越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の略譜 【43】

2013-01-30 19:30:22 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄11年(1568)9月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

未だに越府を離れることのできないなか、越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長(越後国村上城主)が起こした反乱への荷担を疑われている出羽国衆の大宝寺新九郎義増(出羽国大浦城主)の立場を明らかにさせるため、8日、年寄衆の「本入宗緩(本庄美作入道宗緩。実乃。栃尾本庄氏。すでに隠居の身であるが、人手不足で駆り出された)・山孫豊守(山吉孫次郎豊守。大身の旗本衆)・河豊長親(河田豊前守長親。大身の旗本衆)」が、村上攻囲軍を統轄する年寄の「直和(直江大和守政綱。大身の旗本衆)御陣所」に宛てて条書を発し、一、甲州からの使者を抑留させて、武田方へ御手切れの意思を示させるべきこと、一、三ヶ所の拠点を破却させるべきこと、一、このたびの御嫌疑については、証人の提出は免れられず、杖林斎(大宝寺氏の重臣である土佐林禅棟。出羽国藤島城主)が適当であること、この補足として、彼方(大宝寺義増)とは前々から盟約を交わされてきた間柄なので、取り分け配慮を示されたこと、一、不和の大川(三郎次郎長秀。外様衆。村上本庄氏の支族。越後国藤懸(府屋)城主。本庄繁長に味方した弟の孫太郎と藤七郎によって居城を奪われている)とは、勝手に当事者間で御落着させてはならないこと、一、満千代殿(大宝寺義増の世子)に家中衆の息子達を添えて御在府させるべきこと、これらを条件をもって御宥和されるべきとの仰せであり、若し彼方が条々を受け入れなければ、元より和談する意思はなかったと御判断されることを示している。

21日、濃(尾)州織田信長(尾張守)から、取次の「直江大和守殿(政綱)」に宛てて返書が発せられ、このたび寄越された芳翰の趣旨には本望満足していること、去る7日に御入洛に供奉して江南へ着陣したのち、江州の平定を成し遂げたので、来る24日に大湖を渡る運びとなり、漸く御上意(足利義昭)の御宿願が果たされること、この意趣の通り御意を得たいこと、これらを懇ろに伝えられている。


この間、越中東郡を支配する椎名右衛門大夫康胤(越中国松倉城主)は、12日、族臣の椎名「胤珍」を通じて飛州姉小路三木良頼(中納言)の重臣である「牛丸備後守殿 御宿所」に対して初信を送り、これまで申し交わしていなかったところ、申し達すること、この使僧の口上に申し含めた一儀の意趣を、ひとえに御分別されて、しかるべき御調略を施してもらいたいこと、子細については、条目をもって申し入れるので、この書面は省略すること、これらを懇ろに伝えている。
その条目(「牛備公(牛丸備前守)まいる」)をもって、一、良綱様(三木良頼)に郡内の一部を割譲すること、一、越後(上杉氏)と手を結ばれ、甲・信両国(甲州武田氏)を御敵にされるのは適当であるのかどうか、御熟慮されるべきこと、一、越(越後)とは手を切られ、甲・信両国と御入魂を結ばれて、その上で郡内を御差配されるのが適当ではないかと思われること、一、甲・信両国ならびに増山(越中西郡を支配する神保氏)と和与を結ばれ、東郡内を御統治されてしまえば、越は郡内を管掌できなくなるはずであり、御分別されるべきこと、この条項を御承諾されたあかつきには、取り分け貴所(牛丸備前守)に一所を与えられること、これらの条々を示されている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 616号 本庄宗緩・河田長親・山吉豊守連署条書、617号 織田信長書状(写) 『富山県史 史料編Ⅱ 中世』 1702号 椎名胤珍書状、1703号 椎名胤珍覚書 ※ 『富山県史 通史編Ⅱ 中世』


永禄11年(1568)10月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

本庄弥次郎繁長の立て籠もる越後国村上城の付城である庄厳城(瀬波郡小泉荘)に配備した鮎川孫次郎盛長(外様衆。村上本庄氏の支族)から、年寄衆の河田長親を通じて寄せられた状況報告を受けると、7日、(上杉「輝虎(花押a)」)、「鮎川孫次郎殿(盛長)」に宛てて返書を発し、先だって鉄炮の玉薬を配給したところ、無事に届いたそうで、何にも増して安堵したこと、このほど豊前守方(河田長親)に宛てて寄越した条書の旨を聞き届けたこと、いよいよ来る17日に本庄口(村上陣)へと進軍するので、敵方への内応工作を進めるべきこと、その地域の警戒態勢を緩めてはならないこと、よって、これらを河田豊前守(長親)が詳報することを伝えた。更に追伸として、当方の村上への進軍が敵方に悟られてはならず、徹底して情報の漏洩を防ぐように厳命した。
上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆から、取次の山吉孫次郎豊守を通じて寄せられた状況報告を受けると、13日、(上杉「輝虎(花押a4)」)、城衆のうちの「小中大蔵丞殿(実名は光清か。大身の旗本衆)」に宛てて返書を発し、沼田管区の黒岩・名胡桃(いずれも利根郡)の地下人を集め、両地を固守しているそうで、孫次郎方(山吉豊守)に寄越した報告を聞き届けたこと、ひとえに吾分(小中大蔵丞)の力量によるものであり、ひときわ殊勝であること、しかしながら、かなりの数の地下人が集まり、かえって不安を感じるのは当然なので、地下人の頭目たちに五名から十名ほどの証人を取っておけば、若しも誰かしらが騒動を起こした際には連絡を寄越さざるを得ないので、その場合、すぐさま当該地へ出向いて統制を図れば、大した事態には至らないこと、城衆のうち新発田右衛門大夫(実名は綱成か。外様衆。新発田尾張守忠敦の弟か)と河田伯耆守(重親。大身の旗本衆。河田豊前守長親の叔父)の仲が険悪であることが伝わってきており、外聞を憚る憂慮すべき事態なので、両人の関係改善に努めるべきこと、これらを取り急ぎ伝えた、更に追伸として、見事な釜を贈ってもらい、喜びもひとしおであることを伝えた。
16日、(上杉「輝虎」)、沼田城衆の「松本石見守殿(景繁。大身の旗本衆。越後国小木(荻)城主)・河田伯耆守殿(重親)・小中大蔵丞殿・新発田右衛門大夫殿」に宛てて書信を発し、既報に於いては、明日に村上へ向けて進発する予定であったが、20日に出府し、24日には中継地の柏崎(越後国刈羽郡比角荘)を出立する計画に変更したこと、同じく先書で指示した通り、上・越国境を行き交う諸人を越後側から越境の制限をしては、越後と沼田を往復する者の通行を妨げてしまうので、速やかに沼田側から諸口を封鎖し、厳重な警戒態勢を敷くべきこと、本庄(繁長)と甲州(甲州武田氏)の使者は自由に奥州会津と上州沼田の間を往復しているらしいので、会津の者の通行を妨げることなく、念入りな検問を実施し、この十日から十五日の間は、取り分け態勢を強化して臨むべきこと、これらを取り急ぎ伝えた。更に追伸として、これは四人全員に対する指示であることを伝えた。
22日、(上杉「輝虎(花押a4)」)、昨日に着津した柏崎の地から、甥である上田長尾喜平次顕景(越後国坂戸城主)の陣代である「栗林次郎左衛門尉とのへ(実名は房頼か。越後国樺沢城主か)」に宛てて書信を発し、昨21日に当津柏崎に着陣したこと、これから先は一日も滞留せずに進陣する計画であり、明日は出雲崎(越後国山東(西古志)郡)へ進み、27日には新潟津(同蒲原郡)を立つつもりであること、越府の喜平次(長尾顕景)からも指示が寄せられるであろうが、合流が遅れるような不覚を取ってはならず、早々に旁輩共(上田衆)を引き連れて三ヶ津(蒲原・新潟・沼垂)に着陣するべきこと、若し一人でも出陣を拒む者がいたならば、厳しく懲らしめるべきこと、これらを取り急ぎ伝えた。

