越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

謙信急逝後における分国中の要人たちの動向 -御館の乱前夜ー

2018-09-15 09:15:09 | 雑考

 越後国上杉謙信の急逝後における分国中の重要人物たちの動向について述べてみたい。



【史料1】吉江信景・三条信宗宛鯵坂長実書状
言上、今度之御仕合、言語道断、無是非御事候、因茲、早速御飛脚被為差登候、奉存知其旨候、然御様子於越中・当国内々無其隠之由候間、昨十八日、諸面々為召登、内証之通為申聞候処、何驚入申候、即於座中各神慮可致之歟之由申候処、何分ニも指図次第申候之条、出案文、為致誓詞・血判差上申候、先以当地備之儀、乍恐可御心易候、就之、愚意之旨以条数長尾堅佐申含、差越申候、此旨宜預御披露候、恐惶謹言、
            鯵坂備中守
    三月十九日      長実
    吉江喜四郎殿
    三条道如斎


【史料2】神保氏張宛上杉景勝書状
態用一書候、爰元之儀可心元候、去十三、謙信不慮之虫気不被執直遠行、力落候、可察候、依之、遺言之由候間、実城可移之由、各強理候条、任其意候、然、信・関諸堺無異儀候、可心易候、扨又、其方事、謙信在世中別懇意、不可有忘失儀、肝要候、当代取分可加意候条、其心得尤候、猶、喜四郎可申候、恐々謹言、
  追啓、謙信為遺物、刀一腰景光作秘蔵尤候、以上、
    三月廿四日      景勝
       神保安芸守殿


【史料3】小嶋職鎮宛上杉景勝書状
態用一書候、爰元之儀可心元候、去十三日、謙信不慮之虫気不被執直遠行、力落令察候、因茲、遺言之由候、実城可移之由、各強理候条、任其意候、然、信・関諸堺無異儀候、可心易候、扨亦、吾分事、謙信在世中別懇意、不可有忘失儀、肝要候、当代取分可加意之条、其心得尤候、猶喜四郎可申候、穴賢/\、
  追啓、謙信為遺言、刀一腰次吉作秘蔵尤候、以上、
    三月廿四日      景勝(花押a)
        小嶋六郎左衛門とのへ


【史料4】石黒成綱宛上杉景勝書状
態用一書候、爰元之儀可心元候、去十三、謙信不慮之虫気不被執直遠行、力落令察候、依之、遺言之由候間、実城可移之由、各強理候条、任其意候、然、信・関諸堺無異義候、可心易候、扨々、吾分事、謙信在世中別懇意、不可有忘失義、肝要候、当代取分可加意候条、其心得尤候、猶喜四郎可申候、穴賢/\、
  追啓、謙信為遺言、刀一腰吉連作秘蔵尤候、以上、
    三月廿四日      景勝御居判
       石黒左近蔵人との


【史料5】太田道誉宛上杉景勝書状
雖未申通、一筆啓述候、去十三謙信不慮之煩不被取直遠行、恐怖可有識察候、仍任遺言景勝可移実城之由、様々雖令斟酌、強各理候間、応其意候、然万方仕置謙信在生不相替候、可心安候、扨亦、其表之儀、謙信被申置子細共候、其上鬱憤弓箭、乍若輩当代猶以存詰候条、不相違入魂可為喜悦候、尚重畳可申候、恐々謹言、
  追啓、謙信遺物細刀一腰差越之候、為形見自愛尤候、
    三月廿六日     景勝
    太田美濃守殿


【史料6】吉江信景宛本庄全長書状
御書之趣精拝領、抑今度 謙信様御他界、乍恐、万民之浮沈此時候、然、任 御遺言即御実城御移、各々馳走千秋万歳御目出奉存候、随、愚入事奉対、御当代急度可走廻由被仰下候、如斯被入御手 御諚云、惣躰別心無之云、自今已後無二可抽忠信存意候、委曲之旨桐澤左馬亮方申達之由、可預御披露候、恐惶謹言、
             本庄入道
                 全長(花押)
    四月廿日
  吉江喜四郎殿


〔1.上杉景勝〕
 越後国上杉謙信は『上杉家御年譜 一 謙信公』(495~6頁)によれば、3月9日の午の刻に急病で倒れると、持ち直すことなく13日の未の刻に亡くなったといい、15日に葬儀が執り行われたという。確かなのは13日に亡くなり、その数日前に「虫気(腹痛)」で倒れたことである(渡辺慶一(編)『上杉謙信のすべて』47~9頁)。
 謙信の養子のひとりである上杉弾正少弼景勝は、病臥している謙信が残した遺言により、後継者に指名されたらしい。その時期は、謙信が急逝した直後なのか、それとも葬儀が執り行われた直後なのか、残念ながら明確ではないが、ともかく景勝は、在府していた越後衆の歴々から、謙信遺言の旨に従うべきとの後押しを受けて、府城春日山城における自分の郭から主郭へと移り、越後国上杉家の当主の座に就いた。
 そして景勝の動向が史料上で初めて知れるのは、【史料1】の通り、謙信最晩年の側近衆であった吉江喜四郎信景・三条道如斎信宗を取次として能登代官の鯵坂備中守長実の許へ飛脚を立てて、謙信が急逝した事実を報知していることである。これに対して鰺坂長実と能登衆たちは景勝に忠信を誓っているのだが、景勝の発した訃報は、【史料1】の文意からして3月17日頃に鰺坂の許に届いたようなので、『上杉家御年譜』に記されている通り、15日に謙信の葬儀が執り行われたのだとしたら、鯵坂は葬儀後に謙信急逝の事実を知らされたことになる。当然ながら、越中東・西郡の代官である河田豊前守長親・吉江織部佑景資、関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子に対しても、鯵坂と同時期に訃報は発せられたであろう。
 こうして景勝は代官たちと交信するなか、【史料2~4】の通り、3月24日には、越中西郡代官の吉江景資を通じて、景勝に対する忠信を誓ってきたであろう越中衆(神保氏旧臣)のなかでも、生前の謙信から懇意を受けた神保安芸守氏張・小嶋六郎左衛門尉職鎮・石黒左近蔵人成綱たちへ宛てた書状を認め、謙信が突然の「虫気」で倒れると、快復しないまま亡くなってしまったので、その落胆のほどを察してほしいこと、これにより、越後衆の歴々から、「遺言」の通りに「実城」へ移るべきであると、強く勧められたので、彼らの思いに従ったこと、諸方の境目に異変はないので、安心してほしいこと、謙信から受けた懇意を忘れないでほしく、「当代(景勝)」においても手厚く配慮していくつもりなので、よく心得ておいてほしいこと、これらを吉江喜四郎信景が詳報することなどを伝え、それぞれへ謙信の遺言と称して、刀を形見分けしている。残念ながら、神保氏張・小嶋職鎮・石黒成綱たちの返書は残っていないが、彼らの同輩である唐人式部大輔親広・長沢筑前守光国が景勝の跡目相続に祝意を表して太刀を献上した書状の写しが残っている(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』452頁 ◆『上越市史 上杉氏文書集』1488・1489号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『上杉氏年表』174~5頁 ◆ 片桐昭彦(論)「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」13頁)。
 また、【史料5】の通り、3月26日には、取り分け謙信と関係が深かった関東味方中の太田美濃入道道誉(資正。三楽斎)に宛てて、より丁寧な直状を認め、越中衆と同内容で謙信急逝の事実と自身の跡目相続の経緯を伝えるとともに、分国中の統治は「謙信在世」と変わらず万全なので、安心してほしいこと、関東表の事情については、謙信が詳しく言い残されており、その折に鬱憤を晴らすような戦いに臨めるのであればと、若輩ながら意気込んでいるゆえ、これまでと変わらず提携してもらえれば、大変喜ばしいこと、これらを懇ろに伝え、やはり謙信の遺言と称して、謙信愛用の細刀を形見分けをしている(花ヶ前盛昭(編)『上杉景勝のすべて』16・18頁 ◆ 黒田基樹(編)『岩付太田氏』157頁)。
 その後、越後国三条城将の神余小次郎親綱に不穏な動きがあったり、奥州黒川の蘆名家の軍勢が境目から攻め込んできたりして、蒲原郡が混乱に陥ったことから、これらに対処する一方、かつて上杉輝虎期に甲州武田・相州北条陣営に鞍替えして国内で反乱を起こすも失敗に終わると、嫡男を人質として越府に差し出し、自らは法体となって自領内での蟄居処分を下されていた揚北衆の本庄弥次郎入道全長(繁長。雨順斎)に忠信を求めるため、上田衆の重鎮である桐沢左馬允具繁を越後国猿沢城へ向かわせたところ、【史料6】の通り、4月晦日に本庄全長が取次の吉江喜四郎信景へ宛てた返書を認め、このたびの「謙信様御他界」は、恐れながら、「万民之浮沈」にかかわる事態であること、そうしたところ、「御遺言」の通りに「御実城」へ移られて諸事を取り仕切られており、御当家繁栄の門出に祝儀を申し上げること、よって、「御当代」から「愚入」に対せられ、しっかりと精励するようにと仰せ下されたこと、こうして御配下に属したからには、御下命に従うといい、全ての事柄に異心がないといい、今から先は無二の忠信を尽くす所存であること、詳しくは「桐澤左近亮方」へ申し伝えたので、これらを「御披露」してくれるように頼んでいる(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』452~3頁 ◆ 小林健彦『越後上杉氏と京都雑掌』178~182頁 ◆『村上市史 資料編 古代中世編』347頁)。このやり取りは景勝が本庄全長の処分を解除したのではないだろうか。



【史料7】結城晴朝宛上杉謙信書状
就越山再三示給、喜悦之至候、如啓、先達北国無残所納手裏候之条、越山令必然、分国中及陣触候、来月中旬至沼田・厩橋可打着之条、味方中被示合、御手合肝用候、猶露條目候間、不能具候、恐々謹言、
  追啓、段子弐巻到来快然候、是一儀計白布拾端進之候、已上、
    三月十八日      謙信(花押a)
    結城左衛門督殿


【史料8】水谷勝俊宛上杉謙信書状
就越山再三示給、喜悦之至候、如啓、先達北国無残所納手裏候之条、越山令必然、分国中及陣触候、来月中旬、至沼田・厩橋可打着之条、味方中有諷諫手合肝要候、恐々謹言、
    三月十八日      謙信(花押a)
      水谷伊勢守殿


【参考史料】宇都宮広綱宛上杉謙信ヵ条書
   覚
一、越山之儀、来月中旬必然之事、
一、両和之儀、令得其意候事、條々口上、
一、二、三ヶ城、計策専用之事、
 付、奥口之事、
  以上
(朱印)三月十八日                            
     宇都宮弥三郎殿


【史料9】吉江信景・三条信宗宛北条芳林・同景広書状
就其許御仕合、当口之儀無御意元之由侯て、市瀬方被指越侯、過分忝侯、於様躰委彼方令面述侯、事々重可申侯、恐々謹言、
  追、御前可然様御心得任入侯、以上、
             北丹  
              景広(花押)
    三月廿六日
             同安入
              芳林(花押)
    吉喜
    三道
      御宿所 


【史料10】吉江信景宛北条芳林・同景広書状
両度之御書具拝見、過分之至侯、内々疾ニも可及御請侯処、万端致朦昧遅延、寔以令迷惑侯、此般 上様御逝去不及是非侯、当表之事、御威光不浅上、動揺以外侯つる、雖然、御味方中令相談、于今御煩之様取成候、猶様躰市瀬右近允申分候、此旨宜預御披露候、恐々謹言、
           北条丹後守
               景広(花押)
    三月廿七日
           同安芸入道
               芳林(花押)
    吉江殿


【史料11】北条高定・吉江信景・三条信宗宛倉賀野尚行書状
就其許御仕合之儀、当口無御心元被思召、一瀬方為御使被指越候、善之地罷越、御使懸御目、御様躰承届、過分之至存候、於御様躰、彼御方申展候間、定可被仰上候、雖無申迄候、可然様御心得御披露奉存候、恐々謹言、
         倉賀野左衛門五郎
    三月廿七日     尚行(花押)
   喜四郎殿
   下総守殿
   道如斎
      参御宿所


【史料12】吉江信景宛津布久信定書状
今度 御使節善之地迄御移、其上倉左(倉賀野尚行)彼地迄招御申候、則我々同心申急可申候得、御用心如何奉存候間、後日罷越、御様躰承申、乍恐御笑止奉存候、扨又、御番御普請之儀無如在可仕候、可被思召御心安候、此等之趣、御次之時分御披露奉頼候、恐々謹言、
          津野(ママ)久刑部少輔
   三月廿八日       信定(花押)
 喜四郎殿
     人々御中


