越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

更新【1】 千坂対馬守

2021-12-01 16:40:03 | 雑考


 中村亮佑氏の「越後上杉氏直臣に関する基礎的考察 ー越後千坂氏を中心にー」(『戦国・織豊期の地方史研究』岩田書院)によりますと、越後国守護上杉定実(号玄清)・同国守護代長尾景虎期の天文18年7月4日付平子孫太郎宛庄(本庄)新左衛門尉実乃書状写(『武州文書』内閣文庫)に現れる上杉家譜代家臣の「千坂筑前」は「千坂対州」と読むのが正しいということなので、当ブログにおける千坂筑前守を全て千坂対馬守に改めさせてもらいます。

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追記【1】 永禄10年2月9日付北条右衛門尉宛「景虎」宛行状の発給者

2021-12-01 16:39:01 | 雑考


【史料】永禄10年2月9日付北条右衛門尉宛「景虎」宛行状写(『歴代古案 巻十七』◆『上越市史 上杉氏文書集』549号 以下は上越と略す)
本知行相添今度奉公不浅候条、為新地小串新助分并矢田両地を、新役・本役を差添進之候、軍役奉公不可有油断候、(仍如件を欠くか)
  永禄十年
    二月九日           景虎
      北条右衛門尉殿


 この宛行状の発給者は「景虎」となっており、付年号が永禄10年であることから、上杉輝虎に人物比定され、輝虎が別に用いた「旱虎」の誤写と考えられているようですが、これに疑問を覚え、実際の発給者は、越後国上杉輝虎から関東代官を任された越後衆の北条丹後守高広(安芸守。安芸入道芳林)の世子で、謙信期には父に代わって代官を任された北条弥五郎景広(丹後守)ではないかと思われることから、その根拠を示します。

 受給者の北条右衛門尉親富(『戦国遺文 後北条氏編』4112号 ◆『上越』817号)は、北条毛利高広の一族で、まだ北条親富が源八郎を称していた永禄6年4月6日に惣領の北条高広から、高広の嫡男である景広に「指添」えるのに伴って知行を与えられている(『上越市史 上杉氏文書集』338号 ◆ 栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」〔武田・織田領国下の北条氏〕)のですが、くだんの宛行状では、高広から景広の補佐役としての「奉公」を命じられているはずの親富に対し、上杉輝虎が自身への「奉公不浅」と褒めていることに違和感を覚え、発給者は別の人物ではないかと思い、謙信没後の御館の乱中に上杉三郎景虎が支持者の北条毛利一族へ与えた宛行状のうちの一つではないかと考えたりするなかで、上杉景虎が発給したとされている元亀2年8月24日付下条玄鶴宛「景虎」感状写(『白川風土記 十六』◆『上越』1062号)は、同年月日で同内容の村山惣八郎宛北条景広感状(『上越』1061号)との比較により、景広の発給文書として比定し直されていた(栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」〔註16〕)ことを、ふと思い出して、二つの「景虎」文書写が重なり合いました。
 永禄10年2月といえば、前年末に高広が越後国上杉家を離れて相州北条・甲州武田陣営に加わると、景広は父と袂を分かち、上野国勢多郡の棚下寄居に移って、父が拠る同国群馬郡の厩橋城と対向していた時期になりますから(栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」〔越相同盟前の北条氏〕)、景広が親富の忠信に報いて発給した宛行状なのではないでしょうか(その後、なぜだか親富は高広方に転身しています)。


 永禄12年に長門守を称するようになった親富(栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」〔武田・織田領国下の北条氏〕)は、謙信期には惣領家から独立し、上杉家の部将へと転身しており(『上越』1378号)、上杉輝虎期に当たる永禄6年から同9年の間に独立・転身していた可能性もないとはいえませんが、北条高広の弟と伝わる下総守高定(助三郎。高広の上杉家離反にも従った)がやはり惣領家から独立して謙信の近臣へと転身したのは元亀2年4月から同3年9月の間である(『上越』1043・1122号)ことからすると、親富の独立・転身がこれより早いとは考えにくいのです。

 というわけで、当ブログの「上杉輝虎の略譜【35】」において当該文書を引用した箇所に、上杉輝虎ではなく、北条景広が発給した宛行状の可能性があることを追記しました。


【参考文献】栗原修「厩橋北条氏の族縁関係」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配  戦国史研究叢書6』岩田書院)

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訂正【3】

2020-10-21 18:12:52 | 雑考

 新たに本庄繁長宛ての長尾景虎書状が見つかったというので、渡邊三省『本庄氏と色部氏』を読み直していたところ、当ブログの越後国上杉輝虎の略譜【19】において、文書の解釈に誤りがあることに気が付きました。

 永禄6年11月下旬に上杉輝虎が関東へ向けて出馬したところ、深雪のために進軍が滞り、越後国刈羽郡の鯨波の地で宿営中の先行軍において、揚北衆の色部修理進勝長と揚南衆の平賀左京亮重資の間で小旗の意匠を巡る相論が起こり、輝虎の意を受けたであろう河田豊前守長親は色部勝長の主張に基づいて、平賀重資の説得に努めると、翌月中旬までに平賀側が小旗の使用を止めることで決着がついた。という事態のなかでのことになります。

 永禄6年12月8日付平賀助四郎重資(左京亮)宛河田長親書状(『上越市史 上杉氏文書集』361号)における冒頭部分の「仍小旗之儀、以前如申、色部事、有子細従 屋形様為被下置文候、」を、小旗の一件については、以前に申し伝えたように、色部方の申し立てにより、屋形様(上杉輝虎)が置文を発せられたこと、と解釈しましたが、『本庄氏と色部氏』の62頁には、「
屋形様より下し置かるる文(紋)に候、」という釈文で、色部が輝虎から授けられた紋である、という意味が書かれていました。自分の解釈は全くの誤りでありましたので、当該部分を、色部の紋は特別な理由により、屋形様から下されたものであること、というように改めます。


※ 越後国(山内)上杉家の年寄である河田長親は、当時、上野国沼田城の城代も任されていたが、常駐ではなかったので、越府に戻って輝虎の側近としての役目を果たしていることもあり、恐らくこの年の秋から冬にかけては在府していて、輝虎が関東遠征を催すと、先行軍の主将を任されたのだろう。