吉日、甥の長尾喜平次顕景に手ずからの消息手本を贈る。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、2日、信濃国長沼領(水内郡)の西厳寺に対して、同海津城(埴科郡)の城代である「春日弾正忠(虎綱。譜代衆)」を奉者とする朱印状(竜朱印)を与え、長沼領内の土地を宛行うとともに、長沼表に敵勢が襲来した際には、御当城(海津城)に逃げ込むことを勧めている。また、当軍が越国口に攻め入る際には、野伏一名を供するように求めている。
3日、信濃国須坂領(高井郡)の勝楽寺などに対して、家老の跡部大炊助(勝資。譜代衆)を奉者とする禁制(竜朱印)を与え、長沼城の番勢の衆(在番衆)や、越国に攻め込む参陣の衆の乱妨狼藉と陣取を禁じている。
13日、本庄弥次郎繁長の重臣である「板屋古瀬右馬允殿」に対して書信を送り、来春の戦略について協議するために杉原日向守(直参衆)を中途まで派遣したこと、また、若干ではあるが、兵糧等を送り届けるように申し付けたこと、よって、これらを杉原が詳報することを伝えている。

相州北条「氏政(左京大夫)」は、総州に在陣するなか、17日、陸奥国衆の「白川殿(白河結城七郎義親。初めは隆綱と名乗った。陸奥国白河城主)に対して書信を送り、先だって意趣を申し入れたところ、詳細な御返報を寄越されたので、心から喜んでいること、先書で示した通り、これからも従来の筋目に従って、かけがえのない交誼を継続していきたく、是非とも御同意してほしいこと、取り分け、その方面については、盛氏(奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名止々斎)と連携を図り、余すところなく掌握されているそうであり、めでたく喜ばしいこと、爰許については、簗田中務大輔(晴助。洗心斎道忠)が逆心を企てたので、下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)に向かい、二ヶ所の付城(不動山・山王山)を築いたこと、必ず決着をつけるつもりであること、またの来信を期していること、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 535号 上杉輝虎書状、618号 上杉輝虎書状、619号 上杉輝虎書状(写)、620号 上杉輝虎書状 『大日本古文書 家わけ 第12之3 上杉家文書』(東京大学史料編纂所)995号 上杉輝虎署名消息手本 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1318号 武田家朱印状、1319・1320号 武田家禁制、1321号 武田家禁制写、1323号 武田信玄書状 『戦国遺文 後北条氏編 第三巻』 1101号(追加分) 北条氏政書状写

◆ 白河結城義親については、小林清治氏の編著である『中世南奥の地域権力と社会』(岩田書院)から、佐川庄司氏の論考である「Ⅱ 南奥の大名と国人 白川義親の家督継承をめぐって」を参考にした。
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越後国上杉輝虎の略譜 【42】

2013-01-24 22:11:56 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄11年(1568)7月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

6日、濃(尾)州織田信長(尾張守)に宛てて書信を発し、畿内及び信長周辺の情勢について、越後に流れてきた風聞が一様でないため、心配していることを伝えた。

越前国朝倉義景(左衛門督)の本拠地である一乗谷(越前国足羽郡)の安養寺に御座を据えた左馬頭足利義昭(この4月に義秋から義昭に実名を改めた)の許に、使節として新保清右衛門尉秀種(旗本衆)と智光院頼慶を派遣すると、8日、その「新清右秀種(新保秀種)・智光院頼慶」が、年寄衆の「河豊(河田豊前守長親。大身の旗本衆)・鯵清(鰺坂清介長実。同前)参御宿所」に宛てた書簡を飛脚に託し、爰許(越前国一乗谷)の様子を御報告するために、敢えて飛脚を立てたこと、この2日に越府から、上意様(足利義昭)に献上する御鷹と御馬が滞りなく到着したので、三日ほど間を置いて進上したところ、すこぶる気に入られて感悦の意を表されたこと、御鷹を贈られた朝倉殿(義景)とその歴々も、ひときわ喜ばれており、当家の面目は施されたので、御安心してほしいこと、とにもかくにも前波方(藤右衛門尉景当。朝倉家の内衆で、一乗谷三奉行のひとり)と山崎方(新左衛門尉吉家。同じく奏者衆のひとり)の格別な配慮のたまものであること、織尾(織田信長)は上意様の濃州御動座が実行に移されれば、何があろうとも必ず御上洛に供奉する決意を、毅然と墨付(返書)をもって丁寧に言上したこと、これには(朝倉)義景も納得せざるを得ず、来る16日に上意様の濃州御動座が決行されること、上意様は自らの勧告によって、昨年に漸く成立させた越州(朝倉家)と賀州(加賀一向一揆)の和睦が、一札の往来もなく形骸化している状況を気に病み、御動座するまでの間に効力の伴った和睦に進展させたい御意向であること、しかしながら現状に於いては進展する見込みがなく、そもそも朝倉側では和睦そのものに懐疑的であること、御屋形様(輝虎)の御存念は上意様と朝倉殿(義景)に事細かに伝えたこと、よって、これらをしかるべく御披露してもらいたいことを伝えられている。更に追伸として、昨年に越州(朝倉家)と賀州(加賀一向一揆)の和睦が成立した際、調停に一役買った能州畠山家の年寄衆から加賀一向一揆の杉浦方(壱岐法橋玄任。摂州石山本願寺の別院である賀州金沢御堂の内衆)に宛てられた書簡が上意様へと供されていたので、書写して送付することを伝えられている。

