越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄11年9月~同年10月】

2013-01-30 19:30:22 | 上杉輝虎の年代記

永禄11年(1568)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


揚北衆の本庄弥次郎繁長(越後国瀬波(岩船)郡村上城を本拠とする外様衆)の叛乱に一味した出羽国大浦の大宝寺 義増(仮名は新九郎。出羽国田川郡の大浦城を本拠とする)は、本庄には荷担しなかった揚北衆の大川三郎次郎長秀(本庄氏の庶族で、同じく瀬波郡の藤懸(府屋)城を本拠とするが、繁長に通じた弟二人に奪われていた)を攻め立てていたが、このたび味方中に復帰することを申し入れてきたので、8日、かつて年寄衆の一員であった本庄美作入道宗緩(俗名は実乃。隠居の身であるが、人手不足で駆り出された)・山吉孫次郎豊守(輝虎の最側近)・河田豊前守長親(同前)が、村上城攻囲軍を統轄する直江大和守政綱(輝虎の最側近)へ宛てて条書を発し、覚、一、甲州からの使者を留めて、(武田方へ)御手切れの意思を示すべきこと、一、(大宝寺の要害)三ヶ所を破却するべきこと、一、(輝虎の)御疑心について、証人を差し出すのは、やむを得ないにより、杖林斎(大宝寺氏の重臣である土佐林能登入道禅棟)も率先して差し出すのが適切であること、この補足として、彼方(大宝寺義増)とは前々からの御筋目があるので、そのために申し届けたこと、一、大川(長秀)とは、(勝手に当事者間で)御落着させてはならないこと、一、満千代殿(大宝寺義増の嫡男)の御在府には、家中衆の子息を添えるべきこと、右の条々は、この通りに御取り扱うべきこと、(大宝寺側が)もしこの五ヶ条を違えるにおいては、最初から表裏(和談する意思はなかった)を構えるつもりであったと判断すること、以上、これらの条々について申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』616号「直和 御陣所」宛「本入 宗緩・山孫 豊守・河豊 長親」連署条書)。



21日、濃(尾)州織田信長(尾張守)から、取次の直江大和守政綱へ宛てて返状が発せられ、芳翰の趣は本望に存ずること、よって、去る7日に、 (足利義昭の)御入洛に供奉して江南まで着陣したこと、国々の乱れを平均に申し付けたこと、されば、来る24日に(琵琶湖を)御渡海されること、いよいよ(足利義昭の)御本意が遂げられること、この条の通り、(輝虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』617号「直江大和守殿」宛織田「信長」書状写)。


この間、越中国東郡を支配する椎名右衛門大夫康胤(越中国新川郡の松倉(金山)城を本拠とする)は、9月12日、族臣の椎名胤珍を通じて飛州姉小路三木良頼(中納言)の重臣である牛丸備後守へ宛てて、初信となる書状を発し、これまで申し交わしていなかったとはいえ、申し達すること、よって、一儀はこの使僧の口上に申し含めた趣を、御分別をもって、適切な御調略をひとえに頼み申し上げること、さらには子細を条目をもって申し入れるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『富山県史 資料編Ⅱ』1702号「牛丸備後守殿 御宿所」宛椎名「胤珍」書状)。

その条目をもって、覚、一、良綱様(三木良頼)に郡内(の一部)を渡すつもりであること、一、越(越後国上杉家)と手を結ばれ、甲・信両国(甲州武田家)を御敵と見なされるのは適切であるのか、疑問に思われること、一、越(越後国上杉家)と手を切られ、甲・信両国と御入魂を結ばれて、そのうえで郡内を御差配されるのが、適切ではないかと思われること、一、甲・信両国ならびに増山(越中西郡を支配する神保惣右衛門尉長職)と和与を結ばれて、ひがし(東)郡内を御進退してしまえば、越中はすべて御差配が立ち行かないのではないか、と思われ、御分別されるべきこと、この条項を仰せ調えられたならば、貴所(牛丸備前守)には格別な一所が与えられること、これらの条々を示されている(『富山県史 資料編Ⅱ』1703号「牛備公 まいる」宛椎名「胤珍」覚書)。



永禄11年(1568)10月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


本庄弥次郎繁長の立て籠もる越後国瀬波(岩船)郡の村上城の付城である庄厳城(瀬波郡小泉荘)に配備した揚北衆の鮎川孫次郎盛長(秩父本庄一族。同郡の大場沢城を本拠とする外様衆)から、年寄衆の河田長親を通じて寄せられた状況報告を受けると、7日、鮎川孫次郎盛長へ宛てて返状を発し、先頃に鉄炮の玉薬を差し越したところ、(無事に)届いたそうであり、何よりであること、従って、(鮎川が)豊前守方(河田長親)の所まで寄越した条書(の趣旨)を聞き届けたこと、来る17日には(輝虎は)本庄口(村上陣)に向かって馬を打ち下るので、敵地への計策(内応工作)を進めるのが肝心であること、それまでの間(輝虎着馬)の堅固な防備を怠ってはならないこと、なお、(詳細は)河田豊前守が申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、(輝虎の)出馬の事実をば、(敵に悟られてはならず)何としても隠密にするべきこと、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』618号「鮎川孫次郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。

上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆から、取次の山吉孫次郎豊守を通じて寄せられた状況報告を受けると、13日、城衆のうちの小中大蔵丞(実名は光清か。旗本部将)へ宛てて返状を発し、(沼田管区の)黒岩・なくる見(名胡桃)の地下人を揃え、両地を堅持していると、孫次郎方(山吉豊守)の所まで言って寄越したこと、これも吾分(小中大蔵丞)の精励ゆえであると、感心していること、しかしながら、あまりにも地下人が揃ったので、不安を覚えているそうであり、やむを得ないこと、どうしても不安であるならば、(地下人の)頭立の者(責任者)たちから五人でも十人でも証人を取っておけば、その地に騒動は起こらないであろうこと、万が一騒動を起こす者が出たならば、彼の証人さえ取っておけば、報告を寄越してくるであろうこと、(報告を受けたならば)その地の近辺であるので、速やかに(黒岩・名胡桃へ)駆け移り、対処するにおいては、大した事態には至らないであろうこと、されば、(城衆の)新発田右衛門大夫(実名は綱成か。外様衆の新発田尾張守忠敦の弟であろう)と河田伯耆守(重親。河田豊前守長親の叔父)の間が懇ろであるのが適切であること、両人の仲が悪いと、そう聞こえてきており、不適切な事態であること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、見事な釜を贈ってもらい、喜びもひとしおであること、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』535号「小中大蔵丞殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


当文書を、諸史料集は『謙信公御書集』に従って永禄9年に置いたようであるが、書中に見える河田伯耆守重親が沼田城衆に配されたのは同10年の後半から(『上越市史 上杉氏文書集一』554・591号)である一方、永禄9年の後半から新たに組織された沼田城衆の一員となった揚北衆の新発田右衛門大夫が同11年10月から同年12月の間に城衆の任を解かれている(同前619・629・636号)ことからして、当年の発給文書となろう。


16日、沼田城衆の松本石見守景繁・河田伯耆守重親・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫へ宛てて書状を発し、前回の書中には、(村上表への出馬を)明日と申し越したが、(予定を変更して)20日に当府を打ち立ち、24日に柏崎(越後国刈羽郡比角荘)を打ち越すつもりであること、先書で指図した通り、当国(越後)にて人留め(通行の制限)をしたのでは、その庄(沼田)への往復が不自由であるので、その庄の諸口を留めるべきこと、わずかでも油断しては、台無しであること、早々に留めるべきこと、聞こえてきたところでは、(陸奥国)会津からその庄(沼田)を、本庄(繁長)は甲州(武田氏)の使いを自由に往来させているという話であること、これをも念入りに人を選別するべきこと、会津の者を留めるのは無用であること、ひとえに十日から十五日の間は、きつく人留めを実施するべきこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、これは四人に申し付けること、以上、これを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』619号「松本石見守殿・河田伯耆守殿・小中大蔵丞殿・新発田右衛門大夫殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


22日、昨日に着津した柏崎の地から、甥である上田長尾喜平次顕景(越後国魚沼郡の坂戸城を本拠とする)の陣代である栗林次郎左衛門尉(房頼)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、昨21日に当津柏崎へ馬を進めたこと、明日は出雲崎(越後国山東(西古志)郡)へ打ち下り、27日には新潟津(同蒲原郡)を打ち立つつもりであり、(一日も)逗留はしないこと、かならず(越府の)喜平次(長尾顕景)の所からも申し越すとはいえ、(合流が)遅延するなどは、そうした馬鹿馬鹿しい失態はあってはならないので、早々に三ヶ津(蒲原・新潟・沼垂)へ旁輩共(上田衆)を召し連れて打ち越すべきこと、もし、一人でもなおざりにする者がいたならば、厳しい折檻に及んでも差し支えないこと、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』620号「栗林次郎左衛門尉とのへ」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