◆ 渡邊三省『中世武士選書 第9巻 本庄氏と色部氏』(戎光祥出版)◆『上越市史 別編1
上杉氏文書集一』359~365号

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『新潟県史 通史編』作成の上杉氏奉行人一覧(謙信期)

2020-10-18 21:52:09 | 雑考

 『定本 上杉謙信』の一項である広井造氏が執筆された「謙信と家臣団」において、参考史料の表2として取り上げられた『新潟県史』作成の上杉氏奉行人一覧に載っている越後衆の人名を載せておくとともに、謙信政権下での略歴を加えておく。

 本庄実乃:新左衛門尉。新左衛門入道宗緩。旗本衆。長尾景虎の旗揚げ時からの功臣。景虎の初政において大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉・直江神五郎実綱・新保八郎四郎長重と共に越後国長尾家の三奉行を構成した。本庄実乃と大熊朝秀の二名は固定、残りの一名は小林宗吉・直江実綱・新保長重が交代で務めた(小林と新保は天文年間にだけ見える)。弘治2年に、
三奉行の一人であった大熊朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、宗緩は長尾 景繁・長尾 景憲・直江与右兵衛尉実綱・吉江 長資と共に五奉行を構成した。永禄期に入るか入らないかの頃に一線を退いたが、別格の老臣として、非常時には公務に就いたほか、上杉輝虎の遠征中に春日山城の留守居を務めたり、輝虎および越後衆からの相談を受けたりした。謙信期の天正3年まで見える。もとは古志長尾氏の同心であったろう。古志郡栃尾城主。

 下条茂勝:新右衛門尉。長尾景虎が守護代長尾家を継いだ直後に一度だけ取次として見える。旗本衆。名字からして、もとは古志長尾氏の被官であったろう。

 神余親綱:小次郎。旗本衆。謙信晩年に越後国三条城の城将を任される。父親の神余隼人佑(小次郎)と混同されている。隼人佑は、将軍家再興を目指す足利義昭から上杉輝虎が上洛を求められた際、直江大和守政綱・河田豊前守長親と共に取次を務めたが、これは京都の要人たちとのつてがあったことによる特例であり、これをもって越後国(山内)上杉家の年寄や奉行人とはいえるのかは分からない。

 神余実綱 小次郎。隼人佑。隼人入道。隼人佑の父、小次郎親綱の祖父に当たる。越後守護上杉家の在京雑掌を務めていたが、上杉家の断絶によって長尾景虎が越後国主となった頃には本国に戻り、景虎の旗本衆に転身した。景虎の任官運動に際し、幕府の要人との交渉に関与して使者を務めたが、それをもって越後国長尾家の奉行人とはいえるのかは分からない。

 某 景高:名字・通称不詳。長尾景虎期の天文19年に魚沼郡の上弥彦神社に社領を安堵していることからすると、上田長尾氏の一族という可能性があり、越後国長尾家の奉行人であったのかは分からない。

 斎藤朝信:小三郎。下野守。譜代衆。永禄2年に長尾景虎が上洛した際、将軍足利義輝から相伴衆に任じられて大名の家格を得ると、長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家・北条丹後守高広と共に越後国長尾家の四年寄を構成したが、直江与右兵衛尉実綱ら側近系の年寄と比べて職務は限定されていた。永禄3年から翌4年にかけての長尾景虎(上杉政虎)による関東遠征に伴い、四人での年寄としての活動は見られなくなる。永禄5年以降は、関東代官として上野国厩橋城に常駐した北条高広はさておき、長尾藤景と柿崎景家は個別に年寄としての活動が見られるのに対し、
ただ単に史料に見えないだけかもしれないが、朝信は年寄としての活動が見られない。 謙信晩年には揚北衆の新発田尾張守長敦・竹俣三河守慶綱と共に越後国(山内)上杉家の三年寄を構成したが、やはり側近系の年寄と比べて職務は限定された。
 
 大熊朝秀:彦次郎。備前守。もとは越後守護上杉家の譜代家臣で、公銭方の責任者であった。長尾景虎の初政において本庄新左衛門尉実乃・小林新右兵衛尉宗吉・直江神五郎実綱・新保八郎四郎長重と共に越後国長尾家の三奉行を構成した。弘治2年に甲州武田晴信と通じて反乱を起こしたが、敗北して武田家に仕えた。頸城郡箕冠城主であったと伝わる。
 
 小林宗吉:新右兵衛尉。長尾景虎の初政において本庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉・新保八郎四郎長重と共に越後国長尾家の三奉行を構成した。天文18年から天文22年までしか見えない。

 山吉政応:恕称軒政応。丹波入道。政久とは同一人物であり、政応は法号である。旗本衆。蒲原郡司として揚北衆の中条氏と黒川氏の同族間抗争を調停しているが、奉行人としての活動は見られない。天文22年7月に死去した。蒲原郡三条城主。

 山吉政久:孫四郎。丹波守。長尾景虎の実父である越後守護代長尾為景の功臣。景虎期には法体となっていた。

 山吉景盛:孫右衛門尉。山吉一族。長尾為景期に蒲原郡司の山吉政久を補佐している。越後国長尾家の奉行人といえるのかは分からない。

 山吉豊守:孫次郎。旗本衆。山吉丹波入道政応の世子である山吉孫四郎景久が永禄元年9月に早世したので、政応の次男である豊守が兄の名跡を継いだ。上杉輝虎期の永禄9年に若手の側近家臣として現れると、以降は柿崎和泉守景家・直江大和守景綱(政綱)・河田豊前守長親・鯵坂清介長実らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。河田と鯵坂がそれぞれ越中国の代官と同国新庄城の城将に転じたのちは、直江と共に両年寄であった。天正5年9月に死去した。蒲原郡三条城主。

 石田定賢 旗本衆の庄田惣左衛門尉定賢のことであり、越府の町人である石田惣(宗)左衛門尉と混同されている。弘治2年に、三奉行の一人で公銭方の責任者でもあった大熊備前守朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、新たに吉江 長資らと共に越後国長尾家の公銭方を構成した。永禄4年の信濃国川中嶋の戦いで討死した。名字からして、もとは古志長尾氏の被官であったろう。

