考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

「伸び悩み」という幸不幸と人生の無駄

2007年05月13日 | 教育
 以前一度書いたことがあるかな。
 「真面目な子が一生懸命に頑張ったのになかなか伸びないとかわいそうね」「やるからには伸びてこないとね」と言う会話が先日聞こえた。一般的には教員の常識といえるだろう。

 冷たいようだが、私は可愛そうだと思わない。頑張ったのだから、それで良いじゃないか。それ以上に何を望むというのか。やっても出来ないのだから仕方がない。精一杯やれたのは、能力の限界まで頑張れたということだから可哀想などころか、本当は目出度い話ではないか。

 かく言う自分も「一生懸命に頑張ったのに伸びなかった」一人である。(笑)友人からは、「けっこうやってるのに、伸びないね」と言われた。友人は、何も勉強をしなくてもかなりの成績を取っていた。(世の中にはホント、頭のいい人がいるものだと感心する。)
 でも、仕方がないのである。それが自分の限界なのだから。

 まあ、もうちょっとやれば出来ていたかもしれないなと思わないでなかったが、そこまでやる気力がなかったからしなかった。試験前には、これくらいの席次(或いは偏差値)を取るためにはこれをこのようにすると取れると予想が出来た。で、ほとんど外れたことがなく、毎回ほぼ同じ成績キープした。ただ、数学が上がれば国語が下がり、国語が上がれば数学が下がる、など、全部が揃うことがなかったから、その辺りが私の限界だと自分で思った。どうしても、「ミス」をしてしまうのである。
 でも、私はそこまでは頑張った。(笑)まあ、結局、あれこれあって仮面浪人したが、その時にはやるだけのことをやった。自分で生活のリズムを作り、気晴らしもし、受験直後は、ダメでも仕方がない、と思えたほどすっきりした。

 限界に挑んだのである。で、限界に到達した。浪人しても、苦手の社会科の偏差値は全然上がらなかった。あんなに毎日勉強をしたのに。(笑)でも、もし、やらなかったら、忘却曲線にしたがって下がっていたはずだ。やったからこそ現状維持は出来たのだ。

 もともと親から貰った能力がその程度なのだから仕方ないのである。それが自分なのだ。

 「やればやるだけ伸びる」というのは、一見良いことに思われるが、「やり切れるところまでやってない」証拠でもある。
 誰の能力にも限界がある。いつかは天井にぶつかる。勉強に関して言えば、それが高校入試か大学受験か、或いは学者さんになってからかは、その人の持って生まれた能力次第だろう。

 で、大事なのは、何も人生、学校の成績だけで全てが決まるわけでないということと、「限界まで到達するまでやり切った」利点は、たぶん客観性を得ることが出来るだろうということと、無駄な仕事をしても(させられても)あまりめげずに「じゃあ、次!」と行ける能力を得られることである、たぶん。(笑)

 で、無駄なんて、本当のところ、何もないのである。「無駄」は「目的」と対になる考え方である。目的を大きくすれば、無駄なんて何も生じないのである。また、逆説的にいえば、人生なんてそもそもが「無駄の連続」みたいなものである。それどころか、「無駄」こそがより大きな「生産性」に繋がるのではあるまいか。だから、「無駄なことにめげない」って、意外にかなり重要だろうと思うのだ。

 ただ、困ることはある。
 近頃の「結果に繋がる云々」という流行り言葉と合わないからだ。世界観が違うなと思う。そっちの方が間違ってるんじゃないかとも思う。これは「人と話が合わない」という意味で対世間デメリットになるから、周りになじめないことがある。


121 コメント

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Unknown (heisan)
2007-05-13 16:44:11
いつも楽しく拝読しています.

私の昔の先生はこう言ってられました.

 一所懸命やらなくてできない場合,成績をつけるのは簡単.
 一所懸命やってできた場合も簡単
 一所懸命やってるのにできない,これが難しい(どう成績をつけたらいいか)

と,つねづね言われていました.

