内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

《 forme 》の多義性について ― ジルベール・シモンドンを読む(51)

2016-04-11 05:27:49 | 哲学

 日本語でも「形」という言葉は多義的ですね。この語が使用されている文脈をその都度よく見てみなければ、その意味を特定できませんよね。「かたち」と読むか「かた」と読むかによっても意味が変わってきますし。それに、私にとって忘れるわけには行かないことは、「形」が後期西田哲学の根本語の一つでもあるということです。
 フランス語の « forme » も、日本語の「形」に劣らず、とても多義的な語です。例えば、Le Grand Robert では、四階層総計三十三項に分けられてその多様な意味が延々と説明されています。それに、その多義性は、日本語の「形」のそれとは部分的にしか重なり合いません。
 例えば、古代ギリシア哲学や中世スコラ哲学についてのテキストの中にこの語が出てくれば、それは「形相」のことです。論理学では、(推論、命題などの)「形式」のこと。ゲシュタルト心理学においては、« forme » は、まさにこのドイツ語「ゲシュタルト」(« Gestalt »)の訳語です。情報科学ならば、パターン認識の「パターン」を指します。
 といった具合に、« forme » という言葉が出てきたら、それぞれの文脈でどの意味で使われているのかちゃんと特定できないと、とんでもない誤解に陥ってしまいかねません。
 今日読む段落は、わずか六行と短いのですが、その中にこの厄介者の « forme » が出てきます。まずは原文を見てみましょう。

 Or, pour penser l’opération transductive, qui est le fondement de l’individuation à ses divers niveaux, la notion de forme est insuffisante. La notion de forme fait partie du même système de pensée que celle de substance, ou celle de rapport comme relation postérieure à l’existence des termes : ces notions ont été élaborées à partir des résultats de l’individuation ; elles ne peuvent saisir qu’un réel appauvri, sans potentiels, et par conséquent incapable de s’individuer.

 ところが、その様々なレベルにおいて個体化の基礎である転導的作用を考えるためには、« forme » 概念は不十分である。« forme » 概念は、実体概念、あるいは、関係項よりも後に来る関係という関係概念と同じ思考システムの一部をなしている。これらの概念は、個体化の結果から作り上げられたものであり、潜在的なるものを欠き、貧困化され、その結果として、自己個体化することができない現実しか把握することができない。

 これまで読んできたところから明らかなように、ここで不十分だと批判されている « forme » 概念は、伝統的な質料形相論のそれですから、この文脈では 、「形相」と訳すのが正解ということになります。





















































植物、それは宇宙と大地との間に内的共鳴をもたらす媒介の場所 ― ジルベール・シモンドンを読む(50)

2016-04-10 06:44:35 | 哲学

 あと七行ちょっとで七日に読み始めた段落を読み終えます。今日はその段落を最後まで読み、さらに段落の末尾に付された脚注も続けて読みます。
 まずその七行ほどをほぼそのまま訳します。

転導の結果として形成されるシステムは、具体的なものから成っており、あらゆる具体的なものを含んでいる。転導的秩序は、あらゆる具体的なものを保存し、「情報の保存」(« conservation de l’information »、原文ではイタリック)によって特徴づけられる。ところが、帰納は、情報の喪失をどうしても伴う。弁証法的過程同様、転導もまた相互に対立する諸側面を保存し統合する。しかし、弁証法的過程と違って、転導では、生成展開の枠組みとしての時間の先行的存在を想定しない。時間そのものが解決であり、発見されたシステム的なものの次元である。つまり、時間もまた、個体化過程がそれにしたがって実行されるところの他の諸次元と同様に、前個体化的なものから出てくる。

 時間そのものも、超越論的な形式としてではなく、個体生成過程の相の下に捉えようという意図がここではっきりと示されていますね。この段落で批判的に検討された演繹的思考の場合、生成の外に予め定めうるテーゼから出発し、このテーゼは時間によって変化しないかぎりにおいて有効です。同じく批判の俎上に載せられた帰納的思考の場合には、時間の内に与えられる所与から生成を考えるという点では転導的思考と同じですが、その所与から「使えるもの」だけ取り出して保存するという意味で、生成しつつある所与全体よりも「貧しい」結果しかもたすことができません。この段落のもう一つの批判の対象である弁証法的思考の場合は、所与についてそういう「犠牲」を払わずに全部保存し統合しようとしますが、その弁証法が展開していく枠組みとしての時間はそれら所与には属しません。ところが、転導的思考は、時間もまた問題解決のための一次元として生まれてくると考え、個体化過程の相の下に捉えようとします。いわば「全部まとめて面倒をみよう」というわけですね。
 さて、段落末尾に付された脚注を見てみましょう。