 某 長資 吉江織部佑景資の前身。通称は与橘か。旗本衆。弘治2年に、三奉行の一人で公銭方の責任者でもあった大熊備前守朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、本庄新左衛門入道宗緩・長尾 景繁・長尾 景憲・直江与右兵衛尉実綱と共に越後国長尾家の五奉行を構成したほか、新たに庄田定賢らと共に公銭方を構成した。父の吉江木工助茂高は長尾景虎の初政において取次を務めた。吉江氏は守護上杉家の被官系と古志長尾氏の被官系の二流があったが、こちらの系統
は後者であったろう。 

 直江景綱:神五郎・与右兵衛尉・大和守実綱 ・政綱。もとは越後守護上杉家の譜代家臣。旗本衆。長尾景虎の初期には本庄新左衛門尉実乃・大熊備前守朝秀・小林新右兵衛尉宗吉・新保八郎四郎長重と共に三奉行、本庄新左衛門入道宗緩・長尾 景繁、長尾 景憲・吉江 長資と共に五奉行、景虎の後期から上杉輝虎の中期にかけては河田豊前守長親と共に両年寄を務め、輝虎の後期からは河田長親・柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守・鯵坂清介長実らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成し、河田長親と鰺坂長実が北陸戦線に転出したあとは、山吉豊守と共に両年寄を務めた。謙信一世中の側近であり、年齢は謙信と近かったであろう。山東郡与板城主。

 妙雲院妙昭:永正年間の初め頃に越後守護上杉定実・同守護代長尾為景の許で倉俣勘解由左衛門尉実経・関沢伊賀守顕義・長授院妙寿・大熊新左衛門尉政秀・雲興院昌朔と共に奉行衆を構成していた。弘治年間に上野源六家成(中務丞)と下平修理亮吉長(勘助)の波多岐荘の領主間で起こった土地相論の際、上野氏菩提寺の住持という立場により、長尾景虎の奉行衆から上野家成の説得を求められている。越後国長尾家の奉行人としての活動は見られないし、永正年間の妙昭であるのかも分からない。

 松本景繁 永禄年間の中頃から見える旗本衆の松本石見守景繁と混同されており、天文年間に見える景繁は長尾名字であろう。もしも同一人物であったのならば、上杉輝虎期に長尾景繁が越後守護代長尾家以来の古臣である松本氏を継いだのではないか。松本氏は天文年間の後期に河内守、永禄4年に大学助(実名は忠繁と伝わる)が見える。長尾景繁は天文20年に山東郡内の名主に便宜を図ったりしているので、山東郡を基盤とした長尾氏かもしれない。三奉行の一人であった大熊備前守朝秀の反乱後、本庄新左衛門入道宗緩・直江与右兵衛尉実綱・長尾 景憲・吉江 長資と共に越後国長尾家の五奉行を構成した。松本景繁は山東郡の小木城主で、輝虎期に上野国沼田城将を務めた。

 長尾景憲:天文20年に古志郡内の守門神社と諏方神社の間で起こった土地相論を裁定しているので、古志郡司であったのかもしれない。古志長尾右京亮景信の前身か。三奉行の一人であった大熊備前守朝秀の反乱後、本庄新左衛門入道宗緩・長尾 景繁・直江与右兵衛尉実綱・吉江 長資と共に越後国長尾家の五奉行を構成した。

 長尾藤景:遠江守。 譜代衆。長尾景虎の後期に柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信・北条丹後守高広と共に越後国長尾家の四年寄を構成した。永禄3年から翌4年にかけての長尾景虎(上杉政虎)による関東遠征中、柿崎景家が越府留守衆であったことから、四人での年寄としての活動は見られなくなる。長尾藤景は永禄6年に単独で過所状を発給している。同9年頃までは存命であった。蒲原郡下田を地盤とする下田長尾氏。蒲原郡下田城主。

 某 定盛:名字不詳。実名は貞盛が正しい。旗本衆。弘治2年に、三奉行の一人で公銭方の責任者でもあった大熊備前守朝秀が甲州武田晴信と通じて反乱を起こし、敗北して武田家に仕えると、
庄田惣左衛門尉定賢・吉江 長資らと共に越後国長尾家の公銭方を構成した。

 荻原掃部助:実名不詳。のちに伊賀守を称する。旗本衆。長尾景虎の後期から上杉輝虎の中期まで見える。奉行人のうちで名字不詳の貞盛や能信の可能性がある。

 吉江景資:織部佑。初めは長資を名乗った。外交文書を発給しているのが確認できるのは謙信期のみであるが、恐らく上杉輝虎期から年寄衆に列していたと思われる。謙信晩年に越中国西郡の代官と同国増山城の城代を兼務した。

 吉江資堅:喜四郎 。実名は資賢が正しい。三条道如斎信宗と共に謙信晩年の最側近であった。河田豊前守・鯵坂清介長実と同じく、永禄2年に長尾景虎が上洛した際に召し抱えられると、景虎側近の吉江織部佑景資の一族に列した。前名字は伝わらない。もとは江州六角佐々木家の被官であったらしい。

 吉江信景:吉江喜四郎資賢の後身。

 吉江(三条)信宗:三条道如斎信宗。吉江名字は文書では確認できない。初めは越中味方中の長沢筑後守光国に仕えていて、長沢菅(勘)五郎を称していたという。吉江喜四郎信景と共に謙信晩年の最側近であった。

 北条高広 弥五郎。丹後守。安芸守。安芸入道芳林。譜代衆。長尾景虎の後期に長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信と共に越後国長尾家の四年寄を構成した。上杉輝虎期以降は関東代官と上野国厩橋城代を兼務した。永禄9年の冬に相州北条・甲州武田陣営に寝返ったが、越・相同盟の成立に伴って越後国上杉家に復帰した。越・相同盟の破談後、息子の弥五郎景広に関東代官と厩橋城代の地位を譲ったが、ほぼ二頭体制であった。

 北条景広 弥五郎。丹後守。譜代衆。北条安芸守高広の世子。謙信期に父から関東代官と厩橋城代を引き継いだが、ほぼ二頭体制であった。越後国(山内)上杉家の奉行人とはいえない。