「やれば伸びる」「やらないと伸びない」というのは,教育業界を貫く原則であります.
まただからこそ,これに矛盾する症例(例:一所懸命やってるのにできない)にぶつかるたびに,教育に携わる者は深く悩むのであります(笑).


> もともと親から貰った能力がその程度なのだから仕方ないのである
内田先生は,基本的に非常に合理的な考え方をする先生だと思っていますが,例外があります.
それは,「なんで勉強しなくちゃいけないのか」「なんで仕事をしなくちゃいけないのか」「なんで言葉を使って,我々はこのような日常生活を送っているのか」というようなことに関しては,合理的に考えても私たちはあまり幸せにはなれなくて,「それは,我々の先人たちがそうやってきたからだよ」という非合理性におとなしく服従するほうが結果的に幸せになれる,ということをおっしゃってられると思うんですね(あくまで私の理解).

私は,この種の非合理性がどこから発露するのか,ということに興味があって,それの一つは「親の持つ性質の多くを子は受け継ぐ」という原則をほとんどの人が信じていることに由来するのではないかと思うんですね.
王家とか皇室とかいうところは,世襲が原則ですが,これの正当性を担保する論理は,(1)現状の王家制度を維持したい,(2)現在の王の性質を最もよく引き継ぐのはその子である,という2点に集約されると思います.
(話は逸れますが)このとき,その子の性質は「王の持つ王家制度を維持するための性質を良い方向へ改善することがない」と判断されれば,初代の王が一番輝いていて,その後は多かれ少なかれ滅びるばかりだ,的な末法思想的な論法になっていくのかなと思います(適当).


> 「限界まで到達するまでやり切った」利点
「おじさん的あきらめ」という心的境地に至れるという利点w


>「無駄」は「目的」と対になる考え方
特定の目的のために無駄をじゃんじゃん減らすっていう考えは,基本的にはいいと思うのですが,その特定の目的が達成されたあとのことを考えていないと,無駄は本当に無駄になり,燃え尽き症候群的になってしまうと思うのですね.
目的の先にはさらにまた目的があり,という,連鎖的に目的が存在する構造を仮定する限り(これはわれわれの人生の一種のモデル化ですが),「かつての目的における"無駄"は,いまの目的における"無駄でない"」という命題を真実化する可能性が,つねに開かれているわけです.
逆に言えば,「無駄はしょせん無駄でしかない」と考えてしまう人間は,知らないうちに,「連鎖的に目的が存在する構造」は存在しない(誤解を恐れずに言えば,一つとかごく少数の目的しか見えていない.)と仮定していることになりますね.
目先の利益 (ほり(管理人))
2007-05-13 22:49:54
heisanさん、いつもコメントをありがとうございます。

>一所懸命やってるのにできない,これが難しい(どう成績をつけたらいいか)

それから、「なにもしないのにできる」のも、ちょっと付けにくいものでしょうか。(笑)ま、できるんだから良い成績を付ければ良いんだけど、その子の性格が悪かったりすると、他の子が自分は出来もしないのに真似だけしてイヤになるときがありますよ。

いわゆる「平常点」を付け始めた理由に、heisanさんがおっしゃる「一所懸命やってるのにできない,これが難しい」これがあるのでしょうね。

で、実際、その一所懸命を認めるようになった。ノート点や挙手点、というヤツです。

でもね、目先のことなんですよ、こんなの全部。heisanさんの先生は、非常に温かい方だったのでしょう。だから、目の前にいる生徒を見やると蔑ろに出来ないということになる。少しの努力も認めてやりたくなる。多くの先生は普通みんなそうだと思います。

でも、学校の目的は、そんな目先の成績じゃないんですよ。「定期テストで良い点を取ること」「通知簿が上がること」でもないんです。模試で良い点を取ることでもなく、より良い大学にはいることでもない。
うん。そう。
学校教育の「目的」は、あくまでも人格の陶冶にあるわけで、学習を通してそれをすればいい。努力を認めることが「人格の陶冶に繋がる」ってワケじゃないと思うけどなぁ。。

