越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

訂正【3】

2020-10-21 18:12:52 | 雑考

 新たに本庄繁長宛ての長尾景虎書状が見つかったというので、渡邊三省『本庄氏と色部氏』を読み直していたところ、当ブログの越後国上杉輝虎の略譜【19】において、文書の解釈に誤りがあることに気が付きました。

 永禄6年11月下旬に上杉輝虎が関東へ向けて出馬したところ、深雪のために進軍が滞り、越後国刈羽郡の鯨波の地で宿営中の先行軍において、揚北衆の色部修理進勝長と揚南衆の平賀左京亮重資の間で小旗の意匠を巡る相論が起こり、輝虎の意を受けたであろう河田豊前守長親は色部勝長の主張に基づいて、平賀重資の説得に努めると、翌月中旬までに平賀側が小旗の使用を止めることで決着がついた。という事態のなかでのことになります。

 永禄6年12月8日付平賀助四郎重資(左京亮)宛河田長親書状(『上越市史 上杉氏文書集』361号)における冒頭部分の「仍小旗之儀、以前如申、色部事、有子細従 屋形様為被下置文候、」を、小旗の一件については、以前に申し伝えたように、色部方の申し立てにより、屋形様(上杉輝虎)が置文を発せられたこと、と解釈しましたが、『本庄氏と色部氏』の62頁には、「
屋形様より下し置かるる文(紋)に候、」という釈文で、色部が輝虎から授けられた紋である、という意味が書かれていました。自分の解釈は全くの誤りでありましたので、当該部分を、色部の紋は特別な理由により、屋形様から下されたものであること、というように改めます。


※ 越後国(山内)上杉家の年寄である河田長親は、当時、上野国沼田城の城代も任されていたが、常駐ではなかったので、越府に戻って輝虎の側近としての役目を果たしていることもあり、恐らくこの年の秋から冬にかけては在府していて、輝虎が関東遠征を催すと、先行軍の主将を任されたのだろう。


◆ 渡邊三省『中世武士選書 第9巻 本庄氏と色部氏』(戎光祥出版)◆『上越市史 別編1
上杉氏文書集一』359~365号

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『新潟県史 通史編』作成の上杉氏奉行人一覧(謙信期)

2020-10-18 21:52:09 | 雑考

 『定本 上杉謙信』の一項である広井造氏が執筆された「謙信と家臣団」において、参考史料の表2として取り上げられた『新潟県史』作成の上杉氏奉行人一覧に載っている越後衆の人名を載せておくとともに、謙信政権下での略歴を加えておく。

 本庄実乃:新左衛門尉。新左衛門入道宗緩。旗本衆。長尾景虎の旗揚げ時からの功臣。景虎の初政において大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉・直江神五郎実綱・新保八郎四郎長重と共に越後国長尾家の三奉行を構成した。本庄実乃と大熊朝秀の二名は固定、残りの一名は小林宗吉・直江実綱・新保長重が交代で務めた(小林と新保は天文年間にだけ見える)。弘治2年に、
三奉行の一人であった大熊朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、宗緩は長尾 景繁・長尾 景憲・直江与右兵衛尉実綱・吉江 長資と共に五奉行を構成した。永禄期に入るか入らないかの頃に一線を退いたが、別格の老臣として、非常時には公務に就いたほか、上杉輝虎の遠征中に春日山城の留守居を務めたり、輝虎および越後衆からの相談を受けたりした。謙信期の天正3年まで見える。もとは古志長尾氏の同心であったろう。古志郡栃尾城主。

 下条茂勝:新右衛門尉。長尾景虎が守護代長尾家を継いだ直後に一度だけ取次として見える。旗本衆。名字からして、もとは古志長尾氏の被官であったろう。

 神余親綱:小次郎。旗本衆。謙信晩年に越後国三条城の城将を任される。父親の神余隼人佑(小次郎)と混同されている。隼人佑は、将軍家再興を目指す足利義昭から上杉輝虎が上洛を求められた際、直江大和守政綱・河田豊前守長親と共に取次を務めたが、これは京都の要人たちとのつてがあったことによる特例であり、これをもって越後国(山内)上杉家の年寄や奉行人とはいえるのかは分からない。

 神余実綱 小次郎。隼人佑。隼人入道。隼人佑の父、小次郎親綱の祖父に当たる。越後守護上杉家の在京雑掌を務めていたが、上杉家の断絶によって長尾景虎が越後国主となった頃には本国に戻り、景虎の旗本衆に転身した。景虎の任官運動に際し、幕府の要人との交渉に関与して使者を務めたが、それをもって越後国長尾家の奉行人とはいえるのかは分からない。

 某 景高:名字・通称不詳。長尾景虎期の天文19年に魚沼郡の上弥彦神社に社領を安堵していることからすると、上田長尾氏の一族という可能性があり、越後国長尾家の奉行人であったのかは分からない。

 斎藤朝信:小三郎。下野守。譜代衆。永禄2年に長尾景虎が上洛した際、将軍足利義輝から相伴衆に任じられて大名の家格を得ると、長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広と共に越後国長尾家の四年寄を構成したが、直江与右兵衛尉実綱ら側近系の年寄と比べて職務は限定されていた。永禄3年から翌4年にかけての長尾景虎(上杉政虎)による関東遠征に伴い、四人での年寄としての活動は見られなくなる。永禄5年以降は、関東代官として上野国厩橋城に常駐した北条高広はさておき、長尾藤景と柿崎景家は個別に年寄としての活動が見られるのに対し、
ただ単に史料に見えないだけかもしれないが、朝信は年寄としての活動が見られない。 謙信晩年には揚北衆の新発田尾張守長敦・竹俣三河守慶綱と共に越後国(山内)上杉家の三年寄を構成したが、やはり側近系の年寄と比べて職務は限定された。
 
 大熊朝秀:彦次郎。備前守。もとは越後守護上杉家の譜代家臣で、公銭方の責任者であった。長尾景虎の初政において本庄新左衛門尉実乃・小林新右兵衛尉宗吉・直江神五郎実綱・新保八郎四郎長重と共に越後国長尾家の三奉行を構成した。弘治2年に甲州武田晴信と通じて反乱を起こしたが、敗北して武田家に仕えた。頸城郡箕冠城主であったと伝わる。
 
 小林宗吉:新右兵衛尉。長尾景虎の初政において本庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉・新保八郎四郎長重と共に越後国長尾家の三奉行を構成した。天文18年から天文22年までしか見えない。

 山吉政応:恕称軒政応。丹波入道。政久とは同一人物であり、政応は法号である。旗本衆。蒲原郡司として揚北衆の中条氏と黒川氏の同族間抗争を調停しているが、奉行人としての活動は見られない。天文22年7月に死去した。蒲原郡三条城主。

 山吉政久:孫四郎。丹波守。長尾景虎の実父である越後守護代長尾為景の功臣。景虎期には法体となっていた。

 山吉景盛:孫右衛門尉。山吉一族。長尾為景期に蒲原郡司の山吉政久を補佐している。越後国長尾家の奉行人といえるのかは分からない。

 山吉豊守:孫次郎。旗本衆。山吉丹波入道政応の世子である山吉孫四郎景久が永禄元年9月に早世したので、政応の次男である豊守が兄の名跡を継いだ。上杉輝虎期の永禄9年に若手の側近家臣として現れると、以降は柿崎和泉守景家・直江大和守景綱(政綱)・河田豊前守長親・鯵坂清介長実らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。河田と鯵坂がそれぞれ越中国の代官と同国新庄城の城将に転じたのちは、直江と共に両年寄であった。天正5年9月に死去した。蒲原郡三条城主。

 石田定賢 旗本衆の庄田惣左衛門尉定賢のことであり、越府の町人である石田惣(宗)左衛門尉と混同されている。弘治2年に、三奉行の一人で公銭方の責任者でもあった大熊備前守朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、新たに吉江 長資らと共に越後国長尾家の公銭方を構成した。永禄4年の信濃国川中嶋の戦いで討死した。名字からして、もとは古志長尾氏の被官であったろう。

 某 長資 吉江織部佑景資の前身。通称は与橘か。旗本衆。弘治2年に、三奉行の一人で公銭方の責任者でもあった大熊備前守朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、本庄新左衛門入道宗緩・長尾 景繁・長尾 景憲・直江与右兵衛尉実綱と共に越後国長尾家の五奉行を構成したほか、新たに庄田定賢らと共に公銭方を構成した。父の吉江木工助茂高は長尾景虎の初政において取次を務めた。吉江氏は守護上杉家の被官系と古志長尾氏の被官系の二流があったが、こちらの系統
は後者であったろう。 

 直江景綱:神五郎・与右兵衛尉・大和守実綱 ・政綱。もとは越後守護上杉家の譜代家臣。旗本衆。長尾景虎の初期には本庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉・新保八郎四郎長重と共に三奉行、本庄新左衛門入道宗緩・長尾 景繁、長尾 景憲・吉江 長資と共に五奉行、景虎の後期から上杉輝虎の中期にかけては河田豊前守長親と共に両年寄を務め、輝虎の後期からは河田長親・柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守・鯵坂清介長実らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成し、河田長親と鰺坂長実が北陸戦線に転出したあとは、山吉豊守と共に両年寄を務めた。謙信一世中の側近であり、年齢は謙信と近かったであろう。山東郡与板城主。

 妙雲院妙昭:永正年間の初め頃に越後守護上杉定実・同守護代長尾為景の許で倉俣勘解由左衛門尉実経・関沢伊賀守顕義・長授院妙寿・大熊新左衛門尉政秀・雲興院昌朔と共に奉行衆を構成していた。弘治年間に上野源六家成(中務丞)と下平修理亮吉長(勘助)の波多岐荘の領主間で起こった土地相論の際、上野氏菩提寺の住持という立場により、長尾景虎の奉行衆から上野家成の説得を求められている。越後国長尾家の奉行人としての活動は見られないし、永正年間の妙昭であるのかも分からない。

 松本景繁 永禄年間の中頃から見える旗本衆の松本石見守景繁と混同されており、天文年間に見える景繁は長尾名字であろう。もしも同一人物であったのならば、上杉輝虎期に長尾景繁が越後守護代長尾家以来の古臣である松本氏を継いだのではないか。松本氏は天文年間の後期に河内守、永禄4年に大学助(実名は忠繁と伝わる)が見える。長尾景繁は天文20年に山東郡内の名主に便宜を図ったりしているので、山東郡を基盤とした長尾氏かもしれない。三奉行の一人であった大熊備前守朝秀の反乱後、本庄新左衛門入道宗緩・直江与右兵衛尉実綱・長尾 景憲・吉江 長資と共に越後国長尾家の五奉行を構成した。松本景繁は山東郡の小木城主で、輝虎期に上野国沼田城将を務めた。

 長尾景憲:天文20年に古志郡内の守門神社と諏方神社の間で起こった土地相論を裁定しているので、古志郡司であったのかもしれない。古志長尾右京亮景信の前身か。三奉行の一人であった大熊備前守朝秀の反乱後、本庄新左衛門入道宗緩・長尾 景繁・直江与右兵衛尉実綱・吉江 長資と共に越後国長尾家の五奉行を構成した。

 長尾藤景:遠江守。 譜代衆。長尾景虎の後期に柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信・北条丹後守高広と共に越後国長尾家の四年寄を構成した。永禄3年から翌4年にかけての長尾景虎(上杉政虎)による関東遠征中、柿崎景家が越府留守衆であったことから、四人での年寄としての活動は見られなくなる。長尾藤景は永禄6年に単独で過所状を発給している。同9年頃までは存命であった。蒲原郡下田を地盤とする下田長尾氏。蒲原郡下田城主。

 某 定盛:名字不詳。実名は貞盛が正しい。旗本衆。弘治2年に、三奉行の一人で公銭方の責任者でもあった大熊備前守朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、
庄田惣左衛門尉定賢・吉江 長資らと共に越後国長尾家の公銭方を構成した。

 荻原掃部助:実名不詳。のちに伊賀守を称する。旗本衆。長尾景虎の後期から上杉輝虎の中期まで見える。奉行人のうちで名字不詳の貞盛や能信の可能性がある。

 吉江景資:織部佑。初めは長資を名乗った。外交文書を発給しているのが確認できるのは謙信期のみであるが、恐らく上杉輝虎期から年寄衆に列していたと思われる。謙信晩年に越中国西郡の代官と同国増山城の城代を兼務した。

