、『上越市史 上杉氏文書集一』では関根氏所蔵文書が採録されているところ、『白根市史 巻一 古代中世近世史料』では関根氏文書と板垣家文書の二種類が採録されている。『広報しらね』第302号の「市史よもやま話」には、前者の文書写では「三人中使」とあるが、後者では三人の文字がないことから、「中使」と解しておく、というような相違点が示されており、前掲の元亀2年8月15日付瀬木根宛蔵田秀家印判状写も双方に伝わっているが、それを見比べても、どちらかといえば後者の方が正確に書き写されているようである。



11日、同盟関係にある相州北条氏政は、津久井衆(相州北条家の家老衆である内藤左近将監康行が管轄する)の有力者である野口遠江守・井上某へ宛てて朱印状を発し、深沢城(駿河国駿東郡)を敵(甲州武田軍)が抱えてしまったからには、河村・足柄(駿・甲と国境を接する相模国西郡の河村・足柄城)の普請を申し付けること、人足が不足していること、各々は自戦を同意もしているので、磯辺(相模国東郡)両分の人足二人を申し付けるべきこと、昨年は十日間みっちりであったこと、当年の日数については、五日雇いであるので、来る16日に足柄へ差し向け、奉行の山角・石巻(御馬廻衆の山角刑部左衛門尉定勝・石巻彦六康敬)の代理へ引き渡し、五日の普請に従事させたのち、早々に帰郷するよう、申し付けるべきこと、なお、ただ今は大切な時期であるので、苦労とは思うが、このたびの五日の日限を、速やかに奮励するべきであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1466号「野口殿・井上殿」宛 北条氏朱印状 奉者「安藤豊前守(号良整)」●『戦国人名辞典』野口遠江守の項)。


同日、北条氏政は、昨年末から当年2月まで行われた駿河国駿東郡の御厨陣において、戦功を挙げた紅林八兵衛尉を忠賞し、感状と太刀を与えている。


別して、氏政の大叔父にあたる幻庵宗哲が、今川氏旧臣の紅林八兵衛尉へ宛てて感状を発し、御厨陣の時節は、奮戦したにより、(氏政から)御感状ならびに御太刀を下されたこと、各々が面目を施したこと、よって、(宗哲からも)太刀一腰を遣わすこと、今後においても、ますます戦功を尽くすべきこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1467号「紅林八兵衛尉殿」宛幻庵「宗哲」感状)。



先月末に、越中国味方中の神保長職(惣右衛門尉。越中国増山城主)からの救援要請を受けて出馬しようとしたところ(そもそも2・3月に越中国へ出馬するつもりでいた)、越後国奥郡で騒動が起こり、少々出遅れたが、当月中旬に越中国へ向けて出府すると、17日、神通川を渡って西部へ入り、そのまま敵地への攻撃を開始した。

19日、この日までに越中国中郡の敵地を残らず平らげると、続けて奥郡の守山城(射水郡)・湯山城(氷見郡)を攻撃するため、射水川を渡ろうとしたが、増水によって果たせず、滞陣を余儀なくされた。

そうしたなか、20日、友好関係にある能州畠山家の年寄衆である遊佐孫太郎盛光・温井兵庫助景隆・長 九郎左衛門尉綱連・平 新左衛門尉堯知へ宛てて返書を発し、(畠山家年寄衆が)申し越された通り、(越中国増山の神保)長職から色々と泣き付かれたので、だしぬけに出馬し、17日に神通川を渡ってから、19日までの三日のうちに、敵地を残らず落居させ、人目に立たずに守山・湯山へ押し寄せるつもりでいたところ、六渡寺渡が激しく増水し、未だに渡河できずにいること、安心してほしいこと、行き届いた配慮を示され、飛脚を早々に寄越してもらい、喜悦であること、ますます懇意を加えるべき心中なので、同意されるのが肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1037号「遊佐孫太郎殿・温井兵庫助殿・長 九郎左衛門尉殿・平 新左衛門尉殿」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。


守山城は、『日本城郭大系 7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)の守山城の項
によると、かつては獅子頭城、二上城と呼ばれ、城主は神保安芸守氏張(宗五郎)とされる。神保氏張は、のちには越後国上杉家に従い、天正5年12月の上杉家分国中交名注文に越中衆として見える(『上越市史 上杉氏文書集一』1369号)。宗家の神保長職と対立している氏張といえば、

『寛政重修諸家譜』(巻1182 惟宗氏流)によると、能州畠山左衛門佐義隆の次男で、守山の神保越中守氏純の養子になったと記されているが、久保尚文氏の論集である『越中中世史の研究 室町・戦国時代』(桂書房)の「第六章 越中神保氏の諸問題(Ⅱ)長職期 第一節 天文ー永禄期の越中と能登の関係 (二)神保氏張の出自について」によると、畠山義隆は義総あるいは義続、神保氏純は職広に当たると考えられている。しかし、氏張に関しては、研究ノート「越中神保氏歴代の概説と研究史 ― 慶宗期と長職・氏張・長住期、付小嶋職鎮」(『富山史壇』第185号)において、立山神領の針原(新川郡富山)に置かれていた庶家神保豊前守氏重の男子であり、神保家の再起を遂げた宗家神保惣右衛門尉長職が一族家中の結束を図る一環として猶子に迎え、能州畠山家と連携して氷見を掌握するために守山城へ移した、というように考えを進められている。
そして、森田柿園著『越中志徴』(石川県図書館協会編纂)の神保氏館跡(巻六 新川郡一)の項によると、針原中村に構えた当館には、庶子筋の神保一道・同安芸守が住んだといい、のちに安芸守は氷見を切り取って移り住み、さらには佐々陸奥守成政(織田信長の部将)に従ったことが記されており、こちらを参考にされているので、神保氏重と神保一道は同一人物と考えられているようである。つまり氏張は能州畠山家出身ではないことになる。
近年に取り上げられたという永禄9年6月12日付氷見金橋山千手寺宛神保宗五郎氏張判物写(『氷見市史 6 資料編四 民俗・神社・寺院』第二章 寺院史料)には、「老親一道」と書かれており、氏張の父親は一道であることを裏付けられている。


湯山城は、同じく『日本城郭大系』では森寺城の名称で立項されており、戦国期の城主は長曽筑前守という伝承を挙げて、元亀3年に氷見の朝日山上日寺へ石仏を寄進している長沢筑前守光国であろうと考えられている。長沢光国も神保氏張同様、のちには越後国上杉家に従い、天正5年12月の上杉家分国中交名注文では能登衆として見える(『上越市史 上杉氏文書集一』1369号)。



同日、友好関係にある濃(尾)州織田信長(弾正忠)から返書が発せられ、昨年に畿内の所々で在陣していた件について、案内を承ったこと、本望の極みであること、天下の形勢については、何事も起こらず異常はないこと、恐れながら賢慮を静められてほしいこと、従って、貴辺(謙信)の隣国を御存分に従えたそうであり、当然であろうこと、よって、鷹の件については、繰り返し申し入れているとはいえ、珍しい鷹がいるらしいと、聞き及んだので、重ねて(鷹師を越後国へ)差し遣わすこと、(謙信の)御分国に異変がないのであれば、快然であること、なお、後音を約束すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1036号「上杉弾正少弼殿 進之候」宛織田「信長」書状)。


謙信は、織田信長から送られた2月23日付けの書状により、信長が陸奥国へ派遣した鷹師の通交に便宜を図ってくれるように依頼され、その返事を送ったなかで、昨年の冬頃に越前国朝倉義景にもそうしていたように、もう一方の当事者である信長へも畿内争乱の様子を尋ねていたことが分かる。



25日、同盟関係にある相州北条氏政から書状が発せられ、取り急ぎ申し上げること、もとより(甲州武田)信玄が退散したによって、まずは納馬されたそうであり、本庄清七殿(謙信の重臣)が帰路の折に、(謙信からの)御状を受け取ったこと、その旨を承知したこと、されば、信玄が重ねて当方に向かって出てくるとの情報が、方々から入ってきたこと、実説であろうこと、このたびひたむきな御助力を受けられなければ、いよいよ当方は滅亡から逃れられないであろうこと、御考慮を尽くされ、今この時に上州口へなりとも、信州口へなりとも、(上杉軍の)御出勢を頼み入るばかりであること、委細は景虎へ条書をもって申し届けるので、必ずや見聞に達せられるべき趣を、伊勢右衛門佐が申し述べられること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1039号「山内殿」宛北条「氏政」書状写 ●『戦国遺文 後北条氏編二』1469号)。