12日、左馬頭足利義昭(花押)から御内書(「上杉弾正少弼とのへ」)が発せられ、このたび入洛について、(織田信長)が供奉する決意を固く誓言し、その信長から濃州への御動座を求められたので、近日中に発向すること、(朝倉)義景も率先して協力する不退転の心構えを示したこと、(輝虎も)当家再興のため、諸侯と図って奔走を尽くしてしてほしいこと、よって、これらを智光院(頼慶)が詳報することを伝えられている。
29日、織田「信長」から、この6日に送った書信に対する返書(「上杉弾正少弼殿 進覧之候」)が発せられ、去る6日の芳問を拝読したこと、畿内ならびに当表の情勢について、其許(輝虎)には錯綜した情報が流れているそうで、当方を心配する御音問に預かり、その懇ろな御心遣いに感謝していること、このたび条書をもって、畿内ならびに当方の様子を正確に伝えること、いささかも支障はないので、御安心してほしいこと、御入魂を深めるための条々を提示されて、歓喜していること、図らずも、ここ暫く交信が途絶えていたのは、実に遺憾であること、公方様(足利義昭)の御上洛に供奉している間、領国が隣国から脅かされないように、各国との関係を良好に整えておくため、このほど甲州(武田信玄)と此方(織田信長)は一和を結んだこと、その結果によって駿・遠両国(今川氏真)も契約に縛られ、おいそれと当国に手出しできないこと、貴辺(輝虎)の長くからの友好国に対して含むところはないこと、これまで何度も説得したように、旧怨を忘れて越・甲の和睦を果たし、天下再興のために御奔走されるべきこと、越中の一向一揆が蜂起したのに伴い、其方(輝虎)に御味方されているであろう神保父子(神保長職・同長住)が対応を巡って争いを始めたとの情報に接し、信長に於いても、交流のある神保父子の身を案じており、父子相克の収拾のために善処してもらえれば、ひたすら痛み入ること、紅の唐糸五斤・豹皮一枚を進献すること、また改めて音信を通じること、こうした条々を伝えられている。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、12日、越中一向一揆の「勝興寺(越中国婦負郡末友の安養寺城郭伽藍に拠る)机下」に対して書信を送り、このたび幸便を得たので申し伝えること、ひとえに貴寺にあっては、越中の東西に分かれて争いを続ける神保(惣右衛門尉長職。越中国増山城主)と椎名(右衛門大夫康胤。同松倉城主)を和睦させて、挙国一致して越後へ攻め込むように各方面への御働き掛けをしてほしいこと、よって、これを使僧の長延寺(実了師慶)が詳述することを伝えている。
16日、「勝興寺 几下」に対して再便を送り、暫く連絡が滞っていたのは遺憾であること、このほど椎名右衛門大夫(康胤)が越後から離反して本願寺門主(摂州石山本願寺門主の顕如光佐)の高意を得たので、当方も椎名と固く提携を結ぶに至ったこと、越中国中の団結する機会が到来したので、今こそ各勢力の連携を図るため、玄東斎(日向宗立。直参衆)を大坂(本願寺)へ、金山(椎名康胤)へは五日のうちに長延寺(実了師慶)を派遣するので、念入りに調談してほしいこと、越後衆の本庄弥次郎(繁長)が盟約通り、輝虎に反乱を起こしたので、それを後援するための軍勢を整えたので出陣し、近日中には越河すること、よって、これらを八重森(重昌。直参衆)が詳述することを伝えている。
17日、信濃先方衆の「蘆田五郎兵衛尉殿・丸子善次殿・武石左馬助殿」に対して条目(竜朱印)を送り、在番の任務を下伊奈衆と交替して参陣するように指示を与えるとともに、越後衆が信濃国島津境(水内郡長沼城域)に進出してきたので、ほどなく同小諸城(佐久郡)に向かうことを伝えている。
18日、本庄弥次郎繁長の重臣である「斎藤刑部少輔(丞)殿」に対して書信を送り、越府衆が出払っているうちに、越後国頸城郡へ攻め入るつもりでいたところ、連日の大雨によって千曲川・犀川の渡瀬が失われてしまい、進軍を延引せざるを得なかったが、幸いにもこの数日の間に水位が安定したので、明日には越河することと、当軍が万全の態勢で臨んでいる様子については、使僧が詳述することを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 577号 新保秀種・智光院頼慶連署状、609号 足利義昭御内書、610号 織田信長書状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1294号 武田信玄書状写、1299号 武田信玄書状、1300号 武田家朱印状、1301号 武田信玄書状


永禄11年(1568)8月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

信濃国飯山城(水内郡)の城衆から、甲州武田軍が同長沼(同郡)の地に在陣しているとの急報を受け、10日、(上杉「輝虎(花押a4)」)、越後国関山城(頸城郡)に在番する「宝蔵院(越後国関山権現別当宝蔵院の衆徒)・須田左衛門大夫殿・同順渡斎(ともに信濃衆)・宇佐美平八郎(譜代衆。越後国真板平城主ヵ)・平子若狭守(同前。越後国薭生城主)」に宛てて書信を発し、只今昼時に飯山からの注進によれば、敵軍が長沼に在陣しているようであり、その地(関山城)に十郎殿(上杉景満か。一家衆。古志長尾右京亮景信の子)と黒瀧衆(譜代衆・山岸隼人佑の同名・同心・被官集団。山岸本人は上野国沼田城に赴援したままか)を増派すること、また、その地から山本寺方(伊予守定長。一家衆。越後国不動山城主)を移動させるつもりでいたが、そのまま留め置くので、一同が協力し合って厳重な防備体制を敷くべきこと、このほど飯山衆が大敵を引き受けて頑強に防戦したにも係わらず、関山衆が支援を怠ったのは、返す返すも口惜しいこと、敵方の逃亡兵を河田方(豊前守長親。大身の旗本衆)の許から向かわせるので、この者を目付に添えて案内役とし、長沼口の様子を探るべきこと、これらを懇ろに伝えた。
12日、(上杉「輝虎(花押a4)」)、越後国村上陣の「直江大和守殿(政綱。大身の旗本衆。越後国与板城主)・行方六右衛門(尉)殿(旗本衆)」に宛てた書簡を早飛脚に託し、只今夕刻前に寄せられた確報によると、越中国で大規模な敵対勢力が蜂起したこと、信州在陣中の武田信玄に対する防衛体制は万全に施しているが、この軍勢が不足するなかで両口から同時に攻め込まれては、とても持ち堪えられないため、其許(村上陣)には面倒をかけるが、こちらが名簿で指定した人衆をもって陣所を堅持するべきこと、こうした難局を乗り切るために、是が非でも二十日間は持ち堪えてほしいこと、庄厳城と下渡嶋城(いずれも村上城に対する付城)についても厳重に防備を尽くすべきこと、また、別に指定した人衆(山浦某・北条弥五郎景広・新発田衆(新発田忠敦の同名・同心・被官集団。新発田本人は飯山城に赴援している)・色部修理進勝長らか)については、直ちに昼夜兼行で上府させるべきこと、彼の人衆が平時と変わらず悠長に構え、無理難題を突きつけられたとして、あれこれ不服を申し立てて上府が遅れるようであれば、取り返しのつかない大事に至ること、つまりは両人の調整力にかかっていること、ともかく其許の防備を頼み入ること、これらを取り急ぎ伝えた。更に追伸として、彼の人衆が到着すれば、当方の陣容は万全に整うので、其許は何れの敵陣にも攻撃を仕掛ける必要はなく、ひたすら其許・庄厳城・下渡嶋城(何れも越後国瀬波郡小泉荘)の堅持に集中するべきこと、彼の人衆を表向きは番手と称して移動させるべきこと、刻々と変化していくであろう状況に囚われてはならないこと、これらを厳重に指示した。
18日、(上杉「輝虎(花押a4)」)、村上陣を統轄する「柿崎和泉守殿(景家。譜代衆。越後国柿崎城主)・直江大和守殿(政綱)」に宛てた書信を朝方に発し、これまで二度に亘って輝虎自ら信・越国境まで出陣したところ、甲州武田方の軍勢は即時に後退してしまい、信濃国長沼城の再興も一時的な措置のようであり、形ばかりの村上本庄方への支援に過ぎないので、信州口の防備については、現状の人数でも事足りるが、越中口でも敵対勢力の侵攻が取り沙汰されており、こうなると人数が足りず、二方面での防戦は困難を極めるため、先だって指示した通り、直ちに山浦(一家衆。越後国篠岡城主)を始めとする五手の軍勢を上府させるべきこと、今のところは大事には至っていないため、皆々の目には、またもや輝虎が慌てふためいて人衆を呼び寄せたと映り、はなはだ威信が傷ついたこと、しかしながら、信濃国飯山城に新発田(尾張守忠敦。外様衆。越後国新発田城主)・五十公野(玄蕃允か。外様衆。越後国五十公野城主。新発田氏の支族)・吉江(佐渡守忠景。大身の旗本衆)を、越後国関山城に十郎方(上杉十郎。実名は景満か)・山本寺(定長)・竹俣(三河守慶綱。外様衆。越後国竹俣城主)・山岸隼人佑(実名は光重か。譜代衆。越後国黒滝城主)・下田衆(譜代衆・下田長尾氏の同名・同心・被官集団)を籠め置き、なおかつ両城には、それぞれ十騎から十五騎の旗本衆を横目として配置し、越後国祢知城・同不動山城(ともに頸城郡)にも多数の旗本衆を籠らせているので、自分の手元には山吉(孫次郎豊守。大身の旗本衆。越後国三条城主)・河田(豊前守長親。同前。同栖吉城主か)・栃尾衆(大身の旗本衆・栃尾本庄氏の同名・同心・被官集団)がいるのみで、そのうち三条・栃尾の両衆も半分は各所に派遣しており、このように自陣が手薄であっても、決してたじろいでなどいないこと、時期的に十日ほどで敵勢は退散すると予想されるため、呼び寄せた軍勢は到着次第に両口へ増派し、手薄の自陣は地下鑓を召集して耐えしのぐつもりであり、若しも敵勢が帰陣しないのであれば、総軍をもって立ち向かう決意であること、ともすると兵卒は当国のみが重大な苦境に陥っていると悲観して逃げ出すため、戦陣の維持に苦心するであろうが、其許(村上陣)・庄厳城・下渡嶋城の堅持は両名の双肩に懸かっており、長くても二十日ほど持ち堪えてくれれば、状況は必ず好転すること、庄厳・下渡嶋の両城に人員を割いて其許は寡勢で凌いでいるように思えてならず、はなはだ気を揉んでおり、異変があれば必ず連絡するべきこと、若しも総軍で敵陣に対する時には、両名を呼び寄せ、先に呼び寄せた五手の軍勢を其許に戻すこと、今が正念場であり、其許の堅持に努めるべきこと、当陣への気遣いは無用であること、どれほどの悪評に接したとしても動揺せず、(輝虎の)直報のみを信じるべきこと、これらを取り急ぎ伝えた。更に追伸として、村上本庄方が弱体している気配はないかどうか、探り出して報告するべきこと、くれぐれも五手の軍勢は番手を装って上府させるべきこと、よって、これらの条々を敵方に悟られないように気を配るべきことを伝えた。
22日、(上杉「輝虎(花押a4)」)、村上城攻囲軍が付城の下渡嶋城を放棄したとの情報に接すると、同じく庄厳城に拠る「鮎川孫次郎殿(盛長。外様衆。越後国大葉沢城主)・三潴左近大夫(実名は長能か。大身の旗本衆・三潴出羽守長政の嫡男)」に宛てて返書を発し、只今日没後に届いた急報によると、下渡嶋城を放棄せざるを得なかったようであり、ひたすら無念であること、その地(庄厳城)については、たとえ番手衆が逃げ出しても、両名だけは実城(主郭)に留まり、援軍が到来するまでは堅持するべきこと、このほど信州口の敵勢が退散したので、山浦方・北条弥五郎(景広。譜代衆。越後国北条城主)・新発田衆・色部修理進(勝長。外様衆。越後国平林(加護山)城主)を急行させること、これによって岩船方面からの支援は万全に整うため、ともあれ安心してほしいこと、番手衆が両人を見捨てるようであれば、必ず処分を科すので、この旨を各々に周知させるべきこと、これらを特記して伝えた。