 吉江資堅:喜四郎 。実名は資賢が正しい。三条道如斎信宗と共に謙信晩年の最側近であった。河田豊前守・鯵坂清介長実と同じく、永禄2年に長尾景虎が上洛した際に召し抱えられると、景虎側近の吉江織部佑景資の一族に列した。前名字は伝わらない。もとは江州六角佐々木家の被官であったらしい。

 吉江信景:吉江喜四郎資賢の後身。

 吉江(三条)信宗:三条道如斎信宗。吉江名字は文書では確認できない。初めは越中味方中の長沢筑後守光国に仕えていて、長沢菅(勘)五郎を称していたという。吉江喜四郎信景と共に謙信晩年の最側近であった。

 北条高広 弥五郎。丹後守。安芸守。安芸入道芳林。譜代衆。長尾景虎の後期に長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信と共に越後国長尾家の四年寄を構成した。上杉輝虎期以降は関東代官と上野国厩橋城代を兼務した。永禄9年の冬に相州北条・甲州武田陣営に寝返ったが、越・相同盟の成立に伴って越後国上杉家に復帰した。越・相同盟の破談後、息子の弥五郎景広に関東代官と厩橋城代の地位を譲ったが、ほぼ二頭体制であった。

 北条景広 弥五郎。丹後守。譜代衆。北条安芸守高広の世子。謙信期に父から関東代官と厩橋城代を引き継いだが、ほぼ二頭体制であった。越後国(山内)上杉家の奉行人とはいえない。

 柿崎景家:中務。和泉守。 譜代衆。頸城郡司(頸城郡中部)。長尾景虎の後期には長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・北条丹後守高広と共に越後国長尾家の四年寄、上杉輝虎の後期からは直江大和守景綱(政綱)・河田豊前守長親・山吉孫次郎豊守・鯵坂清介長実と共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。

 河田長親:九郎左衛門尉。豊前守・豊前入道禅忠。旗本衆。長尾景虎の後期から上杉輝虎の中期にかけて直江実綱(政綱)と共に両年寄であった。その頃は上野国沼田城の城代を任されていたが、常駐ではなかったので、越府で側近としての役目も果たした。上杉輝虎の後期からは直江大和守景綱(政綱)・柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守・鯵坂清介長実らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。その後は、越中国の代官に任ぜられて同国魚津城、次いで松倉城に常駐した。鯵坂長実・吉江喜四郎資賢と同じく、もとは江州六角佐々木家の被官で、永禄2年に長尾景虎が上洛した際に召し抱えられたと伝わる。

 三村長政:名字は三潴が正しい。出羽守。旗本衆。越後国上杉軍が関東へ向けて進軍中、国衆の間で小旗の意匠を巡って相論が起こると、その調停に奔走した一人であったが、奉行の職務に就いていたのかは分からない。

 小野主計助:実名不詳。旗本衆。上杉輝虎期によく使者や横目を務めた。奉行人のうちで名字不詳の貞盛や能信という可能性はあるが、今のところは奉行人であったのかは分からない。

 飯田長家 孫右衛門尉。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて河隅三郎左衛門尉忠清・五十嵐 盛惟らと共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。

 河隅忠清:三郎左衛門尉。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて飯田孫右衛門尉長家・五十嵐 盛惟らと共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。かつて守護代長尾家にも古志長尾家にも河隅名字の者がおり、どちらの系統なのかは分からない。

 某 能信:名字不詳。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて飯田孫右衛門尉長家・河隅三郎左衛門尉忠清・五十嵐 盛惟と共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。

 鯵坂長実:清介。備中守。旗本衆。上杉輝虎の後期に柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・河田豊前守長親・山吉孫次郎豊守らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。謙信期に越中国新庄城の城将、越中国西郡の代官、能登国の代官と同国七尾城の城代を歴任した。河田長親・吉江喜四郎資賢と同じく、もとは江州六角佐々木家の被官で、永禄2年に長尾景虎が上洛した際に召し抱えられると、旗本衆の鯵坂氏の名跡を継いだ。前名字は伝わらない。

 山崎専柳斎:秀仙。儒者上がりの側近。織田信長の許へ使者として赴いたり、遠征中の謙信から留守衆の一員として見えたりするが、越後国(山内)上杉家の奉行人であったのかは分からない。もとは関東代官の北条丹後守高広の重臣であったらしい。

 関沢掃部助 上杉輝虎期の元亀元年に再燃した揚北衆の中条氏と黒川氏の対立において、中条側の取次を山吉孫次郎豊守が務めたが、その際に使者として各所を往来した山吉一族の山吉掃部助と間違われている。

 堀江玄蕃允:実名不詳。旗本衆の堀江駿河守宗親の嫡男。越後国(山内)上杉家と相州北条家が同盟関係にあった頃、玄蕃允が使者を務めた際の書状が奉行人の文書として間違われている。

 五十嵐盛惟:通称は主計助か。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて飯田孫右衛門尉長家・河隅三郎左衛門尉忠清らと共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。名字と実名からして、もとは古志長尾氏の被官であったろう。

 長 景連:与一。旗本衆。謙信期に濃(尾)州織田家と同盟関係にあった頃、使者を務めたことから、織田方の取次と書状のやり取りをしているが、越後国(山内)上杉家の奉行や取次といった役目に就いていたのかは分からない。

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上杉輝虎(長尾景虎。号謙信)から「長」の一字を与えられた越後衆について

2020-10-18 21:50:20 | 雑考

  以前、当ブログにおいて、越後国上杉輝虎(長尾景虎。号謙信)から一字を与えられたと思われる関東・北陸の味方中や越後衆を列挙したが、越後国長尾家に由来する「長」の一字を与えられた越後衆のうち、輝虎から与えられたのかどうか、考えあぐねる人物が出てきてしまった。

 上杉輝虎から「長」の一字を与えられたであろう越後衆として(実名が文書では確認できない人物も含む)、外様衆の新発田尾張守長敦、譜代衆の大熊新左衛門尉長秀・甘糟近江守長重、旗本衆の吉江 長資(通称は与橘か。のちの織部佑景資)・新保八郎四郎長重・山田修理亮長秀・三潴出羽守長政・本田右近允長定・河田豊前守長親・鯵坂清介長実・飯田孫右衛門尉長家・三潴左近大夫長能・寺嶋六三長資・荻田孫十郎長繁・本田孫七郎長信・富永清右兵衛尉長綱・岩船彦五郎長忠らの名を挙げたが、長尾景虎期に「長」の一字を与えられたであろう譜代衆の大熊長秀・甘糟長重を除くと、ほぼ旗本衆で占められてしまい(吉江から鯵坂あたりまでは景虎期に一字を与えられたのではないか)、外様衆の新発田長敦だけが浮いて見えることに気が付いた。この新発田は永禄12年から源次郎、天正3年から尾張守長敦として見えるので、長尾景虎期に「長」の一字を与えられたとは考えにくい。

 上杉輝虎は、長尾景虎期には長尾家の通字である「景」と、実父の長尾為景が好んだらしい「長」の一字を越後衆の功労者や希望者などに与えており、なぜか実名の下の字である「虎」の一字は与えず、父の為景に倣ってか、「長」の一字を替わりに与えていた。山内上杉家を継いだのちは、「長」の一字を中小・新参の旗本衆や味方中の陪臣などに与えるものとして、一家・外様・譜代衆、大身の旗本衆に与えた「顕」と「景」の両字とは明確に区別したようであり、新発田長敦は輝虎以外の人物から一字を貰った可能性がある。

とは言え、上杉輝虎と次代の上杉景勝は、一族家中の有力者たちの長男に「景」の一字、次男に「長」の一字を与えていた事例があり、そうなると、新発田長敦の前代である尾張守忠敦には、後継者たる男子がいなかったらしく、近親者の右衛門大夫(のちの新発田因幡守重家)は輝虎の肝煎りによって早々に独立していたからか、外様衆の最有力者である中条越前守の「御舎弟」(『上越市史 上杉氏文書集』624号 以下は上越と略す
)を養子に迎えていたと考えられるので、『中条氏家譜略記』には「謙信公御諱賜景御一字、実名号景資」と書かれており、輝虎(謙信)から兄の中条越前守は「景」の一字、弟の新発田源次郎は「長」の一字を与えられた可能性があるため、長敦の名を一覧から除外するまでには至らなかった。

 最後に、新発田長敦が上杉輝虎以外の人物から「長」の一字を貰っていたとしたら、その人物は誰であったのかを考えてみる。長敦の前代である新発田忠敦は外様衆では一二を争うほどの有力者であり、同じく外様衆の有力者であった本庄弥次郎繁長が上杉輝虎に遺恨があるとして、甲州武田・相州北条陣営と通じて反乱を起こした際、国内の越後衆が越府の春日山城、次いで揚北の村上陣に参集し、輝虎と諸将が誓詞を取り交わしたところ、忠敦の後継者であった長敦(源次郎)は輝虎の傍らでそれを見聞していた。そのなかには、やはり外様衆の有力者であった色部修理進勝長の嫡男である弥三郎顕長と、色部とは同族である鮎川孫次郎盛長がいて、輝虎が外様衆の最有力者であった中条越前守と忠敦のそれぞれへ宛てた書状のなかで長敦(源次郎)は、前者では色部顕長と、後者では鮎川盛長と一緒に現れており(『上越』624・672号)、わざわざ一緒にその名が挙げられていることに、長敦と二人との関係が窺える。そして、元亀2年の時点で新発田領内に鮎川盛長の知行地が存在していたこと(『上越』1030号)、長敦の次代である因幡守重家は鮎川盛長と入魂であったこと(『上越』1882・1953・2543・2549号)、その重家の妹か娘が色部修理大夫長真(顕長の弟で後継者となった)の妻と伝わっていること(『上杉家記』三十 ◆『越後三条山吉家伝記之写』)、これらのことから、佐々木加地一族の新発田氏と秩父本庄一族の色部・鮎川両氏が親しい間柄であったと思われ、長敦は色部勝長・同顕長父子、鮎川盛長のうちの誰かから秩父本庄一族の通字である「長」の一字を貰ったのかもしれない。

※ 黒田基樹氏は、『戦国大名と外様国衆』(文献出版・戎光祥出版)の「那波氏の研究」の註において、まず、本文での上野国衆・那波次郎顕宗の「顕」字は上杉謙信から授与されたものととらえられる点については、栗原修氏の御教示によると断ったうえで、「上杉謙信が家臣や従属国衆に対して授与した一字としては、「景」「輝」の偏諱のほか、「顕」(「反町英作氏所蔵文書」『新潟県史 資料編4』1684~5号)・「長」(「吉江文書」『新潟県史 資料編5』3681号等)の存在が知られる。このうち「顕」字については「当家有謂字」と述べられているように、山内上杉氏の通字の一つ(憲顕・房顕・顕定・顕実)ととらえられる。上野国衆では、那波顕宗の他、館林長尾顕長も同字を授与された人物としてとらえることができよう。」と書かれている。

※ 広井造氏は、『定本 上杉謙信』(高志書院)の「謙信と家臣 〔 2 家臣団の統制・掌握 (仮名・名乗り・官途)〕」において、「幼名岩鶴丸と呼ばれた河田は、仮名を「九郎左衛門尉」、官途名を「豊前守」、名乗りを「長親」といった。若干ではあるが、「仮名」・「名乗り」について、謙信が家臣に与えた例として、色部弥三郎(顕長、永禄7年〔1564〕、県史1684)荻田孫十郎(長、天正5年〔1577〕『越佐史料』巻五、375頁)嶋倉次郎丸(吉三、元亀2年〔1571〕~天正6年〔1578〕の間、県史2436)本田弁丸(孫七郎、長、天正5年〔1577〕、県史4025)安田久千代丸(弥九郎、元亀2年〔1571〕~天正6年〔1578〕の間、県史1572)安田惣八郎(顕、年不詳、県史1685)吉江亀千代丸(長、元亀2年〔1571〕~天正6年〔1578〕の間、県史3681)がある。また、『御家中諸士略系譜』によると、北条景広・直江景綱は、それぞれ元亀元年(1570)、天正初年に謙信から「景」字を与えられたという。謙信が烏帽子親として名乗り一字を家臣に与える場合、「長」字を与える例が多いことは、すでに阿部洋輔氏が指摘している。阿部氏はこれを「謙信が好んで花押にも用いた“長久”に由来する」と分析している。花押での使用例については、阿部氏は別に論文を発表している。また、「長」という字句については、謙信自身の願文類に、しばしば「安全長久」・「長久安全」・「長久無事」・「武運長久」・「無事長久」という文言が見える。こうした事例から考えて、史料上は確認できないが、河田長親についても、「長」字は謙信から与えられた可能性がある。ちなみに、表2(『新潟県史 通史編』作成の上杉氏奉行人一覧のこと。次頁に人名を載せておく)では河田長親の他に、三村・飯田・鯵坂の三人が「長」字を名乗りに用いており、同様の可能性がある。「景」字は長尾家の通し字である。『御家中諸士略系譜』の福王寺景重の項には、「長尾左京亮景明嫡女玉フ故ニ景之一字御免」とみえ、この字を名乗りに用いることの重大さを物語っている。ちなみに、表1(天正三年上杉家軍役帳のこと)では上杉景信・中条・千坂・長尾小四郎の四人、表2では北条・直江の他に、山吉・松本・長尾・吉江・柿崎・長らが使用している。色部弥三郎と安田惣八郎が与えられた「顕」字については、安田宛の書状中に、「当家ニ有謂字之由」とある。色部が与えられたのは永禄七年(1564)であるが、この年は、長尾顕景(上杉景勝)が父政景の急死により、謙信の養子として引き取られた年にあたる。あるいは謙信は、来るべき顕景政権を想定し、その重臣として色部を位置づけようとしたための一字状だったのかもしれない。官途授与については、阿部氏も指摘するように、謙信の代では史料上の確認ができない。しかしながら、たとえば河田長親の官途は「豊前守」であるが、これは謙信が受け継いだ古志長尾家代々の受領名である。おそらく「豊前守」は、長親が謙信から、古志長尾家の継承者として与えられた官途名ではないだろうか。仮名・名乗り・官途の授与による家臣団の統制については、景勝期にも事例がある。謙信期については、現段階において史料上の制約が大きいが、今後の新たな分析視点として有効である。」と書かれている。