※ 北条氏政へ謙信の「御状」を送り届けた人物は、『上越市史 上杉氏文書集一』1039号では「本郷彦七」、『戦国遺文 後北条氏編二』1469号では「本庄彦七」となっており、両方を見て最初は、謙信の重臣である本庄清七(郎)の誤写ではないかと考えたが、謙信の場合、本庄清七郎のような大身の近臣を使者として立てた例がなく、越後衆には本郷(江)氏がいることから、謙信旗本の本郷彦七が使者を仰せ付けられたものと考え直した。しかしよく考えてみたら、相州北条家側が越後国上杉家の使者に敬称を付する場合、「殿」ではなくて「方」がほとんどであることや、北条氏政は本庄の帰路に謙信の「御状」を受け取ったと述べており、使者が帰り際に「御状」を渡したというのも不自然であるし、そもそも使者の文言はないことから、やはり彼の人物は本庄清七郎として見るのが適当であろうと、またもや考え直した。
本庄清七郎は、2月に上野国沼田城へ上田衆や直江大和守景綱たちが派遣された(越山することなく、越府へ戻ることになったが)以前に沼田加勢を仰せ付けられていて、しばらく沼田に滞在していたと考えられ、先に謙信が上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼に命じ、相州北条氏政へ宛てた謙信の「書中」と、北条側の取次・使者である遠山左衛門尉康光へ宛てた副状を案文通りに書かせて送り届けさせたのと同じように、3月中旬に越中国へ出馬した謙信は、本庄に越府へ戻ることと合わせて、その帰路に当たり、「御状」を相州北条氏政へ送り届けることを指示したのであろう。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄は、味方中である常陸国太田の佐竹義重(次郎)と連絡を重ねており、3月3日、義重の側近である岡本梅紅斎(号禅哲)へ宛てて書状を発し、去る頃に申し上げたところ、(佐竹義重から)懇報が到来し、祝着であること、よって、駿・相の国境に長々と在陣し、存分の通りに勝利を得たこと、御安心してほしいこと、これにより、愚存を、重ねて高尾伊勢守(甲州武田家の直参衆)をもって申し述べること、相変わらずの御指南は本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1663号「梅紅斎」宛武田「信玄」書状写)。

27日、安房国那古寺御所足利藤政の側近である木戸左近大夫将監氏胤へ宛てて書状を発し、当御代(足利藤政)へ格別な御礼を申し上げるべきところ、北条氏康の邪魔立てゆえに遅れてしまったこと、七年以来、戦陣については里見義弘と格別に申し語らってきたにより、彼の(里見義弘)意見を得て、ただ今、言上したこと、すべて残らず御取り次ぎを頼み入ること、遠国といい、小身といい、多難であるとはいえ、義弘と相談し、(足利藤政の)鎌倉御帰座を、またとない奔走をする存分であること、詳しい細説は彼の使僧が口上するので、この紙面を略すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1527号「木戸左近大夫将監殿」宛武田「信玄」書状写)。



元亀2年(1571)4月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


4月朔日、越中国中郡での戦陣を終えるにあたり、相州北条氏政へ宛てて書状を発し、、越中国西部へ進んで、敵城十数ヶ所を攻略したことを伝えるとともに、甲州武田軍が現れたならば、ただちに後詰めすることを約束した。

11日、同盟関係にある相州北条氏政から書状が発せられ、去る朔日の御状が、一昨9日に到来して披読し、本望の極みであること、よって、越中へ向かって御出馬し、神通川を取り越えられると、東西一変に御本意を遂げて、敵城十余ヶ所の落居を付けられたのち、御納馬されたそうであり、実にめでたく意義深く、氏政にとっても大慶に勝るものはないこと、とりわけ、信玄が出張してくるならば、即刻に後詰めをしてもらえるそうであり、御紙面で明言されたこと、恐れ多い思いであること、愚意の委細は伊勢右衛門佐を雇って申し届けること、必ずや参着するであろうこと、敵が出張した事実を、聞き届けたならば、夜通しの早飛脚をもって申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1040号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

15日、御本城様の北条氏康(相模守)から書状が発せられ、○前欠、一、(謙信は)御加勢は、もちろん行うつもりであるとのこと、当家の大小の者たちは、輝虎の御威光をもって、迅速に本意を達したいと、一和を結んで以来、思っていたところ、日を追って弓箭が劣勢になるにより、いよいよ氏政の手並みを見限って、何とも国中の仕置に従事しないこと、必ず必ず来秋は、7月上旬に御出馬されて、当家を引き立てられてほしいこと、一、相・甲が一和を遂げたそうであると言っている人がいたとかで、これにより、御誓詞を給うこと(互いに誓詞を取り交わそうという提案か)、一方では恐れ多く、一方では戸惑っていること、どうして御越山は御苦労であると理解しているこちらが、虚言を仰せになられたという
ように思うのかと、讒言の所行とは、古今の習わしであること、よくよく御糺明を遂げてほしいこと、氏康父子が不当に自己の利益だけを図っているわけではないところを、伊勢右衛門佐をもって申し届けること、しっかりと御聞き届けてもらいたいこと、一、境目の要害や仕置に関する助言を、仰って下さったこと、誠にもって御懇意のほど、本望満足であるのは紙面に書き尽くせないこと、もとより信玄・氏政が骨肉を結んで以来、当方の事情は内外に限らず知っているところ、信玄は表裏を近年してやまず、豆・相境目の普請や仕置を堅固に致され、不慮に駿州を攻めたので、(氏康は)義理に任せ、相・甲が対立した以来、にわかに仕置に及んだゆえ、数ヶ所の口々の普請以下は完成しておらず、今も苦労していること、間違いなく油断ではないこと、一、万人を勇気づけるべきであるとは、いかにもその意を得たこと、とにもかくにも貴国を頼らなければ、大小に関係なく皆が終わりを迎えてしまうこと、氏政を御覧になり続けられれば、来る7月の調儀に極まること、ここのところを御見逃しあれば、当方の侍共が氏政を見捨てるのは、歴然ではないかと思われること、諸証人の件については、御越山のあかつきには、とりもなおさず、引き渡すつもりであるとは、前にも申し述べたこと、今なお異議はないこと、氏政の立場については、御疑心を抱かないでほしいこと、ひとたび国分けを定め、甲・信を討つべき覚悟を決めたからには、諸証人の出し惜しみを一切しないこと、幸いにして召し寄せられるべき模様があること、沼田へ御越山のあかつきには、(小田原には)一人も残しては置かないこと、一、麦秋に至り、信玄が出張してきたならば、即刻に後詰めするつもりであるとは、誠に恐れ多い思いであること、西上州へでも、信国へでも、ひたむきな御手立てを頼み入るもので、伊右(伊勢右衛門佐)が申し述べること、敵の進撃で事態は切迫しており、強く知らせること、早速にも御出勢に極まること、ここから注進したのでは遅くなってしまうこと、ひたすら敵の動向を切々と申し入れるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1041号「山内殿」宛北条「氏康」書状【体調を崩しているために朱印(印文「機」)を据えたとされている。】)。


この間、7日、北条氏政の兄弟衆である藤田新太郎氏邦が、鉢形衆(藤田氏邦の被官集団)の山口上総守へ宛てて朱印状を発し、山中(上野国甘楽郡山中地域)のうち、あそふ村(麻生村)、をより(大寄村)、なか嶋(中嶋村)、以上、度々において、粉骨を尽くして奮励し、なかでも息孫五郎が討死したこと、類い稀な忠節であること、褒美として、ここに示された三ヶ村を扶助するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1471号「山口上総守殿」宛 藤田氏邦朱印状【奉者「三山」綱定】)。

同日、藤田氏邦が、鉢形衆の高岸対馬守へ宛てて朱印状を発し、御赦免の条々、綿一把、漆半分、舟役三艘、人足五人、以上、2月27日に石間谷へ敵が攻め掛けてきたところに、各々が出合わせ、粉骨を尽くし、高名を極めたところ、(藤田氏邦が)御感心されたので、彼の御褒美として、ここに示された役を長く免許されること、ますます勇敢に奮励するべきであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1470号「高岸対馬守とのへ」宛 藤田氏邦朱印状【奉者「三山」綱定】)。



16日、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国群馬郡の厩橋城の城代)が、厩橋八幡宮の金蓮坊へ宛てて証状を発し、当地厩橋八幡宮の御神領から出されている夫役と伝馬役を宥免し、ならびに祭礼の際には地頭人の策配もさせないこと、およそ諸役の停止は、永代にわたって違乱はないにより、わけても当家の武運長久の御祈念、ことさらに社領の造営を丹精に励まれるべきであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1042号「金蓮坊 参」宛「北条丹後守高広」判物)。

同日、北条高広の近親者である北条下総守高定(上野国勢多郡の真壁城の城将)が、同じく厩橋八幡宮の金蓮坊へ宛てて寄進状を発し、当地 厩橋八幡宮の御神領があの通り失われているゆえ、御拝殿は残らず破損しているので、真壁三清寺分のうち、赤城の御神領である泉浄寺三貫文の所を寄進すること、ますます御神前において、武運長久の御祈念を、わけても当坊に頼み入ること、御世間が御一統されるからには、赤城御造立が肝心であること、ならびに真壁八幡宮の御工面された百疋の所も差し添えること、南八幡・赤城共に御修立が相当であること、後日のために一筆を差し上げるものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1043号「金蓮坊 参」宛「北条下総守高定」寄進状)。