こうした転導的作用は、生命的個体化過程と併行している。植物は、宇宙的な秩序と超極微分子レベルの秩序との媒介を確立する。植物は、光合成において受容された光エネルギーを用いて、地中及び大気中に含有された種々の化学物質を分類・再配分する。植物は、「要素間結節」(«nœud inter-élémentaire »)であり、初発においてはその間にコミュニケーションがなかった二つの現実層からなる前個体化的システムの内的共鳴として発展する。「要素-間-結節」(«nœud inter-élémentaire »)は、「要素-内-作用」(« travail intra-élémentaire »)を実行する。

 正直に言いますと、この脚注を最初に読んだとき、ちょっと感動しちゃったんです。読んだ後で、まわりの風景が少し違って見えるようになったと言っても過言ではありません。この一節をこんな風に理解したからです。
 植物は、この宇宙にあって、光エネルギーをいわば「翻訳言語」として、地球上の大気中に瀰漫する諸要素と地中に埋蔵されている諸要素との間のコミュニケーションを己自身において成り立たせている。植物は、己自身が育つことそのことによって、それ以前には互いに言葉を交わすこともなかった二つの別の現実層を結びつけ、互いに対話ができるようにし、そこに内的共鳴をもたらしている媒介の場所そのものにほかならない。
 路傍の花や草木もまた、地に根を張り、新芽を芽吹かせ、花咲かせつつ、宇宙と大地との交信を実行しているのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


転導は、何も差し引かず、すべてを新しいシステムの中で生かす ― ジルベール・シモンドンを読む(49)

2016-04-09 06:28:12 | 哲学

 昨日の近世文学史の講義では、国学の成立と確立について主に話しました。当然のことして、主役は本居宣長でした。「もののあはれ」論を例解するために、『紫文要領』『石上私淑言』『源氏物語玉の小櫛』から引用したのですが、どのテキストでも似たような言説の繰り返しが多いんですよね。もう、これでもかっていう感じで諄々と説いていく。
 シモンドンにもそういうところがあります。「え~っ、またですかぁ。この話前にも何度か聴いてますけど」みたいな。そんなのおかまいなしなんですなぁ。繰り返すんですよ、倦むことなく。でもね、宣長の場合もそうなんですけれど、それに我慢して付き合っていると、じわじわと効いてくるんですねぇ、これが。その考え方・感じ方・物の見方がこちらに染み込んでくるんです。入浴剤を入れた湯船に浸かっていると体が芯から徐々に暖まってくるのとちょっと似ているかなぁ。
 というわけで、湯船に浸かるような気分で転導論の続きを読んでいきましょう。
 今日読む箇所は、転導は、演繹とも帰納とも違う、というお話です。
 演繹とは違って、転導は、問題解決のために問題発生の場所を離れません。その場で解決を探すのです。転導は、問題を抱えた領域に走っている緊張そのものから解決をもたらす構造を引き出そうとします。それは、過飽和状態に達した溶液が、それ自身の潜在性のおかげで、それ自身が内包していた化学物質の種類に従って、結晶化するようにです。転導的解決法は、己の外部から己に無縁な形を持ちこむことによってもたらされるものではないのです。
 転導は、帰納とも違います。帰納は、確かに、研究対象となっている領域に含まれた現実構成要素の諸々の性格をしっかりと保存し、それらの諸要素の分析から問題解決のための構造を引き出します。研究対象領域の外からその領域になかったものを持ち込んで問題解決を図ろうとはしません。そこまでは転導と同じです。しかし、帰納は、それら現実構成要素の中から肯定的なもの、つまり「共通するもの」しか保存しようとせず、それぞれの要素の特異性は排除してしまいます。ところが、転導は、それら現実構成要素のすべてが何も失うことなく自ずと秩序づけられる次元の発見なのです。
 問題解決的な転導は、否定的なものの肯定的なものへの反転作用を実行します。この転導的反転作用においては、構成要素間相互の還元できない差異、それらの間に隔たりをもたらしているものが解決システムの中に統合され、意味成立の条件になります。それは、二つの網膜上にそれぞれ映った像の間にずれがあってはじめて一つの視覚像が成り立つようにです。
 転導においては、現実構成諸要素に含まれた情報から何かが差し引かれることによって情報が貧困化されることはないのです。転導は、最初に与えられていたすべての構成要素が含まれている具体的組成が結果として形成されるという事実によって特徴づけられます。
 あっ、この話、ここで終わりじゃありませんよ。まだ続きがありますから、湯船から出ないでくださいね(のぼせちゃうかな)。
























