〔2.北条高広・同景広〕
 謙信の訃報を受けた関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子のうち、親の方の北条高広は法体となって弔意を表し、安芸入道芳林と号している(関 久『越後毛利氏の研究』150頁)。
 これは、かつて上杉輝虎から譜代家臣として様々な芳志を受けておきながら、関東代官として、相州北条氏政との和睦交渉に携わった際、交渉をまとめられずに失敗したのを叱責されたことや、輝虎による総州経略が失敗に終わり、関東味方中の離反が相次ぎ、最前線で孤立したことなどから、相州北条・甲州武田陣営に鞍替えしてしまったにもかかわらず、のちに越・相同盟が成立したのを機に越後国上杉家へ復帰が許された恩義に報いたものであろう。
 こうして内々に弔意を表した一方、北条高広・同景広父子は、景勝の指示によるものかは分からないが、【史料7・8】の通り、この春の謙信による関東大遠征に期待を寄せている関東味方中の結城左衛門督晴朝からの出陣要請がひっきりなしに届くなか、3月18日、すでに亡くなっている謙信を装って結城晴朝とその重臣である水谷伊勢守勝俊へ宛てて書状を送り、再三にわたる出馬要請に対する喜悦の意を表するとともに、先頃に北国の平定を終え、関東遠征に向けて、すでに分国中へ陣触れを済ませており、必ず来月中旬には上野国沼田・厩橋に着陣するので、味方中と示し合わせて参陣するように伝えている。これは、謙信があらかじめ各代官に配布しておいた「判紙(謙信の花押が据えられた白紙。味方中へ急報を要する場合など、特例で謙信の指示、あるいは代官の裁量に任され、代官の方で文面を書いて用いられた)」を使用したものと考えられている(『上越市史 上杉氏文書集』464号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』260頁 ◆ 黒田基樹『関東戦国史』211~214頁)。
 その後、北条父子は、景勝から二度も書信が寄せられたにもかかわらず、どちらにも返信しなかったので、【史料9・10】の通り、3月26日に取次の吉江喜四郎信景・三条道如斎信宗へ宛てた書状を認め、このたび御当家が見舞われた憂き目により、「当口」の状況が案じられるとの思いから、使者の「市瀬方(一瀬が正しいと思われる。右近允。謙信旗本)」を寄越されたこと、この身に余る御配慮に恐縮していること、こちらの状況については彼方(一瀬右近允)へ直に申し述べたこと、諸々については続報すること、よって、これらを「御前(景勝)」へ然るべく取り次いでくれるように頼んでいる。この続報として、翌27日には吉江信景のみへ宛てた書状を認め、二度も寄せられた「御書」をつぶさに拝読させてもらい、身に余る御配慮に感謝してもしきれないこと、内々にすぐにでも御返答するべきところ、すっかり茫然自失の体に陥り、御返事が遅れてしまったこと、このたびの「上様(謙信)御逝去」は痛恨の事態であり、こちらでは「御威光」が強く及んでいたばかりに、はなはだ「動揺」していること、それでも何とか「御味方中」と相談したうえで、管内に対しては、今なお(謙信は)療養中であると装っていること、こちらの様子は「市瀬右近允」が説明すること、よって、これらをよろしく「御披露」してくれるように頼んでいる(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』458~460頁 ◆ 関 久『越後毛利氏の研究』125・172頁)。
 使者の一瀬右近允は、【史料11・12】の通り、上野国群馬郡の厩橋城から、関東味方中の河田九郎三郎(のちに備前守を称する。足利(館林)長尾氏の旧臣か)が拠る同国勢多郡の善城へ向かい、そこへ招集された味方中の倉賀野左衛門五郎尚行(上野国勢多郡山上城将)や、番城の用心のために遅れて出向いてきた津布久刑部少輔信定(桐生佐野氏の旧臣)らに対し、謙信急逝の事実を伝えている。このことからすると、これらの関東味方中は、謙信の訃報に接した北条父子からは謙信急逝の事実を知らされていなかったようであり、北条父子が謙信療養中を装うことを相談した「御味方中」とは、沼田城衆の河田伯耆守重親・上野中務丞家成・大石惣介芳綱・小中彦右兵衛尉・竹沢山城守、女淵城衆の後藤左京亮勝元(『上越市史 上杉氏文書集』1369号 ◆ 栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』173~188頁)、といった越後衆のみを指すのであろう。


※ 北条高広・景広父子が拠る厩橋城と並ぶ、関東における越後国上杉家の一大拠点である沼田城の城将を任されていた河田重親(謙信旗本)は、分郡代官の任ではなく、あくまで城将の任ではあったが、越中代官の河田長親の叔父であり、謙信の信頼も厚く、北条父子が謙信の出馬を引き出したいがために、偽りの情報を寄越してくることに困っていた謙信は、あえて重親に敵状や時節などの情報を確認しているほどである(『上越市史 上杉氏文書集』1282号 ◆ 池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』58頁)。この重親は、天正6年正月中旬に謙信から、厩橋の北条父子の許へ沼田衆を引き連れて移り、謙信による関東大遠征の準備を整えるように指示されていたので、謙信の訃報を厩橋で聞いた可能性がある(『上越市史 上杉氏文書集』1388号 ◆ 関 久『越後毛利氏の研究』163~4頁)。

※ 【参考史料】は、『謙信公御書集』では元亀元年3月条に置かれている。しかしながら、上杉輝虎が「越山之儀、来月中旬必然」と伝えているのに対し、当該期に輝虎は関東在陣中であるばかりか、輝虎が帰国の途に就くのは4月中旬であるから、全く状況が一致していない。これは、【史料7・8】と日付が一致していること、両書中の「越山令必然…来月中旬至沼田・厩橋可打着之条」といったように、必ず来月中旬に越山すると伝えていること、謙信の関東出馬を強く要請していたのは結城晴朝のほか、常陸国衆の佐竹次郎義重、その客将で常陸国衆の太田美濃入道道誉・梶原源太政景父子(当時は下野国榎本城に進出していたか)・下野国衆の宇都宮弥三郎広綱を中核とした「東方之衆」であることから、北条父子は宇都宮広綱に対しても謙信を装った書状を送ったと考えられるので、【参考史料】は【史料7】の「条書」にあたるのではないだろうか(『上越市史 上杉氏文書集』1374号)。もしこの通りであれば、当然ながら佐竹義重と太田・梶原父子に対しても同様であろう。

※ 【史料11・12】は、『新潟県史 資料編』『上越市史 上杉氏文書集』において、天正2年の発給文書として扱われている。しかしながら、【史料11】の方は【史料9・10】と使者が「市瀬・一瀬」で一致していることと、署判者の一人である三条信宗が取次として活動を始めたのは天正5年であることから、『謙信公御書集』が同史料を同6年の発給文書としているのに従うべきであろう。そして、【史料12】の方は、『新潟県史』が【史料11】と関連付けて天正2年の発給文書としており、これは越府からの使者が倉賀野尚行の拠る上野国善城に到来したことが一致しているからだと思われる。そうなると、越府から到来した使者がもたらした「御様躰」を聞いて津布久信定が抱いた「御笑止」という感情は、謙信急逝に対する心痛を指すものと考えられるので、『新潟県史』が両文書を関連付けたことに従い、そのまま一緒に年次を天正6年に動かした。



【史料13】上条政繁起請文案
天罸起請文
 一、惣躰備方於何事も、おんつ(隠密)の事、他言いたさす、尤存智通、しんそ(親疎)なく意見可申候、扨亦、ミツ事、いかやう御尋候共、おたいはうなとにて申ましく候、ミツ事さたきかせ、たゝ一すし景勝御前存、御意見可申候事、
         若此旨於偽
ほんてんたいしゃく(梵天帝釈)、四大天王、惣日本大小之神祇、殊ニハ日光・月光・摩利支天・愛宕大こんけん(権現)・飯綱・蔵王・弥彦・二田八幡大菩薩・関山大こんけん・府中六所・春日大明神・ゆするき(石動)山・ふぢ(富士)こんけん・天満大自在之御神可蒙御罸者也、仍如件、
    三月 日       上条
     「(墨引)

※ 著者不明(伊佐早謙か)の『畠山入庵考』による当該起請文案の翻刻を参考にして、見せ消ち部分の字句は除いた。


〔3.上条政繁〕
 能州畠山家出身であることから、謙信による能州平定の大義名分の象徴として七尾城の別郭に置かれたとみられる謙信一家の上条弥五郎政繁は、【史料10】の通り、謙信急逝後の3月中に上杉景勝へ宛てた誓詞を認め、おおよそ「備方」の計画内容は何事であっても他言せず、当然ながら方針に沿った「意見」を惜しみなく述べること、それからまた、密事の内容について執拗に尋ねられても、「おたいほう(上杉景勝の母。仙洞院)」などに決して打ち明けたりはしないこと、密事が滞らないように手配を進め、ただひたすらに「景勝」の利益を考えて「御意見」を述べること、これらを神名に掛けて誓っている(東京大学史料編纂所 所蔵史料データベース『畠山入庵考』0080・0081・0090齣 ◆ 池享・矢田俊文(編)『上杉氏年表』175頁)。
このことは、景勝が謙信のやり残した事業を引き継ぐにあたり、両者は今後の戦略構想などについて密談したのであろうから、『上杉家御年譜』に記されている通り、政繁が謙信の葬儀に参列したのであれば、分国中の代官たちが訃報を知らされた時期から考えても、天正5年11月の時点で能登在国が確かな政繁は、翌6年の春先には越府へ戻っていたことになる(『上越市史 上杉氏文書集』1358号)。
 ということは、天正6年春に謙信が挙行するはずであった関東大遠征において、謙信の信頼が厚い直江大和守景綱の補佐と監視を受けながら能登衆を率いる率いる予定であった政繁は、能登代官の鯵坂備中守長実が陣触れの日限に従って能登衆を引き連れてくると、その時点から、鰺坂長実と交替して能登衆を率いる手筈となっていたことにもなる。それは、天正5年分国衆交名注文によると、越中国新庄城の城将を長期務め、謙信の越中平定後には越中西郡代官として越中増山城代を短期務めた鰺坂長実(『富山県史 通史編 中世』1046頁 ◆ 栗原修(論)「上杉氏の領国支配機構と奏者 -吉江喜四郎信景の態様を通して-」63~4頁)は、越中東郡代官の河田豊前守長親と同西郡代官の吉江織部佑景資の両名と共に、馴染みの越中衆を率いることになっていたからであろう。


〔4.河田長親・吉江景資・鯵坂長実〕
 越中国東郡代官兼松倉城代の河田豊前守長親、同国西郡代官兼増山城代の吉江織部佑景資、能登国代官兼七尾城代の鯵坂備中守長実は、謙信旗本のうちでも、取り分け寵遇を受けた者たちであったが、越後国上杉家が江(尾)州織田家の北国衆と対向しているなかでは、謙信の病臥、急逝、葬儀、どの段階で知らされたところで、新領の統治を放り出して本国へ駆けつけることは叶わず、そのまま北陸に駐留を続けるほかなかったであろう。
 せめて謙信から受けた寵遇に報いるため、河田長親はすぐさま法体となって弔意を表し、豊前入道禅忠と号している(『上越市史 上杉氏文書集』1588号 ◆ 栗原修『戦国期上杉・武田氏の上野支配』76頁)。これは天正9年に常陸入道宗誾として所見される吉江景資も同様であり、当初は恐らく織部入道であったろう(『上越市史 上杉氏文書集』2113・2163号)。
 残念ながら、謙信急逝直後に上杉景勝と交信している書状が残っているのは、【史料1】の通り、能登一国を一人で管掌していた鯵坂長実のみである。これによれば、3月17日以前に鯵坂は景勝からの飛脚で訃報に接すると、18日に管内の主立った将士を七尾城へ呼び寄せ、そこで謙信が急逝した事実を伝えるとともに、凶報に驚く列席者一同に呼び掛け、謙信の跡目を継いだ景勝に忠信を誓う血判起請文を書かせている。そして19日には、取次の吉江信景・三条信宗へ宛てた書状を認め、このたび御当家が見舞われた憂き目は言葉では表せないほどの御痛恨の事態であること、いち早く「御飛脚」を寄越されたので、この有事を理解したこと、それゆえに謙信の「御様子」に何事かが起こったと、もはや越中と「当国」では秘かに知れ渡っているようなので、昨18日に能登衆の主立った者たちを招集し、内証事を申し聞かせたところ、その誰もが衝撃を受けていたこと、そこで列席者一同に対し、(景勝へ)誓詞を呈して忠信を誓うべきではないかとの考えを示したところ、一同は何が何でも指図に従うとの決意を示したゆえ、自分の方で用意した案文通りに血判起請文を書かせて、それを呈すること、とにかく管区の体制は万全であり、恐れながら御安心してほしいこと、自分の存念は条目を基に、使者として上府させる長尾入道堅佐を通じて詳しく申し述べさせてもらうこと、よって、これらをよろしく「御披露」してくれるように頼んでいる。(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』451頁 ◆ 栗原修(論)『上杉氏の領国支配機構と奏者 -吉江喜四郎信景の態様を通して-』63頁)。


