越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉謙信の側近・吉江景資の無鉄砲な息子たち

2019-07-17 20:20:52 | 謙信にまつらう人々


 越後国上杉謙信の側近である吉江織部佑景資の息子たち(寺嶋六三長資・中条与次景泰)の無鉄砲な行動について述べてみたい。

 まず、吉江織部佑景資とは、〔吉江系譜〕(『越佐史料 巻六』222・223頁)の通りであれば、仮名を与橘と称し、越後国長尾景虎から長尾氏の通字である「長」の一字を与えられたらしく、実名を長資と名乗った(『上越市史 上杉氏文書集』155・162号。以下は『上越』と略す)。永禄3年8月までには官途名を織部佑と称し、天正2年10月までに、やはり長尾氏の通字である「景」の一字を与えられて、実名を景資と改めているが、次男の与次景泰が天正2年6月に越後奥郡国衆の中条氏を継ぐことになる前(元亀4年ではないか)に元服した際、謙信から「景」の一字を与えられているので、それ以前に景資は「景」の一字を与えられていたであろう(『上越』1211・1227・1470号)。
 これも〔吉江系譜〕の通りであれば、謙信とは年齢が近かったらしく、側近家臣のなかでも各別な芳志を受けた人物である『上越』1338号)。
 その息子たちとして、長男は幼名を亀千代丸、元服時に謙信から「長」の一字を与えられ(『上越』1398号)、父の初名であった長資を名乗ったようである。正確な時期は分からないが、謙信による北陸経略の過程で越中国増山の神保氏の重臣であった寺嶋氏の名跡を継いだとみられ、寺嶋六三長資と名乗った(『上越』2359号)。次男は、〔吉江系譜〕によると、幼名を沙弥法師丸といい、謙信から「与次」の仮名と「景」の一字を与えられ、その元服から何年も経ってはいないであろう天正2年6月に謙信の肝煎りで揚北衆の中条氏に入嗣したのは、前述した通りである。
 謙信没後、上杉景勝期に入ってからの景資は、常陸入道宗誾と号した隠居の体であり、三男の与橘が吉江氏を継いでいたが(『上越』2214・2215号 ◆『戦国人名辞典』1032・1033頁)、それでも戦陣には立ち続け、天正10年6月3日、越中国魚津城の在城衆の一員であった宗誾と寺嶋六三長資・中条越前守景泰兄弟(『上越』2344~2346・2348・2359号)は、織田軍との数ヶ月に及ぶ籠城戦の末、ほかの在城衆たちと共に玉砕した。ひとり残った吉江与橘長忠の「長」の一字は、天正9年12月3日に景勝から与えられたものである(『上越』2253号)。
 なお、〔吉江系譜〕と〔御家中諸士略系譜〕(『上杉家御年譜 第二十三巻』391・392頁)では、吉江景資の父を常陸介宗信として、魚津城における籠城戦では宗信、景資、寺嶋長資(両系譜では実名を長秀とする)・中条景泰の三世代が戦死したことになっているが、景資の父は木工助茂高であり、宗信とは景資が号した常陸入道宗誾から作り出された人物である。
 この吉江茂高が所見されるのは、天文年間の後半に限られるが、越後国栃尾城で旗揚げした長尾景虎が古志長尾氏を継いだ頃から仕え、越後守護代を経て越後国主となった景虎の初政を支えた側近家臣であった(『上越』82・95号)。
 前述した通り、謙信は景資の息子たちが元服する際に一字を与えたわけで、なかでも次男の沙弥法師丸には、「吉江杢助」との旧誼を重んじて、吉江父子の要望通りに「景」の一字を与えており、当時すでに茂高は亡くなっていたであろうが、わざわざ孫の名字状に、その名を挙げられるほど、かつての君臣の間柄は親密であったらしい(『上越』1470号)。
 また、同じく両系譜では、やはり謙信旗本の重鎮であった吉江佐渡守忠景(中務丞。両系譜では実名を信清とする)を吉江宗信の弟と記しているが、吉江忠景はもともと、越後守護上杉定実(号玄清)の側近家臣であり(『上越』20号)、定実の死去による越後守護上杉家の断絶に伴い、越後国長尾景虎の直臣となったものである。忠景は上杉輝虎期には、敵方の工作員が横行するなかでの越府の留守衆や、関東の情勢が厳しいなかでの下野国佐野の唐沢山城将を任されたほか、本庄美作入道宗緩(俗名は実乃)・金津新右兵衛尉と並び、輝虎が弱音を吐くことのできる年長の重臣であった(『上越』313・395・544号)。
 それから、長尾景虎が永禄2年の上洛時に召し抱えた新参者のうち、吉江喜四郎資賢(信景。はじめ藤八郎を称したという。前の苗字は伝わらない)を吉江佐渡守信清の養子と記しているが、「資」の字を冠していることと、景資一族とよく行動を共にしていることからすれば、むしろ景資の猶子であったろう。
 このように、景資と忠景を頭とする両吉江氏は、謙信から分け隔てなく重用された一族ではあったが、はやくから上杉家被官と古志長尾氏被官に分かれていた別系となり、両系譜は無理矢理に近親者としてしまったものである。これは、守護代・三河守系の両長尾氏、古志・上田の両長尾氏、村上・栃尾の両本庄氏、いずれも謙信旗本の両村田氏など、長尾・上杉家中の系図類では幾つも見受けられる(『上杉家御年譜 第二十三巻』94~96、233頁、 ◆『上杉家御年譜 第二十四巻』7頁 ◆『越後入広瀬村編年史』68頁)。


※〔吉江系譜〕によると、吉江景資は大永7年生まれで、戦死した時は56歳、寺嶋長資は天文22年生まれで、同じく30歳、中条景泰は永禄元年生まれで、同じく25歳であったという。上杉輝虎が謙信と号するのは元亀元年の8月下旬から9月中旬の間であり、謙信から長資が一字を拝領したのは、同2年以降になるので、19歳以降に元服したことになり、全くあり得ないことではないだろうが、長資の生年には疑問が残る。

※ 吉江景資の息子たちは、謙信から、長男の亀千代丸が「長」の一字、次男の沙弥法師丸が「景」の一字を拝領したわけで、景資の例を見て分かるように、謙信が家臣へ授与する一字は「長」より「景」の方が格が高いようである。ということは、もしかすると兄弟の生母が異なり、沙弥法師丸の生母の方が身分が高かったのかもしれない。それだけではなく、中条景泰は、織田軍の攻勢が強まるなか、天正9年4月以降は父兄と一緒に前線へ派遣され、吉江一族として括られているわけであるが(『上越』2113・2163・2173・2214・2348号)、天正7年2月に高野山清浄心院から謙信逝去への弔意が寄せられると、上杉景勝の取次として、これに答謝したり(『上越』1765・1766号)、魚津籠城中に寺嶋長資が吉江長忠・景泰の妻「おはりこ」へ、中条景泰が吉江長忠と「おはりこ」のそれぞれへ宛てた消息では、長資が自分の妻への言伝よりも、景泰の妻への言伝を優先していたり、兄弟ふたりが他にも連絡したかった人物を、長資が「やかた」と書いているのに対し、景泰は「やはう」と書いていたりすることから(『上越』2335・2344・2345号)、いくら景泰が有力外様衆の中条氏に入嗣したとはいえ、吉江一族における景泰の立場は突出しているように見える。


 ここから本題となるので、まず史料を掲げる。


【史料1】河田重親宛上杉謙信書状(『上越』1170号)
態為音信珎敷具足到来祝着候、仍為越山候間、越中堅固可申付ため半途出馬候、賀州之者共断労兵故、悃望之様候間、半途立馬、彼口手堅一際可付事輙候間、可心安候、上口未落居候て、越山候得、其表張陣不叶、越中捨事候条、留守中手堅申付、心安為可張陣如此候、扨亦弥五郎(北条景広)申越分(北条)氏政向羽生出張之由申越候、弥五郎越候飛脚、南衆出張之儀不知由申候、吾分兎角不申越候、如何実儀候哉、無心元候、東方属一変候上、近日越山前候間、家中付力堅固可防戦由、細々以飛脚羽生可申越候、又帰馬之内、何方之飛脚其地留、此方不越、続飛脚にて可申候、万吉帰陣之上可申候、謹言、
  、織部(吉江景資)子之事、色々申候共、陣召連、可添の無之
  候間、帰陣之上と申候、 身之帰陣申候、無理取可越候、其時追可越候、以上、

    八月十八日      謙信(花押a)
         河田伯耆守殿


【史料2】吉江景資・中条景泰老母宛上杉謙信書状(『上越』1168号)
へつし(別紙)をもつて申候、あさひ(朝日)とりつめせめ候へは、いつれもとも(供)候なかれいの与次(中条景泰)、いろ/\き四郎(吉江資賢)、身の事いけん(意見)申候共、もちい(用)す、ひとりてつはう(鉄炮)のさきへかけ(駆)りある(歩)き候、身の事ふたつしや(不達者)ニ候間、こしま(小嶋)をたのひきすりかへし、いまにお(押)しこ(込)め候、さためてあん(案)すへく候へ共、身の見あい(合)なから、てつはうのさきへこし、て(手)をお(負)わせ候共、うちころ(殺)させ候とも、さためてそのときこの入道をならてうらましく候間、一たん(一旦)おいこめ候事くる(苦)しからす候とおもひ、そのためおしこめき(決)め申候、よう/\とおもふへく候、かきさきけん三(柿崎源三)もゝ(腿)をうらおもて(裏表)へうちぬ(抜)かれ、やゝよは(呼)りかへ(返)し候、又ちうけん(中間)まこ(孫)四郎、てつはううちころされ候、いつれもかく(隠)し候間、このほか(知)らす候、このことく候間、て(手)をお(負)い候とも、いまきめ候よりふうふ(夫婦)のものとも(者共)うら(恨)むへく候間、このたん申候、せいし(制止)を申候へとも、なか/\身のいけんニハつかす候間、きやうこう(向後)ハおりへ(織部)そばおくよりほかあるましく候、かへ(帰)り候ハヽ、ふうふなからふひん(不便)ニハヽ、まつ/\あ(会)ふましく候、あやまち候ハヽ、ほへ(吠え)まわり候とも、よう(用)ニ(立)つましく候、このことはかり申へきため、ふうふかた一しゆ(一緒)ニ申候、めてたくかさねて、以上、
    八月七日       謙信(花押a)
      よし江おりへ殿
      与次らうほへ


 どちらの史料も天正元年に比定されており、【史料1】の追而書部分で、恐らく元服を迎えてから、さほど経っていないと思われる、吉江織部佑景資の息子たち(のちの寺嶋六三長資・中条与次景泰。三男はまだ幼少であったろう)、【史料2】の全般で、吉江景資の次男である中条景泰、彼らの無鉄砲ぶりに謙信が困っていたことが分かるものである。
 ただし、【史料2】の年次については、この時に謙信が攻めた朝日要害は、加賀・越中国境の加賀国河北郡と越中国射水郡の両地に存在しており、どちらであったにしても、当時の謙信は越中国富山城を攻め落とすと、その周辺で加賀一向一揆の残党と戦っている最中であり(『上越市史 上杉氏文書集』1124号)、とても加賀国や越中国奥郡まで進攻するような状況ではなかったことと、〔中条越前守藤資伝〕(『中条町史 資料編』726・727頁)に「此書ハ中条ニ於テかなかき之ふみト称シ最モ尊重シ居ルモノ」と特記され、天正2年の文書として内容が語られていることから、同年に比定した方が良いであろう。

以前、【史料1】の追而書である「織部子之事、色々申候共、陣召連、可添の無之候間、帰陣之上と申候、身之帰陣申候、無理取可越候、其時追可越候、」について、吉江景資の息子たちに色々と言って聞かせても、聞き分けがないようなので、近侍が不足している折でもあり、何れも戦陣に召し連れはするが、それは北陸遠征から帰陣し、引き続き挙行する関東遠征からであること、謙信が帰陣するのを知った途端に、景資の息子たちは無理やりにでも越府から押し掛けてきてしまうので、何とか適切な時期に越させたいこと、というような解釈をしたが、当文書の原本の写真(『上越市史 上杉氏文書集 別冊』1170号)を見たところ、赤字で示した箇所は「其時迄不可越候」と読んだ方が良いように思われた。
 もしこれで間違いがなければ、北陸遠征中の謙信が上野国沼田城将の河田伯耆守重親に対し、自分が関東に着陣するまでは、沼田城にいる景資の息子たちが勝手に来ることがないように注意を促したのではないだろうか。
 これに気が付くまでは、なぜ謙信が景資の息子たちの動向について、わざわざ河田重親に知らせているのか、漠然と疑問を感じていたのだが、どういうわけで景資の息子たちが上野国の沼田城に滞在していたのかはさておき、あのように河田へ注意を促したのであれば、十分に納得がいく。
 その後、景資の息子たちが謙信の意向に大人しく従ったのかは分からないが、【史料2】に「れいの与次」とあるからには、何らかの前例が景泰にはあったのであろうし、彼らが謙信に対して、自分たちを戦場へ伴うように散々駄々をこねていたであろうことは、想像にかたくない。

 以上、謙信から格別な芳志を受けた側近家臣である吉江景資の息子たちの無鉄砲な行動について述べてみた。因みに、『越佐史料 巻五』では当該箇所を「無理取可越候之時、迎を可越候」と読んでいる。いずれが正しいとしても、景資の息子たちが、勝手に滞在先から戦陣にいる謙信の許へ来ようとしていたことには変わりはないであろう。
 長資・景泰兄弟が謙信の許へ勝手に馳せ参じようとしたり、景泰が戦場で砲火の飛び交う最前線に身を晒したりといったような無鉄砲な行動で謙信を困らせていた様子は、少々微笑ましくさえ思える。


※ 元亀3年9月、越中国富山陣の謙信は、越府に留守居させている旗本部将たちに対し、「一人爰元越、留守中何事も候旁々如何様之奉公候共、崩備、口惜候」「身之背下知、一人爰元越候口惜候、其元之用心、千言万句候」と戒めており、今回、取り上げた吉江景資の息子たちに限らず、謙信子飼いの旗本部将たちのなかには、そこそこの年齢に達した者であっても、謙信を心配してのことなのか何なのか、留守中、戦陣の謙信の許へ勝手に駆け付けてしまうような傾向があったらしい(『上越』1121・1122号)。


〔御家中諸士略系譜〕(米沢温故会『上杉家御年譜 第二十三巻 上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜1』『上杉家御年譜 第二十四巻 御家中諸士略系譜2』原書房)◆〔吉江系譜〕(高橋義彦(編)『越佐史料 巻六』名著出版)◆〔上田長尾系図〕(瀧澤健三郎『越後入廣瀬村編年史 中世編』野島出版)◆〔中条越前守藤資伝〕(『中条町史 資料編 第一巻 考古・古代・中世』)◆『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一』19・20号 本庄実乃書状(写)、300号 上杉政虎感状(写)、301号 吉江忠景宛行状(写)、313号 上杉輝虎書状、395号 上杉輝虎書状(写)、487号 上杉輝虎印判覚(写)、544号 吉江忠景書状、1121号 上杉謙信書状(写)、1122号 上杉謙信書状、1230号 佐竹義重書状、1231号 佐竹義重書状(写)、 1313号 直江景綱・吉江資賢連署状(写)、1347号 上杉謙信書状、1439号 上杉謙信書状(写)、1447号 上杉謙信書状 ◆『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一 別冊』1170号 上杉謙信書状 ◆ 福原圭一「中条景泰」「吉江景資」 山田邦明「吉江長忠」片桐昭彦「吉江信景」「吉江宗信」(戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館)◆ 市立米沢図書館デジタルライブラリー〔先祖由緒帳〕PDFファイル3冊目



〔吉江茂高・吉江景資・吉江長忠・寺嶋長資・中条景泰関連文書一覧〕

 1.天文18年6月20日付平子孫太郎宛吉江木工助茂高書状(写)〔署名:吉杢 茂高〕(『上越』82号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『越佐史料』に倣って天文21年に比定し、書中における出陣予定の「御屋形様」を関東管領山内上杉憲当(憲政)としているが、憲当は「関東之屋形様」であり、越後守護上杉入道玄清(俗名は定実)のことであろうから、山内上杉憲当の要請を受け、越後守護代長尾平三景虎が上杉玄清を奉じて関東へ出陣しようとしていた天文18年6月20日・7月4日付平子孫太郎宛庄新左衛門尉実乃書状(『上越』19・20号)と関連付けて、当年に移動した。

 2.天文21年8月10日付平子孫太郎宛吉江木工助茂高書状(写)〔署名:吉江木工助茂高〕(『上越』95号)

 3.弘治3年10月18日付広泰寺宛本庄宗緩・長尾景繁・同景憲・直江実綱・吉江長資連署状(写)〔署名:長資〕『上越』155号)

 4.永禄元年10月晦日付山田帯刀左衛門尉宛吉江長資」・庄田定賢・某貞盛連署段銭請取状(写)〔署名:景資(長資が正しい)〕(『上越』160号)

 5.永禄2年2月23日付飯田与七郎宛吉江長資・庄田定賢・某貞盛連署段銭請取状〔署名:長資〕(『上越』162号)

 6.永禄3年8月25日付桃井右馬助義孝・長尾小四郎景直・黒河竹福・柿崎和泉守景家・長尾源五宛長尾景虎掟書 「吉江織部助(佑)」(『上越』211号)

 7.永禄7年3月15日付金津新兵衛尉・本田右近允・吉江織部佑・高梨修理亮・小中大蔵丞・吉江民部少輔・岩船藤左衛門尉・吉江中務丞忠景宛上杉輝虎書状〔宛名:吉江織部佑殿〕(『上越』313号)
 ※ 当文書を諸史料集は永禄5年に比定しているが、その内容は外征中の越後国上杉輝虎が越府留守衆に警戒任務を怠らないように指示したものであり、この輝虎の旗本たちで構成された留守衆のうちの吉江中務丞忠景は、当該期には永禄4年冬から翌5年春にかけて輝虎(政虎)が挙行した関東遠征に従軍して某城を守っていたか、前回の遠征で関東に残留を命じられて某城を守っていたか(『上越』300・301号)、そのどちらかであったことから、別の年であると考え、同じく留守衆のうちの金津新右兵衛尉と留守居していたことが分かる永禄7年3月13日付本庄美作入道宗緩・金津新右兵衛尉・吉江中務丞忠景書状(『上越』395号)と関連付けて、当年に移動した。

 8.元亀2年7月29日付鮎川孫次郎盛長宛上杉謙信書状 「吉江織部佑」「織部佑」(『上越』1447号)
 ※ 年次未詳とされている当文書の内容は、謙信が揚北衆の鮎川孫次郎盛長に証人として差し出させた鮎川家中のうち、吉江景資に預けられていた菅原某が吉江家中の佐山某の妻と密通騒動を起こしたところ、謙信は忠信者の鮎川盛長に免じて菅原の罪を許し、鮎川とは同族である揚北衆の色部弥三郎顕長を頼み、越府における色部屋敷で預かってもらったが、不心得者の菅原がまた問題を起こしでもしたら、色部顕長に迷惑を掛けてしまうと考え直して、鮎川の所へ戻すことを伝えたものであり、謙信の署名から元亀2年以降に発給された文書となる。やはり年次未詳とされている6月27日付鮎川宛謙信書状(『上越』1439号)に書かれている「菅原証人…殊に菅原兄之子去年徒を申候共、免之分差置候、」とは、鮎川家中の菅原某と吉江家中の佐山某の妻が起こした密通騒動を指す。そして、謙信は「大途之弓箭」を控えていたとも書かれており、これは、甲州武田信玄と連動して加賀・越中一向一揆が攻勢に出てきたので、越後国上杉家は大きな危機に見舞われてしまい、総力を挙げて戦わなければならなかった元亀3年秋から翌4年夏にかけて謙信が挙行した北陸遠征に当たるであろう。この元亀3年に比定できる文書には、当文書の密通騒動が「去年」とあることから、当年に比定した。

 9.元亀4年4月20日付上杉十郎・上条弥五郎政繁・山本寺伊予守定長・琵琶嶋弥七郎・石川中務少輔・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信・新津大膳亮・加地彦次郎・平賀左京亮重資・本庄清七郎・船見宮内少輔・吉江織部佑・松本鶴松代 板屋修理亮・本庄弥次郎繁長代宛上杉謙信書状(写)〔宛名:吉江織部佐(佑)〕「織部」(『上越』1149号)

 10.天正元年8月18日付河田伯耆守重親宛上杉謙信書状「織部子」(『上越』1170号)

 11.天正2年6月20日付中条与次景泰宛上杉謙信軍役状〔宛名:中条与次殿〕(『上越』1211号)

 12.天正2年8月7日付吉江織部佑景資・与次老母宛上杉謙信書状〔宛名:よし江おりへ殿 与次らうほへ〕「与次」「おりへ」(『上越』1168号)

 13.天正2年10月10日付若林九郎左衛門尉宛吉江景資軍役覚(写)〔署名:吉江 景資〕(『上越』1227号)

 14.天正3年正月18日付上野彦九郎宛吉江景資名字状〔署名:景資〕(『上越』1243号)

 15.天正3年2月16日付中条景泰軍役帳写 「中条与次」(『上越』1245号)

 16.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「中条与次」(『上越』1246号)

 17.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「中条与次」(『上越』1267号)