シモンドンと西田を繋いでくれた蝸牛 ― ジルベール・シモンドンを読む(48)

2016-04-08 06:09:04 | 哲学

 今日の記事の内容は、タイトルからも予想されるように、ちょっと「緩め」です。
 昨日の朝は、このブログの記事を投稿してから、朝七時の開門時間に合わせてプールに行きました。自宅から徒歩でも六分ほどのところにあるプールなのですが、ここ二週間ほどは自転車で行っています。行き帰りの時間を少しでも節約するためです(地下駐車場から自転車を出し入れしている時間も含めると、徒歩での行き帰りと比べて、一分ほどしか違わないのですが)。なのためにかって? 決まっているじゃないですかぁ、それだけいっそう学問に打ち込む時間を確保するためですよぉ(信じるか信じないかは読み手の自由です)。
 でも、昨日の朝は、小雨が降っていたので、傘を差して徒歩でプールに行きました(なんか、小学生の日記みたいですね)。プールからの帰り道、自宅近くの歩道で、横断中らしき蝸牛を危うく踏みつけそうになりました。最近の自分の読解ペースを蝸牛くんの移動のそれに喩えたりしていましたから、妙に親しみが湧いてきて、「お互いに頑張ろうね」という、何か同志的な気分のようなものを一方的に抱き、「踏み潰されないように気をつけるんだよ」と心内で声を掛けながら、その脇を通り過ぎたのではありました。
 さて、今日から読む段落は、「転導」という、一筋縄では行かない、しかし大変生産性に富んだ、個体化論の根本概念を、あれやこれやの類似概念から、「そやないでぇ、そんなんとは違うて最初から言うてるやん」って、シモンドン先生が一生懸命区別しようとしてはるところです。

La transduction n’est donc pas seulement démarche de l’esprit ; elle est aussi intuition, puisqu’elle est ce par quoi une structure apparaît dans un domaine de problématique comme apportant la résolution des problèmes posés.

転導とは、それゆえ、単に精神の歩みではなく、それはまた、直観でもある。というのも、すでに明らかなように、転導とは、ある問題性を持った領域に、そこに提起された諸問題に解決をもたらすものとして一つの構造がそれによって現れるところのものだからである。

 もしこの一節を西田幾多郎大人がお読みになったとしたら、どう反応しただろうと想像を逞しくしてみました。
 「そりゃぁ、まさにわしのいう行為的直観じゃ」って、思わず膝を打ち、「よう言ってくれはりましたな」ってシモンドンに即座に手紙を送ったんじゃないかなあ。あるいは、もしシモンドンが目の前にいたとしたら、「わしの言いたかったことをここまで分かってくれた人は、西洋人ではあんただけや」って、握手を求めたのではないかなあ。






























































発見する精神の歩み ― ジルベール・シモンドンを読む(47)

2016-04-07 06:50:00 | 哲学

 ILFIの「序論」もあと二頁半を残すばかりとなりました。遅くとも来週の前半には読み終えることができそうです。蝸牛が呆れてこちらを振り返るほどの遅々たる歩みで、シモンドンの思考のリズムにはそぐわなかったかもしれませんが、零に近い速度で読むことによってはじめて見えてくるテキストの「風景」もあっただろうと思いたいですね。
 さて、今日読む段落も「転導」を主題としていますが、より正確には、それを他の思考形式から区別することがその目的です。
 転導は、証明としての価値をもった論理的手続きではありません。それは、一つの心的手続きであり、いわゆる手続き以上のもの、「発見する精神の歩み」(« démarche de l’esprit qui découvre »)です。この歩みは、「存在にその生成の中でつきしたがう」(« suivre l’être dans sa genèse »)ことであり、思考の生成をその対象の生成と同時に完了することです。
 思考とその対象との同時的生成過程にあって転導が果たすことを求められている役割は、いわゆる弁証法的思考には果たすことができない役割です。なぜなら、個体化作用において、否定性は、思考の運動の第二段階として現れるのではなく、緊張と両立不可能性を孕んだ両義的な第一条件(つまり前個体化的存在の状態)の中に内包されているからです。
 この初期状態が前個体化的存在が有している最も積極的な特性です。つまり、諸々の潜在性の実在ということであり、これがまたこの初期状態に孕まれた両立不可能性と非安定性との原因でもあるのです。
 否定性は、個体発生に伴う両立不可能性として最初からそこにあるのです。しかし、それは潜在性の豊穣と表裏一体です。したがって、個体化過程における否定性は、それだけで実在するような実体的な否定項ではありません。それは段階や階梯ではないのです。言い換えれば、個体化過程は総合や統一性への回帰ではありません。そうではなく、潜在的な両立不可能性を孕んだ前個体化的中心から存在が自己移相化していく内在的・原初的契機なのです。
 このような個体発生論的視角から見るとき、時間は、「個体化しつつある存在の有する次元性」(« dimensionnalité de l’être s’individuant »)の表現として考えられます。



































