吉日、甥の長尾喜平次顕景に手ずからの消息手本を贈る(『大日本古文書 上杉家文書』995号 上杉輝虎署名消息手本)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、10月2日、信濃国長沼領(水内郡)の西厳寺へ宛てて、同国海津城(埴科郡)の城代である春日弾正忠虎綱(譜代家老衆)を奉者とする朱印状を発し、長沼領内で、本領四十貫の所を紛れもなく、前々の通りに知行するべきこと、されば、当表(長沼)に向かって敵が出張のうえは、御当城(海津城)へ移られるのが適切であること、(甲州武田軍が)越国口に攻め入る時節には、野伏一名を出されるべき趣を、御下知されたものであること、よって、前述した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1318号「西厳寺」宛武田家朱印状【奉者「春日弾正忠」虎綱】)。

3日、信濃国須坂領(高井郡)の勝楽寺へ宛てて、側近の跡部大炊助勝資(譜代家老衆)を奉者とする禁制を発し、長沼城の番勢の衆(在番衆)、越国へ出張の折に参陣の衆、いずれも当寺家における乱妨狼藉ならびに陣取等を、御禁制するものであること、よって、前述した通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編二』1319号「勝楽寺」宛武田家禁制)。

13日、越後国瀬波(岩船)郡の村上城で籠城を続けている本庄弥次郎繁長の重臣である板屋古瀬右馬允へ宛てて書状を発し、来春の戦略について相談し合うため、杉原日向守(直参衆)を半途まで差し向けたこと、それから、少々の兵糧米等を、わずかながら合力を申し付けたこと、なお、杉原が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1323号「板屋古瀬右馬允殿」宛武田「信玄」書状)。


同じく相州北条氏政(左京大夫)は、下総国に在陣するなか、10月17日、陸奥国白川の白河結城七郎義親(陸奥国白河郡の白河城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、先度は申し上げたところ、詳しい御返報に預かり、誠に大慶であること、先書で露わにした通り、これからにおいては、従来の筋目に任せ、二心なく申し談じていきたいこと、御同意が肝心であること、殊に、その方面の形勢は、(奥州会津の蘆名)盛氏へ相談され、万端を御存分に従えているそうであり、めでたく珍重であること、従って、爰許の形勢は、簗田中務大輔(晴助。洗心斎道忠)の逆心の企てが発覚したので、彼の地(下総国葛飾郡の関宿城)に向けて二ヶ所の付城(不動山・山王山)を築いたこと、本意を遂げない限りは、帰陣するつもりはないこと、なお、来信の時を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編三』【追加】1101号「白川殿」宛北条「氏政」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『大日本古文書 家わけ 第12之3 上杉家文書』(東京大学史料編纂所)
◆『富山県史 資料編Ⅱ 中世』(富山県)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第三巻』(東京堂出版)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄11年7月~同年8月】

2013-01-24 22:11:56 | 上杉輝虎の年代記

永禄11年(1568)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


越前国朝倉義景(左衛門督)の本拠である一乗谷(越前国足羽郡)の安養寺に御座を据えた左馬頭足利義昭(この4月に義秋から義昭に実名を改めた)の許へ、使節として新保清右衛門尉秀種(輝虎旗本)と智光院頼慶を派遣すると、8日、その両名が、年寄衆の河田豊前守長親・鯵坂清介長実へ宛てて書状を発し、爰元(越前国一乗谷)における様子を申し上げるため、あらためて飛脚を差し下すこと、されば、路次中は何事もなく、御鷹・御馬も当月2日に(越府から)参着致したこと、二・三日ほど伏せておき、 上意様(足利義昭)へ御目に懸けること、すこぶる御気に入れられ、御感じ入った旨を仰せ出されたこと、御鷹を贈られた朝倉殿(義景)と各々も、殊のほか大慶そのものであること、有様においては、御安心してほしいこと、前波(藤右衛門尉景当。朝倉家の内衆で一乗谷三奉行のうち)・山崎方(新左衛門尉吉家。同じく奏者衆のうち)のとにもかくにも奔走のたまものであること、それからまた、織尾(織田信長)はどうあろうとも、濃州へ (足利義昭が)御座を移されるにおいては、御入洛の御供を早速に致すつもりであると、しっかりと墨付(判物)をもって丁寧に言上したについて、(朝倉)義景も納得の有様に極まり、今月16日に(足利義昭の)濃州への御動座が合議で決まったこと、従って、(足利義昭は)加州についても、昨年以来は無事(朝倉家と加賀国一向一揆の和睦)の姿でありながらも、今もって互いに一札の往来もないこと、(義昭が岐阜へ)御成りする以前に、何としても(効力の伴った和睦を)取りまとめたいそうであること、現状の有様では、まとまる見込みがないこと、そうであるならば、彼の無事も愚かしいと、批判を各々が口にしていること、されば、(輝虎から)仰せ付けられた御条書の覚えは、 上様(足利義昭)へも朝倉殿(義景)へも事細かに申し上げたこと、なお、適切な御披露を仰ぐところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、其方(越府へも)聞こえているとはいっても、能州(畠山家)から加州(加賀国一向一揆)の杉浦方(壱岐法橋玄任)へ以前の始末(昨年に畠山の仲介によって成立した朝倉と賀州一向一揆の和睦)について、面々から差し越した書状を、とりもなおさず、 上意さまへ供されていたこと、(その書状を)書き写して(越府へ)差し越すこと、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』577号「河豊・鯵清 参御宿所」宛「新保清右衛門尉秀種・智光院頼慶」書状)。


当文書を、諸史料集は永禄10年に置いているが、足利義昭が美濃国へ「御動座」したのは同11年7月であり、次に掲げる足利義昭御内書(『上越市史 上杉氏文書集一』609号)との兼ね合いからしても、当年の発給文書として引用した。



12日、左馬頭足利義昭から御内書が発せられ、入洛の供奉の件を、(織田)信長が(承知する決意を)厳重に言上し、(信長からは)まずは濃州に向かい、御座を移されるようにと言ってきているので、近日中に発足すること、(朝倉)義景もいよいよ支障なく、不退転の心構えであること、(輝虎が)各々と相談したうえでの奔走するのを、ひたすら頼みに思われていること、詳細は智光院(頼慶。輝虎の使僧)が申し述べられること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』609号「上杉弾正少弼とのへ」宛足利義昭御内書【署名はなく、花押のみを据える】【封紙ウハ書「上杉弾正少弼とのへ」】)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、7月12日、越中国一向一揆の勝興寺(越中国婦負郡末友の安養寺城郭伽藍に拠る)へ宛てて書状を発し、好便(よいついでの音信)をもって申し上げること、神保(惣右衛門尉長職。越中国婦負郡の増山城を本拠とする)と椎名(右衛門大夫康胤。同新川郡の松倉城を本拠とする)を和睦させて、(越中)国中が一つにまとまり、越後に向かって乱入するように、あちらこちらへ御意見してもらいたく、ひとえに貴寺(勝興寺)の御調略に尽きること、なお、長延寺(実了師慶)が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1294号「勝興寺 机下」宛武田「信玄」書状写)。

16日、勝興寺へ宛てて書状を発し、それ以来は申し交わさなかったのは意外であったこと、もとより、椎名右衛門大夫(康胤)が越後に背き
、本願寺門主(摂州大坂本願寺門主の顕如光佐)の高意を得たこと、これにより、当方へも(椎名は)二心のない通交を遂げたこと、このような時節に至ったからには、その国中に静謐の御調略が肝心であること、玄東斎(日向宗立。直参衆)を大坂(本願寺)へ差し上せ、金山(椎名康胤)へは五日のうちに長延寺(実了師慶)を向かわせるので、ますますの御調談が専一であること、本庄弥次郎(繁長)が(盟約通り)輝虎に敵対し、当手は後詰めの戦備を調えたので、出陣致し、近日中に越河するつもりであること、委細は八重森(重昌。直参衆)が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1299号「勝興寺 几下」宛武田「信玄」書状)。