 18.(天正3年10月下旬頃)多功源之丞由緒「吉江織部」(〔先祖由緒帳〕123齣)
 ※ 当由緒の内容は、謙信が上野国五覧田城を攻め落とした際、戦功を挙げた近習の多功勘之丞を忠賞し、吉江景資を通じて褒美の金子を与えたものである。そして、謙信が皿窪城を攻め落とすと、次に同国五覧田城を攻め落としたのは同じ年であると記されており、越後国上杉軍が上野国桐生領の皿窪(猿窪)城を攻め落としたのは天正3年であることから(『上越』1230・1231号 ◆ 黒田基樹「上杉謙信の関東侵攻と国衆」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)385頁)、当年に比定した。

 19.天正4年12月28日 多功勘之丞由緒 「吉江織部」(〔先祖由緒帳〕124齣)
 ※ 当由緒の内容は、謙信が能登国七尾城を攻めた際、大念寺口で戦功を挙げた多功勘之丞を忠賞し、吉江景資を通じて褒美の小袖を与えたものである。謙信が最初に七尾城を攻めたのは天正4年11月、ついに攻め落としたのは翌5年9月15日であり(『上越』1313・1347号)、当由緒の日付によって年次は明らかであるから、当年に比定した。

 20.天正5年6月7日付河田豊前守長親・鯵坂備中守長実・吉江織部佑景資宛上杉謙信書状(写)〔宛名:吉江織部佑殿〕(『上越』1338号)

 21.天正5年11月23日付上杉謙信制札(奉者 三条道如斎信宗・吉江喜四郎信景) 「吉江織部佑」(『上越』1360号)

 22.天正5年12月23日付上杉家家中名字尽手本「中条与次」「吉江織部佑」(『上越』1369号)

 23.天正6年2月12日付三条道如斎信宗・吉江喜四郎信景宛吉江織部佑景資書状(写)〔吉織 景資〕(『上越』1375号)

 24.年次未詳正月28日付吉江亀千代丸宛上杉謙信一字書出(写)〔宛名:吉江亀千代丸殿〕(『上越』1398号)

 25.年次未詳4月11日付栗林次郎左衛門尉宛上杉謙信書状 「吉江織部佑」(『上越』1420号)

 26.年次未詳6月18日付吉江織部佑景資宛糟谷織部佑通綱書状(写)〔宛名:吉江織部佐殿〕「吉江方」(『上越』1436号)

 27.年月日未詳上杉謙信名字状(写)「吉江杢助」「与次」(『上越』1470号)

 28.天正6年3月28日付三条道如斎信宗・吉江喜四郎信景・北条下総守高定宛神余小次郎親綱書状(写)「吉江織部佐(佑)方」(『上越』1483号)

 29.天正6年6月7日付上条弥五郎政繁・中条与次景泰・新発田尾張守長敦・竹俣三河守慶綱・安田治部少輔堅親・五十公野右衛門尉重家・加地安芸守・吉江喜四郎信景・毛利惣八郎顕元・色部惣七郎長真・斎藤下野守朝信宛跡部大炊助勝資書状(写)〔宛名:中条与次殿〕(『上越』1527号)

 30.天正6年8月22日築地清三宛中条景泰判物(写)〔署名:景泰〕(『上越』1618号)

 31.天正6年9月2日付築地修理亮資豊宛上杉景勝書状「与次」(『上越』1649号)

 32.天正6年9月16日付中条与次景泰宛上杉景勝感状(写)〔署名:中条与二殿〕(『上越』1663号)

 33.天正7年2月14日付清浄心院宛上杉景勝書状「中条越前守」(『上越』1765号)

 34.天正7年2月14日付清浄心院宛中条越前守景泰副状〔署名:中条越前守景泰〕(『上越』1766号)

 35.天正7年4月朔日付佐藤新左衛門尉宛中条景泰判物(写)〔署名:景泰〕(『上越』1806号)

 36.天正7年4月8日付築地修理亮資豊宛上杉景勝書状「越前守」(『上越』1809号)

 37.天正7年4月21日日付築地修理亮資豊宛上杉景勝書状「越前守」(『上越』1811号)

 38.天正9年4月8日付山本寺松三景長・中条越前守景泰・竹俣三河守慶綱・吉江常陸入道殿宗誾宛上杉景勝書状(写)〔宛名:中条越前守景殿 吉江常陸入道殿〕(『上越』2113号)

 39.天正9年7月17日付樋口与六兼続宛吉江常陸入道宗誾書状「越前」(『上越』2163号)

 40.天正9年8月17日付長尾平太・村山善左衛門尉慶綱・新保孫六・一騎合衆宛上杉景勝書状(写)「中条越前守」(『上越』2174号)

 41.天正9年11月晦日付吉江常陸入道宗誾宛上杉景勝判物(写)〔宛名:吉江常陸入道殿〕(『上越』2212号)

 42.天正9年11月晦日付吉江与橘宛上杉景勝判物(写)〔宛名:吉江与橘殿〕(『上越』2213号)

 43.天正9年11月晦日付中条越前守景泰宛吉江常陸入道宗誾書状〔宛名:越前守殿 参御宿所 署名:常陸入道宗誾〕(『上越』2214号)

 44.天正9年11月晦日付吉江与橘宛吉江常陸入道宗誾書状〔宛名:与橘殿  署名:常陸入道宗誾〕(『上越』2215号)

 45.天正9年12月3日付吉江与橘長忠宛上杉景勝一字書出(写)〔宛名:吉江与橘殿〕(『上越』2253号)

 46.天正9年12月3日付吉江与橘長忠宛上杉景勝朱印状(写)〔宛名:吉江与橘殿〕(『上越』2254号)

 47.天正10年4月4日付吉江与橘長忠・おはりこ(中条景泰室)宛寺嶋六三長資書状〔宛名:与きちとの おはりこ 署名:六三〕「ゑちせん」(『上越』2335号)

 48.天正10年4月9日付吉江与橘長忠宛中条越前守景泰書状〔宛名:与きちとのへ  署名:越前守〕(『上越』2344号)

 49.天正10年4月9日付おはりこ宛中条与次景泰書状〔宛名:おはりこ 御中 署名:与次〕「六三」(『上越』2345号)

 50.天正10年4月9日付お二郎宛蓼沼掃部助泰重書状 「なかちうとの」(『上越』2346号)

 51.天正10年4月13日付山本寺松三景長・中条越前守景泰・長与次・亀田小三郎長乗・蓼沼掃部助泰重・寺嶋六三長資・竹俣三河守慶綱・安部右衛門尉政吉・吉江常陸入道宗誾・藤丸新介勝俊・石口采女正広宗・若林九郎左衛門尉家吉宛上杉景勝書状(写)〔宛名:中条越前守殿 寺嶋六三殿 吉江常陸入道殿〕「織部父子三人」(『上越』2348号)

 52.天正10年4月23日付直江与六兼続宛山本寺松三景長・中条越前守景泰・吉江常陸入道宗誾・竹俣三河守慶綱・安部右衛門尉政吉・吉江喜四郎信景・石口采女正広宗・寺嶋六三長資・若林九郎左衛門尉家吉・蓼沼掃部助泰重・亀田小三郎長乗・藤丸新介勝俊連署状〔署名:中条越前守景泰 吉江常陸入道宗誾 寺嶋六三長資〕(『上越』2359号)

 53.天正10年8月15日付吉江与橘殿長忠宛上杉景勝判物(写)〔宛名:吉江与橘殿〕「亡父織部佑 同六三」(『上越』2536号)


番号は年次を比定、移動したもの。

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山吉豊守関連文書一覧

2019-07-15 19:43:17 | 謙信にまつらう人々

 1.永禄8年12月21日付延命院宛山吉豊守書状〔署名:平 豊守〕(『上越』1012号)
 ※ 当文書は、下野国足利の鑁阿寺の支院群が、関東へ出馬した越後国上杉輝虎の武運を祈念し、巻数と抹茶を贈ってくれたことから、輝虎の側近である山吉孫次郎豊守が答礼したものであり、同じく河田豊前守長親が千手院へ答礼している2月3日付の書状(『上越』484号)が、その花押形から永禄9年に比定できるため(栗原修「上杉氏の隣国経略と河田長親」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)65~110頁)、取次の山吉豊守と河田長親が手分けして、それらに答礼したのであろうから、当年に比定した。

 2.永禄9年正月21日付金剛乗院宛上松弥兵衛尉藤益書状「山吉披露」「山吉所」(『栃木』鑁阿寺文書290号) 
 ※ 当文書によると、上杉輝虎は甲州武田軍と戦うため、夜間に軍勢を展開しており、その書札礼から永禄9年に比定できる上野国衆の富岡主税助宛上杉輝虎書状(『上越』306号)には、当該期に輝虎が下野国佐野へ向かうことや、上野国西郡で甲州武田軍と戦ったことなどが書かれていることから、この文書と関連付けて、当年に比定した。

 3.永禄9年11月7日付山吉孫次郎豊守宛上杉輝虎書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』951号)
 ※ 当文書を『上越市史』は元亀元年に置いているが、黒田基樹「上杉謙信の関東侵攻と国衆」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)における上杉輝虎e2型花押の使用時期を踏まえ、当年に移動した。

 4.永禄9年11月14日付14龍福院宛上松弥兵衛尉農次書状「山吉披露」(『栃木』鑁阿寺文書245号)
 ※ 当文書の文面からすると、1の文書と関連があるように思われるが、発給者の上松弥兵衛尉の実名が変わっており、永禄8年には比定できない。この冬にも上杉輝虎が下野国佐野へ向かうことにより、同国足利の鑁阿寺の支院群には輝虎から制札を発給してもらう必要があったであろうことから(『上越』540・541・544号)、当年に比定した。

 5.永禄10年4月7日付発智右馬允長芳宛山吉孫次郎豊守書状〔署名:山孫 豊守〕(『上越』556号)

 6.永禄11年2月4日付飯田与七郎宛山吉孫次郎豊守書状〔署名:孫次郎豊守〕(『上越』593号)

 7.永禄11年4月19日付山吉豊守宛岡本筑後守高永書状(写)〔宛名:山吉殿 御宿所〕(『上越』1095号)
 ※ 当文書を『上越市史』は元亀3年に比定しているが、書中に現れる岡本高永の「老父(美濃守高昌。可月斎宗慶)」は、江田郁夫「元亀期の宇都宮氏 -甲相同盟と宇都宮家中-」(『下野宇都宮氏』戎光祥出版)によると、同年正月に病中の宇都宮弥三郎広綱から実権を奪おうとした外様衆の皆川心徹斎道楽(山城守俊宗)によって殺害されたそうであり、この書中では岡本老父は健在であることから、『謙信公御書集』に従って当年に置いた方が良さそうである。

 8.永禄11年8月18日付柿崎和泉守景家・直江大和守政綱宛上杉輝虎書状「山吉 河田 栃尾衆」「山吉 栃尾之者」(『上越』613号)

 9.永禄11年9月8日付直江大和守政綱宛本庄入道宗緩・山吉孫次郎豊守・河田豊前守長親連署条書〔宛名:山孫 豊守〕(『上越』616号)

 10.永禄11年10月13日付小中大蔵丞宛上杉輝虎書状「孫次郎方」(『上越』593号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『謙信公御書集』に倣って永禄9年に置いているが、その内容からして上杉輝虎が越府にいることは確かであり、書中に現れる新発田右衛門大夫が上野国沼田城に在番していた時期、同じく河田伯耆守重親が沼田在城を始めた時期は、新発田が、永禄9年10月下旬からの関東遠征を終えて輝虎が帰国の途に就いた永禄10年2月頃から翌11年10月まで(『上越』537・548・553・619号)、河田が、永禄10年10月下旬からの関東遠征を終えて輝虎が帰国の途に就いた同年11月頃からであるため(『上越』586・591号)、年次は10年と11年に絞られる。10年は当該期の輝虎は出府しているはずであり、永禄11年は10月16日付松本石見守景繁・河田伯耆守重親・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫宛上杉輝虎書状(『上越』619号))によれば、輝虎が在府しているのは明らかであるから、当年に移動した。

 11.永禄11年11月27日付中条越前守宛山吉豊守・直江政綱・鯵坂長実連署状〔署名:豊守〕「山孫」(『上越』623号)

 12.永禄11年11月27日付中条越前守宛山吉孫次郎豊守・直江大和守政綱・鯵坂清介長実連署状〔署名:山孫 豊守〕(『上越』624号)

 13.永禄11年11月27日付中条越前守宛上杉輝虎書状(写)「山吉」(『上越』622号)

 14.永禄11年12月28日付柿崎景家・直江政綱・山吉豊守宛游足庵淳相書状〔宛名:柿崎殿 山吉殿 直江殿 御返報〕(『上越』634号)

 15.永禄12年正月20日付山吉豊守宛松本石見守景繁書状〔宛名:山吉殿 参御陣所〕(『上越』869号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『新潟県史』に倣って永禄13年に置いているが、同12年11月に松本景繁は何らかの結末を迎えており(『上越』949号)、当文書からは「南方(相州北条家)」と交渉している様子が窺えるので、当年に移動した。

 16.永禄12年正月17日付山吉孫次郎豊守・直江大和守政綱・鯵坂清介長実宛大川三郎次郎長秀書状〔宛名:山孫 直大 鯵清 御陣所〕(『上越』644号)

 17.永禄12年正月17日付柿崎和泉守景家・直江大和守政綱・山吉孫次郎豊守宛大川三郎次郎長秀書状〔宛名:柿泉 直大 山孫 御陣所〕(『上越』645号)

 18.永禄12年2月6日付岩船藤左衛門尉・羽田六助(介)宛上杉輝虎朱印状(写)〔奉者:柿崎景家・直江景綱・山吉豊守〕(『上越』650号)

 19.永禄12年2月11日付山吉孫次郎豊守宛太田三楽斎道誉書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』658号)

 20.永禄12年2月11日付山吉孫次郎豊守宛太田三楽斎道誉書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』659号)

 21.永禄12年3月26日付柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守宛土佐林禅棟書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』691号)

 22.永禄12年3月27日付山吉豊守宛松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成連署状〔宛名:山吉殿 参御陣中〕(『上越』692号)

 23.永禄12年3月晦日付山吉孫次郎豊守宛由良信濃守成繁書状〔宛名:山孫〕(『上越』694号)

 24.永禄12年4月21日付山吉孫次郎豊守・河田豊前守長親宛太田三楽斎道誉条書案〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』708号)

 25.永禄12年4月21日付山吉豊守・河田長親宛梶原政景書状(写)〔宛名:山孫 志山 〕(『上越』710号)
 ※ 宛所の志駄山城守とされている「志山」は改竄や誤写であると思われ、本来は河田豊前守の「河豊」であったろう。

 26.永禄12年4月27日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』720号)

 27.永禄12年5月7日付山吉孫次郎豊守宛北条氏照書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』724号)

 28.永禄12年5月18日付直江大和守景綱・河田豊前守長親宛進藤隼人佑家清書状「山吉 直江所」(『上越』726号)

 29.永禄12年閏5月5日付山吉孫次郎豊守・直江大和守景綱宛簗田中務大輔晴助(号道忠)・同八郎持助連署状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』734号)

 30.永禄12年閏5月7日付柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守宛土佐林禅棟書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』740号)

 31.永禄12年閏5月16日付本庄美作入道宗緩宛広泰寺昌派書状「山吉殿 直江殿 鯵清」(『上越』746号)

 32.永禄12年6月9日付山吉孫次郎豊守宛北条氏照書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』759号)

 33.永禄12年6月9日付山吉孫次郎豊守宛北条氏照書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』760号)

 34.永禄12年6月11日付山吉孫次郎豊守宛藤田氏邦書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』763号)

 35.永禄12年6月16日付山吉孫次郎豊守宛広泰寺昌派・進藤隼人佑家清連署状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』764号)

 36.永禄12年6月18日付「越府 人々御中」宛由良信濃守成繁書状「河豊 直大 山孫」(『上越』768号)

 37.永禄12年6月23日付遠山左衛門尉康光宛山吉豊守条書案〔署名:山孫 豊守〕(『上越』712号)
 ※ 月が書かれていない当文書を諸史料集は『謙信公御書集』に倣って4月としているが、輝虎の出馬に同行する約束により、遠山康光が相府小田原から越府へやって来るはずであったところ、何らかの事情で遅延していたが、ようやく遠山が相府を出立する時期(『上越』770号)と、ずれこんだ輝虎の出府の時期(『上越』782号)から考えて、当月に移動した。

 38.永禄12年6月25日付直江大和守景綱・河田豊前守長親宛松本石見守景繁書状「山吉殿」(『上越』769号)

 39.永禄12年6月28日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状〔宛名:山吉孫二郎殿〕(『三条』235号 ◆『戦北』1268号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『新潟県史』に倣って元亀2年に置いているが、「去比広泰寺・進藤帰路砌、」「信玄至于駿州御厨郡出張、」という状況から、当年に置いている『三条市史』『戦国遺文』に従った。

 40.永禄12年7月17日付「越府江 御報」宛北条氏照書状「山吉方」(『上越』776号)

 41.永禄12年7月29日付鮎川孫二郎盛長宛上杉輝虎書状「山吉孫二郎」(『上越』780号)

 42.永禄12年9月7日付山吉孫次郎豊守北条氏政書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』805号)

 43.永禄12年9月7日付山吉豊守宛遠山左衛門尉康光副状(写)〔宛名:山孫 参御宿所〕(『上越』806号)

 44.永禄12年9月10日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』807号)

 45.永禄12年9月25日付上杉輝虎制札〔奉者:和泉守(柿崎和泉守景家) 平 豊守(山吉豊守) 豊前守(河田豊前守長親)〕(『上越』809号)

 46.永禄12年10月24日付河田伯耆守重親宛北条氏照書状「山吉方」(『上越』820号)

 47.永禄12年10月20日付梶原政景宛山吉孫次郎豊守条書〔署名:山孫 豊守〕(「大阪府東大阪市専宗寺所蔵岩付太田氏文書」)
 ※ 新井浩文「岩付太田氏関係文書とその伝来過程」(『戦国史研究叢書8 関東の戦国期領主と流通 -岩付・幸手・関宿-』岩田書院)における紹介文書。

 48.永禄12年10月24日付山吉孫次郎豊守宛北条氏照書状〔宛名:山吉孫次郎殿」〕(『上越』821号)

 49.永禄12年11月 山吉豊守宛遠山左衛門尉康光書状(写)〔宛名:山孫(脇付不詳)〕(『上越』824号)
 ※ 宛所・日付を欠く。『上越』824号の注記によれば、宛名は『謙信公御書集』巻九によるとのこと。

 50.永禄12年11月12日付河田伯耆守重親・上野中務丞家成宛由良信濃守成繁書状(写)「山孫」(『上越』827号)

 51.永禄12年11月14日付山吉豊守宛遠山左衛門尉康光書状〔宛名:山吉殿〕(『上越』830号)

 52.永禄12年11月14日付山吉豊守宛遠山左衛門尉康光書状〔宛名:山孫 御報」)宛遠山左衛門尉康光書状(『上越』831号)

 53.永禄12年11月16日付山吉孫次郎豊守宛上杉旱虎書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』949号)
 ※ 当文書を『上越市史』は元亀元年に置いているが、今福匡「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究』第502号)を踏まえ、上杉輝虎は元亀元年8月から9月にかけて謙信を号するようになることと、松本景繁は永禄12年秋頃に上野国沼田城将を退任していることから(『上越』931・932・939・940・769・820・822号)、当年に移動した。

 54.永禄12年11月20日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』836号)

 55.永禄12年11月24日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状〔宛名:山吉孫二郎殿〕(『上越』838号)

 56.永禄12年11月24日付山吉豊守宛由良信濃守成繁書状(写)〔宛名:山孫 御報〕(『上越』839号)

 57.永禄12年11月29日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』843号)

 58.永禄12年11月晦日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿 御宿所〕(『上越』844号)

 59.永禄12年12月8日付由良信濃守成繁宛北条氏康書状(写)「山吉方」(『上越』852号)

 60.永禄13年正月朔日付手島左馬助長朝宛上杉輝虎書状(写)「山吉孫二郎」(『上越』863号)

 61.永禄13年正月15日付山吉豊守宛遠山左衛門尉康光書状〔宛名:山孫 参御報〕(『上越』868号)

 62.永禄13年2月3日付堀江玄蕃允宛進藤隼人佑家清書状「次郎殿」(『上越』878号)

 63.永禄13年2月3日付山吉豊守宛由良信濃守成繁書状〔宛名:山孫 御陣所〕(『上越』879号)

 64.永禄13年2月6日付由良信濃守成繁宛遠山左衛門尉康光書状(「山孫」)(『上越』881号)

 65.永禄13年2月18日付上杉輝虎宛北条氏康・同氏政起請文「山吉方」(『上越』883号)

 66.永禄13年3月15日付進藤隼人佑家清宛河田重親・山吉豊守連署条書(写)〔署名:豊守 重親〕(『上越』869号)

 67.永禄13年3月28日付柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守宛北義斯書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』901号)

 68.永禄13年4月朔日付「山内 江人々御中」宛真壁氏幹書状「山吉方」(『上越』696号)
 ※ 当文書を『越佐史料』などは、永禄12年に比定しているが、山吉豊守と共に取次を務めている北条高広が越後国上杉家に復帰する時期から考えて、当年に移動した方が良いであろう。

 69.永禄13年4年4日付山吉孫次郎豊守宛多賀谷入道祥聯書状(写)〔宛名:謹上 山吉孫次郎殿〕「山吉孫次郎方」(『上越』903号)

 70.永禄13年4月9日付山吉孫次郎豊守宛上杉輝虎書状(写)〔宛名:山吉孫二郎殿〕(『上越』904号)

 71.永禄13年4月15日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』906号)

 72.永禄13年4月16日付山吉豊守宛遠山新四郎康英書状〔宛名:山孫 参御宿所〕(『上越』907号)