※ 北条高定を上野国真壁城の城将としたのは、栗原修氏の論集である『戦国期上杉・武田の上野支配 戦国史研究叢書6』(岩田書院)の「第二編 上杉氏支配の展開と部将の自立化 第二章 厩橋北条氏の存在形態 第三節 地域的領主制の展開」による。



越中陣を終えて帰国して間もない、17日、越後国内の村々へ朱印状を発し、この御いんばん(印判)を壱人でも、御くら(蔵)から通行する人衆が携えていなければ、たがもの(誰者)であっても、てんむしゆくおくり(伝馬宿送)を務める必要はないこと、もしも騒々しいことを言う輩がいたならば、そうむら(惣村)は召し搦めて、ここもと(越府)へ連行するべきこと、以上、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』1044号 上杉謙信朱印状【印文「立願勝軍地蔵・摩利支天・飯縄明神」】)。

24日、与板衆の窪田右近允(側近である直江大和守景綱の重臣)へ宛てて感状を発し、このたび堀江駿河守(謙信旗本)に敵地へ調儀を申し付けたところ、精励して敵を討ち取り、験(首)を持参したのは、神妙奇特な振る舞いであると、 (謙信が)仰せ出されたものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』1046号「窪田右近允とのへ」宛 上杉謙信感状写【署名はなく、花押のみを据える】)。


謙信が旗本部将の堀江駿河守に命じた敵地への攻撃は、3月の越中陣におけるものであろう。そして、堀江が主将を任された敵地への攻撃で、本来は直江景綱が率いる与板衆の窪田右近允が戦功を挙げたということは、謙信は、敵地を攻撃させるにあたり、直江も越中陣に従軍していた場合は、与板衆の一部を借り受けたか、直江に越府・春日山城の留守将を任せた場合は、与板衆を二分し、陣代に引率させた一方の与板衆のうちから借り受けたかして、堀江に添えたことになるのだろう。



この間、下総国関宿城への移座を目論む安房国那古寺御所の足利藤政は、常陸国太田の佐竹義重(次郎)に尽力を求め、4月22日、義重の側近である岡本梅紅斎(号禅哲)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ御書を認められたこと、忠信を励むつもりであると、(足利藤政は)聞し召され、感心されたこと、ますます義重の手前で精励し、早速にも御帰座の件について、(義重が)奔走するならば、御悦喜であること、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1389号「梅紅斎」宛足利藤政書状写【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、別紙にて岡本梅紅斎へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、武田晴信(号信玄)は今般、武州へ向かい、出張するそうであると、そう聞こえていること、各々で相談し、御威光(足利藤政の関宿移座)の件について、精励するならば、喜悦であること、詳細は簗田八郎(持助。鎌倉公方の家宰であった簗田中務大輔晴助の世子)が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1390号「梅紅斎」宛足利藤政書状写【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。常陸国新治郡の片野城主)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、武田晴信(号信玄)は今般、武州へ向かい、出張するそうであると、そう聞こえていること、各々で相談し、御威光の件について、精励するならば、喜悦であること、詳細は簗田八郎が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1391号「太田美濃守殿」宛足利藤政書状【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、佐竹氏に従属する常陸国衆の真壁安芸守久幹(常陸国真壁郡の真壁城主)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ御書を認められたこと、されば、義弘父子(房州里見義堯・義弘)が御威光の回復に精励されていること、その口において、各々で相談し合い、御座を移される件について、奔走するならば、忠信であること、詳細は簗田中務太輔(号道忠。俗名は晴助。下総国葛飾郡の関宿城主)が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1392号「真壁安芸守殿」宛足利「藤政」書状 封紙ウハ書「真壁安芸守殿 藤政」)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『白根市史 巻一 古代・中世・近世史料』(白根市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)

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越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀2年正月〜同年2月】

2024-01-29 23:56:04 | 上杉輝虎の年代記

元亀2年(1571)正月2月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【42歳】


正月20日、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)から(謙信と上杉三郎景虎へ宛てて)書状が発せられ、正月5日の御状を、今20日に駿州御厨(駿東郡)の地において披読し、まさに本望であること、されば、深沢の事態により、内々に御越山を待ち受け、(謙信と)申し合わせて後詰めに及びたいと思っていたところ、要害は地盤が悪く、三十余日も昼夜にわたって攻め込まれ、一曲輪だけにされており、(城衆を)助けなくてはならないとの思いから、後詰めとして、去る10日に小田原を出立し、敵陣五里のうちに詰め寄せたところ、敵が金鑿衆を入れ、本城外張まで穿ち崩すと、城主(北条左衛門大夫綱成)は後詰めを待たずに、我慢が足らず、独断をもって、去る16日に城を出て後退してしまったこと、氏政の考えによる処置では決してないこと、偽りにおいては、八幡大菩薩・愛宕大権現・三嶋大明神の御罰をたちまちに蒙られるべきこと、とりわけ、敵は(深沢)要害を再興するつもりでいるのか、今だに深沢の地に在陣しており、来る日も来る日も双方へ備えを出し、爰元へは遠物見を差し向けて動静を探っていること、(武田軍が要害を再興するとの予想にも)一理はあろうこと、このような事情を踏まえたうえで、早々の御越山を願うところであること、誠に深雪で馬足が捗らないところ、その事情を深く弁えたうえで、(越山以外に)選択される余地はないと思われること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1018号「山内殿・三郎」宛北条「氏政」書状)。



相州北条軍の駿河国駿東郡における二大拠点の深沢城(北部)と興国寺城(南部)は、昨年末から甲州武田軍の再度となる攻撃を受けていた。


23日、友好関係にある濃(尾)州織田信長(弾正忠)から書状(謹上書)が発せられ、昨年の秋以来、音問が遠ざかっていたこと、心外の極みであること、よって、陸奥へ鷹を尋ね求めるため、鷹師両人を差し下すこと、過書、同じく路次番などの頼み事に、結構な御言葉を加えてもらえれば、本望であること、従って、豹皮二枚を差し上げること、所有してもらいたいこと、なお、追って申し述べるつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』646号「謹上 上杉弾正少弼殿」宛織田「弾正忠信長」書状)。


謙信と信長が直書を取り交わしているなかで、どういう事情によるものか、当文書と、永禄12年もしくは元亀元年と推定される10月22日付謙信宛信長書状(『上越市史 上杉氏文書集一』では永禄12年に置かれている819号)だけは謹上書である。この前後に見える謙信宛信長書状は通常通り、署名は官途を書かずに「信長」と実名のみで、宛名は「上杉弾正少弼殿 進覧之候(進之候)」と脇付けが書かれている。

※ 当文書を『上越市史 上杉氏文書集一』は永禄12年に置いているが、奥野高広『増訂 織田信長文書の研究 上巻』(吉川弘文館)における信長の花押形による年次比定に従い、当年の発給文書として引用した。そして、10月22日付謙信宛信長書状の年次比定が、永禄12年もしくは元亀元年に推定される、と記されているのは、木村康裕氏の論集『戦国期越後上杉氏の研究 戦国史研究叢書9』(岩田書院)における「第二章 上杉・織田氏間の交渉」であり、論考に付された上杉・織田氏間交渉の関係史料目録では、元亀元年ヵとされている。