〔むすび ー御館の乱前夜ー〕
 以上のように、越後国上杉家は景勝を当主に戴いて新たな船出を迎えていたわけだが、3月下旬、越後国三条城将の神余小次郎親綱が近辺の各層から証人を差し出させるなどして三条領が騒然となり、世間では「雑意」が噂されたことから、景勝が林部三郎右兵衛尉・楡井修理亮親忠(ともに謙信旗本)を三条城へ派遣し、景勝の許可を得ていない勝手な処置について詰問するとともに、神余家中の証人はそのまま要害内に留め、そのほかは在地へ帰すように指示したところ、神余親綱は、〝自分のとった行動に関して手落ちがなかったこと、自分に不正や叛意の無いこと〟(小林健彦『越後国上杉氏と京都雑掌』180頁)を上使両衆と取次三人衆を通じて弁明した(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』462~4頁 ◆『上越市史 上杉氏文書集』1483号』)。なかでも神余は身の潔白を示すため、取次三人衆に対し、上使両衆の眼前において、景勝へ呈する血判起請文を認めることを望んだところ、そのような景勝の指示は受けていないにもかかわらず、とても見届けるわけにはいかないとして、上使両衆に固辞されてしまい、とりあえずは断念したが、とにかくその意を酌んでほしいこと、ただひたすらに血判起請文を呈させてほしいこと、これらを上使両衆に言伝てを頼んだので、然るべく取り成してくれるように求めている。
 さらには同じ頃、奥州黒川の蘆名止々斎(盛氏)・同盛隆父子が遣わした軍勢が境目を越えて越後国中郡に攻め込んできたので、4月3日頃に景勝は遅ればせながら蘆名父子の許へ使者二名を向かわせ、謙信急逝の事実と自身の跡目相続の経緯、今後も謙信在世時のように友好関係を続けていきたいことを伝えるとともに、止々斎には、かつて景勝が謙信から下賜され、「冥感(信心により神仏が感応して冥利を授かる)」があるとして肌身離さずにいた佩刀を贈り、盛隆には具足一領と甲一刎を贈るも、それでは不足と思い直したのか、加えて「寒物」も贈るなどして、蘆名父子の懐柔に努めたが効果はなかった。それでも16日には在地の越後衆が会津黒川衆を撃退している(『新潟県史 資料編』2936号 ◆『上越市史 上杉氏文書集』1486・1487号 ◆ 小林健彦『越後上杉氏の京都雑掌』178~180頁 ◆ 片桐昭彦(論)「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」13頁)。
 そして、4月下旬までには、謙信のもうひとりの養子であった上杉景虎が、景勝から何がしかの圧力を受けて憤慨すると、自らも跡目相続を宣言し、5月朔日には三条の神余親綱がついに反旗を翻すといった状況のなか、景勝は支持者に命じ、景虎の支持者と思しき柿崎左衛門大夫、北条下総守高定・同助三郎父子、片野将監亮・同七郎兵衛尉父子(将監亮は北条高定の舅という)らを10日までに次々と殺害していったので、たまらず景虎は、ちょうど謙信の月命日にあたる13日に春日山城の自分の郭から府内の御館へと移った。これには謙信の一家衆であった山本寺伊予守定長のほか、大身の部将が十名ほど従ったという。この景虎の行動に呼応するようにして、三条の神余に同調した越後国栃尾城主の本庄清七郎も反旗を翻し、神余と本庄は相談のうえ、蘆名父子に再出兵を呼び掛けたので、蘆名父子は謙信在世中から越後国上杉家と友好関係にあった一方、常陸国衆の佐竹義重を巡って、上杉景虎の実家である相州北条氏政とも手を結んでおり、その北条氏政からの要請もあってか、神余・本庄の呼び掛けに応じ、24日、小田切治部少輔・小沢大蔵少輔が率いる軍勢を差し向け、蒲原郡菅名荘を襲撃させた。会津衆は翌日には荘内の過半を制圧するも、26・7日は大雨の影響もあって停滞したことから、28日に足軽部隊を中心とした戦術に切り替えて雷城に攻め掛け、主郭のみに追い詰めたところ、各所から集まった越後衆の援軍が到来したので、挟撃される前に援軍の方を迎撃して三十人ほどを討ち取ったが、突破口を開いて後退する際に五十人ほどを討ち取られてしまうと、蘆名父子から敗戦の失態を責められて、やむなく会津領越後国蒲原郡小川荘三川の平等寺薬師堂に逼塞している。こうしたなか、春日山城と御館の間では、毎日のように激しい戦闘が行われ、両勢力による越後国上杉家の内乱が始まったのである(高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』475頁 ◆『新潟県史 資料編』2936号 ◆『戦国遺文 後北条氏編』1990号 ◆ 布施秀治『上杉謙信伝』(附録)7頁 ◆ 関 久『越後毛利氏の研究』160~2頁 ◆ 瀧澤健三郎『越後入廣瀬村編年史 中世編』◆ 渡辺三省『直江兼続とその時代』◆ 七宮涬三『三浦・会津蘆名一族』218頁 ◆ 下山治久『戦国時代年表 後北条氏編』286頁 ◆ 小林健彦『越後上杉氏と京都雑掌』182頁 ◆『先祖由緒帳』馬廻組 105齣)。


※ 神余親綱は、取次の吉江信景・三条信宗・北条高定を通じて上杉景勝に対し、「当地長敷衆上府之儀、上様(謙信)御遠行之砌より再三申理候、」と、謙信急逝時より、再三にわたって家老衆を上府させることを申し出ていたというから、本国の在城衆には、すぐさま訃報が伝えられたようである(『上越市史 上杉氏文書集』1483号)。

※ 景勝が蘆名盛隆に贈った「寒物一」とは、単位が「一」とあるから、巻物か板物と書き写すべきところを誤ったのかもしれない(『上越市史 上杉氏文書集』1277号)。

※ 天正7年6月28日付岡本但馬守(号元悦。房州里見義頼の重臣)宛上杉景勝書状(『上越市史 上杉氏文書集』1844号)によると、景勝の方では、「謙信遠行以往、三郎(上杉景虎)徒構意趣、雖及鉾楯…」と述べている。

※ 『越後入廣瀬村編年史』の著者である瀧澤健三郎は、上杉景勝方の圧迫を受けて春日山城の自分の郭から退去せざるを得なくなった上杉景虎は、あえて謙信の月命日を選んで御館へ移り、景勝への対決姿勢を示したと考えられている(同書102頁)。

※ 通説では、上杉景虎が御館に移る以前の天正6年5月5日に春日山城と御館の間に位置する大場の地で両陣営による合戦が行われたとするが、その根拠となる5月16日付福王寺兵部少輔宛上杉景勝感状写(『上越市史 上杉氏文書集』1500号)における「五月五日、於大場弥太郎(福王寺兵部少輔の嫡男)走廻候事、」の日付は、写された段階で十が書き落とされた可能性がある(『越境記』21齣)。まだ景虎が春日山城に居た5日の時点で、両陣営による戦いが大場の地で行われたことに違和感を覚えていたが、15日であるならば、『平等寺薬師堂資料』における「三郎殿春日を引のき、御城之内へ御入候…春日と日々の御調義候、」という記述からしても得心がいく。

※ やはり通説では、天正6年4月に景虎方の古志郡栃尾城主である本庄清七郎と景勝方の山東郡与板城主である直江与右兵衛尉信綱の間で戦闘が始まり、その翌月には、知らせを受けた景勝から刈羽郡赤田城主の斎藤下野守朝信は与板へ出向いて加勢するように指示を送られたとしているが、『上越市史 上杉氏文書集』は、これらに関する文書を天正7年に置いている。それは天正6年当時は斎藤朝信が在府している事実に気付いたからであろう(『上越市史 上杉氏文書集』1807・1820・1824~1826号)。景勝が与板衆の直江一族・重臣を励ました天正6年5月10日付上杉景勝条書写(同前1498号)も、本庄清七郎が退勢を挽回するために総力を挙げて与板城を攻めようとした同7年5月に移すべきと思われる。

※ 越後国菅名荘に侵攻してきた会津黒川衆の中心人物である小沢大蔵少輔は、天正7年6月頃に取次として上杉景勝とやり取りしているので、これ以前に、敗戦の責めを負わされて平等寺薬師堂で逼塞していた会津黒川衆は蘆名父子からの折檻を解かれていたようである(『上越市史 上杉氏文書集』1836号)。



『上杉家御年譜 一 謙信公』(原書房)◆ 高橋義彦(編)『越佐史料 巻五』(名著出版)◆『新潟県史 資料編5 中世三』2936号 平等寺薬師堂史料・内陣正面右側上部嵌板墨書 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』897号 上杉輝虎ヵ条書、1199号 倉賀野尚行書状、1200号 津野久信定書状写、1277号 上杉謙信書状、1282号 上杉謙信書状(写)、1326・1327号 上杉謙信書状、1358号 上杉謙信条書(写)、1375・1388号 上杉謙信書状(写) ◆『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1476号 鯵坂長実書状写、1477号 上杉景勝書状写、1478号 上杉景勝書状、1479号 上杉景勝書状写、1480号 北条芳林・同景広連署状、1482号 北条芳林・同景広連署状写、1483号 神余親綱書状、1484号 上条宜順起請文案、1483号 神余親綱書状(影写)、1486号 上杉景勝書状(写)、1487号 上杉景勝書状、1488号 唐人親広書状(写)、1489号 長沢光国書状(写)、1490号 本庄全長書状(影写)、1492号 由良成繁書状(写)、1497号 上杉景勝感状(写)、1498号 上杉景勝条書(写)、1500号 上杉景勝感状(写)、1523号 上杉景虎書状(写)、1588号 河田禅忠書状、1807号 直江信綱感状(写)、1820号 上杉景勝書状、1824号 斎藤朝信書状(写)、1825号 直江信綱感状(写)、1826号 今井久家・直江重綱連署状、1836・1844号 上杉景勝書状、2031号 上杉景勝朱印状、2113号 上杉景勝書状(写)、2163号 吉江宗誾書状 ◆『戦国遺文 後北条氏編』(東京堂出版)1990号 北條氏政覚書 ◆「戦国時代の越中(神保・椎名の角逐と上杉氏の越中進攻)」(『富山県史 通史編2 中世』)◆「本荘氏記録」(『村上市史 資料編1 古代中世編』)◆ 布施秀治「附録 勇将猛士 (柿崎景家 家憲)」(『上杉謙信伝』謙信文庫)◆ 関 久「十一代 北条毛利丹後守 十二代 北条毛利丹後守」(『越後毛利氏の研究』上越郷土研究会)◆ 瀧澤健三郎「西暦一五七八 天正六年 五月十三日 景虎、妻子姑を同伴して春日山を退去し、府中御館に入城す」(『越後入廣瀬村編年史 中世編』野島出版)◆ 渡辺三省「御館の乱と領国の確立 景勝・景虎の継嗣争い」(『直江兼続とその時代』野島出版)◆ 滝沢定春「上杉謙信の出自とその家族(逝去と死因)」渡辺慶一(編)『上杉謙信のすべて』(新人物往来社)◆ 花ヶ前盛昭「上杉景勝の出自と越後時代(御館の乱)」(花ヶ前盛昭(編)『上杉景勝のすべて』新人物往来社)◆ 西澤睦郎「謙信と越後の領主(越後毛利氏とその城館 北条高広と上杉謙信)」◆ 黒田基樹「謙信の関東侵攻(佐野領支配の開始)」(池享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』高志書院)◆ 片桐昭彦「天正六年 謙信、「不慮の虫気」で倒れ、死去。四十九歳 景勝、景虎の家督争い。景勝、春日山を占拠」(池享・矢田俊文(編)『増補改訂版 上杉氏年表 為景・謙信・景勝』高志書院)◆ 栗原修「上杉氏の隣国経略と河田長親(長親発給関係文書について)」「厩橋北条氏の族縁関係(武田・織田領国下の北条氏)」「上杉氏の勢多地域支配(「名字尽」にみえる上野国武将)(河田九郎三郎と倉賀野尚行)」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)◆ 木村康裕「(上杉景勝の世界(景虎・景勝と御館の乱)」(『戦国期越後上杉氏の研究 戦国史研究叢書9』岩田書院)◆ 杉山博「上杉輝虎(謙信)と太田資正(道誉) -三戸文書の再検討-」(黒田基樹(編)『岩付太田氏 論集 戦国大名と国衆12』岩田書院)◆ 小林健彦「戦国大名上杉氏の対朝幕交渉(御館の乱に於ける神余氏)」(『越後上杉氏と京都雑掌 戦国史研究叢書13』岩田書院)◆ 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出(上杉家内部の暗闘と謙信の死)」(『上越市史研究 第10号』)◆ 七宮涬三「伊達・佐竹の狭間に立つ(盛氏の死去)」『三浦・会津蘆名一族』(新人物往来社)◆ 下山治久「天正6年5月19日条」『戦国時代年表 後北条氏編』(東京堂出版) 黒田基樹「北関東の攻防戦と謙信の死(死せる謙信、関東出陣を表明)」『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫)◆『畠山入庵考』(〔東京大学史料編纂所 所蔵史料目録データベース〕)◆「岡田次左衛門由緒」(〔市立米沢図書館デジタルライブラリー〕『先祖由緒帳』御馬廻組)◆「両勢初て矢合の事」(〔市立米沢図書館デジタルライブラリー〕『越境記』)
コメント