 73.元亀元年4月24日付三戸駿河守内室宛「山よし孫二郎とよ守」書状(『上越』910号)

 74.元亀元年5月9日付山吉孫次郎豊守宛鮎川孫次郎盛長書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕「山吉方」(『上越』912号)

 75.元亀元年6月29日付富岡清四郎宛〔山吉豊守・河田長親〕連署状(『上越』916号)

 76.元亀元年7月19日付藤田新太郎氏邦宛〔山吉孫次郎豊守〕条書案(『上越』920号)

 77.元亀元年8月4日付山吉孫次郎豊守宛北条氏政書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』922号)

 78.元亀元年8月6日付中条越前守宛本庄美作守宗緩書状「山孫」(『上越』783号)
 ※『上越市史』は、揚北衆の中条越前守と黒川四郎次郎平政の同族間で再燃した土地相論を巡る78~80、83~94の文書群を永禄12年に置いているが、当該期には双方の取次を務めている山吉豊守と直江大和守景綱は共に、上杉輝虎が挙行した北陸遠征に従軍しているので、この年ではあり得ない。一方の当事者である中条は天正元年に亡くなったとされ、翌2年6月には、謙信側近の吉江織部佑景資の次男である与次景泰が中条家に入嗣していて、代替わりしているのは確かであり(『上越』1211号)、元亀3年と翌天正元年の当該期には謙信が北陸へ出馬しているため(『上越』1114・1115・1170号)、元亀元年か翌2年のどちらかの年となる。この相論の間に輝虎は何度か鷹狩りを催しているのだが、元亀2年における謙信の動向は詳らかでないのに対し、元亀元年の輝虎は同盟関係にある遠(三)州徳川家康の使僧が来訪したのを受け、家康の重臣へ鷹や真羽(真鳥羽。矢羽根に用いる雉・鷹・鷲などの翼羽や尾羽のこと)を贈っており(『上越』931・932号)、こうした贈答品を用意し易かったであろうと考えたことから、当年に移動した。

 79.元亀元年8月8日付中条越前守宛本庄美作入道宗緩書状「山孫」(『上越』784号)

 80.元亀元年8月11日付中条越前守宛本庄美作入道宗緩書状「山孫」(『上越』787号)

 81.元亀元年8月13日付山吉孫次郎豊守宛藤田新太郎氏邦書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』928号)

 82.元亀元年8月13日付山吉豊守宛大石芳綱書状〔宛名:山孫 参人々御中〕(『上越』929号)

 83.元亀元年8月13日付山吉豊守宛新発田忠敦書状案(『上越』788号)

 84.元亀元年8月13日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』789号)

 85.元亀元年8月17日付中条越前守宛直江大和守景綱書状「山孫」(『上越』793号)

 86.元亀元年8月18日付中条越前守宛山吉孫次郎豊守書状〔署名:山孫 豊守〕(『上越』794号)

 87.元亀元年8月18日付中条越前守宛山吉孫次郎豊守書状〔署名:山孫 豊守〕(『上越』795号)

 88.元亀元年8月18日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』790号)

 89.元亀元年8月20日付中条越前守宛山吉豊守書状〔署名:豊守〕(『上越』796号)

 90.元亀元年8月21日付新発田忠敦山吉孫次郎豊守書状〔署名:孫次郎豊守〕(『上越』797号)

 91.元亀元年8月21日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』801号)

 92.元亀元年8月21日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』791号)

 93.元亀元年8月22日付中条越前守宛本庄入道宗緩書状「山孫」「孫次郎」(『上越』798号)

 94.元亀元年8月24日付中条越前守宛新発田尾張守忠敦書状「山孫」(『上越』800号)

 95.元亀元年9月3日付柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守宛今川氏真書状(写) 〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』936号)

 96.元亀元年9月3日付直江大和守景綱・柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守宛朝比奈泰朝副状(写)〔宛名:直江大和守殿 柿崎和泉守景家 山吉孫次郎殿 御宿所〕(『上越』937号)

 97.元亀元年9月3日付山吉孫次郎豊守宛今川氏真書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』582号)
 ※ 当文書を諸史料集は永禄10年に置いているが、長谷川弘道氏の論考「駿越交渉補遺 -「書礼慮外」をめぐって」(『戦国遺文 今川氏編 第二巻』【月報2】東京堂出版)における年次比定に従い、当年に移動した。

 98.元亀元年9月7日付山吉豊守宛北条丹後守高広書状〔宛名:山吉殿〕(『上越』938号)

 99.元亀元年9月晦日付山吉孫次郎豊守宛北条氏康書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』941号)

 100.元亀2年8月8日付三戸駿河守内室宛上杉謙信書状「山よしまこ二郎」(『上越』1060号 ◆『三条』276号)

 101.元亀2年10月3日付山吉孫次郎豊守宛上杉景虎書状〔宛名:山吉孫二郎殿〕(『上越』1066号)

 102.元亀2年11月吉日付山吉豊守宛菅谷摂津入道全久条書(写)〔宛名:山吉江 参御宿所〕(『上越』1070号)
 ※ 当文書と『上越』490号の永禄9年2月吉日付山吉豊守宛菅谷全久条書(写)は、日付こそ異なっているが、その内容は重複したものであり、黒田基樹「常陸小田氏治の基礎的研究 -発給文書の検討を中心として-」(『国史学』166号)に従って、こちらのみを載せた。

 103.元亀2年12月10日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山吉方」(『上越』1071号)

 104.元亀2年12月10日付飯田与七郎宛菅谷摂津入道全久書状(写)「孫二郎殿」(『上越』1072号)

 105.元亀2年12月16日付飯田与三右衛門尉宛菅谷摂津入道全久書状(写)「山吉殿」「孫二郎殿」(『上越』1074号)

 106.元亀2年12月17日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山孫」(『上越』1075号)

 107.元亀3年正月9日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山孫」(『上越』1078号)

 108.元亀3年正月9日付飯田与三右衛門尉宛菅谷摂津入道全久書状(写)「山孫」(『上越』1079号)

 109.元亀3年閏正月7日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山孫」(『上越』1084号)

 110.元亀3年2月16日付飯田与三右衛門尉宛小田氏治書状(写)「山孫」(『上越』1091号)

 111.元亀3年3月11日付直江大和守景綱・山吉孫次郎豊守宛某職信書状(写)〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』894号)
 ※ 当文書を『上越市史』は『謙信公御書集』に倣って元亀元年に置いているが、その内容は、越後国上杉家の越中国における最前線の拠点である新庄城の城衆と、甲州武田陣営に属する越中国金山(松倉)の椎名右衛門大夫康胤が「無事」を成立させたものであり、この椎名康胤が永禄11年に上杉輝虎から離反して武田信玄に味方し、ついには元亀4年に謙信との和睦交渉が不首尾に終わって滅ぼされてしまうまでの間で、晩春に輝虎あるいは謙信が越中味方中の神保氏から「関左表、去年以来被立御馬、依之被達御存満被御納馬」と伝えられる状況であるのは、謙信期の元亀3年であろうから、当年に移動した。

 112.元亀3年5月21日付山吉孫次郎豊守宛菅谷摂津入道全久覚書(写)〔宛名:山吉孫二郎殿 御宿所〕(『上越』515号)
 ※ 当文書を『上越市史』は永禄9年に仮定しているが、前掲の黒田氏の論考を踏まえると、『謙信公御書集』に従って当年に置いた方が良いであろう。

 113.元亀3年5月24日付山吉孫次郎豊守・直江大和守景綱宛鯵坂清介長実書状〔宛名:直和 山孫参 御宿所〕(『上越』1101号)

 114.元亀3年5月24日付山吉豊守宛長尾小四郎景直・鯵坂清介長実連署状(写)〔宛名:山吉殿〕(『上越』1102号)

 115.元亀3年6月18日付山吉孫次郎豊守宛直江大和守景綱書状〔宛名:山吉孫次郎殿〕(『上越』1110号)

 116.元亀3年6月18日付山吉孫次郎豊守宛直江大和守景綱書状〔宛名:山孫 御宿所〕(『上越』1111号)

 117.元亀3年9月18日付長尾喜平次顕景・山吉孫次郎豊守・河田対馬守吉久・北条下総守高定・山崎専柳斎秀仙宛上杉謙信書状(写)〔宛名:長尾喜平次殿 山吉孫次郎殿 河田対馬守殿 北条下総守殿 専柳斎〕(『上越』1121号)

 118.元亀3年9月18日付長尾喜平次顕景・山吉孫次郎豊守・河田対馬守吉久・北条下総守高定・山崎専柳斎秀仙宛上杉謙信書状〔宛名:長尾喜平次殿 山吉孫次郎殿 河田対馬守殿 北条下総守 専柳斎〕「山吉者」(『上越』1122号)

 119.元亀3年9月27日付長尾喜平次顕景宛上杉謙信書状「山吉」(『上越』1454号)
 ※ 諸史料集において年次未詳とされている当文書は、外征中の謙信が、留守居している甥の上田長尾喜平次顕景へ宛てたものであり、同じく年次未詳とされている、外征中の謙信が、信・越国境が積雪期に入ったのに伴い、越府に留守居している甥の長尾顕景を、当地にいる自分の馬廻衆と一緒に富山陣へ呼び寄せたことが分かる書状群(『上越』1454・1456・1457・1459・1461号)に含まれるものである。この文書群は、元亀3年秋に越中国富山陣の謙信が、甲州武田軍の越後国侵攻に備えて自身の馬廻衆を越府に帰したことが書かれている文書群(『上越』1121~1123号)と繋がりがあると考えたことから、当年に比定した。

 120.元亀3年10月22日付長尾喜平次顕景・山吉孫次郎豊守宛上杉謙信書状〔宛名:喜平次殿 孫二郎殿〕(『上越』1461号)
 ※ 119の文書と同じ理由による。

 121.元亀4年5月14日付庄田隼人佑・河隅三郎左衛門尉忠清宛上杉謙信書状「やまと(直江景綱) 孫二郎」「孫二郎 やまと」(『上越』1158号)

 122.元亀4年7月23日付山吉豊守宛村上源五国清書状(写)〔宛名:山吉殿〕(『三条』294号)


 123.天正2年3月10日付鶏足寺金剛院宛北条丹後守高広書状(写)「山吉方 愚従両人」(『上越』1190号)

 124.天正2年3月18日付土岐大膳大夫治英宛上杉謙信書状「孫二郎かた」(『上越』1196号)

 125.天正2年7月26日付菅原左衛門佐為繁・木戸伊豆守忠朝・同左衛門大夫宛上杉謙信書状(写)「山吉孫二郎」(『上越』1221号)

 126.天正2年閏11月7日付白川義親宛〔山吉孫次郎豊守〕書状(写)(『上越』1237号)

 127.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「山吉孫次郎」(『上越』1246号)

 128.天正3年2月16日付上杉家軍役帳「山吉孫次郎」(『上越』1247号)

 129.天正4年2月17日付梶原源太政景宛上杉謙信書状(写)「山吉」(『上越』1406号)
 ※『上越市史』が元亀2年に置いている「東方之衆」の佐竹次郎義重へ宛てた謙信書状(1024・1025号)は、下野国衆の小山弾正大弼秀綱(号孝哲)が没落して佐竹を頼ったのは事実かどうかを尋ねたり、佐竹から織田信長と親密な関係を築くように勧められたのを喜んだりしている内容であり、小山は天正3年12月下旬に相州北条軍に敗れて没落していることと(黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫)201~203頁)、佐竹は天正3年冬から翌4年春にかけて濃(尾)州織田信長と通交し、織田軍が甲州武田領へ攻め込む際には一味するように求められていることから(奥野高広『織田信長文書の研究 下巻』(吉川弘文館)607号)、天正4年に比定できるのに伴い、当文書は、謙信が佐竹からの音問と太田美濃入道道誉から様々な提言が寄せられたのを喜んでいることと、日付が一致していることから、当年に比定した。

 130.年次未詳正月7日付威徳院宛山吉豊守書状〔署名:山吉 平豊守〕(『上越』959号)

 131.年次未詳7月9日付岩上筑前守宛〔山吉孫次郎豊守〕書状(『上越』944号)

 132.年次未詳11月11日付山吉豊守宛発智右馬允長芳書状〔宛名:次郎殿 参人々御中〕(『新潟』1644号)


 ※『栃木』は『栃木県史 史料編 中世一』(鑁阿寺文書)、『新潟』は『新潟県史 資料編4 中世二』(反町氏所蔵文書 発智氏文書)、『三条』は『三条市史 資料編 第二巻 古代中世編』、『戦北』は『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』となる。それから、番号の文書は、年次を比定、移動したもの。 
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上杉謙信の側近・山吉豊守の性質と取次事情

2019-07-15 19:40:09 | 謙信にまつらう人々

 越後国上杉謙信(輝虎)の側近を務めた山吉孫次郎豊守が、己の携わる取次案件で何かと渦中に立たされがちな事情について考えてみたい。

 まず、山吉豊守とは、越後国長尾景虎の実父であった越後守護代長尾為景の功臣として名高い山吉丹波守政久(孫四郎。恕称軒政応)の子であり(『戦国人名辞典』1014・1015頁)、景虎の代に入ってからも蒲原郡司の役目に当たっていた丹波入道政応と号する政久から、天文21年12月までに家督を譲られて郡司職も引き継いだ山吉孫四郎(実名は景久であろう)の弟でもあり(『上越市史 上杉氏文書集』81・83・84・92・99号。以下は『上越』と略す)、〔高野山清浄心院 越後過去名簿〕(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』119頁)によれば、政久が天文22年7月20日に死去すると、それから五年後の永禄元年9月22日には孫四郎が早世してしまったので、いきおい山吉家の当主となった人物である。これ以前は景虎の小姓であったらしい(『上杉家御年譜 一』473頁)。
 史料上では「平 豊守」の署名で永禄8年末から現れ、越後国上杉輝虎が同年から翌9年にかけて挙行した関東遠征に従軍し、越後・関東衆の濫妨狼藉を禁ずる制札の発給を求めていたと思われる下野国足利の鑁阿寺の支院群と交信しており(『上越市史 上杉氏文書集』1012号 ◆『栃木県史 史料編』鑁阿寺文書290号、以下は『栃木』と略す)、輝虎の側近としての活動が認められる。以降、輝虎と内外の諸勢力との間の取次を務めたり、越後国上杉家の外様・家中衆に生じた諸問題の解決や配慮を任されたりするなどの仕事ぶりであったが、謙信期の天正3年2月に軍役を定められて以降、一年ほど動向が知れず、天正4年2月に謙信と「東方之衆」の太田美濃入道道誉(俗名は資正)との間の取次として再び現れるも、これが終見となる(『上越』1406号)。同年秋には豊守に代わって世子の米房丸が謙信の北陸遠征に従軍しているから(『上越』1315号)、豊守は重病の身となり、元服前の米房丸に家督を託したのであろう。〔越後三条山吉家伝記之写〕(『三条市史 資料編 第二巻』301~334頁)によれば、翌天正5年6月9日に36歳で亡くなったという。

※〔越後三条山吉家伝記之写〕に記されている山吉豊守の没年が正しいとしたら、豊守の生年は天文11年頃となり、父の政久(号政応)が没した天文22年は12歳くらい、兄の景久が没した永禄元年は17歳くらいとなる。永禄2年10月28日から同年11月朔日にかけて、越後国長尾景虎へ越後衆が祝儀の太刀を献上したうち、「御馬廻年寄分之衆」として太刀を献上した「山吉」(『上越』3542号)と、永禄4年初冬に関東へ急行する必要に迫られた越後国上杉政虎が出発直前か直後の10月13日に、留守衆の直江大和守実綱・荻原伊賀守・蔵田五郎左衛門尉へ宛てた条目において、越中国へ向かうように手配されている「山吉」(『上越』291号)は、それぞれ18歳と20歳くらいになっていた豊守であろうから、すでに部将として独り立ちしていても、おかしくはない年齢に達していたことになる。

※ 通説では、山吉豊守を政久あるいは政応(政久と政応を別人とするむきもある)の長男としており、天文21年7月16日付本成寺宛山吉豊守・同政応・同景盛連署制札(『上越』91号)からすると、そのようにも見えるが、『三条市史』の解説(368~374頁)によれば、本成寺の文書は天文21年4月に火災で焼失してしまったことから、後年に複製された文書が多く、なかでも当該文書は被災後の日付とはいえ、書風・筆勢から要検討文書とされているのである。それに何よりも、越後奥郡国衆の色部弥三郎勝長へ宛てられた長尾景虎書状(『上越』99号)には、蒲原郡司であった山吉丹波入道政応(政久)と入れ代わるように、同郡司として山吉孫四郎が現れ、その仮名から両人は親子であろうから、政久と豊守の間には一代が存在していることになり、豊守が政久の次男以下であったのは、まず間違いない。
これについては、〔越後三条山吉家伝記之写〕でも、山吉丹波守政久-同丹波守政応-同孫次郎豊守と続き、政久と豊守の間に一代が存在している。同伝記には、政久が三条衆の西海枝右馬助へ宛てた判物写の一点、「景久」が同人へ宛てた判物写の二点と西海枝又八郎へ宛てた判物写の一点が載録されている。このうちの「景久」を同伝記は、病中の政応に代わって陣代を務めた弟としているが、長尾為景から一字を賜り、その功臣である政久にも通ずる「景久」を名乗るに相応しい人物は、政久の後継者である孫四郎に他ならない。
それから、通説では、豊守には息子がおらず、後継者を立てられないままに早世してしまったので、山吉家は本領を削減されるとともに、三条城を召し上げられたが、弟の孫五郎景長(初めから実名が景長であったのかは分からない)が豊守の跡を継ぐことは許されたとしている。しかし、前述したように米房丸が存在していた以上、豊守は後継者を立てることができたわけであり、山吉家が改易されたのは米房丸が家督を全うできなかったからであろう。
やはりこれも、〔山吉系図〕(『山吉家家譜』50~81頁)では、豊守の世子である源太盛信を経て景長に当たる孫五郎盛重(景盛)へ、〔御家中諸士略系譜〕(『上杉家御年譜 第二十四巻』106頁)では、豊守の弟である孫五郎を経て玄蕃亮景長へと続いており、どちらも豊守と景長の間に一代が存在している。〔越後三条山吉家伝記之写〕には、この景長が山吉家の当主となった天正5年当時の年齢が13歳と記されており、永禄8年頃に生まれたことになるが、ほかの箇所では、天文15年に生まれ、天正9年は36歳、慶長16年に66歳で病死と記されており、豊守とは4歳違いであるから、弟としては後者の方が正しい記載なのだろう。それに何よりも、豊守と景長の父である政久(号政応)は天文22年に没しているのだから。前者については、やはり米房丸の存在を窺わせる。

※ 山吉豊守・同政応・同景盛連署制札の三名のうち、実際の豊守と政応の活動時期に開きがあるのは、豊守と景盛も同様であり、この景盛は山吉丹波守政久と共に、謙信の実父である長尾為景期に活動していた人物である。山吉氏の有力な同名衆であり、孫右衛門尉を通称し、三条城の城代のような立場にあったらしく(『新潟県史 資料編』525・535号 ◆『三条』144号)、その「景」の一字は為景から付与されたものであろう。恐らくは、永正年間の数ある越後国の内乱において、常に守護代長尾為景方として三条城に拠って戦い、為景に忠信を尽くした山吉孫左衛門尉能盛(『三条』99・100・101・102・115号)の後継者に当たるのではないか。

※ 山吉政久(号政応)と同景久の重臣であった西海枝右馬助と同又八郎は親子であると思われ、豊守の重臣であった西海枝右馬助は又八郎に当たるのだろう(『上越』1352号)。

※〔山吉系図〕では、山吉豊守は元亀3年正月9日に49歳で没し、法名を照陽寺殿天仲玄清大禅定門と記しているが、豊守は元亀3年以降も史料上で所見されること、この没年齢では謙信よりも年長になってしまうこと、道号戒名の天仲玄清は天文19年に没した越後守護上杉定実のものであること、こうした誤りから、同系図の信憑性を著しく損なっている。また、同系図では、豊守の妻を本庄美作守慶秀(実乃のことであろう)の娘としているが、〔越後三条山吉家伝記之写〕では、豊守には妻がいなかったとする。米房丸という後継者が存在したからには、妻帯していた可能性はあるのだろうが、同系図の信憑性が問われる以上、妻の実家については参考程度に留めておいた方が良いであろう。


 さて、山吉豊守の性質と言えば、軍記物ではあるが、『北越軍談』(井上鋭夫(校)『上杉史料集(中)』199頁)において「器量骨幹衆人に秀で鬼山吉と呼ばれて、小島弥太郎家正と一双の勇士たり。弱年より公の左右に仕へて格勤の労而巳にあらず、連年の戍役毎▢▢に従て、戦伐の梏勿論たる故、輝虎公御秘蔵在て出頭も亦余義なかりし。但幼少より志操普通に替わり、すね者にてありし程に、時々公の機嫌をも損なひけれ共、貞節時に顕れしかば、公も〝生先全からば、武功の者に成るべし〟と平生に宣ひしが、川中島大合戦に旗本の陣頭右備を命ぜられし後、奥近習の隊長に補せられ、関東表の御下知河田と連署をなさしめらる。」などと評されており、武勇才幹に優れていたが、幼少より片意地の張った調和の取れない性格であったことから、時には輝虎の機嫌を損ねたというような、癖のある人物として描写されている。
 『北越軍談』は軍記物とはいっても、文書を掲げたうえで、それに則した記事が書かれていたり、文書が掲げられていなくても、明らかに文書を基にして記事が書かれていたりする箇所があるため、そう邪険にもできず、有難いことに豊守に関連する史料は多く残っているので、それらから窺えるのかどうかを探ってみたい。