これより前、敵対する甲州武田信玄(法性院)は、深沢城攻略中の3日、深沢城衆の主将である北条左衛門大夫綱成へ宛てて矢文を放ち、このたび信玄はこの表へ向かって出張し、当深沢の地を取り詰められたのは、むりやりに当城の所有を争い望むものではなく、自らの保衛のうちであること、要害を取り巻いたので、おそらく氏政は後詰めの手立てに及ばれるのではないかと思われ、そうであれば、雌雄を決し、競望を尽くすのを欲するにより、爰許に在陣していること、もとより甲・相が骨肉の好を結んでいた事実は、隣邦には多年にわたり、広くれ渡っていたこと、これにより、先年(永禄4年)に東八州の士卒は残らず景虎の鞭影に従い、小田原へ襲来すると、氏康父子籠城の時節には、随分と加勢に及び、ことさら半途まで信玄は出馬し、これらの才略のゆえか、凶徒は退散したこと、翌年(永禄5年)に長尾は上州の鳴溝に馳せ向かって戦場を張り、大いに威風を雄々しく振るったとはいえ、重ねて氏政に合力して厩橋へ向かって攻めかかり、去年(永禄4年)に小田原へ寄せられた時の鬱懐を散ぜられたこと、そればかりか、武州松山の城へ向かい、甲・信の猛勢は両年(永禄5・6年)に及んで張陣し、士卒は逃げずに真っ向から、粉骨を尽くし、籌策を廻らせたので、ついに氏康は本意を達せられ、ならびに関東を掌握に納められたのは、信玄の助けがなければ、どうなっていたのか、そうしているうちに、北条名代は子々孫々に至るまで、甲州に対し、永久に疎意を企てたりしないとの趣を、数通の起請文をもって契約したのであり、縁家といい、誓諾といい、どちらにしても、氏政に対し、余すところなく心の底から頼もしく思われていたのは、深く確かであったこと、しかるに今川氏真と信玄は骨肉の因縁が浅からぬところ、氏真は若輩ゆえか、またはあのように滅亡するべき前兆であったのか、信玄に対し、日を追って、交わりを断ち、好を忘れ、おまけに甲陽の旧敵である長尾景虎に同心を実行し、武田を傾かせるために弓箭を目論んだのは度々であったこと、それでも信玄は武力を行使する願望を抑えて堪忍していたところ、ともすれば虎狼の心を差し挟み、呉越の思いを含まれるので、我慢の限界を超えてしまい、はからずも駿国へ乱入すると、氏真は一防戦にも及ばずに敗北、彼の国を残らず撃砕し、累年の遺恨を瞬く間に散じられたこと、この氏真の行状を伝え聞くには、天道を恐れず、仁義を専らにせず、文もなく、武もなく、ただひたすら酒宴遊興に耽り、士民の悲歎を知らず、諸人の嘲りを恥じず、ほしいままに我意を押し通すにより、何をもって国家人を保つつもりであったのか、いささかも信玄に氏真を滅ぼし倒すつもりはなく、しかしながら、天罰と冥慮に背き、自らを滅却するものであり、氏真を救済する意図が、むしろ氏康は「見迦」にあらざること、されば、上野在留の折、小田原から使節をもって条々を示し預かったこと、縁属の好の間柄であるのに黙ったままでいるわけにもいかず、氏政の所望通りに応諾し、とりわけ誓詞をもって相談されたこと、そうしたところに非常識にも薩埵山によじ登り、信玄を滅ぼすべき手立てを打ったこと、誠に回避し難いとはいえ、私なきにより、虎口の死を逃れ、すでに神慮と仁義の誓いを軽蔑し、あのような謀計を巡らせるとは、士たる者の本意なんぞではあってはならないのではないか、この恨みは蒼海に反して浅く、須弥山に反して低くに似ており、一戦をもって鬱憤を散じるため、一昨年(永禄12年)の秋に数日を敵国で凌ぎ、小田原へ向かって攻め寄せたが、一向に出てこないので、蓮池まで放火して馬を帰すと同時に、(氏康・氏政父子により)源三・新太郎方(大石氏照・藤田氏邦兄弟)が送り出されたので、傍若無人ながら戦場の常であり、そうするよりほかに仕様がなく、三増峠において大略を討ち取ったこと、彼の兄弟衆は前代未聞の見苦しい敗軍の体たらくであり、北条の不名誉な行いは諸軍の嘲りを受けるだけであったこと、(氏政は)かならずや加勢してくると思われ、備えを返したところ、今だに追いかけてこないまま、氏政は敗北したので、不甲斐ないと思いながら帰陣したこと、また、昨年5月の沼津(駿河国駿東郡)に在陣した折、氏政は山中まで出張したので、願ってもない幸運と思い、幕前へ向かうと、再三にわたって乗り詰められたとはいえ、塁を高くし、溝を深くし、干戈をたわませ、門戸も閉ざしたので、やむを得ず、豆州の郷にある韮山近辺を残す所なく放火したこと、およそ氏政は自力をもって甲兵に対し難いため、多年の古敵である景虎に対し、眉に皺よせ、口をひそめ、面を和らげ、手を束ね、様々な手段を用い、降参して一和を遂げると、信国へ乱入するとの風説が流れてきたので、どう考えても例を見ない手立てを講じてくると察せられたので、昨年に河中島へ出馬し、北敵を待たれていたところ、越軍はまったく現れる気配がなかったので、そのまま関東へ発向し、沼田(上野国利根郡)・厩橋(同群馬郡)・深谷(武蔵国幡羅郡)・藤田(同榛沢郡)などの領内の民屋以下を一宇残らず焼き払ったのちに帰陣したこと、とりわけ、一昨年の冬に蒲原(駿河国庵原郡)へ向かって馬を進められたところ、四郎・左馬助(諏方勝頼・武田信豊)の軍兵を遣わすと、自身で塀を乗り越え、半時ほどで乗り崩し、同名新三郎方(久野北条氏信)をはじめとして、狩野・清水そのほか一人も残らず誅殺し、士卒は凱歌を唱えたこと、よって、この威風で(北条軍は)薩埵山から自落、ならびに岡部次郎右衛門(正綱。今川家の重臣)が拠っている氏真屋敷(駿河国安倍郡の駿府館)へ陣を寄せたところ、様々に(岡部正綱は赦免を)懇望してきたので、赦免して召し出されたこと、とりもなおさず大原肥前(資良)が立て籠もる花沢の城(駿河国益津郡)へ駆け向かい、稲麻竹葦のように幾重にも取り巻き、瞬く間に乗っ取ったこと、大肥(大原資良)は元来、他国の者であり、刎首などはせずに命を助けて追放したこと、毎度このような大勝を得られたのも、あるいは武勇が甚だしいわけでもなく、あるいは武略が盛りであるわけでもなく、ただ天の冥感によるものであり、よくよくこれを案ずるに、駿国をはじめとして八ヶ国を、天道により信玄に与えられるところ、どうして氏康はおよそ障碍の企みを巡らせるであろうか、この条々を詳しく御存知の通りとはいえ、ついでをもって申し入れること、よって、甲・相の楯鉾については、相互に軍勢の労兵が気の毒なので、早く安否を決せられるためにも、一戦するのが当然ではないかと思われ、その地(深沢城)には随一の衆が御籠城しており、絶対に見捨て難いのであれば、(氏政の)後詰めの備えがあるかと思われ、城中から(後詰めの)ひたすらの御催促は適当であろうこと、飛脚を差し遣わされるならば、路次中は支障なく、小田原まで送り届けるつもりであること、委細は回札を待ち入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1639号「北条左衛門大夫殿」宛武田「信玄」書状写)。


※ この矢文とされる文書の真偽は明らかでないとのこと。



対して相州北条氏政は、駿州深沢城に後詰めをするため、諸将に動員をかけたり、駿東郡に着陣したのちは、武田軍別動
隊に攻撃されている興国寺城の城代から、城内に侵入した敵勢を撃退したとの報告を受け、城代以下を忠賞したりしている。

正月6日、仁木弾正右衛門尉(相州北条家の客将か)へ宛てて証状を発し、先般に通告した通り、このたびの一戦は唯一無二のものと思い詰めているので、人数を調え、ひたすらに粉骨を尽くして奮闘されるべきこと、本意を遂げたあかつきには、立身は御望みに任せること、家中人においては、このたび身命をなげうって奮闘するべきこと、いずれも戦功次第で引き立てるつもりであること、偽りなきところは八幡大菩薩が照覧あること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編』1455号「仁木弾正右殿 御宿所」宛北条「氏政」判物写)。

同日、鎌倉公方足利家の御一家であり、相州北条家の統制下に置かれている「蒔田殿」こと世田谷吉良氏朝(左兵衛佐。妻は相州北条家の長老である幻庵宗哲の娘で、氏康の養女と考えられている)の重臣である江戸刑部少輔(頼忠。この江戸氏は武蔵国江戸の地から出た)へ宛てて証状を発し、先段にも通告したとはいえ、このたびの一戦は唯一無二のものと思い詰めているので、重ねて通告すること、人衆を調え、ひたすら粉骨を尽くして奮闘されるべきこと、本意を遂げたあかつきには、恩賞は望みに任せること、家中人においては、このたび身命をなげうって奮闘するべきこと、いずれも戦功次第で引き立てるつもりであること、偽りなきところは八幡大菩薩が照覧あること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1454号「江戸刑部少輔殿」宛北条「氏政」判物 ●『戦国人名辞典』吉良氏朝・江戸頼忠の項)。

7日、諸足軽衆の有力な寄親の一人である荒川善左衛門尉へ宛てて証状を発し、このたびの一戦においては、当方の安危にかかわるので、着到のほかに、何としても人衆を用意し、またとないほどに奮闘するべきこと、本意を遂げるにおいては、恩賞は戦功次第で望みに任せること、同心・被官においても、今この時であるので、身命を軽んじて奮闘するべきこと、進退については、力を尽くして引き立てるつもりであること、偽りなきところは八幡大菩薩が照覧あること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1456号「荒川善左衛門尉殿」宛北条「氏政」判物写 ●『戦国人名辞典』荒川善左衛門尉の項)。

同日、今川氏旧臣の小倉内蔵助へ宛てて証状を発し、このたびまたとない一戦をするつもりであり、身命をなげうって奮闘されるべきこと、本意を遂げるにおいては、恩賞は戦功次第で望みに任せること、偽りなきところは八幡大菩薩が照覧あること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1457号「小倉内蔵助殿」宛北条「氏政」判物写 ●『戦国人名辞典』小倉内蔵助の項)。

11日、三嶋神社(伊豆国田方郡)へ宛てて証状を発し、このたびの深沢後詰めの一戦に、勝利を得るにおいては、当社の先規の通り、当年中にすべてが成就するように、建立するつもりであること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1458号)。