「転導」再論(承前)― ジルベール・シモンドンを読む(46)

2016-04-06 08:09:10 | 哲学

 「転導」(« transduction »)について説明している段落を、昨日に引き続いて読んでいきます。
 転導は、生命作用でもあります。それは、特に、有機的個体化の意味を表しています。それは、また、心理作用でもあり、実際的な論理的過程でもあります。しかし、その過程は、いわゆる論理的思考に限定されません。知の領域においては、転導は、創意工夫の真正の手続きを規定しています。それは帰納でも演繹でもありません。転導は、ある問題群がそれらによって定義されるところの諸次元の発見のプロセスです。その発見が問題解決にとって有効であるかぎりにおいて、転導は類推的作用です。
 この転導という概念は、このように様々な領域の生成過程を考えるのに用いることができます。この概念は、個体化が実現され、存在に基づいた諸関係の組織の生成が顕現するところでは、どこでも適用可能です。ある現実の領域を考えるのに類推的な転導を用いることができるという可能性は、その領域が実際に転導的構造の在所であるということを示しています。前個体化的存在が個体化し、諸関係の組織の形成が要請されるとき、この要請が転導にほかなりません。転導は個体化を表現しており、それゆえ、それを考えることを可能にします。
 つまり、転導という概念は、同時に形而上学的でありかつ論理的なのです。この概念は、個体発生に適用され、かつそれ自身が個体発生そのものなのです。
 私はこの点が特に重要だと思っています。転導は、個体化過程を説明するためにその過程の外から導入された、個体化過程そのものとは無縁な、その意味で抽象的な概念ではなくて、それ自身が一つの個体化過程だという点です。つまり、生成の原理は、それ自体は同一的な普遍概念として生成過程の外にあるのではなく、その原理自身が現実のある場所から他の場所へと、そしてある次元から他の次元へと、適用範囲を拡大・拡張しながら自己形成していくものだということです。
 転導概念は、客観的には、個体化過程成立のために必要なシステム全体の諸条件、内的共鳴(二つの異なった大きさの秩序に属する複数の現実間のコミュニケーションの最も原初的な様態。増幅と凝縮との二重の過程を含む)、心理的問題性を理解することを可能にします。論理的には、新しい種類の類推的パラダイムの基礎として用いることができ、物理的個体化から有機的個体化へ、有機的個体化から心理的個体化へ、そして心理的個体化から「主客通底的個体性」(« transindividuel subjectif et objectif »)への移行を可能にします。
 これらすべての領野がシモンドンの個体化理論の研究対象なのです。














































































「転導」再論 ― ジルベール・シモンドンを読む(45)

2016-04-05 06:26:25 | 哲学

 今日から読む段落は、一頁以上に渡る相当に長い文章です。昨日見た新しい思考方法から導かれる概念である « transduction » (「転導」)がそこでの主題になっています。しかし、多様な領域への適用可能性をもった汎用性を有したこの概念については、すでに2月24日の記事その翌日の記事で、同段落を引用あるいは参照しつつ説明してあります。ですから、その説明をここで繰り返すことはせず、その中では言及されていなかった点を摘録して、その説明を補塡するにとどめます。
 「転導」は、非等質的な領野に発生します。物理レベルだけではなく、生物レベルでも、心理-社会レベルでも発生します。いずれの場合も、「前個体化的緊張状態にある存在の中に次元と構造とが相関的に現れること」(« apparition corrélative de dimensions et de structures dans un être en état de tension préindividuelle »)です。この状態にある存在とは、「統一性や同一性以上のものであり、まだ己を己自身に対して多次元に自己移相してはいない存在」(« un être qui est plus d’unité et plus d’identité, et qui ne s’est pas encore déphasé par rapport à lui-même en dimensions multiples)です。
 転導的作用の結果として生まれた極限項は、当然この作用に先立って存在するものではなく、それら極限項から転導の発生を説明することはできません。転導のダイナミズムは、「非等質的存在のシステムの原初的な緊張」(« la primitive tension du système de l’être hétérogène »)から生まれてくるのであり、この非等質的存在が「自己移相し、諸次元を発展させ、その諸次元にしたがって自己を構造化」(« se déphase et développe des dimensions selon lesquelles il se structure »)します。
 この転導のダイナミズムが表しているのは、「二つの異なった現実の階位の間の初元の非等質性」(« l’hétérogénéité primordiale de deux échelles de réalité »)です。その二つの階位のうち、個体より大きい方は、準安定的な全体性のシステムであり、個体より小さい方は、物質レベルです。初元にあるこの二つの異なった大きさの秩序の間で、個体は、次第に増幅するコミュニケーションの過程によって発展します。転導とは、このコミュニケーションの最も原初的なモードであり、それは物質レベルの個体化にすでに現れています。




































