 ※『北越軍談』では「山吉玄蕃允豊守」とあるが、豊守は生涯において官途・受領名を称することはなかった。なぜ豊守が輩行仮名で通さなければならなかったのかといえば、豊守の兄であった孫四郎が実子をもうけないうちに、後継者を立てる間もなく急逝してしまったことが原因なのかもしれない。どうも長尾・上杉家では、譜代家臣のなかで、後継者を立てられずに急逝したり、主君の不興を買って出奔したりした者が出た場合、親の功績を鑑みて、一度だけは改易に処することなく、その弟に家督を継がせることは認められたが、官途・受領名を称することは認められなかったふしがある。これには、兄の本庄新左衛門尉(『上越』506号)が早世したらしい本庄清七郎(実名は綱秀か)、兄の毛利松若丸(弥九郎・和泉守景広と伝わる)が出奔したらしい安田惣八郎顕元が該当する(『越佐史料 巻五』799頁)。


【史料1】中条越前守宛山吉豊守・直江政綱・鯵坂長実連署状(『上越』623号)
  猶々、披露之事、少相延申候共、我等御前之事、悪者致之間
  敷候間、可御心安候、以上、
今朝被仰候一義、只今迄山孫(山吉孫次郎豊守)御障候間、遅延申候、委雑談申候、無是非之由、被申事候、兎角談合仕候間、可御心安候、余無御心元被思召候間、先々申入候、恐々謹言、
    廿七日(十一月)    政綱(花押)
                長実(花押)
                豊守(花押)
(礼紙ウハ書)
「 (墨引)          より
------------------------------------------------------
 越州へ            三人
   参御神所            」


【史料2】直江景綱・河田長親宛松本景繁書状(『上越』769号)
御両衆御切紙披見、驚入候、既御当地之事、山吉殿御奏者憑入候上、当春本庄於御陣中、以神血申合候上、尚以無如在候、若御取次之方添状式それ/\被仰出候間、如何一円山吉殿不申候事無之候歟、参府申上、以面上可申談候、先々申達候、恐々謹言、
  無追啓候、以上、
            松石
    六月廿五日      景繁(花押)
    直大
    河豊
      参御報


【史料3】中条越前守宛新発田忠敦書状(『上越』791号)
(端裏ウワ書)
「(墨引)
     越州    尾張守
       御報      」
  返々、我等事如何共候、御存分被聞召届候やうにいたし度候
  
共、自然さやうの義なと御耳たち候て、結句事あしくまかり可
  成かと存候て、たえ兼候、本美(本庄美作入道宗緩)さを/\御身
  かわらす候、御存分のとをり申届候、くわしく御つかい可被仰
  分候、以上、
御▢披見申候、仍山孫万とりこ候間、御機嫌を計可被逮披露候条、頓速ニハ難罷成候間、明日不被致出仕候、さきに御使を被指越尤存候、今夕之儀、夜分申、先々有御延引可然候、精御使申展候条、不具候、▢▢▢▢、かしく、


【史料4】中条越前守宛本庄宗緩書状(『上越』798号)
  返々、如何様達者罷成候、令調候、万々可申承候、
如仰五三日不申承、御床敷次第候、仍愚入煩之儀、老病候条、今爾々無之候、然御侘言之旨、定山孫私者有間敷候間、従旁彼方被仰分尤候、吾等孫次郎所及案内儀候条、可御心易候、猶々御断之儀、可申届候、少如在不存候、切々御懇書預候、忝次第候、如何様達者罷成候、令調候、万々可申承候、恐々謹言、
    八月廿二日      宗緩(花押)
(礼紙ウハ書)
「   (墨引)  本庄入道
 越州         宗緩
   参御報         」


【史料5】中条越前守宛新発田忠敦書状
(封紙ウハ書)
「              より 
-----------------------------------------------------
(墨引)  越州      尾張守
        御宿所       」
  返々、毛頭於心底素略を不存候、かしく、様々重而可申展候間、
  不具候、以上、
態令啓候、仍山孫彼壱儀自拙夫致催促候処、如此返事候、毛頭野拙見除申ニハ無之候、さりなから、屋形様(上杉輝虎)かたん気成儀なと御嫌候間、指出候不申候、於心底素略を不為存候、後刻掃部助を可越之由被申候条、到来之上重可申展候、又候かしく、


【史料6】山吉豊守宛上杉輝虎書状(『上越』904号)
来書之趣得其意候、仍今日三郎(北条)厩橋可為着馬由、簡要候、以下之者、途中滞留候共、横合不可有之候、三郎儀、路次中片時窮屈候条、夜中大風雨之無嫌、厩橋其方可供候、着候ハヽ、不移時刻、以早馬早々註進肝心候、雖無申迄候、万端仕置丹後守(北条高広)相談相極候、ニ而相計義曽無用、謹言、


【史料7】長尾顕景宛上杉謙信書状(『上越』1454号)
  追、此書中大和守(直江景綱)届可給候、以上、
懇比申越候、入心候、心馳難申尽候、山吉はしめ身之案候、一度飛脚不越候、両度誠喜悦候、其元留守中簡要候間、返々各其元差置、同事備可申付候、爰許之義案間敷候、以上、
    九月廿七日      謙信(花押)
      長尾喜平次殿


 以上の史料からすると、確かに山吉豊守は『北越軍談』に書かれているような性格ゆえに、上杉輝虎と越後衆との間の取次案件を滞らせたり、独断専行や無沙汰をしていたりするように見えなくもないので、これらを要約する。

⑴ 永禄11年晩春に越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長が居城の越後国村上城に拠って反乱を起こし、仲冬から輝虎が陣頭指揮を執る村上陣中において、やはり越後奥郡国衆の中条越前守から、中条とは同族の黒川四郎次郎平政の重臣である石井玄蕃允が本庄繁長に内通しているとの情報が寄せられると、これを輝虎へ取り次ぐべき豊守・直江大和守政綱・鯵坂清介長実の年寄三人衆のうち、豊守が何事か不都合を唱えたので、輝虎への披露が滞り(池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』96頁)、年寄三人衆は談合に及ぶも、豊守が納得して、輝虎へ披露するまでに時間を要した。
 これにより、輝虎への忠信を示した中条に気を揉ませている。

⑵ 永禄12年晩夏に越後国上杉家と相州北条家の間で対甲州武田家の同盟が成立し、輝虎と北条氏康・同氏政父子との間の取次を務める豊守は、共同軍事行動に向けて両国間の交渉を進めている最中、それを中継する立場である上野国沼田城将の松本石見守景繁が、この晩春に、北条父子から受け取った誓詞などを携えて越後国村上陣へ到来した際、もともと輝虎と沼田城衆との間の取次を務めていた豊守を越・相と沼田城衆との間の「奏者(取次)」とする契約を結んだにもかかわらず、なぜか豊守ではなく、契約外の「奏者」である直江大和守景綱と河田豊前守長親を通じて輝虎の意向が伝えられたことに驚き、関係者から事情を聞くために越府へ戻るという事態が起こった(栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』141~167頁)。
 結局、これが原因で松本景繁は沼田城将を退任するに至っている。

⑶ 永禄13年晩春に越後国上杉家と相州北条家の間で、上杉側が秘かに結んでいた越・甲和与を破棄することや、北条側が送り出す養子の人選を改めることにより、不備のあった越・相一和を発効し直したのに伴い、初夏に双方の領国の境目で引き渡される養子の出迎え役を豊守が仰せ付けられると、輝虎から、くれぐれも勝手な判断は慎み、何事においても関東代官の北条丹後守高広と相談したうえで対応するように、きつく指示されている(下山治久(編)『戦国時代年表 後北条氏編』217頁)。
 このように輝虎から釘を刺されていることからすると、以前に独断専行と取られるような行為があったのかもしれない。

⑷ 元亀元年仲秋に越後奥郡国衆の中条越前守と黒川四郎次郎平政の同族間において、すでに長尾景虎(宗心)期の弘治元年11月に解決済みの土地相論が再燃すると(文明19年に端を発し、今回で四度目となる)、中条は、かつて景虎と自分の間の取次を務め、すでに一線を退いた身ながら、今なお輝虎とは別懇の間柄である本庄美作入道宗緩と連絡を取り、自分の主張を輝虎へ披露してくれるように頼み込むと、本庄宗緩は返事を送り、「越州(中条)」については、いたずらに騒ぎ立てず、堪え忍ばれているのは、「御実城(輝虎)」への気遣いが感じられるとして、大いに称賛したのに対し、「黒川方」については、当主は若輩であり、補佐する家中も力量不足であるため、このたび時宜を弁えずに訴訟を申し立てたとして、強く非難した。そして、「愚入(宗緩)」については、出仕をするのは五、六日に一度の老後の身であり、合議で発言する立場にはないとして、丁重に断りを入れる一方、取次の「山孫(豊守)」に主張を説明し、彼方へ披露を頼むべきであるとして、前回の相論で下された裁定の子細を「山孫」へ説明しておくことを約束する。
 これにより宗緩は、豊守へ中条の主張を伝えて、輝虎への披露を促した。それでも進展が見られなかったので、中条はまた宗緩と連絡を取り、豊守へ披露を催促するように頼むと、宗緩もまた返事を送り、たっての依頼であるとして、「山孫」への催促を約束するとともに、「越州」とは親しい間柄である「新尾(新発田尾張守忠敦)」にも存念を説明し、筋目の正しい家柄の彼方から合議の場に話を持ち込んでもらえれば、ますます有効であるとして、彼方を頼みとすることを勧めている。
 中条自身も、その都度、豊守へ披露してくれるように頼んでいるが、それでもなお進展が見られなかったので、中条はまたしても宗緩と連絡を取って披露を頼むと、宗緩もこれまた返事を送り、「愚入」は年を取り過ぎて耄碌しているため、すでに披露できるような状態にはなく、長年の付き合いから情にほだされて公事に干渉し、「屋形様(輝虎)」を不愉快にさせるわけにはいかないとして、改めて断りを入れる一方、この件について「屋形様」の方から下問された場合には、ありのままを申し上げることと、必ず「山孫」へ直に会って催促することを約束している。
 それから間もなく、中条から協力を求められた新発田忠敦は、輝虎からも黒川側の取次である直江大和守景綱を通じ、中条を説得して黒川と和解させるように仰せ付けられてしまい、渋々ながら相論に関与することを受け入れたので、新発田は豊守や直江と直接あるいは書簡を通じて談合を重ね、中条へ報告や助言を行うことになる。
 こうして、新発田からも披露を催促されることになった豊守は、中条と連絡を取り、二度ほど輝虎へ相論について披露したが、当たり障りのない程度であったらしく、黒川担当の直江景綱から明瞭な披露を受けた輝虎は、とうの昔に解決した事案であるばかりか、黒川側の言い分は尤もであるとして、中条が黒川へ土地を返還するべきであるとの見解を示したことから、中条の主張が通る気配はなかった。この事実を、直江から説得を受け続けているなかで伝え聞いた中条は、ただちに豊守と連絡を取り、自分の主張を輝虎へ披露してくれるように、強く催促したばかりか、係争地に関する家伝の証文を差し出したところ、豊守もただちに返答し、これほどまで急ぎの案件であったとは知らず、先年に「本美(宗緩)」が取り扱って結審した相論であり、自分は「黒河殿」の言い分を聞いていないため、前後の事情を承知していないまま、軽はずみに披露してしまっては、「上様(輝虎)」の思索を混乱させてしまうだけでなく、「黒河方」の主張に通じている取次の方が有利に審理を進めてしまうであろうから、心ならずも披露を先送りしたわけであり、それでも良ければ、すぐにでも披露に及ぶことを伝えるとともに、かつての「御奏者」である「本美」に協力を仰ぐように勧めた。
 また、新発田からは、何事も御意に従って、わずかでも反論などしないように忠告されるとともに、大事な証文に間違いがあってはならないので、「山孫」へ取り扱いの注意を促しておくように助言されている。
 この忠告を受けた中条から証文の返却を求められた豊守は、大事な証文であるから、このたび返却を求められて安心したとして、写しを取ったうえで中条へ返却すると、ここ数日は対面の機会がなかった新発田から催促を受けていたので連絡を取り、証文の写しを有効に活用するつもりであるが、「屋形様(輝虎)」はどちらか一方に肩入れするのは御嫌いな性質であり、余計な口出しはできず、すぐには披露できないことを伝えた。
 これを受けて新発田は、すぐさま中条と連絡を取り、多忙を極めている「山孫」は、(輝虎の)御機嫌を見計らって御披露に及ぶつもりであるそうだが、すぐには難しいと言っていることと、「御身(中条)」の御主張が通るように尽力したいところではあるが、本来は「御身」を説得するように仰せ付けられたにもかかわらず、逆に立ち回っているわけであり、これが(輝虎の)御耳に入っては、事態が悪い方へ向かってしまうかもしれず、身動きが取れないので、「本美」に協力を頼んだことを伝えている。
 結局また中条は宗緩を当てにすることになったので、宗緩は返事を送り、「山孫」の身勝手を許してはならず、各々方が談じ込むことを勧奨するとともに、自分の方からも問い質すことを確約している(池享・矢田俊文(編)『増補改訂版 上杉氏年表』136頁 ◆ 阿部哲人『図録 上杉家家臣団』41~66頁)。
 このあと、豊守は宗緩から強く対応を迫られたようである。

⑸ 元亀3年晩秋、加賀・越中一向一揆が拠る越中国富山城を攻囲中の謙信は、甲州武田軍が越府へ攻め寄せてくるとの情報により、本国の状況を案じているにもかかわらず、越府留守衆を任された「山吉」以下の旗本の重鎮たちは、謙信の心配をよそに一度も連絡を寄越さず、留守衆のなかでも、謙信の甥という別格の身分とはいえ、まだ若年の上田長尾喜平次顕景だけが連絡を寄越してくる有様であった(渡辺三省『直江兼続とその時代』14頁)。
 これにより、信・越国境が積雪で閉ざされるまでは安心できない謙信をやきもきさせている。

 こうした山吉豊守が物事の渦中に立たされている文書のうち、『北越軍談』の作者がどれかでも目にしたのだとしたら、あのように豊守の性質が描写されたのは仕方ないのかもしれないと思いながらも、気になったのは次に掲げた【史料8】である。


【史料8】山吉掃部助・同玄蕃允・同四郎右衛門尉・仁科中務丞宛武田勝頼書状
急度染一筆候、仍当国惑乱、景虎・景勝辜負歎敷候間、為和親媒介与風出馬、越府在陣、因茲、弥次郎方(本庄繁長)へ鴻鯉之音問候、自先代入魂之事候条、弥無疎略様諫言可為喜悦候、委曲大熊(長秀)可申候、恐々謹言、
    七月廿三日      勝頼(花押)
      山吉掃部助殿
      同 玄蕃允殿
      同 四郎右衛門尉殿
      仁科中務丞殿


 この文書は、謙信没後に起こった二人の養子による内乱の最中、春日山城の上杉景勝と御館の上杉景虎の和睦を取り持つことになった甲州武田勝頼が、先代の武田信玄の時に、越後国上杉輝虎への反乱をそそのかして自陣営に引き入れた経緯がある越後奥郡国衆の本庄繁長(雨順斎全長)の協力を得ようとして連絡を取るにあたり、山吉同名衆に対し、先代以来の誼がある本庄へ途絶していた音信を通じるため、その協力が得られるように口添えを求めたものである。
 ではなぜ、このような書状が、景勝の取次ではない山吉氏、それも同名衆へ送られたのか、疑問を覚えたので、よく考えてみたところ、揚北衆の本庄氏のようには、武田家との伝手を持っていたとは言われてこなかった山吉氏が、こうして武田勝頼から直書をもって、本庄氏への取り次ぎを頼まれたのは、もしかしたら、かつて山吉豊守は取次として甲州武田家と交信した過去があり、その時の縁から、もはやこの世にはない豊守の追弔を兼ねて、勝頼は事情に通じているであろう山吉同名衆へ書状を送ったのではないかということである。
 豊守の活動中に越後国上杉家が甲州武田家と交渉を持ったのは、永禄12年に入って越相一和の交渉が進むなか、武田信玄は輝虎との和睦を望み、将軍足利義昭と濃(尾)州織田信長に仲介を頼むと、将軍からの勧告を輝虎が拝受したことから、6月9日に越・相一和が成立したにもかかわらず、その裏で翌月に結ばれ、一年ほど続いた甲・越和与(柴辻俊六・黒田基樹・丸島和洋(編)『戦国遺文 武田氏編 第六巻』【月報6】3~5頁)、元亀2年11月初旬に越・相一和の破談が決定的になると、上杉側から武田側へ和睦を打診したが、12月17日に武田側は甲・相・越の三和でなければ応じられないと返答し、謙信はこれを受け入れなかったので、不成立に終わった和睦交渉(柴辻俊六(編)『武田信玄のすべて』28~54頁)、足利義昭の「越・甲・相・賀州」四和構想により、天正3年10月頃に甲・越和睦、翌4年春中に越・賀一和は成立したが、同年8月に成立する直前で消散した越・相一和のうち、「東方之衆」の太田美濃入道道誉がその成就を待ち望んでいたとして歓喜したほどの甲・越和睦(平山優『武田氏滅亡』134~177頁)、以上の三件の和睦交渉時であろう。

 まず、永禄12年の甲・越和与について、ちょうどこの和与の交渉が行われていた頃、⑵の永禄12年6月、上野国沼田城将の松本景繁と豊守の間で取次契約が結ばれていたにもかかわらず、契約外の直江景綱と河田長親を取次とする連署状が松本に届けられたという違約による騒動が起こったわけであるが、さすがに、この契約違反の代行を輝虎の側近衆が申し合わせて勝手に行ったとは考え難く、豊守が手いっぱいであったので、輝虎は直江と河田に代行させたと考えられることから、豊守は越・相一和だけではなく、甲・越和与の交渉における取次も務めていた可能性はあるのだろう。
 この場合、相反する相州北条家と甲州武田家の取次を掛け持ちしたなどとはあり得ないことのように思われるが、越後国とは国境を接しているわけでも、頻繁にやり取りしていたわけでもない相手ながら、相反する濃州織田家と駿州今川家のそれぞれとの取次を直江政綱が掛け持ちしていた時期があり(『上越』594・610・611・605・608・617・621号)、全く起こり得ない状況でもなかったようである。
 次は、元亀2年11月に越・相一和の破談が決定的になると、関東代官の北条丹後守高広から提案が寄せられたと思しき甲・越和睦について、ちょうどその頃、関東在陣中の謙信は常陸国衆の小田中務少輔氏治の要請を受け、同国衆の佐竹次郎義重を攻めるために連絡を取り合っており、この取次を務めたのは豊守であった。しかし、なぜか豊守の重臣である飯田与三左衛門尉・同与七郎父子が、小田氏治とその側近である菅谷摂津入道全久と交信を重ねており(『上越』515・1069~1072・1074・1075・1078・1079・1082・1084・1091・1097号 ◆ 黒田基樹「常陸小田氏治の基礎的研究 -発給文書の検討を中心として-」)、謙信が敵方の諸城を攻撃していったなか、豊守が手いっぱいであったので、飯田父子が代行したのだと考えられることから、豊守は戦陣における任務はもちろん、越・相一和の破談の手続きのほか、甲・越和睦の交渉における取次も務めていた可能性はあるのだろう。
 そして、天正3年10月に内定した越・甲無為について、謙信が越・甲無為の内定を味方中の佐竹次郎義重や太田三楽斎道誉・梶原源太政景父子へ伝えると、梶原政景が北条高広父子を通じて返書を寄越し、ようやく念願が叶うとして、猶予なく落着することを望む一方、太田道誉が意見を添えてきたので、謙信は翌年2月に返書を送り、歓喜の意を表するとともに、詳しい返答は「山吉」に伝達させることを伝えており(『上越』1272・1406号)、前の二件とは違って、豊守が取次案件を掛け持ちしている様子は窺えないが、多くの場合、謙信は書状の文末で、詳しいことは取次の誰々が申し述べるというような結ぶ形式であるのに対し、1406号文書では、謙信が半ばで、道誉が意見を添えてきたことを喜んでいる話の流れで「山吉」の方から詳しく申し届けると伝えていることからすると、何やら豊守が和睦交渉に関与していたことを思わせるので、豊守が越・甲無為の交渉における取次を務めていた可能性はあるのだろう。

 これらは、あくまで可能性に過ぎないが、一番目の取次契約違反の騒動と越・甲和与の交渉が重なっていたようなのは、取り分け気になるところであり、ここまで豊守が話題にのぼった事情を見てきて感じるのは、輝虎の側近衆、なかでも豊守の忙しさである。ついては、豊守が史料上で頻出する越・相一和の期間中とその直前直後における働きぶりを追ってみたい。