こうしたなか、相州北条陣営から離脱したばかりの下総国衆の簗田「洗心斎道忠(中務大輔晴助)」は世上を憂い、一切を息子の簗田八郎持助(下総国関宿城主)に任せて隠遁生活を送っていたところ、鎌倉公方足利義氏の下総国古河城(葛飾郡)への還座に伴い、相州北条家に他国衆として属する下総国金(同郡風早荘小金)の高城勢、同じく武蔵国岩付(埼玉郡)の太田勢によって、簗田持助の直領が荒らされるなど、日を追うごとに強まる相州北条方の攻勢に耐えかね、5日、房州里見義弘(上総国佐貫城に本拠を置く)の父で、自分と同様に閑居の身である「久留里(里見岱叟院正五。権七郎義堯。上総国久留里城主)に宛てて書信を発し、ここ暫くは御閑居の御事情により、御音問を控えていたこと、とはいうものの拙者(簗田入道道忠)も隠遁して郊外に在宿していたこと、そうもいっていられなくなり無遠慮ながら申し達したこと、至って御頑健な様子を聞き及び、めでたく御安堵の思いであること、是非とも御目にかかりたく、明けても暮れても申しているほどであること、御世上から逃れて郊外で閑居しているところ、義氏様が古河へ御打ち入りされたゆえ、近接するところとなり、ついには日夜の苦労による窮迫した状況を御察し願いたいこと、何もかもがままならず難儀していること、また、金・岩付から八郎(簗田持助)の知行を日増しに侵食しているので、無念でならないこと、しかしながら御当口は御考えの通り、取り分け下総が破綻し、両酒井(上総国土気・東金の酒井氏)が其許(房州里見家)への帰属を切望しているらしいと聞き及んでおり、御父子(里見入道正五・同太郎義弘)が御懇意を施して迎え入れるべきであること、更には、氏政(相州北条氏政)が武蔵国羽生口(埼玉郡)へ出張しているとも聞こえてきており、爰許も警戒を疎かにはしないので、御安心してほしいこと、彼の使いが見聞した条々を詳説すること、これらを懇ろに伝えている。


この間、武蔵国羽生方面に出陣した相州北条氏政(左京大夫)は、越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長が輝虎に遺恨の一理があると唱えて、本拠地の村上城で挙兵に及んだことを伝え聞くと、村上に使者を派遣して本庄繁長に誼を通じている。暫くして繁長から折り返しの使者が到来すると、26日、相州北条氏政の兄弟衆である大石「氏照(相州北条氏康の三男。武蔵国滝山城主)」が、本庄繁長の重臣である「斎藤刑部丞(少輔)殿」に宛てた初信(包紙ウワ書「斎藤刑部丞殿  源三」)を氏政の使者に託し、このたび初めて音信を通じること、本庄方(繁長)が輝虎に遺恨の筋目があり、在府を引き払われると、御在所に於いて挙兵されたとの情報を得るも、越・相は抗争の真っ只中であり、最優先事項であるため、当方から使者を立てたところ、すぐさま返答の使者を寄越されたので、今後はかけがえのない連携を図りたいこと、そのため氏政(相州北条氏政)から使者をもって仰せ届けられること、早々に弥二郎方(本庄繁長)の宿願が達せられるように、各々方(家中衆)の御奮闘が御肝心であること、よって、これらを彼の使者が詳述することを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 611号 上杉輝虎書状、612号 上杉輝虎書状(写)、613・614号 上杉輝虎書状 『戦国遺文 房総編 第二巻』 1295号 簗田道忠書状 『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』 3914号 北条氏照書状写
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越後国上杉輝虎の略譜 【41】

2013-01-17 20:06:10 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄11年(1568)4月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