※ 長尾景虎が山内上杉家を継いで上杉輝虎(政虎)となってからは、それまでの「景」と「長」の両字に加え、山内上杉家にゆかりの「顕」の一字を関東味方中や越後衆へ与えるようになり、この一字が最も格上になったと思われるが、永禄13年に養子の上杉景虎に自分の初名を、天正3年に同じく上杉景勝に「景」の一字を与えたことにより、「景」の一字が最も格上になったと思われる。

※ 大熊長秀は、越後上杉氏の家臣で、段銭所・公銭方奉行人であった大熊朝秀の子。父に従って上杉氏(長尾氏)を離反し、甲斐武田氏に仕えた(『戦国人名辞典』の大熊朝秀・大熊長秀の項による)。

※ 謙信一家の山本寺伊予守定長には嫡男の松三景長のほか、次男に又四郎長定がいたようであり、もしこの通りであれば、謙信は兄弟のそれぞれに「景」と「長」の一字を与えた可能性がある。また謙信は、最側近の吉江織部佑景資の長男に「長」の一字、次男に「景」の一字を与えており(『上越』1398・1470号)、むしろ逆であるから、これでは事例に当たらないと思われるかもしれないが、この場合は兄弟の生母が違い、次男の生母の方が身分が高かったからではないだろうか。謙信の次代である上杉景勝は、信濃衆の須田相模守満親の長男である右衛門大夫景実に「景」の一字、次男である大炊助長義(初めは又太郎長実を名乗ったらしい)に「長」の一字を与えたようであり、系図の通りであれば、一家衆の上条入道宜順(弥五郎政繁)の長男は弥五郎景広、次男は源四郎長員を名乗ったといい、侍中の千坂対馬守景親の長男は太郎左衛門尉景明、次男は与一長朝(『家督先後録』によると、初めは長親を名乗ったらしい)を名乗ったというから、彼らの息子たちにも両字を与えた可能性がある。

※ 『中条氏家譜略記』によると、中条越前守(弥三郎)は上杉輝虎から一字を与えられて景資を名乗ったという。これは文書では確認できないが、越前守の家柄と実績からして、十分あり得ることなのだろう。ただし、年次未詳7月15日付築地彦七郎宛某房資書状(『新潟県史 資料編』1446号 以下は『新潟』と略す)からすると、初名は房資で、のちに景資を名乗ったようである。この書状には「直和家風小柴下人之儀、其元退散候処、相拘不返之由候間、其身参府之上、従和州房資方、色々理之旨候間、書中差越候、彼才覚之様於爰元承届候、子細不可入候、早々彼者方可被渡返事、不可移時日候、尚重而可申越候間、不具候、謹言、」と記されている。まず、書中に現れる「直和」「和州」は、『新潟県史』では直江大和守とされており、これに異論はないであろう。受給者の築地彦七郎が所見されるようになったのは天文8年からで(『戦国人名辞典』築地資豊の項)、その頃に直江氏の当主といえば、天文15年に初見される直江掃部入道酒椿と思われ、輝虎の最側近であった直江大和守景綱(実綱・政綱)の前代に当たる。この酒椿は、直江氏の系図などでは大和守親綱に相当する人物となるが、終見の天文23年においても掃部入道であり(『上越』119号)、大和守を称した形跡はないので、ここでの「直和」「和州」とは直江景綱のことであろう。そうなると、景綱が通称を与右兵衛尉から大和守に改めたのは永禄4年中であり(『上越』253・291号)、書状の年次は特定できないが、永禄年間の中期から後期にかけて発給されたものと思われる。そして、発給者の某房資は、文意と書式からして築地氏の主筋に当たる中条氏であろうから、長尾景虎期の天文末年から現れ、謙信期の天正元年に死去したとされる中条越前守(弘治元年頃に弥三郎から越前守に改めた)ということになる。越前守が死去した年次は系図によるものであるが、天正2年に謙信の近習であった吉江与次景泰が中条氏を継いでいるから、正しく伝わっているのだろう。

※ 新発田長敦が色部勝長父子か鮎川盛長のうちから一字を付与されたのだとしたら、仲間内で偏諱のやり取りをしているわけである。こうした事例としては、天正3年に、長尾景虎の旗揚げ時から謙信とは繋がりが深かった譜代衆の上野中務丞家成の次男である上野彦九郎は、謙信側近の吉江景資に頼んで「資」の一字を付与されている(『新潟』1603号 )。それから、永禄年間の中頃、譜代衆で関東代官の北条丹後守高広(安芸守。安芸入道芳林)の一族である北条右衛門尉親富(長門守)は、北条高広の娘婿で輝虎の寵臣であった河田長親から一字を付与されたのではないだろうか。諸史料集では上野彦九郎に宛てられた名字状の発給者を中条景資としているが、
『石井進氏蒐集史料細目録』によれば、花押形からして吉江景資であることが示されている。また、上野氏系図(『新潟』1599号)は、上野家成の長男である源五郎(『上越』1625号)を資家としているが、恐らく彦九郎と取り違えられたのであろう。『御家中諸士略系譜』における上野嘉右衛門家秀(『上杉家御年譜 三 景勝公』と『寛永八年分限帳』では喜右衛門と記されている)の項と『先祖由緒帳』における五十騎組の上野次郎右衛門由緒によれば、景勝期に上野氏の当主であった中務丞秀家には男子がなかったので、上田衆の泉沢河内守久秀の甥である次郎右衛門を養子に迎えたというから、源五郎は秀家を名乗った可能性がある。

※ 『越佐史料 巻五』に収録されている新発田氏の系図では、伯耆守綱貞 ー 尾張守長敦(源次郎)ー 因幡守重家(五十公野源太)と続くが、文書では、源次郎能敦 ー 伯耆守綱貞 ー 尾張守忠敦(源次郎)ー 尾張守長敦(源次郎)ー 因幡守重家(初めは新発田助次郎(『上越』247号)か、新発田右衛門大夫(実名は綱成か)、五十公野右衛門尉・因幡守重家)と続いている。色部長真の妻は新発田重家の妹か娘とされており、『上杉家記』は重家の妹(『越後入廣瀬村編年史』161頁)、『三条山吉家伝記之写』は重家の娘(『三条市史 資料編』317頁)としているわけで、前者が正しい場合、忠敦の前代である新発田伯耆守綱貞は、その実名と受領名からして、能敦の実子でも忠敦の実父でもなく、本来は当主となる人物ではなかったように思われ(能敦の弟あたりか)、能敦の実子が忠敦で、綱貞の実子は重家という可能性があるため、長真の妻は綱貞の娘なのか忠敦の娘なのかが分からない。

※ 上杉景勝に反逆した新発田重家と鮎川盛長は、その死後には色部長真によって供養された。新発田は天正15年に敗亡し、鮎川はどのような最期を迎えたのかは不明だが、天正16年以前に死去したのは確かである(『新潟』1983号)。


※ ここで名前の挙がった越後衆のうち、本文と注記では文書番号を付していない人物、文書では実名が分からない人物、通称や実名の変遷が分かる人物などを確認できる史料を示しておく(登場順。謙信養子の上杉三郎景虎と上杉弾正少弼景勝は除く)。

 新発田源次郎(『上越』624号)
 新発田尾張守長敦(『上越』1246・1369・1527・1571・1753・1818・3795号)

 大熊新左衛門尉長秀(『上越』1693号)

 甘糟近江守長重(『上越』2733・3542号)

 吉江与橘長資(『上越』155・162号 ◆ 通称の与橘は『越佐史料』所収の甘糟継成編〔吉江系図〕(巻五は291頁、巻六は222頁)による)
 吉江織部佑景資(『上越』1227・1243・1338・1375号

 吉江常陸入道宗誾(『上越』2163・2215・2359号)

 新保八郎四郎長重(『上越』234号)

 山田修理亮長秀(『上越』1164・1651・2153号)

 三潴出羽守長政(『上越』365・640号)

 本田右近允長定(『上越』286・560・1369・1419号 ◆ 実名の長定は『謙信公御書集』の永禄4年9月13日付本田右近允宛上杉政虎感状の綱文による。同書の永禄2年11月28日条と『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の本田石見守重政の項では実名は重政となっているが、嫡男の孫七郎は謙信から「長」の一字を与えられているのは確かであるにもかかわらず、同系譜の本田源右衛門重方の項では実名が重方となっていることからして、右近允(石見守)が重政を名乗ったというのは大いに疑問である)
 本田石見守長定(『上越』2099・2388号)

 河田九郎左衛門尉長親(『上越』471号)
 河田豊前守長親(『上越』264・268・274・303・311・316・334・341・353・361・363・440・478・484・600・616・825・826・832・833・834・867・916・918・919・934・935・1023・1073・1085・1096・1153・1197・1294・1310・1338・1369・1370・1417・1453号)
 河田豊前入道禅忠(『上越』1566・1580・1588・1607・1788・1789・1883・2068・2079号)

 鯵坂清介長実(『上越』309・623・624・1101・1102・1109・1294・1446号)
 鰺坂備中守長実(『上越』1338・1369・1421・1476・1799号)

 飯田孫右衛門尉長家(『上越』409・513・995・1128・1494・1814・2336・3069・3378号)
 飯田出羽守長家(通称の出羽守は、誤りの多い史料ではあるが『古代士籍』による)

 三潴左近大夫長能(『上越』614・1030・2814・3119号 ◆『日本城郭大系7』の上関城・笹平城の項からすると、実名の長能は『三潴氏系図』によるものらしい)

 吉江亀千代丸(『上越』1398号)
 吉江 長資(同前)
 寺嶋六三長資(『上越』2359号)

 荻田孫十郎長繁(『上越』1321・1590・1627号)
 荻田主馬允長繁(『上越』3262・3263号)

 本田弁丸(『上越』1334号)
 本田孫七郎長信(同前。実名の長信は『上杉家御年譜 一 謙信公』の天正5年5月12日付本田弁丸宛上杉謙信一字書出の綱文による。謙信から「長」の一字を与えられたのは確かであるにもかかわらず、なぜか『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』では実名が重方と記されている)
 本田源右衛門尉長信(通称の源右衛門尉は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の本田源右衛門重方の項による)

 富永清右兵衛尉長綱(『上越』1651・1863号 ◆ 実名の長綱は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の富永備中守長綱の項による)
 富永備中守長綱(『上越』2424・2959・2960・3030・3031・3075・3315号)

 岩船彦五郎長忠(『上越』1660号 ◆ 実名の長忠は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の岩船藤左衛門豊秀の項による。初めは彦五郎長忠または豊広を名乗ったという)
 岩船藤左衛門尉豊秀(『文禄三年定納員数目録』に越後侍中の五十番目、『会津御在城分限帳』に御馬廻衆の二百五十一番目に見える)

 新発田源次郎忠敦(『新潟』1057号)
 新発田尾張守忠敦(『上越』663・788・800号)