新しい存在論的研究のための新しい方法論 ― ジルベール・シモンドンを読む(44)

2016-04-04 07:50:04 | 哲学

 今日読む段落も、シモンドンの個体化理論の「おさらい」です。少し長いので、逐語的には訳さず、ところどころに原文のからの引用を嵌めこみながら、内容を追っていくことにします。
 個体化についての新しい存在論的研究には、それに相応しい新しい方法論が必要になります。
 その方法は、二つの極限項の間の概念的な関係を手段として現実の本質を構成しようと試みることではなく、あらゆる真の関係を「存在の位階」(« rang d’être »)として考えることにあります。関係は、存在の「一様態」(« une modalité »)であり、関係がその実在を保証する関係項と同時的存在なのです。一つの関係は、関係に対して先在しそれぞれに概念的に把握されうる二つの個別的な項の間の単なる関係としてではなく、存在の中の関係、存在の関係、存在の仕方として把握されなくてはなりません。
 関係を形成する項の関係に対する先在性を認める考え方は、それらの項が実体としてまず与えられているという前提から出発していますが、シモンドンがこのような考え方を徹底的に繰り返し批判していることはすでに私たちも見てきました。
 実体を存在のモデルとして考えることを止めれば、関係を「存在の己自身に対する非同一性」(« non-identité de l’être par rapport à lui-même » )として構想することが可能になります。こうすると、「存在の中に単なる自己同一性ではない現実を内含させること」(« inclusion en l’être d’une réalité qui n’est pas seulement identique à lui »)として関係を考えることができるようになります。その結果として、あらゆる個体化に先立つ存在としての存在を一つの統一性や一つの同一性以上のものとして捉えられるようになります(この点について脚注が付けられています。その趣旨は、このような新しい存在把握には、大きさの秩序は複数あり、それら秩序間には相互作用が原初的には不在であるということが特に含意されているということです)。
 このような新しい存在把握の方法は、存在論的な性質を有した要請を前提としています。それは、あらゆる個体化に先立って把握された存在には、排中律や同一律の原理は適用されない、ということです。なぜなら、これらの原理は、すでに個体化された存在にしか適用されず、環境と個体とに分離され、それだけ「貧困化された存在」(« être appauvri »)を定義しているからです。これらの原理は、それゆえ、存在のすべて、つまり、個体と環境とによって後になって形成された全体には適用されません。これらの原理が適用されるのは、前個体化的存在の中から個体となったものに対してだけなのです。
 この意味で、古典論理学は個体化過程をその全体として考えるためには使えません。なぜなら、古典論理学は、個体化過程の作用を複数の固定概念及びそれら概念間の関係によって考えることを強制しますが、それら概念及び概念間関係は、個体化過程の作用全体のうちから部分的に考えられた結果にしか適用されないからです。




















































個体を存在の中に位置づけ直すために ― ジルベール・シモンドンを読む(43)