このほど駿州今川氏真(上総介)の使者が帰国するのに伴い、自らの使者を添えたところ、15日、今川家の家老衆である朝比奈備中守泰朝(遠江国懸川城主)・三浦次郎左衛門尉氏満から、年寄衆の「柿崎和泉守殿(景家。譜代衆。越後国柿崎城主)・直江大和守殿(政綱。大身の旗本衆。同与板城主)御宿所」に宛てて返書が発せられ、このたびは此方から意図して申し入れるべきところ、此方の使僧に使者を添えられたので、彼の御使者を通じて申し述べること、氏康父子(相州北条氏康・同氏政)の仲介によって、「甲州新造(昨年10月に死去した武田義信の妻。今川氏真の妹)」を甲州武田家から引き取ろうとしたところ、信玄(甲州武田信玄)は、姻戚関係が途切れても対立を生じさせない確約を求め、氏真に誓詞の提出を強要してきたので、このまま新造を見捨てる訳にはいかず、仕方なく同意したこと、旧冬に要明寺を寄越された際に両家の間で隠し事はしない旨を誓い合ったからには、こうした疑念を抱かれるような事柄であっても誠実に報告したこと、信玄が信義に背いたならば、言うまでもなく知らせること、よって、これらを遊雲斎(永順)が詳報することを伝えられている。
同日、遊雲斎「永順」から、「柿崎和泉守殿(景家)・直江大和守殿(景綱)貴窓下」に宛てて副状が発せられ、旧冬に使者として赴いたところ、数々の懇待を受けたので、恐悦しきりであること、このほど貴国が仰せられた御存念を、すぐさま披露したところ、此方の有様を朝比奈備中守(泰朝)・三浦次郎左衛門尉(氏満)が申し入れられること、そうではあっても、此方は信玄に誓詞を提出して対立を回避したが、いずれ信玄が信義に背くのは明白であり、その時にも盟約の旨に従って報告すること、若し信玄が貴国に接触を図ってきた際には、隠さずに知らせてほしいこと、これらを懇ろに伝えられている。
24日、越・相・甲三ヶ国の和睦交渉が進行しているとの風聞に接した駿州今川氏真の指示により、駿河国の僧侶である「宗是」から、旧知の越後国在住の僧侶である「今林寺方丈 衣鉢禅師」に宛てて書信が発せられ、御上洛された以後は連絡を差し上げず、図らずも礼を欠いてしまったこと、このほど屋形(駿州今川氏真)が書簡をもって御存分を申し入れられること、尾崎方への尊書を拝読したこと、彼の御縁組をまとめられるのは、何はともあれ適当であろうこと、この御返事の次第により、此方の家老の御両人が書簡をもって申し入れられるであろうこと、噂される貴国と相・甲の三ヶ国の和与の交渉が事実であるならば、当国を証人(仲介役)として関与させてくれるように、越府に御取り成して下されば、屋形(駿州今川氏真)も満足されるであろうこと、詳細な有様については遊雲斎(永順)に申し含めたので、この書面は省略させてもらうこと、よろしく御披露してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、味方に引き入れた越中国金山(新川郡)の領主である椎名右衛門大夫康胤(越中国松倉城主)が越後国上杉軍の猛攻を受けると、6日、越中一向一揆の瑞泉寺(越中国婦負郡井波)の坊官である「上田石見守殿」に対して書信を送り、金山(椎名康胤)が窮迫した状況なので、後詰として近日中に越後へ攻め入ること、大坂(摂州石山の本願寺)との御内儀に従い、長延寺師慶(武田家の使僧)を貴寺の許へ派遣するので、貴寺の御取り持ちで右衛門大夫(椎名康胤)の前途が開くように、要の御調略(上杉陣営の切り崩し工作か)に努めてほしいこと。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 601号 朝比奈泰朝・三浦氏満連署状(写)、602号 遊雲斎永順書状、605号 宗是書状 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1257号 武田信玄書状


永禄11年(1568)5月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

この3月に越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長が反乱を起こして本拠地の越後国村上城(瀬波(岩船郡)郡小泉荘)に立て籠ったが、自身は関東・信濃・越中に敵を抱えて越府を離れられないなか、4日、(上杉「輝虎(花押a4)」)、越後奥郡国衆の黒川四郎次郎平政(越後国黒川城主)の一族・家中である「黒川三河守殿・同但馬守殿・石塚玄蕃允とのへ・沢田右京亮とのへ・松浦隠岐守とのへ」に宛てて書信を発し、本庄弥次郎(繁長)の反乱を鎮圧するため、柿崎和泉守(景家)と直江大和守(政綱)を中核とする軍勢を村上陣へ派遣したことと、本来ならば在府している当主の黒川四郎次郎(平政)も村上陣へ向かわせるべきところ、未だ若輩であるため、このまま留め置くことを伝えるとともに、今こそ忠義を示す機会なので、傍輩共(黒川家中)が一致団結して戦果を挙げるように励ました。
同日、(上杉「輝虎(花押a4)」)、同じく鮎川孫次郎盛長(村上本庄氏とは同族。越後国大葉沢城主)の一族・家中である「鮎川治部大輔殿(長憲)・同刑部少輔殿・同中務少輔殿・甫保隼人佐とのへ・菅原太郎左衛門尉とのへ・同新左衛門尉とのへ・渡辺兵部丞とのへ・岡雅楽允とのへ」に宛てて書信を発し、このたびの本庄弥次郎の逆意は、残念な事態であり、鮎川の地(瀬波郡小泉荘の大葉沢城)で村上本庄勢の攻撃を一身に受けながらも、力の限り奮闘したことを称えるとともに、戦備が整わず大葉沢城を放棄して後退するしかなかったことを慰めた。そして、本庄退治のために軍勢を派遣したので、傍輩共(鮎川家中)が一致団結して攻撃軍の先頭に立って忠義を示し、因縁ある長年の敵(本庄氏)を倒して鬱憤を晴らすことを勧め、当主の鮎川孫次郎(盛長)を村上陣に向かわせるので、すぐれて力戦するように励ました。

この前後、越後奥郡国衆の中条越前守(実名は房資か。越後国鳥坂城主)の許へ本庄弥次郎繁長から一味に誘う密書が届くも、越前守は密書を開封することなく、すぐさま輝虎に差し出している。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 606・607号 上杉輝虎書状、622号 上杉輝虎書状(写)、624号 山吉豊守等三名連署状、626号 上杉輝虎起請文


永禄11年(1568)6月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

このほど村上本庄勢の攻撃によって本拠地の大葉沢城を失陥した鮎川孫次郎盛長に命じ、村上城の付城として庄厳城(瀬波郡小泉荘)を再興させると、20日、鮎川「盛長」が被官の「鈴木平八郎殿」に証状を与え、このたび本庄が越府に逆心したので、御屋形様(輝虎)の御下知により、将軍嶺(庄厳城)を再興したところ、すぐれて奮励してくれたので、都合一貫文分の地と大葉沢の石栗屋敷一間を宛行うので、なおいっそう奉公を励むように通達した。

25日、濃(尾)州織田信長(尾張守)から、取次の「直江大和守殿(政綱)」に宛てて書信が発せられ、先頃に受けた御懇慮の数々には、感謝してもしきれないこと、これまで何度も甲州(武田信玄)から和親を申し入れられているが、今もって成就には至っていないこと、越・甲両国の御和談については、自分が仲介したいと考えているが、貴国の真意を尋ねもせずに、当方の一存で進めるわけにはいかないため、差し控えていたこと、しかしながら、このたび貴国が御決断されるならば、懸命に取り組むつもりなので、御返事を承ったのち、その内容次第では、当方から甲州に申し入れること、よって、これらを取次の佐々一兵衛尉(良則ヵ。馬廻衆)が詳報することを伝えられている。