それから、もう一つ思うのは、勉強に感動がなくなってきたことでしょう。だから、成績など、目先の結果だけにしか「目的」を見いだせない。勉強や授業が面白かったら、まあ、「過程」が面白かったら、成績なんて結果は比較的どうでもよくなる。たとえ上がらなくても、それはそれで仕方がないと自分で納得できるものでしょう。

こう言ったことも、何でもかんでも便利になった生活と人生に「感動」が薄くなっている現れでしょうね。「結果」にしか見いだせるモノがないなんて、寂しいですよね。

>> 「限界まで到達するまでやり切った」利点
>「おじさん的あきらめ」という心的境地に至れるという利点w

そうか。私は高校生にして既におばさんでもなく「おじさん」だったのか。(笑)

Unknown (heisan)
2007-05-13 23:35:44
「人格の陶冶」って言うと,人によって思い浮かべるイメージにズレが出てきてしまいますね.
なんて言ったらいいでしょう.
一つの言い方は,以前も言いましたように,「(我々の生活を少なくとも今のところ幸せにしてくれている)文化の継承である」ということなのですが,これはあまりにも客観的すぎる見方なので,主観的にはどう言ったらいいかを考えてみましょう.

こういうのはどうでしょうか.
将来に見るであろう(自分は未だ知らない)目的のために,無駄(今は意味の分からないこと)をするのだと.
もし,「意味の分からないことをすることをことごとく拒否する」非常に合理的な生徒が出てきた場合は,こう言ってやると良いでしょう.
「あなたは,自分の人生の目的を全て精確に知っているのですか? おそらく,知らないでしょう.であれば,あなたは,『現在意味が分からないことをことごとく拒否する』ことはできないはずです」
# おおっ,これで「学校教育の目的」が担保できた(嬉


> 勉強に感動がなくなってきた
> 人生に「感動」が薄くなっている現れ

感動が薄くなるっていうのは,どうなんでしょう?
昔はそんなに感動してたんでしょうか?
便利になると感動しなくなる?
なんか違う気がします.

・・・.
感動している人がそばにいない?(笑)
大人が,日々感動して生きていれば,勉強とかの内容に「おおおおっ!」ていうぐらい感動していれば,子どもも自然にそれを真似て,感動してくれるようになるのでは?(笑)

小さな子ども(児童・幼児)を前にすると,自然とほほえんでしまいますが(例:赤ん坊を前にすると,イナイイナイバァをやりたくなる心境),これは,「子どもがまず知るべき事は,この世は感動に値する(笑うに値する)ということを知ることだ」という前提を,どんな大人も共有して持っているからではないでしょうか.
確かに,大人になると,その状況性から,幼児や児童であった頃ほどは感動しにくくなっていきますが,それでもやはり「『感動』というものを失うと全てが崩れてしまう」という認識は大人はどこかでもっていて,だからこそ,子どもにはまずそのことを教えてあげようとするのだと思います.
発見という感動 (ほり(管理人))
2007-05-14 23:11:39
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>将来に見るであろう(自分は未だ知らない)目的のために,無駄(今は意味の分からないこと)をするのだと.

良い考えですね。
私は、勉強をする理由を、「これから出会う見知らぬ人のためにするんだよ」と言うことにしています。「将来、どんな人に会うか分からないのだから、今、勉強ができるうちにしっかりしておきなさい」って。大抵の子は、「自分のために勉強をする」と言うので、そうでもないよ、と。それで、「そういう考え方の人が多い社会の方が暮らしやすいでしょ」って。

># おおっ,これで「学校教育の目的」が担保できた(嬉

賛同!

>便利になると感動しなくなる?