 柿崎景家:中務。和泉守。 譜代衆。頸城郡司(頸城郡中部)。長尾景虎の後期には長尾遠江守藤景・斎藤下野守朝信・北条丹後守高広と共に越後国長尾家の四年寄、上杉輝虎の後期からは直江大和守景綱(政綱)・河田豊前守長親・山吉孫次郎豊守・鯵坂清介長実と共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。

 河田長親:九郎左衛門尉。豊前守・豊前入道禅忠。旗本衆。長尾景虎の後期から上杉輝虎の中期にかけて直江実綱(政綱)と共に両年寄であった。その頃は上野国沼田城の城代を任されていたが、常駐ではなかったので、越府で側近としての役目も果たした。上杉輝虎の後期からは直江大和守景綱(政綱)・柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守・鯵坂清介長実らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。その後は、越中国の代官に任ぜられて同国魚津城、次いで松倉城に常駐した。鯵坂長実・吉江喜四郎資賢と同じく、もとは江州六角佐々木家の被官で、永禄2年に長尾景虎が上洛した際に召し抱えられたと伝わる。

 三村長政:名字は三潴が正しい。出羽守。旗本衆。越後国上杉軍が関東へ向けて進軍中、国衆の間で小旗の意匠を巡って相論が起こると、その調停に奔走した一人であったが、奉行の職務に就いていたのかは分からない。

 小野主計助:実名不詳。旗本衆。上杉輝虎期によく使者や横目を務めた。奉行人のうちで名字不詳の貞盛や能信という可能性はあるが、今のところは奉行人であったのかは分からない。

 飯田長家 孫右衛門尉。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて河隅三郎左衛門尉忠清・五十嵐 盛惟らと共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。

 河隅忠清:三郎左衛門尉。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて飯田孫右衛門尉長家・五十嵐 盛惟らと共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。かつて守護代長尾家にも古志長尾家にも河隅名字の者がおり、どちらの系統なのかは分からない。

 某 能信:名字不詳。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて飯田孫右衛門尉長家・河隅三郎左衛門尉忠清・五十嵐 盛惟と共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。

 鯵坂長実:清介。備中守。旗本衆。上杉輝虎の後期に柿崎和泉守景家・直江大和守景綱・河田豊前守長親・山吉孫次郎豊守らと共に越後国(山内)上杉家の年寄衆を構成した。謙信期に越中国新庄城の城将、越中国西郡の代官、能登国の代官と同国七尾城の城代を歴任した。河田長親・吉江喜四郎資賢と同じく、もとは江州六角佐々木家の被官で、永禄2年に長尾景虎が上洛した際に召し抱えられると、旗本衆の鯵坂氏の名跡を継いだ。前名字は伝わらない。

 山崎専柳斎:秀仙。儒者上がりの側近。織田信長の許へ使者として赴いたり、遠征中の謙信から留守衆の一員として見えたりするが、越後国(山内)上杉家の奉行人であったのかは分からない。もとは関東代官の北条丹後守高広の重臣であったらしい。

 関沢掃部助 上杉輝虎期の元亀元年に再燃した揚北衆の中条氏と黒川氏の対立において、中条側の取次を山吉孫次郎豊守が務めたが、その際に使者として各所を往来した山吉一族の山吉掃部助と間違われている。

 堀江玄蕃允:実名不詳。旗本衆の堀江駿河守宗親の嫡男。越後国(山内)上杉家と相州北条家が同盟関係にあった頃、玄蕃允が使者を務めた際の書状が奉行人の文書として間違われている。

 五十嵐盛惟:通称は主計助か。旗本衆。上杉輝虎の中期から後期にかけて飯田孫右衛門尉長家・河隅三郎左衛門尉忠清らと共に越後国(山内)上杉家の奉行衆を構成した。名字と実名からして、もとは古志長尾氏の被官であったろう。

 長 景連:与一。旗本衆。謙信期に濃(尾)州織田家と同盟関係にあった頃、使者を務めたことから、織田方の取次と書状のやり取りをしているが、越後国(山内)上杉家の奉行や取次といった役目に就いていたのかは分からない。

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上杉輝虎(長尾景虎。号謙信)から「長」の一字を与えられた越後衆について

2020-10-18 21:50:20 | 雑考

  以前、当ブログにおいて、越後国上杉輝虎(長尾景虎。号謙信)から一字を与えられたと思われる関東・北陸の味方中や越後衆を列挙したが、越後国長尾家に由来する「長」の一字を与えられた越後衆のうち、輝虎から与えられたのかどうか、考えあぐねる人物が出てきてしまった。

 上杉輝虎から「長」の一字を与えられたであろう越後衆として(実名が文書では確認できない人物も含む)、外様衆の新発田尾張守長敦、譜代衆の大熊新左衛門尉長秀・甘糟近江守長重、旗本衆の吉江 長資(通称は与橘か。のちの織部佑景資)・新保八郎四郎長重・山田修理亮長秀・三潴出羽守長政・本田右近允長定・河田豊前守長親・鯵坂清介長実・飯田孫右衛門尉長家・三潴左近大夫長能・寺嶋六三長資・荻田孫十郎長繁・本田孫七郎長信・富永清右兵衛尉長綱・岩船彦五郎長忠らの名を挙げたが、長尾景虎期に「長」の一字を与えられたであろう譜代衆の大熊長秀・甘糟長重を除くと、ほぼ旗本衆で占められてしまい(吉江から鯵坂あたりまでは景虎期に一字を与えられたのではないか)、外様衆の新発田長敦だけが浮いて見えることに気が付いた。この新発田は永禄12年から源次郎、天正3年から尾張守長敦として見えるので、長尾景虎期に「長」の一字を与えられたとは考えにくい。

 上杉輝虎は、長尾景虎期には長尾家の通字である「景」と、実父の長尾為景が好んだらしい「長」の一字を越後衆の功労者や希望者などに与えており、なぜか実名の下の字である「虎」の一字は与えず、父の為景に倣ってか、「長」の一字を替わりに与えていた。山内上杉家を継いだのちは、「長」の一字を中小・新参の旗本衆や味方中の陪臣などに与えるものとして、一家・外様・譜代衆、大身の旗本衆に与えた「顕」と「景」の両字とは明確に区別したようであり、新発田長敦は輝虎以外の人物から一字を貰った可能性がある。