17日、信濃先方衆の蘆田五郎兵衛尉・丸子善次・武石左馬助へ宛てて条目を発し、条目、一、かやつか・芦田・三枚をつそ・武石・口あき所田善次・てつ塚・青仮・いたて日向は、右の通りであること、一、蘆田の人衆から六・七人づつ三枚をつそへ番衆を加えるべきこと、一、番替えとして、下伊奈衆を差し越すべきところ、遠路ゆえ、遅くなってしまうにより、その旨は、十日の分を其方へ移し、下伊奈衆が着城してから、早々に旗本へ参陣するべきこと、一、越後衆が島津境(信濃国水内郡の長沼城域)へ進んできたので、近日中に小諸城(同佐久郡)へ速やかに出馬するつもりであること、これらの条々を申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1300号「蘆田五郎兵衛尉殿・丸子善次殿・武石左馬助殿」宛武田家朱印状)。

18日、本庄弥次郎繁長の重臣である斎藤刑部丞へ宛てて書状を発し、越府衆がその表に在陣しているうちに、後詰めとして(越後国)早速にも頸城郡に向かって乱入を急ぐつもりでいたところ、連日の大雨ゆえ、千曲川・犀川の両渡瀬が共に往還が断絶し、これにより、(進軍を)延引せざるを得ず、存外の次第であること、ただし、この二・三日のうちに渡瀬が現れ、天の助けであるので、明日には越河することと、なお、当方の態勢に抜かりのない様子は、使僧が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1301号「斎藤刑部少輔(丞)殿」宛武田「信玄」書状写)。



永禄11年(1568)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


信濃国飯山城(水内郡)の城衆から、甲州武田軍が同長沼(同郡)の地に在陣しているとの急報を受け、10日、越後国関山城(頸城郡)に在番する宝蔵院(越後国頸城郡の関山権現別当宝蔵院の衆徒)・須田順渡斎・同左衛門大夫・平子若狭守・宇佐美平八郎へ宛てて書状を発し、飯山から、ただ今午刻(正午前後)の注進の通りは、長沼に敵が在陣しているそうなので、その地(関山城)へ(上杉)十郎殿・黒瀧衆(山岸隼人佑の同名・同心・被官集団。山岸本人は上野国沼田城に赴援したままか)を移すこと、(その地から移動させるつもりでいた)山本寺方(伊予守定長)をも留め置き、同事に相談し合って、堅固な防備体制を敷くのが肝心であること、飯山衆は大敵を引き受け、堅固に防戦しているわけなので、(関山衆が支援を怠った)呆れた振る舞いは、返す返すも口惜しいこと、目付を早々に差し越し、(長沼の敵の様子を)見届けた注進を待ち入ること、そのため、豊前(河田長親)の所から、敵陣を外れ越えてきた者(投降者)を、(関山が差し越す目付の)案内者として差し越すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』611号「宝蔵院・須田順渡斎・同左衛門大夫殿・平子若狭守殿・宇佐美平八郎殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


● 上杉十郎:実名は景満か。一家衆。古志長尾右京亮景信の長男で、この時点で唯一、上杉名字を与えられている人物。

● 山本寺伊予守定長:越後国頸城郡西浜地域の不動山城を本拠とする一家衆。

● 須田順渡斎:俗名は満泰か。信濃衆の須田相模守満国の弟と伝わる。

● 須田左衛門大夫:順渡斎の世子か。

● 平子若狭守:越後国魚沼郡小千谷の薭生城を本拠とする譜代衆。

● 宇佐美平八郎:越後国魚沼郡堀内地域を本拠とする譜代衆。


12日、越後国瀬波(岩船)郡の村上陣の直江大和守政綱・行方六右衛門尉(輝虎旗本)宛てた書状を発し、取り急ぎ早飛脚をもって申し遣わすこと、ただ今申刻(午後四時前後)に到来した知らせによれば、越中の敵がまたとないほどにはっきりとした態度で歯向かってくると、堅く聞き届けたこと、(奥信濃在陣中の)武田信玄に対するだけの防備は、今もって堅固に申し付けているとはいえ、このように両口(越中・信濃)から同時に乱入されるのは、どうにもならない人数不足といい、(二方面の)防備はままならないので、負担ではあっても其元(村上陣)には、この日記(別途の名簿)の衆を差し置き、陣所を堅持され、二十日の間を防ぎ切るのは、まさにこの時であるので、頼み入ること、庄厳と下渡嶋(どちらも村上城に対する付城)の防備も、(両城衆へ)堅固に申し付けられるべきこと、この日記(前記とは別の名簿)の衆(山浦某・北条弥五郎景広・新発田衆(新発田忠敦の同名・同心・被官集団。新発田本人は飯山城に赴援している)・色部修理進勝長ら)をば、昼夜兼行で早々に(越府へ)上らせるべきこと、(日記の衆が)いつものような悠長な心構えで、いかにも難題であるかのように不服を申し立てられ、いずれにせよ(上府が)遅延するようであれば、(取り返しのつかない)大事に至ること、つまりは両人に任せ入ること、其元(村上陣)の戦陣を、つまりは頼み入ること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、(日記の衆が着陣すれば)爰元(越府)の陣容は正常に戻るので、(村上陣は)どこへも手出しは無用であること、庄厳・下渡嶋・其許(村上陣)の堅固な防備だけを申し付けられるべきこと、(日記の衆を)表向きは番手と称して差し越されるべきこと、そのつどの事態を、あげつらってはならないこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』612号「直江大和守殿・行方六右衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


18日、村上陣を統轄する柿崎和泉守景家・直江大和守政綱へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、先頃に山浦方をはじめとして、四・五手を(越府へ)上せるようにと、申し下したこと、これは信州口ばかりの陣容においては、軽々しく見えてしまうこと、それからは、以前には二度にわたって出勢したとはいえ、輝虎が半途まで出馬すると、敵は即時に退散したこと、(甲州武田信玄は)長沼を再興したとはいっても、これを以後まで保持するつもりであるようには見えないこと、つまりは本庄かた(本庄繁長)への支援は形ばかりに見えること、上口ではしきりに悪巧みが取り沙汰されているので、そうであるならば、人数不足といい、両口(越中・信濃)の防戦は困難であるにより、(先頃に申し下した通り)五手の人数を(越府へ)召し寄せること、早々に(五手の人数を)上らせてほしいこと、しかしながら、さほどの事態は今日までは見えてないこと、いつも通りに輝虎が物事に驚いて、このように人数を召し寄せたものと、各々に思われたのは、面目を失したこと、そうではあっても、飯山城へは、新発田(尾張守忠敦)・五十公野(玄蕃允か)・吉江(佐渡守忠景)を移したこと、関山の新地へは、(上杉)十郎方・山本寺(定長)・竹俣(三河守慶綱)・山岸隼人佑(実名は光重か)・下田衆(下田長尾氏の同名・同心・被官集団)を籠め置き、このほか旗本の者共を十騎から十五騎を、両地へ横目として入れ置き、祢知城・不動山城(ともに頸城郡)へも旗本の者共を数多く差し向けたので、自分の手元には、山吉(孫次郎豊守)・河田(豊前守長親)・栃尾衆(栃尾本庄氏の同名・同心・被官集団)がいるのみであること、そのうち三条・栃尾の両衆も半分は留守中の用心のため、各所に差し遣わしていること、人数不足を推察できるであろうこと、其元から人数が到着したら、両口へ向かわせて防備を堅固に申し付け、何としても(手薄の本隊は)地下鑓なりとも集め、力の及ぶ限り堅固に対処するつもりであること、来る十日まで手堅く防備を尽くせば、敵はかならず退散するであろうこと、そうならなかったとしても、人数を催し、敵の陣の人数が行き交う時分に、備えを押し出すつもりであること、ともすれば当国は重大な苦境に陥っていると見なしてしまうので、張陣し続けるは困難であるにより、負担であろうとも、村上陣・庄厳城・下渡嶋城の堅持は両名の双肩に懸かっており、長くても二十日はその陣の維持を頼み入ること、庄厳・下渡嶋・その陣(村上陣)の堅固な統轄を両人(柿崎・直江)に任せ入ること、其元(村上陣)の人数不足について、(輝虎の)あれこれ比較して考えていること、荘厳・下渡嶋へ人数を入れているので、その陣
(村上陣)は寡勢で凌いでいるのではないかと、とにもかくにも気を揉んでいること、異変があった場合には、その注進を待ち入ること、(二十日間を過ぎても)敵が張陣を続けるならば、このたび(村上陣から)上ってくる人数を(村上陣へ)下し、その一方で方々(柿崎・直江)を(越府へ)召し寄せること、何はともあれ今が正念場であるので、その陣(村上陣)の堅持に努めるのが肝心であること、返す返すも爰元(越府)の状況は、案ずる必要はないこと、どれほどに世間から悪し様に言われようとも、(輝虎が)直書を差し越さないうちは、動転してはならないこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、敵地(村上城)が弱体していると、聞き及んでいるのか、どうであるのか、これまた、詳しく申し越されるべきこと、表向きには(五手の人数の上府は)番手と称されるべきこと、内々の件は隠密にするのが肝心であること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』613号「柿崎和泉守殿・直江大和守殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