私は、そう思っています。
で、私の言う「感動」ってのは、「当たり前に思わないこと」とか、「カラダを使ってハアハア、ゼイゼイ身を以て感じること」、「何らかの発見があること」などなど「心が動くこと」で、日常生活上のことです。「笑う喜び」だけではなくて。当然泣くことだってある。

便利で気楽な暮らしは、感情の動きが凡庸になるというか、起伏が減るというか、動きの幅が小さくなるように思うのです。
都会の生活は、五感全てで感じる刺激の種類も少ないし、大抵のことに予測が付きます。その分、心は動かなくなる。
天気予報が良く当たるようになって、「あ、雨だ。傘持ってないなぁ。しまった。」とかも減りました。そんな感じ。
便利で良いんだけれど、もちろん、だから不便さが欲しい、不便な昔の方が良かったとは言いませんが。
で、人間は、そういう便利さ、変化のなさを求めて文明を発展させてきたのだけど。まあ、矛盾。

「ハレ」と「ケ」の違いがさほどなくなりました。毎日が「お祭り」のような日常では、感動も少ないんじゃないかなと思うんですよ。
ケーキも日常、おしゃれも日常、毎日がご馳走の生活が「当たり前」で特別嬉しいことでもなんでもなくなってしまっている。「ない」という不足だけは増えているかもしれない。でも、それが喜びを生む原動力になっているとは思えない。だから、生活が平板になって、喜びも小さくなっているんじゃないのかなって。

「ハレ」は、「今日は特別」だってことだと思います。が、豊かになって、「特別」がなくなっているから、その分、感動も減ったのではないかとか。

密度の濃い人生は、なんだかんだ、その人がどれだけ心を動かしたかではないのかなと思うんです。人からの見た目が劇的でなくて構わないのです。そんなのは、全く次元の異なることで、その人が何を感じ、何を発見したかが大事ではないかというか。(で、私は「唯脳論」に惹かれたのです。)

学校の授業は、「これを覚えれば試験が出来る」に近いものになってます。これは既成の価値観を鵜呑みにすることです。「これとこれがこんな風に繋がるんだ」という世界観の変化が乏しい教え方になっている、或いは、疑問を持たせない教え方というか。「わかりやすく」も同じでしょう。「わからない」から「わかる感動」があるのに、「分からないのはいけない」という価値観まで生じている。その分、「発見の感動」「なるほど!と思える感動」が減る。だから、「何のために勉強するの?」と問う子が増えたと。(そういう内容を含めて書きかけの長文記事、1万字を越えたのがUP出来ずにあるんだけど。でも、まだ書きかけだし。笑)

私の言う「感動」は、「発見の喜び」「知らないことを知る喜び」「世界観が広がる喜び」って感じなのかな。で、これには時に「知ることの苦しさ」も含まれると思っています。

Unknown (heisan)
2007-05-15 01:41:58
> 便利で気楽な暮らしは、感情の動きが凡庸になるというか、起伏が減るというか、動きの幅が小さくなるように思うのです。
その気持ちは分かりますよ.
天気予報のおかげで,私たちは,明日の天気の情報を以前より高い精度で知ることができるようになりましたが,同時に,「明日の天気を予想するための職人芸的な勘」を培う需要は激減し,そういうことができる人はほとんどいなくなってしまいました.
こういった構造は,私たちの社会の中にはどこにでも見いだすことができますね.
「かつて重宝された職人の技が,科学技術的なものの発達により,急激に無価値化する」という構造.
そして,そのようにして「経済的には無価値化したかつての技」は,伝統の技としてのみ(非経済的な価値においてのみ),ほそぼそと生き残り続ける,か,或いは滅ぶ,わけですね.

この構造を否定したかったら文化を変えないといけない.
「便利さを敢えて抑制する社会」というのは,かつて(江戸時代くらい)の日本社会にはたしかに存在していた文化の一つでしょう(例:籠なんて乗り物は,エネルギー効率という観点からすれば非常に非効率ですが,それでも,その非効率性に江戸時代の人は意義を見いだしていた,それを効率的にすることによって失われるものがあることに気づいていた,というような話を聞いたことがあります(うろ覚えですが).).
でもそういう文化は,西欧文化の取り入れにより端へ追いやられることとなった.