12日、興国寺城の城代である垪和伊予守氏続(武州松山衆を率いる)へ宛てて感状を発し、このたび興国寺へ敵が忍び入り、数百人が本城へ取り入ったところ、其方自身(垪和氏続)が太刀打ちし、敵を仕庭において五十余人を討ち取られ、城内を堅持したのは、前代未聞の結果で、類い稀な戦功であり、誠に感じ入るばかりであること、ここで本意(深沢後詰めの成功)を遂げたならば、進退を引き立てるつもりであること、よって、久しく所持していた秋廣の刀一振を与えること、(後日のために)差し上げた状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1459号「垪和伊予守殿」宛北条「氏政」感状写)。

同日、垪和氏続の一族である垪和善次郎へ宛てて感状を発し、このたび興国寺へ敵が忍び入ったところ、粉骨を尽くし、敵一人を討ち取ったこと、類い稀な高名であること、相当の扶持を約束すること、よって、(後日のために)状に前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1460号「垪和善次郎殿」宛北条「氏政」感状写 ●『戦国人名辞典』垪和善次郎の項)。



昨年の4月から対抗している将軍足利義昭・濃(尾)州織田信長と越前国朝倉義景・江北の浅井長政の間で、8月中旬に江北表で動きがあった途端、織田軍は、阿波国から進んできた三好三人衆に対応しなければならなくなり、摂津国野田・福嶋(西成郡)へ向かうと、9月に入り、朝倉・浅井・三好三人衆と友好関係にある大坂本願寺・一向一揆が蜂起して参戦し、その間、朝倉・浅井連合軍は江北を経て京都まで進んだが、やがて9月下旬には織田軍と朝倉・浅井連合軍は舞台を江北に移して争うところとなり、そこから12月中旬まで、織田軍と朝倉・浅井連合軍・比叡山延暦寺との間で展開された攻防(近江国志賀の陣)の情報を得るため、織田信長とは友好関係にあり、朝倉義景とは長年の同盟関係にあるなか、まずは朝倉義景の許へ使者の関半五郎(謙信旗本)を派遣すると、22日、朝倉義景の側近である山崎長門守吉家(内衆)から返書が発せられ、(朝倉義景が)旧年に江州坂本(志賀郡)へ御出馬されたのに伴う、(織田)信長との対陣の様子を、御心配されているそうであり、 上椙殿から拙者(山崎吉家)まで、御書を携えた御使者の関半五郎方を海津(近江国高嶋郡)へ寄越されたこと、その趣を(義景へ)申し上げたところ、(義景は)御入魂による御快然の旨を、川豊(河田豊前守長親)まで、御直書をもって仰せられたこと、彼の表の始末を、こちらから申し入れるべきであったとはいえ、手前(山崎)は取り乱れていて、それが無理であったこと、信長が8月中旬頃に江北表へ出張してきたので、浅井方への御合力のため、方々に加えて我等(山崎)のような軽輩も差し向けられたこと、そうしたところに、信長は南方辺(摂津国)へ進発してしまっており、また、当手衆も江北から同じく西路を経て達したところ、森三左衛門尉(可成。織田家の重臣)が志賀要害(志賀郡)を打って出られ、下坂本を保持しようとしたので、拙者は先勢として向かい、9月20日に彼の口を攻め崩し、森三(森 可成)・信長舎弟の織田九郎(信治)をはじめ、数多を討ち取り、即日、落居させたこと、されば、三好三人衆との堅い約束の旨に任せ、同24日に京表へ達し、青山・勝軍山(山城国愛宕郡)において、此方(朝倉軍)が合図の狼煙を挙げた半ば、信長は南方表を引き払い、志賀へ打って出たので、南方衆は青山・局笠山・叡山・同じく上坂本(いずれも近江国志賀郡)を維持し続け、変わりなく確保していること、これにより、(義景は)10月中旬の時分に上坂本へ向かって御進発され、式部太輔殿(同名衆の朝倉景鏡)、そのほか馬廻衆も同前であること、その後、何度も御合戦に及ばれ、数輩を討ち取られたこと、この形勢により、敵は様々に調略を仕掛けてきたこと、11月25日未明に信長は人数千余を堅田浦(近江国志賀郡)へ差し入れ、越州(越前国)路の遮断を企んだところ、翌26日早朝に式太(朝倉景鏡)・前波(藤右衛門尉景当。内衆。年寄衆の筆頭)を差し向けられ、敵の人数を一人残らず、堅田地下人のうちで(織田軍に)同調した者も、かれこれ千五百ばかりを討ち取られ、御大勝されたこと、彼の表における前藤(前波景当)の討死は、類い稀な奮戦であったのは言うまでもないこと、そうしたわけで、 公方様(足利義昭)が三井寺(近江国志賀郡の長等山園城寺)まで御座を移され、(朝倉と織田の)一和をしきりに仰せ出されたのを受け、(義景は)12月15日に御馬を納められたこと、信長からは様々な誓詞を受け取ったこと、以上の趣は、いずれの折りに、直和(直江大和守景綱)まで御伝達されるのが肝心であること、なお、様子においては、関半(関半五郎)が演説されるので、(この紙面は)省略すること、必ず必ず当春の御慶賀などは、追って申し入れるつもりであること、これらを恐れ畏んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1019号「山崎長門守吉家」書状写)。


元亀4年3月19日付長 与一宛上杉謙信書状写(『上越市史 上杉氏文書集一』1141号)によれば、南方表(摂津国)で三好・本願寺勢と対決していた足利義昭・織田信長が、朝倉・浅井勢の江南・京都進攻によって、9月下旬に南方表から引き上げざるを得なくなると、京都に戻った義昭は丹後国への移座をも進めるなか(信長は江南へ向かった)、謙信の許へ使者を下し、謙信に見放されたら、京都に御座を保てないとして、早急な上洛を求めていた。


越後国上杉家と越前国朝倉家の通交において、上杉側の取次を担当したのは、当文書や永禄8年6月16日付直江大和守景綱宛山崎長門守吉家・朝倉玄蕃允景連連署状(『上越市史 上杉氏文書集一』459号)からして、直江景綱であったとされているわけだが、今回は何らかの事情により、謙信の「御書」のみが、朝倉側の取次である山崎吉家へ送られたようである。一方で、朝倉義景の「御直書」が河田豊前守長親へ送られており、ただ単に、越中在国の河田長親を経由しただけなのか、あるいは、いずれかの年に河田も上杉側の取次に加わっていたのかもしれないが、どうにも上杉・朝倉間のやり取りはちぐはぐな印象を受ける。これは、長尾家時代から同盟関係にある朝倉家、永禄7年から友好関係にある織田家、どちらの取次も直江景綱が務めていることから起こった事情であろうか。



2月6日、昨年の秋に同盟を結んだ遠(三)州徳川家康(三河守)から書状が発せられ、新暦の御吉兆を表すには時が経ってしまったとはいえ、今さらでも済ませないわけにはいかないこと、よって、守家の刀一腰を進覧すること、御秘蔵してもらえれば、恐れ入りつつも喜ばしいこと、委細は権現堂(叶坊光幡)に申し含めており、口上あるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』1022号「上杉殿」宛徳川「家康」書状)。


※ 2月4日付村上源五宛本多忠勝書状写(『上越市史 上杉氏文書集一』1020号)は、徳川側から発せられた文書であるにもかかわらず、上杉側から発せられた元亀元年8月30日付松平左近允宛河田長親書状写(同前935号)とほぼ同文であるため、引用はしなかった。よって、本多忠勝は上杉家と徳川家の通交における徳川側の取次一団のうちではないことになる。



駿河国御厨地域で甲州武田軍と対峙している相州北条氏政は、2月13日に敵陣へ夜襲を仕掛けると、15日、戦功を挙げた今川氏旧臣の紅林八兵衛尉へ宛てて感状を発し、去る13日の夜に敵陣へ忍び入り、陣際において敵一人を松長左大夫(駿東郡松長の地から出た武士か)と協力して討ち取り、高名を挙げたのは感心であること、よって、太刀一腰を遣わすこと、なお、戦功を励むべきこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 後北条氏編二』1463号「紅林八兵衛(尉)殿」宛北条氏政感状【花押のみを据える】●『戦国人名辞典』紅林八兵衛の項)。


紅林八兵衛尉は、こうした戦功を重ねることにより、のちに北条氏照の家臣団に編入される(『戦国人名辞典』紅林八兵衛の項)。



16日、越中国代官を任せている河田長親(豊前守。越中国魚津城の城代)が、配下の小越与十郎(長親の側近である小越平左衛門尉の息子であろう)へ宛てて証状を発し、石坂藤五郎分の内で渋木五郎右衛門尉分、如意輪寺の内で下条源助分、片貝の内で五貫文所、棹山分、以上(いずれも越後国古志郡内の地)を出し置くこと、軍役等を必ずや心掛けるべきこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』1023号「小越与拾郎」宛河田「長親」判物写)。