● 新発田尾張守忠敦:越後国蒲原郡新発田の新発田城を本拠とする外様衆。佐々木加地新発田一族。

● 五十公野 某:玄蕃允か。越後国蒲原郡五十公野の五十公野城を本拠とする外様衆。佐々木加地新発田一族。

● 竹俣三河守慶綱:越後国蒲原郡竹俣の竹俣城を本拠とする外様衆。佐々木加地一族。

● 山岸隼人佑:実名は光重か。越後国蒲原郡弥彦の黒瀧城を本拠とする譜代衆。

● 吉江佐渡守忠景:輝虎旗本。


22日、村上城攻囲軍が付城の下渡嶋城を放棄したとの情報に接すると、同じく庄厳城に拠る鮎川孫次郎盛長・三潴左近大夫(実名は長能か)へ宛てて返状を発し、ただ今戌刻(午後八時前後)に申し来るところでは、下渡嶋城を打ち明けたそうであり、やむを得ないこと、このうえはその地(庄厳城)から、たとえ番手衆が逃げ出したとしても、両人(鮎川・三潴)ばかりであっても、実城(主郭)に留まり、後詰めが到来するまで(庄厳城を)堅持するべきこと、信州口の敵が退散したので、とりもなおさず、山浦方・北条弥五郎(景広)・新発田衆・色部修理進(勝長)を差し下すこと、岩船側からの助勢は安心してほしいこと、番手衆が両人を見離すようであれば、かならずその横振りに及ぶこと、このところを各々に申し聞かせるべきこと、このほかは書かないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』614号「鮎川孫次郎殿・三潴左近大夫殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


● 山浦 某:越後国蒲原郡山浦の篠岡城を本拠とする一家衆。

● 色部修理進勝長:越後国瀬波(岩船)郡加納の平林(加護山)城を本拠とする外様衆。秩父本庄一族。

● 鮎川孫次郎盛長:越後国瀬波(岩船)郡鮎川の大場沢城を本拠とする外様衆。秩父本庄一族。

● 北条弥五郎景広:越後国刈羽郡佐橋の北条城を本拠とする譜代衆。

● 三潴左近大夫:実名は長能か。越後国蒲原郡豊田の中目城を本拠とする三潴出羽守長政の世子。ともに輝虎旗本。



こうしたなか、相州北条陣営から離脱したばかりの下総国関宿の簗田洗心斎道忠(中務大輔晴助)は世上を憂い、世子の簗田八郎持助に関宿城を任せて、関宿郊外で隠遁生活を送っていたところ、鎌倉公方足利義氏の下総国古河城(葛飾郡)への還座に伴い、相州北条家に他国衆として属する下総国金(同郡風早荘小金)の高城勢・武蔵国岩付(埼玉郡)の太田勢によって、簗田持助の直領が荒らされるなど、日を追うごとに強まる相州北条陣営の攻勢に耐えかね、5日、房州里見義弘(上総国天羽郡の佐貫城に拠る)の父で、自分と同様に閑居の身である里見大叟院正五(権七郎義堯。上総国望陀郡の久留里城に拠る)へ宛てて書状を発し、それ以来は、御閑居の御子細により、やや久しく申し上げなかったこと、そうはいっても、拙者(簗田入道道忠)についても隠遁致して辺地に移って在宿し、そうしているうちに、無遠慮ながら申し達したこと、(里見正五は)至って御頑健であると承り及び、めでたく御安心と存じ申し上げること、是非とも御目に懸かりたく、明けても暮れても申しているほどであること、されば、御世上から逃れて辺土へ移ったところ、義氏様が古河へ御打ち入りゆえ、(相州北条陣営と)近接したにより、結局は日夜の苦労により、窮屈している状況をただ御察ししてもらいたいだけであること、万端が調っておらず、困窮していること、それからまた、金・岩付から八郎(簗田持助)の知行へ日増しに手立てを増進しており、無念でならないこと、そうではあっても、御当口は御考えの通り、殊に下総を打ち破り、両酒井(上総国土気・東金の酒井氏)が(里見家に帰属を)懇望してきていると、聞き及んでいるにより、御父子(里見入道正五・同太郎義弘)は御懇意を加えて、本意を達するべきであると思っていること、(相州北条)氏政が羽生(武蔵国埼玉郡)と号する口へ出張してきたと、そう聞こえていること、爰許も防備を油断致さないので、御安心してほしいこと、条々を彼方が見聞したからには、なお、口舌を雇ったこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1295号「久留里江 参」宛簗田「洗心斎道忠」書状)。


この間、敵対関係にある相州北条氏政(左京大夫)は、越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長が輝虎に遺恨の一理があると唱えて、本拠の村上城で挙兵に及んだことを伝え聞くと、村上へ使者を派遣して本庄繁長に誼を通じている。しばらくして繁長から折り返しの使者が到来すると、26日、氏政兄弟衆の大石源三氏照(相州北条氏康の三男。武蔵国多西郡の由井領を管轄する)が、本庄繁長の重臣である斎藤刑部丞へ宛てた初信となる書状を氏政の使者に託し、これまでは申し交わしていなかったとはいえ、一翰に及んだこと、もとより、本庄方(繁長)が輝虎に対せられ、遺恨の筋目があり、在府を引き払われると、御在所において干戈を動かされたと、そう聞き得たので、越・相両国は弓矢の最中であり、ほかに譲れる事情ではない(優先事項)により、(氏政は)使者をもって申し届ける必要から、とりもなおさず、(氏政は)返答に及ばれたこと、このたび(本庄繁長から)使者に預かったこと、今後においては並ぶものがないほどに申し合わせたいこと、そのために氏政から使者をもって仰せ届けられること、このようになったからには弥二郎方(本庄繁長)が急速に本望を達せられるように、御精励が各々(繁長の重臣)の御手並みに懸かっていること、委細は使者の口上のうちに含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編五』3914号「斎藤刑部丞殿」宛大石「氏照」書状写【包紙ウハ書「斎藤刑部丞殿 源三」】)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第五巻』(東京堂出版)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄11年4月~同年6月】

2013-01-17 20:06:10 | 上杉輝虎の年代記

永禄11年(1568)4月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


同盟関係にある遠江国懸川籠城中の今川氏真(上総介)からの使者が帰国するのに伴い、自らの使者を添えたところ、15日、今川家の家老衆である朝比奈備中守泰朝(遠江国懸川城主)・三浦次郎左衛門尉氏満から、年寄衆の柿崎和泉守景家・直江大和守政綱へ宛てて返状が発せられ、あらためて申し入れるべきところ、此方(今川家)の使いに使者を添えられたので、申し上げること、よって、甲州新造(昨年10月に死去した武田義信の妻。今川氏真の妹)が帰国する件を、(相州北条)氏康父子が取り扱われたところ、氏真の誓詞がないのであれば、覚悟に及ばないものと、信玄が言い放ったにより、(新造を)捨て置かれるわけにはいかないので、その意に任されたこと、(旧冬に)要明寺を寄越された時分に、両家の間で隠し事はしない旨を、堅く申し合わされたにより、有様を申し届けたこと、このように申したとはいえ、信玄の言行が相反したならば、とりもなおさず申し入れること、なお、委細は遊雲斎(永順)が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』601号「柿崎和泉守殿・直江大和守殿 御宿所」宛「朝比奈備中守泰朝・三浦次郎左衛門尉氏満」連署状写)。

同日、遊雲斎永順から、柿崎和泉守景家・直江大和守政綱へ宛てて副状が発せられ、旧冬に使いとして(越府へ)罷り下ったところ、数々の御懇待を受けるなどして、ありがたい思いであったこと、よって、(輝虎が)仰せ越された趣を、とりもなおさず披露したところ、朝比奈備中守(泰朝)・三浦次郎左衛門尉(氏満)が有様を申し入れられること、このようであるとはいえ、信玄の言行が相反し出すのは間もなくであるので、そうなったら、先度に(越・駿が)交わした筋目に従い、様子を重ねて申し入れられること、それからまた、貴国へ甲(甲州武田家)から計策の書状などが御到来した場合には、かならず仰せ越されるのが、いかにもと存じ上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』602号「柿崎和泉守殿・直江大和守殿 貴窓下」宛遊雲斎「永順」書状)。