 永禄11年晩春に揚北衆の本庄弥次郎繁長が甲州武田・相州北条陣営に寝返り、本拠地の越後国村上城に拠って反乱を起こしたことから、越後国上杉家は四面楚歌に陥ってしまい、輝虎は越府を離れられず、柿崎和泉守景家・直江大和守政綱を主将とする軍勢を村上城へ派遣し、本庄繁長を攻めさせるなか、出羽国の味方中でありながら、本庄に味方した出羽国大浦の大宝寺義増が9月に入って陣営への復帰を求めてくると、8日、輝虎の許にいた数少ない要員のうちの豊守は、同じく本庄美作入道宗緩・河田豊前守長親と共に、村上陣の直江政綱へ宛てて条書を発し、大宝寺の帰服を認めるための条件を示した(『上越』616号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』68・95頁)。
 ようやく待ち望んだ積雪期に入り、輝虎は豊守らを引き連れて奥郡へ急行し、11月7日に本庄繁長の立て籠もる村上城を自ら攻囲すると、下旬に揚北衆の中条越前守が、去夏に同心を誘う本庄の密書を封を切らずに輝虎へ差し出した忠信に続き、同族である黒川四郎次郎平政の重臣が本庄に内通しているとの情報を知らせてきたので、豊守と直江政綱・鯵坂清介長実の年寄三人衆が輝虎へ披露することになった(池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』69・96頁)。ところが豊守の不都合によって披露が遅れ、何とか当日中に披露はなされたが、輝虎は中条と面会して謝意を表すことを約束する。しかし、明くる日に中条が本陣に出向いた折、人でごった返しており、輝虎は面会の約束を果たせないほどに多忙であった。当然ながら、その側近である豊守も忙しい身であったろう。
 その年末、隣国の奥州黒川の蘆名盛氏・同盛興父子が、やはり隣国の羽州米沢の伊達輝宗と共に、輝虎と本庄繁長の和解に乗り出し、蘆名家から使僧の游足庵淳相が国境まで出向き、そこから村上陣へ使者を寄越してきたので、豊守と柿崎景家・直江政綱の年寄三人衆が使者への対応に当たった(『上越』634号)。因みに、伊達家からは、輝宗側近の中野常陸介宗時が国境まで出向き、やはりそこから村上陣へ使者を寄越しており、中野との書簡のやり取りと使者への対応は柿崎と直江が務めている(『上越』703号)。
 こうしたなか、甲州武田信玄が甲・相・駿三国同盟を破って駿河国へ侵攻すると、駿州今川氏真は12月6日に駿府を脱して遠江国懸川城へ逃れた。その後、これに怒った相州北条氏康・同氏政父子は信玄の弁明を受け付けず、懸川城へ援軍を送る一方、氏康の指示を受けた、氏政の兄弟衆である藤田新太郎氏邦が、自分に付属されている上野国衆の由良信濃守成繁を通じ、越後国上杉家の上野国沼田城の城衆へ書簡を送り、12月9日には、やはり氏政の兄弟衆である北条源三氏照が独断により、自分に付属されている上野国衆の北条丹後守高広(もとは上杉家の譜代家臣)を通じ、沼田城衆に中継を頼み、村上陣の直江政綱へ宛てた書簡を送り、輝虎に和談を求めてきた。これらを受けて直江と豊守が談合して輝虎に取り次ぐと、輝虎は沼田城衆を通じて公式に一和を打診してきた藤田氏邦だけに返書を送り、一和を受け入れるための三ヶ条を提示すると、正月2日に北条氏康は、駿河国に在陣している氏邦に代わって三ヶ条受諾の返書を発している(『上越』636・697号 ◆ 栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』141~167頁 ◆ 丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』123~150頁)。
 正月12日、輝虎は、常陸国衆の佐竹次郎義重を中心とする「東方之味方中」に対し、相州北条家から一和の打診を受けたが、これを拒絶したという虚偽報告をするため、豊守が、佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(もとは武蔵国衆)へ宛てた自身の書簡に添えて、交渉を進めていない大石(北条)氏照と北条高広の書簡の写しを発送しており(『上越』658・659号 ◆ 丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』)、豊守が輝虎と太田三楽斎道誉・梶原源太政景父子との間の取次を務めていたことが分かる。「東方之味方中」については、永禄9年5月以降は越後国上杉陣営を離れていた下野国衆の宇都宮弥三郎広綱の側近である岡本筑後守高永が、永禄11年であろう4月19日に豊守へ宛てて発した書状(『上越』1095号 ◆ 江田郁夫(編)『下野宇都宮氏』275~292頁)によると、輝虎は前年の秋あるいは一昨年から佐竹・宇都宮らとの関係改善を図っており、豊守は輝虎と宇都宮広綱との間の取次も務めていたことが分かる。
 正月17日、同族の本庄繁長に味方した弟ふたりに奪われた居城を取り戻そうとしている揚北衆の大川三郎次郎長秀には、二組の年寄三人衆が取次に当たっており、先の中条と同様に豊守と直江政綱・鯵坂長実による編成、もう一組は鯵坂に代わって柿崎景家が入る形の編成であったが、その大川長秀から連絡が寄せられ、城内の内通者が露見し、出羽国の大宝寺からの加勢を得た奪還作戦が失敗に終わってしまい、輝虎が派遣していた軍監の勧めにより、ひとまず後退したことを伝えられるとともに、作戦の続行と支援の継続を求められたので、これらを輝虎へ取り次いだ(『上越』644・645号)。
 2月6日には、村上城攻略のてこ入れのため、地下鑓を招集することになり、豊守・直江政綱改め景綱・柿崎景家による年寄三人衆が奉者として輝虎の触書を発給した(『上越』650号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』97頁)。
 正月中旬から同月下旬にかけて、豊守は沼田城衆の松本石見守景繁と書簡をやり取りし、「上さま(輝虎)」が相州北条陣営の足利長尾新五郎顕景へも通告して、今春中に一和の目途を付けたいと考えられているのは、時宜を得た賢明な御判断であること、相州北条家側から早急な返答を求められており、速やかに返答が寄せられるように願っていること、これらについて適切な披露を頼まれている(『上越』869号)。
 もともと永禄10年頃から豊守は輝虎と沼田城衆との間の取次を務めていたが、2月上旬から同中旬にかけて、相州北条氏康から輝虎の許へと遣わされた使節団が沼田城に入るも、越後国は深雪のため、氏康から同道を頼まれていた沼田城衆の松本景繁だけが村上陣へ向かうことになり、翌月に北条父子の誓詞や条目を携えて到着すると、豊守は輝虎と松本との間における取次契約を結び、松本が沼田に戻って間もない3月27日から書簡のやり取りが見られる(『上越』692号)。これ以前、正月16日に由良成繁から、かつて由良が越後国上杉陣営に属していた頃の沼田城代であった河田長親へ宛てて、このたび北条父子が輝虎に一和を持ち掛けた経緯を説明する書簡が発せられ(『上越』643号)、2月6日に氏康から、輝虎への誓詞と条目、沼田城衆・柿崎景家・直江景綱のそれぞれへ宛てた書簡が発せられていたが(『上越』652号)、北条側の取次は一家衆の北条氏照・藤田氏邦、旗本衆で氏康側近の遠山左衛門尉康光であるのに対し、ここに上杉側では一家衆に準ずる柿崎景家、旗本衆で輝虎側近の豊守に決まったわけである(丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』同前)。
 こうして、同盟期間中、主に豊守が、越・相の共同軍事行動、国衆の帰属、領土の確定、輝虎養子の人選などを巡り、相州北条父子、藤田氏邦、遠山康光らと頻繁に書簡をやり取りして実務を担うことになる。
 この間には、揚北衆の大川長秀による藤懸城奪還作戦に、出羽国の味方中の大宝寺義増が援軍を派遣してくれていたことから、豊守は柿崎景家・直江景綱と共に、大宝寺の重臣である土佐林能登入道禅棟と書簡をやり取りしており、3月26日、その土佐林禅棟から「伊達・会津」の仲介による本庄赦免と藤懸城の奪還が最終局面を迎えていることへの祝意を表されている(『上越』691号)。これにより、豊守は、先の大宝寺帰服の交渉に引き続き、輝虎と大宝寺主従との間の取次を務めていたことが分かる。
 輝虎が本庄繁長を赦免して4月2日に帰府し、越・相一和が成立へと向かうなか、豊守と河田長親は「東方之味方中」の現況や要望について、佐竹側の取次である太田道誉・梶原政景と書簡をやり取りすると、21日に太田父子から、佐竹義重からは側近の小貫佐渡守頼安が使者として越府へ向かうので、自分たちも使僧を添えることが伝えられている(『上越』658・659・708・710・742・747号)。
 4月27日には相州北条氏康から豊守へ宛てて書簡が発せられ、越・相両国が一味するにあたり、取次の氏照が詳しく申し入れるので、輝虎に北条高広の赦免を取り成してくれるように頼まれている(『上越』720号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『増補改訂版 上杉氏年表』135頁)。
 5月に相州北条父子の誓詞を携えた使節団が越府へ向かうと、閏5月5日、関東味方中で下総国衆の簗田中務大輔入道道忠(晴助)・同八郎持助父子から、豊守と河田長親へ宛てた書簡が発せられ、北条氏政の兄弟衆である北条氏照の軍勢による攻勢から解放されたことへの謝意が表されており、豊守は河田と共に、輝虎と簗田父子との間の取次を務めていたことが分かる。(『上越』734号)。
 閏5月7日には、輝虎が大宝寺主従の村上陣における協力への謝意を表するため、使節として広泰寺昌派と進藤隼人佑家清を出羽国へ遣わしたことに対し、土佐林禅棟から、豊守と直江景綱へ宛てて、輝虎へ答謝する書簡が発せられている(『上越』740号)。
 閏5月中に越府の春日山城で輝虎が相州北条父子の使僧である天用院から、父子の誓詞を受け取ったのに伴い、輝虎の誓詞を携えた使節団が相府へ向かうと、6月9日に相府の小田原城で北条父子が輝虎の使僧である広泰寺から輝虎の誓詞を渡されて、正式に越・相一和が成立し、下旬に越・相両軍の同陣について協議するなか、その裏では、将軍足利義昭の勧告もあって、甲州武田家から持ち掛けられた和与の交渉が行われており、ちょうどその頃に豊守と沼田城衆の松本景繁の間で齟齬が生じたのである。
 7月29日には、本庄繁長(雨順斎全長)が降伏して以降、その監視を担う鮎川孫次郎盛長が、出羽国の大宝寺領内の様子を報告してきたので、輝虎は直書を発し、委細を承知したこと、大宝寺と境を接する大川長秀にも警戒を怠らないように伝達してほしいこと、越・相一和の成立に伴い、信濃国へ進攻するつもりでいたところ、甲州武田信玄が和与を申し入れてきたので、取り敢えず出馬を延期したこと、信濃と北陸の状況が案じられるとして、「関東味方中」が軍勢を寄越してきたが、沼田城衆も着府し、すでに越後衆も勢揃いしており、両口への対応は万全であること、これらを「山吉孫二郎」が詳報することを伝えており(『上越』780号)、豊守は、越後奥郡国衆のうち、少なくとも中条、大川、そして鮎川の取次を担当していたことが分かる。
 この甲・越和与の成立に伴い、輝虎は相州北条家から求められていた出馬を見送り、永禄12年8月20日、かつては味方中であった椎名右衛門大夫康胤と、その椎名と入れ代わるように甲州武田陣営から味方中となった神保惣右衛門尉長職の家中から造反者が出たので、これらを攻めるために越中国へ出馬すると、これに従った豊守は9月25日、柿崎景家・直江景綱と共に奉者として、越中国新川郡森尻荘内における諸軍勢の乱妨狼藉を停止する輝虎の制札に署判した(『上越』809・814号 ◆ 栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』65~110頁)。
 輝虎が越中国から帰路に就く直前か、就いた直後であろう10月20日、梶原政景の許へ使者を立てるのに伴い、豊守が条書を添え、(輝虎の)御出馬に合わせて「東方之衆」も参陣されるべきこと、(太田・梶原)御父子のいつもながらの御骨折りゆえ、「東方之衆」を同調へと導かれたのは、並外れた見事さであること、(かねてより輝虎が太田父子に提示していた)御処遇について、このたび条々を寄せられ、異存を唱えられず、筋目に従われるとの存念は御頼もしく、その趣意を念入りに御披露に及んだところ、(輝虎は)しっかりと理解されたので、御安心してもらいたく、(輝虎が)関東の情勢を御一変させたあかつきには、「河豊(河田長親)」と相談し、御父子が手厚い恩恵に預かれるように、力の及ぶ限り奔走すること、この一条については、当然ながら誓詞を呈するつもりであること、これらを申し伝えた(新井浩文『関東の戦国期領主と流通 -岩付・幸手・関宿-』101頁)。
 10月27日に輝虎は北陸遠征を終えて帰府するも、ほとんど休むことなく、すぐに関東へ向かうなか、11月16日に輝虎から豊守は、もと沼田城将の松本景繁が何らかの結末を迎えたので、幼主を戴くことになった松本家中への指導や配慮を命じられている(『上越』949号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『定本上杉謙信』119頁)
 11月20日に輝虎は上野国沼田城に着陣すると、そこから味方中へ参陣を呼び掛けたが、越・相一和成立以前は相州北条陣営に属していた下野国衆の佐野小太郎昌綱は輝虎への従属を拒んだことから、下野国唐沢山城を攻めることになった。12月8日には、やはり北条方であった武蔵国衆の成田左衛門次郎氏長は輝虎へ従う姿勢を見せて沼田へ使僧を寄越してきたが、成田側の取次である手島左馬助長朝からは音沙汰がなかったので、直書を発し、連絡がなく憂慮していることと、亡父美作守高吉のように奔走するべきことを伝えると、間もなく返書が寄せられたらしく、正月元日には唐沢山城に布陣していた輝虎は手島長朝へ書簡を発し、新年慶賀の酒肴を進上してくれて感謝していること、成田氏長が参陣を急ぐように導くべきこと、これらを「山吉孫二郎」が詳報することを伝えており(『上越』863号 ◆ 市村高男『戦国期東国の都市と権力』262~311頁)、豊守が輝虎と成田氏との間の取次を務めていたことが分かる。
 永禄12年冬から関東在陣中の輝虎が「東方之衆」の佐竹義重に同陣を呼び掛け続け、太田父子には、相州北条家から返還を取り付けた武蔵国松山・岩付城に帰還するように促し続けても、越・相一和をよしとしない彼らは甲州武田信玄とも交信していたので(黒田基樹(編)『岩付太田氏』133~158頁)、一向に姿を現さないばかりか、道誉が輝虎からの密書を諸将に回覧してしまい、ついに輝虎の怒りを買うところとなり、これを風聞で知った佐竹側は、3月28日に佐竹北家の佐竹左衛門督義斯が弁明の書簡を柿崎景家と豊守の両名へ宛てて発する(『上越』901号)。これまで豊守と共に佐竹氏との間の取次を務めてきた河田長親は越中国に駐在しており、今次の関東遠征には参加していないため、柿崎が代わったのだろう。翌月早々には、輝虎が佐竹と合わせて参陣を呼び掛けていた、佐竹に従属している常陸国衆の真壁安芸守氏幹と多賀谷修理入道祥聯(俗名は政経)から越・相一和の成立への祝意などが寄せられたので、豊守はそれぞれと書簡をやり取りしており(『上越』696・903号)、輝虎と彼らとの間の取次も務めていたことが分かる。
 この間、相州北条家側と、甲・越和与の破棄、輝虎が北条家より貰い受ける養子を氏政の次男から氏康末男への変更、その養子と上杉家が北条家に引き渡す証人の受け渡し方法などについて協議しており、4月9日、豊守は輝虎の命を受け、養子となる北条三郎を上野国那波郡堀口の利根川端まで迎えに出ると、10日、豊守は三郎に付き添って沼田城に入り、無事に任務を果たした。その翌日に輝虎と三郎は城内で対面したのち、輝虎は三郎を伴って帰国の途に就き、18日に帰府している。25日には春日山城において、北条三郎改め上杉三郎と、輝虎の姪(上田長尾顕景の妹)の婚儀が執り行われ、三郎には輝虎の初名である景虎が与えられている(池享・矢田俊文(編)『増補改訂版 上杉氏年表』138頁)。
 4月末には、佐竹・太田父子との関係改善を図る輝虎の意を受けて、豊守は、太田一家の三戸駿河守の妻で、道誉の妹である「としやう」へ音信を通じ、太田父子の説得を頼んだ(『上越』910号 ◆ 黒田基樹(編)『岩付太田氏』同前)。
 元亀元年5月9日、揚北衆の鮎川盛長から豊守へ宛てて書簡が発せられ、輝虎が関東で成果を上げて帰国したことを祝して音物を贈ったことへの披露を頼まれている(『上越』912号)。
 6月、前年の越・相一和の成立に伴い、越後国上杉家が甲州武田家領を除いた上野国を支配することになり、相州北条陣営に属していた上野国衆の富岡清四郎が、やはり上野国衆の由良成繁の族臣である横瀬新右衛門尉国広と土地相論した際、永禄10年4月に相州北条家の裁定によって、永禄10年と翌11年の二年間は双方が係争地の支配を折半し、永禄12年から富岡が一円的に支配することが決まっていたので、永禄12年8月に北条側へ施行の可否を問い合わせたところ、北条氏政から上杉側の意向次第との返答を受け、越府へ問い合わせた結果、29日、豊守と河田長親が連署状を発し、提出された証文を確認したところ、主張が裏付けられたとして、施行が認められたことと、越・相一和が成立したからには、今後は富岡が上杉陣営に属していた永禄9年当時のように、何事も輝虎の下知に従うべきことを伝達した(『上越』916号 ◆ 黒田基樹『増補改訂 戦国大名と外様国衆』392~441頁)。
 8月上旬、甲州武田信玄の伊豆国への侵攻により、相州北条氏政や藤田氏邦から続けざまに、早急な輝虎の出馬を求められるなか、外様衆の中条と黒川の同族間による土地相論が公儀に持ち込まれたのである。
 去る永禄11年12月13日に今川氏真は甲州武田軍の攻撃を受け、駿府を脱して遠江国懸川城へ移ったが、甲州武田信玄と盟約を結んでいる三州徳川家康に攻囲され、永禄12年5月15日に徳川と和睦して懸川城を明け渡し、相州北条家の領国内へ移ると、同23日に相州北条氏政の嫡男である国王丸へ駿河国を譲るというような変転を辿るなかで、輝虎へ武田領進攻を求め続けていたが、もはや輝虎は領国を失って大名から転落した氏真を等輩とは認めず、氏真側の書札礼の不備を理由に返事を送らなかったところ、ようやく氏真が相州北条家ならびに越・相一和の取次である豊守を通じて、この事情を知ったらしく、9月3日に氏真は、越・駿一和の上杉側の取次であった柿崎景家と直江景綱、新たに豊守を加えた三名へ宛てた書状を、氏真の側近である朝比奈備中守泰朝が副状を発し、書礼の不備を弁明するとともに、改めて武田領への出馬を求めてきた。別して豊守のみに氏真の直書が送られている(『上越』582・936・937号 ◆ 長谷川弘道「駿越交渉補遺 -「書礼慮外」をめぐって」-)。
 甲州武田信玄が上野国西郡に現れたとの報を受け、10月20日、輝虎改め謙信の関東出馬に豊守も従っている。
 元亀2年早々、甲州武田信玄が相州北条家の軍勢が拠る駿河国深沢城を攻めるなか、北条氏政は甲州武田領への謙信の出馬を墾望したが、「越中国味方中」の神保長職からの昨年末以来の嘆願を受けて、3月中旬、またしても北条側の期待を裏切り、越中国へ出馬した。これに豊守も従軍したであろう。その後、謙信は北条家が武田家と同盟を復活することを疑ったので、昨年の秋から体調を崩していた北条氏康が4月15日に弁明書を発したが、それ以降、両家の間は没交渉となり、豊守が北条側と交信することもなくなった。
 元亀2年10月3日、謙信の養子という立場から越・相同陣の実現に向けて実家と連絡を取り合っていた上杉景虎の許へ、先だって景虎が謙信の指示を受けて、兄である北条氏政の許へ差し向けた飛脚が返書を携えて戻ってくると、景虎が豊守を取次として謙信へ、その返書ならびに景虎が北条氏政と遠山康光へ宛てた返書を呈することと、景虎の返書に問題があれば、書き直すので案文を寄越してもらいたことを伝えている(『上越』923・1066号 ◆ 下山治久(編)『戦国時代年表 後北条氏編』221・233頁)。謙信と景虎の間は豊守か直江景綱のどちらかが、状況に応じて取次を務めたらしい。
 奇しくも、この日に北条氏康は亡くなっており、もともと越・相一和に乗り気ではなかった氏政は武田信玄との同盟を復活させることを選ぶ。
 越・相一和の成立によって、佐竹義重を中心とする「東方之衆」が甲州武田信玄と手を結んだことから、一和成立以前は相州北条陣営に属していた小田中務少輔氏治を自陣営に加え、氏治の頼みに応じて佐竹を攻めることになり、元亀2年11月(相談は前年から始まっていた)、豊守とその重臣の飯田与三左衛門尉・同与七郎父子が小田氏治とその宿老である菅谷摂津入道全久と書簡をやり取りした。ただし、この間に越・相一和が破談となったので、佐竹攻略は取り止めになっている。
 越・相一和破談後になるが、永禄11年晩春に味方中であった越中国金山(松倉)の椎名康胤が離反したのに代わって、甲州武田陣営から越中国増山の神保長職が味方中となっていたが、この3月下旬に越後国上杉軍の越中国における重要拠点である新庄城の城衆と松倉の椎名康胤の間で「無事」がまとまった際、豊守と直江景綱は、神保氏の重臣である某職信から報告が寄せられ、謙信への披露を頼まれており(『上越』894号)、結局、この和睦は数ヶ月後には破れることになるが、当然ながら和睦がまとまる以前より、越中代官の河田長親や新庄城衆、神保側の取次たちと書簡をやり取りしていたであろう。
 一見、元亀2年の豊守は、相州北条家とやり取りすることがなくなったので、多忙から解放されたようでもあるが、このように「東方之衆」や「越中国味方中」と書簡をやり取りしており、相変わらずの忙しさであったらしい。
 さらには、ここに示した案件で越府と各所との間を行き来して直接交渉に臨んだ使者たちともやり取りしたり、彼らへ便宜を図っていたりもしていたのである(『上越』764・726・746・878・907・929号)。