天正五年上杉家家中名字尽(分国衆交名注文)における越後衆の序列と人事について

2018-03-22 07:06:43 | 雑考

 天正5年12月23日に越後国上杉謙信が自ら筆を執った分国衆交名注文における越後衆の序列と人事について考えてみたい。そこで、分国衆交名注文から、左には分国ごとに越後衆のみを抜き出して羅列し、右では、それを身分ごとに分けて羅列し、その性格について検討を加える。本国衆のみは天正三年上杉家軍役帳と対比する。


   〔関東衆〕         【譜代衆】
  
   北条安芸守         北条安芸守高広
   北条丹後守         北条丹後守景広
   後藤左京亮         上野中務丞家成
   河田伯耆守
   大石惣介          【旗本衆】 
   竹沢山城守
   上野中務丞         後藤左京亮勝元
   小中彦兵衛尉        河田伯耆守重親
                 大石惣介芳綱
                 竹沢山城守
                 小中彦右兵衛尉


 譜代衆のうち、関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子は上野国厩橋城に拠った。当時、謙信の意向により、父親の高広は代官と厩橋城代の地位を息子の景広に譲って大胡城に在城していたともいわれるが、大胡領を管掌しながらも、基本的には厩橋城にいて景広を補佐していたようであり、こうして関東衆を率いる立場であった北条父子の最上位は不動であるのだろう。上野中務丞家成は上野国沼田城の城衆の一人であり、身分は沼田城将の河田伯耆守重親よりも高いが、関東衆全体における序列は高い方ではない。沼田城といえば、北条父子が拠る厩橋城に次ぐ、越後国上杉家の重要拠点であるが、城衆の河田重親と上野家成を見て分かるように、北条父子以外の部将たちは、その身分と職責にかかわりなく、序列の変動が目まぐるしい。

 旗本衆のうち、上野国女淵城将の後藤左京亮勝元(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』)は、重要拠点の沼田城将を任されている河田伯耆守重親よりも上位につけている。天正2年や同4年に比定されている2月5日付後藤勝元・同新六宛上杉謙信感状(『上越市史』1186号、以下『上越』と略す。『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』204頁)にみられるような戦功を積み重ねた結果であろう。


      〔交名注文〕              〔軍役帳〕

 〔本国衆〕       【一家衆】        【一家衆】

 上杉十郎        上杉十郎         上杉弾正少弼景勝
 山浦源五        山浦源五国清       山浦源五国清
 山本寺伊予守      山本寺伊予守定長     上杉十郎
 琵琶嶋弥七郎      琵琶嶋弥七郎       上条弥五郎政繁
                          琵琶嶋弥七郎
 長尾小四郎                    山本寺伊予守定長
 千坂対馬守
 斎藤下野守       【揚北衆】        【揚北衆】
 安田宗八郎
 五十公野右衛門尉    五十公野右衛門尉重家   中条与次景泰
 菅名源三        竹俣三河守慶綱      黒川四郎次郎平政
 竹俣三河守       荒川弥次郎        色部弥三郎顕長
 荒川弥二郎       色部惣七郎長真      水原能化丸
 色部惣七郎       加地宗七郎        竹俣三河守慶綱
 加地宗七郎       中条与次景泰       新発田尾張守長敦
 柿崎左衛門大夫     安田新太郎堅親      五十公野右衛門尉重家
 本庄清七郎       新発田尾張守長敦     加地宗七郎
 吉江喜四郎       鮎川孫次郎盛長      安田新太郎堅親
 中条与次        大川三郎次郎長秀     下条采女正忠親
 河田勘五郎                    荒川弥次郎
 三条道如斎
 竹俣小太郎       【揚南衆】        【揚北衆】
 山岸隼人佑
 新保孫六        菅名源三         菅名源三
 安田新太郎       平賀左京亮重資
 北条下総守       新津大膳亮
 河田対馬守
 新発田尾張守      【譜代衆】        【譜代衆】
 船見
 松本          長尾小四郎景直      斎藤下野守朝信 
 山吉          千坂対馬守景親      千坂対馬守景親
 鮎川          斎藤下野守朝信      柿崎左衛門大夫
 大川          安田惣八郎顕元      新保孫六
 小国刑部少輔      柿崎左衛門大夫      竹俣小太郎
 堀江駿河守       竹俣小太郎        山岸隼人佑
 和納伊豆守       山岸隼人佑        安田惣八郎顕元
 本田右近允       新保孫六
 村山善左衛門尉     小国刑部少輔
             和納伊豆守
             村山善左衛門尉慶綱

             【旗本衆】        【旗本衆】

             本庄清七郎        船見宮内少輔
             吉江喜四郎資賢      松本鶴松
             河田勘五郎        本庄清七郎
             三条道如斎信宗      吉江佐渡守忠景
             北条下総守高定      山吉孫次郎豊守
             河田対馬守吉久      直江大和守景綱
             船見宮内少輔       吉江喜四郎資賢
             松本鶴松         香取弥平太
             山吉           河田対馬守吉久
             堀江駿河守        北条下総守高定
             本田右近允


 こうして本国衆の交名注文と軍役帳を対比すると、ここでも一家衆は最上層の区分で固定されているが、そのうちであっても、上杉苗字を許されている十郎ですら、席次については固定されたものではなく、例外なく序列の変動が激しい。そして、外様衆のうちで上位の席次を常に得ていた中条・色部に変動がみられるのは、かつて輝虎から本庄繁長の反乱時における忠信を認められて信頼を得ていた中条越前守(『上越』626号)の没後、謙信側近の吉江織部佑景資の子である与次景泰が入嗣するのを受け入れざるを得なかった中条家は、家中が反発していたとはいえ、もはや覆すことのできない人事である以上、景泰に協力を惜しんで中条家が功績を挙げられなければ、こうして序列が下がっていくのは避けられず、いずれ家中は景泰を盛りたてていくほかないであろうし、反乱を起こして失敗した本庄弥次郎繁長の下位に置かれることはない確約を得ていた色部家(『上越』1058号)は、当本人の色部弥三郎顕長が疾病による予定外の家督交替に見舞われてしまい、席次の件は永劫の約束であるとはいえ、新しい当主に代わった以上、本庄繁長という下限はあっても、ほかの越後衆との激しい競争は避けられず、次代の色部惣七郎長真は自力で高い席次を獲得しなければならないのであろう。

 この本国衆の序列において、取り分け気になるのは、越中駐留軍の有力者である長尾小四郎景直が譜代衆のうちで最上位に記載されていることである。長尾景直といえば、永禄5・6年頃に越中国金山の椎名康胤の養子となっている(『上越』412号)が、その居城である越中国松倉城に入った様子は窺えず、永禄11年に椎名康胤が越後国上杉陣営を離反してから、椎名・越中一向一揆と結んだ加賀一向一揆が越中国へ進出してきた元亀3年に至り、ようやく越中国に駐留する部将のひとりとして確認できる(『上越』1102号)。そして、謙信没後は越中代官の河田豊前守長親と共に、越中国で江州織田家の北国衆と戦い(のちには上杉陣営と織田陣営の間を変転とする)、敵方から椎名小四郎と呼称されている(『富山県史 史料編』1910号)ことからすると、元亀4年に滅ぼされた椎名康胤の名跡を長尾苗字ままで継いだ可能性が高い。このように苗字が併用されている例は、山浦上杉氏を継いだ村上源五国清にもみられる(『上越』1819号)。椎名氏の滅亡後、越中国松倉城に拠って金山領を管掌したのは河田長親であり、景直による椎名家の相続は名ばかりではあったが、織田軍との戦いでは河田と並び立っているほどなので、越中駐留軍の有力者であることに間違いはなかろう。つまるところ景直が本国衆登録であるのは、越中衆には東西の代官である河田長親と吉江織部佑景資だけでなく、現能登代官で前越中西郡代官の鯵坂備中守長実までが揃っており、このうえ景直までいては、いたずらに船頭が多くなってしまうのを気にしたのかもしれないし、長年に亘る北陸経略の功労者である寵臣の河田と鯵坂を前面に立てて、越中国平定を広く宣伝したかったのかもしれないが、後述する能登衆の事情に影響された面が大きい人事ではないかと思われる。

 苗字のみの部将は陣代が軍勢を率いるのであろう。揚北の外様衆の鮎川と大川は、かねてより、先年に反乱を起こして失敗した同族の本庄弥次郎繁長(雨順斎全長)が蟄居生活を送る越後国猿沢城の監視役を、謙信旗本の三潴左近大夫らと共に務めていた(『上越』614・1030号・1439号)ので、当主の鮎川孫次郎盛長・大川三郎次郎長秀とそれぞれの家中の一部は在地に残されることになったのであろう。旗本の船見は、天正三年軍役帳でも苗字のみであることからすると、この頃に船見宮内少輔が実家である信濃衆の須田家を継ぎ、何らかの事情により、船見家の当主が決まらないままであったのかもしれない。同じく松本は、当主の鶴松がまだ幼少であるから、同じく山吉は、謙信の最側近のひとりであった山吉孫次郎豊守、続く米房丸と当主の死去が相次いだようで、嫡流が絶えて改易に処されしまい、この時点では豊守の弟である孫五郎景長の家督相続はまだ決まっていなかったからではないだろうか。


   〔越中衆〕          【譜代衆】

   河田豊前守          計見与十郎
   鯵坂備中守
   吉江織部佑          【旗本衆】
   計見与十郎
                  河田豊前守長親
                  鯵坂備中守長実
                  吉江織部佑景資


 この越中衆においても、東郡代官の河田豊前守長親と西郡代官の吉江織部佑景資の序列は不動であり、直臣化した越中味方中がこれを上回ることはないであろう。鯵坂長実については、本来は能登代官として能登国七尾城に拠っていたにもかかわらず、能登衆登録ではないのは、謙信による越中平定の直後から能登代官に任命される直前まで越中の西郡代官を務めていた関係から(それ以前には越中国新庄城将を務めていた)、馴染みの越中衆に配されたことになり、この人事は、次に示す能登衆の構成と関わりがあるのだろう。


   〔能登衆〕          【一家衆】

   上条弥五郎          上条弥五郎政繁
   直江大和守
   平子若狭守          【譜代衆】
   長 与一
                  平子若狭守

                  【旗本衆】

                  直江大和守景綱
                  長 与一景連

 
 本来、この能登衆は、能登国の代官で七尾城代の鯵坂備中守長実が筆頭となるべきであろうが、謙信による能登国平定後に能州畠山家出身の上条弥五郎政繁が七尾城内に置かれたことからすると、謙信は、幼主を戴く年寄衆に牛耳られている能州畠山家から、畠山年寄衆らを除いて上条政繁を名目上の当主に据えるといった大義名分を掲げながら、能登国へ攻め入ったと思われるので、謙信が天正6年春に挙行するはずであった関東大遠征では、大儀を果たした象徴として上条政繁に能登衆を率いさせることでの宣伝効果を期待したのではないだろうか。能登国平定後に上条政繁が七尾城内に置かれるにあたり、謙信から諸々の制約を課せられている(『上越』1358号)のは、いかに政繁が謙信一家に列せられているとはいえ、公約に従って政繁を能登国に還住させるとなれば、実権を与えていなくとも警戒を要する存在となったので、謙信は関東大遠征の陣容を考えるにあたり、腹心の直江大和守景綱を政繁のお目付け役として能登衆に配したのであろう。

 以上、天正五年分国衆交名注文における越後衆の序列と人事についての考えを示した。最後に付け加えると、一家衆の桃井伊豆守義孝、揚北の外様衆の黒川四郎次郎平政、揚南の外様衆の平賀左京亮重資・新津大膳亮、譜代衆の下田長尾一右衛門尉・甘糟近江守長重・石川中務少輔、旗本衆の三潴出羽守長政・神余小次郎親綱(越後国三条城主)・毛利名左衛門尉秀広・村田忠右衛門尉秀頼などの有力部将の名が見えないは、本国や任地に残留するからであろう。そうなると気になるのは、軍役帳に載りながらも交名注文には載らない、謙信養子の上杉弾正少弼景勝と、どちらにも載らない、同じく上杉三郎景虎のことである。これは、天正3年に上杉景勝が謙信の養子となってから、天正5年に至っても陣代の栗林次郎左衛門尉が景勝の同名・同心・被官集団である上田衆を引率し、謙信の指示で関東や北陸を渡り歩いており(『上越』1224・1307・1330号)、景勝が単独で上田衆を率いて各地を往来している様子は窺えないことからすると、景勝は一部の上田衆を供として、謙信の遠征には常に帯同されていたのではないだろうか。上杉景虎については、元亀元年冬に謙信が関東へ出陣した際、越府で信・越国境の警戒にあたらされていたところ、積雪期に入って関東へ呼び寄せられている事例があり(『上越』948号)、陣代が景虎の直臣団を率いた様子は窺えないが、謙信の養子が二人体制になってからは、二人のどちらかが越府で留守居をしている様子はなく、景勝と同様に謙信の遠征には常に帯同されていたのではないだろうか。もし、交名注文に景勝・景虎が記載されたとしたら、どちらが上位になるのかはさておき、軍役帳で一家衆のうち景勝以外の者には「殿」と敬称が付されているのに対し、「御中城様」こと景勝だけが「御・様」の敬称を付されているように、明らかな家格の差がみられる(『上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出』)ことからして、二人が次席を下回ることはなかったであったろう。