とは言え、上杉輝虎と次代の上杉景勝は、一族家中の有力者たちの長男に「景」の一字、次男に「長」の一字を与えていた事例があり、そうなると、新発田長敦の前代である尾張守忠敦には、後継者たる男子がいなかったらしく、近親者の右衛門大夫(のちの新発田因幡守重家)は輝虎の肝煎りによって早々に独立していたからか、外様衆の最有力者である中条越前守の「御舎弟」(『上越市史 上杉氏文書集』624号 以下は上越と略す
)を養子に迎えていたと考えられるので、『中条氏家譜略記』には「謙信公御諱賜景御一字、実名号景資」と書かれており、輝虎(謙信)から兄の中条越前守は「景」の一字、弟の新発田源次郎は「長」の一字を与えられた可能性があるため、長敦の名を一覧から除外するまでには至らなかった。

 最後に、新発田長敦が上杉輝虎以外の人物から「長」の一字を貰っていたとしたら、その人物は誰であったのかを考えてみる。長敦の前代である新発田忠敦は外様衆では一二を争うほどの有力者であり、同じく外様衆の有力者であった本庄弥次郎繁長が上杉輝虎に遺恨があるとして、甲州武田・相州北条陣営と通じて反乱を起こした際、国内の越後衆が越府の春日山城、次いで揚北の村上陣に参集し、輝虎と諸将が誓詞を取り交わしたところ、忠敦の後継者であった長敦(源次郎)は輝虎の傍らでそれを見聞していた。そのなかには、やはり外様衆の有力者であった色部修理進勝長の嫡男である弥三郎顕長と、色部とは同族である鮎川孫次郎盛長がいて、輝虎が外様衆の最有力者であった中条越前守と忠敦のそれぞれへ宛てた書状のなかで長敦(源次郎)は、前者では色部顕長と、後者では鮎川盛長と一緒に現れており(『上越』624・672号)、わざわざ一緒にその名が挙げられていることに、長敦と二人との関係が窺える。そして、元亀2年の時点で新発田領内に鮎川盛長の知行地が存在していたこと(『上越』1030号)、長敦の次代である因幡守重家は鮎川盛長と入魂であったこと(『上越』1882・1953・2543・2549号)、その重家の妹か娘が色部修理大夫長真(顕長の弟で後継者となった)の妻と伝わっていること(『上杉家記』三十 ◆『越後三条山吉家伝記之写』)、これらのことから、佐々木加地一族の新発田氏と秩父本庄一族の色部・鮎川両氏が親しい間柄であったと思われ、長敦は色部勝長・同顕長父子、鮎川盛長のうちの誰かから秩父本庄一族の通字である「長」の一字を貰ったのかもしれない。

※ 黒田基樹氏は、『戦国大名と外様国衆』(文献出版・戎光祥出版)の「那波氏の研究」の註において、まず、本文での上野国衆・那波次郎顕宗の「顕」字は上杉謙信から授与されたものととらえられる点については、栗原修氏の御教示によると断ったうえで、「上杉謙信が家臣や従属国衆に対して授与した一字としては、「景」「輝」の偏諱のほか、「顕」(「反町英作氏所蔵文書」『新潟県史 資料編4』1684~5号)・「長」(「吉江文書」『新潟県史 資料編5』3681号等)の存在が知られる。このうち「顕」字については「当家有謂字」と述べられているように、山内上杉氏の通字の一つ(憲顕・房顕・顕定・顕実)ととらえられる。上野国衆では、那波顕宗の他、館林長尾顕長も同字を授与された人物としてとらえることができよう。」と書かれている。

※ 広井造氏は、『定本 上杉謙信』(高志書院)の「謙信と家臣 〔 2 家臣団の統制・掌握 (仮名・名乗り・官途)〕」において、「幼名岩鶴丸と呼ばれた河田は、仮名を「九郎左衛門尉」、官途名を「豊前守」、名乗りを「長親」といった。若干ではあるが、「仮名」・「名乗り」について、謙信が家臣に与えた例として、色部弥三郎(顕長、永禄7年〔1564〕、県史1684)荻田孫十郎(長、天正5年〔1577〕『越佐史料』巻五、375頁)嶋倉次郎丸(吉三、元亀2年〔1571〕~天正6年〔1578〕の間、県史2436)本田弁丸(孫七郎、長、天正5年〔1577〕、県史4025)安田久千代丸(弥九郎、元亀2年〔1571〕~天正6年〔1578〕の間、県史1572)安田惣八郎(顕、年不詳、県史1685)吉江亀千代丸(長、元亀2年〔1571〕~天正6年〔1578〕の間、県史3681)がある。また、『御家中諸士略系譜』によると、北条景広・直江景綱は、それぞれ元亀元年(1570)、天正初年に謙信から「景」字を与えられたという。謙信が烏帽子親として名乗り一字を家臣に与える場合、「長」字を与える例が多いことは、すでに阿部洋輔氏が指摘している。阿部氏はこれを「謙信が好んで花押にも用いた“長久”に由来する」と分析している。花押での使用例については、阿部氏は別に論文を発表している。また、「長」という字句については、謙信自身の願文類に、しばしば「安全長久」・「長久安全」・「長久無事」・「武運長久」・「無事長久」という文言が見える。こうした事例から考えて、史料上は確認できないが、河田長親についても、「長」字は謙信から与えられた可能性がある。ちなみに、表2(『新潟県史 通史編』作成の上杉氏奉行人一覧のこと。次頁に人名を載せておく)では河田長親の他に、三村・飯田・鯵坂の三人が「長」字を名乗りに用いており、同様の可能性がある。「景」字は長尾家の通し字である。『御家中諸士略系譜』の福王寺景重の項には、「長尾左京亮景明嫡女玉フ故ニ景之一字御免」とみえ、この字を名乗りに用いることの重大さを物語っている。ちなみに、表1(天正三年上杉家軍役帳のこと)では上杉景信・中条・千坂・長尾小四郎の四人、表2では北条・直江の他に、山吉・松本・長尾・吉江・柿崎・長らが使用している。色部弥三郎と安田惣八郎が与えられた「顕」字については、安田宛の書状中に、「当家ニ有謂字之由」とある。色部が与えられたのは永禄七年(1564)であるが、この年は、長尾顕景(上杉景勝)が父政景の急死により、謙信の養子として引き取られた年にあたる。あるいは謙信は、来るべき顕景政権を想定し、その重臣として色部を位置づけようとしたための一字状だったのかもしれない。官途授与については、阿部氏も指摘するように、謙信の代では史料上の確認ができない。しかしながら、たとえば河田長親の官途は「豊前守」であるが、これは謙信が受け継いだ古志長尾家代々の受領名である。おそらく「豊前守」は、長親が謙信から、古志長尾家の継承者として与えられた官途名ではないだろうか。仮名・名乗り・官途の授与による家臣団の統制については、景勝期にも事例がある。謙信期については、現段階において史料上の制約が大きいが、今後の新たな分析視点として有効である。」と書かれている。