 このように山吉豊守は分かっているだけでも、諸勢力との間の取次、戦陣での制札の発給、自他国の使者への対応、外様衆間の相論の調停、不測の事態に見舞われた家中への指導や配慮を任されるなど、まさしく、【史料3】に見える「万とりこミ(取り込み)」のような状況になりがちであり、豊守が越・相一和と甲・越和与を掛け持ちしていたかもしれないという考えが、全くの見当はずれであったとしても、多忙を極めていたわけである。
 それから、軍事面での豊守の役割も気になるところであり、越・相一和以前ではあるが、永禄8年末に輝虎・豊守主従が下野国足利の鑁阿寺の寺院群と音信を交わしている最中、甲州武田軍が上野国西郡に現れたので、輝虎がこれと対戦しようとして、夜間に軍勢を展開したのに伴い、せわしい主従は豊守の重臣である上松弥兵衛尉藤益に支院との交信を任せていることや(『栃木』鑁阿寺文書290・496号)、前述したように、元亀2年冬から翌3年春にかけて、謙信が関東における敵方の諸城を攻めている最中、豊守は小田主従との交信を飯田父子に任せていることから、どちらの戦陣においても、何らかの重要な役割を担っていたのではないだろうか。

 確かに、騒動の渦中に立たされたり、謙信から独断を戒められたり、同じく連絡の不徹底を嘆かれたりする豊守ではあったが、松本景繁との間で起こった取次契約の違反については、前述したように、豊守個人が責任を問われるべきものではないであろうし、中条と黒川の同族間の土地相論にしても、豊守がなかなか輝虎へ中条の主張を取り次ごうとしないことに、本庄宗緩は豊守の身勝手を許してはならないと、強い口調で非難しているが(中条に気を遣って、わざと大袈裟に非難した可能性もあろう)、そもそも往時に決着した相論にもかかわらず、黒川の土地に手出しをしたのは中条であり、豊守には無理難題が持ち込まれたのである。おまけに当時は相州北条家と同陣について交渉している最中であった。それでも、この件に関する書状群のうち、日付が最後の書状によると、最終的な結果はよく分からないが、中条側の状況を好転させているので、時を見計らって輝虎の機嫌を損ねることなく、中条の主張を披露したのであろうから、諸士にせっつかれながらも、難しい案件を巧妙に取りさばいたように見えなくもない。
 そして、越中国富山陣の謙信が信・越国境の様子を心配しているにもかかわらず、越府留守衆のうち、謙信の甥である上田長尾顕景だけに連絡を任せて、留守中の旗本衆の筆頭であったにもかかわらず、連絡を怠り、顕景へ宛てられた謙信の書簡のなかで、ひとり名指しで非難されてしまったことについては、同書簡には顕景から連絡が寄せられたことへの喜びに溢れており、豊守らとしては、留守衆のうち、若年とはいえ、最も身分が高い顕景が連絡しているのだから、自分たちまでする必要はないと考えたのかもしれないし、手塩に掛けている甥から連絡がいった方が、謙信は喜ぶだろうと気を利かせたのかもしれないので、いくら軍記物とはいえ、頑固な「すね者」とまで書かれてしまうのは、少しばかり気の毒に思えた。
 何と言っても、相州北条家との同盟交渉における取次の大役を任せられたり、その北条家から養子として送り出された三郎を迎えに出されたり、越府から越中国富山陣へ呼び寄せる長尾顕景に付き添わされたり、当主を失って幼主を戴くことになった松本家中への配慮を任せられたりするなど、細心の注意を払わなければならない役目を担わされているのは、能力があったればこそであろうから、主君の期待に応えるため、激務を懸命にこなしていたのではないだろうか。

 以上、山吉豊守の性質について、主に豊守が関与した取次事情から考えてみた。
 最初に示した通り、謙信の晩年、病気がちであったらしい豊守は、天正4年2月以降、重篤に陥ってしまったようで、同年秋に謙信が挙行した北陸遠征には、豊守の後継者であろう山吉米房丸が三条衆を率いて従軍している。ところが、天正5年9月までに、豊守と米房丸のどちらが先かは分からないが、ふたりは亡くなってしまったらしく、当主が不在の山吉家は改易に処されてしまい、辛うじて豊守の弟が家督を継ぐことは認められたが、三条城と領地の多くを召し上げられてしまった。
 豊守の父である山吉丹波守政久(恕称軒政応)は、謙信の実父である越後守護代長尾為景の功臣であり、兄の晴景に取って代わった長尾景虎にとっては、栃尾本庄氏・吉江氏らと並ぶ、はやくからの重臣であり、豊守自身は景虎の小姓を務めていたようなので、もしも兄の孫四郎が早世することなく、豊守が山吉家の当主になっていなかったら、吉江織部佑景資の次男である中条与次景泰のように、越後衆の有力者の名跡を継がされていたのかもしれない。


 ※ 直江景綱と河田長親の両人も、山吉豊守に負けず劣らず取次案件を抱えていたが、豊守の場合、難航した越・相一和についてのやり取りに多くの時間が費やされた。

 ※ 越・相同盟破談以降における山吉豊守の動向は、天正2年3月中旬、上野国北部に在陣中の謙信の許へ、関東へ出馬するにあたり、参陣を呼び掛けていた「東方之衆」の一員である常陸国衆の土岐大膳大夫治英が使者を寄越してきたので、18日に謙信が直書を発し、攻め落とした数ヶ所の敵地を厳重に確保しており、当地域の経略は思い通りに進んだこと、東方の諸士も参陣してくるそうであり、これから中央部へ進陣するので、事情が許すならば、今からでも駆けつけて健闘してもらいたいこと、「孫二郎かた」へ宛てた書状によれば、老母と幼少の息子が亡くなったそうであり、心中を察していること、これらを伝えており(『上越』1196号)、豊守が引き続き謙信と「東方之衆」との間の取次を務めている。
同年7月下旬、越府にいる謙信の許へ、相州北条陣営の攻勢にさらされている武蔵国衆の菅原左衛門佐為繁・木戸伊豆守忠朝・同右衛門大夫が使僧を寄越してきたので、26日に謙信が返書を発し、出馬の催促については、もれなく聞き届けたこと、相州北条氏政が上野国厩橋城へ向かっているとの情報により、急いで陣触れを申付けたところ、すでに敵軍が厩橋城に攻め掛けているそうなので、本日中に出馬すること、先遣軍が上野国沼田城へ向かっていること、自分が厩橋に着陣するまで、氏政が在陣していれば、この春中に対戦できなかった鬱憤を晴らせる機会が巡ってくること、これらを「山吉孫二郎」が詳報することを伝えており(『上越』1221号)、豊守が謙信と羽生衆との間の取次を務めている。
同年閏11月上旬に関東在陣中の謙信の許へ、陸奥国白川の結城義親が「会津・白川・佐竹」の三和について使僧を寄越し、三和の成就は佐竹次第であるとして、謙信の直書をもって佐竹義重を説き勧めることを求めてきたことから、3日に豊守が了承の返事を発しており(『上越』1237号)、豊守が謙信と前奥の諸士との間の取次も務めている。
某年7月9日、下野国衆の小山弾正大弼秀綱(号孝哲)が越府へ使者として派遣した重臣の岩上筑前守が上野国沼田城まで到来したところ、この知らせを受けた謙信は豊守を通じ、この困難な時局にもかかわらず、敵地を通り抜けて沼田まで到着したことを労い称えるとともに、当府までは遠路のため、沼田の河田伯耆守重親は、かつて沼田の実城に置かれた河田豊前守長親の叔父であり、河田長親と同様に万事を任されて要所の実城に置かれている人物であるから、信頼を寄せて直談してほしいことを伝えており(『上越』994号)、豊守が謙信と小山氏との間の取次を務めている。
このように諸勢力との間の取次を務めたほか、元亀3年夏以降、北陸戦線が一向一揆の攻勢によって乱れると、越中国に駐留する諸将からの報告を受けたり(『上越』1101・1102号)、謙信が出馬するまでの間、援軍として越中国へ向かった同輩の直江景綱から、状況の報告が寄せられるとともに、今後の指示を求められたのを取り次いだり(『上越』1110・1111号)、翌4年7月には、北陸在陣中の村上源五国清から、北陸戦線の状況や甲州武田信玄死去の情報などを伝えられたりしている(『三条』294号)。
それから、取次とは関係ないが、元亀4年5月には、謙信に滅ぼされた椎名康胤の旧臣が海賊化して越中・越後国境の海沿いの地域を荒らしていたことから、直江景綱と共に越中国境城へ城衆の加勢として遣わされており、珍しく、留守居以外の役目で謙信と離れて、短期間ながら在番衆を務めている(『上越』1158号)。

 ※ 山吉豊守と取次契約を結んでいた松本景繁が上野国沼田城の城将を退任したあと、繰り上がって後任となった河田重親と豊守がやり取りしている文書は見当たらず、越・相一和成立以前から、もともと輝虎の取次と沼田城衆が交信している文書が少ないとはいえ、謙信が河田重親と直接やり取りしているところを見ると、謙信は松本退任の経緯を慮り、敢えて沼田城衆との間には取次を介在させなかったのかもしれない。

 ※ 山吉氏の改易によって召し上げられた三条城については、天正4年に山吉豊守が重篤に陥り、幼主の米房丸が立てられた時点で、謙信旗本の神余小次郎親綱(父祖は長尾・上杉氏の在京雑掌を務めていた)に与えられた可能性がある(『上越』1483号)。それから、山吉氏の改易に伴い、新当主の山吉孫五郎景長と、三条衆のなかでも、三条城将に抜擢された神余親綱の許に配属されなかった者たちは、蒲原郡の木場城へ移されたとか、上杉景勝の上田衆に配属されたとか言われているが、景長(玄蕃允)が木場城に配置されたのは、天正8年5月頃(『上越』1967・2148・2149号)のことであるし、天正5年12月に謙信が作成した分国衆交名に、引き続き部将として「山吉」(『上越』1369号)が見えることから、山吉景長と三条衆が上田五十騎衆に配属されたのは謙信没後、景勝期に入ってからであろう。

 ※ 上杉輝虎(謙信)は苦境に陥って、自分の馬廻衆を要所へ派遣せざるを得なくなり、守兵が手薄になると、長尾景虎旗揚げ時からの重臣である本庄実乃(号宗緩)父子の「栃尾衆」、寵臣である河田長親の「河田(古志)衆」、甥である長尾顕景の「上田衆」を馬廻衆の代用としたが、それは山吉豊守の「山吉(三条)衆」も同様であった(『上越』613・1456号)。


「越後三条山吉家伝記之写」「解説」(三条市史編修委員会(編)『三条市史 資料編第二巻 古代中世編』)◆ 井形朝良(校)『山吉家家譜』(私家版)◆「毛利系譜」(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』名著出版)◆山本隆司(校)「高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』)◆「北越軍談 巻第四十 山吉玄蕃允豊守病死五十公野勘五郎寵遇新発田治長逆心発起事」(井上鋭夫(校)『上杉史料集(中)』新人物往来社)◆『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一』130号 天室光育書状、131・132号 長尾宗心書状(写)、291号 上杉政虎条目(写)、506号 上杉輝虎書状、594号 織田信長書状(写)、601号 朝比奈泰朝・三浦氏満連署状(写)、602号 遊雲斎永順書状、608・617号 織田信長書状(写)、621号 朝比奈泰朝・三浦氏満書状(写)、703号 柿崎景家・直江景綱連署状、814号 上杉旱虎書状(写)、931号 上杉輝虎書状、932号 上杉輝虎書状(写)、1059号 上杉謙信書状(写)、1076号 跡部勝資書状、1097号 小田氏治書状(写)、1114・1115号 上杉謙信書状、1211号 上杉謙信軍役状、1272号 梶原政景書状(写)、1315号 直江景綱等六名連署起請文(写)、1351号 三条領闕所帳、1352号 三条衆給分帳、1456号 上杉謙信書状 ◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1483号 神余親綱書状(写)、1586号 武田勝頼書状、3542号 祝儀太刀之次第(写) ◆『三条市史 資料編第二巻 古代中世編』99号 築地忠基書状、100号 長尾為景書状、101号 桃渓庵宗弘遵行状、102号 山吉能盛打渡状、115号 長尾為景書状、144号 山吉景盛寄進状写 ◆『新潟県史 資料編3 中世一』535号 山吉景盛書状 ◆ 米沢温故会(校)『上杉家御年譜 一 謙信公』(原書房)◆ 杉山博「上杉輝虎(謙信)と太田資正(道誉) -三戸文書の再検討-」(黒田基樹(編)『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』戎光祥出版)◆ 市村高男「武蔵国成田氏の発展と北条氏」(『戦国期東国の都市と権力』思文閣出版)◆ 黒田基樹「常陸小田氏治の基礎的研究 -発給文書の検討を中心として-」(『国史学』166号)◆ 丸島和洋「大名間外交と「手筋」-越相同盟再考-」(『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版)◆ 栗原修「上杉氏の隣国経略と河田長親」「上杉氏の沼田城支配と在城衆」(『戦国史研究叢書6 戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)◆ 丸島和洋「甲越和与の発掘と越相同盟」(柴辻俊六・黒田基樹・丸島和洋(編)『戦国遺文 武田氏編 第六巻』【月報6】東京堂出版)◆ 長谷川弘道「駿越交渉補遺-「書札慮外」をめぐって-」(久保田昌希・大石泰史(編)『戦国遺文 今川氏編 第二巻』【月報2】東京堂出版)◆ 新井浩文「岩付太田氏関係文書とその伝来過程」(『戦国史研究叢書8 関東の戦国期領主と流通 -岩付・幸手・関宿-』岩田書院)◆ 黒田基樹「富岡氏の研究」(『増補改訂 戦国大名と外様国衆』戎光祥出版)◆ 江田郁夫「元亀期の宇都宮氏 -甲相同盟と宇都宮家中-」(江田郁夫(編)『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』戎光祥出版)◆ 渡辺三省「兼続時代の開幕」(『直江兼続とその時代』野島出版)◆ 西澤睦郎「謙信と越後の領主」 池享「謙信の越後支配」 広井造「謙信の家臣団」(池享・矢田俊文(編)『定本上杉謙信』高志書院)◆ 竹田和夫「山吉景長」「山吉豊守」「山吉政久」「山吉能盛」戦国人名辞典編集委員会(編)『戦国人名辞典』(吉川弘文館)◆ 丸島和洋「信玄の拡大戦略 戦争・同盟・外交」(柴辻俊六(編)『新編 武田信玄のすべて』新人物往来社)◆ 阿部哲人「領国をまとめるために」「上杉氏の中枢を担って」(『直江兼続生誕450年 特別展 上杉家家臣団』米沢市上杉博物館)◆ 下山治久(編)『戦国時代年表 後北条氏編』(東京堂出版)◆ (池享・矢田俊文(編)『増補改訂版 上杉氏年表 為景・謙信・景勝』高志書院)◆ 平山優「甲相越三国和睦構想と甲相同盟」(『武田氏滅亡』角川選書)
コメント

長尾景虎~上杉輝虎期に発給された謙信文書のいわゆるa型花押と年次比定【2】

2019-02-08 20:26:21 | 雑考

 前項では、前嶋敏氏の『上杉輝虎発給文書の花押とその変更』で示された輝虎a型花押の分類から、輝虎期に据えられたa3型花押とa4型花押の使用時期は、永禄11年で区切れると考えましたが、これに則さない例外的な文書について検討します。


【史料1】永禄7年8月6日付広田式部大輔直繁宛上杉輝虎書状(782号)
来札披見、(上杉)憲盛其方以意見使者被越候、因茲、使被相添祝着候、彼方数年、不思義相隔候ぬ、無私儀候間、向後別可令入魂候、猶以内義之段、被相届尤候、先段如申越候、和睦任覚悟候上、今日六、当府迄(遂ヵ)出馬候、路次少不可有遅々候、有其心得早速参陳尤候、深谷有同陳可被相談儀千言万句極候、猶口上申含候、恐々謹言、
   八月六日       輝虎(花押a3)
      広田式部太輔殿

 当文書を『謙信書公集』は永禄12年に年次を比定しており、これに諸史料集も従っている。
 同年6月に一旦、越・相同盟が成立すると、それに伴い輝虎は関東味方中の広田式部大輔直繁・木戸伊豆守忠朝兄弟に対し、これ以前は、越後国上杉陣営と相州北条陣営の間を変転とし、当時は後者に属していた深谷上杉 憲盛(左兵衛佐を称したか)を自陣営へと帰参させるように指示しており、その役目が果たされたことが分かる上杉憲盛、木戸忠朝書状(772~774号)といった一連の文書に続くものであるのは、当文書における「彼方(上杉憲盛)数年、不思義相隔候ぬ」「向後別可令入魂候」「深谷有同陳…」といった文言によって明らかであろうから、永禄12年の比定に誤りはないものと思われる。
 ところが、当文書には永禄11年以前に使用されていた輝虎のa3型花押が据えられているのである。


※ 当文書には「今日六、当府迄出馬候」と書かれているわけであり、当事者の上杉輝虎が「当府」と言っているのだから、越府と考えるのが自然であろう。しかしながら、輝虎は関東味方中の広田・木戸兄弟へ「参陣」を求めており、相州北条軍と激しく争っている最中の永禄7年に、ほぼ相州北条家の領国と化している武蔵国の国衆である広田・木戸兄弟を越府へ呼び寄せるような状況にはなかったし、そもそも、越府の主である輝虎が「当府迄出馬候」と言っていることに違和感を覚えたので、越後国上杉家の関東における拠点を指している場合も考えてみたが、上野国沼田城や厩橋城を「当府」と呼んだ形跡はなかった。
 そこで、ほかの可能性を当たってみたところ、永禄12年8月18日付千葉胤富宛北条氏政書状(『戦国遺文 後北条氏編』1299号)には「輝虎去六日越府出張必定候、」と書かれており、8月6日に輝虎が越府を出立する予定であったことが分かった。そうなると、「当府迄出馬候」は、相州北条家へ伝えていた通りに関東へ向けて出馬したものと解釈できることから、「迄」の字は、草書体が似ている「遂」と読むべきではないだろうか。

※ 当時、広田直繁はすでに「出雲守」を通称していたが、輝虎は「式部大輔」と書き続けており、永禄13年2月28日に発給した書状から、ようやく「出雲守」と宛名書きしている(885号)。


【史料2】永禄9年正月7日付小貫佐渡守頼安宛上杉輝虎書状写(546号)
   ○前欠
不被違約、去五日、(佐竹)義重出張之由、併其方稼故感悦候、陣所何方候哉、兎角早々有同陣、万端意見候様諷諫任入候、為其為迎開発中務丞差越候、猶巨細彼口上申含候間、不能一二候、恐々謹言、
  追梅紅斎(岡本禅哲)・和田安房守(昭為)江も可申候共、返
  札可為造作候間、無其儀候、其方心得頼入候、以上、
    正月七日       輝虎(花押a4影)
      小貫佐渡守殿

 当文書を『越佐史料』などが年次を永禄10年に比定したのは、常陸国衆の佐竹次郎義重が正月5日に出陣したという記事と、正月28日付佐竹義重宛上杉輝虎書状写(547号)に「今朝廿八河西着陣」とあり、上野国沼田城に在陣中の輝虎が、この日の朝に佐竹軍が下野国河西地域(鬼怒川以西)まで進軍してきたとの情報を得たという記事を関連付けたからではないだろうか。
 しかしながら、当文書には永禄11年から使用された輝虎のa4型花押が据えられているとなると、発給された年次が永禄11年から同13年(元亀元年)のいずれかの年であることも考えてみなければならない。
 そうなると、当文書における輝虎が、自陣への合流を求めている佐竹軍を先導させるために旗本衆の「開発中務丞」を佐竹次郎義重の許へ派遣していることと、関東在陣中であることに留意するべきであろう。
 この二点を踏まえて検討してみたところ、11年の当該期には本国で北陸遠征を控えており、その後に予定を変更して関東へ出馬するようなことはなかった。12年の当該期には、佐竹義重の許へ「開発中務少輔(丞)」を派遣している(670号)が、それは、反乱を起こした越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長を攻めている最中の越後国村上陣からであり、これも関東へは出馬していない。残る13年の当該期には関東在陣中であり、永禄12年冬に関東味方中の同陣を呼び掛けるため、重臣の松本石見守か「開発」を上野国新田の地へ派遣しようとしていたので(822号)、13年に比定できるかと思いきや、この年の春に佐竹義重とその客将である太田道誉・梶原政景父子を説得して佐竹軍を先導するために太田父子の許へ派遣されているのは、「開発中務丞」ではなくて、やはり旗本衆の「大石右衛門尉」(846・870・892号)であった。
 こうなると、13年の佐竹義重は全く参陣してくる気配がみられなかったのに対し、10年には下野国まで進陣してきたのは確かであるから(『戦国遺文 後北条氏編』1005号)、『越佐史料』などによる10年の比定に誤りはなかったようである。


【史料3】永禄9年4月24日付河田豊前守長親宛上杉輝虎書状写(456号)
其元之模様余無心元之間、金津新兵衛尉・村上方・桃井・堀江駿河守・新発田右衛門大夫・喜平次(長尾顕景)者共為先、長井可被為陣取候哉、其地人衆差越得、倉内之備計相見之候間、従長井当地迄人数置続、以其惣之後詰成之度候間、併如何可有之候哉、丹後守(北条高広)意見相尋、急度可申越候、謹言、
    四月廿四日      輝虎(花押a4影)
      河田豊前守殿