◆ 上杉景勝は長尾顕景期に、元亀3年秋の謙信による北陸遠征に際し、関東に在陣していた上田衆の主力が越中国富山陣へ呼び寄せられても、謙信旗本の有力部将と共に越府の防衛にあたっていたが、積雪期を迎えてから謙信旗本の山吉豊守と共に越中国富山陣へ呼び寄せられているように、上田衆の主力は一貫して栗林次郎左衛門尉が率いていた(『上越』1114・17・20・21・22・1454・56・57・59・61号)。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』412号 上杉輝虎願文、614号 上杉輝虎書状、626号 上杉輝虎起請文、948号 上杉輝虎(謙信)条書、1102号 長尾景直・鯵坂長実連署状(写)、1030号 上杉謙信書状(写)、1058号 上杉謙信判物、1114・1117・1120号 上杉謙信書状、1121号 上杉謙信書状(写)、1122号 上杉謙信書状、1186号 上杉謙信書状(写)、1224号 上杉謙信書状、1246号 上杉家軍役帳、1307・1330号 上杉謙信書状、1358号 上杉謙信条書(写)、1369号 上杉家家中名字尽手本、1439号 上杉謙信書状(写)、1454・1456・1457・1459・1461号 上杉謙信書状 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1819号 上杉景勝一字書出 『富山県史 史料編Ⅱ 中世』1910号 織田信長朱印状(写) 『上越市史 通史編2 中世』 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創設」(『上越市史研究』第10号)  栗原修「上杉氏の勢多地域支配」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配 戦国期研究叢書6』岩田書院) 黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫)
コメント

天正三年上杉家軍役帳における越後衆の区分と身分について

2018-03-21 23:59:59 | 雑考

天正三年上杉家軍役帳における越後衆の区分と身分について考えてみたい。

 まず、ここでいう越後衆とは、越後守護代長尾晴景の命により、その弟の長尾景虎が越後長尾氏の有力支族である古志長尾氏を継いだのを皮切りに、兄の晴景との対立の末、越後守護代長尾家を継ぎ、その数年後には、越後守護上杉家の断絶に伴い、事実上の越後国主の地位を得ると、さらには関東管領山内上杉憲政の没落に伴い、その養子となって山内上杉家を継いで苗字・実名を改め、上杉政虎、ついで輝虎を名乗り、やがて謙信と号したことから、長尾景虎が成り上がっていくに従い、その家臣団の構成が変容し、越後国長尾景虎は、越後守護上杉家の一家衆の上に立ち、外様衆と守護上杉家の譜代衆を抱え、同側近家臣と守護代長尾家の譜代家臣と古志長尾氏の被官たちを旗本・馬廻として統合し、主にそのうちから政務を担当する者を選び、のちには譜代衆の一部を年寄衆に登用して限定した職務を担わせるような状況を経て、越後国(山内)上杉輝虎は、越後守護上杉家の旧重臣や上・中郡の国衆を統合して譜代と呼び、旗本・馬廻に多くの他国出身者を加えていき、最終的に謙信は、上杉一家衆や外様衆の一部に近しい者を送り込み、外様衆の一部を年寄衆に登用して限定した職務を担わせ、譜代と旗本の有力者に一部の中・小国衆を吸収させるなどして、強大に組織した集団である。

 次に、越後国を大きく三分割した上・中・下郡の呼称とは、当時の越後国は頸城郡・刈羽郡・魚沼郡・山東(西古志)郡・古志(東古志)郡・蒲原郡・瀬波(岩船)郡の七郡からなり、これを分けて上(府)郡・中郡・下(奥)郡と呼ばれていた(『新潟県史 通史編2』)。その内訳は、上郡が頸城郡、中郡が魚沼郡・刈羽郡・山東郡・古志郡・蒲原郡以南、下郡が蒲原以北・瀬波郡である(『戦国大名家臣団事典 東国編』)。ただし、上郡については、関東から清水峠と三国峠を越えてくる通路が合する六日町から、十日町を経て、安塚より国府に至る関東と越後府内を最短距離で結ぶ街道に沿った魚沼郡と頸城郡が上郡と呼ばれたとして、魚沼郡を含む考えもある(『別冊歴史読本 上杉謙信の生涯』)。

 天正三年上杉家軍役帳といえば、よく諸書で用いられている軍役帳の区分表は、藤木久志氏が作成された区分表(『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』)であり、よく諸書で引用されている。その区分表では越後衆が、一門、下郡国衆、上郡・中郡国衆、旗本の四つの身分で区分されており、それに沿ったものを左下に示す。しかし実際には、一家衆、揚北と揚南の外様衆、譜代衆(上・中・下郡国衆)、旗本衆の五つに区分されていたのではないかとの考えから、それを右下に示して、これまでの区分と対比する。そこでは実名が判明している部将たちに実名を付するとともに、軍役帳における通称の書き誤りと思われるものを改めた。なお、謙信の発給文書において、越後衆はそれぞれ一家、外様、譜代、旗本と身分表記されているため、これに従った。ちなみに、揚北の外様衆は奥衆・奥郡之者、謙信の旗本衆は身之者共・身之馬廻、馬廻之者、手飼之者などとも書かれている(『上越市史 上杉氏文書集』124・134・413・545・613号・1123・1347・1456・7・9号、以下『上越』と略す)。


 〔一門〕            【一家】

 御中城様            上杉弾正少弼景勝
 山浦殿             山浦(村上)源五国清
 十郎殿             上杉十郎
 上条殿             上条弥五郎政繁
 弥七郎殿            琵琶嶋弥七郎 
 山本寺殿            山本寺伊予守定長

 〔下郡国衆〕          【外様衆(揚北)】

 中条与次            中条与次景泰
 黒川四郎次郎          黒川四郎次郎平政
 色部弥三郎           色部弥三郎顕長
 水原能化丸           水原能化丸
 竹俣三河守           竹俣三河守慶綱
 新発田尾張守          新発田尾張守長敦
 五十公野右衛門尉        五十公野右衛門尉重家
 加地彦次郎           加地彦次郎
 安田新太郎           安田新太郎堅親
 下条采女正           下条采女正忠親
                 荒川弥次郎

 〔上・中郡国衆〕        【外様衆(揚南)】

 荒川弥次郎(上郡)       菅名源三(中郡)
 菅名与三(中郡)        平賀左京亮重資(中郡) 
 平賀左京亮(中郡)       新津大膳亮(中郡)
 新津大膳亮(中郡)
 斎藤下野守(上郡)       【譜代衆(各郡国衆)】
 千坂対馬守(上郡)
 柿崎左衛門大輔(上郡)     斎藤下野守朝信(中郡)
 新保孫六(上郡)        千坂対馬守景親(下郡)
 竹俣小太郎(上郡)       柿崎左衛門大夫(上郡)
 山岸隼人佐(上郡)       新保孫六(下郡)
 安田惣八郎(上郡)       竹俣小太郎(下郡ヵ)
 舟見(上郡)          山岸隼人佑(中郡)
                 安田惣八郎顕元(中郡)

 〔旗本〕            【旗本衆】

 松本鶴松            船見宮内少輔
 本庄清七郎           松本鶴松
 吉江佐渡守           本庄清七郎
 山吉孫次郎           吉江佐渡守忠景
 直江大和守           山吉孫次郎豊守
 吉江喜四郎           直江大和守景綱
 香取弥平太           吉江喜四郎資賢
 河田対馬守           香取弥平太
 北条下総守           河田対馬守吉久
                 北条下総守高定

 〔区分外の部将〕        【譜代衆】

 小国刑部少輔(中郡)      小国刑部少輔(中郡)
 長尾小四郎(一門)       長尾小四郎景直(上郡)


 このように区分を五つに改めたわけであるが、大永6年に越後守護代長尾為景が外様衆の忠信を求めて、揚北衆の中条・黒川・本庄・色部、揚南衆の新津・千田・豊島に起請文を提出させており(『新潟県史 資料編』233・4・5・6・7号、以下『新潟』と略す)、揚北衆と揚南衆を分けず、外様衆で一括りにされていた可能性はある。それでも、阿賀野川南岸、信濃川東岸地域の蒲原郡金津荘・菅名荘という要所に拠った、揚北衆に次ぐ伝統的な国衆である平賀左京亮重資・菅名源三・新津大膳亮たちと、越後守護上杉家の年寄として重責を担った父祖たちから続く譜代的な国衆である斎藤下野守朝信・千坂対馬守景親たちの間で区切り、前者の平賀以下を外様衆、後者の斎藤以下を譜代衆と身分表記することには妥当性があるのではないだろうか。こうして区分を改めたことにより、身分を見直さなければならなかった部将たちがいるので、その理由を次で説明する。

 まず、藤木氏により上郡国衆に区分されている荒川弥次郎は、藤木氏よりも後に作成された杉山博氏による区分表(『日本の歴史 11 戦国大名』)では、その身分が下越国人衆に比定されており、これは、奥州西山の伊達晴宗が父の稙宗と対立した際、味方中の揚北衆中に宛てた天文9年12月7日付けの書状(『新潟』2045号)の宛所に、色部・竹俣・黒川・加地・安田・水原・鮎川・新発田・五十公野・小河と並んで荒川の名がみえることから、杉山氏による比定の方が正しいと考えた。

 続いて、同じく上郡国衆に区分されている船見宮内少輔(のちの須田相模守満親)は、天正4年秋から同5年春にかけての謙信による北陸遠征中、越中・能登国境に位置する能登国石動山城に配備された直江大和守景綱・山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久の部将たちと並んで舟見代(陣代の杉原弥左衛門尉盛綱・柳新右衛門尉季顕)が、謙信の軍令に従う旨を誓って天正4年12月24日に起請文(『上越』1315号)を提出しており、直江以下の顔触れはいずれも旗本衆であることから、船見宮内少輔も旗本衆の一員であったと考えた。

 区分外の小国刑部少輔と御屋敷長尾小四郎景直(永禄年間に越中国金山の椎名康胤の養子となった)は、それぞれ中郡国衆と一門で身分表記されているが、小国の本領は信濃川西岸地域の蒲原郡弥彦荘内の要所であるから、中郡国衆であるのは間違いないとはいえ、その地域性からすれば、身分は譜代衆に属するであろうこと。長尾景直は上田長尾喜平次顕景(のちの上杉景勝)と同様に謙信の近親者であり、越後国上杉家において別格の存在であったとはいえ、長尾苗字を名乗っている以上、身分としては譜代衆に属したであろうこと。このように、いずれも譜代衆に属するものと考えたが、どうして区分外に記されているのかは分からない。


◆ 揚北衆は定員が決まっていたようで、天文20年に秩父本庄一党の小河右衛門佐長資が本庄弥次郎繁長に切腹させられる(『新潟』1107・8・8(ママ)・9・10・11・12・1985号)と、それに代わって昇格した大川某(三郎次郎長秀の父)が一党に加わっている。三浦和田一党は中条・黒川、秩父一党は本庄・色部・鮎川・大川、佐々木加地一党は加地・新発田・竹俣・五十公野、大見一党は水原・安田・下条、波多野河村一党の荒川・垂水がそれにあたる。中条における築地(『新潟』築地文書)、竹俣における池原(『新潟』1437号)などの有力者もいたが、あくまで庶族の扱いであった。こうした庶族のうちには、越後守護上杉家時代の中条一族における関沢掃部助顕元(『新潟』1316号)、謙信期の新発田一族における新保孫六のように、惣領家から離れて上杉家の直臣となった者たちがいた。揚北衆のうちでも、長尾景虎期には越後侍衆御太刀之次第における中条・本庄・色部と加地・竹俣・大川・鮎川・安田・水原・下条・荒川(『新潟』832号)の間では、彼らが献上する太刀の拵えには金覆輪と糸巻の格差があり、上杉政虎期の永禄4年9月13日付感状における中条・色部と安田・垂水(『上越』282・3・4・7号)の間では、彼らが拝領した感状の書き止め文言には恐々謹言と謹言の格差があった(『戦国期越後上杉氏の研究』)。しかしそれも、上杉輝虎期に入り、輝虎の権力が強まっていくにつれ、彼らに対する書札礼の格差はみられなくなる。
◆ 長尾景虎が事実上の越後国主となったことから、上杉氏の一家衆に越後長尾一族の古志長尾十郎景信がそれに属するような時期もあったが、上杉輝虎期以降は、こうした変則的な事態は解消されて、越後国(山内)上杉家の一家衆と越後長尾一族は線引きされていた。それからの輝虎は、有力部将の陪臣たちと連絡を取った際、上田長尾顕景の一族である大井田(長尾)藤七郎・長尾伊勢守(『上越』457・8・465号)、古志長尾氏の家中を多く抱える河田長親の配下である長尾紀伊守(『上越』814号)のように、そのなかで長尾苗字の者がいれば、ほかの陪臣よりも厚礼の敬称を用いるなどして、長尾一族に一定の配慮を加えている。謙信期には、外征中に越府で残留させている上田長尾顕景、側近衆の山吉孫次郎豊守・河田対馬守吉久・北条下総守高定・山崎専柳斎秀仙に連絡を取った際(『上越』1121・2号)、甥である顕景だけの宛名を高い位置に書いたり(『直江兼続生誕450年 特別展 上杉家臣団』)、越後衆へ宛てた書状に据えた花押を、家格が高い一家衆・外様衆・譜代衆には太書き、親近の旗本衆には細書きという具合に書き分けたりしているのだが、顕景は譜代衆に属するにもかかわらず、基本的に謙信旗本らと同様に細書きの花押を据えた書状を送っており、これらの対応からみても、謙信にとって長尾苗字の者、取り分け喜平次顕景は別格の縁者であったことが分かる。長尾顕景改め上杉景勝へ謙信が送った書状はほとんど残っておらず、年次未詳正月6日付上杉謙信書状写(『上越』1382号)のように、書き止め文言が顕景期と同じく「謹言」であるから、おそらく花押も親近者仕様のままではないだろうか。長尾景直については、謙信期の受給文書が残っていないために確認ができない。