 新発田右衛門大夫綱成(『上越』456・535・591・946号 ◆ 初名の可能性がある綱成は『謙信公御書集』の永禄12年(ママ)4月6日付松本石見守・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫宛上杉輝虎書状の綱文(305頁)による)
 五十公野右衛門尉重家(『上越』1527号)
 五十公野因幡守重家(『上越』1753・1944号)
 新発田因幡守重家(『上越』1246・1281・1369・1882・1896・1939・3154・3158・3759号)

 中条弥三郎房資(『上越』83号)
 中条越前守房資・景資(『新潟』1446号 ◆『上越』130・131・132・287号 ◆『中条氏家譜略記』の中条景資の項によれば、景資は幼名を市満丸、仮名を弥三郎、受領名を山城守・越前守を称したというが、山城守を称した形跡はない)

 本庄千代猪丸(『新潟』2357号)
 本庄弥次郎繁長(『新潟』1110・1119・1985・2353・2354号 ◆『上越』424・630号)
 本庄雨順斎全長(『上越』884・915・1490・1760・1892・2116号)
 本庄弥次郎繁長(『上越』2574号)
 本庄越前守繁長(『新潟』1119
号 ◆『上越』2775・2781・2813・3285・3416・3864号)

 色部弥三郎勝長(『新潟』1087・1108号 ◆『上越』84号)
 色部修理進勝長
『上越』359号)

 色部弥三郎顕長(『上越』445・1058・1182・1246号)

 鮎川市黒丸(『新潟』1083号)
 鮎川孫次郎盛長(『新潟』1981号 ◆『上越』912・1837~1840号)

 色部惣七郎長実(『新潟』2052・1527号)
 色部惣七郎長真(『新潟』2073号)
 色部修理大夫長真(『上越』1281・1369・3344・3345・3403・3405・3463・3474・3522号)

 山本寺伊予守定長(『上越』280・1108・1246・1369号)

 山本寺松三景長(『上越』1779・2064・2257・2359号)

 山本寺又四郎長定(実名の長定は『文禄三年定納員数目録』に西浜・琵琶嶋両衆の物頭として載る山本寺九郎兵衛尉定方に付された注記による)

 吉江与次景泰(『上越』1470号)
 中条与次景泰(『上越』1527・1663号)
 中条越前守景泰(『上越』1766・1211・1246・1369・1470・2359号)

 須田相模守満親(『上越』2201・2282・2424・2916・3047・3048・3165・3326(要検討文書)・3333・3339・3340・3828号 ◆『文禄三年定納員数目録』に信州侍中の筆頭として見える)

 須田右衛門大夫景実(『上越』2916・3374・3752号 ◆『文禄三年定納員数目録』に越後
侍中の五番目に見える)

 須田又太郎長実(『上越』3326号 この要検討文書によるものではあるが、初めに又太郎長実を名乗ったことは確からしい)
 須田大炊助長義(『会津御在城分限帳』に侍中(一組目)の十一人のうちで四番目に見え、実名の長義は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の須田大炊助長義の項による)

 上条弥五郎政繁(『上越』1527・1783号)
 上条入道宜順(『上越』1149・1222・1246・1358・1369・1831・1931・1941・2294・2320・2408・2541・2642・2668・2722・2873・3862号)

 上条弥五郎景広(『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)の九十三人のうちで六十五番目に見え、実名の景広は『上杉家御年譜 外姻譜略』の源姓畠山氏系譜による)

 上条源四郎長員(実名の長員は『上杉家御年譜 外姻譜略』の源姓畠山氏系譜による)

 千坂対馬守景親(『上越』1246・1369・1542・2301・2328・2332・2831・3106・3274・3629・3630号 ◆ 『文禄三年定納員数目録』に伏見御留守居の筆頭として、『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)の九十三人のうちで四番目に見え、実名の景親は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の千坂対馬守景親の項による


 千坂太郎左衛門尉景明(『文禄三年定納員数目録』には見えず、『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)九十三人のうちで二十一番目に見え、実名の景明は『中条氏家譜略記』の中条景泰の項による)

 千坂鶴寿丸(『上越』3260号)
 千坂与一長朝(『上越』3273号 ◆『文禄三年定納員数目録』に越後侍中の十六番目、『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)の九十三人のうちで三十九番目に見え、実名の長朝は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の千坂対馬守長朝の項による )

 直江神五郎実綱(『上越』98号)
 直江与右兵衛尉実綱(『上越』106・122・164・253号)
 直江大和守実綱(『上越』291・293号)
 直江大和守政綱(『上越』433・477・623・624・984・987号)
 直江大和守景綱(『上越』650・703・793・933・987・1110・1111・1128・1285・1310・1313・1315・1369号)

 上野源六家成(『上越』10~12・109・110・115・117・229号)
 上野中務丞家成(『上越』137・632・692・775・1282号)

 北条弥五郎高広(『新潟』2257・2258・2264号 ◆『上越』9号)
 北条丹後守高広(『上越』118・144・159・200・207・220・303・331・338・380・421・491・539・542・543・545・583・720・808・850・925・926・938・971・979・1042・1094・1123・1190号)
 北条安芸守高広(『上越』1231・1267・1272・1282・1316・1339・1347・1365・1369・1388号)
 北条安芸入道芳林(『上越』1480・1482・1528・2721・2998号)

 北条源八郎(『上越』338号)
 北条右衛門尉親富(『上越』549号 ◆『戦国遺文 後北条氏編』4112号)
 北条長門守親富(『上越』817・1378号)

 新発田伯耆守綱貞(『新潟』269号)

 新発田源次郎能敦(『越佐史料 巻三』596頁)

◆『新潟県史 資料編3 中世一』◆『新潟県史 資料編4 中世二』◆〔文禄三年定納員数目録〕〔古代士籍〕『新潟県史 別編3 人物編』 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』◆『謙信公御書集』(臨川書店)◆『上杉家御年譜 三 景勝公』◆『上杉家御年譜 二十三 系図・外姻譜略・御家中諸士略系譜』(原書房)◆『越佐史料 巻5』(名著出版)◆『中条町史 資料編 第一巻 考古・古代・中世』◆『三条市史 資料編 第二巻 古代中世編』◆ 瀧澤健三郎『越後入広瀬編年史 中世編』(野島出版)◆『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)◆ 木下聡「日本史学研究室寄託の石井進氏蒐集史料細目録:米沢藩関係古文書の中世史料」(『東京大学日本史学研究紀要』16巻)◆『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)◆ 黒田基樹『戦国大名と外様国衆』(文献出版・戎光祥出版)◆ 池享・矢田俊文編『定本 上杉謙信』(高志書院)◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)◆『会津御在城分限帳』『家督先後録』『先祖由緒帳』(米沢市立図書館デジタルコレクション)

コメント

上杉謙信の側近・吉江景資の無鉄砲な息子たち

2019-07-17 20:20:52 | 謙信にまつらう人々


 越後国上杉謙信の側近である吉江織部佑景資の息子たち(寺嶋六三長資・中条与次景泰)の無鉄砲な行動について述べてみたい。

 まず、吉江織部佑景資とは、〔吉江系譜〕(『越佐史料 巻六』222・223頁)の通りであれば、仮名を与橘と称し、越後国長尾景虎から長尾氏の通字である「長」の一字を与えられたらしく、実名を長資と名乗った(『上越市史 上杉氏文書集』155・162号。以下は『上越』と略す)。永禄3年8月までには官途名を織部佑と称し、天正2年10月までに、やはり長尾氏の通字である「景」の一字を与えられて、実名を景資と改めているが、次男の与次景泰が天正2年6月に越後奥郡国衆の中条氏を継ぐことになる前(元亀4年ではないか)に元服した際、謙信から「景」の一字を与えられているので、それ以前に景資は「景」の一字を与えられていたであろう(『上越』1211・1227・1470号)。
 これも〔吉江系譜〕の通りであれば、謙信とは年齢が近かったらしく、側近家臣のなかでも各別な芳志を受けた人物である『上越』1338号)。
 その息子たちとして、長男は幼名を亀千代丸、元服時に謙信から「長」の一字を与えられ(『上越』1398号)、父の初名であった長資を名乗ったようである。正確な時期は分からないが、謙信による北陸経略の過程で越中国増山の神保氏の重臣であった寺嶋氏の名跡を継いだとみられ、寺嶋六三長資と名乗った(『上越』2359号)。次男は、〔吉江系譜〕によると、幼名を沙弥法師丸といい、謙信から「与次」の仮名と「景」の一字を与えられ、その元服から何年も経ってはいないであろう天正2年6月に謙信の肝煎りで揚北衆の中条氏に入嗣したのは、前述した通りである。
 謙信没後、上杉景勝期に入ってからの景資は、常陸入道宗誾と号した隠居の体であり、三男の与橘が吉江氏を継いでいたが(『上越』2214・2215号 ◆『戦国人名辞典』1032・1033頁)、それでも戦陣には立ち続け、天正10年6月3日、越中国魚津城の在城衆の一員であった宗誾と寺嶋六三長資・中条越前守景泰兄弟(『上越』2344~2346・2348・2359号)は、織田軍との数ヶ月に及ぶ籠城戦の末、ほかの在城衆たちと共に玉砕した。ひとり残った吉江与橘長忠の「長」の一字は、天正9年12月3日に景勝から与えられたものである(『上越』2253号)。
 なお、〔吉江系譜〕と〔御家中諸士略系譜〕(『上杉家御年譜 第二十三巻』391・392頁)では、吉江景資の父を常陸介宗信として、魚津城における籠城戦では宗信、景資、寺嶋長資(両系譜では実名を長秀とする)・中条景泰の三世代が戦死したことになっているが、景資の父は木工助茂高であり、宗信とは景資が号した常陸入道宗誾から作り出された人物である。
 この吉江茂高が所見されるのは、天文年間の後半に限られるが、越後国栃尾城で旗揚げした長尾景虎が古志長尾氏を継いだ頃から仕え、越後守護代を経て越後国主となった景虎の初政を支えた側近家臣であった(『上越』82・95号)。
 前述した通り、謙信は景資の息子たちが元服する際に一字を与えたわけで、なかでも次男の沙弥法師丸には、「吉江杢助」との旧誼を重んじて、吉江父子の要望通りに「景」の一字を与えており、当時すでに茂高は亡くなっていたであろうが、わざわざ孫の名字状に、その名を挙げられるほど、かつての君臣の間柄は親密であったらしい(『上越』1470号)。
 また、同じく両系譜では、やはり謙信旗本の重鎮であった吉江佐渡守忠景(中務丞。両系譜では実名を信清とする)を吉江宗信の弟と記しているが、吉江忠景はもともと、越後守護上杉定実(号玄清)の側近家臣であり(『上越』20号)、定実の死去による越後守護上杉家の断絶に伴い、越後国長尾景虎の直臣となったものである。忠景は上杉輝虎期には、敵方の工作員が横行するなかでの越府の留守衆や、関東の情勢が厳しいなかでの下野国佐野の唐沢山城将を任されたほか、本庄美作入道宗緩(俗名は実乃)・金津新右兵衛尉と並び、輝虎が弱音を吐くことのできる年長の重臣であった(『上越』313・395・544号)。
 それから、長尾景虎が永禄2年の上洛時に召し抱えた新参者のうち、吉江喜四郎資賢(信景。はじめ藤八郎を称したという。前の苗字は伝わらない)を吉江佐渡守信清の養子と記しているが、「資」の字を冠していることと、景資一族とよく行動を共にしていることからすれば、むしろ景資の猶子であったろう。
 このように、景資と忠景を頭とする両吉江氏は、謙信から分け隔てなく重用された一族ではあったが、はやくから上杉家被官と古志長尾氏被官に分かれていた別系となり、両系譜は無理矢理に近親者としてしまったものである。これは、守護代・三河守系の両長尾氏、古志・上田の両長尾氏、村上・栃尾の両本庄氏、いずれも謙信旗本の両村田氏など、長尾・上杉家中の系図類では幾つも見受けられる(『上杉家御年譜 第二十三巻』94~96、233頁、 ◆『上杉家御年譜 第二十四巻』7頁 ◆『越後入広瀬村編年史』68頁)。


※〔吉江系譜〕によると、吉江景資は大永7年生まれで、戦死した時は56歳、寺嶋長資は天文22年生まれで、同じく30歳、中条景泰は永禄元年生まれで、同じく25歳であったという。上杉輝虎が謙信と号するのは元亀元年の8月下旬から9月中旬の間であり、謙信から長資が一字を拝領したのは、同2年以降になるので、19歳以降に元服したことになり、全くあり得ないことではないだろうが、長資の生年には疑問が残る。