※ 長尾景虎が山内上杉家を継いで上杉輝虎(政虎)となってからは、それまでの「景」と「長」の両字に加え、山内上杉家にゆかりの「顕」の一字を関東味方中や越後衆へ与えるようになり、この一字が最も格上になったと思われるが、永禄13年に養子の上杉景虎に自分の初名を、天正3年に同じく上杉景勝に「景」の一字を与えたことにより、「景」の一字が最も格上になったと思われる。

※ 大熊長秀は、越後上杉氏の家臣で、段銭所・公銭方奉行人であった大熊朝秀の子。父に従って上杉氏(長尾氏)を離反し、甲斐武田氏に仕えた(『戦国人名辞典』の大熊朝秀・大熊長秀の項による)。

※ 謙信一家の山本寺伊予守定長には嫡男の松三景長のほか、次男に又四郎長定がいたようであり、もしこの通りであれば、謙信は兄弟のそれぞれに「景」と「長」の一字を与えた可能性がある。また謙信は、最側近の吉江織部佑景資の長男に「長」の一字、次男に「景」の一字を与えており(『上越』1398・1470号)、むしろ逆であるから、これでは事例に当たらないと思われるかもしれないが、この場合は兄弟の生母が違い、次男の生母の方が身分が高かったからではないだろうか。謙信の次代である上杉景勝は、信濃衆の須田相模守満親の長男である右衛門大夫景実に「景」の一字、次男である大炊助長義(初めは又太郎長実を名乗ったらしい)に「長」の一字を与えたようであり、系図の通りであれば、一家衆の上条入道宜順(弥五郎政繁)の長男は弥五郎景広、次男は源四郎長員を名乗ったといい、侍中の千坂対馬守景親の長男は太郎左衛門尉景明、次男は与一長朝(『家督先後録』によると、初めは長親を名乗ったらしい)を名乗ったというから、彼らの息子たちにも両字を与えた可能性がある。

※ 『中条氏家譜略記』によると、中条越前守(弥三郎)は上杉輝虎から一字を与えられて景資を名乗ったという。これは文書では確認できないが、越前守の家柄と実績からして、十分あり得ることなのだろう。ただし、年次未詳7月15日付築地彦七郎宛某房資書状(『新潟県史 資料編』1446号 以下は『新潟』と略す)からすると、初名は房資で、のちに景資を名乗ったようである。この書状には「直和家風小柴下人之儀、其元退散候処、相拘不返之由候間、其身参府之上、従和州房資方、色々理之旨候間、書中差越候、彼才覚之様於爰元承届候、子細不可入候、早々彼者方可被渡返事、不可移時日候、尚重而可申越候間、不具候、謹言、」と記されている。まず、書中に現れる「直和」「和州」は、『新潟県史』では直江大和守とされており、これに異論はないであろう。受給者の築地彦七郎が所見されるようになったのは天文8年からで(『戦国人名辞典』築地資豊の項)、その頃に直江氏の当主といえば、天文15年に初見される直江掃部入道酒椿と思われ、輝虎の最側近であった直江大和守景綱(実綱・政綱)の前代に当たる。この酒椿は、直江氏の系図などでは大和守親綱に相当する人物となるが、終見の天文23年においても掃部入道であり(『上越』119号)、大和守を称した形跡はないので、ここでの「直和」「和州」とは直江景綱のことであろう。そうなると、景綱が通称を与右兵衛尉から大和守に改めたのは永禄4年中であり(『上越』253・291号)、書状の年次は特定できないが、永禄年間の中期から後期にかけて発給されたものと思われる。そして、発給者の某房資は、文意と書式からして築地氏の主筋に当たる中条氏であろうから、長尾景虎期の天文末年から現れ、謙信期の天正元年に死去したとされる中条越前守(弘治元年頃に弥三郎から越前守に改めた)ということになる。越前守が死去した年次は系図によるものであるが、天正2年に謙信の近習であった吉江与次景泰が中条氏を継いでいるから、正しく伝わっているのだろう。

※ 新発田長敦が色部勝長父子か鮎川盛長のうちから一字を付与されたのだとしたら、仲間内で偏諱のやり取りをしているわけである。こうした事例としては、天正3年に、長尾景虎の旗揚げ時から謙信とは繋がりが深かった譜代衆の上野中務丞家成の次男である上野彦九郎は、謙信側近の吉江景資に頼んで「資」の一字を付与されている(『新潟』1603号 )。それから、永禄年間の中頃、譜代衆で関東代官の北条丹後守高広(安芸守。安芸入道芳林)の一族である北条右衛門尉親富(長門守)は、北条高広の娘婿で輝虎の寵臣であった河田長親から一字を付与されたのではないだろうか。諸史料集では上野彦九郎に宛てられた名字状の発給者を中条景資としているが、
『石井進氏蒐集史料細目録』によれば、花押形からして吉江景資であることが示されている。また、上野氏系図(『新潟』1599号)は、上野家成の長男である源五郎(『上越』1625号)を資家としているが、恐らく彦九郎と取り違えられたのであろう。『御家中諸士略系譜』における上野嘉右衛門家秀(『上杉家御年譜 三 景勝公』と『寛永八年分限帳』では喜右衛門と記されている)の項と『先祖由緒帳』における五十騎組の上野次郎右衛門由緒によれば、景勝期に上野氏の当主であった中務丞秀家には男子がなかったので、上田衆の泉沢河内守久秀の甥である次郎右衛門を養子に迎えたというから、源五郎は秀家を名乗った可能性がある。