 以上のように、天正三年上杉家軍役帳における越後衆の区分と身分についての考えを示したみた。本来、この軍役帳には小国刑部少輔と長尾小四郎景直以外にも、何らかの理由により、区分から外れている部将たちの分の続きと、謙信の旗本衆が大身の部将しか記されておらず、謙信には相当な人数に上る中・小級の旗本衆(馬廻衆)がいたので、当然ながら、こうした旗本たちにも軍役が定められており、実際に輝虎期の軍役状(『上越』548・555・588・589号)が数点残っていることから、中・小旗本衆の分の続きがあったのかもしれない。 


 参考として、関東と北陸に駐在するなどの理由から軍役帳に記載されていない越後衆がおり、天正五年上杉家家中名字尽(分国衆交名注文)から分国ごとに越後衆のみを羅列し、一段空けたところからは諸史料から抽出した部将を羅列していく。ただし、天正3年当時における部将たちの所在地や通称を反映するので、交名注文からの部将には一部に移動がある。交名注文から抜き出した部将以外の順列は史料に現れる時期が早い部将から先に挙げていく。


 〔関東衆〕        〔本国衆〕       〔北陸衆〕

              【一家衆】


              桃井伊豆守義孝

              【揚北衆】

              鮎川孫次郎盛長
              大川三郎次郎長秀

              垂水右近允

 【譜代衆】        【譜代衆】

 北条安芸守高広(中郡)  平子若狭守(中郡)
 北条丹後守景広(中郡)  計見与十郎(中郡ヵ)        
 上野中務丞家成(中郡)  村山善左衛門尉慶綱(上郡)
              和納伊豆守(中郡)

              長尾一右衛門尉(中郡)
              甘糟近江守長重(中郡ヵ)
              石川中務少輔(下郡)
              長尾右京亮(上郡ヵ)
              長尾筑後守(上郡ヵ)  
              青海川図書助(上郡)

 【旗本衆】        【旗本衆】        【旗本衆】

 河田伯耆守重親      吉江織部佑景資      河田豊前守長親
 後藤左京亮勝元      本田右近允        鯵坂清介長実 
 大石惣介芳綱       堀江駿河守
 小中彦右兵衛尉      長 与一景連       毛利名左衛門尉秀広
 竹沢山城守        河田勘五郎        村田忠右衛門尉秀頼

 発智右馬允長芳      三潴出羽守長政
 小幡山城守        新保清右衛門尉秀種
              吉江民部少輔
              岩船藤左衛門尉   
              岩井備中守昌能
              諏方左近允          
              開発中務丞
              庄田越中守
              楡井修理亮親忠
              小倉伊勢守
              神余小次郎親綱
              吉益伯耆守
              佐野清左衛門尉


◆ 揚北衆中で一二を争う実力者である本庄弥次郎繁長の名が軍役帳にも交名注文にも見えないのは、反乱を起こして失敗に終わると、法体になり、嫡男を越府へ差し出して恭順の意を表し、本拠地の越後国村上城から領内の猿沢城へ移って蟄居生活を送ることになったので、それ以降に謙信が挙行した外征には参陣を許されず、陣代が本庄衆を率いている(『上越』1149号)ような状態であったからだと思われる。
◆ 謙信旗本の毛利名左衛門尉秀広は、主に越中国で活動していたようであるが、謙信没後に御館の乱が起こると、上杉景勝方として越後国犬伏城に拠っていたりする(『上越』1107・1599号)ので、謙信の最晩年には本国にいたのかもしれない。

『新潟県史 資料編3 中世一』233号 新津景資起請文、234号 千田憲次・豊島資義連署起請文、235号 本庄房長・色部昌長連署起請文、236号 黒川盛重(実)起請文、237号 中条藤資起請文、832号 越後侍衆・馬廻衆・信濃・関東大名衆等祝儀太刀次第之写、839号 上杉家軍役帳、886号 上杉家家中名字尽手本 『新潟県史 資料編4 中世二』1107・1108・1108(ママ)・1109・1110・1111・1112号、1316号 中条秀叟(房資)記録、1437号 長尾為景書状、2045号 伊達晴宗書状案写 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』124号 長尾宗心条書、134号 長尾宗心願文(写)、282・283・284号 上杉政虎感状、287号 上杉政虎感状(写)、412号 上杉輝虎願文、457・458号 上杉輝虎書状(写)、465・545号 上杉輝虎書状、548号 上杉輝虎ヵ軍役覚(写)、555・588・589号 上杉輝虎朱印状(写)、613号 上杉輝虎書状、814号 上杉輝(旱)虎書状(写)、1107号 寺崎盛永・毛利秀広連署状、1121号 上杉謙信書状(写)、1122・1123号 上杉謙信書状、1149号 上杉謙信書状(写)、1315号 直江景綱等六名連署起請文(写)、1347号 上杉謙信書状、1382号 上杉謙信書状(写)、1456・1457・1459号 上杉謙信書状 『上越市史 別編Ⅱ 上杉氏文書集二』1599号 上杉景勝書状 『新潟県史 資料編3 中世一 文書編Ⅰ 付録』 『新潟県史 資料編4 中世二 文書編Ⅱ 付録』 『新潟県史 資料編5 中世三 文書編Ⅲ 付録』 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 別冊』 阿部洋輔「越佐中世の舞台」(『新潟県史 通史編2 中世一』) 藤木久志「家臣団の編制」(藩制史研究会『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』吉川弘文館) 藤木久志「家臣団の編制」(阿部洋輔編『上杉氏の研究 戦国大名論集9』吉川弘文館) 木村康裕「上杉謙信発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究 戦国史研究叢書9』岩田書院) 阿部洋輔「上杉氏家臣団構成」(山本大・小和田哲男編『戦国大名家臣団事典 東国編』新人物往来社)  阿部哲人「景勝権力の展開」(直江兼続生誕450年 特別展 上杉家臣団』米沢市上杉博物館)  杉山博「家臣団と軍事力」(『日本の歴史11 戦国大名』中公文庫)  井上鋭夫「戦国の越後と越後上杉氏のルーツ」(『別冊歴史読本 上杉謙信の生涯』新人物往来社)
コメント

上田長尾家の御曹司・長尾時宗の境遇と行方について(後)

2018-01-31 19:36:40 | 雑考

 長尾時宗といえば、『上杉家御年譜』の本編や別編の長尾・上杉氏系図などに、越後国上杉景勝(長尾喜平次顕景)の兄として記されている長尾右京亮義景の後身ではないかという考えがある。一時は時宗が上田長尾政景の後継者のような立場にあったことからすれば、上杉景勝との続柄に異論はないが、その実名と官途名には疑問を感じる。越後国上杉輝虎(謙信)ですら、将軍足利義輝から偏諱を拝領したのは、足利家の通字である「義」の字ではなく、下に付された「輝」の字であり、義景というような、長尾一族の通字である「景」の字に「義」の字を冠した実名を名乗れるとしたら、それはもう上杉輝虎の後継者のような、将軍から偏諱を頂戴する立場の人物ではあるまいか。また、輝虎期から上杉景勝期にかけての長尾右京亮といえば、古志長尾氏であり、輝虎にとって別格の縁者であった長尾右京亮景信とその名跡を継いだと思われる長尾右京亮(長尾景信の次男か)がそれにあたる。天正8年に越後国上杉景勝が上田衆の重鎮である栗林治部少輔(実名は政頼か)を越後国荒砥城に在城させるのに伴い、魚沼郡上田荘一村内の料所と同村内の「長尾右京亮分」の地を宛行っており(『上越市史 別編』2135号)、確かに上田長尾氏関連の文書に長尾右京亮が現れる。しかし、かつて越後国長尾景虎と上田長尾政景が争った際、勝利した長尾景虎は上田長尾氏の所領を削減しているので、永禄5年に没収地は長尾政景に返還されたとはいえ、その全てが返還されたのかは分からず、輝虎に近しい古志長尾氏が上田荘内に所領を保持していた可能性もあり、上杉景勝期に上田荘一村内の地を召し上げられた「長尾右京亮」が上田長尾氏とは限らないのである。謙信晩年に越後国直峰城の城衆の一員であったらしい長尾右京亮(景信は元亀元年に亡くなったようである)は、御館の乱が起こると、上杉景勝を支持したが、その翌年中に所見されなくなり、何らかの理由によって没落し、その所領が闕所地となったと思われるから、やはり「長尾右京亮」は古志長尾氏であろう。何と言っても長尾右京亮義景という名前は、今のところ、明らかに繋がりが混乱している系図や軍記(長尾政景の名を義景としていたりする)だけでしか確認されていないのであり、こうした後世の編纂物は、とかく文書に現れる人物たちを脈絡なく登場させてしまう傾向があるので、素直には受け入れられない。それでは、長尾時宗とは何者なのか、これからその可能性がある人物を示していきたい。

◆ 古志長尾景信の長男であろう上杉十郎(実名は景満・信虎などと定まらない)は、謙信一家のうち、養子の三郎景虎と弾正少弼景勝のほかでは唯一、上杉苗字で呼称された人物である。越後守護上杉家の有力一族であった空席の上条上杉十郎家を継いだと考えられているが、もはや上条苗字で呼称されることはなく、上杉苗字のみで呼称されており、関東管領山内・越後国上杉家と越後国長尾家を統合した新たな上杉家の当主である謙信が創設した一家と言えるだろう。
◆ 永正年間に越後守護上杉家のために何らかの協力をした陸奥国衆の山内重俊に対し、その見返りとして、古志長尾氏を通じて越後国内で宛行われた二ヶ所うちの一ヶ所が魚沼郡上田荘の舞子村であり、関東管領山内上杉氏の家領の代官筋であった上田長尾氏が上田荘の全てを管掌・領有しているわけではなかったので、越後国長尾景虎による上田長尾氏の領地削減とはかかわりなく、もともと古志長尾氏が上田荘内で土地を保有していたのかもしれないし、各長尾氏の所領は各郡に錯綜していたのかもしれない。


【史料1】泉沢久秀宛上村尚秀書状
七郎殿御越山之義、無心元被思召、態御飛脚、今日十七酉刻到来候、雖然、 七郎殿様、十五未之刻当庄関之郷迄被成御出候、拙者事、十三日早朝より所々方々無油断触申付候得共、諸人菟々角々申否事侘事申候へ共、さま/\理申付候、翌日十六、関御立候、伊勢守殿・次郎左衛門尉同事候、馬場衆、千石・五郎丸・坪池・舞子・富実・関衆、此御供申候、いか澤罷越候へハ楠川方・桐澤・内田、其外罷立候、同日候、今日十七泉田・広瀬衆罷立候、石田定倉内御着、十八日五より内と存候、御着之上、御飛脚可被進候、為其出家一人為御供申候、万事爰元不好事候へ共、急速之御事無調候、我々申所さらめしあけす候、定御人数一度調不申候間、 七郎殿さま可有御申候、明日十七八、又村々為見可申候、取分泉田忍着いたし候、又此御飛脚山中迄透可申候へ共、とても倉内可為御着候間、自此返申候、御書中これより沼田あけ可申候、 一、御局之事被仰越候、尤浅間令承、何分ニも相調、御様可申候、弥八被差越候、昨日十六、極晩致帰宅承之候、夜中小次郎方罷越、其分申きかせ候処、菟角畏入之由申事候、子細之段彼者直可申上候、御衆等其外調之上、態可申上候、 一、中屋御用之事、浅間承合候へハ、尤可然之由申候、何方成共、人之不存様預置可申候、去又、御料所御預なと候ハヽ、何方と被思召候哉、千石之義、以前 御意候つる、同当御皆納計内蔵助可申付候歟、第一地下悉無力之間、せめて彼ものを見かけ中ニも可致催促候、乍去、其堅 御諚候、めしはなし可申候、来春中藤右衛門尉可被仰付候、 一、上河所々軍入部之事、四十人計て中々以外あたけかんはく不及是非候、らんはうのやう御座候、皆々中使・百姓くたし置候、昨今大崎ねまり申候、其上雑事立不申かけ取申候、さて此上可為如何候、たとへ少々御酒代なとても被仰理、可然御座候歟、只今之処、何事も御六ヶ敷可有之候、若左様ニも被思召候、卒度中屋なとを被召寄、御入魂可然奉存候、但、此もおんつ申上候、浅間同意候、返々、只今之様、菟物事御六ヶ敷御座候へく候、自幾御工夫之上、御諚奉待候、此由御披露所仰候、恐々謹言、
               彦右衛門尉
    九月十八日          尚秀(花押)
    又五郎殿