※ 吉江景資の息子たちは、謙信から、長男の亀千代丸が「長」の一字、次男の沙弥法師丸が「景」の一字を拝領したわけで、景資の例を見て分かるように、謙信が家臣へ授与する一字は「長」より「景」の方が格が高いようである。ということは、もしかすると兄弟の生母が異なり、沙弥法師丸の生母の方が身分が高かったのかもしれない。それだけではなく、中条景泰は、織田軍の攻勢が強まるなか、天正9年4月以降は父兄と一緒に前線へ派遣され、吉江一族として括られているわけであるが(『上越』2113・2163・2173・2214・2348号)、天正7年2月に高野山清浄心院から謙信逝去への弔意が寄せられると、上杉景勝の取次として、これに答謝したり(『上越』1765・1766号)、魚津籠城中に寺嶋長資が吉江長忠・景泰の妻「おはりこ」へ、中条景泰が吉江長忠と「おはりこ」のそれぞれへ宛てた消息では、長資が自分の妻への言伝よりも、景泰の妻への言伝を優先していたり、兄弟ふたりが他にも連絡したかった人物を、長資が「やかた」と書いているのに対し、景泰は「やはう」と書いていたりすることから(『上越』2335・2344・2345号)、いくら景泰が有力外様衆の中条氏に入嗣したとはいえ、吉江一族における景泰の立場は突出しているように見える。


 ここから本題となるので、まず史料を掲げる。


【史料1】河田重親宛上杉謙信書状(『上越』1170号)
態為音信珎敷具足到来祝着候、仍為越山候間、越中堅固可申付ため半途出馬候、賀州之者共断労兵故、悃望之様候間、半途立馬、彼口手堅一際可付事輙候間、可心安候、上口未落居候て、越山候得、其表張陣不叶、越中捨事候条、留守中手堅申付、心安為可張陣如此候、扨亦弥五郎(北条景広)申越分(北条)氏政向羽生出張之由申越候、弥五郎越候飛脚、南衆出張之儀不知由申候、吾分兎角不申越候、如何実儀候哉、無心元候、東方属一変候上、近日越山前候間、家中付力堅固可防戦由、細々以飛脚羽生可申越候、又帰馬之内、何方之飛脚其地留、此方不越、続飛脚にて可申候、万吉帰陣之上可申候、謹言、
  、織部(吉江景資)子之事、色々申候共、陣召連、可添の無之
  候間、帰陣之上と申候、 身之帰陣申候、無理取可越候、其時追可越候、以上、

    八月十八日      謙信(花押a)
         河田伯耆守殿


【史料2】吉江景資・中条景泰老母宛上杉謙信書状(『上越』1168号)
へつし(別紙)をもつて申候、あさひ(朝日)とりつめせめ候へは、いつれもとも(供)候なかれいの与次(中条景泰)、いろ/\き四郎(吉江資賢)、身の事いけん(意見)申候共、もちい(用)す、ひとりてつはう(鉄炮)のさきへかけ(駆)りある(歩)き候、身の事ふたつしや(不達者)ニ候間、こしま(小嶋)をたのひきすりかへし、いまにお(押)しこ(込)め候、さためてあん(案)すへく候へ共、身の見あい(合)なから、てつはうのさきへこし、て(手)をお(負)わせ候共、うちころ(殺)させ候とも、さためてそのときこの入道をならてうらましく候間、一たん(一旦)おいこめ候事くる(苦)しからす候とおもひ、そのためおしこめき(決)め申候、よう/\とおもふへく候、かきさきけん三(柿崎源三)もゝ(腿)をうらおもて(裏表)へうちぬ(抜)かれ、やゝよは(呼)りかへ(返)し候、又ちうけん(中間)まこ(孫)四郎、てつはううちころされ候、いつれもかく(隠)し候間、このほか(知)らす候、このことく候間、て(手)をお(負)い候とも、いまきめ候よりふうふ(夫婦)のものとも(者共)うら(恨)むへく候間、このたん申候、せいし(制止)を申候へとも、なか/\身のいけんニハつかす候間、きやうこう(向後)ハおりへ(織部)そばおくよりほかあるましく候、かへ(帰)り候ハヽ、ふうふなからふひん(不便)ニハヽ、まつ/\あ(会)ふましく候、あやまち候ハヽ、ほへ(吠え)まわり候とも、よう(用)ニ(立)つましく候、このことはかり申へきため、ふうふかた一しゆ(一緒)ニ申候、めてたくかさねて、以上、
    八月七日       謙信(花押a)
      よし江おりへ殿
      与次らうほへ


 どちらの史料も天正元年に比定されており、【史料1】の追而書部分で、恐らく元服を迎えてから、さほど経っていないと思われる、吉江織部佑景資の息子たち(のちの寺嶋六三長資・中条与次景泰。三男はまだ幼少であったろう)、【史料2】の全般で、吉江景資の次男である中条景泰、彼らの無鉄砲ぶりに謙信が困っていたことが分かるものである。
 ただし、【史料2】の年次については、この時に謙信が攻めた朝日要害は、加賀・越中国境の加賀国河北郡と越中国射水郡の両地に存在しており、どちらであったにしても、当時の謙信は越中国富山城を攻め落とすと、その周辺で加賀一向一揆の残党と戦っている最中であり(『上越市史 上杉氏文書集』1124号)、とても加賀国や越中国奥郡まで進攻するような状況ではなかったことと、〔中条越前守藤資伝〕(『中条町史 資料編』726・727頁)に「此書ハ中条ニ於テかなかき之ふみト称シ最モ尊重シ居ルモノ」と特記され、天正2年の文書として内容が語られていることから、同年に比定した方が良いであろう。

以前、【史料1】の追而書である「織部子之事、色々申候共、陣召連、可添の無之候間、帰陣之上と申候、身之帰陣申候、無理取可越候、其時追可越候、」について、吉江景資の息子たちに色々と言って聞かせても、聞き分けがないようなので、近侍が不足している折でもあり、何れも戦陣に召し連れはするが、それは北陸遠征から帰陣し、引き続き挙行する関東遠征からであること、謙信が帰陣するのを知った途端に、景資の息子たちは無理やりにでも越府から押し掛けてきてしまうので、何とか適切な時期に越させたいこと、というような解釈をしたが、当文書の原本の写真(『上越市史 上杉氏文書集 別冊』1170号)を見たところ、赤字で示した箇所は「其時迄不可越候」と読んだ方が良いように思われた。
 もしこれで間違いがなければ、北陸遠征中の謙信が上野国沼田城将の河田伯耆守重親に対し、自分が関東に着陣するまでは、沼田城にいる景資の息子たちが勝手に来ることがないように注意を促したのではないだろうか。
 これに気が付くまでは、なぜ謙信が景資の息子たちの動向について、わざわざ河田重親に知らせているのか、漠然と疑問を感じていたのだが、どういうわけで景資の息子たちが上野国の沼田城に滞在していたのかはさておき、あのように河田へ注意を促したのであれば、十分に納得がいく。
 その後、景資の息子たちが謙信の意向に大人しく従ったのかは分からないが、【史料2】に「れいの与次」とあるからには、何らかの前例が景泰にはあったのであろうし、彼らが謙信に対して、自分たちを戦場へ伴うように散々駄々をこねていたであろうことは、想像にかたくない。

 以上、謙信から格別な芳志を受けた側近家臣である吉江景資の息子たちの無鉄砲な行動について述べてみた。因みに、『越佐史料 巻五』では当該箇所を「無理取可越候之時、迎を可越候」と読んでいる。いずれが正しいとしても、景資の息子たちが、勝手に滞在先から戦陣にいる謙信の許へ来ようとしていたことには変わりはないであろう。
 長資・景泰兄弟が謙信の許へ勝手に馳せ参じようとしたり、景泰が戦場で砲火の飛び交う最前線に身を晒したりといったような無鉄砲な行動で謙信を困らせていた様子は、少々微笑ましくさえ思える。


※ 元亀3年9月、越中国富山陣の謙信は、越府に留守居させている旗本部将たちに対し、「一人爰元越、留守中何事も候旁々如何様之奉公候共、崩備、口惜候」「身之背下知、一人爰元越候口惜候、其元之用心、千言万句候」と戒めており、今回、取り上げた吉江景資の息子たちに限らず、謙信子飼いの旗本部将たちのなかには、そこそこの年齢に達した者であっても、謙信を心配してのことなのか何なのか、留守中、戦陣の謙信の許へ勝手に駆け付けてしまうような傾向があったらしい(『上越』1121・1122号)。


〔御家中諸士略系譜〕(米沢温故会『上杉家御年譜 第二十三巻 上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜1』『上杉家御年譜 第二十四巻 御家中諸士略系譜2』原書房)◆〔吉江系譜〕(高橋義彦(編)『越佐史料 巻六』名著出版)◆〔上田長尾系図〕(瀧澤健三郎『越後入廣瀬村編年史 中世編』野島出版)◆〔中条越前守藤資伝〕(『中条町史 資料編 第一巻 考古・古代・中世』)◆『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一』19・20号 本庄実乃書状(写)、300号 上杉政虎感状(写)、301号 吉江忠景宛行状(写)、313号 上杉輝虎書状、395号 上杉輝虎書状(写)、487号 上杉輝虎印判覚(写)、544号 吉江忠景書状、1121号 上杉謙信書状(写)、1122号 上杉謙信書状、1230号 佐竹義重書状、1231号 佐竹義重書状(写)、 1313号 直江景綱・吉江資賢連署状(写)、1347号 上杉謙信書状、1439号 上杉謙信書状(写)、1447号 上杉謙信書状 ◆『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一 別冊』1170号 上杉謙信書状 ◆ 福原圭一「中条景泰」「吉江景資」 山田邦明「吉江長忠」片桐昭彦「吉江信景」「吉江宗信」(戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館)◆ 市立米沢図書館デジタルライブラリー〔先祖由緒帳〕PDFファイル3冊目



〔吉江茂高・吉江景資・吉江長忠・寺嶋長資・中条景泰関連文書一覧〕

 1.天文18年6月20日付平子孫太郎宛吉江木工助茂高書状(写)〔署名:吉杢 茂高〕(『上越』82号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『越佐史料』に倣って天文21年に比定し、書中における出陣予定の「御屋形様」を関東管領山内上杉憲当(憲政)としているが、憲当は「関東之屋形様」であり、越後守護上杉入道玄清(俗名は定実)のことであろうから、山内上杉憲当の要請を受け、越後守護代長尾平三景虎が上杉玄清を奉じて関東へ出陣しようとしていた天文18年6月20日・7月4日付平子孫太郎宛庄新左衛門尉実乃書状(『上越』19・20号)と関連付けて、当年に移動した。

 2.天文21年8月10日付平子孫太郎宛吉江木工助茂高書状(写)〔署名:吉江木工助茂高〕(『上越』95号)

 3.弘治3年10月18日付広泰寺宛本庄宗緩・長尾景繁・同景憲・直江実綱・吉江長資連署状(写)〔署名:長資〕『上越』155号)

 4.永禄元年10月晦日付山田帯刀左衛門尉宛吉江長資」・庄田定賢・某貞盛連署段銭請取状(写)〔署名:景資(長資が正しい)〕(『上越』160号)

 5.永禄2年2月23日付飯田与七郎宛吉江長資・庄田定賢・某貞盛連署段銭請取状〔署名:長資〕(『上越』162号)

 6.永禄3年8月25日付桃井右馬助義孝・長尾小四郎景直・黒河竹福・柿崎和泉守景家・長尾源五宛長尾景虎掟書 「吉江織部助(佑)」(『上越』211号)

 7.永禄7年3月15日付金津新兵衛尉・本田右近允・吉江織部佑・高梨修理亮・小中大蔵丞・吉江民部少輔・岩船藤左衛門尉・吉江中務丞忠景宛上杉輝虎書状〔宛名:吉江織部佑殿〕(『上越』313号)
 ※ 当文書を諸史料集は永禄5年に比定しているが、その内容は外征中の越後国上杉輝虎が越府留守衆に警戒任務を怠らないように指示したものであり、この輝虎の旗本たちで構成された留守衆のうちの吉江中務丞忠景は、当該期には永禄4年冬から翌5年春にかけて輝虎(政虎)が挙行した関東遠征に従軍して某城を守っていたか、前回の遠征で関東に残留を命じられて某城を守っていたか(『上越』300・301号)、そのどちらかであったことから、別の年であると考え、同じく留守衆のうちの金津新右兵衛尉と留守居していたことが分かる永禄7年3月13日付本庄美作入道宗緩・金津新右兵衛尉・吉江中務丞忠景書状(『上越』395号)と関連付けて、当年に移動した。