甲州武田軍が上野国の上杉領へ侵攻したとの情報を受け、甥の上田長尾喜平次顕景の配下である上田衆や、側近の直江大和守景綱、旗本部将の大石惣介芳綱たちを越後国上田の坂戸城を経て上野国沼田の沼田(倉内)城へ向かわせると、27日、長尾顕景の陣代を務める栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、一刻も片時も急いで喜平次者共(上田衆)を早々に召し連れ、まず先衆として(沼田城へ)打ち着くべきであり、この直書(謙信が北条氏康へ宛てた書状)を鉢形(武蔵国男衾郡。相州北条氏政の兄弟衆である藤田氏邦の居城)まで、上田の者に持たせて差し向けるのが肝心であること、このような状況であるので、いずれも頼りにしていること、面々共に申し聞かせるのが適当であること、このほかは書き記さないこと、以上、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』1027号「栗林二郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。

同日、上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、21日にその地(坂戸城)へ打ち着いたそうであり、いつもながらとはいえ、早々の越山は骨折りで言葉もないこと、各々(上田衆)と直江(景綱)をはじめ、(沼田城へ)差し向けた者共で相談し合い、適切に奔走するのが肝心であること、万事めでたく調ったのちには、敵の様子を重ねて知らせて寄越すべきこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、この二通の書中を、大石惣介(芳綱)と直江かたへ早々に届けるべきこと、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1026号「栗林次郎左衛門尉殿」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。

28日、栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、昨日の書中には、喜平次者(上田衆)は沼田へ移るように申し付けたが、丹後守(関東代官の北条丹後守高広)からの注進の内容によれば、敵は退散したそうなので、その地の者共を、早々に召し連れて当府へ馳せ上るべきこと、越中へ出馬するので、一騎一人も欠けないように傍輩共を召し連れるべきこと、また、関東行の人留を厳重に申し付けるべきこと、昨日、差し向けた氏康(相州北条氏康)への書中をば、手数をかけるが、喜平次の所から飛脚を立たせて、(前日には鉢形へ送ることを申し付けていた)小田原まで届けるべきこと、吾分(栗林房頼)の所から遠左方(遠山左衛門尉康光。相州北条氏康の側近)への書中の書き様は、「長尾喜平次代として、沼田へ罷り移り候処、北条丹後守申し越す分は、敵退散の由申し候間、打ち返し申し候、其のため実城(謙信)よりの氏康への直札を差し越し候、然るべき様に御取り成し簡心に候由、」とすること、吾分も遠左方へ添文を調えて届けるべきこと、このほかは書き記さないこと、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』号「栗林二郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。


上田長尾顕景は、上田衆や直江景綱たちが上野国沼田城へ派遣された以前に、何らかの事情により、越府から本拠の坂戸城へ出向いていたようである。それから、越中国へ出馬する謙信から越府へ上るように指示された上田衆(おそらく直江景綱も)に対し、大石芳綱は、そのまま沼田城へ向かい、この機会に城衆の一員に加えられた可能性がある(『上越市史 上杉氏文書集一』1047・1369号)。


謙信は、前年の12月13日の時点で、当年の2・3月に越中国へ出馬する考えであった(『上越市史 上杉氏文書集一』953号)。


同日、相州北条氏政から書状が発せられ、玉龍坊(乗与。北条氏政の使僧)が一昨26日に(小田原城に)帰着したので、報告をうけたところ、もとより必ず御越山されるそうなので、本当に大きな喜びであること、ようやく沼田に御到着されたのかどうか、即刻、藤田新太郎(氏邦)に遠山左衛門尉(康光)を差し添え、愚意を申し述べるつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている。さらに追伸として、敵は退散してしまい、(氏政も)去る23日に帰陣したこと、以上、これを申し添えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』886・1029号「山内殿」宛北条「氏政」書状写)。


※ 当文書は、『上越市史 上杉氏文書集一』では886号(某古書店目録)と1029号(伊佐早文書)が重複しており、それぞれ永禄13年(元亀元年)と元亀2年に置かれているが、前者では、当該期の輝虎(謙信)は昨年の11月に関東越山し、年明けの下野国唐沢山城攻めなどを経て、上野国厩橋城へ戻り、謙信の新たな養子に決まった北条三郎の受け渡し手順について、相州北条方と協議中であり、北条氏政の書状に記されているような、越山して沼田城へ到着したかどうか、という状況にはなく、それは翌元亀2年であるため、当年の発給文書として引用した。


今回、甲州武田軍が厩橋・沼田を攻撃する可能性がなくなったので、関東越山を取り止め、越中国へ出馬するという矢先に、かつて叛乱を起こしたが失敗に終わって蟄居させている外様衆(揚北衆)の本庄弥次郎繁長(雨順斎全長)と、その監視役である外様衆の鮎川孫次郎盛長(越後国瀬波(岩船)郡の大場沢城主。本庄氏とは同族関係にある)・謙信旗本の三潴左近大夫(実名は長能か。同蒲原郡の長目城主である三潴出羽守長政の世子)との間で小競り合いが起こる。

29日、越後国瀬波(岩船)郡の猿沢城で蟄居中の本庄繁長や、越後国と境を接する出羽国を監視させるために、繁長の本拠である村上城と猿沢城とは至近の庄厳城に置いている鮎川盛長・三潴左近大夫から、本庄がまた逆心したという知らせが入り、両人へ宛てて、午刻(正午前後)に返書を発し、早飛脚をもって寄越した子細を聞き届けたこと、そうは言っても、弥二郎(本庄繁長)は息子のほか、家中の者共の証人まで(越府に)差し置いているからには、どうして弥二郎かたより逆心を重ねて引き起こしたりするであろうか、万が一にも猿沢から退去してくる(本庄の)者がいたとしたら、その地(庄厳城)に置いてはならず、表立てずに手厚く世話をして、しだい浜あるいはさヽき(蒲原郡加地荘の次第浜と佐々木の地)辺りの鮎川知行の地に、何はともあれ扶持として差し置くべきこと、そしてまた、氏政は、信玄とはずみの一戦を遂げ、甲・信の者共の数多を討ち取ったこと、南方(相州北条軍)は殊のほか大利を得られたこと、この人数を召し連れ、愚老(謙信)は越中へ進発すること、返す返すも、(鮎川・三潴が)軽はずみに本庄(繁長)へ向かって手出しをしたのは、自分勝手な振る舞いであり、失望していること、このほかは書き記さないこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』1030号「鮎川孫二郎殿・三潴左近大夫殿」宛上杉「謙信」書状写)。


謙信は、本庄繁長の逆心を信じるどころか、鮎川・三潴が勝手に手出ししたことに怒りをあらわにしているほどで、その後、表明した通りに越中国へ出馬したことからしても、再乱の事実はなかったわけである。


※ 当文書の末尾でもう一度、本庄繁長を巡る騒動に言及した「返々聊爾向本庄手出、曾而口惜候」の「曾而」を「勝手」の当て字と考えたのは、そうでなくては意味が通らないことに加え、永禄13年4月9日付上杉輝虎書状(『上越市史 上杉氏文書集一』904号)でも「自分而相計義、曽而無用候」とあり、同様の事例があることによる。



この間、駿河国御厨陣を終えて遠江国へ向かうつもりでいた甲州武田信玄(法性院)は、予定を変更して武蔵国へと進む。

2月23日、下条讃岐守(甲州武田家の親類衆か)へ宛てて覚書を発し、一、氏政は御厨へ後詰めをしたが、成果もなく退散したこと、されば、にわかに遠州へ出馬すること、一、昨年以来、申し届けている筋目を通すのは、今この時であり、早速にも合流するべきこと、この補足として、両筋についてのこと、一、小山(遠江国榛原郡)へ向かい、彼の塁砦を排除するつもりであること、これらを申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1654号「下条讃岐守殿」宛武田信玄覚書写)。

26日、武蔵国羽生領の源長寺に高札を掲げ、当手甲乙の軍勢、彼の寺中における濫暴狼藉は一切を禁じられること、もしこの旨に背く輩がいれば、厳科に処せられること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文武田氏編三』1660号 武田信玄高札【竜朱印を据える】)。

27日、同じく鉢形領の石間谷へ攻め込んだ(『戦国遺文 後北条氏編三』号)。


このあとすぐに武田信玄は帰陣している。


武蔵国埼玉郡の羽生領は、越後国上杉家に属する広田出雲守直繁・木戸伊豆守忠朝兄弟の領域で、同男衾郡の鉢形領は、相州北条氏政の兄弟衆である藤田新太郎氏邦が管轄している。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)

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越後国上杉輝虎(謙信)の年代記 【元亀元年10月〜同年12月】

2014-06-23 01:17:00 | 上杉輝虎の年代記

元亀元年(1570)10月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【41歳】


越後国上杉家からの使僧である玄正が、同盟の交渉相手である遠(三)州徳川家康の許に到着したことを受け、同盟成立のための起請文を認めている。これから遠くないうちに、起請文を携えて玄正が越後国へ戻っていったであろう。