※ 『越佐史料 巻五』に収録されている新発田氏の系図では、伯耆守綱貞 ー 尾張守長敦(源次郎)ー 因幡守重家(五十公野源太)と続くが、文書では、源次郎能敦 ー 伯耆守綱貞 ー 尾張守忠敦(源次郎)ー 尾張守長敦(源次郎)ー 因幡守重家(初めは新発田助次郎(『上越』247号)か、新発田右衛門大夫(実名は綱成か)、五十公野右衛門尉・因幡守重家)と続いている。色部長真の妻は新発田重家の妹か娘とされており、『上杉家記』は重家の妹(『越後入廣瀬村編年史』161頁)、『三条山吉家伝記之写』は重家の娘(『三条市史 資料編』317頁)としているわけで、前者が正しい場合、忠敦の前代である新発田伯耆守綱貞は、その実名と受領名からして、能敦の実子でも忠敦の実父でもなく、本来は当主となる人物ではなかったように思われ(能敦の弟あたりか)、能敦の実子が忠敦で、綱貞の実子は重家という可能性があるため、長真の妻は綱貞の娘なのか忠敦の娘なのかが分からない。

※ 上杉景勝に反逆した新発田重家と鮎川盛長は、その死後には色部長真によって供養された。新発田は天正15年に敗亡し、鮎川はどのような最期を迎えたのかは不明だが、天正16年以前に死去したのは確かである(『新潟』1983号)。


※ ここで名前の挙がった越後衆のうち、本文と注記では文書番号を付していない人物、文書では実名が分からない人物、通称や実名の変遷が分かる人物などを確認できる史料を示しておく(登場順。謙信養子の上杉三郎景虎と上杉弾正少弼景勝は除く)。

 新発田源次郎(『上越』624号)
 新発田尾張守長敦(『上越』1246・1369・1527・1571・1753・1818・3795号)

 大熊新左衛門尉長秀(『上越』1693号)

 甘糟近江守長重(『上越』2733・3542号)

 吉江与橘長資(『上越』155・162号 ◆ 通称の与橘は『越佐史料』所収の甘糟継成編〔吉江系図〕(巻五は291頁、巻六は222頁)による)
 吉江織部佑景資(『上越』1227・1243・1338・1375号

 吉江常陸入道宗誾(『上越』2163・2215・2359号)

 新保八郎四郎長重(『上越』234号)

 山田修理亮長秀(『上越』1164・1651・2153号)

 三潴出羽守長政(『上越』365・640号)

 本田右近允長定(『上越』286・560・1369・1419号 ◆ 実名の長定は『謙信公御書集』の永禄4年9月13日付本田右近允宛上杉政虎感状の綱文による。同書の永禄2年11月28日条と『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の本田石見守重政の項では実名は重政となっているが、嫡男の孫七郎は謙信から「長」の一字を与えられているのは確かであるにもかかわらず、同系譜の本田源右衛門重方の項では実名が重方となっていることからして、右近允(石見守)が重政を名乗ったというのは大いに疑問である)
 本田石見守長定(『上越』2099・2388号)

 河田九郎左衛門尉長親(『上越』471号)
 河田豊前守長親(『上越』264・268・274・303・311・316・334・341・353・361・363・440・478・484・600・616・825・826・832・833・834・867・916・918・919・934・935・1023・1073・1085・1096・1153・1197・1294・1310・1338・1369・1370・1417・1453号)
 河田豊前入道禅忠(『上越』1566・1580・1588・1607・1788・1789・1883・2068・2079号)

 鯵坂清介長実(『上越』309・623・624・1101・1102・1109・1294・1446号)
 鰺坂備中守長実(『上越』1338・1369・1421・1476・1799号)

 飯田孫右衛門尉長家(『上越』409・513・995・1128・1494・1814・2336・3069・3378号)
 飯田出羽守長家(通称の出羽守は、誤りの多い史料ではあるが『古代士籍』による)

 三潴左近大夫長能(『上越』614・1030・2814・3119号 ◆『日本城郭大系7』の上関城・笹平城の項からすると、実名の長能は『三潴氏系図』によるものらしい)

 吉江亀千代丸(『上越』1398号)
 吉江 長資(同前)
 寺嶋六三長資(『上越』2359号)

 荻田孫十郎長繁(『上越』1321・1590・1627号)
 荻田主馬允長繁(『上越』3262・3263号)

 本田弁丸(『上越』1334号)
 本田孫七郎長信(同前。実名の長信は『上杉家御年譜 一 謙信公』の天正5年5月12日付本田弁丸宛上杉謙信一字書出の綱文による。謙信から「長」の一字を与えられたのは確かであるにもかかわらず、なぜか『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』では実名が重方と記されている)
 本田源右衛門尉長信(通称の源右衛門尉は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の本田源右衛門重方の項による)

 富永清右兵衛尉長綱(『上越』1651・1863号 ◆ 実名の長綱は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の富永備中守長綱の項による)
 富永備中守長綱(『上越』2424・2959・2960・3030・3031・3075・3315号)

 岩船彦五郎長忠(『上越』1660号 ◆ 実名の長忠は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の岩船藤左衛門豊秀の項による。初めは彦五郎長忠または豊広を名乗ったという)
 岩船藤左衛門尉豊秀(『文禄三年定納員数目録』に越後侍中の五十番目、『会津御在城分限帳』に御馬廻衆の二百五十一番目に見える)

 新発田源次郎忠敦(『新潟』1057号)
 新発田尾張守忠敦(『上越』663・788・800号)

 新発田右衛門大夫綱成(『上越』456・535・591・946号 ◆ 初名の可能性がある綱成は『謙信公御書集』の永禄12年(ママ)4月6日付松本石見守・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫宛上杉輝虎書状の綱文(305頁)による)
 五十公野右衛門尉重家(『上越』1527号)
 五十公野因幡守重家(『上越』1753・1944号)
 新発田因幡守重家(『上越』1246・1281・1369・1882・1896・1939・3154・3158・3759号)

 中条弥三郎房資(『上越』83号)
 中条越前守房資・景資(『新潟』1446号 ◆『上越』130・131・132・287号 ◆『中条氏家譜略記』の中条景資の項によれば、景資は幼名を市満丸、仮名を弥三郎、受領名を山城守・越前守を称したというが、山城守を称した形跡はない)