24日、越・相・甲三ヶ国の和睦交渉が進行しているとの風聞に接した今川氏真の指示により、駿河国の寺僧である宗是から、旧知の越後国の寺僧である今林寺方丈へ宛てて書状が発せられ、御上洛の以後は申し上げていなかったこと、無礼極まること、よって、屋形(今川氏真)から書状をもって申し入れられること、それからまた、尾崎かたへの尊書を、当地において拝読致したこと、彼の御縁を仰せ調えられるにおいては、いかにもと存じ上げること、この御返事により、(今川家の)家老の方の一両人が書状をもって申し入れられること、とりわけ、貴国(越後国上杉家)と相・甲の和与が御取り扱いの旨、風聞があること、事実においては、当国(駿州今川家)を証人(仲介役)にして下されるように、(輝虎への取り成しに)御奔走してもらえれば、(氏真は)祝着と申されていること、詳しい様子は永順(遊雲斎)に申し含めたので、(この紙面は)省略すること、以上の趣を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』605号「今林寺方丈 衣鉢禅師」宛「宗是」書状)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、味方に引き入れた越中国金山の椎名右衛門大夫康胤(越中国新川郡の松倉城を本拠とする)が越後国上杉軍の攻撃を受けているとの知らせに接すると、4月6日、越中国一向一揆の瑞泉寺(越中国婦負郡井波)の坊官である上田石見守へ宛てて書状を発し、金山(椎名康胤)が窮迫しているそうなので、近日中に後詰として、越後国に向けて出勢すること、されば、大坂(摂州大坂の本願寺)との御内儀に任せ、長延寺師慶(武田家の使僧)をもって申し述べること、今この時に貴寺(瑞泉寺)の御取り持ちで右衛門大夫(椎名康胤)の前途が開くように、御調略(上杉陣営の切り崩し工作か)が肝心である趣を、(本願寺顕如へ取り次いでくれるよう)御奔走に預かりたいこと、
これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1257号「上田石見守殿」宛武田「信玄」書状)。



永禄11年(1568)5月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


この3月に揚北衆の本庄繁長が叛乱を起こして本拠の越後国村上城(瀬波(岩船郡)郡小泉荘)に立て籠ったが、自身は関東・信濃・越中に敵を抱えて越府を離れられないなかで、4日、揚北衆の黒川四郎次郎平政(越後国蒲原郡の黒川城を本拠とする外様衆)の一族・家中である黒川三河守・同但馬守・石塚玄蕃允・沢田右京亮・松浦隠岐守へ宛てて書状を発し、本庄弥次郎(繁長)の逆意により、彼の地の静謐を遂げるため、柿崎和泉守(景家)・直江大和守(政綱)そのほか各々を(村上へ)立て遣わしたこと、内々に黒川四郎次郎(平政)を(村上へ)差し下すつもりであったとはいえ、若輩であるので、(このまま輝虎の)膝下に留め置くこと、忠信を示す時機であるにより、傍輩共(黒川家中)が相談し合って、一段の奮励が肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』606号「黒川三河守殿・同但馬守殿・石塚玄蕃允とのへ・沢田右京亮とのへ・松浦隠岐守とのへ」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


黒川家中の石塚玄蕃允は、このあと本庄繁長に内通するが、その情報を入手した外様衆の中条越前守景資の通報により、捕縛されて輝虎の詮議を受けることになる。


同日、揚北衆の鮎川盛長(村上本庄氏とは同族。越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城を本拠とする外様衆)の一族・家中である鮎川治部大輔長憲・同刑部少輔・同中務少輔・甫保隼人佑・菅原太郎左衛門尉・同新左衛門尉・渡辺兵部丞・岡 雅楽允へ宛てて書状を発し、このたびの本庄弥次郎の逆意は、どうしようもないこと、それでも、鮎川の地(大葉沢城)を堅持し、粉骨を尽くした奮闘は殊勝であったこと、しかしながら、戦備が整わず(大葉沢城を放棄して)引き退くに至ったのは、やむを得ないこと、(本庄を)退治するために各々を差し下したにより、傍輩共(鮎川家中)が相談し合い、(村上攻囲軍の)先駆けを務め、一つは、(輝虎への)忠信を励み、一つは、古敵(本庄)を倒し、鬱憤を散ずるべきこと、鮎川孫二郎を(村上陣)へ差し下すこと、すぐれて奮闘するべきこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』607号「鮎川治部大輔殿・同刑部少輔殿・同中務少輔殿・甫保隼人佐とのへ・菅原大郎左衛門尉とのへ・同新左衛門尉とのへ・渡辺兵部丞とのへ・岡 雅楽允とのへ」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。


この前後、揚北衆の中条越前守景資(初名は房資であろう。越後国蒲原郡の鳥坂城を本拠とする外様衆)の許へ本庄弥次郎繁長から一味に誘う密書が届くも、越前守は密書を開封することなく、すぐさま輝虎に差し出している(『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』622・624・626号)。



永禄11年(1568)6月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


村上本庄勢の攻撃によって本拠の大葉沢城を失陥した揚北衆の鮎川盛長に命じ、村上城の付城として庄厳城(瀬波郡小泉荘)を再興させると、20日、鮎川盛長が被官の鈴木平八郎に証状を与え、このたび本庄が府内へ逆心したにより、御屋形様(輝虎)の御下知をもって、将軍嶺(庄厳城)を再興に当たることになり、引き連れたところ、健気にも奔走したにより、給恩として、しゝた五百地、よした(吉田)三百地、きつねつか(狐塚)弐百地、都合一貫文を、大場内の石栗屋敷一間沢分の地と大葉沢の石栗屋敷一間を宛行うこと、今後ますます奉公を励むのが肝心であること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『新潟県史 資料編5』3255号「鈴木平八郎殿」宛鮎川「盛長」知行宛行状写)。



〔友好関係にある濃(尾)州織田信長との交信〕

25日、織田信長(尾張守)から、取次の直江大和守景政綱へ宛てて書状が発せられ、先頃に受けた数々の御懇慮には、感謝してもしきれないこと、よって、甲州(武田家)から(織田家と)和親したい旨を、何度も申し越されたこと、今もって成就には至っていないこと、従って、越・甲両国の御間について、御和談を取り扱いたいとはいえ、貴辺(輝虎)の考えは計り難きにより、差し控えていたこと、しかしながら、(輝虎の)賢意次第で、奔走致すつもりであること、(輝虎からの)御返事の様子を承り届けたうえで、こちらから(武田家へ)申し入れること、委細は佐々一兵衛尉(実名は良則か。信長の御馬廻衆)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』608号「直江大和守殿」宛「織田尾張守信長」書状写)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、揚北衆の本庄繁長が自分と交わした約束通り、居城に拠って叛乱を起こしたとの連絡を2日に受け取ると、6月3日、信濃先方衆の岩尾大井弾正忠(信濃国佐久郡の岩尾城を本拠とする信濃国衆)へ宛てて書状を発し、越国のうちは、本庄(繁長)をはじめとして過半が当方に与したこと、これにより、だしぬけに出馬したこと、このたびは越国に向かって乱入するつもりなので、格段に人衆を調えて出陣するべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、掌中の瘡(はれもの)ができたので、(手筆がままならないため)印判(印文「晴信」)を用いたこと、これらを申し添えている(『戦国遺文 武田氏編二』1276号「大井弾正忠殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『新潟県史 資料編5 中世三』(新潟県)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄11年正月~同年3月】