8日、同盟関係にある遠(三)州徳川家康(三河守)が、起請文を認め、敬白 起請文、右の通り、このたび愚拙(徳川家康)の心腹のうちを、権現堂(叶房光播)をもって申し届けたところ、御啐啄(互いの心が投合)は本望であること、一、(甲州武田)信玄への手切れを、家康は深く思い定めているので、いささかも偽りはなく、正直な思いであるのは間違いないこと、一、(濃(尾)州織田)信長と輝虎(謙信)の間が御入魂であるように、力の及ぶ限り意見すること、甲(武田家)と尾(織田家)の縁談についても、立ち消えとなるように、遠回しに忠告すること、もしこの旨を偽るにおいては、諸神の御罸を蒙るものであること、よって、前記した通りであること、これらの条々を誓っている(『上越市史 上杉氏文書集一』942号「上杉殿」宛徳川「家康」起請文)。

同日、越後国上杉家側の取次である直江大和守景綱(輝虎の最側近)へ宛てて、初信となる書状を認め、これまで申し付けていなかったこと、このたび幸便を得たので申し入れること、もとより輝虎が御内意の条々を書き載せられたこと、一つ残らず納得できたこと、その一編ごとを河田豊前守(長親。輝虎の最側近で、越中国代官を任されている)へも申し届けたこと、(河田長親は)越中在国ゆえ、貴辺(直江景綱)から承ることになったそうであり、祝着の思いであること、今後は(直江へ)申し入れること、力の限り周旋されるのが肝心であること、貴国(越後国上杉家)から仰せ越された示された条々については、もれなく御使僧(玄正)に附与したので、かならずや詳しく申し述べられるであろうこと、委細は再便の時を期すること、これらを恐れ謹んで伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』943号「直江大和守殿」宛徳川「家康」書状写)。

同日、徳川家康の使僧である権現堂光播が、直江大和守景綱へ宛てた書状を認め、この秋中に参上したところ、手厚い御もてなしに預かり、過分の極みであったこと、よって、このたび御使僧が到来されたのは、此方(徳川家)においても、祝着であると申されていること、それでまた、(秋中に)もれなく酒井左衛門尉方(忠次。三河国吉田城を本拠とする)ならびに石川日向守方(家成。遠江国懸川城の城代を任されている)・同伯耆守方(数正。家成の甥)が申し入れたところ、とりもなおさず御取り成しあり、そちらの 御屋形様(謙信)の御意により、一部始終が落着し、ますます御入魂の趣は、よくよく御貴所(直江)の御取り成しが肝心であろうこと、何はともあれ(家康は)御誓約の件については、紛れもなく進められたので、諸事は来春中に愚僧が仰せ届けられる旨であり、このたび其方(越後国上杉家)から御馬を下されたこと、遠路をものともしない逸物なので、此方にとっても名誉であり、あちらこちらで言広めていること、諸事万端は、玄正の口上に頼み入るにより、この紙面は省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、 上様(謙信)へ様子の御披露を願うところであること、ことさら御鷹などを御手配して下されたこと、(家康は)祝着であると申されていること、酒井左衛門尉方へ下された御鷹も誉れ高いとの評判であること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』944号「直江大和守殿 参御宿所」宛「権現堂 叶」書状)。

同日、酒井忠次が、取次の村上源五国清(一家衆に準じる信濃衆)へ宛てた書状を認め、仰せの通り、これまで申し交わしていなかったところ、御札に預かり、本望極まる思いであること、よって、輝虎様と家康の間で格別に御入魂となり、拙者(酒井忠次)のような下輩の者まで、大慶に勝るものはないこと、いかなるようにも疎かにはしない所存なので、御取り成しを頼み入ること、それでまた、御書、ことさら御鷹を下されたこと、過分の極みで、感謝してもしきれないこと、なお、こちらから重ねて申し入れるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』945号「村上源五殿 御報」宛酒井「忠次」書状)。



まだ越後国上田の地に留まり続けているなか、10日、上野国沼田(倉内)城(利根郡沼田荘)の沼田城衆である河田伯耆守重親・小中彦右兵衛尉・竹沢山城守・発智右馬允長芳、在番中の新発田右衛門大夫、先遣隊の本庄清七郎・栗林次郎左衛門尉房頼・板屋修理亮へ宛てて書状を発し、信玄が(利根川)越河したとの注進があり、それを承知したこと、前々から飛脚をもって申し遣わした通り、身(謙信)の許へ合流する人数は、河治(上・越国境の越後国魚沼郡上田荘)の地まで二、三手が続けざまに着陣してくるので、明るいうちの越山を合議で決めたこと、その庄(沼田領)の至る所へ馬乗を廻らされ、十五歳から六十歳までの者の動員を告げ知らせるべきこと、無禄の者はであるならば、言うに及ばず、たとえ誰人に扶持されている者でも、このたび積極果敢に奮闘したならば、務めて(そのまま)所属させるべきこと、このところを皆々に言って聞かせるのが適切であること、越山が遅れることはないので、いずれにしても安心してほしいこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』946号「新発田右衛門大夫殿・本庄清七郎殿・河田伯耆守殿・小中彦兵衛(尉)殿・竹沢山城守殿・発智右馬允殿・栗林次郎左衛門尉とのへ・板屋修理亮とのへ」宛上杉「謙信」書状写)。


● 新発田右衛門大夫:実名は綱成か。外様衆。やはり外様衆の新発田尾張守忠敦の一族。沼田城衆の中心人物である上野中務丞家成の名が見えないので、何らかの理由により、一時帰国していた可能性があるため、上野家成が戻るまでの間、以前に沼田城衆の一員であった右衛門大夫が在番していたのかもしれない。

● 本庄清七郎:実名は綱秀か。旗本部将。先遣隊の一員として、上田衆・小木松本衆と共に沼田城へ入った。

● 河田伯耆守重親:旗本部将。上野国沼田城の城将。越中国代官の河田豊前守長親の叔父に当たる。

● 小中彦右兵衛尉:実名は清職か。旗本部将。沼田城衆。

● 竹沢山城守:実名不詳。旗本部将。沼田城衆。もとは下野国衆の佐野氏に仕えていた。

● 発智右馬允長芳:旗本部将。沼田城衆。もとは上田長尾氏の同心であった。

● 栗林次郎左衛門尉房頼:上田長尾氏の重臣。謙信の甥である上田長尾喜平次顕景の陣代。先遣隊として、本庄・小木衆と共に沼田城へ入った。

● 板屋修理亮:実名は光胤か。旗本衆の松本氏の重臣。幼年の当主である松本鶴松の陣代。先遣隊として、本庄・上田衆と共に沼田城へ入った。
 

20日、関東に入る。


こうしたなか、22日、友好関係ある濃(尾)州から書状(謹上書)が発せられ、弟鷹(大鷹の雌)二聯山廻・青を据えて給わったこと、祝着の極みであること、珍重して大切に扱っていること、毎度、このような次第で、御懇慮は感謝してもしきれないこと、条々で示された入魂が成就するための趣は、大慶であること、なお、これより申し述べるつもりなので、筆を置くこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』819号「謹上 上杉弾正少弼殿」宛織田「弾正忠信長」書状【封紙ウハ書「謹上 上杉弾正少弼殿 弾正忠信長」】)。



24日、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国群馬郡の厩橋城の城代)へ宛てた条書(朱印状)を使者に託し、覚、一、信玄が(関東へ)出張し、これにより、去る20日に越山のところ、敵(甲州武田軍)は程なく退散したので、このうえは相・越両軍が同陣する必要がなく、(北条高広は)その対応に当たるべきこと、一、(上杉三郎)景虎に信(信濃国奥郡)と越(越中国)の警戒を指図させるために、越府に留め置いていたこと、そうではあったがようやく(降雪期を迎え)、越山を許すにより、まずは愚老(謙信)が使者をもって(相府へ)申し届けること、一、何としても戦陣においては、ひたすらに決心していること、以上、これらの条々を申し伝えた。右については、風雪の厳しい時分の越山し、路次中(露営)で寒風が吹き出し、筆を執る手が震えるので、書状には(花押の代わりに)印判を捺したこと、已上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』948号上杉謙信条書【印文「摩利支天 月天子 勝軍地蔵」】)。


その後、帰国の途に就き、遅くとも11月下旬までには帰府している。景虎は関東へ入ったとしても、元亀2年正月には在府していることは確かなので、この時、関東に残るようなことはなく、謙信と共に帰府したであろう。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、10月12日、下野国佐野の佐野昌綱(下野国安蘇郡の唐沢山城に拠る)へ宛てた条書を使者に託し、一、このたび催す戦陣の模様(計画)のこと、この補足として、藤田(武蔵国榛沢郡。鉢形藤田氏領)・秩父(同国秩父郡。同前)・深谷(同国幡羅郡。深谷上杉氏領)領域の耕作を薙ぎ払うこと、一、利根川の増水ゆえ、この時節に越河できず、途方もなく心残りであること、この補足として、漆原(上野国群馬郡桃井郷)に陣取り、厩橋領(同郡厩橋郷)に火を放つこと、一、越後衆が(下野国)へ出張したならば、(信玄は)ためらわずに当国(下野国)へ出馬すること、この補足として、(信玄が下野国へ出馬した場合の)手立ての模様(計画)のこと、これらの条々を示している(『戦国遺文 武田氏編三』1743号「佐野殿」宛武田家朱印状写)。