【史料2】長尾政景宛長尾景虎書状
就信州之儀、度々如令啓、至于今度更無拠子細候間、非可致見除候、乍去、出陳日限等之事、旁可申談分候処、(長尾)景虎出馬遅々候、高刑(高梨刑部大輔政頼)飯山之地可打明由、頻被申越候、さ様有之者、弥失覚義候条、明日廿四可罷立候、毎度如申宣、雖可為御大義候、早速御着陣簡要候、恐々謹言、
  猶々、於様躰、従藤七郎方(大井田国景ママ)可被申入候、
            弾正少弼
    三月廿三日      景虎(花押c)
    越前守殿


【史料3】長尾伊勢守・栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎書状
只今酉刻、従北条丹後守(高広)所如注進者、(武田)晴信至于安中口重出張由候、依之、其地人数之義、何相触、重一左右次第可相動用意、不可有油断候、少無手延擬簡要候、穴賢、
  彼書中認候内、重急申来候間、両度之陣労労兵、雖察之候、手寄之義候間、太井田藤七郎同心候、倉内以夜継日相移、豊前守(河田長親)差置候同意可相稼事、簡要候、近日直可出馬候間、先吾分共早々可相急候、以上、
  五月廿二日      輝虎
    栗林次郎左衛門尉とのへ
    長尾伊勢守殿


【史料4】長尾伊勢守・大井田藤七郎・栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎書状
従倉内重如注進、凶徒出張之義、未見届候由候条、各人数之義及其触、無油断令用意、事実敵打出候、倉内可相移候、只今越山之義、先以無用候、為其申遣候、謹言、
    五月廿五日      輝虎
      大井田藤七郎殿
      栗林次郎左衛門尉とのへ
      長尾伊勢守殿


【史料5】大井田藤七郎・長尾伊勢守・栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎書状
態申遣候、仍倉内河田豊前守可同心由、以前申付候、雖然、其地人衆之義間近候条、豊前守義可遅延候間、先前一刻片時早速倉内可相移候、人数悉打振可召連候、火急之子細候間、少有油断者不可有其曲候、謹言、
    七月十九日戌刻    輝虎(花押e2)
       長尾伊勢守殿
       栗林次郎左衛門尉とのへ
       大井田藤七郎殿


【史料6】上杉景勝書状
島倉孫左衛門尉(泰明)不慮之仕合、無是非候、然間、魚津之備可為究(窮)屈候、巨細不能申候、孫右衛門尉扶助之者不散之様加意、尤候、為其弟候大井田藤三差越候得共、若輩之儀候間、別引廻、堅固之仕置肝要候、油断不(可脱ヵ)有候、謹言、
  猶々、自爰元差越候得共、何其地計被差置由候、魚津の地備大切候間、引分彼地被置  可然候、乍幾度、来春出馬之内堅固之仕置専用候、以上、
    極月十八日      景勝
  〇宛所欠


 【史料1】の書状は、上田長尾家の重臣である上村藤右衛門尉尚秀が同僚の泉沢又五郎久秀に宛てたものであり、『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』は天正6年に仮定し、書中に現れる「七郎殿様」を大井田国景(ママ)に比定しているが、大貫茂紀氏は『越後国上田衆栗林氏と上杉氏権力』のなかで、上田長尾政景が横死した永禄7年から、幼主の長尾顕景を支えていた大井田藤七郎(実名は景国か)・長尾伊勢守(同じく景貞か)・栗林次郎左衛門尉(同じく房頼か)のうち、上田長尾一族の大井田藤七郎と長尾伊勢守が他方へ転出し、年寄の栗林次郎左衛門尉が単独で幼主の陣代を務めるようになった同10年の間に発給された書状であろうことと、越後国上杉輝虎の指示を受け、上田衆を率いて上野国沼田城へ増援に向かった「七郎殿様」を、通説の通り、長尾政景の弟と伝わる大井田藤七郎に比定されたうえで、この「七郎殿様」こと大井田藤七郎に対しては、闕字が用いられているため、上村尚秀のような上田衆の幹部から尊称されるべき身分であろうことを述べられている。これらは、【史料2】の書状において、越後国長尾景虎が上田長尾政景へ宛てた書状に「藤七郎方」と敬称が付されていることと、【史料3~5】の書状群の通り、時期は異なるが、実際に藤七郎は永禄9年に上杉輝虎から、長尾伊勢守・栗林次郎左衛門尉と共に上田衆を率いて沼田城への増援として赴くように指示されていることによっても裏付けられる。この藤七郎は、書中で「七郎」と略して書かれているわけだが、これ自体が敬意の表れであろうから、やはり長尾政景の弟と伝わる「伊勢守殿」の敬称が「殿」と書かれているのに対し、藤七郎のそれが「殿様」と書かれているのは、政景の実弟であることは勿論、名族である新田里見氏流の大井田氏を継いだことが影響していると考えられるため、藤七郎は上田長尾家中において、各別な存在であったのだろう。

 上田長尾家の重要人物であった大井田藤七郎は、出羽国米沢の上杉家でまとめられた『先祖由緒帳』の大井田権右衛門(延政)由緒によると、男の実子がいなかったので、二人いた娘のそれぞれに「長尾喜四郎」と「嶋倉平右衛門(謙信旗本の嶋倉泰明の弟。実名は俊継か)」を婿に迎えたという。『文禄三年定納員数目録』と各種の系図では大井田藤七郎の子は喜七郎(実名は景頼・基政などと定まらない)と記されており、これは藤七郎に通ずる喜七郎の方が相応しく、喜四郎は音が似ているゆえの誤記であろう。一方の平右衛門については、【史料6】の書状の通り、「大井田藤三」は嶋倉孫左衛門尉泰明の弟であるから、平右衛門の前身と考えて間違いなく、その仮名の藤三は、これも藤七郎に通じている。この藤七郎と両婿養子との縁組は、謙信と嶋倉兄弟の関係性から考えて、謙信期になされたはずである。そして、由緒では喜七郎に敬称が付されるのに対し、平右衛門には付されていないのは、長尾一族と旗本という両者の出自の違いからであろう。それにつけても、名門の一流を継いだ喜七郎ではあるが、表立った活動は見られず、その境遇は謎めいている。

 やはり『先祖由緒帳』の清水七左衛門由緒や各種の系図によると、喜七郎は深刻な乱気(精神障害)に陥ってしまったらしい。そこで上杉景勝は、その身柄を信頼できる誰人かに預けることにしたが、喜七郎には適当な親族がいなかったので、自身の譜代家臣に預け先を探し求めると、喜七郎に二十人扶持を与えたうえで、上田五十騎中の重鎮である清水内蔵助に預けたといい(清水が越後国新発田城代を仰せ付けられた時期とある)、ここから喜七郎は清水家で越後・会津・米沢時代を通じて36年間を過ごし、寛永9年正月26日に88歳で没したという。『上杉家御年譜』別編の系図によると、法名は来翁宗元大禅定門である。こうしたように、喜七郎が当主の務めを果たせなかったことと、二十人扶持であったことは、羽柴秀吉による相州小田原役後の天正18年9月21日に武蔵国八王子城在番衆の一員として「大井田殿」が二十人(小籏二本、鑓十八丁)の軍役を課せられたうえで、上田衆の金子某が代わって大井田衆を率いて八王子に在番を命ぜられていることと、『文禄三年定納員数目録』に二十三人扶持として記載されていることから、事実を伝えていると考えて良いであろう。そして、没年月日や没年齢が事実であれば、天文13年頃の生まれとなり、上田長尾政景の次男である上杉景勝よりも年長となる。

 つまるところ、このような境遇の大井田喜七郎はいかなる出自であったのかと言えば、仮名の喜七郎が、上杉景勝の初名である喜平次顕景のそれに、戒名の宗元が、長尾新六の宗了(政景の早世した兄)、長尾政景の道宗、上杉景勝の宗心のそれぞれに通じていることからして、彼こそが、永禄7年に上田長尾家の重要人物として現れたのも束の間、忽然と姿を消してしまった長尾時宗その人であり、越後国上杉輝虎は長尾政景の横死後、時宗に上田長尾家を相続させるのは不適格と考えて後継者候補から外し、代わりに次男の卯松を据えて喜平次顕景と名乗らせた一方、時宗を大井田家に入れて喜七郎景頼と名乗らせたのではないだろうか。そして、後世の由緒書きとはいえ、親族の少なかった景勝をして、乱気に陥った喜七郎を他者へ預けるにあたり、大井田氏には新九郎(実名は房仲か)という庶族がいたにもかかわらず、適当な親類がいないと言わしめ、親類へ預けることを断念したと記されているのは、両者が兄弟であればこそではないだろうか。もしこの通りだとしたら、喜七郎が乱気に陥ったのは、上田長尾政景からは嫡男として扱われていたにもかかわらず、その政景の死後には上田長尾氏の家督を継げなかったばかりか、上田長尾家中の最有力であり、新田里見氏流の名族である大井田氏に入嗣したにもかかわらず、いくら身分差があるとはいえ、相婿の嶋倉藤三までもが大井田苗字を与えられて分立し、大井田氏の勢力が削がれるといったような憂き目にあってきたからではないのか。父の横死は衝撃的な出来事であったことは確かであろうから、これが理由で不安定な精神状態に陥ったのかもしれないが、先ほど示したような不満が積もりに積もって鬱屈したのであれば、ついに精神をきたしたのも無理からぬことであろう。また、養父とされる大井田藤七郎が上杉景勝期に入ってから、上田長尾家の本拠地である坂戸城において自害させられたとも伝わっており、景勝と大井田家の間には問題が生じていた可能性もあるので、ますます不安定な立場に置かれてしまったことが拍車をかけたのかもしれない。編纂物には上杉景勝の兄とされる長尾義景は早世したとあり、長尾時宗は早世したと考えるべきなのかもしれないが、兄弟の生母である仙洞院(謙信の姉)が夫の死去直後に描かせたとされている「長尾政景夫妻像」(米沢常慶院所蔵)には、仙洞院が実家の父祖やきょうだいの法名を書き込んだばかりか、自分より先に亡くなった縁者(上杉景虎一家)の法名を書き足しており、これに時宗にあたる人物の法名が見当たらないというのは言わずもがなであろう。そして、大井田喜七郎が亡くなったのは仙洞院よりも後である。

 以上、上田長尾家の御曹司・長尾時宗の境遇と行方について考えてみた。以前、成人後の時宗について、【史料1】の発給年次を元亀元年から天正6年の間と考えていたことにより、書中にみえる「七郎殿様」ではないかと発言していましたが、大貫茂紀氏の論考を受けまして、「七郎殿様」は時宗の後身ではなく、大井田藤七郎に比定するべきことを理解しましたので、ここに考えを改めました。