2013-01-13 12:14:39 | 上杉輝虎の年代記

永禄11年(1568)正月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


旧冬に関東遠征から帰陣して以来、上野国沼田城(利根郡沼田荘)を巡る情勢に不安を感じていたところ、沼田城衆から敵方の様子について報告が寄せられたので、8日、沼田城衆の松本石見守景繁(旗本部将。越後国山東(西古志)郡の小木城を本拠とする)・河田伯耆守重親(旗本部将。河田長親の叔父)・小中大蔵丞(実名は光清か。もとは上野国勢多郡小中の地衆と伝わる)・小国刑部少輔(実名は重頼か。譜代衆。越後国蒲原郡弥彦の天神山城を本拠とする)・新発田右衛門大夫(実名は綱成か。外様衆の新発田尾張守忠敦の弟か)へ宛てて書状を発し、(関東から)納馬して以来、その口の様子が、胸の内では心配に思っていたところ、敵情を聞き届け、注進に及んでくれて、祝着であること、重ねて那波筋(上野国那波郡)へ人(目付)を向かわせ、新田(上野国新田郡新田荘)・館林(同邑楽郡佐貫荘)のほか、南方の(相州北条氏)の動向を深く探り、言って寄越すべきこと、一、信州から言って寄越した通りでは、(甲州武田信玄は)岩櫃(上野国吾妻郡)へ人数を移し、その地(沼田城)へ不意打ちするのを合議で決めたそうであること、その地(沼田)は用心は言うに及ばず、猿京(吾妻郡)・小河(利根郡)・森下(同前)の用心を怠ってはならないこと、(加勢の)諏訪左近允(旗本部将)・山岸隼人佑(譜代衆。越後国蒲原郡の黒滝城を本拠とする)の人数を穿鑿(員数調査)を致し、(越府へ)日記を寄越すこと、ならびにその地に当国から差し置いている者共の人数をも、よくよく記して寄越すべきこと、およそ、いつものような怠慢によって、関東・越後に凶事を招いてしまい、後悔したところで、それは取り返しはつかないこと、一、当国(越後国)から差し置いている一騎合(地下侍)の者共、あるいは、このたび佐野(小太郎昌綱。下野国安蘇郡の唐沢山城を本拠とする下野国衆)から預かり、残し置いている者共(人質)も、城外に在宿していると、そう聞こえていること、それでは、緊急の場合には役に立たないこと、皆々を城外に引き寄せ、以前に申し付けた曲輪(郭)に差し置くべきこと、一、敵地からやってくる諸商人の出入りするのは妥当であること、しかしながら、よくよく人の喧嘩口論を用心するのが適当であること、一、もしかしたらその地に不意に敵が攻め懸けてくるかもしれないので、上田衆に指図を致し、かならず加勢に及ぶように、堅く申し付けてあるにより、安心してほしいこと、一、吾分共(沼田在城衆)を見込んで、その地を預け置いたところ、皆々が存じ受けなかったゆえ、武具・軍馬・馬鎧といった軍装の嗜みがないので、その下々の者共も、何もかも未熟であると、聞こえていること、豊前守(かつて沼田城代を任されていた河田長親)が役目に当たっていたなか、(一時帰国した)不在時には、あまりにも(沼田城衆が)油断していたと、耳にしていたので、このように(城代制から城将制への変更を)致したところ、前体制と変わらず、油断して醜態をさらすにおいては、関東は言うに及ばず、越国(越後国)までの物笑いとなるのは明らかであること、その地での役目に当たり、関左(関東)の是非をつけて本意を遂げる所存は、各々(沼田城衆)においても弁えてはいないものか、口惜しい次第であること、爰元にては、年明けから五日も過ぎていないとはいえ、馬・武具の用意を申し付けたところ、長年にわたる労兵でありながらも、上下は闘志を奮い立たせ、ことごとく準備に余念がないこと、旧冬に佐城(下野国唐沢山城)を打ち明けたこと(番城体制の放棄)さえ、無念であるところに、重ねてその地(沼田城)に万が一の事態にでもなれば、天下の嘲笑はこの一事であること、今後のためであるので、あえて申し遣わしたこと、よくよく斟酌されるのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』591号「松本石見守殿・河田伯耆守殿・小中大蔵少輔殿・小国刑部少輔殿・新発田右衛門大夫殿」宛上杉「輝虎」書状写)。



永禄11年(1568)2月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


4日、最側近の山吉孫次郎豊守(越後国蒲原郡の三条城を本拠とする)が、与力の飯田与七郎(もとは上郡か中郡の国衆)に証状を与え、蒲原郡内の瀬原田分を進め置くので、これから以後においても保証するものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』593号「飯田与七郎殿 参」宛山吉「孫次郎豊守」判物)。


飯田与七郎は、永禄元年から翌2年にかけて、京都御要脚公田段銭の徴収が行われた際、頸城郡夷守郷赤沢内の富田与三左衛門尉分を取り立てて納入した人物であり(『上越市史 上杉氏文書集一』162号)、元亀2年には与三右衛門尉を称し、嫡男の与七郎と共に、山吉豊守の重臣として活動している(同前1017・1072号ほか)。



8日、濃(尾)州織田尾張守信長から、越後国上杉家側の取次である直江大和守政綱へ宛てて書状が発せられ、あらためて使者をもって申し達すること、それ以来は、路次が不通であったゆえ、無沙汰したのは、本意のほかであること、されば、見立てに自信はないとはいえ、糸毛の腹巻・同毛の甲を進覧すること、誠に御音信ばかりであること、なお、重ねて申し述べるものであり、(こうしたところを輝虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』594号「謹上 直江大和守殿」宛織田「尾張守信長」書状写)。



25日、越後国頸城郡の日光寺に証状を与え、越後国頸城郡五十公郷内の杉壺日光寺別当職の件は、右を、常春院(上杉房朝)以来の御判に任せ、保証するものであること、よって、前記した通りであること、これを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』595号「頸城郡 日光寺」宛上杉輝虎判物【署名はなく、花押(a)のみを据える】)。



永禄11年(1568)3月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【39歳】


近江国に流寓中の能州畠山悳祐・同義綱父子の本国復帰を支援すると称して、越中国へ出馬した(2月25日以降)。

15日、越中国中郡まで進むと、城砦の構築に取り掛かる。こうしたなか、ひそかに甲州武田信玄と通じていた揚北衆の本庄繁長(通称は弥次郎)が、輝虎に遺恨の一理があると称し、13日に、留守居していた越府を抜け出して本拠の越後国瀬波(岩船)郡の村上城へ向かうという事態が発生していた。

その後、自身は越中国射水郡の放生津まで進んだところ、本庄繁長の越府離脱の報に接し、25日、未明に放生津陣を引き払う。




〔足利義秋からの越・甲・相三和の勧告


昨年の11月に越前国朝倉義景(左衛門督)の本拠地である一乗谷(足羽郡)へと移った左馬頭足利義秋が越・甲・相三和を勧告するため、越後国上杉家へ御内書を携えた使者の柳沢新右衛門尉元政を立てるにあたり、3月6日、御内書を認め、何度も仰せられている、越・甲・相三ヶ国の和与の件を、甲・相両国に対して堅く申し付けたところ、請状の旨を承知されたこと、されば、(輝虎に)存分があるといえ、ここは(両国への)是非をなげうち、同心して、(足利義秋が)入洛を遂げられるように、(輝虎に)奔走してほしいと、思われていること、ひとえに輝虎の活躍に懸かっていること、よって、助長の太刀一腰、紫・肩紅・三物の腹巻一領を遣わすこと、なお、(詳細は朝倉)義景が申し届けること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』596号「上杉弾正少弼とのへ」宛足利義秋御内書【署名はなく、花押のみを据える】【封紙ウハ書「上杉弾正少弼とのへ」】)。

同日、随臣の一色藤長(式部大輔)・飯河信堅(肥後守)・細川藤孝(兵部大輔)が、越後国上杉家の年寄衆へ宛てて副状を認め、何度も仰せ出されている、越・甲・相三ヶ国の和融の件を、甲・相両国に対せられ、御下知を加えられたところ、請状の趣を承知されたこと、されば、(輝虎に)御存分があるとはいえ、この機会に(両国への)是非をなげうたれて、その志を遂げられ、(足利義秋が)御入洛を遂げられるように、御奔走してほしいと、頼みに思われていること、よって、御内書を認められ、助長の御太刀一腰、紫・肩紅・三物が揃った御腹巻一領を御拝領されること、(詳細は朝倉)義景をもって仰せ出されるとはいえ、さらに理解を得たく、(一色・飯河・細川からも)申し入れるようにとのこと、委細は智光院(頼慶)が申し達せられること、これらの通りを適宜に御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』597号「弾正少弼殿 人々御中」宛「(一色)藤長・(細川)藤孝・(飯河)信堅」連署状写)。