 8.元亀2年7月29日付鮎川孫次郎盛長宛上杉謙信書状 「吉江織部佑」「織部佑」(『上越』1447号)
 ※ 年次未詳とされている当文書の内容は、謙信が揚北衆の鮎川孫次郎盛長に証人として差し出させた鮎川家中のうち、吉江景資に預けられていた菅原某が吉江家中の佐山某の妻と密通騒動を起こしたところ、謙信は忠信者の鮎川盛長に免じて菅原の罪を許し、鮎川とは同族である揚北衆の色部弥三郎顕長を頼み、越府における色部屋敷で預かってもらったが、不心得者の菅原がまた問題を起こしでもしたら、色部顕長に迷惑を掛けてしまうと考え直して、鮎川の所へ戻すことを伝えたものであり、謙信の署名から元亀2年以降に発給された文書となる。やはり年次未詳とされている6月27日付鮎川宛謙信書状(『上越』1439号)に書かれている「菅原証人…殊に菅原兄之子去年徒を申候共、免之分差置候、」とは、鮎川家中の菅原某と吉江家中の佐山某の妻が起こした密通騒動を指す。そして、謙信は「大途之弓箭」を控えていたとも書かれており、これは、甲州武田信玄と連動して加賀・越中一向一揆が攻勢に出てきたので、越後国上杉家は大きな危機に見舞われてしまい、総力を挙げて戦わなければならなかった元亀3年秋から翌4年夏にかけて謙信が挙行した北陸遠征に当たるであろう。この元亀3年に比定できる文書には、当文書の密通騒動が「去年」とあることから、当年に比定した。

 9.元亀4年4月20日付上杉十郎・上条弥五郎政繁・山本寺伊予守定長・琵琶嶋弥七郎・石川中務少輔・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信・新津大膳亮・加地彦次郎・平賀左京亮重資・本庄清七郎・船見宮内少輔・吉江織部佑・松本鶴松代 板屋修理亮・本庄弥次郎繁長代宛上杉謙信書状(写)〔宛名:吉江織部佐(佑)〕「織部」(『上越』1149号)

 10.天正元年8月18日付河田伯耆守重親宛上杉謙信書状「織部子」(『上越』1170号)

 11.天正2年6月20日付中条与次景泰宛上杉謙信軍役状〔宛名:中条与次殿〕(『上越』1211号)

 12.天正2年8月7日付吉江織部佑景資・与次老母宛上杉謙信書状〔宛名:よし江おりへ殿 与次らうほへ〕「与次」「おりへ」(『上越』1168号)

 13.天正2年10月10日付若林九郎左衛門尉宛吉江景資軍役覚(写)〔署名:吉江 景資〕(『上越』1227号)

 14.天正3年正月18日付上野彦九郎宛吉江景資名字状〔署名:景資〕(『上越』1243号)

 15.天正3年2月16日付中条景泰軍役帳写 「中条与次」(『上越』1245号)

 16.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「中条与次」(『上越』1246号)

 17.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「中条与次」(『上越』1267号)

 18.(天正3年10月下旬頃)多功源之丞由緒「吉江織部」(〔先祖由緒帳〕123齣)
 ※ 当由緒の内容は、謙信が上野国五覧田城を攻め落とした際、戦功を挙げた近習の多功勘之丞を忠賞し、吉江景資を通じて褒美の金子を与えたものである。そして、謙信が皿窪城を攻め落とすと、次に同国五覧田城を攻め落としたのは同じ年であると記されており、越後国上杉軍が上野国桐生領の皿窪(猿窪)城を攻め落としたのは天正3年であることから(『上越』1230・1231号 ◆ 黒田基樹「上杉謙信の関東侵攻と国衆」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)385頁)、当年に比定した。

 19.天正4年12月28日 多功勘之丞由緒 「吉江織部」(〔先祖由緒帳〕124齣)
 ※ 当由緒の内容は、謙信が能登国七尾城を攻めた際、大念寺口で戦功を挙げた多功勘之丞を忠賞し、吉江景資を通じて褒美の小袖を与えたものである。謙信が最初に七尾城を攻めたのは天正4年11月、ついに攻め落としたのは翌5年9月15日であり(『上越』1313・1347号)、当由緒の日付によって年次は明らかであるから、当年に比定した。

 20.天正5年6月7日付河田豊前守長親・鯵坂備中守長実・吉江織部佑景資宛上杉謙信書状(写)〔宛名:吉江織部佑殿〕(『上越』1338号)

 21.天正5年11月23日付上杉謙信制札(奉者 三条道如斎信宗・吉江喜四郎信景) 「吉江織部佑」(『上越』1360号)

 22.天正5年12月23日付上杉家家中名字尽手本「中条与次」「吉江織部佑」(『上越』1369号)

 23.天正6年2月12日付三条道如斎信宗・吉江喜四郎信景宛吉江織部佑景資書状(写)〔吉織 景資〕(『上越』1375号)

 24.年次未詳正月28日付吉江亀千代丸宛上杉謙信一字書出(写)〔宛名:吉江亀千代丸殿〕(『上越』1398号)

 25.年次未詳4月11日付栗林次郎左衛門尉宛上杉謙信書状 「吉江織部佑」(『上越』1420号)

 26.年次未詳6月18日付吉江織部佑景資宛糟谷織部佑通綱書状(写)〔宛名:吉江織部佐殿〕「吉江方」(『上越』1436号)

 27.年月日未詳上杉謙信名字状(写)「吉江杢助」「与次」(『上越』1470号)

 28.天正6年3月28日付三条道如斎信宗・吉江喜四郎信景・北条下総守高定宛神余小次郎親綱書状(写)「吉江織部佐(佑)方」(『上越』1483号)

 29.天正6年6月7日付上条弥五郎政繁・中条与次景泰・新発田尾張守長敦・竹俣三河守慶綱・安田治部少輔堅親・五十公野右衛門尉重家・加地安芸守・吉江喜四郎信景・毛利惣八郎顕元・色部惣七郎長真・斎藤下野守朝信宛跡部大炊助勝資書状(写)〔宛名:中条与次殿〕(『上越』1527号)

 30.天正6年8月22日築地清三宛中条景泰判物(写)〔署名:景泰〕(『上越』1618号)

 31.天正6年9月2日付築地修理亮資豊宛上杉景勝書状「与次」(『上越』1649号)

 32.天正6年9月16日付中条与次景泰宛上杉景勝感状(写)〔署名:中条与二殿〕(『上越』1663号)

 33.天正7年2月14日付清浄心院宛上杉景勝書状「中条越前守」(『上越』1765号)

 34.天正7年2月14日付清浄心院宛中条越前守景泰副状〔署名:中条越前守景泰〕(『上越』1766号)

 35.天正7年4月朔日付佐藤新左衛門尉宛中条景泰判物(写)〔署名:景泰〕(『上越』1806号)

 36.天正7年4月8日付築地修理亮資豊宛上杉景勝書状「越前守」(『上越』1809号)

 37.天正7年4月21日日付築地修理亮資豊宛上杉景勝書状「越前守」(『上越』1811号)

 38.天正9年4月8日付山本寺松三景長・中条越前守景泰・竹俣三河守慶綱・吉江常陸入道殿宗誾宛上杉景勝書状(写)〔宛名:中条越前守景殿 吉江常陸入道殿〕(『上越』2113号)

 39.天正9年7月17日付樋口与六兼続宛吉江常陸入道宗誾書状「越前」(『上越』2163号)

 40.天正9年8月17日付長尾平太・村山善左衛門尉慶綱・新保孫六・一騎合衆宛上杉景勝書状(写)「中条越前守」(『上越』2174号)

 41.天正9年11月晦日付吉江常陸入道宗誾宛上杉景勝判物(写)〔宛名:吉江常陸入道殿〕(『上越』2212号)

 42.天正9年11月晦日付吉江与橘宛上杉景勝判物(写)〔宛名:吉江与橘殿〕(『上越』2213号)

 43.天正9年11月晦日付中条越前守景泰宛吉江常陸入道宗誾書状〔宛名:越前守殿 参御宿所 署名:常陸入道宗誾〕(『上越』2214号)

 44.天正9年11月晦日付吉江与橘宛吉江常陸入道宗誾書状〔宛名:与橘殿  署名:常陸入道宗誾〕(『上越』2215号)

 45.天正9年12月3日付吉江与橘長忠宛上杉景勝一字書出(写)〔宛名:吉江与橘殿〕(『上越』2253号)

 46.天正9年12月3日付吉江与橘長忠宛上杉景勝朱印状(写)〔宛名:吉江与橘殿〕(『上越』2254号)

 47.天正10年4月4日付吉江与橘長忠・おはりこ(中条景泰室)宛寺嶋六三長資書状〔宛名:与きちとの おはりこ 署名:六三〕「ゑちせん」(『上越』2335号)

 48.天正10年4月9日付吉江与橘長忠宛中条越前守景泰書状〔宛名:与きちとのへ  署名:越前守〕(『上越』2344号)

 49.天正10年4月9日付おはりこ宛中条与次景泰書状〔宛名:おはりこ 御中 署名:与次〕「六三」(『上越』2345号)

 50.天正10年4月9日付お二郎宛蓼沼掃部助泰重書状 「なかちうとの」(『上越』2346号)

 51.天正10年4月13日付山本寺松三景長・中条越前守景泰・長与次・亀田小三郎長乗・蓼沼掃部助泰重・寺嶋六三長資・竹俣三河守慶綱・安部右衛門尉政吉・吉江常陸入道宗誾・藤丸新介勝俊・石口采女正広宗・若林九郎左衛門尉家吉宛上杉景勝書状(写)〔宛名:中条越前守殿 寺嶋六三殿 吉江常陸入道殿〕「織部父子三人」(『上越』2348号)

 52.天正10年4月23日付直江与六兼続宛山本寺松三景長・中条越前守景泰・吉江常陸入道宗誾・竹俣三河守慶綱・安部右衛門尉政吉・吉江喜四郎信景・石口采女正広宗・寺嶋六三長資・若林九郎左衛門尉家吉・蓼沼掃部助泰重・亀田小三郎長乗・藤丸新介勝俊連署状〔署名:中条越前守景泰 吉江常陸入道宗誾 寺嶋六三長資〕(『上越』2359号)

 53.天正10年8月15日付吉江与橘殿長忠宛上杉景勝判物(写)〔宛名:吉江与橘殿〕「亡父織部佑 同六三」(『上越』2536号)


番号は年次を比定、移動したもの。

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山吉豊守関連文書一覧

2019-07-15 19:43:17 | 謙信にまつらう人々
 1.永禄8年12月21日付延命院宛山吉豊守書状〔署名:平 豊守〕(『上越』1012号)
 ※ 当文書は、下野国足利の鑁阿寺の支院群が、関東へ出馬した越後国上杉輝虎の武運を祈念し、巻数と抹茶を贈ってくれたことから、輝虎の側近である山吉孫次郎豊守が答礼したものであり、同じく河田豊前守長親が千手院へ答礼している2月3日付の書状(『上越』484号)が、その花押形から永禄9年に比定できるため(栗原修「上杉氏の隣国経略と河田長親」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)65~110頁)、取次の山吉豊守と河田長親が手分けして、それらに答礼したのであろうから、当年に比定した。

 2.永禄9年正月21日付金剛乗院宛上松弥兵衛尉藤益書状「山吉披露」「山吉所」(『栃木』鑁阿寺文書290号) 
 ※ 当文書によると、上杉輝虎は甲州武田軍と戦うため、夜間に軍勢を展開しており、その書札礼から永禄9年に比定できる上野国衆の富岡主税助宛上杉輝虎書状(『上越』306号)には、当該期に輝虎が下野国佐野へ向かうことや、上野国西郡で甲州武田軍と戦ったことなどが書かれていることから、この文書と関連付けて、当年に比定した。

 3.永禄9年11月7日付山吉孫次郎豊守宛上杉輝虎書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』951号)
 ※ 当文書を『上越市史』は元亀元年に置いているが、黒田基樹「上杉謙信の関東侵攻と国衆」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)における上杉輝虎e2型花押の使用時期を踏まえ、当年に移動した。

 4.永禄9年11月14日付14龍福院宛上松弥兵衛尉農次書状「山吉披露」(『栃木』鑁阿寺文書245号)
 ※ 当文書の文面からすると、1の文書と関連があるように思われるが、発給者の上松弥兵衛尉の実名が変わっており、永禄8年には比定できない。この冬にも上杉輝虎が下野国佐野へ向かうことにより、同国足利の鑁阿寺の支院群には輝虎から制札を発給してもらう必要があったであろうことから(『上越』540・541・544号)、当年に比定した。