 当文書の発給年次は、書中にみえる、上杉輝虎の甥である「喜平次」こと長尾顕景(上杉景勝)が上田長尾氏の当主として文書に現れるのは、その顕景の実父である上田長尾越前守政景が横死してしまった永禄7年7月以降であり、宛所にみえる、越後国上杉家の上野国沼田(倉内)城代である河田豊前守長親が城代の任を解かれたのは、関東味方中の離反が相次ぐなか、ようやく輝虎が関東へ出て来られた同9年11月頃であるから、8年か9年のどちらかの年となる。
 当該期の前後、8年の方は、輝虎が越前国朝倉義景との盟約による北陸遠征を取り止めにしてまで、関東へ向けて出馬したにもかかわらず(452・453号)、「越国有造意」といった事態に見舞われて、上・越国境から越府へ引き返さざるを得なくなってしまい(『戦国遺文 房総編』1177号)、当文書に「其元之模様余無心元之間」とある通り、輝虎自身の不在による前線の防備が気掛かりであったと考えられるのに対し、9年の方では、まだ若年のために出陣はしていない長尾顕景が、輝虎による関東遠征に従軍して戻ったばかりの上田衆に、晩春の下総国臼井城攻めにおける戦功を称えて感状を与えていたり、帰陣して間もない輝虎は、願文を認めていたり、内政に取り組んでいたりしていて(509~511・513号)、総州経略は果たせなかったがために、関東味方中が大挙して離反するのを知るのは、もう少し先であるからか、まだ再出馬や先遣軍を繰り出すような様子は感じられない。
 しかしながら、輝虎が9年5月から7月にかけて、上野国厩橋城代の北条丹後守高広から、甲州武田軍が上野国安中方面に現れたとの急報、それは誤りであったとの続報、沼田城へ襲来するとの確報を受け(457・458・464・465号)、長尾顕景配下の上田衆に沼田城への急行、待機、また急行を指示するため、顕景の一族、重臣である大井田藤七郎・長尾伊勢守、栗林次郎左衛門尉へ宛てた書状群の初信において、輝虎は上田衆の「両度之陣労労兵」を気に掛けながらも出陣の指示を与えており、この「両度」とは、8年仲冬から9年初夏にかけて挙行された関東遠征における従軍と、当文書で指示された先遣軍の一手として関東に在陣したことを指しているのか、それとも、関東遠征から帰陣したばかりであるのに、また越山することになってしまうことを指しているのか、前者であれば、文句なしで9年に比定できるのだが、この書状群を読んだ限りでは、当文書の受給者である河田長親が沼田城にはおらず、本国に滞在していたようなので、どうにも判断が難しい。そもそも、予定通りに先遣軍が出陣したのかも分からない。
 いずれにしても、当文書には永禄11年から使用された輝虎のa4型花押が据えられており、輝虎は8年にはa・e1型、9年にはe1・e2型を使用していたようであることから、取り合えず当ブログでは『越佐史料』『上越市史 上杉氏文書集』などの年次比定に従って永禄8年の発給文書として引用した。
 ただし、早稲田大学図書館所蔵の当該文書写の画像を見た限りでは、この花押影は精巧さを欠いており、実際はa3型が据えられていた可能性もある。


※『越佐史料』『上越市史 上杉氏文書集』などでは、上杉輝虎が大井田藤七郎・長尾伊勢守・栗林次郎左衛門尉や河田豊前守へ宛てた書状の年次を永禄8年に比定、あるいは仮定されているが、黒田基樹氏の「上杉謙信の関東侵攻と国衆」では、上杉輝虎のe2型花押の使用時期により、永禄9年の発給文書とされていることから、こちらに従った。


【史料4】永禄10年3月15日付白川七郎義親宛上杉輝虎書状写(503号)
雖未申通候、馳一翰意趣、佐竹義重累年申談、此度同陣悉皆表裏之刷、兼日之入魂相違候、然、那須資胤懇意之由候間、輝虎儀向後可申合候、御同意可為本望候、盛氏父子(蘆名止々斎・同盛興)不被存等閑候、猶北条丹後守(高広)可申候、恐々謹言、
    三月十五日      輝虎(花押a3影)
      白川七郎殿

 当文書を『越佐史料』『新潟県史 資料編』は永禄10年に比定しているが、『上越市史 上杉氏文書』は同9年に比定している。後者が年次を改めたのは、すでに10年には越後国上杉家側の取次であった北条丹後守高広が主家から離反し、相州北条・甲州武田陣営に属している時期であったからであろう。
 しかしながら、書中に「佐竹義重累年申談」とあるのは、常陸国衆の佐竹次郎義重の父である佐竹右京大夫義昭が永禄8年に若くして亡くなるまで、この佐竹義昭が佐竹氏の当主であったのだから、上杉輝虎と佐竹義重がやり取りするようになって、まだ一年も経過しておらず、とても9年の状況を表しているとは考えられなかった。
 当文書では輝虎が佐竹氏と対立する勢力と提携しようとしているわけであり、その時期を当たってみると、永禄13年正月26日付梶原源太宛上杉輝虎書状(870号)によれば、輝虎が佐竹氏の客将である梶原源太政景に対し、味方中の佐竹義重が一向に参陣してこないので、待ちくたびれていることや、このまま佐竹軍が同陣しないのであれば、反佐竹勢力と手を結ぶしかないことを伝えているので、まさしく輝虎が反佐竹勢力の白川結城七郎義親と提携するための交渉を始めるような状況であった。さらには、同年3月28日付柿崎和泉守・山吉孫次郎宛北(佐竹)義斯書状写(901号)では、佐竹氏側は弁明するための使僧を関東在陣中の輝虎の許へ派遣し、上杉家側の取次である柿崎景家・山吉豊守と北条高広が協力して輝虎へ取り成してくれることを期待しており、当該期には北条高広の上杉家帰参が認められていたようである。
 こうしたことから、当ブログでは永禄13年の発給文書として引用したわけであるが、当文書には永禄11年以前に使用されていた輝虎のa3型花押が据えられているのである。そして、これと関連する4月7日付白川七郎宛上杉憲政書状写(557号)では、当時の憲政は「光徹」と号していたにもかかわらず、「憲政」と署名がなされており、いずれも特例な文書であったと考えられなくもない。それは、この上杉輝虎と白川義親の初交渉は、憲政書状によると「密事」であったから、敢えて輝虎はa4型花押ではなくてa3型花押を据えたのかもしれないし、憲政は通りの良い実名を書いたのかもしれない。
 ただし、憲政の署名については、何分、写された文書であるから、実際は法号で書かれていた可能性もある。


【史料5】年次未詳7月23日付安田惣八郎顕元宛上杉輝虎一字状(996号)
今度隠遁之供神妙候、依之、一字望候間、顕出候、当家有謂字之由、仰出候也、仍如件、
    七月廿三日      輝虎(花押a4)
      安田惣八郎殿

 上杉輝虎が「隠遁」を決意するほどの強烈な出来事があった年といえば、輝虎との盟約によって関東へ下向してきた関白近衛前久と決別した永禄5年か、輝虎の上洛を切望していた将軍足利義輝が横死してしまった同8年が考えられる(337・347・459・460号)。
 ところが、当文書には永禄11年から使用された輝虎のa4型花押が据えられているのである。
 そこで、輝虎が、同盟国の相州北条家から養子を迎え、有髪のまま出家して謙信と号した元亀元年の可能性を探ってみたが、当該期には、輝虎の発給文書こそ見当たらないが、側近の山吉孫次郎豊守を通じて、北条家側と当秋の関東遠征における同陣を巡って交渉しており(920号)、「隠遁」しようとしていた様子は窺えなかった。 


 以上、永禄11年を境に使用期間が区切られる上杉輝虎のa3型花押とa4型花押が据えられた文書には一部の例外があるので、それらの文書について検討してみました。
 永禄年間の後期にa3型とa4型が混在していることについて、どうしてなのか、はっきりしたことは分かりませんが、自分の試みた年次比定が全くの見当違いでなければ、ここで示しました事例以外にも、前嶋氏が示されているように、今のところ長尾景虎の最初の発給文書である本成寺へ宛てられた安堵状写にはa4型花押が書き写されていたり、輝虎の一字状(名字書出)には特異な花押が据えられていたりしますし、気が付いたところでは、謙信期になりますが、甥の長尾顕景(上杉景勝)へ宛てられた書状に据えられている花押の一部に書き忘れがあったりしていますので、当然ながら輝虎とて数種類ある花押を取り違えることもあったでしょうし、当事者以外はa3型花押とa4型花押の区別があるなど知る由もなかったはずでしょうから、時には誤った花押が据えられたり、写されてしまったりした場合があったのかもしれません。


 【Ⅰ】   【Ⅱ】   【Ⅲ】


※【Ⅰ】の上杉輝虎が揚北衆の色部弥三郎顕長へ宛てた名字書出に据えられた花押は、a型とd型が混ざっている異質のものである。

※【Ⅱ】と【Ⅲ】の謙信花押を見比べると、【Ⅱ】の方は左側上部で結ばれた「へ」の字のような部分には、上に打たれるべき跳ね上げた点と右側の一段目から斜め下に引かれるべき曲線が書き忘れられている。


前嶋敏「上杉輝虎発給文書の花押とその変更」(『新潟史学』第73号)、黒田基樹「上杉謙信の関東侵攻と国衆」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)◆『越佐史料 巻四』◆『上越市史 別編1 上杉文書集一』337・347号 近衛前久書状(影写)、452・453・457・458号 上杉輝虎書状(写)、464・465号 上杉輝虎書状、459号 朝倉景連・山崎吉家連署状、460号 朝倉景連書状、509号 長尾顕景感状、510号 長尾顕景感状(写)、511号 上杉輝虎願文、513号 上杉輝虎朱印状(写)、557号 上杉憲政書状(写)、670号 上杉輝虎書状(写)、772・773号 上杉憲盛書状、774号 木戸忠朝書状、822・840・846・870・885・892号 上杉輝虎書状(写)、901号 佐竹義斯書状(写)、913号 北条氏康書状、914号 上杉輝虎書状、920号 山吉豊守書状案、940号 上杉謙信書状 ◆ 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 別冊』1号 長尾景虎安堵状、445号 上杉輝虎名字書出 1456・1459号 上杉謙信書状 ◆『戦国遺文 後北条氏編』1005号 北条氏政書状写 ◆ 『戦国遺文 房総編』1177号 千葉胤富書状 ◆〔早稲田大学図書館 古典籍総合データベース〕上杉輝虎書状写
コメント

長尾景虎~上杉輝虎期に発給された謙信文書のいわゆるa型花押と年次比定【1】

2018-11-22 19:28:48 | 雑考

 前嶋敏氏の論考である『上杉輝虎発給文書の花押とその変更』を読む機会に恵まれたところ、越後国上杉謙信が使用した数種類の花押のうち、生涯を通じて使用したa型花押は、「花押上部の署記法の違いから、大きく四種類に分類することができる」という知見を得ることができました。
 それぞれの型には使用期間があり、おおむね、a1は天文21年12月5日以前、a2は同22年8月4日、a3は弘治2年8月17日、永禄3年8月25日~同7年8月6日、同10年3月15日~同年10月13日、同12年正月8日、a4は同9年正月7日~同年11月16日、同11年2月15日~同年11月晦日、同12年2月10日以降というように考えられています。

a1   a2   a3   a4

 前嶋氏が、a型花押の書き始めとなる左側上部の一画目の形状に着目されて、四種に分類をされた型の違いを、自分なりに表現しますと、a1型は、筆を縦に入れて、右へ膨らみ弓なりに引き下げた線を軽く結んで、右に跳ね上げた線をまた弓なりに引き下げて中心線とした筆記体の「y」の字のような形、a2型は、1型とは逆に、わずかに引き下げた線が左に膨らんでいるので、より「y」の字に近い、a3型は、筆を横に入れて、やや上向きに溜めをつくった程度に横線を引き、そこから少し左斜めに引き下げると、それを右上に少し引き上げ、曲がりを引いて(直線的に引き下げている場合もある)中心線とした「了」や「ろ」の字のような形、a4型は、基本的にa3型と同じで「了」の字のような形で中心線が引かれているが、一画目がはっきりと引かれて、やや上向きの横線を軽く結んで左斜めに引き下げているので、「ろ」ではなくて「ち」の字のような形、といった感じです。ここで気になったのは、わずかに一点のみが残存するa2型であります。その書きぶりからして、a3型に含めても良いように見えました。
 そして、当ブログの長尾景虎・上杉輝虎の略譜では、『上杉輝虎発給文書の花押とその変更』における長尾景虎・上杉輝虎発給文書一覧での年次比定とは異なる箇所がありまして、この分類と照らし合わせてみましたところ、その使用期間は、一部の例外を除き、a1は天文21年12月5日以前、a3は弘治2年8月17日から永禄10年まで、a4は同11年から輝虎(謙信)が生涯を閉じるまで、というように、かなり整理できるのではないかと思われました。そこで、一点のd型、三点のe1型花押が据えられた文書を含め、そのように年次を改めた理由を示しますとともに、略譜の方にはa型の三種類の数字を付け加えさせてもらいます。


【史料1】天文22年8月4日付長尾越前守政景宛長尾弾正少弼景虎書状(『上越市史 上杉氏文書集』150号。以下、番号のみは同書からの引用になる)
今度以安田方(長秀)条々被仰越候、御存分之通、具承分候、然、御出陣之上、御留守にいたつて、自然之義ハヽ、御進退のき不可致見除由、暮々承候、是又御よきなきまてに候、既信州之面々衆一旦申通義をもつて、数年及加勢候、今日にいたるまて令劬労候、況一方ならさる子細ともに候間、争貴所御事可見除候哉、其巨細安治(安田治部少輔長秀)申分け候、併於御心腹御頼敷候、此うへにおいて、若御疑心之義ハヽ、以誓書可申宣候、委細彼方可有雑談候、恐々謹言、
             弾正少弼
    八月四日       景虎(花押a2)
    越前守殿
 
 当文書で長尾景虎は、「既信州之面々衆一旦申通義をもつて、数年及加勢候、」と述べており、景虎が信濃国衆に加勢するようになってからは数年が経過しているわけで、景虎が初めて信濃国へ出馬した天文22年にはそぐわない内容であることから、『上越市史 上杉氏文書集』が仮定している通り、弘治3年の発給文書として引用した。

※ この文書の花押は唯一のa2型であり、弘治3年当時、すでにa3型へ移行しているが、a3・a4型と同じく書き出しを右上に引き上げる筆の運びであり、軽く溜めをつくる程度の横線の書き出しが深く入り過ぎた影響からなのか、以下の線がつぶれてしまい、あのような書きぶりになってしまったように見えるので、a3型に含めても良いのではないか。


【史料2】永禄5年2月朔日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(306号)
態申遣候、早々可出馬之処、諏方晴信(武田信玄)取懸間、無心元之間延引、於彼口安中得大利、敵数多打捕候、此上片時行可相急候、来五日義定向佐野可相動候間、其方事有用意人数打振可召連候、少不可有油断候、館林懇切之由申越候、喜入候者也、
    二月一日        輝虎(花押a3)
      富岡主税助殿

 上杉輝虎は、上野国衆の富岡主税助が味方中であった永禄5年から同9年の間、途中で富岡へ宛てた書状の書き止め文言を「恐々謹言」から「謹言」に変えたばかりか、一時的に、言い切りの「也」に変えている。それは永禄7年3月24日に輝虎が富岡に対し、従属して以来の忠信を称えて本領と係争地を安堵した(398号)のを契機に、富岡は山内上杉家の直臣となったからであり、ここを境として輝虎の富岡に対する書札札が薄礼化したと考えられることと、薄礼化が始まって以降、輝虎が「佐野」に在陣する(489号)ような状況であったのは、永禄9年の春であることから、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料3】永禄5年3月15日付金津新兵衛尉ほか七名宛上杉輝虎書状(313号)
春日・府内・善光寺門前、其外所々火之用心之義付、重申遣候、以時夜行立之、堅可及其政道候、惣別日暮候、町人衆往行可相止候、如何共ねらい候て、火付可及成敗候、あやしき者目合申候ハヽ、不及註進、於立所可成敗候、若又、町かたの者と見儀候者、からめおき、せんさく可申候、からかい候ハヽ、是を立所にて可有成敗候、少茂油断存候、不可有其曲候、善光寺町信州の者共おほく候間、やき取なとに火付候事可有之候、火出候ハヽ、双方三間之者共可及成敗候、是急申つけ、用心させへく候、府内へも可申触候、自然、何事於有之者、如来たうをけんこにいたすへき由、新発田(忠敦)所かたく可申届候、奉公人・らう人共候と、あやしき者にて候ハヽ、無是非可成敗候、往ふく以下迄入念候、せんさく簡心候、此段尾張守(新発田尾張守忠敦)かたへ可申候、此外不申遣候、謹言、
    三月十五日       輝虎(花押d1)
      金津新兵衛尉殿
      本田右近允殿殿
      吉江織部佑殿
      高梨修理亮殿
      小中大蔵丞殿
      吉江民部少輔殿
      岩船藤左衛門尉殿
      吉江中務丞殿   

 【訂正1】のなかで示した理由により、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料4】永禄6年4月朔日付栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎書状【a3】(506号)
猿京近辺之証人共、従倉内其地差越之由候処、于今不請取之段、無曲候、早々請取之用心堅申付、其元可差置候事、専一候、謹言、
  追、本庄新左衛門尉仕合不及是非候、就之浅貝為寄居、倉内
  之往覆自用候様畢竟吾分前可有之候、か様之時候間、其稼簡
  要候、以上、
    四月朔日       輝虎(花押a3)
      栗林次郎左衛門尉とのへ
 
 上杉輝虎が上田長尾越前守政景と交信する際、上田衆の栗林次郎左衛門尉を介した文書は見当たらず、永禄7年に長尾政景が横死したのち、後継者となった長尾喜平次顕景が幼年のため、輝虎が上田衆と交信する際には上田長尾一族の大井田藤七郎・長尾伊勢守、そして栗林の三人へ宛てて書状を送っており(457・458・465号)、栗林が長尾顕景の陣代として単独で輝虎と交信するようになるのは、永禄9年7月19日以降であることと、同9年末に関東代官の北条丹後守高広が相州北条・甲州武田陣営に寝返ってしまい、上・越国境が不安定に陥り、輝虎の関東在陣中、増援軍を率いて上・越国境付近を通っていた部将の本庄新左衛門尉が何らかの事故に見舞われるなどしてしまったので、上野国「猿京」周辺の地衆から証人を取らなければならなかったり、越後国「浅貝」の地に寄居を築かなければならなかったりしたのだと考えられることから、永禄10年の発給文書として引用した。


【史料5】永禄6年4月10日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(508号)
従深谷至于其地、被成懸助之処、引付突出、凶徒数百討捕、残党利根河逐入之由、其聞候、心地好候、乍不初義、戦功無比類候、弥相挊簡要候、猶、河田豊前守(長親)可申遣候、謹言、
    四月十日       輝虎(花押a3)
      富岡主税助殿

 306号と同様に書き止め文言が「謹言」であること、『上越市史 上杉氏文書集』が比定した永禄9年の当該期、富岡主税助は上杉輝虎の総州経略に従軍しており(481号)、4月10日以前に居城の上野国小泉城で相州北条方の軍勢と戦うような状況にはなかったこと、永禄8年には、富岡に加勢した深谷上杉氏は相州北条陣営に帰属していること、残る永禄7年の当該期、輝虎は、関東遠征を終えて帰府したばかりか、その途中であろうことから、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料6】永禄6年10月16日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(355号)
当秋先年動事涯分雖相急、爰元皆共不調故遅々、境節晴信(武田信玄)出張、兼日如申遣、今般為可付是非不聞敢、既至于半途出馬之処、凶徒無程退散、従方々注進同前之間、一旦休人馬候、然諸口火急、畢竟油断無曲旨、北条丹後守(高広)催促度々到来、尤無余義候条、来廿日必可出庄候、其元可打着間之事、堅固之備簡要候、為意得先以飛脚馳筆候、謹言、
    十月十六日      輝虎(花押a3)
     富岡主税助殿

 306・508号と同様に書き止め文言が「謹言」であり、「皆共不調故遅々」という状況は信濃国川中嶋陣の直後で、人員がなかなか集まらなかったのであろうことから、『群馬県史 資料編』が比定している通り、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料7】永禄7年正月6日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(958号)
横瀬雅楽助(成繁)館林為後詰、可相動候間、其方事、有同心可相挊候、少有油断無其曲候、猶、従河田(長親)所可申遣候者也、
    正月六日       輝虎(花押a3)
      富岡主税助とのへ

 306号と同じ理由であることに加え、富岡と上野国「館林」の足利長尾景長との関係性が焦点となっていることと、書き止め文言が言い切りの「也」で締めくくられていることから、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料8】永禄7年正月24日付富岡主税助宛上杉輝虎書状写(483号)
向佐野廿六日出馬候、日限之可相違候、急度有用意出陣簡要候、仍天徳寺(宝衍)南相通之段、従館林申越候、定近日可帰候間、如何共出京(庄)候、擬之見可申者也、館林懇之由、従両人所申越候、感之迄候、
     正月廿四日      輝虎(花押a3)
       富岡主税助とのへ