どっちがいいかは一長一短です.
古来の日本文化的考え方をしていると,技術や文明は発達しない.
# 江戸時代に備中鍬が発明されましたが,あれだって,「そんなものを使っていたんでは人間がナマる!」と言い出す偉い人が居て,使用禁止されていたりしたらどうなっていたでしょう.

おそらく,技術・文明の発達にあっては,人間全体を幸せにするための均衡点なるものが存在すると思うのですね(私の仮説).
なんでもかんでも,技術・文明が発達すればいいというわけではない.
しかし,だからといって,そういったものを全く否定してしまうのもまた,人間の初段階の営みをもろとも否定してしまうようで,気が引ける(「火の使用」など道具の使用は,人間の最も初期における技術・文明であろう).


> 「ハレ」と「ケ」の違いがさほどなくなりました。
典型例は,昼夜の区別を無くした24時間営業の店の出現ですかね.


> 密度の濃い人生は、なんだかんだ、その人がどれだけ心を動かしたかではないのかなと思うんです。
ごもっともです.
私が前回,「赤ん坊がまず知るべきことは,『自分は感動する事ができるんだ』ということを体感する事だ」といいましたが,まさにこれがほりさんの言われることに相当すると思います.


> 学校の授業は、「これを覚えれば試験が出来る」に近いものになってます。これは既成の価値観を鵜呑みにすることです。
私は色々なところで「意味とか言葉とかを習得する初段階には,意味の分からない文章を素読する(又は素読に相当することをする)過程が必ず存在し,それが決定的に重要である」ということを言っていますが,これは換言すれば,「学校とは,子どもを『既成の価値観にただひたすら素読的に親しませる』ための場所である」とも言えるわけですよね.
「鵜呑み」というと言葉が悪すぎますが,基本的には,鵜呑みをせざるを得ないところもあるかなぁと思います.
「鵜呑みをしているうちに,段々とその意味がわかってくる」と言えばよろしいでしょうか.

いや,ほりさんの言われる事も分かりますよ(笑).
匙加減が難しいんですよねぇ~.


> 「わからない」から「わかる感動」があるのに、「分からないのはいけない」という価値観まで生じている。
内田先生が,「読むほどに味わいが出る文章が,入試で採択されやすい文章である」旨を述べておられますが,私はこれは授業についても当てはまるのではないかと思うんですね.
良い授業とは,どんな習熟度レベルの人が聴いていても,一人一人がそれなりに収穫を得るような授業(口で言うのはたやすいが実際は難しい…).


> だから、「何のために勉強するの?」と問う子が増えたと。
私は,「何のために勉強するの?」と言う子が増えたという言説を信用していません(笑).
これは,「学校教師に責任がある」という説を正当化するために,ある種の大人が勝手に考えた話に過ぎない,と思っています(だから学校教師がこの言説に振り回されすぎるのは,学校教師に責任を転嫁したがっている人たちの思うつぼですので,それは社会全体という視点からみてもあまりよろしいこととは思われませんので,振り回されすぎないようにしてもらいたいものです^^).


> 私は「唯脳論」に惹かれたのです。
唯脳論は,私は「間違っている」とは言いませんが,(少なくとも私は)大して感動しませんでした.
また,知り合いの哲学屋曰く「唯脳論は哲学的に問題がある」そうです.
なんで感動しないのかは,ほとんど感性の問題なので分かりませんが,「惹かれちゃう人」と「惹かれない人」がほどよい割合で混ざっていて,その割合を安定に維持できる社会が,理想的な社会の類型だと思っていますので,「自分がそれに感動しないこと」も「それに感動しちゃう人が大勢いること」も,それほど問題視はしていません.
# 余談ですが,私は,内田先生ほどの「怖るべき説得力」を繰り出される方がなぜ養老論の前にはあえなく屈されてしまうのかが全く理解できない…(今後の私のテーマかも)
内田先生と養老先生 (ほり(管理人))
2007-05-15 21:06:21
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>「かつて重宝された職人の技が,科学技術的なものの発達により,急激に無価値化する」という構造.