 5.永禄10年4月7日付発智右馬允長芳宛山吉孫次郎豊守書状〔署名:山孫 豊守〕(『上越』556号)

 6.永禄11年2月4日付飯田与七郎宛山吉孫次郎豊守書状〔署名:孫次郎豊守〕(『上越』593号)

 7.永禄11年4月19日付山吉豊守宛岡本筑後守高永書状(写)〔宛名:山吉殿 御宿所〕(『上越』1095号)
 ※ 当文書を『上越市史』は元亀3年に比定しているが、書中に現れる岡本高永の「老父(美濃守高昌。可月斎宗慶)」は、江田郁夫「元亀期の宇都宮氏 -甲相同盟と宇都宮家中-」(『下野宇都宮氏』戎光祥出版)によると、同年正月に病中の宇都宮弥三郎広綱から実権を奪おうとした外様衆の皆川心徹斎道楽(山城守俊宗)によって殺害されたそうであり、この書中では岡本老父は健在であることから、『謙信公御書集』に従って当年に置いた方が良さそうである。

 8.永禄11年8月18日付柿崎和泉守景家・直江大和守政綱宛上杉輝虎書状「山吉 河田 栃尾衆」「山吉 栃尾之者」(『上越』613号)

 9.永禄11年9月8日付直江大和守政綱宛本庄入道宗緩・山吉孫次郎豊守・河田豊前守長親連署条書〔宛名:山孫 豊守〕(『上越』616号)

 10.永禄11年10月13日付小中大蔵丞宛上杉輝虎書状「孫次郎方」(『上越』593号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『謙信公御書集』に倣って永禄9年に置いているが、その内容からして上杉輝虎が越府にいることは確かであり、書中に現れる新発田右衛門大夫が上野国沼田城に在番していた時期、同じく河田伯耆守重親が沼田在城を始めた時期は、新発田が、永禄9年10月下旬からの関東遠征を終えて輝虎が帰国の途に就いた永禄10年2月頃から翌11年10月まで(『上越』537・548・553・619号)、河田が、永禄10年10月下旬からの関東遠征を終えて輝虎が帰国の途に就いた同年11月頃からであるため(『上越』586・591号)、年次は10年と11年に絞られる。10年は当該期の輝虎は出府しているはずであり、永禄11年は10月16日付松本石見守景繁・河田伯耆守重親・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫宛上杉輝虎書状(『上越』619号))によれば、輝虎が在府しているのは明らかであるから、当年に移動した。

 11.永禄11年11月27日付中条越前守宛山吉豊守・直江政綱・鯵坂長実連署状〔署名:豊守〕「山孫」(『上越』623号)

 12.永禄11年11月27日付中条越前守宛山吉孫次郎豊守・直江大和守政綱・鯵坂清介長実連署状〔署名:山孫 豊守〕(『上越』624号)

 13.永禄11年11月27日付中条越前守宛上杉輝虎書状(写)「山吉」(『上越』622号)

 14.永禄11年12月28日付柿崎景家・直江政綱・山吉豊守宛游足庵淳相書状〔宛名:柿崎殿 山吉殿 直江殿 御返報〕(『上越』634号)

 15.永禄12年正月20日付山吉豊守宛松本石見守景繁書状〔宛名:山吉殿 参御陣所〕(『上越』869号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『新潟県史』に倣って永禄13年に置いているが、同12年11月に松本景繁は何らかの結末を迎えており(『上越』949号)、当文書からは「南方(相州北条家)」と交渉している様子が窺えるので、当年に移動した。

 16.永禄12年正月17日付山吉孫次郎豊守・直江大和守政綱・鯵坂清介長実宛大川三郎次郎長秀書状〔宛名:山孫 直大 鯵清 御陣所〕(『上越』644号)

 17.永禄12年正月17日付柿崎和泉守景家・直江大和守政綱・山吉孫次郎豊守宛大川三郎次郎長秀書状〔宛名:柿泉 直大 山孫 御陣所〕(『上越』645号)

 18.永禄12年2月6日付岩船藤左衛門尉・羽田六助(介)宛上杉輝虎朱印状(写)〔奉者:柿崎景家・直江景綱・山吉豊守〕(『上越』650号)

 19.永禄12年2月11日付山吉孫次郎豊守宛太田三楽斎道誉書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』658号)

 20.永禄12年2月11日付山吉孫次郎豊守宛太田三楽斎道誉書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』659号)

 21.永禄12年3月26日付柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守宛土佐林禅棟書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』691号)

 22.永禄12年3月27日付山吉豊守宛松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成連署状〔宛名:山吉殿 参御陣中〕(『上越』692号)

 23.永禄12年3月晦日付山吉孫次郎豊守宛由良信濃守成繁書状〔宛名:山孫〕(『上越』694号)

 24.永禄12年4月21日付山吉孫次郎豊守・河田豊前守長親宛太田三楽斎道誉条書案〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』708号)

 25.永禄12年4月21日付山吉豊守・河田長親宛梶原政景書状(写)〔宛名:山孫 志山 〕(『上越』710号)
 ※ 宛所の志駄山城守とされている「志山」は改竄や誤写であると思われ、本来は河田豊前守の「河豊」であったろう。

 26.永禄12年4月27日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』720号)

 27.永禄12年5月7日付山吉孫次郎豊守宛北条氏照書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』724号)

 28.永禄12年5月18日付直江大和守景綱・河田豊前守長親宛進藤隼人佑家清書状「山吉 直江所」(『上越』726号)

 29.永禄12年閏5月5日付山吉孫次郎豊守・直江大和守景綱宛簗田中務大輔晴助(号道忠)・同八郎持助連署状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』734号)

 30.永禄12年閏5月7日付柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守宛土佐林禅棟書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』740号)

 31.永禄12年閏5月16日付本庄美作入道宗緩宛広泰寺昌派書状「山吉殿 直江殿 鯵清」(『上越』746号)

 32.永禄12年6月9日付山吉孫次郎豊守宛北条氏照書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』759号)

 33.永禄12年6月9日付山吉孫次郎豊守宛北条氏照書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』760号)

 34.永禄12年6月11日付山吉孫次郎豊守宛藤田氏邦書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』763号)

 35.永禄12年6月16日付山吉孫次郎豊守宛広泰寺昌派・進藤隼人佑家清連署状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』764号)

 36.永禄12年6月18日付「越府 人々御中」宛由良信濃守成繁書状「河豊 直大 山孫」(『上越』768号)

 37.永禄12年6月23日付遠山左衛門尉康光宛山吉豊守条書案〔署名:山孫 豊守〕(『上越』712号)
 ※ 月が書かれていない当文書を諸史料集は『謙信公御書集』に倣って4月としているが、輝虎の出馬に同行する約束により、遠山康光が相府小田原から越府へやって来るはずであったところ、何らかの事情で遅延していたが、ようやく遠山が相府を出立する時期(『上越』770号)と、ずれこんだ輝虎の出府の時期(『上越』782号)から考えて、当月に移動した。

 38.永禄12年6月25日付直江大和守景綱・河田豊前守長親宛松本石見守景繁書状「山吉殿」(『上越』769号)

 39.永禄12年6月28日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状〔宛名:山吉孫二郎殿〕(『三条』235号 ◆『戦北』1268号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『新潟県史』に倣って元亀2年に置いているが、「去比広泰寺・進藤帰路砌、」「信玄至于駿州御厨郡出張、」という状況から、当年に置いている『三条市史』『戦国遺文』に従った。

 40.永禄12年7月17日付「越府江 御報」宛北条氏照書状「山吉方」(『上越』776号)

 41.永禄12年7月29日付鮎川孫二郎盛長宛上杉輝虎書状「山吉孫二郎」(『上越』780号)

 42.永禄12年9月7日付山吉孫次郎豊守北条氏政書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』805号)

 43.永禄12年9月7日付山吉豊守宛遠山左衛門尉康光副状(写)〔宛名:山孫 参御宿所〕(『上越』806号)

 44.永禄12年9月10日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』807号)

 45.永禄12年9月25日付上杉輝虎制札〔奉者:和泉守(柿崎和泉守景家) 平 豊守(山吉豊守) 豊前守(河田豊前守長親)〕(『上越』809号)

 46.永禄12年10月24日付河田伯耆守重親宛北条氏照書状「山吉方」(『上越』820号)

 47.永禄12年10月20日付梶原政景宛山吉孫次郎豊守条書〔署名:山孫 豊守〕(「大阪府東大阪市専宗寺所蔵岩付太田氏文書」)
 ※ 新井浩文「岩付太田氏関係文書とその伝来過程」(『戦国史研究叢書8 関東の戦国期領主と流通 -岩付・幸手・関宿-』岩田書院)における紹介文書。

 48.永禄12年10月24日付山吉孫次郎豊守宛北条氏照書状〔宛名:山吉孫次郎殿」〕(『上越』821号)

 49.永禄12年11月 山吉豊守宛遠山左衛門尉康光書状(写)〔宛名:山孫(脇付不詳)〕(『上越』824号)
 ※ 宛所・日付を欠く。『上越』824号の注記によれば、宛名は『謙信公御書集』巻九によるとのこと。

 50.永禄12年11月12日付河田伯耆守重親・上野中務丞家成宛由良信濃守成繁書状(写)「山孫」(『上越』827号)

 51.永禄12年11月14日付山吉豊守宛遠山左衛門尉康光書状〔宛名:山吉殿〕(『上越』830号)

 52.永禄12年11月14日付山吉豊守宛遠山左衛門尉康光書状〔宛名:山孫 御報」)宛遠山左衛門尉康光書状(『上越』831号)

 53.永禄12年11月16日付山吉孫次郎豊守宛上杉旱虎書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』949号)
 ※ 当文書を『上越市史』は元亀元年に置いているが、今福匡「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究』第502号)を踏まえ、上杉輝虎は元亀元年8月から9月にかけて謙信を号するようになることと、松本景繁は永禄12年秋頃に上野国沼田城将を退任していることから(『上越』931・932・939・940・769・820・822号)、当年に移動した。

 54.永禄12年11月20日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』836号)

 55.永禄12年11月24日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状〔宛名:山吉孫二郎殿〕(『上越』838号)

 56.永禄12年11月24日付山吉豊守宛由良信濃守成繁書状(写)〔宛名:山孫 御報〕(『上越』839号)

 57.永禄12年11月29日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』843号)

 58.永禄12年11月晦日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿 御宿所〕(『上越』844号)

 59.永禄12年12月8日付由良信濃守成繁宛北条氏康書状(写)「山吉方」(『上越』852号)

 60.永禄13年正月朔日付手島左馬助長朝宛上杉輝虎書状(写)「山吉孫二郎」(『上越』863号)

 61.永禄13年正月15日付山吉豊守宛遠山左衛門尉康光書状〔宛名:山孫 参御報〕(『上越』868号)

 62.永禄13年2月3日付堀江玄蕃允宛進藤隼人佑家清書状「次郎殿」(『上越』878号)

 63.永禄13年2月3日付山吉豊守宛由良信濃守成繁書状〔宛名:山孫 御陣所〕(『上越』879号)

 64.永禄13年2月6日付由良信濃守成繁宛遠山左衛門尉康光書状(「山孫」)(『上越』881号)

 65.永禄13年2月18日付上杉輝虎宛北条氏康・同氏政起請文「山吉方」(『上越』883号)

 66.永禄13年3月15日付進藤隼人佑家清宛河田重親・山吉豊守連署条書(写)〔署名:豊守 重親〕(『上越』869号)

 67.永禄13年3月28日付柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守宛北義斯書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』901号)

 68.永禄13年4月朔日付「山内 江人々御中」宛真壁氏幹書状「山吉方」(『上越』696号)
 ※ 当文書を『越佐史料』などは、永禄12年に比定しているが、山吉豊守と共に取次を務めている北条高広が越後国上杉家に復帰する時期から考えて、当年に移動した方が良いであろう。

 69.永禄13年4年4日付山吉孫次郎豊守宛多賀谷入道祥聯書状(写)〔宛名:謹上 山吉孫次郎殿〕「山吉孫次郎方」(『上越』903号)

 70.永禄13年4月9日付山吉孫次郎豊守宛上杉輝虎書状(写)〔宛名:山吉孫二郎殿〕(『上越』904号)

 71.永禄13年4月15日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』906号)