同日、一色藤長・細川藤孝・飯河信堅が条書を認め、一、越・相・甲三ヶ国の無事の件を、まずは相・甲両国が御請けになり、何事においても上意に背かれない趣を言上されたこと、一、輝虎に存分があるとはいえ、これまで言上されてきた筋目通りに、ここは(両国への)是非をなげうち、(足利義秋が)御入洛を遂げられるように御奔走し、ひとえに御当家再興のために尽くされるべきこと、一、(足利義秋の)御入洛の件は、隣国の諸侍も異議なく御請けになったこと、されば、いまほどの好機はないにより、このたび輝虎の御奔走を格別に頼まれたいと、(義秋は)思われていること、一、上杉殿の受領のこと、一、輝虎の存分により、かならず重ねて御使節を差し下されること、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』598号「(一色)藤長・(細川)藤孝・(飯河)信堅」連署条書写)。

同日、随臣の杉原祐阿が、直江大和守政綱・河田豊前守長親・神余隼人佑へ宛てて副状を認め、その国(越後国)の様子を、(足利義秋は)御心配に思われ、柳沢(新右衛門尉元政)を差し下されたこと、よって、御音信として、御内書ならびに御太刀一腰と御腹巻一領を、太守(輝虎)へ御拝領のこと、適切に申し入れること、それからまた、(越・甲・相)三和の件を御取り扱われたいと、(義秋は)思われ、彼の両国へ尋ねられたところ、 上意に応ずると、内々に言上されたので、取り急ぎ確かな人物を差し下されようとしたところ、若しも(輝虎が)御請けにならないとしたら、かえってどうなのかと、まずは尋ねられるために、このように(柳沢元政の派遣)なったこと、各々(直江景綱・河田長親ら)で相談し合い、事(三和)が調うように、御奔走が専一であること、委細については、この人物(柳沢)が申し述べられるので、詳しい御返答を寄せてほしいとの仰せであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』599号「直江大和守殿・河田豊前守殿・神余隼人佑殿 御宿所」宛杉原「祐阿」副状)。


神余氏は長尾・上杉家の在京雑掌の家柄であるが、神余隼人佑も天文の末から父の隼人佑実綱(隼人入道)と並んで活動が見られる頃には、京都から引き上げさせられており、以後は輝虎(長尾景虎)の旗本に転身していた。ここで直江・河田と並んで取り次ぎを依頼されているのは、京都で神余の名が知られていたからであり、神余隼人佑は越後国上杉家の年寄衆に列しているわけではない。



この間、敵対関係にある越中国一向一揆の勝興寺顕栄(越中国婦負郡末友の安養寺御坊(城郭伽藍)を本拠とする)は、3月16日、賀州金沢御堂(摂州大坂本願寺の別院)の坊官である坪坂伯耆入道へ宛てて書状を発し、それ以後は無音であったのは、不本意な思いであること、よって、 大様(本願寺の坊官で賀州大将の七里頼周か)から何がしかの御指図が近日中に発せられるのかどうか、御様子はどうなのかと、恐れながら案じ申し上げること、路次の様子も相変わらず不都合であるのか、これまた承りたい思いであること、従って、輝虎がこの国(越中国)へ出張する旨、一昨日は俄かに一両所から申し来るとはいえ、いつものように噂に過ぎないと思っていたところ、昨日午刻(正午前後)の時分から中郡へ現し出したこと、地利等を築き始めたものだから、仰天してしまったこと、このたび長尾(上杉輝虎)が出馬してきた意趣は、守山城(越中国射水郡二上山。反畠山氏である畠山年寄衆方の拠点)を攻め伏せ、能州之屋形(先年に年寄衆によって領国から追放された畠山徳祐・同義綱父子)の(能登)入国させるというようなもので、計り兼ねている次第であること、なおもって様子を承り届け、重ねて申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、輝虎の出張の意図が、守山と能州を見据えたものというのは、どうにも意外な目論みであると思え、武士の間での計略は、何れも同じようなものとはいいながらも、いざとなると、その本性は刀槍の戦いよりも謀略であること、このようにあえて申し届けたのは、(輝虎が)この表へ手立てに及ぶのは確かだと思っているからであること、なおもって様子を承り届け、重ねて注進すること、これらを申し添えている(『富山県史 資料編Ⅱ』1677号「坪坂伯耆入道殿 進之候」宛「勝興寺顕栄」書状写)。

能州畠山家の年寄衆である温井兵庫頭景隆は、26日、坪坂伯耆入道・広済寺へ宛てて書状を発し、あらためて申し入れること、長尾(上杉輝虎)が昨25日未明に放生津陣を払って、総人数を引き上げたこと、今もって松倉(越中国新川郡金山)に滞陣しているらしいこと、未だにその実否ははっきりと聞こえてこないこと、越後内輪の本城(本庄繁長)が甲州(武田信玄)へ一味して、去る13日に色を立てた(叛乱)そうであること、そういうわけで俄かに馬を入れられたものか、半信半疑であること、なお、異変があれば、重ねて注進を申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、端書はないことを申し添えている(『富山県史 資料編Ⅱ』1678号「坪坂伯耆入道殿・広済寺 まいる御宿所」宛「温井兵庫助景隆」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』(富山県)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

越後国上杉輝虎の年代記 【永禄10年10月~同年12月】

2013-01-04 18:22:29 | 上杉輝虎の年代記

永禄10年(1567)10月11月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)に在番する越後衆をはじめとした各所から、越府へ急報が届き、逆徒の佐野地衆に手引きされた佐野小太郎昌綱(元来の唐沢山城主。当時は別郭に居住していたか)と数千人規模の相州北条軍の猛攻により、在番衆は主郭に追い詰められていることと、相州北条氏政の本隊(氏政は武蔵国岩付城に在陣しているようなので、実際は家老の大道寺駿河守資親(武蔵国河越城代)に率いられた増援軍か)が利根川に船橋を渡して上野国赤岩(邑楽郡佐貫荘)の地から佐野へ進軍中であることを知ると、相州北条軍と興亡の一戦を遂げて在番衆を救出するため、すぐさま出馬した。



24日、上野国沼田城(利根郡沼田荘)に着陣した。

25日、出撃して上野国の中央部へと進み、厩橋(群馬郡)・新田(新田郡新田荘)・足利(下野国足利郡足利荘)をはじめとした二十余ヶ所の敵地を突っ切り、佐野一帯を取り巻く相州北条軍の本営に肉迫するほどの勢いで敵勢を蹴散らし、赤岩の船橋も切り落としたうえで、佐野唐沢山城へ駆け付けた。

27日、相州北条軍は夜中に武蔵国岩付城(埼玉郡)を目指して敗走し、佐野昌綱と佐野地衆は下野国藤岡城(都賀郡)へ逃げ込んだので、決戦するには至らなかった。

その後、佐野昌綱を降伏させると、戦後処理を行い、越後国から遠隔地であるために佐野唐沢山城の番城体制の継続を断念し、佐野昌綱の懇願を受け入れて城主への復帰を認める一方、昌綱の息子である虎房丸と佐野家中の三十余名を人質として預かり、沼田城まで戻った。

11月21日、佐野在番を務めた越後衆と佐野虎房丸らを伴って帰国の途に就き、一月足らずで関東を後にした。


これより前、この3月に甲州武田信玄の計略により、本拠を失って没落した関東味方中の白井長尾左衛門入道(左衛門尉憲景。上野国群馬郡の白井城を本拠としていた)が、常陸国太田の佐竹次郎義重(常陸国久慈郡の太田城を本拠とする)の許に落ち着いたとの報告を越府へ寄越してきたので、見舞いの使者を派遣したところ、10月18日、長尾左衛門入道から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて書状が発せられ、御貴札を拝読して、畏れ入る思いであること、誠にこのたび思いも寄らない巡り合わせをもって、当地へ罷り移ったこと、殊に御祝儀として、大鷹一居を給わり、御懇情のほどは、冥利過分の極みと存じ申し上げること、それからまた、両方(此方か)については、先書に申し上げた通りであるにより、ますます(佐竹)義重へ御懇切に接するのが適当と思われること、なお、(詳細は)御使いに頼み入るので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』585号「越府 人々御中」宛「長尾左衛門入道」書状写)。


甲州武田信玄との断交を決意した駿州今川氏真から提携を打診されて応諾すると、11月25日、家老衆である朝比奈備中守泰朝・三浦次郎左衛門尉氏満から、年寄衆の柿崎和泉守景家・直江大和守政綱へ宛てて返状が発せられ、重ねて要明寺(輝虎の使僧)をもって仰せ越された旨は、(今川氏真に)もれなく披露したこと、殊に信国(信濃国)に向かって御出陣されるそうであり、最も肝心であると存ずること、今後において、互いに隠し事があってはならない旨は、これまた肝心であると存ずること、このうえなお、(氏真の)存分を遊雲(永順)が申し述べられること、当方の(同盟に懸ける)思いにおいては、いささかも異議はないこと、もしこの旨に偽りがあれば、日本国中の諸神、殊に富士浅間大菩薩・八幡大菩薩の御罸を蒙り、黒白の二病を受け、来世においては、無間地獄に落ちるであろうこと、この旨を適切な御取り次ぎに預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』621号「柿崎和泉守殿・直江大和守殿」宛「朝比奈備中守泰朝・三浦次郎左衛門尉氏満」連署状写)。