2016-04-03 07:26:46 | 哲学

 シモンドンに限らず、哲学の大著に往々にしてありがちなことは、表現上若干のヴァリエーションを伴いつつも、繰り返しが多いということです。それは、大曲の中に度々現れる同一主題の反復あるいは変奏にちょっと似ています。その反復ないし変奏が全体の中である必然性をもって有機的な仕方で他の部分と結びついていれば、読んでいて、あるいは聴いていて、飽きるということはないわけですが、そうでないと、やはり、「またかよ」という気分にもなります。シモンドンの文章にも少しそういう嫌いがあります。
 しかし、昨日と同じ理由で、つまり、シモンドンの思考と語彙に徐々に馴染んでいくために、「序論」だけは飛ばさずに最後まで読んでいきます。
 さて、今日読む段落では、本研究の意図が述べられています。以下、その段落を、そこに若干の言葉を補いつつ、ほぼそのまま訳していきますので、文体は常体を使います。
 本研究の意図は、個体化の諸々の形態、様態、程度を研究することで、それは、物理・生命・心理-社会の三つのレベルに応じて、個体を存在の中に位置づけ直すためである。個体化を説明するのに実体をまず措定するのではなく、我々は、物質・生命・精神・社会などの領域の基礎として、個体化の異なった体制を選択する。そうすることによって、これらの領域の分離・階層・関係は、異なった様態によって展開される個体化の諸相として現れる。そこでは、実体・形相・質料という伝統的な哲学的諸概念は、「第一次情報形成」(« première information »)・「内的共鳴」(« résonance interne »)・「エネルギー的潜在性」(« potentiel énergétique »)・「大きさの秩序」(« ordres de grandeur »)という、より根本的な諸概念によって取ってかわられる。
 もう何度も聞かされた話だよって、うんざりされた方もいらっしゃることでしょう。私もその一人です。しかし、見方を変えると、序論でここまで口を酸っぱくして繰り返さざるを得ないほど、西洋哲学の世界では、伝統的な実体論的思考がいまだに強固な根を張っているとシモンドンが考えているということでもあります。
 「夢よりも儚き世の中」「ゆく河の流れは絶えずして...」「諸行無常の響き」などに敏感に顫動する心をもった日本人(すべての日本人とは言いません)にとって、シモンドンが倦むことなくそれに対して批判を繰り返すところの実体論的世界像は、まことに想像を絶する異界のようにも思われることでしょう。


























































存在の「転導的統一性」― ジルベール・シモンドンを読む(42)

2016-04-02 11:10:04 | 哲学

 今日読む箇所は、シモンドン自身がこの個体化研究において存在をどのようなもの或いはこととして構想しているかをまとめて述べ直している段落です。これまで読んできたところに何か新しい要素が付け加えられているわけではありませんが、シモンドンの考え方に少しずつこちらの思考を馴染ませていくために、飛ばさずに読むことにします。
 存在は、同一性的統一性を有していない、つまり、そこにおいてはいかなる変容もありえない安定状態の統一性を有していないという趣旨のことは、これまでも繰り返し述べられてきました。存在が有しているのは、「転導的統一性」(« unité transductive »)だとシモンドンは言います。
 何でしょうか、この「転導」(« transduction »)というのは。『小学館ロベール仏和大辞典』によると、この言葉は、生物学では、「形質導入」(微生物の遺伝形質を、バクテリオファージの仲介で他の形質に変化させること)、心理学では、「転導論理[推理]」(論理の形成が不十分な幼児期の思考様式。推論が個別的な事例の繰り返しに終わり、全体としての統一、意味を欠く)です。これらを手掛かりとして、シモンドンの言うところに耳を傾けてみましょう。

il [=l’être] peut se déphaser par rapport à lui-même, se déborder lui-même de part et d’autre de son centre.

それ[=存在]は、自己自身に対して移相すること、自己の中心からあちらこちらへと自己をはみ出していくことができる。

 つまり、存在とは、自己分化・自己変容を繰り返しつつ、自己拡張していくことであり、そのことが存在に「転導的統一性」をもたらしているというのです。
 この文の次の文から段落の終わりまで、一息に訳してみます(最後の文は、原文ではイタリックで強調されています)。

複数の原理の関係あるいは二元性と普通見なされているものは、実のところ、存在の広がりであり、その広がりは、統一性あるいは同一性以上のものである。生成は、存在の一次元であり、最初に与えられた実体的な存在が被る継起的事象にしたがって存在に到来するものではない。個体化は、存在の生成として捉えられなければならず、存在の意味を汲み尽くす範型として捉えられてはならない。個体化された存在は、存在のすべてではなく、最初の存在でもない。個体化された存在から個体化を捉えるのではなく、個体化から個体化された存在を捉え、いくつかの異なった大きさの秩序にしたがって配分された前個体化的存在から個体化を捉えなくてはならない。

 存在は、その生成の相の下に、前個体化段階から個体化を通じて複数の異なった大きさの秩序へと分化しつづける過程として捉えられるときはじめて、その本来の姿を現す。こうシモンドンは考えているだと思います。