「システム」が大きなモノになればなるほど、こうなる。「職人」は、「個」として存在する「感覚」世界の住人ですが、「感覚」の鈍い人も生きていけるのが完成された「システム」。文明はそれを目指していたわけ、ということですね。だから人類はここまで繁栄した。

>おそらく,技術・文明の発達にあっては,人間全体を幸せにするための均衡点なるものが存在すると思うのですね(私の仮説).

養老先生は、江戸時代に鎖国をしたのはだからだ、といってます。というか、日本は、そーゆー状況にさしかかると、遣唐使を廃止したりなど、情報の流入を管理して「幸せ」を守ったって。

>「鵜呑み」というと言葉が悪すぎますが,基本的には,鵜呑みをせざるを得ないところもあるかなぁと思います.

その通りなのですが、「世界観を広げるための鵜呑み」じゃないところに問題があると思うのです。「矮小化された目的のための鵜呑み」、試験のために最低限の勉強をする、などのような感じの鵜呑みであるのは問題。より高度なモノを目指した鵜呑みなら、良いんだけれど。
うまく伝わらないかもしれませんが、前に書いた「ごまかし勉強」の本にあるように、参考書の質が変わったのが、その典型的な現れでしょう。「より詳しく、より深い説明のための参考書」が、「暗記のための参考書」に変わった。勉強の仕方が、「より多くのことを学ぶことで基本を獲得する」のではなく、「基本だけを基本として習得する」勉強法に変わったのです。私はそれを「鵜呑み」と表現しました。(ある意味、ゆとり教育で基本を重視しようとしたことの弊害ですね。)

>(だから学校教師がこの言説に振り回されすぎるのは,学校教師に責任を転嫁したがっている人たちの思うつぼですので,それは社会全体という視点からみてもあまりよろしいこととは思われませんので,振り回されすぎないようにしてもらいたいものです^^).

どうも。(笑)
そういえば、昔は、「より良い暮らしを獲得するための学歴」など、目的がはっきりしていただけですね。

># 余談ですが,私は,内田先生ほどの「怖るべき説得力」を繰り出される方がなぜ養老論の前にはあえなく屈されてしまうのかが全く理解できない…(今後の私のテーマかも)

私の推論ですが、内田先生は、非常に論理的なだけでなく、かなり「感覚」を重視できる人で、しかもそれを文章を通して表現することも出来る方です。で、普通の感覚の人は、これを素直に享受するのです。で、惹かれる。内田先生の「人柄」などとして、「論理」を「当たりが柔らかい」というか、「さわり心地が良い」みたいな感じで受け取る。論理というか抽象も重要な彼の特性ですから、内田先生は、本当によくバランスが取れていると思います。で、かつ、極めて人間くさい人だと思います。

一方、養老先生は、その点かなりクールに見えますね。で、抽象思考傾向がものすごく強い。しかも、たぶん、突き抜けていますよ。これは「ふつー」じゃない。で、その点で、一般人の感覚と相当に外れた側面を持っているのです。だから、一般的な(というか、正常な)感覚の持ち主の方の中には、養老先生を嫌う方が大勢見える。(養老先生に対する反感には、「人間としてどうかと思う」みたいな感想がよくあるはずです。)で、養老先生の「感覚世界」は、解剖とか虫に向いている。一方、内田先生は、「感覚世界」を「人間」に開いているのですよ。だから、目を向けられた人間(つまり、読者)は内田先生には、好感、親近感を感じることができるのです。その点、養老先生は、そういう読者に温かく(?)目を向けないから、論理的思考の持ち主で内田先生を好きな方でも養老嫌いは存在する。