 72.永禄13年4月16日付山吉豊守宛遠山新四郎康英書状〔宛名:山孫 参御宿所〕(『上越』907号)

 73.元亀元年4月24日付三戸駿河守内室宛「山よし孫二郎とよ守」書状(『上越』910号)

 74.元亀元年5月9日付山吉孫次郎豊守宛鮎川孫次郎盛長書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕「山吉方」(『上越』912号)

 75.元亀元年6月29日付富岡清四郎宛〔山吉豊守・河田長親〕連署状(『上越』916号)

 76.元亀元年7月19日付藤田新太郎氏邦宛〔山吉孫次郎豊守〕条書案(『上越』920号)

 77.元亀元年8月4日付山吉孫次郎豊守宛北条氏政書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』922号)

 78.元亀元年8月6日付中条越前守宛本庄美作守宗緩書状「山孫」(『上越』783号)
 ※『上越市史』は、揚北衆の中条越前守と黒川四郎次郎平政の同族間で再燃した土地相論を巡る78~80、83~94の文書群を永禄12年に置いているが、当該期には双方の取次を務めている山吉豊守と直江大和守景綱は共に、上杉輝虎が挙行した北陸遠征に従軍しているので、この年ではあり得ない。一方の当事者である中条は天正元年に亡くなったとされ、翌2年6月には、謙信側近の吉江織部佑景資の次男である与次景泰が中条家に入嗣していて、代替わりしているのは確かであり(『上越』1211号)、元亀3年と翌天正元年の当該期には謙信が北陸へ出馬しているため(『上越』1114・1115・1170号)、元亀元年か翌2年のどちらかの年となる。この相論の間に輝虎は何度か鷹狩りを催しているのだが、元亀2年における謙信の動向は詳らかでないのに対し、元亀元年の輝虎は同盟関係にある遠(三)州徳川家康の使僧が来訪したのを受け、家康の重臣へ鷹や真羽(真鳥羽。矢羽根に用いる雉・鷹・鷲などの翼羽や尾羽のこと)を贈っており(『上越』931・932号)、こうした贈答品を用意し易かったであろうと考えたことから、当年に移動した。

 79.元亀元年8月8日付中条越前守宛本庄美作入道宗緩書状「山孫」(『上越』784号)

 80.元亀元年8月11日付中条越前守宛本庄美作入道宗緩書状「山孫」(『上越』787号)

 81.元亀元年8月13日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』928号)

 82.元亀元年8月13日付山吉豊守宛大石芳綱書状〔宛名:山孫 参人々御中〕(『上越』929号)

 83.元亀元年8月13日付山吉豊守宛新発田忠敦書状案(『上越』788号)

 84.元亀元年8月13日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』789号)

 85.元亀元年8月17日付中条越前守宛直江大和守景綱書状「山孫」(『上越』793号)

 86.元亀元年8月18日付中条越前守宛山吉孫次郎豊守書状〔署名:山孫 豊守〕(『上越』794号)

 87.元亀元年8月18日付中条越前守宛山吉孫次郎豊守書状〔署名:山孫 豊守〕(『上越』795号)

 88.元亀元年8月18日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』790号)

 89.元亀元年8月20日付中条越前守宛山吉豊守書状〔署名:豊守〕(『上越』796号)

 90.元亀元年8月21日付新発田忠敦山吉孫次郎豊守書状〔署名:孫次郎豊守〕(『上越』797号)

 91.元亀元年8月21日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』801号)

 92.元亀元年8月21日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』791号)

 93.元亀元年8月22日付中条越前守宛本庄入道宗緩書状「山孫」「孫次郎」(『上越』798号)

 94.元亀元年8月24日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』800号)

 95.元亀元年9月3日付柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守宛今川氏真書状(写) 〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』936号)

 96.元亀元年9月3日付直江大和守景綱・柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守宛朝比奈泰朝副状(写)〔宛名:直江大和守殿 柿崎和泉守景家 山吉孫次郎殿 御宿所〕(『上越』937号)

 97.元亀元年9月3日付山吉孫次郎豊守宛今川氏真書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』582号)
 ※ 当文書を諸史料集は永禄10年に置いているが、長谷川弘道氏の論考「駿越交渉補遺 -「書礼慮外」をめぐって」(『戦国遺文 今川氏編 第二巻』【月報2】東京堂出版)における年次比定に従い、当年に移動した。

 98.元亀元年9月7日付山吉豊守宛北条丹後守高広書状〔宛名:山吉殿〕(『上越』938号)

 99.元亀元年9月晦日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』941号)

 100.元亀2年8月8日付三戸駿河守内室宛上杉謙信書状「山よしまこ二郎」(『上越』1060号 ◆『三条』276号)

 101.元亀2年10月3日付山吉孫次郎豊守宛上杉景虎書状〔宛名:山吉孫二郎殿〕(『上越』1066号)

 102.元亀2年11月吉日付山吉豊守宛菅谷摂津入道全久条書(写)〔宛名:山吉江 参御宿所〕(『上越』1070号)
 ※ 当文書と『上越』490号の永禄9年2月吉日付山吉豊守宛菅谷全久条書(写)は、日付こそ異なっているが、その内容は重複したものであり、黒田基樹「常陸小田氏治の基礎的研究 -発給文書の検討を中心として-」(『国史学』166号)に従って、こちらのみを載せた。

 103.元亀2年12月10日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山吉方」(『上越』1071号)

 104.元亀2年12月10日付飯田与七郎宛菅谷摂津入道全久書状(写)「孫二郎殿」(『上越』1072号)

 105.元亀2年12月16日付飯田与三右衛門尉宛菅谷摂津入道全久書状(写)「山吉殿」「孫二郎殿」(『上越』1074号)

 106.元亀2年12月17日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山孫」(『上越』1075号)

 107.元亀3年正月9日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山孫」(『上越』1078号)

 108.元亀3年正月9日付飯田与三右衛門尉宛菅谷摂津入道全久書状(写)「山孫」(『上越』1079号)

 109.元亀3年閏正月7日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山孫」(『上越』1084号)

 110.元亀3年2月16日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山孫」(『上越』1091号)

 111.元亀3年3月11日付直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守宛某職信書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』894号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『謙信公御書集』に倣って元亀元年に置いているが、その内容は、越後国上杉家の越中国における最前線の拠点である新庄城の城衆と、甲州武田陣営に属する越中国金山(松倉)の椎名右衛門大夫康胤が「無事」を成立させたものであり、この椎名康胤が永禄11年に上杉輝虎から離反して武田信玄に味方し、ついには元亀4年に謙信との和睦交渉が不首尾に終わって滅ぼされてしまうまでの間で、晩春に輝虎あるいは謙信が越中味方中の神保氏から「関左表、去年以来被立御馬、依之被達御存満被御納馬」と伝えられる状況であるのは、謙信期の元亀3年であろうから、当年に移動した。

 112.元亀3年5月21日付山吉孫次郎豊守宛菅谷摂津入道全久覚書(写)〔宛名:山吉孫二郎殿 御宿所〕(『上越』515号)
 ※ 当文書を『上越市史』は永禄9年に仮定しているが、前掲の黒田氏の論考を踏まえると、『謙信公御書集』に従って当年に置いた方が良いであろう。

 113.元亀3年5月24日付山吉孫次郎豊守・直江大和守景綱宛鯵坂清介長実書状〔宛名:直和 山孫参 御宿所〕(『上越』1101号)

 114.元亀3年5月24日付山吉豊守宛長尾小四郎景直・鯵坂清介長実連署状(写)〔宛名:山吉殿〕(『上越』1102号)

 115.元亀3年6月18日付山吉孫次郎豊守宛直江大和守景綱書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』1110号)

 116.元亀3年6月18日付山吉孫次郎豊守宛直江大和守景綱書状〔宛名:山孫 御宿所〕(『上越』1111号)

 117.元亀3年9月18日付長尾喜平次顕景・山吉孫次郎豊守・河田対馬守吉久・北条下総守高定・山崎専柳斎秀仙宛上杉謙信書状(写)〔宛名:長尾喜平次殿 山吉孫次郎殿 河田対馬守殿 北条下総守殿 専柳斎〕(『上越』1121号)

 118.元亀3年9月18日付長尾喜平次顕景・山吉孫次郎豊守・河田対馬守吉久・北条下総守高定・山崎専柳斎秀仙宛上杉謙信書状〔宛名:長尾喜平次殿 山吉孫次郎殿 河田対馬守殿 北条下総守 専柳斎〕「山吉者」(『上越』1122号)

 119.元亀3年9月27日付長尾喜平次顕景宛上杉謙信書状「山吉」(『上越』1454号)
 ※ 諸史料集において年次未詳とされている当文書は、外征中の謙信が、留守居している甥の上田長尾喜平次顕景へ宛てたものであり、同じく年次未詳とされている、外征中の謙信が、信・越国境が積雪期に入ったのに伴い、越府に留守居している甥の長尾顕景を、当地にいる自分の馬廻衆と一緒に富山陣へ呼び寄せたことが分かる書状群(『上越』1454・1456・1457・1459・1461号)に含まれるものである。この文書群は、元亀3年秋に越中国富山陣の謙信が、甲州武田軍の越後国侵攻に備えて自身の馬廻衆を越府に帰したことが書かれている文書群(『上越』1121~1123号)と繋がりがあると考えたことから、当年に比定した。

 120.元亀3年10月22日付長尾喜平次顕景・山吉孫次郎豊守宛上杉謙信書状〔宛名:喜平次殿 孫二郎殿〕(『上越』1461号)
 ※ 119の文書と同じ理由による。

 121.元亀4年5月14日付庄田隼人佑・河隅三郎左衛門尉忠清宛上杉謙信書状「やまと(直江景綱) 孫二郎」「孫二郎 やまと」(『上越』1158号)

 122.元亀4年7月23日付山吉豊守宛村上源五国清書状(写)〔宛名:山吉殿〕(『三条』294号)


 123.天正2年3月10日付鶏足寺金剛院宛北条丹後守高広書状(写)「山吉方 愚従両人」(『上越』1190号)

 124.天正2年3月18日付土岐大膳大夫治英宛上杉謙信書状「孫二郎かた」(『上越』1196号)

 125.天正2年7月26日付菅原左衛門佐為繁・木戸伊豆守忠朝・同左衛門大夫宛上杉謙信書状(写)「山吉孫二郎」(『上越』1221号)

 126.天正2年閏11月7日付白川義親宛〔山吉孫次郎豊守〕書状(写)(『上越』1237号)

 127.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「山吉孫次郎」(『上越』1246号)

 128.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「山吉孫次郎」(『上越』1247号)

 129.天正4年2月17日付梶原源太政景宛上杉謙信書状(写)「山吉」(『上越』1406号)
 ※『上越市史』が元亀2年に置いている「東方之衆」の佐竹次郎義重へ宛てた謙信書状(1024・1025号)は、下野国衆の小山弾正大弼秀綱(号孝哲)が没落して佐竹を頼ったのは事実かどうかを尋ねたり、佐竹から織田信長と親密な関係を築くように勧められたのを喜んだりしている内容であり、小山は天正3年12月下旬に相州北条軍に敗れて没落していることと(黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫)201~203頁)、佐竹は天正3年冬から翌4年春にかけて濃(尾)州織田信長と通交し、織田軍が甲州武田領へ攻め込む際には一味するように求められていることから(奥野高広『織田信長文書の研究 下巻』(吉川弘文館)607号)、天正4年に比定できるのに伴い、当文書は、謙信が佐竹からの音問と太田美濃入道道誉から様々な提言が寄せられたのを喜んでいることと、日付が一致していることから、当年に比定した。

 130.年次未詳正月7日付威徳院宛山吉豊守書状〔署名:山吉 平豊守〕(『上越』959号)

 131.年次未詳正月30日付小山孝山(秀綱)書状「山孫」(『小山』635号)
 ※『越佐史料』は永禄10年に置いている。

 132.年次未詳7月9日付岩上筑前守宛〔山吉孫次郎豊守〕書状(『上越』944号)

 133.年次未詳11月11日付山吉豊守宛発智右馬允長芳書状〔宛名:次郎殿 参人々御中〕(『新潟』1644号)


 ※『栃木』は『栃木県史 史料編 中世一』(鑁阿寺文書)、『新潟』は『新潟県史 資料編4 中世二』(反町氏所蔵文書 発智氏文書)、『三条』は『三条市史 資料編 第二巻 古代中世編』、『戦北』は『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』、『小山』は『小山市史 史料編 中世』となる。それから、番号の文書は、年次を比定、移動したもの。 
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