この間、甲州武田「信玄(徳栄軒)」は、越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長(越後国村上城主)が自分と交わした約束通り、居城に拠って反乱を起こしたとの連絡を2日に受け取ると、3日、信濃先方衆の岩尾「大井弾正忠殿(信濃国岩尾城主)」に対して書信を送り、本庄(繁長)を始めとする越後衆の過半が当陣営に寝返ったこと、この機会を捉えて出馬したこと、このたびは越後へ攻め入るつもりなので、しっかりと軍備を整えて参陣するべきこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、掌中のはれものにより、手筆がままならないため、印判(印文「晴信」)を用いたことを弁明している。


『新潟県史 資料編5 中世三』 3255号 鮎川盛長知行宛行状写 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 608号 織田信長書状(写)、612号 上杉輝虎書状(写) 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』 1276・1277号 武田信玄書状
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越後国上杉輝虎の略譜 【40】

2013-01-13 12:14:39 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄11年(1568)正月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

旧冬に関東遠征から帰陣して以来、上野国沼田城(利根郡沼田荘)を巡る情勢に不安を感じていたところ、沼田城衆から敵方の様子について報告が寄せられたので、8日、(上杉「輝虎」)、沼田城衆の「松本石見守殿(景繁。大身の旗本衆。越後国小木城主)・河田伯耆守殿(重親。大身の旗本衆。年寄衆・河田長親の叔父)・小中大蔵丞殿(大身の旗本衆。もとは上野国勢多郡小中の地衆と伝わる)・小国刑部少輔殿(譜代衆。越後国天神山城主)・新発田右衛門大夫殿(外様衆)」に宛てて書信を発し、関東から帰陣して以来、その方面の状況が、心の内で案じられてならなかったところ、このほど入手した敵情を報告してくれたので、すこぶる満足していること、再び上野国那波(那波郡)筋へ目付を派遣し、新田(新田郡新田荘)・館林(邑楽郡佐貫荘)のほか、南方の衆(相州北条氏)の動向を探って報告するべきこと、更には、一、信州から寄せられた情報によると、甲・信両国の衆(甲州武田氏)が上野国岩櫃城(吾妻郡)に集結し、その地(沼田城)を不意に攻撃するつもりのようなので、その地はもとより猿京(吾妻郡)・小河(利根郡)・森下(同前)の防備を怠ってはならないこと、増援として派遣した諏訪左近允(旗本衆)・山岸隼人佑(譜代衆。越後国黒滝城主)を含め、城衆の引率してきた兵員に不足がないか、人数を調査して報告するべきこと、往々にして陥りがちな怠慢から、関東・越後に取り返しのつかない危難を招いてはならないこと、一、当国(越後国)から派遣した一騎合衆(地下侍)や、佐野(小太郎昌綱。下野国衆。下野国唐沢山城主)から預かった人質が城外に在宿しているそうなので、それでは緊急時に即応できないため、最初に指定した城内の曲輪(郭)に配置するべきこと、一、敵領からやってくる諸商人の出入りを妨げてはならないが、厳重に監視して治安を維持するべきこと、一、その地に敵勢が不意に攻め寄せてきたとしても、必ず上田衆が援軍として駆け付けるように、厳重に申し付けてあるので、心配は要らないこと、一、かつて城代の河田長親を常駐させていなかったゆえに、城衆が緊張感を欠く状況を招いてしまい、その過ちを悔いて体制を一新し、吾分共を見込んで、その地(沼田城)を預けたにも係わらず、武具・軍馬・馬鎧など軍装は乱れて武技の嗜みなく、下々の者に至っては、更に修練が足りないようなので、このまま前体制と変わらず、油断して醜態をさらすようであれば、関東はおろか本国でも物笑いの対象となるのは明らかであること、吾分共にとって関東平定の達成への思いは希薄であるのが無念極まりなく、こちらでは年明け早々であるにも係わらず、士卒に軍備を整えるように発令したところ、長年の労兵でありながらも闘志を奮い立たせて出陣の準備に余念がないこと、旧冬に下野国唐沢山城の番城体制を放棄せざるを得ず、ただでさえ屈辱の思いを噛み締めているところに、万が一にもその地(沼田城)を失陥したならば、天下の嘲笑を浴びるのは必定であること、今後のために敢えて申し遣わしたこと、これらの条々を示して危機意識が欠如する沼田城衆の奮起を促した。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 591号 上杉輝虎書状(写)


永禄11年(1568)2月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

4日、年寄の山吉「孫次郎豊守(大身の旗本衆。越後国三条城主)」が、与力の「飯田与七郎殿(越後中郡国衆)参」に証状を与え、蒲原郡内の瀬原田分を宛行うので、これから相違なく知行するべきことを通達している。

8日、濃(尾)州織田「尾張守信長」から、「直江大和守殿(政綱)」に宛てて書信が発せられ、このたび敢えて音信を通じたこと、心ならずも通路の断絶により、無沙汰をしてしまったこと、見立てに自信はないものの、糸毛の腹巻・同毛の甲を進覧すること、今回は形ばかりの音信で親交を深めるには至らなかったこと、またの機会に音信を通じるので、御意を得られるように、よしなに取り成してほしいこと、これらを懇ろに伝えられている。

10日、永禄9年9月に年寄衆らによって領国の能州から逐われたのち、江州で再起を期している畠山「悳祐(左衛門佐入道。義続。畠山修理大夫義綱の父)」から自筆の書簡(「謹上  上杉殿」)が発せられ、年明けから日が経ってしまい、このままでは完全に時機を逸してしまうため、取り急ぎ新年の御慶賀を表すること、近々に入国を果たすつもりなので、きっと御満足してもらえるであろうこと、今後ますます御入魂を深められれば、すこぶる本望であること、また改めて御連絡すること、これらを懇ろに伝えられている。

25日、(花押a4か)、越後国頸城郡五十公郷の杉壺日光寺に証状を与え、常春院(上杉房朝)以来の由緒に従って別当職を安堵した。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 162号 庄田定賢等三名連署段銭請取状、593号 山吉豊守判物、594号 織田信長書状(写)、595号 上杉輝虎判物、1405号 畠山悳祐書状(写)


