考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

書き辛さに関する所見

2005年09月27日 | 物の見方
 私のブログで使用される用語で教育とか学校以外で意外に多いのが、脳と能と宗教だと思う。

 学校と教育は、まあ、職業直結で、だから、書き辛い面がある。脳と能は書きやすい。ただ、脳は、間違った内容を書いてないかという心配があり、能は一応師匠についているから、師匠の迷惑になることは避けたいと思っている。

 で、実は、「宗教」、これが、最も気にかかる。
 公立学校教員が宗教について語るのは、タブーのような気がしているからだろう。別に、特定の宗教について語るわけではないのに、一人の人間として語るのにも、後ろめたさのようなものを感じる。

 個人的に、特定の宗教の熱心な信者ではない(法事やその他諸々、慣習的には世間一般の「信者」として振る舞っているが、それだけだ。)のに、「宗教」と書いた途端、なんだかいけないことを書いている気になる。

 単なる自分の思い過ごしなのだろうか。一体、なぜなのだろう。ひょっとして、文章を読んだ「誰か」に、変に誤解されるのが心配だからだろうか。

 宗教は、ふつーの人間が、まともに生きていくのに、なかなか重宝なものなのに、それでこれは「ふつー」の感覚だと思うのに、今の日本の社会では、そんなこと、思われていない。特に子供に「善悪」の感覚を身につけさせる「方便」として、宗教は役に立つだろうに。

 以前、観光で訪れた南の島で、アメリカ人の集団の(安っぽい)食事付きショーで、司会者が「食事がいただけることを感謝しましょう。」ってなことを言ったら、その途端に、それまでわーわー騒いでいた陽気な連中が、シーンとなった。正直言って、烏合の衆の集まりがこんなに静粛になるのに、驚いた。宗教の力だろう。
 いや、待てよ。
 でも、ひょっとしたら、私自身、実は子供の頃、「宗教教育」を強く??受けたのかも知れない。
 「閻魔様」が怖かった。「嘘をつくと、舌を引っこ抜かれるよ、死んだら、閻魔さんが、罪状を読み上げて、極楽に行くか、地獄に堕ちるか、決められるんだよ。」と言われて、そう信じていた。だから、今、かなり真面目に働いているのも、そのころ受けた「宗教教育」のせいかもしれないなぁ。。。。

 そう考えると、自分自身の中にそれなりに根強くある「宗教」がたいした働きをしていそうに見えない今の日本の社会(←ちょっと大げさ)は、私にとっては感覚的に違和感を感じるものになっているのかなぁ。。

 ところで、ブルーバックスの「高校数学で解くシュレーディンガー方程式」をまだ読んでいるが、それで、「計算」はさすがに手に負えず、割愛しているが、105ページあたりから、シュレーディンガーがインド哲学、特に「梵我一如」の思想に惹かれたことに触れていて、これに関する締めくくりで、筆者は次のようにまとめている。
 「ただし、シュレーディンガーがインド哲学の古代思想のすべてに埋没するほど傾倒していたかというと決してそうではなく、儀式や迷信を排除し、哲学の本質のみを合理的に受け入れていました。彼が極めて高い合理的精神の持ち主であったことを誤解しないようにする必要があります。」
 この筆者の見解こそ、まさに、日本の読者である「我々」が、いかに哲学や宗教をうさんくさいものとして見ているかを表しているに違いない。まるで、宗教の全てが儀式や迷信で埋め尽くされ、非合理的であるかかのように。

 だから、私が「宗教」と書きづらいのも当然なのだろう。

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