で、内田先生の抽象思考力も、これまた並はずれているのですよ。
でも、まあ、私は、抽象思考方向性の観点では、養老先生の方がダントツ上で、内田先生を遙かに突き抜けていると思いますよ。
養老先生の抽象化能力は絶対に「ふつー」じゃないよ。もう、「ふつーじゃない」としか言えないほどふつーじゃない。全然関係なさそうなことをくっつける能力が凄い。(だから、疎まれる。)でも、私は、そういう発想、何となくわかるんです。で、なるほどと感心するのですよ。で、たぶん、内田先生、もちろん、私以上に養老先生の発想に教えられているのだと思いますよ。

ただ、養老先生は、それを身も蓋もない言い方で表現したりするし、どこそこ構わず言いたい放題の言葉遣いで言うから、理解されないことも多く、嫌われる。(たぶん、内田先生は、公(読者の目に触れる)の場では、そんなに言いたい放題してないと思う。)
でも、内田先生は、まあ、上記に書いたような風で養老先生の抽象思考力を高く評価するから養老先生に屈するのではないでしょうか。

それと、内田先生の方が「読者にフレンドリー」ってことだと思います。特に文体が、「来る者拒まず、とにかく、歓迎する」って感じが強い。
養老先生の文体は、その点、ちょっと違う。「分かってくれる人に分かってもらえればいい。来ても特に歓迎しない」みたいに読める部分がある。
ただ、これ、あくまでも、「文体」の違いです。

養老先生にサインを貰ったとき、とても気さくで、ちゃんとそこそこ相手してくれたのには驚きましたよ。まあ、一流のというか、人気者的な人は、皆そういうところがあると思います。養老先生は、売れて、そう言う良い方向が強くなったという感じもあるかな、という気もしますが。(10年ほど前?昔の「脳と心」だっけ?NHKスペシャルで、樹林さんとの会話、そっけなかったりしたからなぁ。。)

↑私の推論です。いかがでしょうか?
Unknown (heisan)
2007-05-16 00:18:09
> 江戸時代に鎖国をしたのはだからだ
以前,一種平和な国(一定の秩序を恒常的に維持することがシステム上保証されているような国)の多くは,近隣の凶暴な国にすぐ滅ぼされて終わる,だからそういう国は長続きしない,というような話をしましたが,その意味で言えば,江戸時代の日本というのは,島国であるがゆえに,「近隣」に当たるものを封鎖する仕組みを整えるのに容易だった,だから当時の日本は鎖国という体制を取ることで,取り敢えず何百年かは乗り切れた,ということかもしれませんね.


> 「世界観を広げるための鵜呑み」じゃないところに問題がある
> 試験のために最低限の勉強をする
> 暗記のための参考書
要するに「一夜漬け」のための勉強ですね.
一夜漬けで本当に理解してしまうひとも,ごくごく稀にいますが,たいていは,単に試験の構造的欠陥をうまく突く形で乗り切っているだけです(スタートからゴールまで行く過程において,本来踏まなければならない地雷を踏むことなく,そういう地雷をサササといかにかわすかということに精を出すひとたち).
本気で勉強というものをしようと思えば,「時間をかけることを厭わない」精神が絶対に必要です.その精神のあるなしが,「いい鵜呑み」と「悪い鵜呑み」を分ける基準となるかと思います.


> 極めて人間くさい人
私は彼のこの「人間くささ」については,彼の文章が多かれ少なかれ「漢文的音韻」にのっとっていることによるではないかと考えています.
白川老師を仰ぎ見てられることからも分かりますが,現在,「漢文の素養があることがありありと分かる文章」を書く人は本当に少なくなってしまいました.
内田先生の文章は,「100%バリバリ漢文的」とまではいきませんが,「20%くらいの頻度でときどき漢文っぽい音調が見え隠れする」文章なのですね.
100%ではないんですけども.でも20%でもあっても,現在という時代にあっては大変な絶滅危惧種だと私は思っています(笑).
Unknown (heisan)
2007-05-16 00:18:48
> 養老先生に対する反感には、「人間としてどうかと思う」みたいな感想がよくある
アンチ養老論でマトモなものは少ない気がします(笑)
その理由は私は,養老先生の言説は「間違ってはいない」からだと思います.
ちなみに私は,養老先生のことを「人間としてどうかと思う」などとは全然思いません.
「町中にいる多種多様なおじさんのうちのの一人」だと認識しています.


> 養老先生は、その点かなりクールに見えますね
サイエンスの世界で使われる文体というのは,多かれ少なかれクールです.
それは,サイエンスの世界における文章の流通許可基準のなかには,いかなる種類の「人間くささ的指標」も存在しないからです.
私は,「サイエンスを生業とする人」で,かつ,「養老ファン」な人というのが,いったい何人存在するのか,ということに興味があります.
そして,これに対する私の予想は,ほとんど皆無ではないか,ということです.

何がいいたいかというと,養老先生というのは「サイエンスの世界における独特のものの見方を,サイエンスのことをよく知らない人たちに分かりやすく教える能力に長けた人」ではないかと思うのです.
たぶん,それ以上でもそれ以下でもない.
分かりにくいことを分かりやすく説明する方法は,無限にあると思われます.
いわゆる「養老節」と呼ばれるたぐいのものは,その方法のうちの一つではないか.
その意味では,養老先生とは,カリスマ予備校講師の一類型だとも言えるわけです(ただ,予備校講師は,教える内容が大学入試の出題範囲に限定されていますが,養老先生の場合は,この範囲を「サイエンスが扱うもの全体」,ともすればそれを越えて,「人間が扱うもの全体」と捉えられますので,その点では予備校講師と異なりますが).

内田先生は,理系(サイエンス)の人がする話の多くはわくわくする,という旨のことを語っておられますが,内田先生が養老先生の話を凄いと思っておられるのも,おそらく,このあたりに(それがなぜなのかの)答えが宿っているような気がしています.

個人的には,ここ十年で「物書き」と呼ばれる人たちのなかに,理系の人が随分と増えてきたなぁというのが私の印象ですが,この背景には,次のようなことがあると考えています;
国からの研究資金の配分がより競争的になったため,理系の研究者は,「いかに自分の研究がすぐれたものであるか」を以前以上にアピールする必要に迫られることになった.このため,「それができなかった研究者」は淘汰され,「それができた研究者」が生き残った.
次に,「それができた研究者」らのうち,一部の人は,その「より分かりやすく説明するための方法」が,サイエンスを専門としない人たちに対する啓蒙の方法として,そのまま役立てることができることに気づいた.
だから理系の物書きが増えた,と.

で,もとに戻りますが,養老先生は,この文脈において,「理系の物書き」という職種(?)を切り開かれた人だと言うことができるでしょう(多分w)(養老先生の前にも理系の物書きはいたが,メジャーではなかったと思う).


> 論理的思考の持ち主で内田先生を好きな方でも養老嫌いは存在する
私自身は,このほりさんの分析の文脈における「内田好きではあるが養老好きでない」人には該当しないと思っています.
理由は,私が養老先生の言説に感動しない(「特に感動する」ということがない)理由が,ほりさんが言われているものと違うからです.
あくまでこれは私の感性上の判断ですが,養老先生の文章は,「その他大勢の物書きたち」の文章と同程度にしか,その感動の度合においてヒットしません.
「そんなん当たり前やん.当たり前のことを言い換えただけやん.なんにも嬉しくない.」というのが,正直な感想なのです.

「すでに誰かが言ってることを,言い換えてみた」

その,たまたま「言い換えてみた」ことが,な・ぜ・か,非常に多くの読者をゲットするに至った.そうことだと思っています(笑)
(と,当たり障りのなさそうなところに落としてみるw)
Unknown (トオリスガリ)
2007-05-16 10:39:49
内田樹先生のブログから来ました。heisan様のコメントは、大変勉強になります。有難うございます。
Unknown (heisan)
2007-05-16 17:37:22
お褒めの言葉を頂けて光栄です.
これからもよろしくお願い致します(_)
(ってここは私のblogではありませんがw)

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