永禄11年(1568)3月 上杉輝虎(弾正少弼) 【39歳】

6日、昨年の11月に越前国朝倉義景(左衛門督)の本拠地である一乗谷(足羽郡)へと移った左馬頭足利義秋から御内書を携えた使者の柳沢新右衛門尉元政が立てられ、何度も仰せられているように、越・甲・相三ヶ国の和与について、甲・相両国に対して堅く申し付けたところ、請状をもって応じたこと、存分はあるであろうが、ここは両国への遺恨を収めて三ヶ国の和与を結び、入洛を遂げられるように尽力してほしいとの思召しであること、ひとえに輝虎の活躍に因ること、助長の太刀一腰、紫・肩紅・三物の腹巻一領を遣わすこと、よって、これらを(朝倉)義景が詳述することを伝えられている。
同日、随臣の一色「藤長(式部大輔)」・細川「藤孝(兵部大輔)」・飯河「信堅(山城守)」から、「弾正少弼殿」の年寄衆に宛てて副状が発せられ、何度も仰せ出されているように、越・甲・相三ヶ国の和融について、甲・相両国に対せられ、御下知を加えられたところ、請状をもって応じられたこと、御存分はあっても、ここは両国への遺恨を収められて三ヶ国の和融を結ばれ、御入洛を遂げられるように御尽力を頼みたいとの仰せであること、それゆえ御内書を成され、助長の御太刀一腰、紫・肩紅・三物が揃った御腹巻一領を御拝領のこと、こうした御趣旨を(朝倉)義景をもって仰せ出されること、更に我らが申し入れること、なお詳細については、御使僧の智光院(頼慶)が伝達されるので、宜しく御意を得られたいこと、これらを懇ろに伝えられている。
同日、一色「藤長」・飯河「信堅」・細川「藤孝」から、上使が詳説するための条目が発せられ、一、越・相・甲三ヶ国の無事について、すでに相・甲両国は御請けなされ、何事に於いても上意に違反されない旨を明言されていること、一、輝虎にも存分はあっても、これまで言上されてきた筋目通りに、ここは両国への遺恨を収められて無事を遂げ、御入洛して御当家再興を達せられるように御尽力されるべきこと、一、御入洛について、隣国の諸侯も御請けなされており、いま絶好の機会を迎えているので、取り分け輝虎の御尽力に期待されていること、一、上杉殿の受領のこと、輝虎の存分により、必ず御使節を再派遣されること、これらの条々を示されている。
同日、随臣の杉原「祐阿」から、「直江大和守殿(政綱。年寄衆)・河田豊前守殿(長親。年寄衆)・神余隼人佑殿(以前は京都雑掌を務めていたが、越後に帰国して旗本衆に加えられた)」に宛てて副状が発せられ、その国(越後国)の情勢を御気に掛られて、このほど柳沢(新右衛門尉元政)を下向させられたこと、御音信として、御内書ならびに、御太刀一腰と御腹巻一領を太守(輝虎)に御拝領のこと、先ずこれらを然るべく申し入れること、よって、三和を御取り扱われたいとの思召しにより、彼の両国に御尋ねされたところ、上意に応じる旨を内々に言上してきたので、取り急ぎ確かな人物を下向させるべきところ、若し太守が御請けにならないとしたら、元も子もないので、先ずは内々に彼の者(柳沢元政)をもって御尋ねされること、然るべきように各々で相談し合い、三和の取りまとめに御尽力してほしいこと、なお詳細については、彼の者が面述するので、詳しい御返答を寄せてほしいとの仰せであること、これらを懇ろに伝えられている。

10日前後、江州に流寓中の能州畠山父子の本国への復帰支援と称して越中へ出陣する。

13日、密かに甲州武田信玄(徳栄軒)と通じていた越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長が、輝虎に遺恨の一理があると称し、留守居していた越府から本拠地の越後国村上城(瀬波(岩船)郡小泉荘)に戻って挙兵に及んでいる。

同日、三州徳川家康(三河守)から交誼を求められたので応諾すると、年寄の河田「長親」が、徳川家の宿老衆である「石川日向守殿(家成。西三河の旗頭)・酒井左衛門尉殿(忠次。東三河の旗頭。三河国吉田城主)御宿所」に宛てて初信となる返書(「石川日向守殿・酒井左衛門尉殿  河田豊前守 長親」)を発し、このたび初信を通じること、(徳川)家康から御使者をもって、当方に格別な交誼を持ち掛けられたところ、ちょうど両家の思惑が一致したので、めでたく喜ばしいこと、駿州(今川家)と貴州(徳川家)の御間については、御使者の弁才をもって申し入れられたので、御事情を理解されたこと、当方の存念については、彼の御使者が詳述されるので、よくよく御検討されるべきこと、互いの領国は遠く隔たれているが、今後とも御本意を寄せて下されば、すがすがしく喜ばしいこと、後音を期していること、これらを懇ろに伝えている。

15日、越中国の中郡に進出する。
その後、越中国放生津(射水郡)の地に於いて本庄弥次郎繁長の反乱の一報を受けると、25日、未明に放生津陣を撤収した。


この間、越中一向一揆の勝興寺顕栄(婦負郡末友の安養寺御坊(城郭伽藍)に拠る)は、16日、賀州金沢御堂(摂州石山本願寺の別院)の坊官である「坪坂伯耆入道 進之候」に対して書信を送り、ここ暫く交信が途絶えていたのは、ひとえに不本意であったこと、近日中に大様(本願寺の坊官で賀州大将の七里頼周か)から何がしかの御指図が発せられるのかどうか、恐れながら御様子が案じられてならず、それから相変わらず通路が断絶しているのかどうか、併せて御知らせ願いたいこと、一昨日は出し抜けに各所から、輝虎が当国(越中国)に出張してきたとの情報が寄せられるも、いつものように単なる噂に過ぎないと楽観していたら、昨日の昼時に紛れもなく中郡へ現れると、地利等を築き始めたので、仰天してしまったこと、このたび長尾(上杉)が出馬してきた意図は、当国の守山城(射水郡二上山。反畠山氏である畠山年寄衆方の拠点)を攻略し、能州の屋形(先年に年寄衆によって領国から追放された畠山徳祐・同義綱父子)の復帰を支援するためらしいが、現時点では計り兼ねていること、今後の様子については、改めて御連絡すること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、返す返すも、今般の輝虎の出張が守山と能州を見据えたものというのは、どうにも意外な目論みであり、武士の間での方策は、何れも同じようなものとはいいながらも、いざとなると、その本性は刀槍の戦いよりも謀略であること、敢えて言明したのは、実際のところ輝虎が攻撃の対象としているのは、当方に他ならないと覚悟しているからであること、とにかく今後の状況を改めて御連絡することを伝えている。
能州畠山家の年寄衆である温井兵庫頭景隆は、26日、「広済寺・坪坂伯耆入道殿 まいる御宿所」に対して書信を送り、このたび敢えて申し入れること、昨25日の未明に長尾は越中西郡の放生津陣を払って総軍を引き上げると、未確認の情報ではあるが、越中東郡の松倉(新川郡)辺りに滞陣しているらしいこと、この13日に越後内輪の本城(本庄繁長)が甲州(武田信玄)と一味して反乱を起こしたそうであること、それで俄かに撤収したらしいが、半信半疑であること、異変があれば、改めて知らせること、これらを懇ろに伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 596号 足利義秋御内書、597号 一色藤長等三名連署状(写)、598号 一色藤長等三名連署条書、599号 水(杉)原祐阿副状、600号 河田長親書状 『富山県史 史料編Ⅱ 中世』 1677号 勝興寺顕栄書状、1678号 温井景隆書状
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越後国上杉輝虎の略譜 【39】

2013-01-04 18:22:29 | 上杉輝虎(謙信)の略譜
永禄10年(1567)10月11月 上杉輝虎(弾正少弼) 【38歳】

去る3月に甲州武田方の策略によって没落した関東味方中の白井長尾左衛門入道(憲景。もと上野国白井城主)から、常陸国衆の佐竹次郎義重(常陸国太田城主)の許に落ち着いたとの報告が寄せられたので、見舞いの使者を派遣したところ、10月18日、「長尾左衛門入道」から、「越府」の年寄中に宛てた書簡が使者に託され、御貴札を拝読して、ひたすら恐悦していること、このたび思い掛けない巡り会わせにより、当地に居留していること、御祝儀として大鷹一居を贈って下さり、身に余る御厚情を給わったこと、両方については、先書に於いて申し上げた通りなので、今後なおいっそう(佐竹)義重に御懇意を示されてほしいこと、なお子細については御使者が詳述されるので、紙面は省略させてもらったこと、これらを懇ろに伝えられている。