 本庄千代猪丸(『新潟』2357号)
 本庄弥次郎繁長(『新潟』1110・1119・1985・2353・2354号 ◆『上越』424・630号)
 本庄雨順斎全長(『上越』884・915・1490・1760・1892・2116号)
 本庄弥次郎繁長(『上越』2574号)
 本庄越前守繁長(『新潟』1119
号 ◆『上越』2775・2781・2813・3285・3416・3864号)

 色部弥三郎勝長(『新潟』1087・1108号 ◆『上越』84号)
 色部修理進勝長
『上越』359号)

 色部弥三郎顕長(『上越』445・1058・1182・1246号)

 鮎川市黒丸(『新潟』1083号)
 鮎川孫次郎盛長(『新潟』1981号 ◆『上越』912・1837~1840号)

 色部惣七郎長実(『新潟』2052・1527号)
 色部惣七郎長真(『新潟』2073号)
 色部修理大夫長真(『上越』1281・1369・3344・3345・3403・3405・3463・3474・3522号)

 山本寺伊予守定長(『上越』280・1108・1246・1369号)

 山本寺松三景長(『上越』1779・2064・2257・2359号)

 山本寺又四郎長定(実名の長定は『文禄三年定納員数目録』に西浜・琵琶嶋両衆の物頭として載る山本寺九郎兵衛尉定方に付された注記による)

 吉江与次景泰(『上越』1470号)
 中条与次景泰(『上越』1527・1663号)
 中条越前守景泰(『上越』1766・1211・1246・1369・1470・2359号)

 須田相模守満親(『上越』2201・2282・2424・2916・3047・3048・3165・3326(要検討文書)・3333・3339・3340・3828号 ◆『文禄三年定納員数目録』に信州侍中の筆頭として見える)

 須田右衛門大夫景実(『上越』2916・3374・3752号 ◆『文禄三年定納員数目録』に越後
侍中の五番目に見える)

 須田又太郎長実(『上越』3326号 この要検討文書によるものではあるが、初めに又太郎長実を名乗ったことは確からしい)
 須田大炊助長義(『会津御在城分限帳』に侍中(一組目)の十一人のうちで四番目に見え、実名の長義は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の須田大炊助長義の項による)

 上条弥五郎政繁(『上越』1527・1783号)
 上条入道宜順(『上越』1149・1222・1246・1358・1369・1831・1931・1941・2294・2320・2408・2541・2642・2668・2722・2873・3862号)

 上条弥五郎景広(『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)の九十三人のうちで六十五番目に見え、実名の景広は『上杉家御年譜 外姻譜略』の源姓畠山氏系譜による)

 上条源四郎長員(実名の長員は『上杉家御年譜 外姻譜略』の源姓畠山氏系譜による)

 千坂対馬守景親(『上越』1246・1369・1542・2301・2328・2332・2831・3106・3274・3629・3630号 ◆ 『文禄三年定納員数目録』に伏見御留守居の筆頭として、『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)の九十三人のうちで四番目に見え、実名の景親は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の千坂対馬守景親の項による


 千坂太郎左衛門尉景明(『文禄三年定納員数目録』には見えず、『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)九十三人のうちで二十一番目に見え、実名の景明は『中条氏家譜略記』の中条景泰の項による)

 千坂鶴寿丸(『上越』3260号)
 千坂与一長朝(『上越』3273号 ◆『文禄三年定納員数目録』に越後侍中の十六番目、『会津御在城分限帳』に侍中(三組目)の九十三人のうちで三十九番目に見え、実名の長朝は『上杉家御年譜 御家中諸士略系譜』の千坂対馬守長朝の項による )

 直江神五郎実綱(『上越』98号)
 直江与右兵衛尉実綱(『上越』106・122・164・253号)
 直江大和守実綱(『上越』291・293号)
 直江大和守政綱(『上越』433・477・623・624・984・987号)
 直江大和守景綱(『上越』650・703・793・933・987・1110・1111・1128・1285・1310・1313・1315・1369号)

 上野源六家成(『上越』10~12・109・110・115・117・229号)
 上野中務丞家成(『上越』137・632・692・775・1282号)

 北条弥五郎高広(『新潟』2257・2258・2264号 ◆『上越』9号)
 北条丹後守高広(『上越』118・144・159・200・207・220・303・331・338・380・421・491・539・542・543・545・583・720・808・850・925・926・938・971・979・1042・1094・1123・1190号)
 北条安芸守高広(『上越』1231・1267・1272・1282・1316・1339・1347・1365・1369・1388号)
 北条安芸入道芳林(『上越』1480・1482・1528・2721・2998号)

 北条源八郎(『上越』338号)
 北条右衛門尉親富(『上越』549号 ◆『戦国遺文 後北条氏編』4112号)
 北条長門守親富(『上越』817・1378号)

 新発田伯耆守綱貞(『新潟』269号)

 新発田源次郎能敦(『越佐史料 巻三』596頁)

◆『新潟県史 資料編3 中世一』◆『新潟県史 資料編4 中世二』◆〔文禄三年定納員数目録〕〔古代士籍〕『新潟県史 別編3 人物編』 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』◆『謙信公御書集』(臨川書店)◆『上杉家御年譜 三 景勝公』◆『上杉家御年譜 二十三 系図・外姻譜略・御家中諸士略系譜』(原書房)◆『越佐史料 巻5』(名著出版)◆『中条町史 資料編 第一巻 考古・古代・中世』◆『三条市史 資料編 第二巻 古代中世編』◆ 瀧澤健三郎『越後入広瀬編年史 中世編』(野島出版)◆『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)◆ 木下聡「日本史学研究室寄託の石井進氏蒐集史料細目録:米沢藩関係古文書の中世史料」(『東京大学日本史学研究紀要』16巻)◆『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)◆ 黒田基樹『戦国大名と外様国衆』(文献出版・戎光祥出版)◆ 池享・矢田俊文編『定本 上杉謙信』(高志書院)◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)◆『会津御在城分限帳』『家督先後録』『先祖由緒帳』(米沢市立図書館デジタルコレクション)

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