 306・958号と同じ理由であることに加え、書き止め文言が両文書とは異なり、「也」ではなくて「候」で締めくくられているが、「謹言」でもないことと、宛所の敬称が958号と同じく仮名書きであることから、『上越市史 上杉氏文書集』が比定している通り、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料9】永禄7年4月9日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(403号)
今月十三日向和田及行候、人衆打振、取急北条丹後守(高広)令与力、可走廻候、謹言、
    四月九日       輝虎(花押a3)
      富岡主税助とのへ

 当文書の上杉輝虎は、4月13日に上野国和田城を攻めるつもりでいたわけだが、すでに永禄7年3月7日から、少なくとも中旬までは上野国和田城を攻めていた(395・398号)。一旦、撤収したのち、再び攻撃しようとしていた可能性もあるだろうが、輝虎は遅くとも4月20日には帰国しており(404号)、『上越市史 上杉氏文書集』の年次比定には従えなかった。宛所の敬称が483・958号と同じく仮名書きであることなどから、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料10】永禄7年7月16日付三戸駿河守宛上杉輝虎書状(422号)
態申送候、今度相守筋目、岩付之地引切、無二太田美濃守(資正)同心、対大途忠信不浅候、弥以本意稼可為簡要候、諸事従河田豊前守(長親)所可▢▢(申候ヵ)、恐々謹言、
    七月十六日      輝虎(花押e1)
      三戸駿河守殿

 上杉輝虎がe1型花押を使用していたのは、永禄7年から同9年の三年間になる。関東味方中の「太田美濃守(資正)」が、相州北条陣営に寝返った長男の太田源五郎氏資によって居城の武蔵国岩付城から追放されたのは永禄7年7月23日であり(429号)、この年に太田資正の妹婿である三戸駿河守が岩付城から離脱し、各地を転々としていた資正の許へ駆けつける状況ではないことと、同9年には5月末、遅くとも7月19日からe2型花押が使用されることから(457・458・465号)、『埼玉県史 資料編』が比定している通り、永禄8年の発給文書として引用した。


【史料11】永禄8年4月3日付長尾左衛門尉憲景宛上杉輝虎書状(507号)
至于其地、武田晴信(信玄)相動処、城内堅固、依之、無差儀退散之由、注進、稼之通、無比類候、一両日中厩橋可帰城候条、其口仕置等可申付之条、不具候、謹言、
    四月三日       輝虎(花押e1)
      長尾左衛門尉殿

 上杉輝虎がe1型花押を使用した間、永禄7年の当該期、輝虎が上野国和田城を攻めていたので、甲州武田信玄が白井長尾氏の居城である同国白井城を攻めるような状況にはなかったこと、同8年の当該期、輝虎が「越国有造意」といった事態に見舞われ、進軍の途中で引き返し、関東遠征を取り止めており(『戦国遺文 房総編』1177号)、当文書における「一両日中厩橋可帰城可候条」というような状況にはなかったこと、残る同9年の当該期、輝虎による総州経略に白井長尾左衛門尉憲景は従軍しておらず(481号)、攻め寄せてきた甲州武田軍と戦っていてもおかしくはない状況であったことなどから、『上越市史 上杉氏文書集』が仮定している通り、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料12】永禄8年6月26日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(463号)
態申遣候、初夏以来度々如相届、来月中至于武・上可進発覚悟候処、信・甲之間吉事之子細依有之、来八日彼口先可出馬相定候、然、(北条)氏康可及後詰之間、東口諸味方中、至于上州打着、南方之動、可被相押由及行候、吾分事、各以前令出陣、北条丹後守(高広)相談、可走廻事、専一候、猶小野主計助口上可有之候、謹言、
    六月廿六日      輝虎(花押e1)
      富岡主税助殿

 上杉輝虎は7月8日に信州口へ向けて出馬するつもりでいたことが、永禄7年6月25日付富岡主税助宛上杉輝虎書状と7月6日付「常府(常陸国衆の佐竹氏であろう)参人々御中」宛北条丹後守高広書状写(416・421号)と一致していることから、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料13】永禄9年2月8日付北条丹後守宛上杉旱虎書状(485号)
専柳斎(山崎秀仙)可越由候つる間、午刻迄相待候共、不越候条、早飛脚越候、
一、小貫(頼安)孫次郎(山吉豊守)相尋分去春沼田迄遂当地之儀不承候処、達(佐野)昌綱御済、屋形彼者被思召替歟之由、申理候処、今日迄同陣延引別之儀無之候、始(佐竹)義重家中同陣之者共之証人可被為取由、堅承届候条、此一ヶ条至相澄、当陣押すごして陣取可申由候、今日迄、加様之儀心ニも存儀無之候、為如何子細候哉、併皆川(俊宗)之証人、此次而ニ取度事候、此返事如何可申候哉、工夫候、
一、先一札出、同陣候其上義重令談合、皆川之仕置おハ可成之候歟、当地一途候、以後々々皆川計輙候、先請乞申、同陣候、一功之上、仕置成安候、縦関東之証人悉取候共、如先年大途之破候証人可捨候、義重同陣候て、当地落居、大途之備直り候、其身共可持出候歟、於啐啄、此証文出、同陣之儀可為急候、其為認越申候、義重之一札候、謹言、
   二月八日       旱虎(花押a4)
     北条丹後守殿

 今福匡氏の論考である「「旱虎」署名の謙信書状について」によると、上杉輝虎が「旱虎」を併用した時期は永禄12年と元亀元年(永禄13年)の二年間に限られ、宛所の上野国厩橋城代である北条丹後守高広の動向により、後者の元亀元年に比定されていることから、これに従って、永禄13年の発給文書として引用した。


【史料14】永禄9年2月13日付長尾喜平次宛上杉旱虎書状(308号)
  返々、細々いんしんよろこひ入候、手弥あかり候へは、手本まいら
  せ候、以上、
入心さひ/\音信、ことに為祈念まほり巻数、よろこひ入候、爰元やかて隙あけ、帰府のうへ可申候、謹言、
    二月十三日      旱虎(花押a4)
      喜平次殿
 
 485号と同じく今福氏の論考において、上杉輝虎が甥の長尾喜平次顕景に贈ったとされる永禄11年10月年吉日付「消息手本」(『大日本古文書 上杉家文書』959号)との関連により、永禄12年とみられていることから、これに従って、永禄12年の発給文書として引用した。


【史料15】永禄9年10月13日付小中大蔵丞宛上杉輝虎書状(535号)
黒岩・なくる見之地下人相調、両地堅固之由、孫次郎方(山吉豊守)迄申越候、是吾分稼故神妙候、併余相調候間、無心元由無余義候、至于其儀、頭立之者之証人五人十人取出差置、其地、定別条有間敷候、若別条之者候、彼証人差置候者可告来候、其地之近辺候間、頓懸移、於仕置成、為差義有間敷候、然、新発田右衛門大夫・河田伯耆守懇比候間可然候、何間悪由其聞不可然候、謹言、
  追、見事之釜、喜入候、以上、
    十月十三日      輝虎(花押a4)
       小中大蔵丞殿

 当文書の発給年次は、永禄5年から上野国沼田城代を務めた河田豊前守長親、書中に現れる沼田城衆のひとりである新発田右衛門大夫、このふたりの任期から考えて、同9年から同11年の三年間に絞り込める。上杉輝虎は、永禄9年の当該期、10月11日に関東へ向けて出馬し、同22日には上野国沼田城に着陣したようであり(534・537号)、同10年の当該期、10月24日に、同じく沼田城に着陣しており(586号)、両年とも10月13日には出府しているか、その直前であったはずだが、当文書における輝虎にはそうした様子は窺えない。そして、残る同11年の当該期は、甲州武田・相州北条陣営に寝返った越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長の反乱により、越中・信濃・上野との国境が深雪で閉ざされるまで越府を離れられなかった(612・613号)。これは、輝虎が同年10月16日に沼田城衆の松本石見守(景繁)・河田伯耆守(重親)・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫へ宛てた書状において、10月17日に予定していた越後国村上の地へ向けての出馬を同20日に変更したことを伝えており(619号)、在府していたのは確かであることから、永禄11年の発給文書として引用した。

 
【史料16】永禄9年11月16日付山吉孫次郎宛上杉旱虎書状(949号)
松本石見守(景繁)仕合、年月辛労心尽、有堺目成之候条、一入不敏無極候、併息有之儀候間、彼者家中之者取立、如前々可走廻事、簡要候、自然、牢人被官散失候、無曲由、家風・同心堅可申付候、謹言、
    十一月十六日     旱虎(花押a4)
       山吉孫次郎殿

 今福氏の論考を踏まえたうえで、上杉輝虎は元亀元年8月下旬から同年9月中旬の間に謙信と号するようになること(931・932・939・940号)と、永禄12年の秋頃に松本石見守景繁は上野国沼田城将を退任していること(769・820・822号)から、永禄12年の発給文書として引用した。


【史料17】永禄10年4月20日付上倉下総守ほか宛上杉輝虎書状(604号)
為其口備、安田惣八郎(顕元)人数岩井備中守(昌能)相添差越候、如聞之、何在所有之故、今度無四度計仕合出来、無是非候、所詮向後、皆々有在陣、堅固之仕置専一候、陣所之事、於其元談合候、可然様見量簡要候、猶子細備中守可有口説候、謹言、
  追、近日可取出候間、各有談合、如何共其内堅固之具簡要候、以
  上、
    四月廿日       輝虎(花押a3)
      上倉下総守殿
      奈良沢民部少輔殿
      上堺彦六殿
      泉弥七郎殿
      尾崎三郎左衛門尉殿
      中曽根筑前守殿
      今清水源花丸殿

 当文書で上杉輝虎は、信・越国境の信濃国飯山城を守る信濃(外様平)衆の上倉下総守・奈良沢民部少輔・上堺彦六・泉弥七郎・尾崎三郎左衛門尉・中曽根筑前守・今清水源花丸に対し、「何在所有之故、今度も無四度計仕合出来、」と述べており、彼ら外様平衆が以前にも同様の失態を犯し、甲州武田方の軍勢の攻撃を受けて、信・越国境の信濃国飯山領の城塞に損害を被ったことが分かる。これ以前の失態が永禄3年から同4年にかけての長尾景虎(上杉政虎)による関東遠征中、甲州武田軍が飯山領の「上蔵」の要害を攻め落として越後国に迫った事態(『戦国遺文 武田氏編』746号)を指すのであれば、当文書の年次は、輝虎の記憶に残る永禄4年からそう遠くない時期であろう。上杉輝虎は永禄7年秋中の信濃国川中嶋陣を終えた直後、信濃国飯山城に改修を施しており(436号)、こうした改修を施さなければならないほどの損害を被ったのだと考えたことから、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料18】永禄10年6月19日付松本伊豆守宛上杉輝虎書状(521号)
急度以使者申遣候、仍関東之事、過半静謐之形候、信州之義、隣国云、上州物裏云、旁以来秋、先彼口可成行義定候、然、強相頼他之助成、雖非可権門弓箭候、且連々申通、互去年以来以神慮申合筋目、彼是今般候条、一勢立給候、自他之覚可為祝着候、方々馳走此一事候、猶吉田美濃守可有口上候、恐々謹言、
    六月十九日      輝虎(花押a3)
     松本伊豆守殿

 当文書を『新潟県史 資料編』は「輝虎を称するのは永禄四年以降、関東の「過半静謐」からみて永禄五、六年か」としている。当文書では、上杉輝虎が奥州黒川の蘆名止々斎(盛氏)の許へ旗本の「吉田美濃守」を使者として派遣しており、永禄5年11月25日付蘆名修理大夫宛上杉輝虎書状(329号)では、蘆名家から上杉家へ何度も交誼を深めるための使者が到来したのを受け、輝虎が返礼の使者として「吉田美濃入道」を派遣していることから、永禄5年の発給文書として引用した。


【史料19】永禄10年8月24日付蔵田五郎左衛門尉宛上杉輝虎書状(431号)
細々音問喜悦候、府内・春日火之用心無油断、其心懸専一候、大門・大手門、何急度可申付候、普請以下、是又堅不可油断候、当口之事、晴信(武田信玄)塩崎迄出張候得共、無差行、徒数日送候、此上猶以不可有差義候、敵之刷、言語不似躰候、可心安候、巨細各可申遣候也、謹言、
  追、門番以下急度可申付候、新発田尾張守(忠 敦)小使之者共
   ニも
、能々加意見尤候、以上、
    八月廿四日      輝虎(花押d1)
      蔵田五郎左衛門尉殿

 【訂正1】のなかで示した理由により、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料20】永禄10年9月27日付三戸駿河守室(「としやう」)宛上杉輝虎書状(583号)
  返々、よろつ心つくしともおしはかり候、世上このまゝにて ハ
  るましく候ほとに、やかて/\ほんいうたかひあるへからす候、よ
  ろつかさねて申こすへく候、又々、
わさと人をこし候、そこもとふしきなるところに、かんにんのよし、さそ/\ならぬたいきともおしはかり候、さて又、のゝかミ(太田美濃守資正。三楽斎道誉)ちうせつあさからすゆへ、さいしよをとりのきらう/\、まことに/\いたましく候、いつかたなりともしかるへきところにさしおき候へ、みのゝかこと申におよはす候、てるとらためといゝ、又このすゑちうしんものゝいさめといゝ、いかん共見つもりたく候つれ共、みな/\そんしのことく、あきちこれなく候まゝ、うちすき候へ、うら候て、この比人をもこされす、うちたえしやう候ところに、このたひつかひをこし、くわしくそこもとのやうたいともきかせ候へ、うらもワすれ候やとよろこひ入候、くわんとうちうの事、きたてうたんこ(北条丹後守高広)にまかせおき候へ、わかまゝのあつかひともいたし候て、身のかたへもしらせす事ともおゝく候ゆへ、さたけ(佐竹義重)・よこせ(由良成繁)をはしめとして、てをかへられ候事、よきなく候、このまゝうちおくへき事にあらす候間、みのゝかかせき候て、ほんいのかたちをつけ候ハゝ、ちうせつといゝ、そのためと申、なにことかこれにすくへく候や、このよしよきやうにいけんをなすへき事、そもしまえにある候、かならす/\やかてうちこしへく候ほとに、ちんしよよりかさねて申こすへく候、かしく、
    九月廿七日     てるとら(花押)
奥ウハ書)
「   (切封墨引)
  みとするかかたへ     てる虎
          申給へ      」

 当文書の上杉輝虎は、「くわんとうちう(関東中)の事、きたてうたんこ(北条丹後守高広)にまかせおき候へは、わかまゝのあつかひともいたし候て、身のかたへもしらせす候事ともおゝく候ゆへ、さたけ(佐竹次郎義重)・よこせ(由良信濃守成繁)をはしめとして、てをかへられ候事、」という事態に陥っていた。この由良成繁ら関東味方中の越後国上杉陣営からの離脱は、輝虎による総州経略が失敗に終わった永禄9年であることが分かる(『戦国遺文 後北条氏編』977号)。これにより輝虎は、佐竹義重らを早急に翻意させる必要に迫られ、佐竹一家の東薩摩守義喬・準一家の江戸彦五郎通政・宿老の和田掃部助昭為らを通じ、義重の亡父である義昭以来の佐竹氏との交誼を復活させるため、義重の説得にあたっていた(528~531号)。『越佐史料』はこれらの文書群を永禄9年に年次を比定している。当文書では、輝虎が佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(資正)の妹を通じ、道誉の奔走によって、佐竹氏との旧交を復活させることを望んでおり、先の文書群と日付も一致していることから、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料21】永禄11年7月2日付河上伊豆守・同中務少輔(丞)富信宛上杉輝虎書状(418号)
以前若林采女允(江馬)輝盛申届候処、雖不初儀候、其方取成故、弥入魂之旨喜悦候、向後之儀無二可申談心中候、畢竟、村上源五方(国清)可有演説候、恐々謹言、
  追、織田信長為音信、使僧差遣候、路次中無相違様馳走頼入
  候、以上、
    七月二日       輝虎(花押a4)
      河上伊豆守殿
      同中務少輔殿

 当文書は信濃衆の村上源五国清が取次を務めており、上杉輝虎が濃州織田信長の許へ使僧を派遣するので、常陸国高原の江馬四郎輝盛に対し、江馬領内を通行する使者に便宜を図ってくれるように依頼したものである。『上越市史 上杉氏文書集』が永禄12年に仮定している7月17日付河上式部丞宛村上義清書状(777号)では、「重濃州就用所、若林采女差越候」とあり、村上父子の重臣である「若林采女允」を続けて「濃州」へ派遣するとして、こちらでも領内通行時における便宜を頼んでおり、両文書には繋がりがあると考えたことから、永禄12年の発給文書として引用した。


【史料22】永禄11年7月29日付鮎川孫次郎盛長宛上杉輝虎書状(780号)
飛脚到来、得其意候、仍大宝寺之様子注進、委細心得候、就之大川之用心簡要之由、可申越候、然、至信州可及調儀由相催候処、自彼州申越子細候間、先以延引候、信州口・上口無心元由候て、関東味方中人数差越候、倉内之者共、今日当府打着候、其外諸軍膝下集置候条、信・越両口共擬可心易候、猶山吉孫二郎(豊守)可申越候、謹言、
     七月廿九日      輝虎(花押a4)
        鮎川孫二郎殿

 上杉輝虎が在府中、信州や北陸の状況を心配した「関東味方中」が自発的に寄越してきた「人数」を迎え入れたり、「倉内之者共(上野国沼田城に駐留する越後衆で編成された城衆)」を呼び寄せたりするようなことが可能であったのは、越・相同盟の期間中である永禄12年から元亀2年のうちであり、実際に永禄12年には焦点のひとつであった北陸へ出馬していることから(799号)、『越佐史料 巻四』が比定している通り、永禄12年の発給文書として引用した。


【史料23】永禄12年正月8日付水原蔵人丞ほか宛上杉輝虎書状(639号)
急度申遣候、仍爰元之衆、為始本庄、悉人数之義、重召寄候間、早々遣飛脚、一刻片時被相急、打振可召寄候、少有油断無曲候、本庄事千計着陣之由、日々告来間、方々之義今般候間、別可走廻候、敵退散之上、早々可返之候、謹言、
  聞子細共候間、其元之用心専一候、
    正月八日       輝虎(花押a3)
     水原蔵人丞殿
     富所隼人佐殿
     松木内匠助殿
     竹俣三河守殿
     加地彦次郎殿

 当文書には、「為始本庄、悉人数之義、重召寄候間、」とあり、『新潟県史 資料編』などでは、この「本庄」を揚北衆の本庄弥次郎繁長に比定しているが、上杉輝虎はその本庄繁長が起こした反乱を鎮めるため、彼の一党が立て籠る越後国村上城を攻めているわけで、輝虎が繁長を始めとした「人数」を手元に呼び寄せはしないであろうから、『新潟県史』などの年次比定には従えなかった。越後衆が在番している下野国佐野の唐沢山城が相州北条氏政に攻められていることと、輝虎が越府から呼び寄せた「本庄(旗本の本庄新左衛門尉であろう)」を主将とする軍勢とは、永禄10年に年次を改めるべきであろう同7年正月11日付広田式部大輔宛上杉輝虎書状(376号)における「越国残置諸勢」を指し、正月中に「半途迄着陣」していることから、永禄10年の給文書として引用した。

※ 376号文書を永禄10年に比定できると考えたのは、関東味方中の広田式部大輔直繁が「(利根川)河南有一人励忠信」というような状況になったのが、永禄9年に武蔵国衆の成田左衛門次郎氏長が相州北条陣営に帰属してしまった以降であろうことから。


※【訂正1】で年次比定を永禄10年に改めました9月18日付斎藤下野守・赤見六郎左衛門尉・小野主計助宛上杉輝虎書状写は、前嶋敏氏による「上杉輝虎発給文書の花押とその変更」の長尾景虎・上杉輝虎発給文書一覧において、すでに永禄10年の発給文書として記載されていました。


前嶋敏「上杉輝虎発給文書の花押とその変更」(『新潟史学』第73号)◆ 今福匡「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究 第502号』)◆『新潟県史 資料編3 中世一 文書編Ⅰ 付録』〔花押・印章一覧〕868号 長尾景虎(上杉輝虎)書状、870号 上杉政虎(輝虎)条書 ◆『新潟県史 資料編5 中世三 文書編Ⅲ 付録』〔花押・印章一覧〕2718号 長尾景虎書状、2836号 上杉輝虎書状 ◆『大日本古文書 家わけ第12之3 上杉家文書』(東京大学史料編纂所)995号 上杉輝虎署名消息手本 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』395号 上杉輝虎書状(写)、398号 上杉輝虎判物、404号 上杉輝虎制札(写)、416号 上杉輝虎書状、421号 北条高広書状(写)、429・436号 上杉輝虎書状(写)、457・458号 上杉輝虎書状(写)、465号 上杉輝虎書状、481号 関東衆軍役覚、489号 大仲寺良慶書状、528号 上杉輝虎書状、529号 上杉輝虎書状(写)、530・531号 上杉輝虎書状(影写)、534・537・586・619号 上杉輝虎書状(写)、769号 松本景繁書状、799号 上杉輝虎書状(写)、820号 北条氏照書状、822号 上杉輝虎書状(写)、931号 上杉輝虎書状、932号 上杉輝虎書状(写)、939号 上杉謙信書状(写)、940号 上杉謙信書状 ◆『群馬県史 資料編7 中世三 編年史料2』2263号 上杉輝虎書状写 ◆『新編埼玉県史 資料編6 中世2 古文書2』447号 上杉輝虎書状 ◆『白河市史 第五巻 資料編二 古代・中世』第二編 中世 Ⅰ 文書 920号 上杉謙信輝虎書状 ◆『戦国遺文 房総編 第二巻』1177号 千葉胤富書状
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