こうしたなか、下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に在番する越後衆を始めとした各所から急報が届き、逆徒の佐野地衆に手引きされた佐野小太郎昌綱(元来の唐沢山城主。当時は別郭に居住していたか)と数千人規模の相州北条軍の猛攻により、在番衆は主郭に追い詰められていることと、相州北条氏政の本隊(氏政は武蔵国岩付城に在陣しているようなので、実際は家老の大道寺駿河守資親(武蔵国河越城代)に率いられた増援軍か)が利根川に船橋を渡して上野国赤岩(邑楽郡佐貫荘)の地から佐野へ進軍中であることを知ると、相州北条軍と興亡の一戦を遂げて在番衆を救出するため、すぐさま出陣した。
24日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に着陣すると、翌日、出撃して上州中央部に進み、それから27日までの間に、上野国厩橋(群馬郡)・同新田(新田郡新田荘)・下野国足利(足利郡足利荘)を始めとした二十余ヶ所の敵地を突っ切り、佐野一帯を取り巻く相州北条軍の本営に肉迫するほどの勢いで敵勢を蹴散らし、赤岩の船橋も切り落とした上で、佐野唐沢山城に攻め寄せたところ、佐野小太郎昌綱と佐野地衆は下野国藤岡城(都賀郡)に逃げ込み、相州北条軍は夜中に武蔵国岩付城(埼玉郡)を目指して敗走したので、決戦するには至らなかった。
その後、佐野小太郎昌綱を降伏させると、戦後処理を行い、越後から遠隔地であるために佐野唐沢山城の番城体制を断念し、佐野昌綱の懇願を受け入れて城主に復帰させ、昌綱の子である虎房丸と佐野家中の三十余名を人質として預かり、11月12日までに沼田城へ戻った。

11月21日、佐野在番を務めた越後衆と虎房丸らを伴って帰国の途に就き、一月足らずで関東を後にした。

甲州武田信玄との断交を決意した駿州今川氏真から提携を打診されて応諾すると、25日、家老衆である「朝比奈備中守泰朝・三浦次郎左衛門尉氏満(ともに譜代衆)」から、年寄衆の「柿崎和泉守殿(景家。譜代衆)・直江大和守殿(政綱。大身の旗本衆)」に宛てて返書が発せられ、再び御使僧の要明寺をもって示された御存念を、このほど丁寧に披露したこと、なかでも信国(信濃国)御出陣については、尤も重要であること、こうして提携を結んだからには、互いに隠し事があってはならず、これもまた重要であること、当方の存分を遊雲斎(永順)が詳述すること、よって、これらの趣旨を日本国中の神々、特に富士浅間大菩薩・八幡大菩薩の神名に掛けて誓うことを示されている。


この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、10月16日、甲府の東光寺に籠居させていた嫡男の武田太郎義信を失っている(自害したらしい)。

武蔵国岩付に在城していた相州北条「氏政(左京大夫)」は、去る8月に戦死した岩付太田源五郎氏資(大膳大夫。他国衆)の遺領を管理下に納めると、11月12日、老父氏康の側近である「大草左近大夫殿(康盛。馬廻衆)」に対して書信を送り、このたび輝虎が上野国沼田城に退散したのは、毛利丹後守(北条高広。他国衆。上野国厩橋城主)と由良信濃守(成繁。同前。同金山城主)からの報告によっても確実であり、岩付衆に領内統治の施策を入念に指示した上で、「御料人(太田氏資室。氏康の娘)」を伴って岩付城を立ち、武蔵国岩淵(豊島郡)の地を経由し、今12日、同江戸城(同前)まで無事に帰還したので、御安心してもらいたく、この旨を(氏康へ)御披露するように頼んでいる。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 585号 長尾憲景書状(写)、586号 上杉輝虎書状(写)、621号 朝比奈泰朝・三浦氏満連署状(写) 『戦国遺文 古河公方編』 909号 足利義氏書状写 『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』 1055号 北条氏政書状

◆ 『戦国遺文』909号文書にみえる相州北条軍と佐野昌綱の動向については、黒田基樹氏の論集である『地域の中世12 古河公方と北条氏』(岩田書院)の「Ⅲ 公方領国周辺の国衆 第九章 戦国時代の佐野氏」を参考にした。
◆ 『上越市史』等は621号文書を永禄11年に比定しているが、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ― 文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第五章 信玄・勝頼の歩いた道 【今川氏真の動きと駿河攻め】」に従い、永禄10年の発給文書として引用した。
◆ 『戦国遺文 後北条氏編』1055号の解釈については、山口博氏の著書である『小田原ライブラリー13 北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)の「6 「武栄」を求めて 【出馬の停止】」を参考にした。
◆ 同1055文書にみえる「御料人」を太田氏資室に比定したことについては、下山治久氏の編著である『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)を参考にした。


永禄10年(1567)12月 上杉輝虎(弾正少弼) 【38歳】

2日、(上杉「輝虎」)、奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名家の使僧である「游足庵(淳相)」に宛てて書信を発し、去る頃は使者として到来してくれたにも係わらず、下野国佐野領の地衆が残らず離反して佐野小太郎(昌綱)と武・相の衆(相州北条軍)を導き、佐野唐沢山城を実城の一曲輪以外を攻め破り、在番する越後衆を窮地に陥らせた上、「伊勢氏政」父子も唐沢山城の攻略を期して、上野国赤岩の地に船橋を架けて利根川を渡ったとの急報に接し、これまでの鬱積した思いと東北(東・北関東)の存否に決着をつけるため、直ちに関東へ出陣したので、ゆっくりと懇談できなかったのは、実に遺憾であったこと、去る10月24日、上野国沼田城に着陣し、翌25日、上州中央部に進み、10月27日までに、上野国厩橋・同新田・下野国足利を始めとする二十ヶ所以上の敵地を突っ切り、佐野周辺を取り巻いた氏政陣所の間近を強襲して蹴散らしたのち、佐野唐沢山城に攻め寄せると、凶徒(相州北条軍)は夜陰に紛れて遁走してしまい、決着をつけられずに無念であること、佐野唐沢山城については、越後から遠隔の地であるため、小太郎(佐野昌綱)の嘆願を受け入れ、在番の越後衆を引き上げ、彼の子息である虎房丸と佐野家中三十余名の証人を差し出させて、11月21日に帰国の途に就いたこと、沼田城のほかに数ヶ所の要地を堅持しているので、関東・奥州南部は安寧であること、本来であれば盛氏(蘆名止々斎)・盛興(平四郎)父子に直報するべきところ、近いうちに使者を派遣するまでの応急の連絡であること、よって、これらを取次の河田豊前守(長親。大身の旗本衆。上野国沼田城代)が詳報することを伝えた。

14日、(上杉「輝虎」)、旗本の「大石右衛門(尉)殿」に朱印状を与え、越後国蒲原郡内の馬下分と同頸城郡内の飛口(樋口か)分の地を宛行い、その軍役として、鑓二丁、小旗一本を定め、本人には糸毛の具足と金色の馬鎧の着用を義務付けた。
同日、同じく「楠川左京亮殿(将綱。越後国楠川城主か)」に朱印状を与え、越後国古志郡福島村の石黒丹波守分と同魚沼郡藪神郷の聖光寺分の地を宛行い、その軍役として、鑓六丁と大小旗(数量を欠く)を定め、本人には糸毛の具足と金色の馬鎧の着用を義務付けた。

21日、駿州今川「源 氏真」から書信(「謹上  上杉殿」)が発せられ、亡父である義元以来の因縁を鑑みて提携の申し入れを受諾されると、わざわざ御使僧の要明寺を派遣してくれたので、すこぶる満足していること、いよいよ別懇の連携を図っていきたいこと、よって、これらを取次の朝比奈備中守(泰朝)と三浦次郎左衛門尉(氏満)が詳報することを伝えられている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 586号 上杉輝虎書状(写)、588・589号 上杉輝虎朱印状(写)、590号 今川氏真書状(写)
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