◆ ウェブログ『目を覚ませとよぶ声が聞こえる…』のなかで示されているように、天文10年2月21日に亡くなった超億宗了こと「長尾真六トノ」は、上田長尾房長の長男で、長尾政景の兄にあたる人物と思われる(「高野山清浄心院 越後過去名簿」)。長尾時宗は、この長尾新六と仙洞院の間に生まれた子であったのかもしれない。もしそうであったとしたら、長尾政景は兄の遺児を養育し、いずれは後継者にするつもりでいたにもかかわらず、それに反対する勢力との調整がつかなかったことが、時宗の元服が遅れていた理由であろうか。また、時宗は仙洞院の子ではない可能性も考えられるので、時宗が早世していた場合、それゆえに「長尾政景夫妻像」には法名が書き込まれなかったともいえるであろう。
◆ 【史料1】の書中に見える「楠川方」は敬称付きであることから、輝虎旗本の楠川左京亮将綱が目付として上田衆の軍勢に配されていたと考えられる。永禄7年春の下野国佐野攻めで活躍した上田衆の面々が輝虎から感状を賜った際、楠川将綱も戦功を称えられて輝虎から感状を賜っていることからすると、佐野唐沢山城攻めに参加した上田衆の目付として配されたなかで戦闘に参加した可能性があるため、輝虎は政景横死後の上田衆を増援として上野国沼田城へ向かわせるにあたり、顔馴染みの楠川を再び目付として配したのではないだろうか。
◆ 清水内蔵助が越後国新発田城代を仰せ付けられた時期は判然としないが、天正11年から同国天神山城代、同17年から佐渡在国、文禄3年までに越後国栃尾城代を歴任しており、天正15年に落城した新発田城の城代を仰せ付けられた佐藤石見守は就任直後に没したので、これに代わって就任したのかもしれないし、さらに栃尾城代から転出して、慶長3年に上杉家が陸奥国会津に移るまでの間、その任にあったのかもしれない。いずれにしても、新発田城代就任から36年間、大井田喜七郎が清水家に身柄を預けられていたというのは、いささか計算が合わない。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』143号 長尾景虎書状、152号 長尾景虎感状写、153・154号 長尾政景感状写、291号 上杉政虎条目(写)、336号 関屋政朝書状、389号 上杉輝虎感状、391号 上杉輝虎感状(写)、393号 上杉輝虎書状(写)、397号 上杉輝虎書状(写)、401号 長尾時宗感状写、402号 長尾時宗感状、457・458号 上杉輝虎書状写、465号 上杉輝虎書状 509号 長尾顕景感状、510号 長尾顕景感状写、753・754号 長尾顕景感状写、872号 上杉輝虎感状写、873号 長尾顕景感状、874・875号 長尾顕景感状写、876・877号 長尾時宗感状写 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1665号 上村尚秀書状、2135号 上杉景勝判物、2649号 上杉景勝朱印状写、3388号 上杉景勝軍役帳写 『新潟県史 資料編3 中世一』171号 山内重俊書状 『新潟県史 別編3 人物編』-文禄三年定納員数目録 『山形県史 資料篇3 新編鶴城叢書(上)』-三重年表 『越後入廣瀬村編年史』 『上杉家御年譜 第二巻 景勝公一』 『上杉家御年譜 第二十三巻 外姻譜略 御家中諸士略系譜一』 山本隆志「高野山清浄心院 越後過去名簿(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9巻) 片桐昭彦『戦国期発給文書の研究-印判・感状・制札と権力-』(高志書院) 大貫茂紀「越後国上田衆栗林氏と上杉氏権力」(『戦国史研究』第71号) 佐野良吉『妻有郷の歴史散歩』(国書刊行会) 〔市立米沢図書館デジタルライブラリー〕「先祖由緒帳」 「越境記」
コメント

上田長尾家の御曹司・長尾時宗の境遇と行方について(前)

2017-12-02 01:39:14 | 雑考

 越後国上杉輝虎の姉婿である上田長尾政景の長男と思われる長尾時宗(丸)の謎めいた境遇、忽然と姿を消したあとの行方について考えてみたい。


【史料1】南雲治部左衛門尉宛長尾景虎感状
今度於信州上野原一戦、動無比類次第候、向後弥挊之事、肝心候、謹言、
    八月廿九日       景虎
     南雲治部左衛門尉とのへ


【史料2】大橋弥次郎宛長尾政景感状
於今度信州上野原一戦、動無比類次第候、向後弥可相挊事、簡心候、謹言、
    八月廿九日       政景
       大橋弥次郎殿


【史料3】下平弥七郎宛長尾政景感状
於信州上野原、対晴信遂合戦、得勝利候刻、神妙之動無比類候、向後弥可被稼事専要候、謹言、
  弘治二年戊午(ママ)    
    九月廿日       政景
    下平弥七郎殿


 いずれの史料も、弘治3年秋に信濃国飯山城近郊の上野原の地において、上田長尾政景を初めとする飯山城在陣衆が甲州武田軍と交戦したあと、越後国長尾景虎と長尾政景が戦功者(上田長尾氏の被官たち)に与えた感状であり、断絶した越後守護上杉家に成り代った越後国長尾家の当主である景虎と、その同名・姉婿でありながらも一家衆ではなくて譜代衆の家格に甘んじている政景のそれでは、文言はほぼ同じであっても、書式は薄礼と厚礼に区別されていることを、まず確認しておきたい。

◆ 上田長尾政景が越後国長尾家の一家衆に列せられなかったのは、守護代長尾家を相続した長尾景虎に対し、かつて反抗したことが影響したと考えられている。


【史料4】長尾時宗宛上杉輝虎感状
  黒金〇〇兵衛尉
  登坂弥八郎
  大平源三被疵
  田村与左衛門尉
  登坂新七郎
  小河源左衛門尉
  同 新四郎
  甘糟惣七郎被疵
  笠原源次郎
  熊木弥介
  三本又四郎
  同 彦次郎
  尾山市介
  樋口又三郎
  浅間将監
  内田文三
  甘糟新五郎
  桐沢惣次郎
  上村玄蕃亮
  中条玄蕃允
  椿 喜介
  浅間次郎三郎
  大平木工助
  中野神左衛門尉
  諸橋孫九郎
  蔵田十右衛門尉
  星 神介
  大平雅楽助
  大橋与三左衛門尉
  丸山与五郎
  土橋三介被疵
  下平弥七郎
  登坂弥七郎
  同 与七郎
  同 彦五郎
  吉田弥兵衛尉
  西片半七郎被疵
  豊野又三郎被疵
  樋口帯刀左衛門尉被疵
  目崎又三郎被疵
  登坂半介弟被疵
  千喜良彦次郎被疵
 長尾伊勢守被官

  高橋惣右衛門尉被疵
 甘糟被官

  市場小六郎被疵
 古藤中間

  新三郎
 黒金新兵衛尉被官
  玉田弥七被疵
  丸山弥五郎討死
  篠尾与一
  佐藤弥左衛門尉
  宮島惣三
今度佐野之地攻破之刻、各如此之動、神妙之至候、於越後各通皆々可感之候、向後弥相嗜為加世義簡心候者也、
  永禄七
    二月十七日      輝虎(花押a)
      長尾時宗殿


【史料5】栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎感状
今度佐野之地攻破刻、加世義之段、神妙之至候、向後弥可相嗜者也、
  永禄七           (上杉輝虎)
    二月十七日      (花押a)
      栗林次郎左衛門とのへ


【史料6】宮嶋惣三宛上杉輝虎感状
今度佐野攻破刻、頸一取之動候段、神妙之至候、向後被相嗜可挊者也、
  永禄七           (上杉輝虎)
    二月十七日      御居判 
         宮嶋惣三とのへ

【史料7】下平弥七郎宛長尾時宗感状
二月十七日佐野扇城被為破候刻、能々成加世儀由、神妙之至候、向後猶以可相嗜事、 専要候、謹言、
    四月三日       時宗
     下平弥七郎殿


【史料8】内田長吉宛長尾時宗感状
二月十七日佐野扇城被為破候刻、能々成加世義由、神妙之至候、向後猶以可相嗜事、専要候、謹言、
    四月三日       時宗
     内田文三殿


【史料9】広居忠家宛長尾顕景感状
今度臼井之地被為攻候処、最前責入相動之段、粉骨無比類候、向後弥可相稼事、簡要候、謹言、
    四月廿日       顕景(花押a)
      広居又五郎殿


【史料10】下平右近允宛長尾顕景感状
今度臼井之地被為攻候時分、最前責入之由、無比類候、負疵之段、粉骨無是非候、向後弥可相稼事、専要候、謹言、
    四月廿日       顕景
     下平右近允殿


【史料11】下平右近允宛長尾顕景感状
於本庄村上地、正月九日、夜中敵取懸候処取合、無比類動、誠以神妙之至候、向後弥可相嗜事、専一候、謹言、
    六月七日       顕景御居判
     下平右近亮殿


【史料12】佐藤縫殿助宛長尾顕景感状
於本庄村上之地、正月九日、夜中敵取懸候処取合、無比類働、誠以神妙之至候、向後弥可相嗜事、専一候、謹言、
    六月七日       顕景
     佐藤縫殿助殿


 長尾時宗とは、片桐昭彦氏が「長尾景虎(上杉輝虎)の感状とその展開」(『戦国期発給文書の研究 -印判・感状・制札と権力-』)のなかで、上田長尾政景の長男に比定されている人物であり、上杉輝虎による永禄7年2月17日の下野国佐野の唐沢山城攻めで戦功を挙げた上田衆の代表として輝虎から賜った感状【史料4】が初見にあたる。時宗は永禄6年冬から同7年夏にかけての輝虎による関東遠征は未成年のままで従軍し、永禄7年2月中旬の下野国唐沢山城攻めに参加したが、父の長尾政景は輝虎の指示により、越府防衛の増援として、上田衆を二分して途中帰国したらしく、唐沢山城攻め自体には参加していなかった。

 この時宗が、輝虎による下野国唐沢山城攻めの後から上野国和田城攻めを前にした4月3日、唐沢山城攻めにおける上田衆の戦功者を個別に忠賞して与えた感状【史料7・8】は、唐沢山城を攻めた直後の2月17日に輝虎が、同じく上田衆の戦功者を個別に忠賞して与えた感状【史料5・6】とは、当然ながら書札礼の厚薄が異なっており、最初で示したように、弘治3年秋の信濃国上野原陣における戦功を忠賞して上田衆に感状を発給した越後国長尾景虎と上田長尾政景の関係性が思い起こされる。そして、時宗が発給した感状は、永禄7年7月5日に長尾政景が横死してしまうと、その名跡を継いだ次男の卯松(丸)改め喜平次顕景が、やはり輝虎による同9年3月の下総国臼井城攻め、同12年正月の越後国村上城攻めにおける上田衆の戦功者を個別に忠賞して与えた感状【史料9~12】と同じ書札礼であるから、長尾政景が横死するまでは、時宗が上田長尾氏の家督継承者の最有力であったことは確かであろう。


【史料13】下平右近允宛上杉輝虎感状
於下野国佐野飯守、戦功神妙也、
  永禄十三年庚午     (上杉輝虎)
    二月二日      御朱印
     下平右近亮とのへ


【史料14】広居忠家宛長尾顕景感状
佐野於飯守山、別相稼、敵討捕候事、神妙之至候、謹言、
    二月二日      顕景(花押a)
     広居善右衛門尉殿


【史料15】小山弥兵衛尉宛上杉輝虎感状
佐野之飯守被為取候、抽粉骨御(ママ)走廻、神妙之至候、恐々謹言(ママ)、
    二月二日      顕景御居判
       小山弥兵衛殿


【史料16】下平右近允宛長尾顕景感状
佐野於飯守山、別相稼、敵打捕候事、神妙之至候、謹言、
    二月二日      顕景御居判
      下平右近亮殿


【史料17】内田長吉宛長尾時宗感状
於下野佐野飯守山、戦功神妙也、
   永禄十三年庚午
    二月二日       時宗
       内田


【史料18】下平右近允宛長尾時宗感状
於下野佐野飯守山、戦功神妙也、
  永禄十三年庚午
    二月二日       時宗
        下平右近亮殿


 これらの感状は、上杉輝虎が永禄12年秋から冬にかけて越中国で東西に分立する椎名・神保らとそれぞれ戦ったのち、そのまま関東へ進んで越年すると、正月早々から下野国佐野の唐沢山城を攻めた際のものであり、上田長尾顕景もその兄であろう時宗も、輝虎と同時に感状を発給しているので、この遠征に従軍していたことになる。取り分け、ここに至るまでの長尾顕景は若年のため、輝虎の戦陣中は常に越後国上杉家の本拠地である春日山城で留守居しており、これまで発給した感状は全て上田衆が帰還した後のものであったのに対し、ここでは陣中において発給したことが分かるので、この連続して挙行された越中陣か関東陣が長尾顕景の初陣だと思われる。
 
 ここで気になるのは、上田長尾氏の家督を継げなかった影響によるものなのか、長尾時宗は未だに幼名のままであり、長尾顕景の上田長尾家相続には複雑な事情があったことは想像に難くない。そして、当主でもない時宗が感状を発給し、それが長尾顕景の書式よりも薄礼であるばかりか、最初で示したように、時宗の父であろう上田長尾政景と越後国長尾景虎の間ですら書札礼の厚薄が異なっていたにもかかわらず、たとえ顕景への対抗心からであったとしても、越後国上杉家の当主である輝虎が発給した感状【史料13】と同じ書札礼を用いていることに激しい違和感を覚える。この時宗が発給した二通の感状写【史料17・18】は、近世に米沢藩士の家伝文書の編纂事業に際し、誤写されたか、改竄されたかした文書であるのかもしれない。仮に後者だとしたら、ここで時宗の名を出してきたのは、この人物の存在を印象付けたい何者かの意思が働いたのだろうか。いずれにしても時宗感状は検討を要する文書であり、もしも偽文書であったとしたら、時宗は現れた年の内に姿を消してしまったことになる。

 ともかく永禄7年中か同13年を最後に長尾時宗の名は文書に現れなくなり、その生死すら定かではない。次では時宗の行方について、ひとつの可能性を示してみたい。


◆ 上田長尾政景の嫡男であったと思われる長尾時宗が現れたと思ったら、その数ヶ月後に政景が不慮の死を遂げたり、後継者にみえた時宗が上田長尾氏の家督を継げなかったりしていることと、検討を要する文書である【史料17・8】の長尾時宗感状が、いずれも【史料7・8】のそれと同じく下平・内田に宛てられていることは、何やらいわくありげではないか。
コメント (6)