27日、一色 某へ宛てて書状を発し、去る20日以前にも申し上げたこと、参着したのかどうか気になっていること、よって、上州沼田(利根郡沼田荘)・厩橋を残らず撃砕し、去る19日から昨日に至るまで、武州秩父郡に在陣し、彼の領域の人民を分断させるような手立てに及んだこと、かならずや御安心してほしいこと、この時節に鎌倉(相模国東郡)の地に着陣し、御意見を得るつもりであったとはいえ、十分な戦果を得られたので、まずは帰陣し、来月中旬にすぐにも小田原(相府)へ攻め懸かるので、江戸(武蔵国豊島郡)の辺りにおいて面談したいこと、委細は使者をもって申し述べるにより、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1744号「一色殿」宛武田「信玄」書状)。


この一色氏は、鎌倉公方足利義氏の重臣である幸手一色八郎義直(下総国葛飾郡の幸手城を本拠とする)とされている。幸手一色氏は、信玄に通じていたということなのだろうか。


※『戦国遺文 武田氏編』等は1743・1744号文書を元亀2年に比定しているが、柴辻俊六氏の論集である『戦国期武田氏領の形成』(校倉書房)の「第一編 権力編成と地域支配 第七章 越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。


※ 同じく1743文書の解釈については、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ―文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第二章 文書はこう読め 一 正確な読解 ―小さな不注意から文意が正反対に」を参考にした。



元亀元年(1570)11月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【41歳】


関東で越年することなく、帰府していたところ、甲州武田軍が上野国へ出陣したとの報に接し、24日、やはり関東から越後国坂戸城(魚沼郡上田荘)に戻っている上田衆の栗林次郎左衛門尉房頼へ宛てて書状を発し、倉内(上野国沼田城)へ飛脚を遣わすのを頼んだところ、とりもなおさず、(飛脚を)立ててくれたそうであり、祝着であること、よって、信玄が重ねて上州へ出張したそうであり、信・越国境から伝わってきた情報なので、沼田の庄内へ攻め込んでくるにおいては、迅速に来援するのが肝心であること、これらを畏んで伝えた(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』950号「栗林次郎左衛門尉とのへ」宛上杉「謙信」書状【花押a4】)。



元亀元年(1570)12月 越後国(山内)上杉謙信(不識庵)【41歳】


10日、越中国代官を任せている河田長親(豊前守。越中国新川郡の魚津城の城代)が、重臣の山田平左衛門尉(に証状を与え、古志郡給分の替地として、保倉北方(頸城郡)へ出し置くこと、相違なく知行するべきものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』952号「山田平左衛門尉殿」宛河田「長親」知行宛行状)。


13日、府城である春日山城(越後国頸城郡)の御宝前(看経所)に看経の次第を納め、一、阿弥陀如来の真言三百遍・念仏千二百篇・仁王経一巻、一、千手観音の真言千二百篇・仁王経二巻、一、摩利支天の真言千二百篇・摩利支天経二巻・仁王経一巻、一、日天子の真言七百遍・仁王経二巻、一、弁才天の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛宕勝軍地蔵の真言七百遍・仁王経二巻、一、十一面観音の真言七百遍・仁王経二巻、一、不動明王の真言七百遍・仁王経二巻、一、愛染明王の真言七百遍・仁王経二巻、いづれも来春の二・三月に、越中へ馬をいだし、留守中に、当国・関東が何事もなく無事にて、越中が存知のまま一遍(一挙)に謙信の手に入ったならば、明けて一年間は、かならず日々看経(読誦)するべきことを誓った(『上越市史 上杉氏文書集一』953号「御ほう前」上杉「謙信」願書【花押a4】)。


秋中に志賀の乱で苦境に立たされていた将軍足利義昭から救援を求められたこともあって、何とかして上洛したい謙信は、相州北条家との盟約は放っておいても、越中国を安定させなければならなかったのであろう。


同日、河田長親が、伊勢神宮へ宛てて証状を発し、一、(越中国新川郡)上条の保飯坂村内の八十俵一斗五升の所、ただし、このうち引物は前々の通り、一、同保同村内の六十八俵の所、ただし、このうち引物は前々の通り、一、(越中国新川郡)小出の保高寺村内の三俵の所、一、(同前)佐美郷浦山本光院方の内屋敷(以下、一部の文字を欠損している)武十在の所、一、(同前)藤保折立村の禅徳寺、以上、右の所を寄進奉るものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』954号河田「長親」寄進状)。


21日、越後国上杉家の奉行衆である飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟が、外様衆の色部弥三郎顕長(揚北衆。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城を本拠とする)へ宛てて年貢請取状を発し、納めた頸城郡内の大貫村山の御年貢を受け取ったこと、都合六貫文、というわけで、右を、御蔵において御百姓がすべて納めたこと、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』955号「色部弥三郎殿 参」宛「飯田長家・河隅忠清・五十嵐盛惟」連署請取状)。



この間、同盟関係にある相州北条氏康(相模守)は、12月18日、駿・相国境の相模国足柄城(西郡)に在番する岡部和泉守(今川氏の旧臣)・大藤式部丞政信(諸足軽衆。相模国西郡の田原城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、今18日付の(玉縄北条善九郎康成からの)注進状が夕暮れ時に到着したこと、敵(甲州武田軍)は本陣を構えていた瀧之瀬(駿河国駿東郡鮎沢御厨須走の滝之沢)から阿多野原に打ち出してきたそうであること、これにより、(氏政は)善九郎・孫二郎兄弟(北条康成・康元)を小足柄(相模国西郡足柄峠)に上らせたそうであること、これは前々から(氏政は両名を)留め置く考えであり、萱野の地より後方に下がらせるつもりはないらしいこと、ただし、諸人の言う話はそのたびに内容が変わるので、今のところは善九郎(康成)の見解は筋が通っていること、あのような高所に敵が執着するとは考え難いこと、いずれにせよ、今は五・六百名ほどを加勢されるのが適切であること、ただ今は第一の初口(防衛線)は(小足柄)になったと、聞いて理解したこと、一、(康成ら)大将陣はどの場所に構えるのが適切であるかということ、峠には陣庭がないので、地蔵堂辺りが適切ではないかと、(小田原からは)地形が見えないので、推測したまでであること、よくよく(様子を)見届け、早々に知らせるべきこと、また、大手(氏政)へも取り急ぎ使いをもって派遣して申し上げられるべきこと、一、深沢城(駿河国駿東郡御厨地域)へ後詰めを向かわせるとしたならば、坂の中腹に一千・三千も配備できる地形があるかどうか、ここを聞き届けたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1358号「岡部和泉守殿・大藤式部少輔殿」宛北条「氏康」書状)。

24日、別して岡部和泉守へ宛てて書状を発し、敵陣の様子を頻繁に知らせるのが肝心であること、今日の様子を重ねて知らせるべきこと、(深沢城の)後詰めの催しを敵陣へ悟られてはならないこと、(城将の)四郎(氏光。氏康の弟である左衛門佐氏堯の子で、父の死後、兄の六郎氏忠と共に氏康の養子となったらしい)にもこの筋目を言い含めるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文後北条氏編二』1363号「岡部和泉守殿」宛北条「氏康」書状)。


※ 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』は1358・1363号文書を永禄12年に置いているが、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅰ部 第四章 北条氏の駿河防衛と諸城」に従い、元亀元年の発給文書として引用した。 



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、12月7日、下総国衆の簗田洗心斎道忠(中務大輔晴助。下総国葛飾郡の関宿城を本拠とする)へ宛てて起請文を発し、敬白起請文のこと、一、相馬(下総国衆の相馬治胤)遺跡ならびに要害(下総国相馬郡の守屋城)を、貴辺(簗田道忠)が御本意(領有)の件については、(武田信玄が)里見義弘と相談し合い、(簗田の本意が遂げられるように)精励すること、特には一国の内であったとしても、(彼の遺跡ならびに要害を)誰人にも干渉させず、末代まで任せ置くつもりであること、つまりは、房州(里見義弘)へ御入魂を示すのが肝心であること、一、腹黒い人物がいて、図らずも(簗田の讒言を)申し立てたならば、(相手に)何度でも糊付けの書状をもって問い質すつもりであること、また、(簗田にも)承るつもりであること、一、(簗田からは)証人を所望しないこと、一、(簗田が)苦境に陥った際には、見放さず、念入りに引き立てるつもりであること、一、信玄が(関東へ)戦陣を催した時に、洗心斎も相馬の一件が落着したうえで、同陣してくれるのならば、馬を納める折には、即座に帰宅してもらうこと、以上、右を偽ったならば、諸神の御罰を蒙るものであること、よって、起請文に前記した通りであること、(『戦国遺文 武田氏編三』1630号「洗心斎」宛武田「信玄」起請文)。


これからしばらくして駿河国深沢城を攻めるために出陣し、同御厨地域の瀧之瀬(滝之沢)に本陣を構えると、18日、同阿多野原へ進陣している。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 武田氏編 第三巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)

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