※ 当文書を、諸史料集は永禄11年に置いているが、鴨川達夫氏の著書である『武田信玄と勝頼 ー 文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書)の「第五章 信玄・勝頼の歩いた道 今川氏真の動きと駿河攻め」における年次比定に従い、当年の発給文書として引用した。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、10月16日、甲府の東光寺に籠居させていた嫡男の武田太郎義信を失っている(自害したらしい)。


同じく、敵対関係にある相州北条家の擁する鎌倉公方足利義氏(在鎌倉葛西谷)が、下総国相馬郡の森屋城への移座を進めるなか、11月4日、重臣の豊前山城守へ宛てて書状を発し、景虎(上杉輝虎)の出張について、取り急ぎの注進に、御喜悦であること、されば、佐野小太郎(昌綱)そのほかは、去る27日に藤岡へ取り退いたこと、大道寺(資親)以下も即時に岩付へ引き退いたそうであり、やむを得ない次第であること、これにより、氏政は(上杉軍へ)乗り向かうと申されているのか、肝心であること、(豊前山城守が)申し上げた通り、相馬(森屋城)については、万事が御窮屈に(義氏も)思われていること、対処の模様は氏康・氏政父子へ御相談し合うこと、相馬左近大夫方(治胤。森屋城の城主)へもかならず(義氏が)仰せになること、(公方奉公衆の先番衆が入った)清光曲輪に(追加の番衆の)踞居の件は、先番衆も同前に申し上げていること、そうではあっても、番衆が不足しているわけで、(義氏は)仰せにはならないこと、これまた、左近大夫方へ仰せ付けられること、次いで、(敵が)小田原筋へ向かってくるについては、(道筋に)対処できる地がないこと、(小田)氏治(常陸国筑波郡の小田城を本拠とする)は苦労であると、(義氏は)御推察されていること、近日中に本間右衛門佐(公方重臣)が罷り帰るので、(義氏が聞き届けて)様子を御懇切に仰せになること、その時分に其方(豊前山城守)がよくよく(氏政へ)申し遣わすべきこと、良からぬ時期ではあっても(山城守が)気に病む必要はないと、(義氏は)思われていること、しっかりと養生を致して(心身の健康を維持して葛西谷へ)参上するのが適当であること、氏政の返札そのほかを御披見されて返し遣わされること、これらを畏んで申し伝えている(『戦国遺文 古河公方編』909号「豊前山城守殿」宛足利「義氏」書状写)。


※ 当文書の解釈は、黒田基樹氏の論集である『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)の「第Ⅲ部 第12章 古河公方・北条氏と国衆の政治的関係 ー 足利義氏の森屋城移座を素材としてー」を参考にした。

※ 当文書における相州北条軍と佐野昌綱の動向については、黒田基樹氏の論集である『古河公方と北条氏 地域の中世12』(岩田書院)の「Ⅲ 公方領国周辺の国衆 第九章 戦国時代の佐野氏」を参考にした。


同じく相州北条氏政(左京大夫)は、武蔵国岩付城に在陣して、去る8月に戦死した岩付太田源五郎氏資(大膳大夫。他国衆)の遺領を管理下に置いたのち、同江戸城(豊嶋郡)まで帰ると、11月12日、老父氏康の側近である大草左近大夫康盛(馬廻衆)へ宛てて書状を発し、輝虎が沼田まで退散したそうであり、毛利丹後守(北条高広。他国衆。上野国群馬郡の厩橋城を本拠とする)・由良信濃守(成繁。同前。同新田郡の金山城を本拠とする)の注進も同じ内容なので、(岩付衆へ)岩付領の差配を申し付け、昨日、岩淵(武蔵国豊嶋郡)まで罷り帰り、今12日未刻(午後三時前後)に江城(江戸城)へ罷り帰ったこと、御料人(太田氏資室。氏康の娘)を同道致したこと、御安心されてほしいこと、この旨を(氏康へ)御披露に預かりたいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1055号「大草左近大夫康盛」宛北条「氏政」書状)。
 

※ 当文書の解釈については、山口博氏の著書である『小田原ライブラリー13 北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)の「6 「武栄」を求めて 【出馬の停止】」を参考にした。

※ 当文書にみえる「御料人」を太田氏資室に比定したのは、下山治久氏の編著である『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版)を参考にした。



永禄10年(1567)12月 上杉輝虎(弾正少弼) 【38歳】


2日、奥州会津(会津郡門田荘黒川)の蘆名家の使僧である游足庵(淳相)へ宛てて書状を発し、先頃は(游足庵が)使者として(越府へ)打ち越されたところに、野州佐野の地衆がことごとく覚悟を替え、佐野小太郎(昌綱。もとの佐野唐沢山城の城主)をはじめとして、武・相の衆(相州北条軍)数千騎を引き付け、(唐沢山城を)実城の一曲輪を残すのみの状態に至らせ、(在番する越後衆を窮地に陥らせた)そのうえ、伊勢(北条)氏政父子が赤岩と号する地に船橋を架けて利根川を取り越え、彼の地(唐沢山城)の決着をつけるつもりであると、注進が届いたにより、一つには、連年の所存(鬱積な思い)から、一つには、東北(東・北関東)の安危(安全と危険)から、(相州北条父子と)興亡の一戦を遂げるために越山し、去る10月24日に沼田の地へ着陣、翌25日には国中(中央)へ出馬し、(10月27日までに)厩橋・新田・足利をはじめとする敵城二十余ヶ所を打ち通り、(佐野周辺を取り巻いた)氏政陣所の間近へ攻め懸かったところに、ついには船橋を切り落とし、佐城(唐沢山城)に詰め寄せたこと、凶徒(相州北条軍)は27日の夜中に敗北し、(追撃して)武具以下をすべて奪い取ったこと、しかしながら、決着をつけられなかったのは無念であること、されば、佐城(唐沢山城)については、(越後国から)手遠(遠隔)の地といい、佐野の悃望といい、まずは小太郎(佐野昌綱)に預け置き、彼の子息である虎房丸をはじめ、家中の証人を三十余人、ならびに越国(越後)から籠め置いた者共を召し連れ、去る(11月)21日に納馬したこと、倉内(沼田城)そのほか数ヶ所を堅持しているので、関左・前奥(関東・陸奥国南部)は安寧であること、内々に盛氏(蘆名止々斎)・盛興(平四郎)父子へ直札に及ぶべきであったとはいえ、やがて使者を立てて申し届けるので、(そのところを)よくよく心得られるのが適当であること、なお、河田豊前守(長親。永禄9年の後半に沼田城代の任を解かれ、輝虎側近に復帰している)が申し越すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』586号「游足庵」宛上杉「輝虎」書状写)。



14日、旗本の大石右衛門尉に朱印状を与え、堪忍分として、一、蒲原郡内 馬下分、一、頸城郡内 飛口(樋口か)分、軍役として、鑓二丁、小旗一本、糸毛の具足、金前後(馬鎧)、以上、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』588号「大石右衛門(尉)殿」宛上杉「輝虎」朱印状写)。

同日、同じく楠川左京亮将綱(揚北衆の新発田氏の庶族とされる。越後国蒲原郡の楠川城を本拠としていたらしい)に朱印状を与え、堪忍分として、一、古志郡内 福島村石黒丹波(守)分、(魚沼郡)藪神内 聖光寺分、軍役として、鑓六丁、大小旗内腰差(数量を欠く)、糸毛の具足、金色前後(馬鎧)、以上、これらを申し渡した。


輝虎の馬廻衆は糸毛の具足と金の馬鎧で統一されていたことが分かる。



21日、駿州今川氏真から書状(謹上書)が発せられ、父であった義元以来の筋目に任せられ、あらためて御使僧(要明寺)に預かり、祝着であること、殊に今後は格別に仰せ合わされるのは、勿論であること、なお、(詳細は)朝比奈備中守(泰朝)と三浦次郎左衛門尉(氏満)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』590号「謹上 上杉殿」宛「源 氏真」書状写)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする