考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

「伸び悩み」という幸不幸と人生の無駄

2007年05月13日 | 教育
 以前一度書いたことがあるかな。
 「真面目な子が一生懸命に頑張ったのになかなか伸びないとかわいそうね」「やるからには伸びてこないとね」と言う会話が先日聞こえた。一般的には教員の常識といえるだろう。

 冷たいようだが、私は可愛そうだと思わない。頑張ったのだから、それで良いじゃないか。それ以上に何を望むというのか。やっても出来ないのだから仕方がない。精一杯やれたのは、能力の限界まで頑張れたということだから可哀想などころか、本当は目出度い話ではないか。

 かく言う自分も「一生懸命に頑張ったのに伸びなかった」一人である。(笑)友人からは、「けっこうやってるのに、伸びないね」と言われた。友人は、何も勉強をしなくてもかなりの成績を取っていた。(世の中にはホント、頭のいい人がいるものだと感心する。)
 でも、仕方がないのである。それが自分の限界なのだから。

 まあ、もうちょっとやれば出来ていたかもしれないなと思わないでなかったが、そこまでやる気力がなかったからしなかった。試験前には、これくらいの席次(或いは偏差値)を取るためにはこれをこのようにすると取れると予想が出来た。で、ほとんど外れたことがなく、毎回ほぼ同じ成績キープした。ただ、数学が上がれば国語が下がり、国語が上がれば数学が下がる、など、全部が揃うことがなかったから、その辺りが私の限界だと自分で思った。どうしても、「ミス」をしてしまうのである。
 でも、私はそこまでは頑張った。(笑)まあ、結局、あれこれあって仮面浪人したが、その時にはやるだけのことをやった。自分で生活のリズムを作り、気晴らしもし、受験直後は、ダメでも仕方がない、と思えたほどすっきりした。

 限界に挑んだのである。で、限界に到達した。浪人しても、苦手の社会科の偏差値は全然上がらなかった。あんなに毎日勉強をしたのに。(笑)でも、もし、やらなかったら、忘却曲線にしたがって下がっていたはずだ。やったからこそ現状維持は出来たのだ。

 もともと親から貰った能力がその程度なのだから仕方ないのである。それが自分なのだ。

 「やればやるだけ伸びる」というのは、一見良いことに思われるが、「やり切れるところまでやってない」証拠でもある。
 誰の能力にも限界がある。いつかは天井にぶつかる。勉強に関して言えば、それが高校入試か大学受験か、或いは学者さんになってからかは、その人の持って生まれた能力次第だろう。

 で、大事なのは、何も人生、学校の成績だけで全てが決まるわけでないということと、「限界まで到達するまでやり切った」利点は、たぶん客観性を得ることが出来るだろうということと、無駄な仕事をしても(させられても)あまりめげずに「じゃあ、次!」と行ける能力を得られることである、たぶん。(笑)

 で、無駄なんて、本当のところ、何もないのである。「無駄」は「目的」と対になる考え方である。目的を大きくすれば、無駄なんて何も生じないのである。また、逆説的にいえば、人生なんてそもそもが「無駄の連続」みたいなものである。それどころか、「無駄」こそがより大きな「生産性」に繋がるのではあるまいか。だから、「無駄なことにめげない」って、意外にかなり重要だろうと思うのだ。

 ただ、困ることはある。
 近頃の「結果に繋がる云々」という流行り言葉と合わないからだ。世界観が違うなと思う。そっちの方が間違ってるんじゃないかとも思う。これは「人と話が合わない」という意味で対世間デメリットになるから、周りになじめないことがある。


121 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
これってコメントの数がすごい (ほり(管理人))
2008-06-08 21:50:09
heisanさん、過去記事にもコメントをありがとうございます。

「いいとこ取り」するのがフリーライダーだから、そうかもしれませんね。

このコメント、120にもなったんだ。
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過去の記事を読んでいてふと思った。 (heisan)
2008-06-08 00:58:37

「責任の所在」と「なんとかしようよ」の話。

なんとかする前に「責任の所在」を言う人は、フリーライダーになりたい人ではないか。

(自分の責任ではない、ということが言えれば、自分はなんにもしなくてよくなるから。その責任をかぶった奴の後ろに寄生的に乗っていればいいわけだから。)
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そう、そう (ほり(管理人))
2007-08-13 22:12:56
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>「下克上か!」と叫ぶことはまったく正当
>それに対する生徒たちの「冷ややかな眼差し」という応答の正当性
>この不思議のからくり
>「重要度の非共有」

そもそも学校は、生徒にとって、「自分がそれまで知らなかった価値観を知る、できれば体得するところ」です。だから、先生と生徒の間には「上下関係」が存在するのです。でなければ、生徒は、学ぶ必要がなくなりますから。
よって、先生が「下克上か!」と叫ぶことは正当化されます。
それに対する「冷ややかな眼差し」が持つ意味とは、「そんなこと知るか。関係ない。オレは、オレの価値観でやっていく。」という生徒の「私は新たな価値観を学ぶつもりはない」という表明であると考えます。(よくあることですよ。)
「冷ややか眼差し」以外としては、「せっかく親しみを込めて呼んでやってるのに、アンタはオレの好意、オレの気持ちを汲むつもりがないのか。人間じゃないね。そっちがその気なら、二度と親しみを感じる気はないよ。」という逆転した(というか、対等の関係の)発想で、しかも、全てを「人間関係」で応える生徒もいます。
「重要度の非共有」とは、学校がそもそも「学ぶ場所であるかどうか」の認識の差だと思います。
私は、ベクトルで言うと、新しい軸、次元を学ぶところが学校だと思っていますが、まあ、イマドキの学校は、先生も生徒もそのように考えない人が増えているというように思います。

>えっと,(それに答えるにはですね,)

これについては、後で私がしたコメントで述べ、またheisanさんが答えてくださった
>近いと思います.「自分たちの学校」という考えがあるかどうかがキーです.
なので、契約型と家族型の違いがはっきりして嬉しいです♪

日本人の良さの一つに、この「家族型」ってのがあるのでしょうね。でも、それが、「排他性」を生む原因にもなるだろうしね。

>それは,「その場所における行動の自由」が与えられているかどうか,で決まるでしょう.

これって、「自由と責任」に繋がるようですね。
「使う自由」を得るなら、「掃除をする責任」を負うみたいに。
返信する
Unknown (heisan)
2007-08-11 11:55:41
大変遅くなりました.すみません.


> >私はこれは,少数か多数かではなくて,「愛称で呼ぶことが冗談の一種である」ということの信憑が,少数であればあるほど崩れがちになりがちである,ということではないかと思っています.
> 「少数だと崩れがちになる」がわからない。

「多数だと崩れがちになる」の間違いですね.すみません^^.



> 「ウッチー」でも、たとえ愛のこもった「ほりちゃん」でも、「面と向かって」はいけないんです。(陰ではなんと呼んでもよろしい。「バカほり」も可。)

う~ん,言われてみるとそんな気もしてきました(笑)
「面と向かって」言った途端,かかる信憑が崩れ,上下の秩序がたちどころに崩壊する,という仕組みが,どうやら人間社会にはあるようですね.

なぜってそれは「下克上の宣言」ですから.
でもだからといって,愛称で呼ばれた先生が生徒に向かって「お主ら下克上か!」と叫んだところで「何言ってんのこのオッサン/オバサン」となること請け合いです.
これは,僕は不思議なことだと思います.
「下克上か!」と叫ぶことはまったく正当であるにもかかわらず,一方で私たちは,それに対する生徒たちの「冷ややかな眼差し」という応答の正当性もまたなんとなく納得できてしまうからです.
この不思議のからくり,おわかりになりますでしょうか.

私はこのからくりは,「重要度の非共有」にあるのではないかと思います(←いま思いつきました(笑))
先生を愛称で呼ぶことに対して,先生のほうは「とんでもないこと(重要なこと)」という認識があるが,生徒のほうが「どーでもいいこと(重要でないこと)」という認識がある.
だいたい私たちは,或る事柄に対して「それがどーした(≒冷ややかな眼差し)」と叫ぶとき,往々にして,その或る事柄のことなんか「どーでもよい(私にとっては重要でない)」と思っていることがほとんどですから.

どうすれば「重要度の共有」ができるのか.これはなかなかに難しい課題ですねぇ~.う~ん…



> > いや,みんなができるのは,先生が(一番)何度も強調したした内容です.
>
> これ、私に言わせると、「人間関係」の問題なんです。「学習事項の何が重要か」という絶対的尺度(私のコトバだと理科的な考え方)ではなく、「重要」=「先生が何を言ったか」と、勉強の絶対性を「人間関係」に還元する考え方です。テクストそのものに対峙するのではなく、「先生」にひれ伏す。

生後まず人間は「親」にひれ伏すことから人生が始まります.親が居ないと生きていけないからです.親にひれ伏し,家族にひれ伏し,親戚にひれ伏し,ご近所さんにひれ伏す.この延長線上に,(地域社会的にはご近所さんの一種である)先生にひれ伏す,ということが起こります.
反抗期というのは,「このひれ伏しへの疑義申し立て」に他なりません.いままで周りの人たちの言うことはなんでも正しいと思って生きてきたが,どうやらちょっと違うんじゃないか.そう思い始めることは,「他者の尺度ではなく自分の尺度で物事を考えることができるようになってくる」時期の開始を意味します.ここでいう「自分の尺度」とは,ほりさんの言われる「絶対的尺度」に相当します.

「絶対的尺度で学習できる,先生の言う重要度に準拠しない尺度で学習できる」ということは,「その生徒は先生と重要度を共有していない」ということでありますから,ウッチーと呼ぶ生徒と,レベル的にはなんら変わらない,ということになると思いますが,いかがでしょう.


> 授業では、70年代は、社会は地理、倫理社会、世界史、日本史、政治経済と全部やってたはずです。理科も、生物、化学、物理、地学でした。(理科は、3つだったかも。)それがなぜ今できないのだろうと思います。

そもそも,それができない生徒は,高校を卒業するべきはない,というのが正論でしょう.
しかし,高校はそれを選ばなかった.「カリキュラムを変えないで,卒業者数を減らす」という策に出るのではなく,「カリキュラムを簡単にして,卒業者数を維持する」という策に出た.小中高大みーんなこれなんです.留年させないで追い出す.その結果起こるのは,学歴のインフレと「学習期間の間延び」(=かつては5年でできたことが今では10年かかる)です.



> その「市民リテラシー」の要求が、小学生への株式投資だったり、小学校での英語教育だったりするから困ったことなのです。

結局,市民リテラシーの名の下に,行われていることは「子どもたちを食い物にしている」だけだと.確かに.
なぜみんな「カリキュラムを簡単にして,卒業者数を維持する」という策に出るのか.簡単です.そうしないと経営破綻するからです.


> 子どもだからです、はい。(笑)

なるほど.



> >> heisanさんの「個」は「校則違反をしない、予習を真面目にやってくる真面目な生徒」なんだ。
> >上記の理由により,Noです^^.
>
> なぜ、上記が理由になるのかが分からないです。。

えっと,(それに答えるにはですね,)まず私はなぜほりさんが,「heisanさんの「個」は「校則違反をしない、予習を真面目にやってくる真面目な生徒」である」と考えられるのかが理解できておりませんので,それを解説いただけるとありがたいです.



> パソコンなどの道具は、要は、面白いから発達したんじゃないのかと思ったりします。

それはあるでしょうね.
「大人になる」ということは,「社会的に一定の役割を確保すること」であります.「なにか面白い機械をつくることによってしか,俺は社会的に認められないんだ」と考える人が居れば,その人は面白い機械をつくるでしょう,そして周囲の人たちを面白がらせてその価値を認めてもらうに至るでしょう.この連鎖で,世の中にさまざまな「面白いもの」が誕生してくるわけですね.



> heisanさんの「契約型社会」だけど、生徒でたとえると、例えば、掃除の時間に、先生の指示で動く、自分で考えてキレイにしようとしない、時間が終わればそれで終わったことにする、とか、そういう発想かな。決してさぼるワケじゃないんだけれど。一方、「キレイにしたい、だって、自分たちの学校だもん、きれいな方が良い」って、掃除をする子もいるから。こっちは家族型なのかなとも思いました。

近いと思います.「自分たちの学校」という考えがあるかどうかがキーです.この考えがないと,「なんで俺たちの場所じゃないところを掃除しなくちゃいけねーんだよ」となり,「俺たちが掃除する理由は,命令だから」となると思います.

私たちは,お客さんに自分の家を掃除させたりしませんね.それはなぜかというと,お客さんは通りすがりの人だからです.一時的に滞在しているに過ぎない人.
では,或る場所の利用者が,その場所を恒常的に利用しているか一時的に利用しているかの判断は,どうやって行えばよいでしょうか.
それは,「その場所における行動の自由」が与えられているかどうか,で決まるでしょう.お客さんは,人の家を冷蔵庫を勝手に開けたり,いろんな部屋に勝手に出入りしたりすることはできません.それができない人が「お客さん」であり,それができる人が「家の住人」なのですね.
例えば,校長室は,普通,生徒が自由に出入りできる場所ではない.自由に出入りできない.つまり,自分たちの場所ではない.だから,その場所を「自分たちの場所だから,自分たちで掃除しよう」という理屈によって掃除することはできない.
だいたいこんなところだろうと思います.
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いろいろ (ほり(管理人))
2007-07-27 00:05:34
執事さん、コメントをありがとうございます。

>思考実験。なら、いつの時代に生まれたら楽しいのか? 私は迷いなくこの時代と答えますし、できることならもっと先の時代に生まれたかったです。

同じことを考えたこと、あります。
江戸時代はイヤだな。百姓だろうから。女だし、せいぜいで寺子屋に行ければ御の字だったでしょう。私の性格だと、教育を受けさせてもらえた今の環境がありがたいです。同様な環境なら、先の時代の方がもっと面白かったことでしょう。

「学校の先生」としては(笑)、もう少し昔の、「先生」がまだ聖職として通っていた「古き良き時代」の方が幸せだったな。「昔ながらの先生」をしている私としては。
それとも、今後何かの「揺り戻し」が起こって、学校が、教育本来の「子どもを成長させる場」に変わるのだとしたら、先の時代でもいいかも。(笑)

>私が言ったのは、そういうのとは関係なく生きていく事「も」できる社会になりつつあるな、ということです。

ああ、そうですね。選択肢が増えるということですか。

>>戦場だったら、何とも思わずに人を殺せる方が適応力が高い
>指揮官にとっての兵士の適応と、兵士にとっての兵士の適応は違いますよね。楽すること、生き残ること、そんな適応の仕方もあります。

(少し、というか、舌足らずというか、全く表現を間違えたというべきか。苦笑)実は、PTSDがアタマに浮かんで書きました。アメリカ兵で、本土に戻ってからでも適応できない人が結構いるとか読んだのを思い出したのです。
極限状況では、その場その場に応じて、身の振り方を変えるいい加減さ(?)が「個」として生き残る戦略なのでしょう。(私は弱いからダメです。苦笑)

>インターネットはエロで進化しましたね。

地球の人口が60億を超えるのもきっと関係するでしょうね。(話を変えたか。笑)
「欲望」が世界をどんどん作り替える。(当たり前か。養老先生がおっしゃってます。)

>正しいけど、不毛なこと、ってありますよね。
>やっぱり皆愚かです。愚かじゃないと思ってる人も含めて。
それでも絶望しないのが、賢い人間、だと思っています。

私が学校へ行くのは、(賢いかどうかの次元は別として、)絶望してないからだと思います。
返信する
Unknown (執事)
2007-07-25 22:54:16
>私は,「世の中において新たな情報処理の手段が誕生することが悪だ」とは申し上げておりません.

最後の段落も踏まえて。
ええと……私は他人がどういう立場を取るかについては不干渉です。私に害がなければ。ゆえにウェブ上で他人の意見を変えようとは思いません。全ての意見は正しいものですしね。ただ、自分には相容れないものがあるだけで。
私はただ考えて、自分の意見を述べて、他人の考えを知って、考えて、ただそれだけです。
一貫した立場はあえて取りません。その方が楽だし、面白いからです。「言葉」に思い入れはあっても神聖視していないので、言葉を適当に使います。まあ、非難されるのはしょうがないでしょう。気にしません。期待しません。無視してもいいです。ただ面白い話を、です。
単にご自分の立場を明確にされたのか、それとも非難されたのか、勝手に判断するのはよくないな、と思ったので書いておきますね。


>「自由と不自由との狭間で苦しめられる」という位置取りから自由になることはできない,ということです.

そうですね。だからこそ人は自由になっていくのでしょう。
思考実験。なら、いつの時代に生まれたら楽しいのか? 私は迷いなくこの時代と答えますし、できることならもっと先の時代に生まれたかったです。
この時代で幸せに生きられない人は、いつの時代に生まれたって幸せに生きられない人、なのではないでしょうか。全部が全部そうとは言えないまでも、この時代に生まれたから幸せ、な人も沢山いますよ。


>学生運動の頃の学生は,社会のオトナが自分たちに突きつけてくる役割と自分が自覚している役割との間の「乖離」ゆえに種々の問題行動を起こしたと考えられるのに対し,最近の学生は,役割自覚性の「貧困」ゆえに種々の問題行動を起こしたと考えられるからです.

学生運動って迷惑ですよね(感想)。
最近の学生はある意味「大人」で「優しい」ですよ。
「知らない人と知ってる人では、知ってる人に殺される確率の方がずっと高い」っていう統計がありますけど、そういう感情のもつれが起こらない距離の取り方が上手いから、付き合ってて楽です。
社会の成熟の証、と同時に腐敗の始まりでもあるのですが。


>それから,文明の発達(という方向性)を食い止めることはできませんよ.

そうですね。全面的に賛成です。
私が言ったのは、そういうのとは関係なく生きていく事「も」できる社会になりつつあるな、ということです。
文明の発達をドーナツ状に捉えていらっしゃるのでしょうか。私は開拓された地と未開拓の地、という捉え方をしています。
最初に開拓した場所に住むこともできるよね、ってことです。未開拓の地に隣り合って生きなきゃいけない、なんてのは思い込み。というか、一周するだけでも大変だから全部把握するのは無理なんですよね。結局、隣り合っている地以外の場所はど真ん中に住んでいるのと変わりない。むしろ、他の場所にいくのは難しくなる。


>戦場だったら、何とも思わずに人を殺せる方が適応力が高い

指揮官にとっての兵士の適応と、兵士にとっての兵士の適応は違いますよね。楽すること、生き残ること、そんな適応の仕方もあります。
実際、指揮官に向いているのは賢くて怠惰な人間で、戦場で最も厄介なのは愚かで勤勉な人間だ、と言われています。賢くて勤勉な人は参謀、愚かで怠惰な人は普通の兵士、ですね。

内田氏が言ってたことですが、格差社会を叫ぶ人こそが拝金主義者、なのですよ。そんな感じで比喩を実生活に落とし込んでみて下さいな。


>私は国語が専門ではありませんが、物語でも小説でも可能ですよ。「自分の主観」で読まないことです。「書き手はこのように捉えている」を使われたコトバを辿って見つけ出すことです。で、やりにくいとしたら、テクストが悪い。

とてもよくわかります。これは友人に言っても皆理解してくれました(テクストが悪いこともある、の部分まで一緒だw)。
言葉一つ一つに「+」「-」みたいに意味があるのですよ。
答えが出ないのは、計算(読み取り方)に間違いがあるからです。
時々通用しないテクストがあって、それは悪いテクストだと認識しています。


インターネットはエロで進化しましたね。
煩悩です。徹底的に、完膚なきまでに愚かですw
まあ、愚かさが称賛につながることもあるわけです。そのための愚かさ、は称賛されるものではないでしょうが、必要なものなのだと思います。


正しいけど、不毛なこと、ってありますよね。
止めはしませんけど、それしかしない、眼中に入らない、ってのは能力の無駄遣いだな、と思います。
持って生まれた能力で結果が残さないのは愚かですよね。ノーブレスオブリュージュの考え方にも繋がります。
やっぱり皆愚かです。愚かじゃないと思ってる人も含めて。
それでも絶望しないのが、賢い人間、だと思っています。

ああ、もう、長すぎw
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そっかー (ほり(管理人))
2007-07-24 22:42:52
いまてかはさん、コメントをありがとうございます。

私もカルチャーセンターには行ったことがありません。想像でした。
で、(よくわからんけど)大学の先生がいっぱい教えてるんですね。(アルバイトなのかなぁと邪推する。笑)

「思想」の受講者って、どんな方々なのだろうと思いますが、「教育」と言う観点においては、「その科目だけ」に関することなのじゃないのかなぁ。
大学は、「その科目だけ」受講ってのは、基本的にないと思うので、専門家育成にしても、なにかしら全人的な部分が存在すると思います。教養課程があるのとかも。で、「教育」という観点ではかなり異なると思います。(大学の聴講生は、通常の大学生とことなる存在と考えます。)

ところで、heisanさんの「契約型社会」だけど、生徒でたとえると、例えば、掃除の時間に、先生の指示で動く、自分で考えてキレイにしようとしない、時間が終わればそれで終わったことにする、とか、そういう発想かな。決してさぼるワケじゃないんだけれど。一方、「キレイにしたい、だって、自分たちの学校だもん、きれいな方が良い」って、掃除をする子もいるから。こっちは家族型なのかなとも思いました。
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Unknown (いまてかは)
2007-07-24 15:08:59
カルチャーセンターについて、
(以下、引用はじめ)
まあしかし、カルチャーセンターは、教育機能の場ではないでしょう。社交場かと思います。(だから、大学で「ウッチー」は困るんだよね。でも、逆に、カルチャーセンターで「ウッチー」と言う呼称は存在しないような気がするなぁ。自分でカネ(授業料)を出しているかいないかの違いでしょうか。何だか矛盾。笑)
(以上引用おわり)
とお答えいただきましたが、わたくしも、カルチャーセンター等には、通っておりませんし、また、通う予定もありませんものですし、どういったものなのか、(一概には言えないものなのでしょうけれども、)わかっているものでは全然ありません。念のため、お断りしておきます。

ただし、「朝日カルチャーセンター新宿教室」の「思想」の講師陣に目をとめたところ、次の通りだそうで、
(以下貼り付けはじめ)
東大名誉教授 今道友信/慶大教授 中川純男/聖心女子大名誉教授 宮内久光/専修大教授 神崎繁/東大教授 佐々木力/電気通信大教授 中島義道/東京経済大教授 三島憲一/神奈川大教授 的場昭弘/立教大教授 前田英樹/中央大教授 加賀野井秀一/評論家 小阪修平/思想研究家 財津理/青山学院大准教授 入不二基義/東京外語大教授 西谷修/京大准教授 大澤真幸/東大名誉教授 佐藤正英/日本女子大教授 田中久文/麗澤大教授 松本健一/マズダ・ヤスナの会代表 岡田明憲
(以上貼り付けおわり)
という訳で、「結構そろえているな」と。
ちなみに、中島義道氏受持ちの講座名は「カントを読む」と「ヒトラーのウィーン」です(笑い?)
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どうでも良い続き (ほり(管理人))
2007-07-24 00:27:52
自己レスです。

視点を変えれば、「時」という「軸」をなくせば、生老病死はなくなるよなぁ。時の全てが「現在」の連続で「過去」も「未来」も存在しないとなれば。
でも、それは私の定義において、「人間」ではないし、ここまで脳味噌が大きくなった存在にとっては無理な話だ。

↑独り言。
う~ん、ずれてる。(笑)

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情報処理とかパソコンとか (ほり(管理人))
2007-07-23 23:26:50
執事さん、heisanさん、コメントをありがとうございます。

これ、横レスかと思ってます。(笑・余計だったら、すみません。)

「情報処理」は、けっこう判断力を求めるので、私は苦手です。フィルタリング能力の欠如です。「要る」「要らない」を即座に判断し、分類する能力の問題でしょう。(と、余計なことを書く。)

パソコンなどの道具は、要は、面白いから発達したんじゃないのかと思ったりします。
まあ、何でも先端的な「道具」は、戦争が契機になったりしているようですが、今も昔も案外に「面白そう」、ただそれだけの理由で、人間は「道具」を発達させてきた気もしますがどうでしょうか。
「これをもう少し、こんな風に機能を進化させたら、こんなことまで出来そうだぜ、面白いんじゃないのかな」と、「役に立つ、立たない」とか、「不自由性からの解放(by heisanさん)」とはまた全く別の価値観で出てきてるのも多いんじゃないのかな。
企業も、社員に仕事として強制して開発させるより、面白がらせて開発させる、って発想で社員を活性化させてるの、テレビ番組で見たような。

「道具好き」って人がいます。(あ、以前どこかに書いてるかも。)新製品を買いたがる人。何をするか(目的)より、道具を使うことそのものが目的の人。観点は、「使いやすいかどうか」「心地よいかどうか」とか。(しかし、これはある意味、効率性に近いとも言えるか。)

>文明の発達(という方向性)を食い止めることはできませんよ.「物事をより効率的に行うにはどうすればよいか」という発想を悪だとみなす文化が世の中を席巻しない限りは.

そうですね。で、「コドモが育つ世界」においては、「悪だとみなす文化」が必要だと思います。でも、難しいですね。コドモは大人と一緒に暮らすから。

多くの人が「効率的に死ぬ」コトまで考えるようになれば、価値観が変わるでしょうか。
でも、養老先生の本のタイトル「自分は死なないと思っている人へ」だったけ?(何かの本の焼き直しだけど。)からもわかるように、現代人はみんなそう思ってるだろうから。だから、アンチエイジングだろうなとか。

>バカでも生きていける社会。それはそれで幸せなのかも、です。(by 執事さん)

だんだんそうなってるような。本当には目に見えた問題になってないけど、自分を高めていこうとする少数派と、バカでも良いじゃん、今を楽しもう、と言う考えは確かにある。後者は生活必需品とちょっとの自分の好みのモノさえあれば可能な考え方です。今の学校教育の根幹は、これだね。だから、「個性」なんだなとか。

>重要視されるのはむしろ会話能力(研究職は別)だからでしょうね。(by 執事さん)

まさにそうですね。世間の大抵の事柄は、話し言葉で片が付く。電話が発達したのもだからでしょうか。読み書きとは別次元、オマケにノンバーバルコミュニケーションも大事だし。(世間では、こちらが重視されることも多いでしょう。「感じがいい人ね」とか。会社の面接なんて、そうだろうし。営業とかも。)
それが、「勉強なんて必要ない世界観」にも繋がるのだろうな。(だったら、ケータイも使うなと言いたいが。笑)

>我々が,宇宙のすみずみにまで一瞬で行けるようになり,食欲・金銭欲から不老不死に至るまでの種々の欲求は瞬時に満たされるようになり,しかもそういった境遇が永遠に続くという保証がなんらかの形で得られるようになった日においてだけでしょう(by heisanさん)

何かしら、出家前のお釈迦様を思い出しました。当時のお釈迦様の生活は、上記のような気分だったんじゃないのかなぁ。。。彼の欲望は、完全に満たされていたというか。
まあ、でも、門の外を知ってから出家したのだから、別物か。
生老病死がなくなったら、どうなるのだろう???
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契約・家族はやっぱりわからない(笑) (ほり(管理人))
2007-07-22 23:25:56
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>私はこれは,少数か多数かではなくて,「愛称で呼ぶことが冗談の一種である」ということの信憑が,少数であればあるほど崩れがちになりがちである,ということではないかと思っています.

う~ん、ここ、分からないんですが。。「少数だと崩れがちになる」がわからない。

>それはコミュニケーションを円滑に,また深みのあるものにする手段たりえますが,

これ、私は、絶対に認めません。(笑)
「ウッチー」でも、たとえ愛のこもった「ほりちゃん」でも、「面と向かって」はいけないんです。(陰ではなんと呼んでもよろしい。「バカほり」も可。)とにかく、パブリックな場ですから、立場を考えろ、ということだけで、でも、この重要性を感じるので
>かかる信憑を心に観念し続けておくこと
とは、関係ないと思ってます。

>いや,みんなができるのは,先生が(一番)何度も強調したした内容です.

これ、私に言わせると、「人間関係」の問題なんです。「学習事項の何が重要か」という絶対的尺度(私のコトバだと理科的な考え方)ではなく、「重要」=「先生が何を言ったか」と、勉強の絶対性を「人間関係」に還元する考え方です。テクストそのものに対峙するのではなく、「先生」にひれ伏す。

あるレベル以下の生徒の取る態度がこれです。前任校は、ちょっと良くできる学校だったので(昔だったし生徒勉強に対する態度も今と違う。)、教えてなかったことを出題しても、生徒はちゃんとできた。でも、(そう言えば、ほぼ同時期でも)現勤務校は、「重要だと言ったところしかできない」。転勤したての頃、驚きました。まあ、学力差は歴然としてますよ。教える人は同じなんですけど。(苦笑)

>英語において,これに関する最も有力な例は,「前置詞の穴埋め」です.

前置詞については、記事に書いたとおりです。で、私に関しては、おっしゃることは起こりえない。よって、
>何も問題はないのですけれども(笑).
です。(笑)
それでも、このwithは注意しなさいね、など言ったところと言わないところで差が出来るのが生徒の情けないところですね、はい。

>う~ん…,じゃあ「ホンモノの勉強」って何?という話になり,どうどう巡りになって(美辞麗句巡りになって)机上の空論化・泥沼化してしまう気が…
大事なのは,「先生がどういう問題を出しているか」です(ほとんどの生徒はこれに牽引されて勉強するわけですから).

ここ、肝要ですね。
「ホンモノの勉強」は、最終的にはさまざまな知識を体系できる学力だと思います。
だから、定期試験問題は、特に、この点に注意すべきです。生徒はやはり、「試験に何が出るか」で勉強の方法を変えますから。ですから、試験問題は、「勉強の仕方を教える」という重要な役割も担っているのですよ。

>で,先生というのは,平均点操作をしないといけない.中間考査は簡単だったから,期末は難しくしよう,とか.で,これをどうやって行うかっていうのが,非常に重要なポイントだと思うのですね.
>「じゃあどうするのか」というと,現役の先生に伺ったところ,「訊き方を変える」と言うのですね.
>このことをおっしゃったのは理科の先生でしたが,もちろんこういう手法は,全ての教科で有効というわけではないでしょう.(英語という教科で訊き方を変えるのは限度がありそう…)
でも,どんな教科であっても,何らかの仕方で,)「じゃあどうするのか」という問いへの答えを((●印のようなところではないところに)見つけていかないといけないような気がしています.

おっしゃるとおりですよ。英語でも可能です。
ちなみに私が問題を作ると、同じことを聞いても「なにか難しい感じがする」と言われることが多いんです。(笑)はい、昔から。(で、平均点が下がることも多い。)で、出来るだけ易しく出すように心がけるように努力してます、はい。
この間は、平均点は下がらなかったものの、監督の先生によると、終わった瞬間、一斉にふーっと溜息がもれたらしい。

>説明文(客観文)ならばほり先生のおっしゃる方策で勉強することは妥当だと思います.しかし,物語文(主観文)になると,(個人差が出るので)なかなか難しい(=分からない人は「先生の理解をたどる・覚える」しかない)んではないでしょうか.

私は国語が専門ではありませんが、物語でも小説でも可能ですよ。「自分の主観」で読まないことです。「書き手はこのように捉えている」を使われたコトバを辿って見つけ出すことです。で、やりにくいとしたら、テクストが悪い。(まあ、英語に関しては、受験問題集でも良いテクストは少ないですね。)

>共通一次が全ての元凶だと言うわけですね.これって,ベル・ランカスター方式の再来と言えるのではないでしょうか.「教育に『機械的な効率化』を持ち込むことを良しとしたことが裏目に出る」という点で共通してますよね.

全ての元凶かどうかは分かりませんが、あまりに時期が合いすぎている。
理科2教科社会2教科が実施されました。で、文句を言ったのは、現場の教員。「生徒にムリだ」と。で、手っ取り早い点取り方法として、羅列的な暗記に変わった可能性があります。

でも、ムリだったら、ムリでしようがないんですよ。それだけの能力しかないということなのだから。競争なのだからしようがない。
授業では、70年代は、社会は地理、倫理社会、世界史、日本史、政治経済と全部やってたはずです。理科も、生物、化学、物理、地学でした。(理科は、3つだったかも。)それがなぜ今できないのだろうと思います。
国立大学Ⅰ期校Ⅱ期校時代は、日本史なんぞは、教科書が終わらずに、戦後まで行かずに受験に突入が大部分だったと思いますが。別にそれで良いじゃん。

>共通基盤が必要なことには賛成します.
ですが,そのような共通基盤を提供している現今の公立(小中高)学校は,現に,「国に紐付けられているがために社会の変化に柔軟に対応できない」のではありませんか.

問題は、上記「そのような学習基盤」を今の学校教育は提供していないことです、はい。きっぱり。(笑)
学習を「知識の伝授」であると考える限りムリでしょう。義務教育程度の知識は確かに必須ですが、それにしても、(我ながらくどい気はするが・笑)「体系的にものごとを捉える」能力の育成になってない点なんです。
この能力を育成した上での知識の伝授であるなら、生徒は、大きくなって、応用が利く。
今の学校は、言わば、一人で歩く能力も育ててないのです。で、走れ、跳べ(時代に合った能力)と言ってもムリです。

鉛筆もマトモに持てないのに、勉強できるわけがない。椅子に座れないのに、勉強できるわけがない。ひらがなもカタカナもきちんと書けない(で、大学に進学する)で、学問なんか出来るわけがない。(と、いつも同じことしか言わない。笑)

>私は,市民リテラシーが育っていれば,「『"共通基盤の提供"は民間によってなされる』という社会モデルもまた十分に可能である」と考えていますが,どんなもんしょうか.

その「市民リテラシー」の要求が、小学生への株式投資だったり、小学校での英語教育だったりするから困ったことなのです。今の学校教育も、「市民リテラシー」の結果です。「ウチの子をちゃんと評価してくれ。良いところを認めてくれ。」

イマドキ、「祇園精舎の鐘の声」「春はあけぼの」「昔男ありけり」が大事なんて言うと、時代錯誤だと言われます。ごく一部の親だけでしょう、その価値が分かるのは。「市民リテラシー」の声を出す「市民」が「衆愚」になっていると思います。

>私の考え方は本人の自覚の有無に依存しません.あくまで集団を客観視した上での話です.(以下略)

よく分かります。
私が書いた「役割の認識がないくせに(笑)、その集団に属している"個"」の「認識」は、その子の認識ではありません。端から見て、「この子、何にも分かってないなぁ」と思われる生徒ということで、彼らのアタマには認識という概念すらないのですよ。

>私はいま「乖離」と書きましたが,厳密には,「貧困」と「乖離」は違います.「乖離」の端的な例は,確信犯です.なんとなくですが,かつてはこの「確信犯っぽい人」が結構居たような気がするけれども,いまはその割合がそっくりそのまま「役割自覚性が貧困っぽい人」の人数に引き継がれているような気がします.

これ、まさにその通りでしょうね。

>「役割自覚性が貧困っぽい人」というのは,具体的には(誤解を恐れずに言えば),「ポヤ~ンとしてる人」や「ウッセーよ!って言う人」や「いつまでも(冗談半分に)ヘラヘラしてる人」のことを指します.
彼らはなにゆえにそのような挙動を演じるようになるのか?

子どもだからです、はい。(笑)「コドモはコドモらしく」、「中学生は中学生らしく」「大人は大人らしく」、「先生は先生らしく」「親は親らしく」がなくなってきたからです。で、結果、大人になれないコドモが増えた。
「らしくない」がもてはやされてきた結果です、はい。(断言・笑)

>> heisanさんの「個」は「校則違反をしない、予習を真面目にやってくる真面目な生徒」なんだ。
>上記の理由により,Noです^^.

なぜ、上記が理由になるのかが分からないです。。

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ソフトの種類 (ほり(管理人))
2007-07-22 21:04:35
執事さん、コメントをありがとうございます。(これは、20日のコメントのレスのつもりですが。)

言いたいこと、書きたいことがいっぱいある、でも、書くヒマなどがないって結構ストレスかも。(笑)

>どの程度を想定しているか、で言えば、私はかなり高いレベルを想定していますね。

そんな感じですね。私は、今の生活で直面する事項を中心にモノを考えるから、レベルは低くなりますね。(でも、こーゆー言い方をするとお怒りになる人がいる。)

>「基本的に人を信頼する。けど裏切られたからって落胆しない」っていう考え方です

賢い考え方ですね。

>パソコンなら、ダメなソフトはインストールしなおせばいいわけです。
この時代に適応したソフトはどんなものか?
まだそれがはっきりしていない、ってのはあるでしょう。

パソコンの容量に依るという問題も生じましょう。今は、ソフトは発達してきているのに、容量が平均的人間のキャパを越えてるって気もするから。(学校の勉強は特にそう。)

>適応力のある人はもう自分でやってるけど、まだ教育への落とし込みがなされていない段階。

「適応」という考え方にちょっと引っかかりを感じるんです。例えば、戦場だったら、何とも思わずに人を殺せる方が適応力が高い、ってことでしょうから。不適応を起こせば、今度はそれが自分の命取り。
今の日本だったら、どうしたら(なるべく?悪を犯さずに・笑)「すくなくともそこそこの金儲け」ができるか、に適応できる人が最も有利でしょうか。なんてたって、経済至上主義、拝金主義ですから。
「プレジデントファミリー」だっけ?などの教育関係雑誌が売れるのも、「格差」に敏感な親たちにうけるからでしょう。

>産業革命に適応できた人、できない人、みたいな。
あの時代も「機械に仕事を取られた」って言って、それまでのやり方に戻すことを望んで機械を壊す運動が起きたりした訳です。

これは非常に良い例ですね。
インドの工事現場?だっけ?何かで見たけど、重機を用いることを求めない。人手に頼って工事する。経済的にもともとムリってことかもしれないけれど、「余っている人を使わない手はないだろ」ってのも有りと思いました。それはそれで賢いなと。

もう何十年前だけど、ロンドンの地下鉄のエスカレーターに驚きました。真鍮製のような黄色い色で、いかにも古い。日本では考えられないことでした。(ちょっと飛んでるかもしれないけど、これも「ソフト」関連かと。)

どんなソフトを何の目的で用いるかがはっきりしてない気がします。

小学生対象の株取引の勉強とか、ヘンなソフトも多いような。(笑)でも、そんな風に育った人が、次世代を跋扈するのかな。
人間は、幼い頃の教育次第で、かなりの割合の人は、何にでも「幸せ」を感じる気がします。トシをとれば、自分が受けた教育を肯定する場合が多いのは、否定すれば自己の人生否定に繋がるからでしょう。

>でも、まず目指すのは全体の救済ではなくて個人の救済だと思うのです。
能力ある人間からこの時代に適応させていく。
私がある程度能力の高い人間を想定して論じているのは、そう考えているからでしょうね。

この「能力」も、さまざまな取り方ができるわけで、たぶん、執事さんがおっしゃる「能力」とは別の次元での「高い能力」の持ち主の方が適応しやすいんじゃないのかな。
だから、

>「語源」が推測できることがあるんですけど、それを友達に話すと怪訝な顔をされますね。「そうなの?」とか。いや、実際のところは知らないよ、今考えたからどうかな、と思っただけだよ、みたいなw

の怪訝な顔をされたご友人にとっての方が居心地良い社会になりつつあるんじゃないのかな。(って、私のアタマには、対照的に、「へぇ~、そう言う解釈があできるか、面白いね、そう言えば云々」とか「なるほど、でも、私はこう思うな」という反応をされる友人のタイプと比べての話。)怪訝な顔をされる人の方が圧倒的多数を占めるだろうから。

私のコトバで言う「羅列的な思考」は、それはそれで思考法の一つでしょう。まあ、「孤立する人が多い社会」を生むだけでしょうが。

まあ、総じて「国家百年の計がない」からソフトがはっきりしないってことかなと思います。
で、「個人の救済」が、ヒットラーのような人を生むと恐いなとも思ったり。(まあ、当時のドイツの人たちは、実のところ、かなり「幸せ」だったはずです。今だから、彼を悪人呼ばわりできるのであって、当時は、みんな言いくるめられ酔わされたのだと思いますから。)

上記、たぶん、執事さんの意図とずれてると思うけど、こうも解釈できるかなと。

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Unknown (heisan)
2007-07-21 08:47:25
> 情報処理能力の向上そのものは人間にとって害となるものでしょうか。むしろとてつもなく有益な物ですよね。

まず,私は,「世の中において新たな情報処理の手段が誕生することが悪だ」とは申し上げておりません.
それから,新たな情報処理の手段が誕生すること(情報処理能力の向上)が有益かどうかは,少なくとも私には分かりません.諸刃の剣,だと思っています(「使い方次第」というのと同じですね).
「有益かどうかも分からないものが勝手に誕生するはずないじゃないか,有益だと思っている人間が誕生させるのでしょ?」と言われてしまいそうですが,そもそも人間が新たな情報処理の手段を誕生させるのは,「それが有益だと思っているから」ではなく,「それを誕生させることが或る種の自由の獲得になるから」だと思います.例えば,手紙だと何日もかかっていたのがEメールだと5分で着く,昔は大阪から東京まで行くのに何日もかかったがいまでは数時間で着く,など.
重要なのは,我々はいつも「自由と不自由との狭間で苦しめられる」という位置取りから自由になることはできない,ということです.



> それはちょっと言い過ぎかとw
> 「残った」という捉え方が実情に近いのでは?
> (学生運動とか、どうみたって学生の本分じゃないでしょうw)。

「残った」という捉え方が実情に近くないと私が思うのは,学生運動の頃の学生は,社会のオトナが自分たちに突きつけてくる役割と自分が自覚している役割との間の「乖離」ゆえに種々の問題行動を起こしたと考えられるのに対し,最近の学生は,役割自覚性の「貧困」ゆえに種々の問題行動を起こしたと考えられるからです.



それから,文明の発達(という方向性)を食い止めることはできませんよ.「物事をより効率的に行うにはどうすればよいか」という発想を悪だとみなす文化が世の中を席巻しない限りは.我々が「不自由性からの解放」を善とみなす限りは.我々という存在が「自由と不自由の狭間で苦しめられる」という位置取りに縛り付けられている限りは.
我々がその縛り付けから解放されるのは,我々が,宇宙のすみずみにまで一瞬で行けるようになり,食欲・金銭欲から不老不死に至るまでの種々の欲求は瞬時に満たされるようになり,しかもそういった境遇が永遠に続くという保証がなんらかの形で得られるようになった日においてだけでしょう.でも,そんな日は,少なくとも私たちが生きている間には訪れそうにありませんね.



> 個人的には意見の統一を図るのは二の次で、純粋に他人の意見が聞けるのが楽しいです。

意見の統一というか,なんだろう,「どんな問題にも,正しい一つの答えが必ず存在する」ということを信じてさえいれれば,あとは何だっていい気がします
# なんだろう,「意見」というとなんとなく軽薄な気がする….「○○君の意見は・・・」みたいな.ガッコー的な.「ガッコーの指導要領の枠組にぴったり当てはまってくれる文科省的におめでたい子どもたちの集まり」的な.でも実際の世の中って,そんなにきれいに収まってくれないんだよね.
# 「真の意見は,意見という用語を用いずに語られる(ことが多い)のではないか」と私は思っています.なんだろう,「意見である」ということをわざわざ明示・明記しなければならないのは,実文の意見性が低いからそうなるのではないか,みたいな.
# ちなみに「視点」も同じです.
返信する
Unknown (執事)
2007-07-21 02:59:49
>羽生氏が,「(事務的な)情報処理に自分の時間の大部分を取られることのないようにしないと」というようなことを繰り返しおっしゃっていたのが印象に残っています.

「高速道路」の例えを見ても分かるように、羽生氏はパソコンを「使い方次第」と捉えているように見受けられます。
情報処理能力の向上そのものは人間にとって害となるものでしょうか。むしろとてつもなく有益な物ですよね。計算能力の向上によって研究が進んだ分野は数多いでしょう。そこを履き違えて論じても、実際に効果のある施策は打てないと思います。


>それは,大学レジャーランド論が叫ばれた後になってから,「大学の無意味化を避けるために発明された考え」だと思います.

それはちょっと言い過ぎかとw
「残った」という捉え方が実情に近いのでは?
で、それが残っていれば十分だと思うのですね。
今も昔も、大学で大学らしい勉強をしている学生はいるわけです。それ以外の学生は何なのか、については、大体仰られる通りに思います。
「大学生」という概念が変質しているのでしょう。
だったら、現在の「一般的な大学生」を「古きよき時代の大学生」と区別して考えるべきではないでしょうか
印象論ですが、昔はその辺の棲み分けがなされていなかったように思います(学生運動とか、どうみたって学生の本分じゃないでしょうw)。


>「あそこにこれとかんけいするかもしれないことがある」ことすら、忘れている、というか、覚えていない。

すごい前提条件ですねw そうなるともう手に負えません。
なんていうか、頭の中に検索エンジンがないのかな。そもそも情報のネットワークがないのか。
「語源」が推測できることがあるんですけど、それを友達に話すと怪訝な顔をされますね。「そうなの?」とか。いや、実際のところは知らないよ、今考えたからどうかな、と思っただけだよ、みたいなw
1対1の関係、か。なるほどね。


文明の発達はもういい、って考え方にも関連するんですが、もうバカでもいいんじゃない? って考え方もアリ、かもです(何を言い出すw)。
バカでも生きていける社会。それはそれで幸せなのかも、です。それでダメなようなら、また皆頑張って頭は良くなるし、ね。
まあこれは戯言です。


社会に出てから国語が出来る出来ないは気にされない、については、やっぱり参照可能、テンプレあり、重要視されるのはむしろ会話能力(研究職は別)だからでしょうね。
見る人が見れば差は歴然としていますけど、微妙な上下関係がそれを指摘できなくさせていたり(先生しかいない学校、みたいな)。


問題が難しくて(間違えて)も、そこに流れる論理が綺麗だな、と感じられれば納得できます。
納得できないのは「教えられていない」ではなく「意図が分からない」「それはないだろうw」です。
ニュアンスが伝えにくい。それに多分特異な感覚なんでしょう。まあいいや。

文章読解については「量が質に転化する」面があると思います。これは「勉強」でやることではないので、断絶は埋められないでしょうね。先生がどっちの側につくかの問題、ということでどうでしょう。


余談ですが、言葉の意味は三つの要素で決まります。
基本的な概念。
個人にとっての意味(思い入れ)。
前後の文脈。
意識して使うべき時と、適当に使えばいい時があります。例えば論文においては基本的な概念が重要視されるでしょう。
余談終わり。


>「先生がより強調したところ」

これこそ些細なこと、と感じますね。そう感じる人間もいるってだけですけど。加えて、先生が強調したところがテストに出ることに対して特に意見はありません。そこが重要なのでしょうから。
「仕事は期限いっぱいまで膨張する」って法則がありましたよね。だからやるべきところを決めておくことは仕事における最低限のルールです。で、評価されるのはプラスαの部分。
これって、実社会においてごく当たり前のことかな、と思うのですけれど。


個人的には意見の統一を図るのは二の次で、純粋に他人の意見が聞けるのが楽しいです。
がんがん突っ込み入れて下さいな。
返信する
「役割自覚性の貧困」は現代病である (heisan)
2007-07-21 01:38:39
お返事ありがとうございます.
お話が深まっていくことを嬉しく思います.


> 大学で「ウッチー」は困る

大学で「ウッチー」が困らないのは,そう呼ぶ学生が少数にとどまっている限りにおいてだというようなことを,ほり先生は前に書かれておりましたが,私はこれは,少数か多数かではなくて,「愛称で呼ぶことが冗談の一種である」ということの信憑が,少数であればあるほど崩れがちになりがちである,ということではないかと思っています.
先生を愛称で呼ぶことは諸刃の剣です.それはコミュニケーションを円滑に,また深みのあるものにする手段たりえますが,かかる信憑を心に観念し続けておくことができない人間にとっては,コミュニケーションの根幹を崩す虞があり(「社会的役割の違いに基づいたコミュニケーション」という前提が崩壊する虞があり),あまりにもリスクが大きすぎるのです.



> 高校の「国語」の成績に、あれほど差があったのに、社会に出た途端、みんな「私は正しい解釈をしています」と思っている様子が、若いとき、不思議でなりませんでした。

私もまた不思議でなりません.でもそれが,「社会に出た途端,完全であろうと不完全であろうと,一律に「同じ社会人」として扱われること」の意味なんだろうなあって,思います.



> 「みんなができる」のは易しい問題でしょう。

いや,みんなができるのは,先生が(一番)何度も強調したした内容です.で,生徒はみんな試験前に,「先生がより強調したところ」から優先的に勉強していく.とすると,差が出るのは,「どれくらい重要でないところまで勉強できたか」という基準においてであり,先生がそれほど強調しなかったけどテストには一番強調されたことと同じ点数上の重みで出題される「些細なこと」を拾い上げる能力を評価していることになります(●).

英語において,これに関する最も有力な例は,「前置詞の穴埋め」です.
進出「単語」はみんなここぞとばかりに覚えるのですが,その進出単語に付属している(おまけっぽく思える)前置詞のほうは忘れがちです.
こういうことを言うと,ほり先生などは,「本来,前置詞も含めて「基礎基本」なのに,それを,前置詞を軽んじて名詞・動詞・形容詞ばかりに囚われてしまうのは,学習者の勝手に過ぎない」と喝破されることでしょう.
でも,それならば,「前置詞も含めて基礎基本だから」ということを含めて,授業時間に強調してほしいよな,と思ってしまうのです.私はほり先生は,S+Vの強調にも挙げられますように,こういう点で非常にセンシティブな感性をお持ちではないかと思っていますから,何も問題はないのですけれども(笑).


> それを見抜けるか否かが、ホンモノの勉強をしてきたかどうかの違い

う~ん…,じゃあ「ホンモノの勉強」って何?という話になり,どうどう巡りになって(美辞麗句巡りになって)机上の空論化・泥沼化してしまう気が…
大事なのは,「先生がどういう問題を出しているか」です(ほとんどの生徒はこれに牽引されて勉強するわけですから).で,先生というのは,平均点操作をしないといけない.中間考査は簡単だったから,期末は難しくしよう,とか.で,これをどうやって行うかっていうのが,非常に重要なポイントだと思うのですね.
上の●印のところで示したように,「より瑣末なことを問う」ことによって平均点を下げるという仕方を採用すると,おかしなことになると思います.
「じゃあどうするのか」というと,現役の先生に伺ったところ,「訊き方を変える」と言うのですね.同じことを訊いているのに,訊き方を変えるだけで,正解率がガクッと下がるというのです.
このことをおっしゃったのは理科の先生でしたが,もちろんこういう手法は,全ての教科で有効というわけではないでしょう.(英語という教科で訊き方を変えるのは限度がありそう…)
でも,どんな教科であっても,何らかの仕方で,)「じゃあどうするのか」という問いへの答えを((●印のようなところではないところに)見つけていかないといけないような気がしています.



>> 「「先生の解釈を覚える・たどる」というような勉強の仕方になり,いつまで経っても「自分で解釈できる」ようにはならない(誤解を恐れずに言えば).」という風に取られがちになります。
> でも、ちがうんです。「コツ」があるんです。うん。でも、その「コツ」は具体例を通してしか体得し得ないんです。で、時間が掛かる。

これは真実ですが,私は「分かる人には分かるし,分からない人にはいつまでたっても分からない」というような文言がまかり通るような世の中は幸せな社会ではないと思います.それはは詭弁かはたまた教育の放棄でしかありません.
説明文(客観文)ならばほり先生のおっしゃる方策で勉強することは妥当だと思います.しかし,物語文(主観文)になると,(個人差が出るので)なかなか難しい(=分からない人は「先生の理解をたどる・覚える」しかない)んではないでしょうか.



> 共通一次試験が始まった時期です。この頃から、勉強が「ごまかし勉強」に変わりはじめました。
共通一次が全ての元凶だと言うわけですね.これって,ベル・ランカスター方式の再来と言えるのではないでしょうか.「教育に『機械的な効率化』を持ち込むことを良しとしたことが裏目に出る」という点で共通してますよね.
人はこれまでにもいろんな道具をつくり,使ってきたが,「自分たちの子孫がどれだけちゃんと育っているかを見定めるという仕事まで,機械仕掛けの道具に投げよう」などという判断をしたのは,おそらくこれが最初ではないだろうか.近代学校が一斉教育の起源なら,共通一次は一斉評価の起源.さて,次には何が来るのでしょう?(苦笑)
というのは半分冗談ですが(笑),ここから,次のようなことが気になってきます:一斉教育や一斉評価は誰が求めたのか?



> 江戸時代のような人の動きの少ない時代ならともかく、今のように全国転勤しまくる人たちが大勢いる時代、国家の義務教育は、それなりに共通基盤が必要ではないか

共通基盤が必要なことには賛成します.
ですが,そのような共通基盤を提供している現今の公立(小中高)学校は,現に,「国に紐付けられているがために社会の変化に柔軟に対応できない」のではありませんか.
国というところはとにかく「ハンコをポンポン押して時間をかける」ということをしないと物事が進まないところですから,
「人々の生活の多様化」などというセリフはもう言うに久しく,きっと予想以上に多様化しています.近代学校というシステムは,そもそも,「人々の生活はさほど多様でない」という前提が社会にあったからこそ有益で有り得たシステムです.
もし,今の社会に,近代学校を有効に活用することができるとすればそれは,なんでしょうか?
読み書き計算? 現代的読み書き計算(PCとか?)? 教養の涵養? 「何がウソで何がホントかを見分ける力」の育成?

私は,市民リテラシーが育っていれば,「『"共通基盤の提供"は民間によってなされる』という社会モデルもまた十分に可能である」と考えていますが,どんなもんしょうか.



> しかし、そのうちに九州が独立し、本州も関東圏と関西圏で全く別の生活圏経済圏、文化圏を作るって前提があるのなら、教育の地域的独自性もいいのかな。
> それとも、既に日本はそんな道を歩み始めているってことなのか。

いや,それはなんか違う気がします.
ほり先生は,「国が共通基盤の育成業を民間に委託したならば,それはイコール地域的独自性が顕現する場となるであろう」とお考えなのではないかと思うのですが,私はそこはイコールではないと思うのですね.
すでに,観光地ではない地域では,街の景観は(道路が整備され,駅前には定型的な街路樹とコンビニとパチンコ屋や建ち並ぶという)画一的な景観となりつつある.そのような今の日本で,公教育における民間需要が増えることで「地域的独自性」がぐんぐんと育ってくるということは,なかなか考えづらいことではないか(=みんな考えることは似たり寄ったり)と私は思います.



> 私には、「"集団"の中において,或る役割を持って位置づけられている"個"」という認識がないのです。「役割の認識がないくせに(笑)、その集団に属している"個"」

私の考え方は本人の自覚の有無に依存しません.あくまで集団を客観視した上での話です.かつ,「人間というのは生まれながらにして,人間社会においてなにがしかの役割を与えられており,それに沿うように自らの行動を修正しようとする存在である」という作業仮説を採っています.ここで,「社会が或る人間に与えている役割」と「或る人間が,自分に与えられているであろうと考えている役割」の間に乖離が生じることは充分考えられます.「役割の認識がない生徒」というのは,その乖離の一例です.
「大人になる」というのは,「役割の自覚が育ってくる」ということであり,生徒がいつまで経っても平気で校則違反をするのは,役割自覚性の貧困によるものです.
私はいま「乖離」と書きましたが,厳密には,「貧困」と「乖離」は違います.「乖離」の端的な例は,確信犯です.なんとなくですが,かつてはこの「確信犯っぽい人」が結構居たような気がするけれども,いまはその割合がそっくりそのまま「役割自覚性が貧困っぽい人」の人数に引き継がれているような気がします.
「役割自覚性が貧困っぽい人」というのは,具体的には(誤解を恐れずに言えば),「ポヤ~ンとしてる人」や「ウッセーよ!って言う人」や「いつまでも(冗談半分に)ヘラヘラしてる人」のことを指します.
彼らはなにゆえにそのような挙動を演じるようになるのか?
その答えを,ずっと考えています.私だけでなく,おそらく多くの人が.



> heisanさんの「個」は「校則違反をしない、予習を真面目にやってくる真面目な生徒」なんだ。

上記の理由により,Noです^^.
返信する
試験と上意下達と個と集団 (ほり(管理人))
2007-07-20 22:47:38
heisanさん、いつもコメントをありがとうございます。

>「意表を突く」問題(分かる人も居れば分からない人も居る)で差が出る,という事実がある.そこで,「みんなが解ける問題」よりも「意表を突く問題」のほうが重要である,という誤った認識が生まれる.例えば,大学入試で「文系でこそ数学が重要だ」みたいな認識がそれです.

う~ん、実は、ちょっと違和感を覚えました。
「みんなができる」のは易しい問題でしょう。で、重要なのは「意表を突く」かどうかの主観ではないことです。問題の難易にかかわらず、「問われた内容が基礎基本に基づいているかどうか」です。

どんな教科でも、基礎基本に基づいても「意表を突く問われ方」がされることがあるし、十分に難問たり得ることがあります。(くどいけど、東大の英語は秀逸。基礎基本に基づいています。)それを見抜けるか否かが、ホンモノの勉強をしてきたかどうかの違いだと思います。
で、「文系の数学」は、多くの文系の生徒は数学が苦手だから、点が取りにくい、よって、入試などの「競争」においては「数学が大事」と、視点がずれるような気がします。

>ところが国語や英語の"文章"となると話は一変します.まさか原作者の文章を出題者が「アレンジ」しまくるわけにもいかないでしょうし.だから,「先生の解釈を覚える・たどる」というような勉強の仕方になり,いつまで経っても「自分で解釈できる」ようにはならない(誤解を恐れずに言えば).この辺は,言語の根幹に関わる問題ですので,その意味でも非常に難しい問題です.

この言説は一般に言われていることと思います。しかし、文章には、「読み方」が存在します。書かれた「言葉」を手がかりに論理的に読む方策です。ここにおいては、テクストが日本語として、或いは英語として正確に著述されている限り、「必ず読解出来るようになる方法」があるのです。この読解方法は、「抽象」に当たりましょう。しかし、この「抽象」も、具体的なテクストを通してしか学習し得ません。で、一般的には、どうしても、「具体例」に惑わされる。で、heisanさんのおっしゃる、「「先生の解釈を覚える・たどる」というような勉強の仕方になり,いつまで経っても「自分で解釈できる」ようにはならない(誤解を恐れずに言えば).」という風に取られがちになります。
でも、ちがうんです。「コツ」があるんです。うん。でも、その「コツ」は具体例を通してしか体得し得ないんです。で、時間が掛かる。

>まじですか?!(笑) せめてそれなら,宿題をたっぷり出すなどの措置を取ってもらわないとどうしようもありませんね.

で、これ、「宿題」で片づくと思えないんですよ。その後でおっしゃっているような

>余りある具体例から抽象を導き出すという過程にこそ学問の醍醐味があるというのに,その中核の部分がごっそり抜け落ちてしまっていて,すでに誰かが導き出してしまった抽象だけを,ハイと渡されるから,「勉強って分かんない」となる,という.

これに関わる問題です。小学校の時から、「抽象」が手渡されている。で、生徒は、それを他の「具体」と同様な「小さな引き出し」に放り込む。勉強がつまらないはずなんです。小さな引き出しの羅列が今の勉強。体系化ができない。で、高校生になっても、そのクセが抜けないから、困るのですよね。

heisanさんが「詰め込み教育」とおっしゃっていた1970年代後半というのは共通一次試験が始まった時期です。この頃から、勉強が「ごまかし勉強」に変わりはじめました。「重要事項の羅列・暗記」が勉強だと思われ始めた時期と見事に重なります。マークシート試験の悪しき影響でしょうね。たぶん、体系化・抽象化を目的とするはずの学習が変質したのがこの時期です。
それまでは、同じ「詰め込み」と言っても、まだちょっと違う詰め込み、より深い理解のための詰め込みだったと思いますので。

「上意下達」については、よく分からないけど(←いい加減な言)、江戸時代のような人の動きの少ない時代ならともかく、今のように全国転勤しまくる人たちが大勢いる時代、国家の義務教育は、それなりに共通基盤が必要ではないかと思います。でないと、「格差」がホントに深くなる。
まあ、国家或いは地方公共団体が、増えすぎた学校を、人口減に合わせて減らすための方策として、「格差」をわざと生じさせ、学校をつぶす理由にしているなら話は別ですが(って、賛成しているわけじゃないけど。笑)
アメリカという国は、州によって法律まで違うから、教育だって何だって有りもOKと思いますが、日本はそうでもないからいかがなものかと。(そういえば、日本も江戸時代は、「藩」が統治してたっけ?だから民間が活躍できた。そう言う点では意外に今のアメリカ的だったのかも。)義務教育は「文化的共通基盤」として、大事なんじゃないのかな。(ヘンな話、大学に入ったら、私もあの参考書を使って勉強をした、とか、今だと教員同士で、高校時代に○○150を使った、など「共通語」が増えるのはなかなかいいものかと。だから私は、生まれ故郷を去っても、それなりに適応できているのかなとか。笑)
しかし、そのうちに九州が独立し、本州も関東圏と関西圏で全く別の生活圏経済圏、文化圏を作るって前提があるのなら、教育の地域的独自性もいいのかな。
それとも、既に日本はそんな道を歩み始めているってことなのか。

>私は,"個"の行動を論じるとき,常に「"集団"の中において,或る役割を持って位置づけられている"個"」という仮定を採用しています.私が考える「個」という言葉とと「集団」という言葉の語義の違いはこのような感じですが,いかがでしょう.

私には、「"集団"の中において,或る役割を持って位置づけられている"個"」という認識がないのです。「役割の認識がないくせに(笑)、その集団に属している"個"」って感じかな。だって、私のアタマにあるのは、「平気で校則違反をする生徒」「やってくるべき予習をやってこないで授業に参加する生徒」だもの。(笑)

あ、わかった。

heisanさんの「個」は「校則違反をしない、予習を真面目にやってくる真面目な生徒」なんだ。だったら、「契約型」「家族型」の違いはわかるなぁ。
同じ真面目であっても、クールに自己の利益のために(?)真面目に適応している生徒が「契約型」で、嬉しそうに(?)寄り合いながら真面目にしている生徒が「家族型」ってところでしょうか。その違いかな?ふむふむ。

返信する
モラトリアム (ほり(管理人))
2007-07-20 21:43:04
いまてかはさん、コメントをありがとうございます。どうぞ、いろいろお書きくださいな♪

お褒め過ぎるコトバをいただきまして恐縮です。(とお礼を述べる。)

今の大学の問題点は、内田先生が書いていたような「海外からの評価の低下」であって、日本国内にいる分には、モラトリアムも何でも、大変結構なことです。学校に言っている限り、レベルはともかく何かしら「お勉強」はさせられるでしょうから。(大学の先生が気の毒だと思いますが。下手すると、私が教えている生徒よりレベルの低い学生を相手にされているのでしょうから。)

まあしかし、カルチャーセンターは、教育機能の場ではないでしょう。社交場かと思います。(だから、大学で「ウッチー」は困るんだよね。でも、逆に、カルチャーセンターで「ウッチー」と言う呼称は存在しないような気がするなぁ。自分でカネ(授業料)を出しているかいないかの違いでしょうか。何だか矛盾。笑)

文章やコトバの解釈は、みんな間違えます。(笑)だから、「国語」の科目や試験が存在すると思ってます。
そうなんだって、高校の「国語」の成績に、あれほど差があったのに、社会に出た途端、みんな「私は正しい解釈をしています」と思っている様子が、若いとき、不思議でなりませんでした。突然、「対等」になり、能力差が勘定されなくなる。

このブログだと、「言葉が通じている」感じがあってありがたいです。もちろん、100%と言うことはあり得ません。みな文章の素人だろうし、誰でも「言い過ぎるか言い足りないかのどちらか(by内田先生のブログ)」だからです。

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Unknown (執事)
2007-07-20 04:28:07
引用含めてのレスはまた時間のある時に。
なんかもう書きたい事がどんどん出てくるので。
さらっと感想。

どの程度を想定しているか、で言えば、私はかなり高いレベルを想定していますね。
なんとなく話が噛み合わないのはそのせいかな?
捉え方の違いは、まあしょうがないかな。
でも、絶望して得るものはないな、と思うのですよ。
私は「基本的に人を信頼する。けど裏切られたからって落胆しない」っていう考え方です(お天気が時々悪くなっても、そんなに怒る人はいませんよね)。
冷たい考え方、なんでしょうけど。

人類開闢以来ハード面(脳の機能、とか)は変わっていないはずですから、変わったのはソフト面(物事の捉え方、処理の仕方)だと思うのですね。
パソコンなら、ダメなソフトはインストールしなおせばいいわけです。
この時代に適応したソフトはどんなものか?
まだそれがはっきりしていない、ってのはあるでしょう。
適応力のある人はもう自分でやってるけど、まだ教育への落とし込みがなされていない段階。

産業革命に適応できた人、できない人、みたいな。
あの時代も「機械に仕事を取られた」って言って、それまでのやり方に戻すことを望んで機械を壊す運動が起きたりした訳です。
でも、今この時代になって、産業革命以前がいい、なんて言い出す人はいませんよね?

人は適応力が高いのが取り柄です。
それしかないから、適応できないこともあるけど、それは「永遠に適応できない」とイコールじゃない。


もちろん、時間による解決を待たずに動くのもアリ、ですよ?
誰かがそうしないといけないわけですしね。
でも、まず目指すのは全体の救済ではなくて個人の救済だと思うのです。
能力ある人間からこの時代に適応させていく。
私がある程度能力の高い人間を想定して論じているのは、そう考えているからでしょうね。
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100を超したぁ~ (ほり(管理人))
2007-07-19 23:56:56
執事さん、レス遅くなってごめんなさい。(と、まずは執事さん宛にします。)

>でも、これに関してはさして問題ないと考えています。実生活において、わからない言葉の意味を調べられない/誰かに聞けない状況はまずないですよね?

内田先生が何かで書いてたけど、(例によって、具体的なコトバは覚えていないのですが)「あそこにあれがあった」ことは分かっていないといけないんですよ。
でも、その子の能力になるのでしょうが、「あそこにこれとかんけいするかもしれないことがある」ことすら、忘れている、というか、覚えていない。

こわいのはそこなんです。
で、これを防ぐためには、それなりの程度の(基準はよく分からないけど。というか、その人の目的とするものになるのかもしれないけど)記憶力、コトバの意味を知らないといけないと思います。
で、実際、授業をしていると、最低レベルみたいなものすらが欠けているから、できない。調べる必要があることが存在することにすら気が付かないと言うべきか。

生徒と接していると、それが気になります。
いくら辞書があるからと言って、This is a pen.も、辞書を引かないとわからないようでは、纏まりのある英語は読めないということです。(英語ってのは単なるたとえですが。)

「調べる手間」ってのがバカにならないと思うんですよね。
訳もしてこい、という授業の様子で見ると、授業中に辞書を引いてばかりいる子は、家での辞書の引き方が足りない、要は、予習が出来てないことが多いです。で、肝心の授業が聞けないから、わからない、できない。自分では勉強を要領よくしたつもりで、実際はそうでない。そこに気が付かない。そういう子、たくさんいます。
私は、たぶん、執事さんの想定より、随分と下のレベルの話をしていると思います。

>欲を言えば先生が事前に「どういう類の、何を目的としたテストなのか」を通知してくれればそれで十分です。

私の場合は、「この勉強方法を続ければ、必ず英語が読めるように、出来るようになる」ためのテストだ、ということです。
だから、生徒はしんどい。出てくる単語や熟語は全部覚えてこい、文章構成を理解してこい、他いろいろ。
だから、私の授業は他の先生から「盛りだくさんですね」と言われる。(苦笑)容量の少ない生徒には、何がポイントかわかりにくいから勉強しにくいと言われるけど、(要は、試験に出やすいところを教えろ、だろうけど。)私に言わせれば全部がポイント。「今はまだこれとこれはやらなくて良い、覚えなくて良い」なんて、絶対に言わないから。教科書に出てきたからには、全部やれ。そうすれば1年か2年経てば、必ず英語ができるようになる。

>個人での生き残りの方法論を考え、それを一人一人に広める、という視点はどうでしょう。

「学校」はあくまでも集団を扱うところなので、個人での生き残りの方法論と矛盾するところが出てきます。(で、私は「教員」という立場から、「個と集団の対立・関係」に興味を持つのでしょう。)

生徒の側から見れば、また違うこともあるかなと思いますが、集団を壊すことはして欲しくないなというところ。その範囲内での自由というか何というかは、大いに結構、むしろ、どんどんやって欲しい、ということでしょうか。

執事さんへのレスってわけでもないですが、「学校」は、「平均レベルを引き上げるところ」です。
で、最善の教育なんて存在しません。たぶん、幻想です。どの子にとっても良い教育は存在しないと思った方が良いと思います。社会が豊かになって、その幻想に酔う人が増えたかな、と。(反感買いそう。。)

それから、人間の能力に対する幻想も感じます。「できる」ことが前提になっている。しばしば論じる「わかりやすさ賛美」が最たるものです。
学校の勉強は、小学校レベルでもどうしても「わからなくなる」人だって出てくるだろうし、中学、高校、大学、それぞれで「わからなくなる」人が出てきて当然です。学者になって、「わからなくなる」人も多いでしょう。アインシュタインだって、統一理論は作れなかった。
みんな同じなんです。

でも、だから、どうだってこともないんです。まあ、社会生活を送るに困らない程度の勉強は必要でしょうが、それにしても、手順を経た、「具体から抽象」を導き出せる学習方法をとって体得すべきもので、抽象がそのまま与えられ、「覚えろ」だけじゃないんです。
ただ、練習するうちに、「わかってくる」ことがないとは言わない。この力も大きい。でも、現在の学習方法は、ホントに、時間不足で、抽象がボンと、目の前に突き出されて、覚え込まされる。だから、それを与えられた子どもは、抽象も具体例と同じように扱う。で、せっかく勉強をしているのに、思考が階層的にならないんです。何でも並列。これが最大の問題。
生徒を見ていると、そんな小学校の時からの教育の影響を感じます。(って、私、同じことしか書いてないね。苦笑)

大学は、私の親は「4年間遊んでも良いから行け。」と言ってくれていました。4年間遊ぶことで、ものの見方の幅が出来ると思っていたのだと思います。モラトリアムOKの考え方です。(なんだかんだ言って、多少は本を読んだり勉強をする機会も増えるだろうし。)
18歳で生活のために働き始めるより、22歳まで遊ばせた方が、長い目で見た際、何かしら人生に潤いや、コトバにならない、ましてお金にもならない「何か」が与えられると考えたのだと思います。
私が今このようにものを考え、文章を書けるのも、一つには、4年間遊ばせて貰ったことがあると思います。(大学の勉強は何もしなかったけど。というか、自分の専攻に疑いを持った。まあ、それも良かったかと。)
この恩恵を十分に受けることが出来たのは、まあ、勉強はそんなにキライじゃなかった、というのは大きいかもしれないけどね。

「勉強なんて、どうしても嫌い、虫ずが走る」と言う人は、働くのも良いかなと思いますが。
教えている生徒の中には、昔だったら、言い職人になっただろうなと言う生徒はたくさんいます。かつての日本を支えてきたのは、そう言う大勢の人たちだったことでしょう。でも、今、彼らの仕事がなくなった。だから、「大学に行かざるを得ない」。でないと大量の失業者を生む。(大学の先生なども含めて。)

文明はどんどん進んでいき、「何かの仕事をするための最低限の知識の量」も増えた。でも、肝心の「人間の能力」そのものは「少しも高くなっていない」。だから、「ごく僅かの付いていける人」と「付いていけない人、付いていきたくない人」に分かれる。これも、「二極化」や「格差」に何か影響しているのかなぁ。。。

結論:文明の発達は、もうこれでいいよ。(笑・前にも書いたっけ?)

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「近代学校の破綻」から「市民リテラシーへの期待」へ (heisan)
2007-07-19 18:33:16
> >いまは小学校1年生からハイスピードで飛ばすのでしょうか(笑) まさかね)
>
> これ、あり得ると思いますよ。だって、授業時数が少ないもの。一回やって覚えたことにさせるってのは、時々耳にします。

まじですか?!(笑) せめてそれなら,宿題をたっぷり出すなどの措置を取ってもらわないとどうしようもありませんね.


> でも、時間がないから、基礎力充実と言って、教材を精選する、つまり、具体例を減らしているのです。

私が以前,内田先生のところで『虚数の情緒』を紹介しましたが,この本の著者の吉田武さんは,現代の教育の問題点はただ一つ,その「教えすぎ」にあると喝破しておられます.教えすぎ,つまり,余りある具体例から抽象を導き出すという過程にこそ学問の醍醐味があるというのに,その中核の部分がごっそり抜け落ちてしまっていて,すでに誰かが導き出してしまった抽象だけを,ハイと渡されるから,「勉強って分かんない」となる,という.


> 私が「感動」という言葉で表現したがっている(笑)ものには、こういった抽象化の過程があります。

私はそのお心をよく理解しているつもりです.


> 今は、それが随分、軽んじられていると思うんですよね。

「じゃあどうすればいいんだよ」という話になると,誰も答えられないからだと思うんですよね.じゃあ以前のように,土曜の授業を復活させ,最も指導要領上の内容が濃密であった時期に布告されていた遣り方に戻れというのか.そうじゃないだろう,あれはあれで問題があっただろう.

思うに,「教育というものの布石を上意下達的手法によって用意する」という考え方そのものがそもそも的におかしいのだと.
明治維新の頃にあれだけの革新的事業をやり遂げることができたのは,幕末の藩士たちにそれだけの力があったことが一つには効いているのでしょうが,その源泉は寺子屋や私塾であって,決して「上意下達的」ではなかったと思うのですね.
「上意下達的」教育システム(近代学校)の起源は,以下の引用にも示すように,ランカスター(イギリスの教育学者)に求められるでしょう.

<cite>
学級担任、登校義務、一斉授業などを特徴とする「近代学校」といわれる既存の教育制度は、19世紀初頭にアンドリュー・ベル東インド会社孤児院院長が孤児教育のために開発した教育システムを教育者ジョセフ・ランカスターが改良普及させたベル・ランカスター・システムが起源である。「近代学校」は19世紀において国民国家形成のために「国民」に「国民国家」という共同幻想をインプットする装置として普及した。
</cite>
http://www.nagaokauniv.ac.jp/m-edu/pdf/01paper3.pdf

ベル・ランカスター方式は,「より経済的・効率的に教育するにはどうすればよいか」という問題意識に駆動されることにより,考案された教育システムです.

「よりすくない人手で効率的に教育するにはどうすればよいか」

こんな考え方は,「教育とはそもそもとても時間のかかるものだ」と思っている人には,とてもじゃないけどできないでしょう.
とはいえ,明治初期に「欧州に右倣え」的に導入して以来ずっと続いてきた伝統に水を差すのは,そう簡単なことではありません.

じゃあどうすればいいのか.

引用元の紀要では,解決策として,アメリカにおけるチャーター・スクールやホーム・スクール,フリースクールが挙げられています.
チャーター・スクールは,日本でいうところの「教育系NPO法人による,国からの下請け」に相当すると思います.NPOはそもそも「形式的能力は持たないが実質的能力は持つ」と思っている市民に広く活躍の場を与えるための仕組みとして登場したという面もありますから,これは一つの,今後の「有り得る姿」だと思います.
そうすると,徐々に「過去の遺物」と化してくる既存の小中高はどうなるのか,ということですが,
私は,「NPO的な組織・人員が活躍する」という時流に沿い,中長期的には,徐々に民営化されていくのではないかと思っています.
小さな政府ではないですが(小さな政府ですが),郵便局が民営化され,刑務所も一部民営化されました.この時流に沿い,近いうちに教育も徐々に民営化されていくのではないでしょうか.
(学校の教師が知識を独占していた時代はもう終わったんだし…)

付け加えておきますが,別に民営化が目的というわけではないでしょう.社会の変化に対応するスピードが,国より民間のほうが断然速い.ならば,民間に投げたほうが適材適所である,ということだと思います.

さて,そうすると,「果たして民間で大丈夫なのか」という疑問が生まれます.教育内容は保証されるのか,貧乏人でもちゃんとしたサービスが受けられるのか,利潤主義の業者のカモになるだけではないのか(そのカモの量産を促進するだけではないのか),など.
「こういうことがどの程度問題であるか」は,「市民リテラシーがどの程度育っているか」によります.市民リテラシーという考え方は,家族型社会の復権を願う考え方と相通じるところがあります.



> heisanさんがおっしゃる「契約型社会」と「家族型社会」を、私はどのように理解して良いのかわからなかった
> 私は「個と集団」という視点で社会を見ています

私も実は,ほり先生のおっしゃる「個と集団」がなんなのかよく分かっていません(笑)


> 私の言う「個」は、すでに、集団に含まれているものとして考えています。
> heisanさんのおっしゃる「契約型社会」と「家族型社会」は人間のすることを、すでに「集団」として考えている。この点で、既に私とは、大きく視点の取り方が違う。

「"個"はすでに"集団"に含まれている」という考え方と,「人間のすることをすでに"集団"として捉える」考え方は,私は視点の取り方は同じだと思います.


> 契約型にしろ家族型にしろ、個と集団がごっちゃに論じられているようで、

私は,"個"の行動を論じるとき,常に「"集団"の中において,或る役割を持って位置づけられている"個"」という仮定を採用しています.私が考える「個」という言葉とと「集団」という言葉の語義の違いはこのような感じですが,いかがでしょう.
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情報処理に追われる時代,変化する大学の社会的位置づけ (heisan)
2007-07-19 18:27:11
> 「どういう類の、何を目的としたテストなのか」を通知してくれればそれで十分です。

それは正しいのですが,テストの場合どうしても逆説が起きます.分かりやすい目的に対応した問題はみんなが解ける,「意表を突く」問題(分かる人も居れば分からない人も居る)で差が出る,という事実がある.そこで,「みんなが解ける問題」よりも「意表を突く問題」のほうが重要である,という誤った認識が生まれる.例えば,大学入試で「文系でこそ数学が重要だ」みたいな認識がそれです.



> やり方次第かな、と。

確かに遣り方次第ですが,現代において求められているそれは,相当に難度の高いものだと思います.
数ヶ月ほど前に某誌に載っていた茂木健一郎氏と羽生善治氏の対談で,羽生氏が,「(事務的な)情報処理に自分の時間の大部分を取られることのないようにしないと」というようなことを繰り返しおっしゃっていたのが印象に残っています.
私はこれは,PC上でのタイピングによる書類作成の普及が功を奏した結果だと思っています.もし,PCがなく,紙と鉛筆がとても高価だったら,これほどまでに情報処理に頭を悩まされることはなかったでしょう.「処理しなければいけない情報を作り出すためのコスト」がほとんどゼロになったからこそ,我々は日常的に情報処理に追われるようになってしまった.木簡とか使ってた時代に「事務処理に追われて…」なんてことは想像できません.



> 寿命が二倍になったのなら、子供である期間も二倍になるのはごく自然

確かに,社会が成熟してくると,「社会人として生きるための能力」を身につけるのに,より年数がかかるようになります.例えば,今の社会では読み書きができなくてもできる仕事というのはほとんどないでしょう.
しかし,今の社会は,「社会人として生きるための能力」を身につけるのに必要と考えられる年数を,大幅に上回った年数が,猶予期間として若者に与えられているのです.私が問題視しているのは,この「大幅な上回り」についてです.
社会人として生きるために必要な年数と,実際に与えられている猶予年数との間の差に相当する時間が十分にあるからこそ,大学レジャーランド論みたいなものがでてくるのだと思います.

「大幅な上回り」によって生じる直接の社会的なメリットは,雇用が創出されることです.

大学生が大学をレジャーランドとして活用できてしまうのは,大幅な上回りによって創出された雇用により食いつないでいる人を生かしとどめるための資金を,大学生を扶養する親が文句も言わずに提供してくれているからに他なりません.

「そのような資金」を「そのような親」が提供してくれていることそれ自体に,私はあまり問題を感じません.
私が問題視するのは,大学が,その「大学である」という形式的事実(権威)に甘んじた結果,(大学の学費に比べればほとんどタダ同然である)「カルチャーセンター」や「ちょっとアカデミックな雑談をする同好会」に,その実質的レベルにおいてやすやすと負けてしまう,という事態が発生するかもしれない,ということです.こういう事態は特に「元手の要らない分野」において起きやすいと言えるでしょう.
私が問題視するのは,端的に言えば,「大学は学的権威を失うのはやばい」ということに尽きます.大学が権威を失うということは,大卒者と非大卒者の実質的違いが無いことがバレるということを意味します.その結果,多くの職場では「採用は,別に大卒じゃなくてもいいよな」となり,賢い親たちは,自分の子が大学向きでないと判断した場合,わざわざ大学に行かせようとは思わなくなる(世間体的な理由だけで我が子を大学に行かせることがなくなる).その結果,大学を職場とする人間がますますあぶれる.大学という場で長く職業訓練を受けた人間(大学教員)が無職者として放り出されるのは,税金の無駄遣いでもあります.
これらの元凶はすべて「形式的権威と実質的権威の乖離(はき違え)」にあります.形骸化した学的権威(形式的権威だが実質的権威でない権威)の組織に税金を投入するのは,税金の無駄遣いです.だから,「どうすれば税金を有効に活用できるか」という問題は「どうすれば形式と実質をはき違えずにすむか」という問題と一緒なのです.

余談ですが,いつの時代でも国の財政というものは苦しいものです.どこの組織も「うちには仕事に見合うだけの資金が国から給付されていない.もっとくれ」と言います.国はまじめに話を聞いているとすぐに財政が苦しくなります.
こういうときに着目されたいのは(有効なのは),「特に理由はないけど,前々からこれだけ給付をすることが慣習になっている」というような組織への支出に対し,その都度合理的検討を加えることですが,これはこれでめちゃめちゃ難しいでしょうね.
天皇という仕組みがずっと続いてきたのも,よくよく合理的に検討してみれば,「前々からそうなっているから」という慣習上の理由しかないわけです.それでも天皇という仕組みは千年以上の長きに亘って日本の国土に住む人間の意識を,道徳的に極めて強く規定し続けてきています.
こういう「慣習上の理由しか持たない存在」を無くすることが不適当であるのは,かかる存在が,(いつのまにやら)別の社会的機能を持つに至っているからだと思います.



> でも、大学ってそれだけの場所じゃありませんしね。

それは,大学レジャーランド論が叫ばれた後になってから,「大学の無意味化を避けるために発明された考え」だと思います.
いまや,かつてのような方法で,大卒者と非大卒者の違いを見出すことは困難になった.しかし,こんにちでは,以前とは違う方法で,大卒者と非大卒者の間に違いを見出すことができるようになった.正確には,「できるようにする」(という発明をする)ことで,大学の価値をかろうじて担保した,ということでしょうね.
# 「大学時代にしかできないことがある」なんていう,歯の浮くようなキャッチコピーを見るたびに,「うそつけ!」「それはお前の(いとたくましき)妄想がそうさせているのだよ」「お前がお前としての内的安定を得るために自身が生み出した幻想を見ているに過ぎないのだよ」と,真実を思わず叫びたくなります.
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バカにならない? (いまてかは)
2007-07-19 09:25:14
ちょっとばかり
>私ってバカなんだよね・笑)
というほり様のご発言に、コメントを付けておきます(笑い)

「他人の言葉の意味なりニュアンスなりを取り損ねる」は、「聡明ではない」という事を意味しないです。これ立派に説明するのはちょっと手間なのですけれども。

養老先生にしましても、「他人の言葉の意味なりニュアンスなりを取り損ねる」を結構やっているとお見受けしますが、養老先生は実に聡明な方かと存じます。
養老先生の本を碌に読みもせずに養老先生が使う言葉の意味を平気で取り違えて批判する人がいらっしゃいますけれども、そういう人の中にも実に聡明な方が居られます。

話は飛びますけれども、「考える」という基本的な言葉一つとりましても、或る著作には「考えすぎるな、考えすぎるところから迷いが生ずる。」とあり、一方別の著作には「迷うな考えろ、迷うのは考えが足りない(徹底していない)からだ。」とあり(中略)、わたくしはその両方の著者を共に尊敬し、その著作を拝読しています。
「常識」、「経験」、「感覚」なんていう言葉につきましても、人により相当異なる捉え方をしていますね。もちろん、その言葉に限らず無数にあるわけですけれども。
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コメントもうすぐ100だぁ~ (ほり(管理人))
2007-07-18 23:07:34
しゅーさん、お元気そうでなによりです。(と、最初、しゅーさん宛にしてみる。)

みなさん、ムツカシイことを書かれて、政治法学経済関係、ついでに歴史も、要は社会科全てに疎い管理人は、とてもじゃないけど付いていけませんが、どうぞ、ご自由にご義論ください。爪の垢を煎じてのませていただきます(って、どうやって?)。

いつだったっけ? 内田先生がブログに、都会の自由さ、どこの誰が特定されないまま好き勝手に行動できる自由もそろそろ終わり(「終わり」って言葉は使ってなかった気がするけど。)に来ているんじゃないかというようなことを書かれていたような気がします。(ちなみに、皆さま既にお気づきのように、私の記憶力は極めていい加減です。)それを読んで、「ああ、内田先生は、都会人だなぁ」と思いました。(で、覚えてます。)
内田先生は、契約型社会のなかで、顔の見える関係を形作るのも上手の方のようですね。(だから、苦手なITも税金も手伝ってくれる人を見つける。)

私は田舎で育ったもので、田舎のうるささというのはわからないわけでないのですが、それはそれで、「共同体維持のための一般常識教え合い機能」を果たしてるような気がします。小さいとき、近所の人から怒られたことだってあるもの。(昔は普通のことか。。)
まあ、皆の生活水準が似たような生活で、「それはおかしい」ってなこと、多くの人が面と向かってでもよく言ってたような気がするなぁ。見方を変えれば、「他人の家の中のことに口出しするようで、お上品でない」ということかもしれません。(今もそうなのかな?)
生活水準から生活様式まで似てるってのが、ポイントかな?まあ、互いに見栄を張ってあれこれすることもあるだろうけど。

その点、都会は、生活水準も様式も違いすぎる。持つ物から食べるもの、遊びに行くところまで、全然違う。だから、口出ししにくい。(みんな口出ししたいんだけれどね♪なんてたって、ご先祖さま皆の農耕社会構成員DNA持ってるだろうからね。笑)
だから、「両極端な振舞い方が目に付きやすい。」って(よくわかんないけれど)、ことになるのかな?

それより、しゅーさん、家庭教師までごくろうなことですね。(水は高いところから低いところに流れるということでしょう。)しゅーさんを雇ったご家庭は幸運ですよ。

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Unknown (いまてかは)
2007-07-17 16:51:33
(承前)
ちなみに、わたくしは、そういう予定は全く無かったのに、魔がさして?体育会系のクラブに所属することに成り、一方学業は疎かにし、ろくに勉強せず卒業してしまった「一応大卒」です。(入学前の意識には、しっかり勉強するつもりもあったのですけれども。)
なお、その部活動は、クラブ活動(を含む組織的活動)に入ること自体に消極的であったわたくしには、良くも悪くも望外の経験となりました。わたくしはその後或る方を師事する成り行きに至って居りますけれども、その方との出会いも、そのクラブ活動が無ければ、つながらずに没交渉のままで居たに違いなかったと思われるものです。
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Unknown (いまてかは)
2007-07-17 16:20:37
下記のコメントも牧歌的?にズレている事と存じます、どうも天然ボケの様で、本人は全くそうは思っておらず、普通だと思っている訳ですけれども、適当に、またいで置いていただければと存じます。

執事様の
>中卒高卒のリスクや、現在の社会がどういう状況かを見ると、
>大学に入って遊ぶ、というのもあり、だと思うのですね。
>こういう甘い意見は常に一蹴されてしまうのですけどっ。
を読みまして、「大学は、いわゆる文科系なら、大学は友達と出会い交友するところ。いわゆる理科系はともかく。高校より広くから人々が集まるところで友達を得るのには効用がある。」といった、“割り切り”を、ある方が述べて居られたのを思い出しました。その方は尊敬して来た方で立派な見識の方で、凡百の大学教授ふぜいより遥かに信頼できる方でしたもので、わたくしは肯定的に“なるほど”受け取ったままにして居りました。(※ 文科系といっても様々でしょうから、一概には言えないのかも知れませんけれども。)(※ 大学に入ったからといって、中卒より視野が広がるというものでもないでしょうけれど。大卒を凌駕する“一般的に偉い”中卒だっていくらでもいるでしょう。)

「本質的に、大学は独学で出るところ」。なお、「独学で出る大学」に関しまして、一例を挙げますれば、養老先生の本を師として独学するほり様の、ブログからうかがわれる知恵教養覚悟風格見識を思いましても、大半の日本の大学が提供できる程度の事よりも遥かに豊かなものを養老先生の本(など)から得ていることがうかがわれる訳で、(大雑把に、文科系の)学問するのに大学は要りません。

生身(なまみ)の先生をという事なら、カルチャーセンターの方が充実しているかも。そこで一応の言葉を交わせる事もあるでしょう。(一方、大学に入ったからといって、その先生を師事し得るとは限らないでしょう。)

以上を書きました後、「モラトリアムの効用」という言葉がひらめきました。
モラトリアムにも、良い点と悪い点があるという事を鑑みますと、「モラトリアムの功罪」。
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視点の取り方というか (ほり(管理人))
2007-07-17 00:13:09
heisanさん、しゅーさん(お久しぶり♪)、執事さん、コメントをありがとうございます。
ほとんど掲示板状態ですね。管理人としては、一向に気になりませんので、どうぞご自由にお使いください。レスはてきとーに付けさせて頂こうと思ってますが。

heisanさん、こんにちは。(14日の返信のつもりですが、全部書けないかも。)

>いまは小学校1年生からハイスピードで飛ばすのでしょうか(笑) まさかね)

これ、あり得ると思いますよ。だって、授業時数が少ないもの。一回やって覚えたことにさせるってのは、時々耳にします。
勉強って、具体例から何らかの抽象(共通点)を引き出すことだから、適切な具体例は多い方が良い。でも、時間がないから、基礎力充実と言って、教材を精選する、つまり、具体例を減らしているのです。で、逆に、共通点の理解がしにくくなる、あまりに概念的というか、共通点そのものの、「一種の具体」として、子どもたちが理解するという可能性(危険性)があると私は思います。
なぜなら、数々の具体に触れ、子どもはそれを「実感」として感じ取る。でも、その前に、概念化させられる。そんなの無理に決まっている。どんな情報も、身体を通してしか入力できないのだから、そもそも「時間が掛かる」ものなんですよ。でも、その時間をけちっているのが現状でしょうね。
もちろん、学年が進むと、進度は速くなる。それは、具体を通した概念化、抽象化に「慣れた」と言う前提で行われるからでしょう。

私が「感動」という言葉で表現したがっている(笑)ものには、こういった抽象化の過程があります。抽象化ってのは、「発見」だから。(脳の構造が変わるんじゃないのかなぁと疑ってます。)例えば、「問題が出来て嬉しい」という喜びの感動ではないんです。
で、今は、それが随分、軽んじられていると思うんですよね。

>むしろ,評価,評価と声高に叫ぶようになったことが原因しているのではないかと.
>でも,これに納得がいかなかった人たちが居たんですね(予想)
>Q2) お上に「評価せよ」と 言 わ せ て い る のは誰でしょう?

同じ人たちでしょうね。
たぶん、「自分はできる、自分は能力が高いのに、人はそのように評価してくれない」と思っている人たちでしょう。
ぶっちゃけて言うと(苦笑)、たぶん、その人たちは、本当にちゃんと勉強をしてない人たちですよ。(反感買いそう~。。)
だって、勉強すると、自分がいかにバカかがよくわかるもの。(笑)私は、勉強ってそんなものだと思います、はい。
勉強は、すればするほど、一般には、自分のバカさ加減がよーーーく分かってくるものです、はい。私は一般人としては、相当勉強をした方だと思うので、はい、よくわかります。(笑)

で、諏訪哲二さんの「オレ様化した子どもたち」のような、生まれたときから消費社会にくみこまれて全能感を持ったままオトナになった人たちが多く含まれているんじゃないのかな。まあ、彼らは勉強に熱心ではないようです。

それから、やっと気が付いたのですが(だから、私ってバカなんだよね・笑)、heisanさんがおっしゃる「契約型社会」と「家族型社会」を、私はどのように理解して良いのかわからなかったのです。ずーーーっと。ホントに。
で、なぜ分からなかったのかが、やっと、わかった。(笑)

私は「個と集団」という視点で社会を見ていますが、私の言う「個」は、すでに、集団に含まれているものとして考えています。(大きな○の中に、小さな・がたくさんある。○は集団で、・は個。)なぜなら人間である限り、集団に所属しないで存在することは出来ないからです。(養老先生が、コトバをしゃべる能力の有無で「人間」として社会化できた人とそうでない人がいたはずだというようなことを言ってます。言葉が使えるのが、社会に所属するための最低条件だったと言うことです。それで「集団」が成立した。)

しかし、heisanさんのおっしゃる「契約型社会」と「家族型社会」は人間のすることを、すでに「集団」として考えている。この点で、既に私とは、大きく視点の取り方が違う。
前者の「契約」は、具体的には、個人間の契約だけでなく、家庭、国家などの集団間においても結ばれるものでしょう。家族に関しても、終身雇用などの昔ながらの日本の「会社」は、家族型要素が強いでしょう。

と、考えると、私の目には、契約型にしろ家族型にしろ、個と集団がごっちゃに論じられているようで、わからなかったのです。私の「個」と「集団」の対立的な概念から大きくはみ出すので(というか、相容れない視点だから)、私は理解不能だったんだなぁとやっと気が付きました。(笑)

私は人間の行動の取り方としての基本はやはり、生物として個々に存在する「個」とそれらが集まって出来上がる「集団」という視点でものを見たいと思ってるのですが、heisanさんの概念はもう一段高いところに既に位置しているような気がするので、むずかしいなぁと思います。
分かったのはここまで。(笑)
返信する
Unknown (執事)
2007-07-16 00:01:11
試験問題、について。
学生の方で「この先生はこういう問題の出し方をする」というのを見極めればいいだけなんですけどね。欲を言えば先生が事前に「どういう類の、何を目的としたテストなのか」を通知してくれればそれで十分です。低い基準を設定すると、ずるずる落ちていくだけではないでしょうか。
問題へのアプローチの方法として、全体を引っ張っていく方法と個人での生き残りを図る方法があると思います。
全体を引っ張る方法論は重要ですが、難しいです。個人での生き残りの方法論を考え、それを一人一人に広める、という視点はどうでしょう。


>いくらでもいるでしょう.仕事にパソコンを使い,毎日メールチェックするような人種でありさえすれば.社会的に偉い立場にある人ほどたくさんメールを受け取るとも聞きます.

やり方次第かな、と。メールぐらいで脳の情報処理がパンクするのは、あまりに能力が低いか要領の悪い人であるように思います。フィルタリング能力の欠如。
立場に応じた仕事というものがありますから、立場の高い人は「その人でなければ対応できない」情報にだけ対処して、重要度が低く処理しきれない情報への対処は部下に割り振るのが普通では?
それでも情報がフローしてしまうなら、それは単に人手が足りていないのですw


大学全入と寿命のお話。
例えば寿命が二倍になったのなら、子供である期間も二倍になるのはごく自然、くらいの意味でした。それに伴う諸問題(少子高齢化とか)はまた別のお話、です。

んー、これそのものはごく自然な流れだと思うのですが、これを問題視なされているのですね。大学を将来の踏み台と捉えると、機能してないだろうな、とは思います。でも、大学ってそれだけの場所じゃありませんしね。
中卒高卒のリスクや、現在の社会がどういう状況かを見ると、大学に入って遊ぶ、というのもあり、だと思うのですね。
こういう甘い意見は常に一蹴されてしまうのですけどっ。


以下蛇足。
子供の都合、という視点から、あえて何も考えてない子のように書いてみました。大人の都合は重々承知の上です。
大人の都合、子供の都合、どっちもわからないではないのです。
ただ、現状設定されている「いい社会」は子供にとって都合が悪いですよねw 従わないのは当たり前です。
選択は三つ。
1.放置
2.力で従わせる
3.「いい社会」を設定しなおす→win-winな関係に!
ですね。
で、私はそれらに期待していないので、個人での生き残りを考えるわけです。

視点の提供ができたらいいな、と。
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Unknown (heisan)
2007-07-15 09:29:22
> 全問全く違う、というのはあれですが、全問アレンジ、はむしろ当然かな、と。
どこまでが「アレンジ」でどこからが「違う」のかの判断が難しいのです.「同じ」問題を出題しておけば,取り敢えず「違う問題じゃないか!」という批判を免れるので,そういう風にする先生が多いのです(きっと).
例えば,数学や理科だと,数字を変えたり訊き方を変えたりすればまあOKで,或いは英文法や漢字の書き取りでも,覚えるべきフレーズは変化しないのでそこを押さえておけばOKです.
ところが国語や英語の"文章"となると話は一変します.まさか原作者の文章を出題者が「アレンジ」しまくるわけにもいかないでしょうし.だから,「先生の解釈を覚える・たどる」というような勉強の仕方になり,いつまで経っても「自分で解釈できる」ようにはならない(誤解を恐れずに言えば).この辺は,言語の根幹に関わる問題ですので,その意味でも非常に難しい問題です.


> 実際、処理しきれないほど他人とコミュニケーションをとってる人っているでしょうか。
いくらでもいるでしょう.仕事にパソコンを使い,毎日メールチェックするような人種でありさえすれば.社会的に偉い立場にある人ほどたくさんメールを受け取るとも聞きます.
社会のIT化に伴い,書類が激増し,人間にくだる情報処理の量が増えた.(小中高大の先生方は)みんな忙しくなった忙しくなったと言いますが,何が忙しくなったのかというと,詰まるところ「事務処理の量が増えた」ということなのです.


> 単に寿命が長くなり、国の規模が大きくなっただけではないでしょうか?
長寿命化は富国化の結果もたらされるものだと思います.なんで長寿命化したかというと,医療が発達し公衆衛生が充実したから.なんでそれができたかというと,そういうことに投資するだけの資金が国にあったから.という.
「ただ寿命が長くなっただけ」では,仕事は減りません(多分).「長寿の方々のための日々の糧を用意する」という仕事が発生しますから(また介護の必要が出てくれば,その点でも需要が発生します).それだけではなく,プラス「社会が効率化する(ロボット化する)」ということが相俟って,仕事が減る.その減少を緩和している緩和剤の一つは,「『大学ぐらい出とかないと』と庶民が思ってしまうこと」それ自体のうちにあります(有り体に言えば).


> 能力的には就職した方がいい人が、進学「せざるを得ない」からではないでしょうか。
そういう実態が存在してしまう矛盾については,以下の引用から存分に窺えると思います.しかし,なぜ彼らは「進学せざるを得ない」のかというと,煎じ詰めればそれは,「『大学ぐらい出とかないと』と庶民が思ってしまっているから」に他ならないのです(早い話が学歴インフレです.かつてなら6年間でやっていたことを12年間かけてやらないといけないことになった理由はただ一つ.教員の需要を拡張して雇用の創出を図るため.これは同時に,就業開始年齢を底上げすることにより仕事人口(22-60?歳)を低く抑えておくという効果も持つため,一石二鳥.国が喜ばないはずはない.).

<cite>
実際、多くの(特に「進学校」という事になっている中堅程度の偏差値の高校の)教員の経験する事だと思いますけど、「こいつは、性格的にも能力的にも、大学に行くより、高校を出てすぐに職人の世界に入って技や芸を極めるとか、若いうちから社会に出てバリバリ揉まれて立身出世していくようなタイプだろ……」と思うような生徒に、そういう思いを押し殺して進学指導をする──なんて事は、実は案外少なくないんじゃないかと思っているのですけど、どうなんでしょう。
だって、本人にも保護者にも「就職」の「し」さえ言い出せる雰囲気はないし(「ウチの子は大学に合格できないとでも言うんですかっ!」)、「進学校」って事になってるから求人なんてないし(指定校推薦制度のなんとありがたい事よ)、だからといって就職先を開拓する能力も余裕もないし(受験科目以外の科目さえやる余裕がないのに)、人を見る目に絶対の自信があるわけでもないし(江原啓之は凄いよなぁ)、小心者な一教員が言い出すには、あまりにも計り知れないリスクなわけで、とてもそんな事を提案なんてできないよ……と思ってしまうような軟弱な「でもしか」教員がいても、一応非難はするけど心底軽蔑するまではできないかなぁ……と(むしろ同情?)。
</cite>
(by 田部勝也 様)
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=4892#com4940
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Unknown (執事)
2007-07-14 23:41:52
>それから、生徒は、「答え」が手元にあると、それだけで安心して「覚えたつもり」になるものなのです。(電子辞書が同じような例。すぐに引けるから、単語の意味を自分で覚える気がなくなる。ケータイに番号を入れると、番号を覚える気がなくなるのと同じでしょう。最近、自分の自宅の電話番号を覚えてない人が多いとか。)これが実に危険きわまりない。(byほり)

あ、私がそうです。辞書がないと訳せないし、番号は自宅しか覚えていません。
でも、これに関してはさして問題ないと考えています。実生活において、わからない言葉の意味を調べられない/誰かに聞けない状況はまずないですよね?
道具を忌避する感情、なのかな?
いずれ消える感情であり、問題なのではないかな、と思います。
私は、必要な時に調べればいいものを覚える暇があるなら、本を読みたいし遊びたいです。


>「そういう問題を一定数出さないと,教科書や問題集を一所懸命やってきた生徒が報われない」
>(でないと)テストにおける結果とは,もともと(授業が実施される前から)できる生徒は高得点を治め,もともとできない生徒は,低得点(by heisan)

問題集とはそこから普遍的な手法を読み取るためのもの、と認識しています。全問全く違う、というのはあれですが、全問アレンジ、はむしろ当然かな、と。
努力に関わらず差は出るのも、当たり前かな、と思います。例えば最低点が10点と50点のテストでは、他人と競える領域がそれぞれ90点と50点までに減少してしまいます。頭のいい子は他人と差をつけるのが難しくなりますよね。息苦しいな、と感じます。
国語がトップクラスで、英語が底辺だったので、立場次第でやり方に対する評価が変わるのは百も承知ですけどね(ちなみに、どっちも「嬉しくない」やり方でしたw)。

大学全入時代、とかについて。
単に寿命が長くなり、国の規模が大きくなっただけではないでしょうか?
寿命と平均的な家庭の暮らしぶり、加えて教育関係の国の予算÷学生数、をみてみるといいのでしょう。
一昔前は、今国立大学に入る金で私立に入れたのですよ。私立に通う身からすれば笑っちゃいますね。


授業が早くてわからない、について。
能力的には就職した方がいい人が、進学「せざるを得ない」からではないでしょうか。
たとえ内容がわからなくても、後のことを考えると進学するのが合理的、みたいな。先が見えてるけど、能力が追いついてこない感じ。
先が見えず、能力がないよりはまし、皆が皆、先が見えて能力がある、なんてあり得ない。なるべくしてなっているように思います。


>一人の人間に一日に要請されるコミュニケーションの量が人間の能力の限界を超えてしまった(by heisan)

そうでしょうか。
実際、処理しきれないほど他人とコミュニケーションをとってる人っているでしょうか。
ていうか、文章が矛盾してますよねw
時間は止まらないから、その中で処理できるだけしか処理できないわけですし。
その内最適化されるものですし、現にそうなってるように思います。それができない人は、社会に適応できていないのでしょう。

ケンカ売ってるような文章になっちゃいましたw
嫌いな人間には極力近づかないタチですので、悪意はほんの少し混じってるかどうか、です。
気にしないで下さい。
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右往左往 (heisan)
2007-07-14 21:57:59
お久しぶりです,しゅーさん.お元気ですか?

> 山岸俊男さんがいうところの「安心社会」「信頼社会」という感じですか?
チラッとみましたが,っぽいですね.

> そんなに全面的に移行というのは憧れはあっても本当はそうしたいと思ってないんじゃないかと。
長期的にみればその通りだと思います.

> 相互監視(顔の見える社会)はうざったい、よって利益社会ルール(巨大監視)での法に基づく責任を負うにやぶさかではないが、受け取る果実は、共同社会っぽい安心が欲しいというのが現在の状況ではないのかと。
そのジレンマのなかで右往左往しているのが今の社会でしょう.そして,なんとかして両立できないものかと模索する…
僕はこれの一つの原因は,現代は(様々な意味での)グローバル化によって,一人の人間に一日に要請されるコミュニケーションの量が人間の能力の限界を超えてしまったことにあるとみています(ああ,また余談が広がっていく‥(笑))
昔は「親族と職場とご近所づきあい」だけで済んだのが,今や広がりまくり.人間の能力の限界は数年やそこらで伸びるものではないから,なんとかして,処理するコミュニケーションの量を一定の範囲内に収めなければいけない.そこで登場したのが「契約型社会のルールを家族型社会のなかに割り込ませる」という手段だったのです.この手段のおかげで,僕たちは,近所のコンビニやレストランで食事をしに行くさいに,かつてなら感じていたあのまどろっこしい「世間体」とやらをほとんど気にしなくてよい社会を実現することに成功しました.人間的なコミュニケーションをするのはエネルギーが要る.よってそのエネルギーは,本命の「親族や友人や職場の人やご近所さん」のためにとっておき,それ以外の場では,マニュアル的・機械的な言葉を喋ることで,エネルギーを倹約することに成功しました.それが,角度を変えて見れば,「冷たい世の中になったなあ」とも映る,ということだと思います.
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久しぶり (しゅー)
2007-07-14 21:23:14
元気ですか、ほりさん。

heisanの大分前のコメントから引用。
(始まり)
利益社会は,人工的に創始された社会である.よって,これを人工的に改変することもまた可能である(少なくとも理論上は).私は,現行の利益社会に適用されているルールを,「より共同社会っぽいもの」(互いに相手の顔が見えたっぽくなるもの)に改変することによって,かかる常識を我々の手の中に呼び戻すことができるのではないかと考えている.それ以外に有効な打開策を思いつかない(思いつく人がいらっしゃったら是非ご教示願いたい).
(終わり)

山岸俊男さんがいうところの「安心社会」「信頼社会」という感じですか?中公新書の「安心社会から信頼社会へ」のを読んだあとで、ウェブ上で他の方と話していて、徐々に感じてきた違和感を思い出しました。そんなに全面的に移行というのは憧れはあっても本当はそうしたいと思ってないんじゃないかと。

相互監視(顔の見える社会)はうざったい、よって利益社会ルール(巨大監視)での法に基づく責任を負うにやぶさかではないが、受け取る果実は、共同社会っぽい安心が欲しいというのが現在の状況ではないのかと。そしてこの安心社会の基盤は日本はかなり強固だと私は感じています。だからこそ、両極端な振舞い方が目に付きやすい。したがって、heisanのこの部分はかなりうなずけます。ただ、具体的にはどうしたらよいのか、私は今でも時に悩むことがあります。

田舎に帰っても、昼間の社ノルマ終わっても、なんか夜は夜で、家庭教師に駆り出されたりするんですよね(あうう、この大学名この場合はgoddam・笑。)そんなとき、各家庭の状況、その子の考えていること、学校の対応などをいろいろ考えるとね。

ほりさんも忙しいと思うけどかんばってくださいね。田舎から応援してます。
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ここでもやはり"契約"か"家族"かのコンフリクトが… (heisan)
2007-07-14 11:33:27
朝早くからお返事ありがとうございます.


> 今は仕事が減ってきているから、

今後もっともっと減るでしょうね.
ここ(http://d.hatena.ne.jp/essa/20070131)ではそのことが予想的に記されています.ゆくゆくは「仕事にありつける」ことがもの凄く貴重になると同時に,大多数の人間は働かなくても暮らしてゆける時代が到来すると.もし人々が「働くことは美徳である」という観念さえ捨てることができたら,すべての人々は幸せになれるだろう,的なことが書いてある.
確かに理路としてはその通りだと思う.でも,「働くことが美徳である」のは,人類史開闢以来続いてきた伝統ある観念であるから,これを捨てた人間は遠からず自尊心を捨てることになり,そうすると自分に自信をなくして生きる価値を見いだせなくなり…,という風になることは必至であるので,これを捨てることはまずできないだろう.だから,そういう仕方ですべての人々に幸せが訪れるということはないだろう,と思う.


> 小学校の授業は、たぶん、全く異なる性質のものを受けたのではなかったかと思いますよ。
> 昔は、本当に丁寧に授業が行われました。
> 、1,2日欠席しても、同じことを繰り返し学習するので、そんなに分からなくなることはなかった
> ところが、週5日制で授業時数が減

同じ事を繰り返し学習する余裕があるかどうかは,週5日制以前・以後には因らない問題だと思います.
小学校のテストでは多くの子どもが満点を取るのに,なぜ中高になるとそうでなくなるのか? 当時私はこのことに疑問を持っていました.その答えはおそらくこうです:
単純に,小学校では同じことを何度も何度も学習するから.例えば5回くらい.進度がゆっくりでかつ5回.ところが,5回が3回,2回になり,終いには1回になる.また,回数が減ると同時に速度が上がっていく.二重の困難が子どもを襲うわけです.そりゃ,満点取るのが難しくなるわけですよ.
いつまでも小学校気分ではおれない.で,小学校気分でおれなくなってくるあたりから,勉強が「情報処理的にパッパッとかたづけるもの」になってくる.


> 今日は「8」を勉強します

いまでも小学校では「当然に」そういうことが行われているものだと思っていますが,違うのでしょうか?(いまは小学校1年生からハイスピードで飛ばすのでしょうか(笑) まさかね)


> で、結局、勉強から「感動」が失われた。

う~ん,これはどうかな,と(もちろん一理あるのですが).というのは,もし,授業の高速化ゆえに感動が失われたのだとすれば,1970年代後半の一番指導要領上の学習量が多かった時代においても,いまと同様の「感動の失われ具合」が呈されていなければいけないことになる.いまの「感動の失われ具合」はなにもいまに始まったことではないと.歴史が繰り返されただけだと.そういうことになりますね.
でも,なんか,そうじゃなさそうだ.昨今の事態は,未曾有の危機的状況っぽい気がする.これは錯覚なのでしょうか??(錯覚である可能性も拭えません(笑))


> 小学校の授業時間数を増やすことに尽きます、はい。
それが全てです。大事なのは、小学校です。(しかし、今は、教員がそれだけ教えられるかどうかの問題がありますね。)


> 教員が「勉強とは暗記」とすり込まれているから。

教員がそう刷り込まれているというのはあまりに言い過ぎな気がします.
(まあ,「授業なんぞはそつなくこなしていさえすればそれでいいのよ」的な,「あんた絶対クラブ目当てで教師になっただろ」というような先生もいらっしゃるにはいらっしゃいますが…)(←そういう先生はそういう先生でいいのです.私は教員集団というのは多様性に満ちあふれていたほうがいいと考えます.)
むしろ,評価,評価と声高に叫ぶようになったことが原因しているのではないかと.

お上) 評価せよ.でも記述式じゃだめ.客観性に欠けるから.
現場)じゃあ何ならいいの?
O) 記号式かマークシートでどう?
G) それが諸悪の根源なんだってば!

記号式は契約型社会の論理.記述式は家族型社会の論理.ここにも,学校への契約型社会の"浸潤"が大きな問題となって現れていますね.家族も崩壊するわけだこりゃ(笑)

そもそも,一昔も二昔も前の学校では,契約型社会の評価基準に頼らなくても,十分に妥当性のある評価が,教師によっても,また同胞の子どもたちによっても,なされていたものと思います.
先生が,できの悪い生徒に「○○君(=優秀な生徒)の爪の垢でも煎じて飲みなさい」というようなことを平気で言っていた時代.
そして,その「すでになされている評価」に誰も口出しをしなかった時代.
これは小浜逸郎さんの著作にある話ですが,そもそも,「誰がどのくらい賢いか」というようなことは,わざわざテストで厳密に評価してもらわなくても,普通に会話していれば「だいたい分かる」というようなことを書かれています(辛辣ですが真実でしょう).
「このクラスで一番できるのはだあれ?」と先生が質問したときの子どもたちの答えがピタリと一致する.じゃあ二番目にできるのは? と訊いてもやはりピタリと一致する.人間の能力をあなどってはいけません.

私たちは「誰がどのくらい賢いか」というようなことは,ちょっとコミュニケーションしていれば,お互いに「だいたい分かる」のであり,しかもその判断はかなりの精度で正しい.

でも,これに納得がいかなかった人たちが居たんですね(予想).「できる子とできない子がいるなんて,公平じゃない」みたいな.だから,公平性・公正性が重視される社会になればなるほど,「そーゆー話」はだんだんできなくなっていった.「クラスで誰がどのくらい賢いか」というような事を大っぴらに言うのは恥ずべきことだといった風潮が広がった.

「人間に備わっている,人間の賢さの程度を計る能力を過信しないようにしよう」という風潮になり,代わって,別の尺度が登場するに至った.それが記号式やマークシートに代表される「客観テスト」なのではないか.そういう「代わりの尺度」が生まれた背景には,次のような感情が見え隠れします.

「人間が人間を判断するなんて,おこがましい」

(Q1) 私たちは,このような感情に対して,どのように対応したらいいのでしょうか.家族型社会のルールにのっとって,あくまで「おこがましくない!」と言い張り,かつて誰もが渇望していたかに見えた「公平性」という理想を追い求めることをやめてしまうのがいいのでしょうか.それとも,契約型社会のルールを採用して「いやいや,代わりの尺度がまだ未完成なだけだ.これを改良していけばその先にはきっとすばらしいものがある」と考えるのがいいのでしょうか.

それから,もう一つの問題
(Q2) お上に「評価せよ」と 言 わ せ て い る のは誰でしょう?
(自分も考えます)
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小学校の教育の変質 (ほり(管理人))
2007-07-14 08:05:29
heisanさん、コメントをありがとうございます。

正にいろんな点で、おっしゃる通りですよ。

後の方のコメントと関係しますが、そもそも学校が増えたというのは、大卒者の就業の場を増やしたことを意味します。
このことについては、私がこのブログを始めたばかりの2004年11月に「大卒同士の相互扶助(1)」~「同(3)」に似たようなことを書いています。(04年は、それでも今の教育課程以前のことです。この記事、もっと続くはずだったのですが、途中で終わってしまってますが。)大学進学とゆとり教育は、失業者対策だ、という要旨です。(笑)

このブログのどこか(記事? でも、コメントかな?)に書いた気がするけど、小企業の雇われ社長をやっていた伯父が、もう20年、30年前になると思いますが「今は仕事が減ってきているから、大学院に進学者が増えるのは失業者対策になる」と言っていました。heisanさんがおっしゃることとリンクしますよね。

さて、

>なぜって,彼らにとっては遠く小学生の頃から,テストとは「そういうもの」であったから.

そうなんです。
私は、問題の根幹が小学校の授業にあると思っいます。
たぶん、heisanさんは、私よりずっとお若い方と拝察します。で、小学校の授業は、たぶん、全く異なる性質のものを受けたのではなかったかと思いますよ。

昔は、本当に丁寧に授業が行われました。ゆっくり、ゆっくり、丁寧に、ひらがなの読み書き1つをとっても丁寧でした。(だって、小学校の入学式の日、私の隣の席の子は、自分の名前のひらがなが読めませんでした。)そういう子でも、きちんと読み書きできるようにしてくれたところでした。ひらがなの文字の形1つとっても、間違いがないように、丁寧に丁寧に教えてもらいました。書写の時間も、必ず週に1時間ありました。(筆を持って書く行為は、一部の学習障害児に有効らしいですね。)
算数も、そうです。おはじきを数えて、1つ1つ、数字も計算も習いました。授業で何度も何度も繰り返しやりました。授業に余裕があったからです。私が教員になってからも、「今日は「8」を勉強します」(2006年8月)に書いたような授業が行われていました。だから、1,2日欠席しても、同じことを繰り返し学習するので、そんなに分からなくなることはなかったはずです。
ところが、週5日制で授業時数が減って、国語、算数が減り(つまり、勉強の根幹が減り)、一度教えておわり、になった。で、これで理解できる子はほとんどいないはずだから、ほとんどの子は、勉強とは「瞬間的な暗記」であると「学習」し、今、高校生になっている。で、それこそおっしゃるような、「情報処理的にパッパッと片づける」(例:「テストにどこが出るんですか?」「どこ覚えたらいいん?」「何やったらいいん?」)という仕方で,学校の授業を「処理」「消化」するでしょう.」という考え方になっているのです。

>> こんな風に、「あーでもない、こーでもない、でも、こうかしら?」などと思案することが、大事

>よほどの物好きでなければ,そんな呑気で悠長なこと,わざわざやらないからです.

で、大昔は、「あーでもない、こーでもない」を小学校の授業で学習していたのですよ。だって、間違える子は多いから、必然的に、授業がそうなる。そうならざるを得ない。で、時間的にそれを許す余裕があった。
で、「あーでもない、こーでもない」という言う姿勢が、高校生の勉強に繋がっていた。
使える材料(重要用語集)なども少なかった。
でも、今は、違う。全てが情報処理的なわけです。で、情報処理的な参考書が多い。(「ごまかし勉強」の本にあるとおりです。ま、この類の本も、実は「失業者対策」の一環でしょう。)

で、結局、勉強から「感動」が失われた。これが私は今の学校教育が持つ最悪の問題点と思います。
以前書いた記事、「アルキメデスはなぜ喜んだか」(06年10月)に関連します。

よって、

>もとから大多数の生徒にとって,授業なんぞは「やっつけ仕事」であります.
そして,クラブ活動や予備校或いは趣味など,自分が最もエネルギーを注ぎ込みたい事柄に集中するのです.そのための時間を確保するのです.

と言う場に学校が変質したのです。
だから、今は、部活動や学校行事で「感動」を求めるのですよ。(学校によっては、「学校祭」に賭ける熱意は異様なほどですよ。)で、「授業は最低限の労力で賄う」のが最善と生徒は捉えるようになったのです。
だって、「勉強とはそういうものだから」を幼いときからすり込まれているから。で、先生も、そう言う教育を受けている人が多くなってきたから、生徒と共鳴する。

>じゃあどうすればいいのか?
(これは私の身勝手な願いですが,)授業中くらいは,大多数の生徒が(「写生」でなく)「勉強」できるような授業をしてもらいたいなあ,と心ながらに思うのであります.
でもこれって,「やる気になるような指導」をしてもらいたいなあ,と願うのとどこが違うのか,って言われたらそれまでなんですけどね(笑).

小学校の授業時間数を増やすことに尽きます、はい。
それが全てです。大事なのは、小学校です。(しかし、今は、教員がそれだけ教えられるかどうかの問題がありますね。)教員が「勉強とは暗記」とすり込まれているから。

この間、どなたかのブログに「法科大学院」の入試に、ラッセルの幸福論が出ていたと書いてありました。私は、高三の授業で読みました。
ここ30年の変化でも、そんなものだってことですね(今の大学院進学率は、30年前の大学進学率です。)
返信する
「先生のための授業」の時代,先生がラクすると生徒もラクする2 (heisan)
2007-07-14 02:03:34
> でも、言い訳をすると(笑)、高校の学習内容を本当に理解できる生徒層は、少ない、ほとんどいないと言って過言でないはずです。量においても質においても理解できない方が多い。

認めたくないことではありますが,それが現実だと思います.

最近,『旧制中学入試問題集』という本を買いました.その名の通りの本ですが,問題の難度に驚かされます.かつての12歳はこんなことを勉強していたのか,と.

昔は小学校までが義務教育でしたが,いまは高校までが義務教育という状態だと言っていいでしょう.これはなんとなくですが(また,他の方を言及しておられますが),旧制中学入試の難度と今の大学入試の難度はいい具合に一致するのではないかと.

よく年配の方々が「私らは小学校しか出てませんから」なんておっしゃるけれど,それは今で言うところの「高校までは出た」に対応するのではないか.

しかし,それを思うと,はたまた「大いなる無駄」を前にして頭をかしげざるを得ない.なぜ昔の子どもが6年間でできていたことを,今の子どもはその倍の12年間もかけてやらなきゃならんのか.

私は,その理由を,次のように考えています:
社会が豊かになればなるほど,人々は小額の投資で自身を満足させることができるので,市場は供給過多となり(モノが売れない),就職口は減ります.また,社会の稼働力としてのコンピュータやロボットが優秀になればなるほど,人は要らなくなります.要するに,仕事がなくなる.富国化とロボット化によって「仕事がある」ということの価値がどんどん高まっていく.
しかし無職の人が増えることは,国としてよくないから,国は何とかして雇用創出を図らないといけない.
しかし,職でありさえすればなんでもいいわけではない.残ってる仕事はパチンコ業や金融業や風俗業ばかりという事態を国は望んでいないだろう.
そこで出てきたのが,「教職」なのではないでしょうか.
すなわち,「社会人として一人前に働いて良い」とする年齢を引き上げる,という政策を打ち出す(ないしは引き上がるように色々と手を加える).
実はこれは,何も国が頑張らなくても,世の中ではすでに「ひとりでに」起こっている現象なのです.

「いい大学に入ればいい会社に入れいい生活ができいい人生にありつける」という神話をみんなが信じていて,かつ,大方の親が子どもを大学に入れるだけの資金を何とかして捻出できていたからこそ,みんながどんどん大学に入るようになり,どんどんと大学進学率が上がっていったのです.そして,それと同時に,「大学に入る」ことの価値は下がっていった.
「大学」というのは一種の付加価値です.かつて,この付加価値を身体にへばりつけた人間が,世の中でいい思いができると信じられていた.しかし,大学進学率の上昇に伴い,大学の付加価値は下がっていった.すなわち,いい大学に入ったからといって,いい会社にありつけたりいい生活ができたりいい人生にありつける,というわけではなくなってきた(みんなが大学に入るようになってきたから).

だから今度は「大学院」や「専門学校」や「資格」という,別の付加価値が大手を振って歩き出している.いまでは,大学卒業後も,このような形で,別の付加価値(まだ廃れていない付加価値)を身につけてから就業しようと考える人も少なくない.
こういった趨勢は,結果的に「社会通念において,『社会人として一人前に働いて良い』とする年齢が引き上がる」という効果をもたらす.そしてこの「引き上がる」という運動は,「富国化」や「ロボット化」が勢いを止めるまで,とまるところをしらないであろう.

「富国化」が止まるとは,子どもに付加価値をへばりつけさせるだけの資金が親において尽きることを意味する.現に資金がないから若い年齢で就業,というケースもあるにはあり,こちらも大多数だが,一方で,いつまでも新たな付加価値をへばりつけさせるための資金が尽きない裕福な親もまたそれなりの人数存在する.
これをどう見るか(どう評価するか)はなかなかに難しい.
「いつまでも新たな付加価値をへばりつけることを希望する人間」のことを,「いつまでたっても完成しない人間」と揶揄することもできるが,一方で彼らは,教育産業という市場を活性化させるのに多大な貢献をしている,とも言える.だいたい,いまの日本人は,小額の投資で満足できてしまうからか,将来の不安に備えてか,とにかく財布の紐が堅くなっていて,どの商売人も「モノを買わせるのに一苦労」と嘆いているが,そんな商売人にとって,そういう「市場に多大なる貢献をする人間」の存在は重要である.また同時に,その貢献の元手は,もとをたどれば富裕層が持つ資金から出ているのだから,これはいいことだと思う.少なくとも,「貧乏人から搾れるだけ搾り取る」的な商売をするよりはずっといいことだと思う.

話を戻しましょう.
「富国化とロボット化によって標準就業年齢が上がる」というのは一つの側面ですが,別の側面からも見てみましょう.
なるほど,標準就業年限が上がるのは分かった.では,われわれ人間・子どもは,その教育機関に身を置く年数が増えた分だけ,賢くなっているのか?
残念ながら,現実を見る限り,その答えはノーでしょう.もし賢くなっているのであれば,かつての尋常小学校卒の学力と,いまの高卒の学力が一緒くらいだろう,なんて話がそれっぽく聞こえるはずがありませんから.
われわれは,明らかに無駄なことをしています.
かつてなら6年でできたことを12年もかけてやっている.そして今ではなおその年数を引き延ばして無駄を多くしようとしている.
どうやら「学校は先生のために存在する」「学校は先生が食っていくために存在する」という文言が真実味を帯びてくるのも時間の問題ですね.

かつて人々は「切羽詰まって」いた.人々はなんとかしてこの「切羽詰まり」度を低減できないかと心から願い,額に汗して懸命に行動した.そしていまや,その願いは叶った.子どもたちは,かつての子どもたちが6年かけてやらなければいけなかったことを,12年もかけて「のーんびり」やってよいこととなった(※).これを,かつての人々の心からの願いが真に成就したことの言祝ぐべき成果と言わずしてなんであろうか.

※ 同時に,同じだけの教育効果を得るために必要な資金の額は上がっていますがね.尋常小学校に6年間通わせるのに必要な資金額と,子どもを高校までやるのに必要な資金額が同程度だとはとても思えない.



> だから、先生は、黒板とチョークで、その場限りの授業をするのが結局一番効果的。もちろんある程度は授業の仕方にもよりましょうが、考える力もそれなりにつき、総じて平均点が長期的に上がるものと思います。

共感致します.
私は手ぶらで教室に来て,チョーク一本で授業をする先生を知っていますが,見事なものです.全部頭に入っている.
先生がカンペを見て授業している場合,「それさえ手に入れば…」とか「なんだ,先生も結局"いま"は考えてないじゃないか」という邪心を生徒が持つ余地がありますが,それがないので,もう聴くしかない.頼りになるのは「先生の頭」のみ.「先生の身体」のみ.こういう状況が,生徒を「活性化」させ,真の「勉強」へと導くのだと思います.
(もちろんこれは,何年も同じ授業をやってる先生でないとまず無理だし,教科による違いもあるのでそこら辺が難しいのですが…)

いまは,先生がラクできる道具が増えすぎた.先生がラクしていると,いつのまにかそれが生徒にもシンクロするようになる.(わたし的な言い方で言えば,先生自身が,自分の内部から紡ぎ出された言葉ではなく,教科書の二番煎じのような言葉をしゃべっていると,その違いは必ず生徒に伝わってしまう(だろう),ということになります)
というようなことではないかと思いますが,どうでしょう.
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「先生のための授業」の時代,先生がラクすると生徒もラクする1 (heisan)
2007-07-14 02:02:49
> 確かにおっしゃるとおりです。「追い立てられる場所」が学校なのですよ。(笑)

共感致します.
「仕事や勉強」と「遊び」はどこが違うかというと,自分に負荷をかけるか否かだと思います.もちろん,「遊び」でも負荷をかけることがありますが,その場合はいつでも好きなときにその負荷をかけることをやめられるという自由があります.しかし,「仕事や勉強」にはそれがありません.
「本人の意思がどうであろうと,その本人が一定の負荷を被らなければならない事態」,これが,「仕事や勉強」の本質ではなかろうか,と.


> 生徒は、小テストを数多く受け続けることで、「勉強とは瞬間的な暗記であること」と「学習」し、思考することを忘れ始めた。

いや,私の考えでは,そもそも生徒たちは,小テストを数多く受ける前から,「勉強とは瞬間的な暗記であること」を学習済みであったと思います.なぜって,彼らにとっては遠く小学生の頃から,テストとは「そういうもの」であったから.

所詮,学校の勉強なんて,「瞬間的な暗記」に毛が生えた程度のものでしかないでしょう(誤解を恐れずに言っておりますw).「一夜漬けが効果がある」ことがなによりもそれを物語っています.なぜって,まじめにウンウン考えるような勉強をしても,成績には結びつかないし,みんなには置いてけぼりを食うし,よほどの物好きでなければ,そんな呑気で悠長なこと,わざわざやらないからです.
むしろ,小テストがなければ本テスト(大テスト)の直前にしか勉強しなかった生徒が,小テストをするようにしたおかげで日常的に勉強を習慣づけられるきっかけを得られるということがあると思うのです.


> こんな風に、「あーでもない、こーでもない、でも、こうかしら?」などと思案することが、大事

正論ではありますが,これにじっくり時間をかけることのできる生徒は稀でしょう.そういう稀な生徒は,その分野に深入りして,例えば大学ではその分野を専攻しようと考えるでしょう.
それを将来専攻するつもりがない,ないしはそのじっくり時間をかける行為そのものを楽しむということはしない大多数の生徒は,それこそ「情報処理的にパッパッと片づける」(例:「テストにどこが出るんですか?」「どこ覚えたらいいん?」「何やったらいいん?」)という仕方で,学校の授業を「処理」「消化」するでしょう.
もとから大多数の生徒にとって,授業なんぞは「やっつけ仕事」であります.
そして,クラブ活動や予備校或いは趣味など,自分が最もエネルギーを注ぎ込みたい事柄に集中するのです.そのための時間を確保するのです.


> だから、この問題は、ある意味、というか、ほとんど「定期テストの出題の仕方が悪い」と言い換えることも出来るんですよ。(苦笑)

ごもっともです.
もし英語においてそのような出題の仕方が悪いのであれば,国語においても同じ事が言えるでしょう.
本当に「そのような出題」は悪いのでしょうか.
私が以前知り合いの数学の先生に,「教科書や問題集と同じ問題を出すのは,答えを暗記してくる奴が居るからやめたほうがいいのでは」ということを言うと,「そういう問題を一定数出さないと,教科書や問題集を一所懸命やってきた生徒が報われない」というようなことを言われました.
これは,一理ある話です.
もし,教科書や問題集と同じ問題(同じ文章)が出題されないのであれば,生徒は,何を勉強してよいのやら分からず,勉強しない生徒が増えるでしょう.その結果,テストにおける結果とは,もともと(授業が実施される前から)できる生徒は高得点を治め,もともとできない生徒は,低得点ということになるでしょう.そうこうするうち,授業の実施前と実施後で俺たちの中では何が変わったのか,あの授業は聴くだけ無駄だったのではないか,と思い始めるでしょう.そういう授業では,寝る生徒が増え,ますます授業がなりたたなくなっていくでしょう.

じゃあどうすればいいのか?
(これは私の身勝手な願いですが,)授業中くらいは,大多数の生徒が(「写生」でなく)「勉強」できるような授業をしてもらいたいなあ,と心ながらに思うのであります.
でもこれって,「やる気になるような指導」をしてもらいたいなあ,と願うのとどこが違うのか,って言われたらそれまでなんですけどね(笑).
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定期テストという戦略 (ほり(管理人))
2007-07-13 20:25:54
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>やっぱり人間,追い立てられないと勉強しないところがあります.
>でも,たいていの場合,独学独習するよりも,授業に出て勉強したほうが,遙かに効率が良い場合が多い.それはなんでかは分からないけれど,一つは,「追い立てられる」ことが効いていると思うんですね.

確かにおっしゃるとおりです。「追い立てられる場所」が学校なのですよ。(笑)ところが、「本人がやる気になることが大事」という価値観が学校に入り込んできました。で、起こったか変化は、「追い立てにくくなった」と言うことなのです。子どもも親も、「もっと子どもがやる気になるような指導をして欲しい」と先生に要求するようになったのですよ。で、「オレがやる気にならないのは、先生がその気にさせてくれないからだ」という論がまかり通るようになり、先生の仕事が変質した。でも、私を含めて、ふつーの平均的な教員に、やる気のない生徒にやる気を出させるのは難しいんですよ。(例えば、椅子にもちゃんと座れない生徒に「やる気」を出させることができるわけない。)

で、(私が独断的に思うに)「先生はより一層、追い立てる必要性が出てきた」わけです。(ここのところ、繋がりにくいかもしれませんが。)
で、ちょっとでも、やる気がありそうな生徒に対して大変効果的なのが、実は「小テスト」。オマケに「平常点」なるモノを導入したものだから、小テストの結果が成績に組み込まれる場合も出てくる。で、どの教科でも、小テストが当たり前になった。(理科でも社会でもやる人はやってますよ。)これが小テストが横行するようになった理由でしょうね。

しかし、「小テスト」は、非常に狭い範囲内のテストです。ほとんどが暗記力テスト。で、生徒は、小テストを数多く受け続けることで、「勉強とは瞬間的な暗記であること」と「学習」し、思考することを忘れ始めた。

で、最も注意すべきことは、「考える方法」は、「考える方法」だけとして学ぶことが出来ないことなのです。あくまでも、さまざまな知識の集積や情報獲得に依ってしか、学習し得ないのですよ。で、これがまたその上、「条件」があって、その知識の集積などは、「かなり広範囲に渡るものを通してしか学習し得ない」(、たぶんね。)ことなのです。
つまり、小テストでは無理、ということです。

ところが、小テストが増えたものだから、生徒は狭い範囲の学習が勉強だと思うようになった。で、広範囲にわたって勉強してやっと体得することが出来る「考える方法」を学ぶキャパシティが減ってしまった。
と、私は思うのです。
小テストの勉強だけで、生徒は、ゼイゼイハアハア言っているわけです。で、肝心のホンモノの勉強が出来ない。

英語で言うと、本当に勉強をするならこんか感じかな。予習をして分からない単語が出てくる。辞書で調べる。なかなか適切な意味が見つからない。あれこれ、ページを繰る。本文に戻って、筆者の主張が何か、文脈を探って、あーでもないこーでもないと考える。それで、「これかな?」と思ったりする。違うかもしれないし、合っているかもしれない。
こんな風に、「あーでもない、こーでもない、でも、こうかしら?」などと思案することが、大事なんですよ、たぶん、もの凄く、脳味噌を使っているはずなのです。

でも、小テストに追いまくられていたら、こんな悠長な勉強は出来ないんです。ぱっぱぱっぱと、情報処理的に、「これとこれを覚える」とした方が、断然効率良く点に繋がる。その通りでしょ?
だから、生徒は、単語テストをすると、単語テストの勉強はしても、和訳の予習はしない。たとえしても、分からない単語は、辞書も引かずに「わかりませんでした」で終わらせる。なぜなら、「目先の点」に繋がらないからです。授業で先生の訳を聞いて書いた方が余程能率が良いわけなのです。(彼らは「賢い」んです。笑)で、場合によっては、休み時間に小テストの勉強をし、授業中には休憩をする。(苦笑・でも、ホントにそういう生徒はいる。)で、本人は、小テストでそこそこの点を取れば勉強をした気になる。

>試験前になるとなぜ生徒の間で「英文の和訳」が出回るのでしょうか.優秀な生徒のノートが出回るのでしょうか.
それは,生徒が,試験は「情報量勝負」であるということを見抜いているからです(数学などは例外ですが).

これも、↑上に書いたことと結びつくでしょう。
まあ、しかし、「和訳」が出回って効果があるのは、「和訳」を読むことで英文を(構造的に)理解できるそれなりに高いレベルの生徒層であるのか(なぜなら、和訳を読んでも、なぜその訳になるのかを理解できない生徒層もいますから。)、それとも、試験問題に和訳がよく出題されるから和訳を手に入れることがテスト対策になるからかなど、理由はいろいろ考えられますよ。

一番良い試験問題は、教科書の文章そのものではなく、教科書を通して勉強をしたことで読める文章を出題することです。で、「授業を本当に理解しないとできない」ことがわかれば、生徒はホンモノの勉強をする。(「数学は例外ですが」というのは、問題の解き方を真に体得しないとできないからです。数学は、教科書と全く同じ数字で問題を出さないでしょう。英語は教科書の文章そのものを出すのがほとんどです。)

だから、この問題は、ある意味、というか、ほとんど「定期テストの出題の仕方が悪い」と言い換えることも出来るんですよ。(苦笑)

でも、言い訳をすると(笑)、高校の学習内容を本当に理解できる生徒層は、少ない、ほとんどいないと言って過言でないはずです。量においても質においても理解できない方が多い。

なぜなら、もし、誰にでも理解できることなら、だれでも東大の入試問題が解けるようになるはずです。少なくとも、英語はそのはず。実に基本に忠実な良問♪が多いですからね。でも、そんなわけないです。
だから、赤点を取らせないためには良い問題を出題しにくいと言うことになるのです。

まあ、和訳にしても、毎回出さなくていいんです。出したり出さなかったり。すると、生徒は、さまざまな角度から勉強をせざるを得なくなる。熟語などを入れる問題は毎回出題した方が良いでしょう。「教科書に出てきた表現は覚える」が原則ですから。

それでも中には、「教科書丸暗記」が勉強だと思ったりする。例えば、接続詞を入れる問題だとか、文や段落の並べ替え問題を出したりすると、「本文全部を覚えなきゃ出来ない~」と誤解する生徒が出てこないとは言えない。(困ったことです。)信号語などを捜して前後関係から推測する、と言うことを授業でよほど力説しないといけません。それでも、ふつーの子は自力で見つけ出せるようになるのには時間(長期的に見て)が掛かります。(で、私の問題は、そう言うのがそれなりに多いから、アタマの良い子は、勉強をしなくても、その場で考えればできちゃうことがあります。笑。これはこれで良いのか悪いのかと思ったりもする。)

>例えば,「(先生が自分のために用意している)ノートのコピーを後で配るから」と言った暁には,大多数の生徒は授業を聴かなくなるのではないか,ということを多くの先生は考えています.

コピーを配られると、たぶん、生徒は勉強をしません。「結果」だけが勉強だと思っているから。もちろん、教科にもよるでしょうが。

それから、生徒は、「答え」が手元にあると、それだけで安心して「覚えたつもり」になるものなのです。(電子辞書が同じような例。すぐに引けるから、単語の意味を自分で覚える気がなくなる。ケータイに番号を入れると、番号を覚える気がなくなるのと同じでしょう。最近、自分の自宅の電話番号を覚えてない人が多いとか。)これが実に危険きわまりない。

授業の後、その内容を配ると、生徒は確実に授業を聞かなくなるものです。「あとで読めばわかるから」。でも、ふつーは、ぼーっと授業を聞いて、プリントも読まない。(笑)精々で、試験直前になって慌ててみる程度。そんなので出来るようになるわけがないのです。

だから、先生は、黒板とチョークで、その場限りの授業をするのが結局一番効果的。もちろんある程度は授業の仕方にもよりましょうが、考える力もそれなりにつき、総じて平均点が長期的に上がるものと思います。
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1日何時間も練習する事を偉いことのように褒めるという世間の常識が、ずいぶんとおかしな事に感じられてならない。 (いまてかは)
2007-07-13 10:18:34
甲野善紀氏の、2007年7月11日(水)の「随感録」には、
【以下、引用はじめ】
最近あらためて、スポーツなどで1日何時間も練習する事を偉いことのように褒めるという世間の常識が、ずいぶんとおかしな事に感じられてならない。
【以上、引用おわり】
からはじまる論述があるが、
http://www.shouseikan.com/zuikan0707.htm#4
さてはて。(ところで、「さてはて」って何やねんと問われますれば、「これから考えようかと云うところです」と。←というより、こういったところに記した後は、特に何もしないのが常だが、自ずと展開するものがある、こういったところに記した事によって。わたくしがブログにコメントを付けさせていただくのは、大抵、そういった効用を愛でるための様です。)
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Unknown (いまてかは)
2007-07-13 09:51:38
いわゆる「横レス」っていうんですか、それになると思いますけれども、heisan様の
>ノートの取り方で私は一つ一家言(?)があるのですが,私は以前から,「ただ黒板を写しただけの(写生しただけの)字体」と,「自分の内部から湧き出た言葉として記されている字体」が異なることに着目していました.
heisan様のこういった感受性は、私は等閑に付し勝ちであったところ、さすが兄貴殿と(“兄貴殿”などと書くのは「お控え願いたい」と釘を刺されていたのであったが(笑い)、そういった感受性(の育成)は一般に女性の方に長があるかしら?それはわかりませんけれども、そういう感受性があってなおかつ御覧の通りの文章も綴れる方は、管見では、鮮い(すくない)。)
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小学校の指導 (ほり(管理人))
2007-07-12 23:13:22
執事さん、コメントをありがとうございます。

>民主主義は「一見民主主義な独裁」によって始めて機能するんじゃないかな、とか。

これ、面白いですよね。
小学校(或いは中学校?)の行事の指導など、このタイプのようですよ。
子どもに気付かれないように、先生が裏から手を回してうまく仕上がるように、皆が満足できるように、図る。子どもたちにとっては、「民主的」なわけです。でも、実態は、先生の独裁(と言うと言いすぎかもしれないけれど。)らしいです。だから、中学生(高校生?)になると、先生の手が入らなくなるから、「どうしてうまくいかないのだろう?」と、悩むことになるらしい。自分たちだけで問題解決を図れなくて。

民主主義は、ホントにみんなが賢くアタマが良くないと成立しませんね。学校で、生徒を見る限り、そうとは思えないんだけれど。(勤務校は、決して悪い学校ではないんですよ。)指導者が悪いとしても、なぜそう言う人が指導者たりうるのかという観点でも、やはり同様なことが言える。

>本当に頭のいい人は学者の傾向を強めてしまうお国柄?

頭のいい人のことは、理解できないんですよ。(笑)私も誰でも。「アタマの良さ」は相対的なモノだから、「わからない」のは、自分がバカだからか、相手がバカだからかが、わからない。

今の教育や世相の間違いは、「わかりやすいのは良いことだ」という価値観です。この前提にある「説明は、わかりやすければ誰にでもわかるはずだ」が大きな誤りなんですよね。あー、もう嫌になっちゃう。。
学校は、「わかるため」に来るところではなく、「自分にはわからないことが世の中にたくさんあることを知る」ために来る場所であるべきです。

話が逸れたかな。(まあ、何だって良いんだけど。笑)
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「情報獲得」と「勉強」 (heisan)
2007-07-12 02:51:09
お忙しい中 お返事ありがとうございます.


> 親の価値観が揺らぎ、その結果が「想像力の欠如」或いは、「感上げたって仕方がない」「どうなるかわからないから今を見ろ」とでも言うような形でもろに出てきたのでしょうね。

はい,まことに(笑).でも,これを続けていると,十数年後には,生活保護を必要とする中年の人間が激増するだろうから今のうちから対策を打てというのが,内田先生とか山田昌弘さんとかのご主張なのでしょう.


> カルト教団の「洗脳」と「教育」の違いは、「洗脳」は逸脱を許さないが、「教育」は、その価値観を離れる自由を持つと言うことです。
> だから、明らかに言えるのは、卒業をしたら、自分でじっくりゆっくり考える自由が与えられているということです。
> 卒業をしてから、先生に教えられたことの「ウソ」と「真実」を自分で考えなさい、と言うことだと思います。
> で、学校教育で大事なのは、その「考える力」を身に付けさせることでしょうね。

おお,なるほど.目から鱗です.ありがとうございます.
(カルト教団では,卒業することが許されない,みたいなところがあるが,学校は,一定の教育課程を修了させ,卒業させることを目標としている,と)


> 私の高校時代には、ノート提出すらなかったですよ。みんな自分でやっていた。(もちろん、さぼる人もいた。)
> 今の生徒は、先生も可哀想です(って、自分も先生してるけ・笑)時々書くけど、「生徒は学校に評価をされに行き、先生は生徒を評価しに学校に行っている」ようなものです。(「チェック」とはそもそもそういうものです。)

う~ん,ノート提出くらいは有っていいんじゃないですか.小テストもですけれど.「小テストがないと勉強できないのか!」というのは正論ですが,やっぱり人間,追い立てられないと勉強しないところがあります.そりゃ,ぜんぶ自分でやって独習できればそれが一番ですよ.でも,たいていの場合,独学独習するよりも,授業に出て勉強したほうが,遙かに効率が良い場合が多い.それはなんでかは分からないけれど,一つは,「追い立てられる」ことが効いていると思うんですね.浪人生が予備校等に行かず宅浪しても,よほど意志強固な人でないと,まずうまくいかないのと理由は同じですね.
英語や数学では小テストのほうが意味があるでしょう.一方,歴史,古典,生物などではノートの取り方が重要な気がします.

ノートの取り方で私は一つ一家言(?)があるのですが,私は以前から,「ただ黒板を写しただけの(写生しただけの)字体」と,「自分の内部から湧き出た言葉として記されている字体」が異なることに着目していました.
で,写生というのは,「情報獲得」の点では意味がありますが,「勉強」という点ではあまり意味がない(頭のなかで,多種多様な要素の間に関係性を見出すという作業を行なっていないから).
授業や板書のスピードが速いと写生になりがちです.なぜなら「情報獲得」ができてないと,そもそも「勉強」ができないからです.
この観点からすると,授業中には生徒に,その時間のエネルギーを「勉強」に投入させるべきであり,「情報獲得」に投入させるべきではないということになります.
しかし,現状,多くの生徒が,授業時間を「情報獲得」(写生,ないしは録音)のために割いていると思います.
試験前になるとなぜ生徒の間で「英文の和訳」が出回るのでしょうか.優秀な生徒のノートが出回るのでしょうか.
それは,生徒が,試験は「情報量勝負」であるということを見抜いているからです(数学などは例外ですが).
実際,道徳とか,そういう「のんびり系の」授業でない,「忙しい系の」授業ではとりわけそれが顕著だと思います.
だいたい,授業中にマジメに「勉強」をしていたら,授業に置いてけぼりにされて,試験において重要な「情報」を逃す恐れがあります.したがって,高速で進む授業では,必然,「情報獲得」にウエイトとを置いて聴かざるをえなくなります.

ほり先生(或いはここの読者の皆さん)はこのことについてどのようにお考えになりますでしょうか.

例えば,「(先生が自分のために用意している)ノートのコピーを後で配るから」と言った暁には,大多数の生徒は授業を聴かなくなるのではないか,ということを多くの先生は考えています.
試験が「情報量勝負」であることを見抜いている生徒と,「情報量の出し惜しみ」でもってこれに抗する先生.
あれれ,「勉強」はどこにいっちゃんったんだと.
嗚呼,これが学校の実態ですかと(苦笑)(失礼).

学校に「勉強」を呼び戻すには,どうすればいいのでしょうか.
(私も考えますね)
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目先のことばかり (ほり(管理人))
2007-07-11 22:41:32
heisanさん、レスが遅くなって申しわけありません。

>「人が良い」ように見えるのは,「想像力の欠如」の結果だと思います.

ああ、そうですよね。(笑)同意します。
ついつい、生徒のキモチであろうと「合格者数」であろうと何であろうと、目の前のことだけを見て反応する人が多いです。で、それが「目に見える成果」、例えば、その場で生徒に好かれる(少なくとも嫌がられない)とかとして認められたりしますから。「合格者数」なんて、歴然としたモノですよぉ。

>かつて親は,官上民下的価値観に自分の価値観を摺り合わせることによって,「想像力欠如」を起こさずに済んでいました.

その方が生存が戦略的に有利だったからでしょう。でも、最近、そうでなくなったのは、国家そのものが揺らいでいるという事実があるでしょうね。(って、この辺りのことは私は苦手だけど。)
社会的な価値観が変わってきているから、親も国家を信用しなくなっている。というか、そういう教育を長年にわたって、(養老先生に言わせると、養老先生の世代辺りから)行ってきているので、親の価値観が揺らぎ、その結果が「想像力の欠如」或いは、「感上げたって仕方がない」「どうなるかわからないから今を見ろ」とでも言うような形でもろに出てきたのでしょうね。

>でも見方を変えると,これは,学校が生徒や親に対して,「私を信じなさい.君は私を疑ってはならない.疑うことが間違っているのだよ」と言うのと,どこが違うのでしょうか.
そして,この言説は,いかがわしいオカルト教団が吐く言説と,どこが違うのでしょうか.
わたしが問題にしている点の一つはこの点です.

このことは、養老先生かな?が書いていたと思うのですが、カルト教団の「洗脳」と「教育」の違いは、「洗脳」は逸脱を許さないが、「教育」は、その価値観を離れる自由を持つと言うことです。

だから、明らかに言えるのは、卒業をしたら、自分でじっくりゆっくり考える自由が与えられているということです。
卒業をしてから、先生に教えられたことの「ウソ」と「真実」を自分で考えなさい、と言うことだと思います。
で、学校教育で大事なのは、その「考える力」を身に付けさせることでしょうね。

でも、今の教育は、進学校なら「とにかく大学へ行け」みたいな指導を行う。私に言わせると、ホンモノの勉強、学習より先に、「進学しろ」という指導が「学習指導においてもなされる傾向がある(←ここ強調)」ことです。それが、heisanさんには、「カルト集団」と同一に映るのではないでしょうか。

先日、ある研究会(?)で、1.5(?)番手進学校の先生が、課題を提出させるから週明けには職員室に
提出課題の山が出来る、というようなことを嬉しそうに(失礼)おっしゃっていました。たぶん、書き込み式の問題集か何かですよ。そのチェックも「先生によるきめ細かな指導」に勘定する。

私の高校時代には、ノート提出すらなかったですよ。みんな自分でやっていた。(もちろん、さぼる人もいた。)
今の生徒は、先生も可哀想です(って、自分も先生してるけ・笑)時々書くけど、「生徒は学校に評価をされに行き、先生は生徒を評価しに学校に行っている」ようなものです。(「チェック」とはそもそもそういうものです。)
で、肝心なことをしていない。「なぜ、これがあれと関係するのか」「これってあれのことかな?」と思う本当の勉強、学校の勉強を通して、それを見出す力を養っていない。学校が、「作業」と「評価」の場になっているのですよ。

まあ、このような状況ですから、heisanさんに「学校がカルト教団とどう違うんだ」と疑問を持たれてもしかたがないのかな、とだんだん思えてきたわ。(笑)

「ホンモノの学習」をすれば、学校はカルト教団とは全く異なる場になります。(で、ついでに言うと、なるべく、私は「ホンモノの勉強」をさせようと思って授業をしてるつもりです。)

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正直者がトクをする (ほり(管理人))
2007-07-11 22:07:47
いまてかはさん、レスが遅くなって申しわけありません。

いまてかはさん、楽しいコメントをたくさんありがとうございました♪

学校と言うところは、「正直が最大の戦略である」ことを教えるべき場だと思います。世の中がどうであろうと。だって、その方が、そう言う人が多い社会の方が、きっと一般的に生存が有利だろうから。
heisanさんが大分上のコメントで引用されていた内田先生の引用、
>「私はみなさんにぜえ~ったい危害を加えることはありません。うふ?」(以下略)
が最大の戦略でしょうと言うことです。(う~ん、なんとなく全部一致してきたのかな。)

小林秀雄の文章「骨折り損の~」は、私に言わせると、「人生とは過程である」というとことで、納得。
もう一つの方は、(まあ、よくわからないですが・←無責任だなぁ・笑)
>上記の「心理の世界」とは、養老先生のいう「脳の世界」と重なりましょうか?
私の直観では、重なる部分が多々あるのではないでしょうかと思います。(←歯切れが悪い自信のなさ・笑)
まあ、だから養老先生は、アタマの中でぐるぐる回しをしてばかりいないで、脳の世界、人口の世界だけで過ごさないで、カラダを使えとおっしゃるのでしょうね。

また今後もお気楽にコメントをください。
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Unknown (執事)
2007-07-08 02:22:53
まぁ時間の制限はありませんし、ゆっくりやりましょう。

>>モラルが発揮されるようなシステムと、システムが機能するだけのモラル。
>前者は、絶対的な何かに基づいたモラル。後者は、システムに合わせた「モラル」というかルールのようなモノでしょうか。
>モノを考える仕事と、言われたことだけをこなす仕事の違いみたいですね。前者は、その度ごとに絶対的な尺度に基づいた判断が必要だけれど、後者は辻褄が合えばいいってかんじ。

囚人のジレンマで言うと「両者が黙秘を選択することを促進するシステム」と「長期的には黙秘が最善であることを了承し、黙秘を選択する知性」です。
諺で言うと「猫に小判」と「虻蜂取らず」でしょうかw

(以下「黙秘」「自白」を比喩的に使います)
「両者黙秘」が最善だと分かっていても、「相手が自白するかも」な状況で人は黙秘できないものです。ゆえに自白にペナルティを課して黙秘の選択を促進すると「両者黙秘」となります。
相手の知性が低いために、黙秘が最適であることに気付かなかったり、それを説いても受け入れなかったりします。黙秘が最善となる仕組みが合っても、囚人の知性が想定外に低いと機能しないわけです。
こんな感じのニュアンスでした。


情報の取り扱いについて。
民主主義は「一見民主主義な独裁」によって始めて機能するんじゃないかな、とか。
アテネが衆愚制に陥いるまではそうだったんですよね。
日本の「知識人」は弱いですね。本当に頭のいい人は学者の傾向を強めてしまうお国柄?
この辺は関係ないお話でした。


>私、個人的に、今の若い人がはたして天寿を全うできるのだろうかと心配しています。近頃何だか、きな臭いような気がするので。

でも、戦争やってる国、貧困にあえぐ国からしたら平均寿命高いですよね。
天寿の捉え方、かなー?
「人生に満足して」「老衰死」しなきゃ、天寿を全うしたことにならない?
そんなことないかな、と思うのです。
その辺は、どうでもいいことですけど。
返信する
モラルの相対性 (ほり(管理人))
2007-07-07 22:49:38
執事さん、いまてかはさん、heisanさん、コメントをありがとうございます。
レス、付けられなくてごめんなさい。って言いながら、今日も全部は無理のようでして、まずは執事さんにと言うことでお許しください。

>モラルが発揮されるようなシステムと、システムが機能するだけのモラル。

前者は、絶対的な何かに基づいたモラル。後者は、システムに合わせた「モラル」というかルールのようなモノでしょうか。
モノを考える仕事と、言われたことだけをこなす仕事の違いみたいですね。前者は、その度ごとに絶対的な尺度に基づいた判断が必要だけれど、後者は辻褄が合えばいいってかんじ。

>個人情報の存在そのものには何ら問題はなく、それが残って悪用される事が問題なのです。

正にその通りです。
でも、現実には、「不必要な個人情報は集めるな」というお上?からのお達しがあるのかなぁ? でも、その「情報」が必要か必要でないかを、何によって判断するのでしょうね。疑問。情報の扱いには、「読み取り能力」が大事だと思いますが、教員には読み取り能力がないと思われているのかしら?

学校より、「塾」の方が生徒の親の職業、学歴でも何でも、よく知っている(ところがある)みたい。「進学指導」について言えば、そっちの方がよほど商売上手になるよなぁ。(笑)

>まあ笑える話ですが、今生きてる人間が天寿を全うする頃には色々な問題が解決していると思いますよ。

私、個人的に、今の若い人がはたして天寿を全うできるのだろうかと心配しています。近頃何だか、きな臭いような気がするので。
返信する
Unknown (いまてかは)
2007-07-06 11:20:35
「小人閑居しケータイに淫して不善を為す。」という格言(格言に何時からなったの)とか「「下種の勘繰り」を働かすモード」とかが判りにくいという方に、ちょうどよい文章が、新潮新書の『人生の鍛錬 小林秀雄の言葉』から、見当りましたので、引用して置きます。

【以下、引用はじめ】

決断だとか勇気だとか意志だとかを必要とする烈しい行為にぶつかる機もなく、又そういう機を作ろうとも心掛けず、日々を送っている人間は、心理の世界ばかりを矢鱈に拡げて了うものだ。別に拡げようとするのではないが、無為な人の心は、取止めも無い妄念や不逞な観念が、入乱れて棲むのに大変都合のいい場所なのである。

【以上、引用おわり】

閑居せし小人(の学生さん)ならば、更なり(言うまでもない)。

上記の「心理の世界」とは、養老先生のいう「脳の世界」と重なりましょうか?(そんな単純ではありませんか?) 養老先生の本には余り親しんではいないのですけれども。
返信する
「現実的な骨折りをすれば、くたぶれだって現実的な内容をもっている。」 (いまてかは)
2007-07-04 11:17:25
さて、ここで、本題である『「伸び悩み」という幸不幸と人生の無駄』に戻りますけれども、(何を横紙破りな(笑い) 冗談です、このコメントは飛ばして下さい。)、ほり様のご発言、気持ちよいものです。

今朝、電車の中で『人生の鍛錬 小林秀雄の言葉』(新潮新書)をみていたのですけれども、その本の前の方に、次の言葉がありました。

【以下、引用はじめ】

骨折り損のくたぶれ儲けという事がある。これは骨さえ折れば、悪くしたってくたぶれ位は儲かるという意味である。現実的な骨折りをすれば、くたぶれだって現実的な内容をもっている。その内容はいつも教訓に溢れている。(「批評に就いて」)

【以下、引用はじめ】

その前後の文脈は知りませんけれども、小林秀雄、30歳でこんな文章、こんな達観。
返信する
訂正 (heisan)
2007-07-03 16:47:14
「官上民下」→「官尊民卑」ですね.
全文読み替えてくださいませ.
失礼しました.
返信する
根幹にあるのは官上民下観の消失 (heisan)
2007-07-03 16:40:29
遅くなりました.


> こういったことは、私のコトバで言うと、「社会科的」「多数決優先の人間関係」に関わることなのです。

確かにそうでしょう.
でも,それは,どうしようもないことなのです.
私のところでも書きましたが(http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-3.html#comment41),そもそも「人間社会(史)の開闢」と「社会科的・多数決優先の人間関係」は同時に発生したものと考えられるわけですから.


> それと、このコメントの終わりの方に書いた「未来に対する想像力欠如」の問題。
> で、行政か教育かはよくわからないけど、教育関係者は、そもそもが「人が良すぎた」。

「想像力欠如」の視点,たいへん共感いたします.
「人が良い」ように見えるのは,「想像力の欠如」の結果だと思います.
また,仮にそれだけの想像力があったとしても,「未来の子どもたちがマトモになれないという代償から得られる利得を必要とするぐらいいま切羽詰まって居るんだ」とすれば,取る行動は同じになりますから,原因としては,「想像力欠如」または「長い先のことよりも目先の利得を取るという選択をする」ことにあることになりますね.


> なぜこれが「怠慢」であるかというと、「何か」が起こったとき、「100%学校が悪い」と言うことはない。実際には家庭に問題があることが多い。しかし、「それを言ってはならない」という「雰囲気」が濃厚にあった

サービス業の考え方が学校にも広がってしまったことの証ですね.
「1%でも非があればそれはわたくしたちの責任」という.
かつて学校は,役所と同じく,「『下手に出る』ことなく,『俺の言うことは正しくて当然だ』的にのさばっていた」のです.
官上民下の考え方です.
でも,官上民下の考え方がもたらした社会的なマイナスもまた大きかった.
それで,役所バッシングが起き,官上民下は次第に淘汰されていった.
役所や省庁の長官も「下手に出る」ことが重要になった.
学校がやたら下手に出るようになった背景には,官上民下が社会から駆逐されていったことと連動しているのではないかと思います.

かつて親は,官上民下的価値観に自分の価値観を摺り合わせることによって,「想像力欠如」を起こさずに済んでいました.
官上民下的価値観は,「親が想像力をはぐくむことのできる土壌」として機能していたのではないかと思うのです.(もちろん,その機能を担っていたのは,他にもあったでしょう.お婆ちゃんお爺ちゃんの存在とか.)
でも,それがなくなったから想像力欠如が起こり,学校の評価に,世間一般の顧客満足度評価の尺度を準用することのオカしさに,はらわたのところで気づくことができにくくなった.


> 学校教育の目的は、「遠い将来の手応え」が「商品価値」として入り込んでいるので、で、しかも「その人の能力や性格によっては自覚できない手応え」が多数あるので、「契約型社会」の価値観を学校に持ち込むこと自体が勘違いであると私は捉えます。

前にも申し上げましたが,契約型社会の価値観とは「何はともあれ,まずは他者を疑ってかかる」マインドのことです.
「学校に契約型社会の価値観を持ち込むことは間違いである」
それは,分かります.
でも見方を変えると,これは,学校が生徒や親に対して,「私を信じなさい.君は私を疑ってはならない.疑うことが間違っているのだよ」と言うのと,どこが違うのでしょうか.
そして,この言説は,いかがわしいオカルト教団が吐く言説と,どこが違うのでしょうか.
わたしが問題にしている点の一つはこの点です.

思うに,かつては,官上民下的価値観の存在により,学校は「正当性の担保」がラクにできました.
「役所は正しい,学校も正しい,当然である」というマインドが,多くの国民のうちで共有されていました.
しかし,いまやその価値観は「風前の灯火」状態になり,それに連動して,多くの国民のうちで共有されるマインドとして残ったものは「生産者はとにかく消費者に対して下手にでるべきもの」というものだけになった.

# 余談ですが,官上民下でググっても,この言葉を使っているページが一件もヒットしないのはなぜ? 近い表現の言い間違えをしているから? 実は自分の造語だから? 差別語or前時代的用語だから選択的にヒットしないようになっているのかしら?(だとしたらそれはそれでやだなぁ)
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Unknown (いまてかは)
2007-07-02 18:01:00
しかし、↑「ズレたコメントである」と致しましても、また、わたくしはパソコン入力(画面みながら文字変換を監視しながらボタンをピコピコという奴隷的作業)自体はまことに嫌いで、ザーッと打ち込んだあと、甘い推敲で、二つや三つ!の誤植を残しながら送信してしまうのが常なのですけれども、先に紹介したサイトを読み返してみると、山岸俊男氏の物の見方は多分ここの複数の読者に面白いものと思われますし、その記事を紹介出来る成り行きになったの、功名となったかと思われます。こういうエエカゲンな代物が許されてしまう「敷居の低さ」、(一般的な)ブログというものの「長所でもあり短所でもあり」といえましょうか。(←弁明でした。)
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Unknown (いまてかは)
2007-07-02 16:26:59
ズレたコメントであるという自覚はちゃんとありますけれども(笑い)、私には興味深かったもので、先日のほり様の下記のコメントの内、下記のものはとても興味深いものでした。

>テレビで見ただけですが、ケータイをよく使う学生と使わない(頻度が少ないだっけ?)学生同士を知らないもの同士、グループを作り、相手を信用することのメリットに関する実験をした際、ケータイを使わない学生の方が、相手を信用してより大きな利益を得たらしいです。
学校で、ケータイを使用禁止するのは、まあ、校則として常識的だと思うけど、何か関係しないかなぁと思います。(この場の話とは関係ないけど。)

「小人閑居しケータイに淫して不善を為す。」という格言がありますが(どこに?)、われわれの多くは小人(下種に陥り易き者)であるとして、ケータイを無闇に使い過ぎ(時に阿呆な立ち回りまでにも淫したりし?)、有害な無駄な余計な「下種の勘繰り」を働かすモードに陥った挙句に、利益が少なくなったのだろうなという話として、納得できます。

※ 下種の勘繰り:品性の下劣な者は、とかく気をまわして邪推するものだ。品性の卑しい者はひがみっぽくて、物事を悪く考えがちである。また、その邪推。

なお、余談ですけれども、世の中には、電話を軽やかにスポーティーに使いこなす「電話遣いの達人」と言える様な方も居られるという事ですけれども、私など電話での自分主導のオシャベリは(事務連絡は問題ありませんけれども)全然ダメな口です。

以上の文章を書いて、ほんとうにたった今、「ほぼ日刊イトイ井新聞」にあった下記の記事を、リアルタイム(2000年11月の様だ)に目を通して(は)いた事を思い出しました。当時は深入りすることもなく、あっさり読み過ごして終わった記憶がありますけれども、今読み返したらどんなものか。
http://www.1101.com/marugoto4/index.html
(「信頼の時代を語る。山岸俊男さんの研究を学ぼう。」(2000年11月)〈正直は最大の戦略である」というと、矛盾した言い方に聞こえるかもしれません。・・・・・・〉

なお、山岸俊男氏の著作で出版年月の新しいものは『心でっかちな日本人―集団主義文化という幻想』(2002/2)の様(読んでいない)ですが、題名に興味をそそられました。
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Unknown (執事)
2007-06-30 11:40:43
モラルとシステムですよね。
モラルが発揮されるようなシステムと、システムが機能するだけのモラル。

個人情報については、そのつど集めて使って廃棄する、という風にやればいいと思います。
個人情報の存在そのものには何ら問題はなく、それが残って悪用される事が問題なのです。

まあ笑える話ですが、今生きてる人間が天寿を全うする頃には色々な問題が解決していると思いますよ。
それでも今話し合うのは、多分個人レベルで何とかするためなのでしょうね。
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付け加えです (ほり(管理人))
2007-06-30 06:51:10
ですから、

>「私はみなさんにぜえ~ったい危害を加えることはありません。うふ?」
水と安全がただで、道ばたに置き忘れた荷物が交番に届けられていて、ご飯が美味しくて、温泉が出て、接客サービスが世界一で、どこでも「プライスレス」の笑顔がふるまわれるところがあるとしたら、「そういう場所」は戦士たちの心身の休息のためにもできれば温存しておいたほうがいい、と考えるのではないか。

学校教育が将来求める世界は、こーゆー世界。そのための人材育成。
これを目指すには、「現在どれだけ満足しているか」を子どもに認識させるのは得策と言えないでしょう。↑のような世界を構築できるだけのさまざまな高い能力が身に付かないからです。公平性にしろ何にしろ、「今現在の満足度」を高めると、「大きな欲望」を持てずに「小さな欲望」が増大し、キレやすい人間が育つと思います。
特に、「水と安全がただで、道ばたに置き忘れた荷物が交番に届けられていて、」というところの実現が困難になる。

「囚人のジレンマ」なら、「共に相手を信頼することで得る利益」、「黙秘」+「黙秘」の利益かな?「囚人」だから、コトバが悪いだけで、「みんな」なら素晴らしい話でしょう。(笑)
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根幹にあるのは「想像力の欠如」 (ほり(管理人))
2007-06-30 06:26:27
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>「顧客の大多数の合意」に連動して,決まり事(法や価格設定-サービス)が決まる関係
>公立学校の授業料がバス代程度であること,バス代程度の対価を払えば「それくらいのサービス」は受けられて当然,と思っている人が大多数であれば,「それだけの支払いをしている」とみなされると,私は思います.

こういったことは、私のコトバで言うと、「社会科的」「多数決優先の人間関係」に関わることなのです。(「法」もこの類でしょう。)それと、このコメントの終わりの方に書いた「未来に対する想像力欠如」の問題。

で、行政か教育かはよくわからないけど、教育関係者は、そもそもが「人が良すぎた」。(笑)
一人の「理不尽な」「顧客」の要求もあえて拒否しない、拒否してこなかった。表沙汰になるのを懼れたという、ある意味での「怠慢」のツケが来てる状態かなとも思います。

なぜこれが「怠慢」であるかというと、「何か」が起こったとき、「100%学校が悪い」と言うことはない。実際には家庭に問題があることが多い。しかし、「それを言ってはならない」という「雰囲気」が濃厚にあった。(今でもある。)学校が何でもしなければならない、という「雰囲気」のせいで、自己主張してこなかった。「学校とは、そもそもこーゆーといころである」と言ってこなかったという「怠慢」です。

マスコミの記事だって、上記の「雰囲気作り」を増長してきた。「親は何をしていた」と言う前に、「学校は何をしていた」と書き立てる。なぜなら、「親という「個人」を攻撃をするのは悪者」だが、「組織を攻撃する」のは悪者だころか「正義の味方」になるからです。それで、学校の仕事がどんどん増えた。先生たちも気が良いから、自分たちの仕事だと思った。(そのお陰で助かった子どもも多かったのだが。)で、やっと、この頃になって、いくら何でも理不尽な要求をする親が増えて、その存在が露わになって(週刊誌の記事などにもなって)、ようやく、「学校が何でも出来るところではない」「理不尽な要求をする顧客(親)の問題」というコトバが表に出てきた。

学校は「教育機関」で、「その時在校する子どもたち」だけではなく、親に対して、小学校などは特に、「学校とはこーこーこーゆーところである。親は親として責務を果たしましょう。くれぐれも学校に肩代わりさせないように」などを教えるべき場だったはずなのに、それが出来てない。で、ふつーのお買い物の消費者マインドを持つ人たちが親になって、学校をホテルやデパートなどのサービス機関であると勘違いする問題が顕在化した。しかも、「バス代程度でそのサービスをうけることができるところ」と思う人が多数を占めるまでになった。で、「スーパーで大根を値切る」感覚が学校に入ってきた。

「学校教育制度(公教育制度)」の最も大きな教育目標は、実は「今現在の顧客の満足度」ではなく、「将来の社会の担い手の養成」「満足度の高い未来を創造する人員の育成」なんですよね、たぶん。でも、これを認識してこなかった。今までの教育(戦後教育?それともそれ以前も?)では、このことを意識的なコトバで認識し、表明してこなかった、そう、たぶん、誰一人として。
なぜなら、教える側の教員も、「今の顧客満足度が大事だもんね。だって、自分の学校生活、つまんなかったもん。自分の子どもにはもっと楽しい学校での生活を送らせてやりたいわ。」などなど、思っちゃったから。世間的にも「お客様は神様です」で、それこそ、「衆目の合意」で納得してしまった。しかし、これが大きな間違いだった、と言うところでしょう。

この間書き忘れたけど、企業内で結構問題になっていることに「クレーマー対策」があるのではないのかな。(何かで読んだ気がする。)「理不尽な要求をする客」が増えてきているのでしょう。
でも、「企業イメージ」を損ねたくないなど、困っているとかいう話で、たぶん、クレーマー対策費用が(例えば、そのための研修制度も含めて)バカにならなくなってくる。こういうのと関係あると思います。
つまり、「こちら側から見て過剰な要求をする顧客問題」は学校だけの問題ではない時代ということ。
(ある意味、社会が、喩えて言えば、「ウソつきが増えたことで住みにくい社会になってきている」ということです。)

で、「こちら側から見て過剰な要求をする顧客問題」が生じたときに必ず登場するのが「非常に能力の高い対応者」であるということ。
彼らは、「それはこーして対策を立てるべきモノだ。こちら側の出方次第だ」と言い始める。(学校の中にも、そういう人が必ずいる。「こうすれば、生徒は必ず出来るようになる」などという指導力の人。でも、これだって、「相対的なモノ」であることが多い。←これだけでは舌足らずだけど。)

で、この頃の小売店などの「マニュアル的なコトバ遣いによる対応」は、その顕著な現れでしょう。「なるべく下手に出ることによって客を一時的に上機嫌にさせ、文句を言わせない雰囲気を作る」というわけです。でも、ここにも問題はあって、「どこでもそう言う対応をするようになってきた」ものだから、客は「オレは偉いんだ、上機嫌になることが客として当然の扱いを受けることだ、権利だ」と思い始め、社会全体の傾向として「居丈高な客」を大量生産することになった。

で、この「居丈高な態度」が「学校」にも入り込んできた。100円の買い物にも「お客様」と丁寧な応対をされることに慣れれば、「バス代程度で学校も」になる。

で、この点、「学校」とは、実は世にも不思議なところで、「販売するモノ」は、「ほとんど実体のないサービス」だけなのです。(笑・ついでに言うと、扱うモノは「個人情報のみ」。学校から「個人情報」をなくしたら、「学校」には何も残らない。つまり、個人情報の漏洩が最も起こりやすいのが、実は学校なのです。だから、この頃、学校は、「漏洩」の予防策として、個人情報そのものをあまり集めようとしなくなってきている。個人情報無しの教育がどんなモノか、私は大いに疑問を感じるのですが、「集めない」方法を取りつつある。で、昔だったらあり得ない機能不全に陥って、かえって生じる問題を大きくする危険性を孕む、と内心思ってます。←これは、本題からちょっと外れる話。で、話は元に戻って→)で、「実体のないサービス」ゆえに「最もクレームを受けやすい場所」の1つが「学校」ということになる。

>契約型社会の中で生きる人たちの多くはきっと,教師の言う「私たちは万能じゃない」というセリフを「詭弁」としか捉えないでしょう.

これについて、また反論もまたあるでしょうが(笑)、「契約型社会」の多くは、きっと「何かその場でたちまち手応えを感じるモノ」を扱っているでしょう。でないと、客はお金を払わないだろうから。すぐに客は逃げるだろうから。
でも、学校教育の目的は、「遠い将来の手応え」が「商品価値」として入り込んでいるので、で、しかも「その人の能力や性格によっては自覚できない手応え」が多数あるので、「契約型社会」の価値観を学校に持ち込むこと自体が勘違いであると私は捉えます。なぜ、「その人の能力や性格によっては自覚できない手応え」かといえば、例えば、高校でふつーに文科系にいながら「三角関数」などを学習することの価値をどれだけの人が実体験として認識しうるか。ほとんどいないでしょう、ということです。で、「分からないものの価値」を表明してこなかった教育行政、学校の「怠慢」に繋がるわけ。逆に「わかりやすいことが大事だ」と社会に迎合した「罪」もあるわけ。(で、私が「分かりやすいことが本質的に大事なことではない」と考える所以でもあるのですよ。)

>でも今は違う.なぜかというと,「公平性のレベル設定」が違うからです.国民的合意における公平性のレベルが上がっているからです.

これは、私の感覚で言うと、「公平性のレベル」の問題ではなく、発想の根幹としての「想像力の欠如」であると捉えます。
前に書いたように、「学校が未来社会への投資」であることを考えなくなり、多くの人が「現在の公平性」に目が向くようになったということです。(舌足らずかも。)
昔は、私が知っている限りでも「このままではウチの子は将来どうなるんだ、もっとしっかりしてくれ」と、自分の子どもをぼろくそに言う親がいた。まあ、「人間的な発達」に関する心配や考え方での発言が多かったけど(で、こっちが「お母さん、まあ、まあ。そこまでおっしゃらなくても、大丈夫ですよ。」となだめることさえあった。笑)、今そんなことを言う親は皆無に近いと言っていい。
ですから、
>「教師にシバかれた」と子どもが言えば,「シバかれるくらい悪いことをしたのか」となった.
など、逆に親にまで怒られたのは、親の考えに、もし悪いことをして叱られなかったら将来のこの子の先々が心配だ、という想像力があったからです。

しかし、イマドキの親は、こういった観点で子どもを見なくなった。せいぜいで、「どこの大学に入れるか」「楽しそうに学校生活を送っているから満足だ」「もっと高校生活が充実するように何何してくれ」、自分の子どもの家庭学習に付いては触れずに「授業が分からないと言っている。」つまり、「今現在」しか問題視しない、近視眼的発想が多く、「現在子どもが抱える問題は、未知の将来に対するトレーニングになるだろう」などの「オトナになってからの自分の子ども」を想定する発想がない。
ということです。
(「少子化」は「未来が乏しい」のと同義語だから、関係あるだろうなあと思います。)

私は、「空間と時間を超えた想像力」こそが人間独自の能力であると考えるので(いろんな記事に書き散らしてると思う。)、公平性にしろ何にしろ、「今、現在」に意識の中心を置くことは、人間でなくなりつつある、動物的になってきている兆候だと思います。

># さあ,大変なことになった(笑)

政治家が「国家百年の計」の発想を持たない限り、つまり、公の感覚が「時空を越えた想像力」を持とうとしない限り無理でしょう。
養老先生が、「参議院は日本の50年後(だっけ?)のことだけを論ぜよ」とおっしゃっていたことに私は深く同意します。

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Unknown (執事)
2007-06-28 21:09:32
レスありがとうございます。

コンセンサスについてですが、日本的コンセンサスが非常に強固である、というのには同意です。
一方で全くコンセンサスを持たない人々が現れつつある(あるいは見えるようになった)な、とも思うのです。
最大のコンセンサス/コンテクストは「日本語」でしょうね。
第二外国語を操れる人口が極端に少ない(イギリスが固有の言葉を使う国であれば面白かったかも)ですからね。

>水と安全がただで、道ばたに置き忘れた荷物が交番に届けられていて、ご飯が美味しくて、温泉が出て、接客サービスが世界一で、どこでも「プライスレス」の笑顔がふるまわれるところがあるとしたら、「そういう場所」は戦士たちの心身の休息のためにもできれば温存しておいたほうがいい、と考えるのではないか。

大脱線。
グローバル化、とは言いますが、全てが平坦になることはないと思うのです。
もちろん、現在の山あり谷ありよりはずっと平坦で見通しがよくなるでしょうけど、歴史文化地勢その他もろもろの特色は残ると思います。
悲観論が跋扈する現代日本ですが、変化が落ち着いてみれば結構過ごしやすい国になるんじゃないかな/なっていて欲しいな、と。

囚人のジレンマについて。
個人の能力、周囲の人間の存在、その他もろもろの要素で最適戦略は変化しますね。
その辺は忘れちゃいけないところだと思います。
基本モデルと、様々な関連モデル。
それらの共有が出来ているかどうか、もまたコンセンサスでしょうか。

まずは基本モデルを提示して、ほりさんの反応が見れるといいかな、と思っていたのですがw
知ってるつもりでいると見えてこない部分もあるかな、とか。
現実には組み合わせが膨大で、結果も一定じゃなくなってきますしね。
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Unknown (heisan)
2007-06-28 07:41:31
(続き)

> それを回避するための戦略がしっぺ返し戦略(基本協力。相手が裏切ったら相手が協力に戻すまで裏切り続ける)であり、契約型組織のやり方なのですが、

う~ん,ゲーム理論におけるプレイヤー同士自体は,契約型組織であること前提で動いていると思うので,私の言う「契約型組織」はそれとは違う気がしますが…
愛の共同体とかいってたらそもそも「ゲーム」自体が成り立たないでしょう.

それから,「基本協力.相手が裏切ったら相手が協力に戻すまで裏切り続ける」という戦略を採用した場合も,人々はなかなか幸福になれないと思います.これはツープレイヤーを仮定しているのでしょうが,スリープレイヤー以上の場合,「一人でも裏切り者が出たら瞬く間に皆が裏切り者になる」可能性を存分に秘めているからです(なお,この解は感覚的なもので,数学的保証はないので,ご了承くださいませ^^).
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Unknown (heisan)
2007-06-28 07:26:06
執事様,

こんにちは,heisanです.
なんか,ちゃんと答えられていなかった気がしたので,補足致します.


> 家庭型組織と契約型組織、ですか。
> 囚人のジレンマ、ってご存知ですか?

ゲーム理論・経済学では有名な話ですよね.


> 現在、「日本人」というコンセンサス(暗黙の了解)は徐々に薄れつつありますね。

う~ん,それはどうでしょう.
また以下内田ブログから流用させて頂きますが,日本は比較的そういうコンセンサスのある国だと思いますが…(裏切ることの不利益が大きすぎる社会だということです.「薄れつつある」のは事実かもしれませんが,まだまだ,ヤバいほどではないかと思います.我々が思うより日本は頑丈にできている気がします).


「私はみなさんにぜえ~ったい危害を加えることはありません。うふ?」
水と安全がただで、道ばたに置き忘れた荷物が交番に届けられていて、ご飯が美味しくて、温泉が出て、接客サービスが世界一で、どこでも「プライスレス」の笑顔がふるまわれるところがあるとしたら、「そういう場所」は戦士たちの心身の休息のためにもできれば温存しておいたほうがいい、と考えるのではないか。
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Unknown (heisan)
2007-06-28 06:49:02
> 家庭型組織は協力-協力を基本(理想)として動いている組織ですよね。

左様(笑),いわゆる「愛の共同体」ってヤツですかね.「愛の共同体」には,法が介入する余地はない.「愛の共同体」に法が介入すると,なんか「場違いでしょ」っていう風に思われる.それが自然である.しかし,昨今,愛の共同体において自分たちで物事を解決できないので,法に委ねようとする人たちが増えてきた(?).


> こちらも「一回きりの取引」では裏切り戦略が最適の選択となるため

「近所づきあい」においては裏切りは不利な選択となりますが,「行きずりの関係」においては,裏切りが充分有利な選択として機能してしまいます.「将来の利益まで考慮することがどれだけ意味を持つか」ということが重要です.将来の利益まで考えて行動することが重要である社会は,往々にして「平和」です.そういう社会を目指していきたいものです(でも,それゆえに,精神病を患う人が増えているような気もします.うまい社会って難しいー).


> たぶん、この宿泊料金なら仕方ない、とこのような要求をする客はいないと思う

これは,顧客の大多数が「この宿泊料金なら仕方ない」という判断に合意しているから,そういう要求をする客はいないのだと思います.「顧客の大多数の合意」が変化すると,それに連動して,価格設定や,朝食にオムレツをつけるかどうかも代わってくると思います.「顧客の大多数の合意」に連動して,決まり事(法や価格設定-サービス)が決まる関係については,自分のところで少し書きましたので,よければご覧ください.


> 学校に来る「客(つまり、生徒・保護者)」が、それだけの支払いをしているわけではないのですよ。

「それだけの支払いをしているかどうか」は「顧客の大多数の合意」によって決まると思います.そして,公立学校の授業料がバス代程度であること,バス代程度の対価を払えば「それくらいのサービス」は受けられて当然,と思っている人が大多数であれば,「それだけの支払いをしている」とみなされると,私は思います.


> 今は、1泊5千円しか支払わない宿泊客が「あれもしてくれ」「これもしてくれ」とホテルに要求しているようなモノです。

それに税金を割くことに,顧客の大多数がウンというサービスとそうでないサービスがあります.公立学校のサービスにはウンといい,ホテルについてはウンと言わない(ホテルのサービスのために税金が使われることに反対だが,公立学校の経費に税金が使われることには合意する).だから,この例は,公立学校には妥当しないかと思われますが….


> 個々の要求に応えろ、それが学校の努めだろうという「万能性」を求めようとしているのが世の習いのような気がして私は理不尽さを感じるのですよ。

私(及び契約型社会のサービス提供側を体験してきた人たちの多く)は「私たちは万能じゃない」と言いさえすれば,やりたい放題(例:サボりたい放題)できちゃうじゃないか,というところに理不尽さを感じるのですよ(笑).契約型社会の中で生きる人たちの多くはきっと,教師の言う「私たちは万能じゃない」というセリフを「詭弁」としか捉えないでしょう.


> 「アメリカの学校には制服がないのに」と言ってきた奴には、「だったら、そのアメリカの学校に行けばいいんじゃないの」と言ったり。

これは,非常に納得できます.


> で、公立に幻滅を感じるお金のある親は、子どもを私立にやりたがる。なるべく自分の子供に合った学校を選んでのことです。ああ、大変。

で,公立に幻滅を感じるお金のない親は,公立学校に子どもをやりながらも,公立学校に私立学校並みのサービスを要求する.この辺の感覚は,お母様方がスーパーで大根を値切るのと同じような感覚だと思います.
いま,「公立に幻滅を感じるお金のない親」の選択肢がなくなってきているのも確かでしょう.老人ホームでも同じことが言えます.良いサービスを受けるのは往々にしてカネがかかるものですが,「なんとかして安く抑えたい」という切ない望みを,顧客の大多数の方々は持ってらっしゃるのです.

> 高校生にもなれば、「あの先生はおかしい、この学校はおかしい」と思って当然だと思っています。
そうだと思います.で,ここで,高校生の要求にいちいち応えることはできないし,また,してはならない,そのことも分かります.しかし,だからといって,それゆえに教師の言い分ややり方の正当性が絶対化され,保護者もそれに関して一切口出しできない(教師は教育の専門家集団だから私たちに任せよ),というのもまた何かヘンな気がします.


> 「正直者が多い中にいる嘘つきはもの凄くトクをする」(←養老先生が書いていた)ことに、皆が気が付き、「嘘つき」になろうする人が増えてきた。

本当は,「そのようにして嘘を付いても空しい」ということを悟れればいいのですけれどもね.なかなか.意地を張ったり喧嘩をしたりするモードに身体がなっているときには難しいのかも.


> この考えの基盤にあるのは、「公正性の重視」です。でも、私は、実は「公正性」を信じない。だってさ、生まれたときから不公平だもん、そんなの。

生まれたときから不公平なのは確かですが,「公正でない」という事実と「公正を目指すべきだ」という指針は違うと思います(いまの世の中では,「人権宣言」等によって,公正を目指すべきだということが正式に認められるに至っている).


> テストの点だって、「数字」になると変化しようがなくみえますが、したがって「公正」に見えますが、配点を人為的に少し変えれば点数が変わる。そのどこが公正なのかと。

この不公正性は私も以前から着目していました.でも,不思議なことに,この点に関して文句を言う生徒はまず居ない.「採点がおかしい」と言ってくる生徒は居ても「テストの作り方がおかしい」と言ってくる生徒はまず居ないでしょう.私は,コレ,不思議だな,って思ってました.私は「どうすれば公正なテストができるのか」という問題をずっと考えてきている人間です.無為・無駄と言われそうですが….
最近読み始めた本のなかに,「公正ないし平等という原則に反しないソーシャル・デザインは原理的にない」ということが書いてありました.なんでそう言えるのかは,もうちょっと勉強しないと分からないのですが,ほり先生は,このことを経験的・体感的に熟知されているのだと思います.私は,そのことを熟知していないので,いまだに古くさいロマン(公正なソーシャル・デザイン)を追い続けているのだと思います.


> 「公正」というコトバは、人をかなり強力に騙す力を持つきがします。

これも,納得できます.「公平」と言い換えましょうか.「不公平である」という事態は,人間にとって,非常にリアルな体験です.だから,そういうことをなくそうという風に,国民の皆さんが合意するに至って,そういう方向に社会のルールが書き換えられていく.
でも,「或る種の不公平さ」はリアルに体感しやすいのだけれども,「また別の種の不公平さ」はリアルに体験しにくい,ということがあろうかと思います.テストの例が好例ですね.だから,厳密に公平さを追い求めると,「やっぱり世の中は不公平でしかない」という事実のうちに諦めるしかなくなるのですね.公平性という点において,今の世の中と昔の世の中でどこが違うかというと,「どのレベルまで公平性を認めるか」という点において違うのだと思います.そして,人類は,どんどんどんどんこのレベルを上げていく方向でこれまで社会のルールを書き換えてきた.この方向性は,今後も変わることがないでしょう(「公平であるよりも不公平であるほうがいい」などと言うのは,不公平であることによって利益を得ている人たちだけでしょうが,そういう人たちは,そういう人たちが対人口比で少数にとどまっている限り,対人口比で大多数である人間からの不平不満を買うので,その種の不公平性は取り除かれるという結末に,遅かれ早かれなります.).
問題は,昨今の教育にかかわる問題は,この種の方向性に支えられて話題に上っている問題ではないかということです.「教師の言うことが絶対だなんて不公平だ」というような.きっと,理があるんですよ,これにも.でも,昔はこんなことに文句を言う人は居なかった.「教師にシバかれた」と子どもが言えば,「シバかれるくらい悪いことをしたのか」となった.でも今は違う.なぜかというと,「公平性のレベル設定」が違うからです.国民的合意における公平性のレベルが上がっているからです.
私は,このレベルを下げることは,この種の方向性がおそらく人類史開闢以来続いている方向性であることを踏まえると,なにかとてつもない理由が出てこない限り,できないと思います.
# さあ,大変なことになった(笑)
返信する
自分で学校を作るのが一番です (ほり(管理人))
2007-06-28 00:14:42
heisanさん、コメントをありがとうございます。

># 最近,不躾な文章が多いです,成り行き上,仕方ない面もあるのですが… すみません(_)

いえ、私は全然気にしていません。全く気になりませんので、思いのままにお書きください。率直な方が話が早いものだし。

>誠に失礼ながら,私は,その言説自体に,ある種のずるさを感じてしまいます.

私が「万能」というコトバを使ったことについてと、heisanさんが「契約型社会」、及び「各生徒に対する学校側の姿勢、やり方」と言う観点でお話されているという前提でお話しします。(前提をはっきりさせないと、ずれちゃうから。もしも違っていたら、また改めてお話しさせてください。)

「契約型社会」になるのでしょうが、たとえばの話ですが、ホテルに宿泊します。1泊5千円のビジネスホテルのサービス朝食に、「なぜ焼きたてのオムレツがないのだ」「ゆで卵を付けてくれ」「私は固ゆでがイヤだから、半熟にして欲しい」「パンはもっと種類を多くしろ」と言う客はいるでしょうか。そうした場合に、タダで、お客様のご要望だから、と要求に応えるでしょうか。私は世間に疎い人間ですが、たぶん、この宿泊料金なら仕方ない、とこのような要求をする客はいないと思うし、そういう朝食を望む客は、しかるべきホテル、もっと料金設定の高い(もちろん、お得感?を考える場合もあるでしょうが、「快適さ」を求める客はカネに糸目を付けないでしょう。)に泊まるでしょう。また、もし、そのように言われても、「当ホテルの朝食は、これでお客様にご満足頂いております。お飲み物はコーヒー、お茶などのお代わりを十分にご用意させて頂いております。」ということにならないかしらということです。もちろん、他の同じ値段で泊まれるホテルが、良いサービスをし始めたら、変わるでしょうが、どんなに長期的に見ても利益が見込めない「採算の合わないこと、もうけに繋がらないことは(できるだけ)避ける」、これが企業論理にあるはずです。でないと、会社は潰れる。「損して得取れ」は、「得取る」前提の話でしょう。

学校の授業料は、公立の場合1ヶ月いくらでしょうか。私自身の高校時代、「一体この1時間の授業は、いくらか」を授業中に計算したことがあります。(笑)その時、1時間あたり10円以下でした。当時の市内バス代が100円くらいかな? 今でも、精々でバス代程度でしょう。
で、生徒が個々に支払う授業料の中には、授業だけでなく体育館などの使用料や実験の薬品代、その他諸々の諸経費がかかっています。彼らは、制服、教科書やノート、副教材など「私有物」にかかるお金以外は、全て1日400円程度の出費で学校をかなり自由に利用するのです。先生との面談・質問も、もちろん、タダですよ。考査に落ちて、追試験を受けなければならなくなっても、もちろん、タダで受験できます。

もちろん、学校の運営経費、教職員の給料は、授業料というより大方が税金によって賄われています。「税金」とは、学校が「社会の維持」を目的にしているから使われているのでしょう。論理的には、中卒の人が払っている税金が高校で使われるということも考えられます。

言いたいのは、一人一人の生徒そのものの要求に応じることが学校の(特に公立学校の)役割ではないと言うことです。
1日400円で、朝の7時から夜の7時まで子供を預かってくれて、専門的に勉強も教えてくれて、行事などの楽しみも与えてくれて、臨時の出費はかかりますが、旅行にも連れて行ってくれる、そんな「会社」が存在するでしょうか。学校に来る「客(つまり、生徒・保護者)」が、それだけの支払いをしているわけではないのですよ。
でも、今は、1泊5千円しか支払わない宿泊客が「あれもしてくれ」「これもしてくれ」とホテルに要求しているようなモノです。
個々の要求に応えろ、それが学校の努めだろうという「万能性」を求めようとしているのが世の習いのような気がして私は理不尽さを感じるのですよ。(それで、この間のコメントに書いた、先生の持つ「権力」については、「自分の子供に有利なように先生の持つ権力を行使ししろ」と要求しているような気がします。)

もっと持論を極端に展開すると(笑)、もし、先生を思い通りにしたいのなら、自分好みの「学校」を自前で作るのが最善の方法なのです。
好みの設備を整え、有能な先生を雇い、自分の子どもに相応しい子どもを集めて学校を作ればいいだけの話です。日本は自由の国です。それなりの規定を踏まえれば誰も邪魔することは出来ないでしょう。(で、自分の子供を医者にしたいのに、入れそうな医科大がなかったから、自分で作っちゃったという大学があると聞いたことがありますよ。)

以前、我が儘を言ってくる生徒に、私、上記のようなことをと言ったことありますから。「じゃあ、自分の知っているオトナの人に頼んで、或いは協力を呼びかけて、好きな先生を集めて友達を集めて「学校」を作ってもらいなさいよ。」(笑)転校の自由だってある。「アメリカの学校には制服がないのに」と言ってきた奴には、「だったら、そのアメリカの学校に行けばいいんじゃないの」と言ったり。(イヤそうな顔をしてました。)それが出来ないなら、或いは、それがイヤなら、今のところで我慢するしかないでしょ、って。

で、公立に幻滅を感じるお金のある親は、子どもを私立にやりたがる。なるべく自分の子供に合った学校を選んでのことです。ああ、大変。

>だから,学校外の人が,学校について,契約型組織をみるメガネで学校をみてしまうのは,学校外に視点を置けば,非常に自然なことなのです.

要は、「代価交換」ということでしょうから、だったら、それだけの「お金を払いなさい」と言いたい。(半分冗談だけど。笑)

自分が払っている税金は、毎日通行している道路や水道設備、下水道設備などにもそれなりに使われているでしょう。(よくわからんけど。笑)自前でアスファルトを引こうと思うと、それ相応にお金がかかりますよ。公道から水道を引くにも、かなりお金がかかるくらいだから(たぶん)、浄水場から自分の家まで水道を引こうと思ったら、相当な額がかかるでしょう。

>そうやって「契約型組織のなかで生き抜く術」を知らないままに契約型組織のなかにおっぽり出された結果,たいへんな惨劇を見た人間ですので,ほり先生がたのように,「学校は家庭型組織だから」とほほえましく語ることができないのです.

誠に申し訳ないですが、お気の毒だったとしか申し上げようがありません。
私は、生徒に、先生を批判しても良いけど、批判の仕方だけは間違えるな、と言うことがあります。高校生にもなれば、「あの先生はおかしい、この学校はおかしい」と思って当然だと思っています。でも、表現方法を間違えてはいけないと。で、もう一つ必ず言うことは、「あの先生は良い先生だと思ったけれど、後で考えるとそうでもないと思ったり、逆に思うことが出てくる。それがふつーだ。人や物事に対する見方や考え方が変わることが成長することなんだ。」と。「小学校の時から僕はずっと考えが変わらない、としたら、それはおかしなことだよ」とか。

>たぶん,契約型組織のなかでバリバリ生きているオトナの大部分は,そんなこと(保身を前提に生きること)は序の口的にこなす人たちがほとんどなのでしょう.そして,「そんなのはイヤだ」とかたくなに拒否した人たちが集う職場こそが,「学校」という職場なのでしょう.わたしはそのように理解しています.

思ったのは、出世する人は、保身に走り、「そんなのはイヤだ」と言わない人です。大した教育観をもたず、或いは、多数決の世界観でいる人が管理職に出世していく人です。(笑)だから、学校にも、しっかり一般社会の類型は根付いていますよ。(笑)どうぞ、ご安心ください。

>あっ,そうか,学校というのは「敵を愛しなさい」という教義を教わる場所だったのか.そう考えると納得ができるかもしれません.う~む…

うん、きっとそうですよ。人口比の問題で、そう言う人が多い社会の方が住み心地はよくなることでしょう。
「正直者が多い中にいる嘘つきはもの凄くトクをする」(←養老先生が書いていた)ことに、皆が気が付き、「嘘つき」になろうする人が増えてきた。よって、社会が住み心地がわるくなってきているのが現状でしょうね。(主人のジレンマと関係すると思うけど。執事さん、ありがとうございます。またあとで、考えます。)

>その度ごとに考えなければならない,そうすると,考えるたびに答えが違うということが起こりうる,裁きの場で,「考えるたびに答えが違う」などということがあっては,公正性が破綻する,だから,線を引く.

この考えの基盤にあるのは、「公正性の重視」です。でも、私は、実は「公正性」を信じない。だってさ、生まれたときから不公平だもん、そんなの。
テストの点だって、「数字」になると変化しようがなくみえますが、したがって「公正」に見えますが、配点を人為的に少し変えれば点数が変わる。そのどこが公正なのかと。でも、結果的にしか公表しない配点だったとしても、配点に文句を言う人はいない。なぜだろうねぇ。
「公正」というコトバは、人をかなり強力に騙す力を持つきがします。

>思考停止すべきところはきちんと思考停止したほうが,互いに共通理解を持つことができて,皆さん全員が幸福になれると思います,が….どんなモンかな~

「ルールを守る」のがその第一でしょうね。で、学校は、この機能をかなり果たしてますよ。

実は、ダラダラ書いていて、自分で何を書いているのか良く覚えてないかもしれないです。考えもだんだん変わってくることはあるし。どうぞご寛容を。
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Unknown (執事)
2007-06-27 21:46:41
家庭型組織と契約型組織、ですか。
囚人のジレンマ、ってご存知ですか?
Wiki(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9A%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9E

家庭型組織は協力-協力を基本(理想)として動いている組織ですよね。
ところが、最近は生徒や保護者に裏切り戦略を取る人が現れ始めている(現状の学校組織では個人にとって最大の利益を上げられるから)。
このままいくと、皆が裏切り戦略を取るようになりお互いに利益のない状態でナッシュ均衡を取るようになるかも知れません。
それを回避するための戦略がしっぺ返し戦略(基本協力。相手が裏切ったら相手が協力に戻すまで裏切り続ける)であり、契約型組織のやり方なのですが、こちらも「一回きりの取引」では裏切り戦略が最適の選択となるため(特に日本と違って「民族のコンセンサス」みたいなものがない国々では)双方裏切り戦略でナッシュ均衡を取ってしまうことがあります。
現在、「日本人」というコンセンサス(暗黙の了解)は徐々に薄れつつありますね。

モデル化したら考える助けになるかな、と思って。
お互いに書きたい事が沢山あると大変ですね。
これがまた楽しいのですけど。
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Unknown (heisan)
2007-06-27 15:34:00
お返事ありがとうございます.


> ズレコメだろうと思いますが、学校が「万能であること」を期待すべきものではないし、

誠に失礼ながら,私は,その言説自体に,ある種のずるさを感じてしまいます.
「わたし(やわたしの組織)に,万能であることを期待してもらっても困る」ということを,役人や企業のサービス業の人がお客様に対して言い出したらしばかれると思うのですが,教師はしばかれない.なぜなら,企業のサービス業では,「どこまで期待していいか」が明確だから.でも,学校という職場ではそれが明確でない(なぜなら家庭型組織だから).でも,文科省も含めて,学校を外から眺める人たち,契約型組織のなかで生きる人たちからすると,「『明確でない』のをいいことに,やりたい放題やるのだろう? これは私の責任ではありません,みたいな」という風に映るんですね.なぜなら,彼らは基本的に他者を信用しないというところから出発するから(契約型組織はみんなそうです).
重要なのは,学校法人もまた「契約型組織」の一つであるということです.契約型組織のなかに家庭型組織が埋め込まれるという構造になっている.だから,学校外の人が,学校について,契約型組織をみるメガネで学校をみてしまうのは,学校外に視点を置けば,非常に自然なことなのです.
う~む…


> heisanさんが、カラダで納得できないのは、契約型組織に長く所属し、その利点や考え方が身についているからではないかしらと(身勝手に)想像したりしてしまいます。だって、世の中、その方向にどんどん進んでいるから。

私は,かつて家庭型組織のなかで生き,そのすばらしさに素直に感動していましたが,そうやって「契約型組織のなかで生き抜く術」を知らないままに契約型組織のなかにおっぽり出された結果,たいへんな惨劇を見た人間ですので,ほり先生がたのように,「学校は家庭型組織だから」とほほえましく語ることができないのです.私の(偏見に満ちた)持論では,「それをほほえましく語ることができるのは,契約型組織の厳しさを知らない人間だけだ」ということになります.私が上に書いた「まとめ」に対して自身が突っ込みをなすことができるとすればそれは,「私自身が,物心付いたときから消費社会の荒波に揉まれて生きてきた身でありながらも,結果的には『契約型組織で生きる術』をほとんど身につけないまま社会人となってしまったという経験的事実」それ自体です.
たぶん,契約型組織のなかでバリバリ生きているオトナの大部分は,そんなこと(保身を前提に生きること)は序の口的にこなす人たちがほとんどなのでしょう.そして,「そんなのはイヤだ」とかたくなに拒否した人たちが集う職場こそが,「学校」という職場なのでしょう.わたしはそのように理解しています.

重要なのは,今の世の中は「そんなのはイヤだ」という人たちばかりでは動かない世の中だということです(みんなが学校の先生になるわけにはいかんでしょう?).「そんなのも,別にしかたないじゃないか」と考えることができるような人間の割合を過半数確保しなくてはならない.私は「それ自体が教育の目的の一部となりうる」という,にわかにかなしい現実について申し上げているのです.
私が生徒の立場で,かつ,将来の職場として学校を想定していない人間だったならば,先生にこう申し上げるでしょう:「あんたらはいいねえ.『そんなのはイヤだ』というワガママが通用する世界で生きていられるんだから.でも,そんな『特権階級』にあやかれるのは,対人口比で言ってもホントにわずかな人数だけなんだよね.あんたらは,『"そんなのはイヤだ"という姿勢を貫くことが人間として重要』みたいなことを言うけれど,世の中の人がみんなその姿勢を貫きだしたら世の中が動かなくなっちゃちゃうことを知ってる? もしそれを知ってて『そんなのはイヤだ』的言説の正しさを振りまいているのだとしたら,あんたら,それは罪よ.もしそれで,それが原因で,世の中の大部分の人たちが『そんなのはイヤだ』という姿勢を断固貫くようになって,世の中が動かなくなってきたら,あんたたちはどう責任を取るの?」
これを書いてて思ったのですが,まあ,良く悪くも,学校の先生というのは,『そんなのはイヤだ』という人がもの凄く増えて,世の中が動かなくなることを望んでいる人たちなのかもしれません,心の奥底で.でも,そうなった暁には,おそらく,日本の経済はみるみるうちにしぼんでしまうでしょうね.経済発展は,契約型社会の瀰漫とともにしか存在できない「けがれた利益」なのかもしれません(嗚呼).

> というか、「相手を信用する社会であるかどうか」より、「相手を信用できる人間を育てること」「相手を信用しないより、信用する利益のほうが勝ってくること」を学ぶのが学校の機能じゃないのかなぁ。
思うに,契約型社会というのは,「敵国とのうまい付き合い方」として発明されたルールだと思うのですね.味方は信用できる,だから家族型社会でOK,でも敵は信用できない,だから彼らと衝突を避けてうまくやっていくには契約型社会の導入が不可欠,と.
ほり先生のおっしゃることは,「敵を愛しなさい」「敵もまた味方だと思いなさい」と言っているのと同じような気がします(いい意味で).その言説は,聖書にもそんな言葉があるように,「実にすばらしい」です.聖書では,「一方の頬をぶたれたら,もう一方の頬を差し出しなさい」と教えているのですから.あっ,そうか,学校というのは「敵を愛しなさい」という教義を教わる場所だったのか.そう考えると納得ができるかもしれません.う~む…


> 線引き社会は、私の見方では、ある意味、「思考停止社会」だからです。
その通りです.

> その点、グレイゾーンが多く存在すると、「その度ごとに考えなければならない」。この大切さというか。
その度ごとに考えなければならない,そうすると,考えるたびに答えが違うということが起こりうる,裁きの場で,「考えるたびに答えが違う」などということがあっては,公正性が破綻する,だから,線を引く.
ルールを定める,ということは,そういうことです.「君が考えていることと僕が考えていることが『違う』と『喧嘩』が起こる」,喧嘩は人殺しの始まりでもあるので阻止したい,じゃあ,ルールを決めて,マニュアル化して,君の考えていることと僕の考えていることを『同じ』にすればいいじゃないか,そうすれば『喧嘩』は起こらないじゃないか,というのが,初期の発想だと思います.

> これを「公正、公平でない」と評する人もいるでしょう。しかし、そう言う人は、思考停止したいのでしょう。
思考停止したいのではなく,「『喧嘩がもたらす周囲への迷惑』と『喧嘩の延長線上にある殺戮』をなんとしてでも阻止したい」のです.

> このように考えると、「契約型社会」は、思考停止を仕様とする社会のように思えたりします。
思考停止すべきところはきちんと思考停止したほうが,互いに共通理解を持つことができて,皆さん全員が幸福になれると思います,が….どんなモンかな~

# 最近,不躾な文章が多いです,成り行き上,仕方ない面もあるのですが… すみません(_)
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結局はDNA (ほり(管理人))
2007-06-27 00:17:07
執事さん、コメントをありがとうございます。

私、政治のこと、わからないんです。
誰でしたっけ? 私が言うことだから、内田先生か養老先生だろうけど(笑)、民主主義は、成員がみんな賢いことを前提にしているということらしいですね。まあ、「らしい」というより、そうでないと成立しない制度ですよ。
でも、事実はそうでない。

>一般人ばかりで回っていく社会というのは、ある意味成熟した社会だとも言えます(日本は成熟しすぎて腐った感じ?)。

「回る」という表現は曲者ですね。どの程度を持ってして「回る」というのか。「回り」ながらどんどん落ち込んでいって、でも、ほんの少しずつ落ちていくだけだから、誰も気が付かない、とか。(笑)で、うまくいっていると思っている。
どんな社会制度でも、「利」を得る人間はいるわけで、その人たちが、巧みに「今の社会は良い社会だ」と言えば、そう思い込まされる人たちもでてくるでしょう。(今の「児童・生徒」なんて、実にそうだもの。「僕たちの個性を認めて貰っている。でも、もっと認めろよ~」で、低いレベルで満足を得させられ、それが幸せだ、と思い込まされている。で、この片棒を無意識のうちに担がされているのが、今の教員。)

これが可能なのは、「モノ」が豊富だからでしょう。「いかなる人間」であるかはともかく、「生き物としての人間(或いはヒト)」としては、ちゃんと生きていけるわけだから。
日本はまだまだモノが豊富にあるから、本当にこれが困窮してこないとわからない。

人口が減って来ているから、モノが少量で済むようになるかな。自然は豊かだし、みそ汁とご飯に魚、野菜を食べて、それで満足できれば、「回って」いくでしょう。

内田先生が書いてたけど、(「逆立ち」だっけ、ブログだっけ?)戦争を待っている若者がいるのが気になるな。
「戦争で(自分だけでなく)皆が不幸になればそれでいい」と言う「平等論」。「エライ人たち」の中には、それによって何らかの種の「淘汰」が行われるのを待ってる人がいるのかなぁ。

「国」が滅びても、ヒトは滅びないわけだけど、内在化して持っている「DNA」がどう反応するかなってのが気になります。数千年この列島の自然の中に暮らしていて、江戸時代を経て生き抜いてきたDNAだからなぁ。。そう簡単には、抜け切れませんよ。

何にしても、私には余り居心地が良くない雰囲気かな。(笑)(まあ、私が居心地良い社会というのも、ヘンな社会だと思うけど。笑)

(しかし、う~ん、言いたい放題、大分ズレてるなぁ。。。)
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Unknown (執事)
2007-06-26 01:34:06
成文憲法と不文憲法の関係ですね。
指導者が階級として明確に存在するような場合は不文憲法の方が柔軟に判断できていいのですが、皆が政治に参加する民主主義社会では公正を期すため(古代では指導者階級に生まれないと法が把握できなかった)、成文憲法を制定するわけです。

問題になるのは指導者の質と指導者の育成ですか。
指導者の技能を身につけた人ばかりだと国は混乱する、との思想の元で行われたのが日本の教育制度の始まりです。
一般人ばかりで回っていく社会というのは、ある意味成熟した社会だとも言えます(日本は成熟しすぎて腐った感じ?)。
指導者階級を育成する、なんて現代ではおおっぴらに言えませんしね。
それを担えるのは大学でしょうが、今は大学を出た後の選択肢が広範に渡るようになっていますし。

いっそ徹底的にダメになった方が、「私が立て直す」なんて酔狂な人が出てくるものです。
国なんていう「潰れる事が許されない」でかい組織だったらなおさら。
国を救ったら英雄ですやん?

なんだかんだ言って、日本はまだまだ大丈夫なのかな、と思います。
次の世代はまだ育っていないのです。
期待する意味でも、心配する意味でも、教育は中長期的な視点で見ていく事が肝要かな、とか、月並みな意見で落としておきますが。
この辺、まだ納得はしていません。
悲観はしない一方で、打開策は探せるといいかな、と思います。
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線引きは難しい (ほり(管理人))
2007-06-25 23:52:09
執事さん、コメントをありがとうございます。

>人間は、線を引くとその線を中心に動く傾向にあります。
ゆえに目標は高めに、許容範囲は厳しめに設定する必要があります。

学校では、よく、数値を出して、「目標を設定しろ」という指導をします。(最近は、教員にもそのような指導があったりします。)「小テストの合格点○○点」とかでも。そうすると、「○○点」さえ取れば満足、と言う生徒が必ず出てきます。高く設定すると、「そんなの無理」と諦める生徒も出てくる。

>「線引き」によって堕落を防ごうとした結果、飛翔をも妨げてしまう。

だから、これ、しょっちゅう感じますよ。

で、話が元(?)に戻るけど、「線引き」を、もっと大きな意味で捉えると、上記の私のコメントになるかなと思いました。

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線引きとグレイゾーンと思考停止 (ほり(管理人))
2007-06-25 23:44:03
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>教師の行動の総体が,各生徒に対して教育的に機能すれば,それでいいだけのことなのだ,と.このことを取り敢えず私は「頭では納得できる」ようになりました(と,伏線を張っているのは,「身体では納得できていない」「なんとなく納得できない感が残っている」からです.).

ズレコメだろうと思いますが、学校が「万能であること」を期待すべきものではないし、精々で、「子どもの社会化する場所」「知識・技能を教える場所(特に義務教育)」、「物事の捉え方を(次元を変えるとか、フレイムワークを変えるとかいう点で)学ぶ場所」ということですから、社会とは、まあ、言わば、関係がない。
heisanさんが、カラダで納得できないのは、契約型組織に長く所属し、その利点や考え方が身についているからではないかしらと(身勝手に)想像したりしてしまいます。だって、世の中、その方向にどんどん進んでいるから。

それにしても、heisanさんの文章力はすごいですね。私、とてもじゃないけど、そこまで纏めることなんて出来ません。

><今後の課題>
本問題は,「相手を信用する社会であるかどうか」というのが本質的な焦点である.

というか、「相手を信用する社会であるかどうか」より、「相手を信用できる人間を育てること」「相手を信用しないより、信用する利益のほうが勝ってくること」を学ぶのが学校の機能じゃないのかなぁ。まあ、結果的に「集団の利益」を上げることで、「個の利益」もなるべく上がる方向に持っていくことを学ぶというか。
だから、学校では「目先の利を求めようとする個人として存在することを我慢をする」ことをさせられる。(←これ、ちょっと舌足らず。ヘンな表現かな。)

テレビで見ただけですが、ケータイをよく使う学生と使わない(頻度が少ないだっけ?)学生同士を知らないもの同士、グループを作り、相手を信用することのメリットに関する実験をした際、ケータイを使わない学生の方が、相手を信用してより大きな利益を得たらしいです。
学校で、ケータイを使用禁止するのは、まあ、校則として常識的だと思うけど、何か関係しないかなぁと思います。(この場の話とは関係ないけど。)

そうそう、思い出した。
「グレイゾーンの重要性」ということです。「契約型社会」、私のコトバで言えば「線引き社会」は、グレイゾーンをなくすべく努力する社会でしょう。でも、学校は、グレイゾーンが合った方が圧倒的にうまくいく。なぜなら、線引き社会は、私の見方では、ある意味、「思考停止社会」だからです。線を引くまでは、思考する必要があるでしょうが、いったん線が出来上がれば、線の存在だけを気にしていればいい。精々で、線に掛かるかどうか、だけを考えれば良い。その点、グレイゾーンが多く存在すると、「その度ごとに考えなければならない」。この大切さというか。それが人間の生き方として、相応しいものではないかしらと思うのです。
養老先生が、「倫理マニュアル」の異常さを言ってました。生き物にとって、倫理を「マニュアル」として画一化されるのは、「自然」にはんすることになるのではないのかしら。倫理はあくまでも、1つ1つの具体として考えるべきことでしょう。つまりは、「個」としての存在を大事にするということで。だから、生徒が問題を起こしたときでも、脳死や安楽死?問題が生じたときも、1回1回、検討する。線に掛かっている掛かっていないだけの視点の問題としてではなくて。
これを「公正、公平でない」と評する人もいるでしょう。しかし、そう言う人は、思考停止したいのでしょう。(そう言えば、スカート丈をもっときちんと定めた方が良い、という人は、責任を取りたくなくて、思考停止しがちな人だったような。)
このように考えると、「契約型社会」は、思考停止を使用とする社会のように思えたりします。「知らない人が一定数を超えた社会」だと、そうなるのでしょうね。その方が「効率」が良いから。もめ事も多いから、そうでもしないとやっていけない、ということでしょう。
だから、学校も「規模」が大事だったりします。少なくとも、自分の学年の生徒の顔が分かる、全校生徒の顔が何となくでもわかる規模が、いいのかな。個も集団も生きてくる。

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Unknown (執事)
2007-06-24 02:17:19
すごい状態になっていますねw
流し読みして、最新4件をじっくり読みました。
楽しそうなので、参加してみます。主要な部分はお二人に任せて、議論が深まるように引っ掻き回す役割を演じられればいいかな、と思っています。
最初は文脈無視のそれこそ「呟き」でいくので使える部分があれば適当に使って下さい。

さてさて。
人間は、線を引くとその線を中心に動く傾向にあります。
ゆえに目標は高めに、許容範囲は厳しめに設定する必要があります。
しかしここで問題となるのが、社会として要求する以上の目標やモラルを持つ人々です。
彼らにとって、線は足かせになります(本当に能力ある人には関係ないのでしょうが、そこまできたらそれは異端であり天才です)。

「どこまでやればいいか」を示すのは合理的です。
しかし合理的でないのが人間の本質であり、人間の能力は非合理的なやり方(個々人のスタイル)で伸びていきます。
「線引き」によって堕落を防ごうとした結果、飛翔をも妨げてしまう。
そんなことを先ほど思いつきましたw

以下関係ないお話。特に意味はありませんので、無視してオーケーです。
「言った人は当たり前のことを当たり前のように言っただけ。深みを作り出すのは常に受け手」
私が考えた言葉で、一番好きな言葉です。
ある意味伝える努力の放棄なんですが、本当にそう思っています。
これから私が読み取れるのは「好きな人のお話からは深い意味を汲み取れる」「どうあがこうが、伝わるものを決めるのは常に相手」です。
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Unknown (heisan)
2007-06-23 16:11:09
> heisanさんは、誠に失礼ながら、私が前に述べた「腐った社会」に同化する方法を選ばれたと言うことだと思います。
幸いなことに(?),私はそのことを自覚してからというもの,手段を選ばずそこから逃走する決断をしました.ので今はそういう文化のところに足を突っ込んでは居ないのですが,なにぶんそのときの経験が極めて私の精神に堪えた類のものでありましたので,そのことが私に及ぼした意義は何かということについて,ときおり思いを至らさずにはおれないのです(笑).

> 私はヨソの社会を知りません。知っているのは、学校だけです。(だから、学校の先生はダメだ、とずれたことを言う人もいます
本筋からはずれますが,そもそも私が先生のブログに最初に(最初らへんです)コメントを差し上げようとしたきっかけは,「なぜ『学校以外の世界を知らない教師』が,『学校以外の世界に行くかもしれない生徒』に対して教育行動をなしうるのか」という問いの答えが知りたかったことにあるのですね.
色々お話を伺うことが適いました結果,いまのところ,一応,「頭では納得できる」回答を得ております.それは,教師というのはなにも,生徒がこれから歩むであろう道をすべて歩んでいる必要はない.教師の行動の総体が,各生徒に対して教育的に機能すれば,それでいいだけのことなのだ,と.このことを取り敢えず私は「頭では納得できる」ようになりました(と,伏線を張っているのは,「身体では納得できていない」「なんとなく納得できない感が残っている」からです.).

> 内田先生が、労働は常にオーバーワークになってはじめて人は満足する、みたいなことを書いていたと思います。私は同感します。
内田先生は「学校に限らず,すべて組織は,後者の論理で動いている限り,極めて健常に機能する」という思想をお持ちなんだと思います.
人類史における「契約型組織の発明」こそが人類に多大なる不幸を招来せしめた,と.

> 先生たちが代わる代わる「同じコトを繰り返し言えば」そのうちに生徒が変化する。そんなものだと思います。
語学が苦手な人でも,何度もその言語に触れていると,そのうちに自分が変化する,というのに似ているかな,と思いました.どちらも「先行文化を自分の身体に叩き込む」という点では共通していますから.

> 「学校は他の社会と違う。なぜなら、成員である「子ども」は(オトナより)ぐんぐん成長するからだ」が私の考え方の根幹です。私のさまざまな考えの全てがこれに由来し、決して変わることはありません。
私の言葉で言えば,「学校に契約型組織のルールは馴染まない」ということなのでしょう.そしてさらに内田先生は「あらゆる組織に,契約型組織は馴染まない」と言っちゃえば言い過ぎですけれども,それに近いことをおっしゃりたいのではないかと思っています.

<結論>
 官公庁,マスメディア,ないし営利活動をする企業に属する人間の多くは,契約型組織のルールで物事を判断することに慣れきっている.これゆえに,学校で起こる諸問題に対して向ける眼差しにおいても,自然にそのルールを適用する.しかし,これがそもそもの誤りであり,このことに彼らは気づいていない.
 学校は,子どもを育てる場所である.子どもは,親や周りの大人を見て育つ.子どもを育てるための基本的諸機能は,かつては家庭や地域社会ないし村社会が担っており,学校という組織もまたこのかかる社会群との融合する形で機能を果たしていた.しかし,多くの人々が,人類史開闢の頃より続く「家族型組織」が我々各個人に要求する負担を嫌い,負担とそれに対する対価が明確ではある(が,高々数百数千年の歴史しか持たない「人工的な遺産」に過ぎない)「契約型組織」がもたらす一時的なメリットに飛びついた.その結果,家庭型組織たる家庭や地域社会はその諸機能を失っていき,並行して学校は,おのが組織が足を突っ込むべき拠り所となる組織(=家庭型組織)を失った.先般より,学校の役割が困惑化しているかのような様相を呈しているのはこの故である.
 まとめる.
 第一の過ちは,多くの人々が,「契約型組織」の価値を過信しすぎたことである(契約型組織は,その適用が一定の範囲にとどまっている限りにおいては,我々にメリットを提供してきた.問題なのは「度が過ぎた」ことにある.そのメリットを過信し,盲目的になり,正常な判断力を失したことにある.).
 第二の過ちは,主として「日常的に契約型組織のルールで物事を判断する習慣を持つ」人たちが,学校にもこの習慣を適用することを良しとしたことである.

<予期される反論への反論>
こうは言っても,日常的に契約型組織のルールで物事を計ることに慣れている方々の目には,学校が取るそのような対応を「甘い!」と一蹴するに相違ない.私はその判断自体に誤謬があるとは思わない.その判断に後続する文脈の選択において,彼らの言説には誤謬があると考える.甘い,だから責任の所在を明らかにする社会一般のルールを学校にも適用せよ,ではないのである.世の中の「社会」は大きく,家庭型組織と非家庭型組織に分けられる.すべて人間は生まれた瞬間はこの家庭型組織に属し,ここで種々の教育的措置を受けながら,人間的に成長していくことが期待されている.ここであなたがたの多くは,こう反論されるであろう.いずれは彼ら子どもたちは非家庭型組織で生きていくことが予定されている存在なのであるから,早い段階からかかる組織のなかに放り込んで鍛錬することが,非家庭型組織のなかで生き残っていくための「生きる力」に相当するのではないか,と.結論から言うと,その判断はバカである.なぜなら,今の子どもたちは,非家庭型組織(特に契約型組織)のなかでどのように振る舞えばよいかに関する学習機会には極めて恵まれているからである.消費活動における商品と金銭の交換はその最も端的な例である.なにごともバランスが大事である.「家庭型組織のなかで生きる術」と「契約型組織のなかで生きる術」と,両方をバランスよく習得していくことが,子どもたちにとっては重要であると思う.いまの世の中で,不足しているのはこのどちらであろう.学校は,このどちらの役割を担うことに専念すべきであろう.各氏,ご自分の胸に真摯にお問い合わせ頂ければ,それはおのずと唯一つの人類学的回答を導く筈である------と私は信じる.

<今後の課題>
本問題は,「相手を信用する社会であるかどうか」というのが本質的な焦点である.人間は,道具をつくって使用しうる存在である.人間は,人類史開闢以前より続く伝統あるこの「家族型組織」に加えて,「契約型組織」という道具をつくって使用するに至った.人間は,道具の適切な使い方を,失敗を含んだ経験から学んでいく.いまわれわれはここに,「契約型組織」の使い方を誤るとどういう惨事が招来するかについての知見を得ることができた.それだけが確かなことである.道具を改良したり,新たな使い道を思いついたりすることは,人間の本性的な特性であるし,これによって得られるご利益もまた計り知れないものがあることを踏まえると,これ自体を一律に禁じることはできない.「確かなこと」以外の部分をどう整理するかは,われわれが今後なす行動と話し合いの顛末にかかっている.
わたしが申し上げたかったのは以上のようなことである.
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子どもは変わるものである (ほり(管理人))
2007-06-23 12:09:53
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>ここで私が重要だと思うのは,「俺は対処したくない」「俺は,対価なしに組織に貢献したくはない」と考える人間は,絶対に居るということです.

こういう種類の人間は、必ずいます。で、内田先生は、そういった人や場所からは逃げろ、と言ってます。内田先生は、これを本能的に回避しているはずです。(じんましんが出たとか書いてたものなぁ。)

>私が彼らに共感してしまったのです.

heisanさんは、誠に失礼ながら、私が前に述べた「腐った社会」に同化する方法を選ばれたと言うことだと思います。個人が生きる戦略として大いに「有り」です。

>ほり先生は,私が経験したような,上で●で示したような経験をされたことはおありですか?

なかったら、もともとこのブログは存在してませんよ、(苦笑)とだけは確実に申し上げておきます。
だから、「愚痴ブログ」なんだってば。(笑)ただ、それなりに一般化させ、昇華させて書いてるつもりはありますからそう見えない?(これ以上は聞かないでください。聞かれても一切答えませんから。)

私はヨソの社会を知りません。知っているのは、学校だけです。(だから、学校の先生はダメだ、とずれたことを言う人もいますが、私が論じようとしていることとは関係がない。)
で、「学校の先生」って、そんなにアタマは良くないし(失礼)、かといって、そう悪いわけでもないし、というレベルです。(一応「大学」はそれなりに出ているわけだし。笑)確かに中にはアタマの悪い人もいるし、ホントにヘンな人もいるわけでしょうが、ヘンな人はどこの社会にもいる程度でしょう。(だから、教職員課?での人事は、それなりに、「考慮」してると思いますよ。問題教員を問題になりにくい学校に送る、とか。「感性」が互いに合っている学校に送る、とか、たぶん。笑)
まあ、ふつーは、教員になってからの教育次第で、教員なんてどうにでも育つものなんですよ。
でも、今は、(何度も書いてるけど)文科省がヘンだし、はっきり言って管理職に思考力のないバカがけっこういるから(政治家的人間関係だけで管理職になる人がけっこういるはず)、良い先生が育たない。で、マスコミは何かあると、すぐにパッシングに走る。で、学校は過敏になってより「保身」に走る悪循環。
(学校や教育がマスコミの「エサ」になってる状況ですね。)

要は、「ふつー」の人(教員、生徒)をどう教育するかが大事なのだと思います。で、地道な道のりが必要。

>ほり先生はやはり私の予想通り,NOとお答えになりますでしょうか.(であるならば,私は「かかる考量がいかに有意義か」を説明するためにまたガンバらなくてはならないワケですが…w)

まさにその通りですね。で、heisanさんのおっしゃる「契約型組織」を、私は「線引き社会」と捉えるのです。で、人間は、そんなに線を引くことを好まない。内田先生が、労働は常にオーバーワークになってはじめて人は満足する、みたいなことを書いていたと思います。私は同感します。

heisanさんが現実に属する社会(会社?)がどのようなものか、私は存じません。しかし、私が接する「子ども」は生き物で、刻々ともの凄く変化する。この可能性は、一般の社会とかなり異なる性質です。ですから、この可能性を大事にすべきなのですよ。(でも、今は、最も肝心なこの観点が忘れられている。)

ちょっと突然思いつき:
一般社会を牛耳る?「法は過去を見る」が、子どもを扱う「教育は未来を見る」と言うとわかりやすいかな。だから、法と教育は基本的に相容れない。

>先生)「こら,それはやってはいけないだろ.やめなさい.」
生徒)「ええー,なんで俺だけ叱るんだよ,みんなやってるだろ,ほら,あいつも,あの人も」
先生)「君はあんな大人になりたいのか?」
生徒)「へへ,そうですよ,そうですけど何か?ww」

大いにありますよ、これ。(笑)まあ、私の勤務校は、なんだかんだ言って「良い子の集団」です。だから、その「良い」ところを大事にしたい。

で、上記のような問答は、「その生徒が、その後、どれだけの回数、この指導を受けるか」にかかってくるでしょう。最初は「なにそれ? あんた、ばかじゃん」でしょう。でも、「回数」(人海戦術?笑)で、生徒が変わる可能性はないといえないと思うんだけどなぁ。。。困難校でも何とか学校の機能を保っているところは、みんなそうですよ。
だれでも、「多数決」の原理で動くから。どんなレベルの学校でも、先生たちが代わる代わる「同じコトを繰り返し言えば」そのうちに生徒が変化する。そんなものだと思います。そう言った生徒の「割合」が多少でも増えればいいわけですよ。「生徒は(集団として)3ヶ月で変わる」と言われたりもしますよ。

これ、個々人に即効性があると思いませんが。10年経って、その意味が分かってくればいいかな?くらいの感じ。公教育なんてそういうものでしょう。
(で、「腐った学校」では無理です。)

>要は,「俺は所詮オチコボレだよ」とグレてしまっている生徒は,こういう応答をする可能性があるだろうと予想するのですね(もっとも,この予想は素人予想なので当てになりませんがw)

内田先生が書いていますが、今の問題は、この問題でしょう。「格差」がもたらした最大の弊害が、「学ぶことからの逃避」、「オレはこれで良い、満足だ」。でも、能天気だと思われるだろうけど、上に書いたように、若い生徒の脳味噌は意外に早く変化する。凝り固まっているのは、オトナの脳味噌です。大人がこいつらは、ダメだ、と決めつけて、彼らに迎合する。(たぶん、それでトクをするオトナがいるんですよね。)

確実に水掛論になりそうですねぇ。。(笑)

まあ、端的に言って、「学校は他の社会と違う。なぜなら、成員である「子ども」は(オトナより)ぐんぐん成長するからだ」が私の考え方の根幹です。私のさまざまな考えの全てがこれに由来し、決して変わることはありません。
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Unknown (heisan)
2007-06-23 01:11:58
> 今の時代は、「責任の所在を問う」ことが非常に多い
> 責任を問う。その後に、「対処する」
> でも、現場は、
> コトが起こったら、「とにかく対処する」のが先決
> 世間一般は「学校が悪い」と、要は「責任を追及する」。
> で、マスコミがこれに乗じる。
> この点で法的な考え方が蔓延している。
> そのせいで、「対処する重要性」より「責任追及」の重さを先に感じて、結果、無意識的に「保身」に回ろうとするという悪い循環が出来かかっているとでも言うか。。
> 「責任」を問おうとするかぎり、学校は決して良くならない。
> 責任を問うことは、事後処置であって、ほとんど予防策にならないからです。かえって「責任回避」の動きになる危険性を孕む。
> 私はただ「いかに対処するか」に重点を置き直す「視点をずらす必要性」

おっしゃりたいことはよく分かります.
「責任を問うよりも対処することのほうがさきでしょ」とのご主張は,内田先生のご主張にも通じるところがありますね.

ここで私が重要だと思うのは,「俺は対処したくない」「俺は,対価なしに組織に貢献したくはない」と考える人間は,絶対に居るということです.
そして,「この種の人間」が,組織に一人でもいれば,そうでない人間がこの種の人間に共感して「そうだよな,俺らはなんてお人好しだったんだ!もうこんなばからしいことやってられっか」と考える人間が瞬く間に増えてしまう,ということがあります.
かように,「この種の人間」の存在を封じることは,ウイルスや感染病を全滅させることの困難さと同種の困難性を帯びます.
「それでも,頑張ろうよ」というのが,ほり先生や内田先生のご意見だと思うのですが,私は,その考え方の「品の良さ」にひどく惹かれる一方,「現実はそんなに甘くない」「焼け石に水ではないか」ともまた思っているのです.だから頑張って「焼け石に水」ではない方法はないものかとあれこれ考えてみている.

「まず対処しようよ」って言ったって,相手が「『なんの対処もしない』ことによって危機が到来することのマイナスよりも,「対価をもらわずに組織に貢献する」ことの理不尽さのほうが重要であると考える人間」であれば,絶対に,かかる説得には応じないでしょう.

多くの人間は,「責任有りと判定された人間がどれほどみじめな境遇となるか」をよく知っています(職業教師が受けるのは法的な裁定だからです).それの回避を最優先するのはとても自然なことです.

●私は以前に,「まず自分が対処する」という行動を率先して行った結果,周りの人々から「なぜ貴方がそういう(損得勘定に合わない)行動を取るのか,理解できない」とか,「物好きなんだね」「お人好しだね」などの評価を受け,ボランティア的な活動を続けるうちに,非常に自分のやっていることがバカらしくなってきた,ということを経験しています.私が彼らに共感してしまったのです.
ここで重要なことは,一般的に,「彼ら」が「私」に共感する確率よりも,「私」が「彼ら」に共感する確率のほうがずっと高い,という点です.私が,ほり先生や内田先生の結論に「焼け石に水」との評定を与えたくなるのはその故です.

「安心」が広まるスピードよりも,「不安」が広まるスピードのほうがずっと速い.
「信用」を築くのにかかる年数よりも,「信用を失う」のにかかる年数のほうが,ずっと短い.

端的に言えば,「『責任は誰にあるのだ』などというお言葉を誰かが発するようになっている」というその事実は,そのまま,「もうこの組織は信用できない」と,その組織の構成員の誰かが思い始めている,ということに他ならないのです.

そこで,「もう『家族型・ムラ型組織』ではだめだ.『(明文化を伴う)契約型組織』でないと.」となるのです.「契約型組織」というのは,「互いが互いを全く信用できない」という状況下にあっても,組織をきちんと機能させることができるという点で,優れています.

「ムラ型組織」と「契約型組織」は,どちらにも一長一短があります.どちらがいいということは言えません.
ただ,契約型組織は,人間が発明した形態の組織であるのに対し,ムラ型組織は,人類史開闢の頃からすでに存在していた形態の組織である,ということは言えるでしょう.
いかに契約型組織が上記の点で優れているとはいえ,私たちは「いかなるムラ型組織にも属さずに生きていく」ということは,できない.
そこで,「契約型組織」なる発明とその運用がもたらした「ギスギスした居心地の悪さ」に愛想を尽かして,ムラ型組織の頃の居心地の良さを懐かしみ,そこへの回帰を求める声もまた多い.


えっと,まとめます.
ほり先生は,私が経験したような,上で●で示したような経験をされたことはおありですか?
もしおありであってもなお,「単純な損得勘定に合わないことを平気でする」ことをお続けになることができるのだとしたら,そのような方はもうほとんど「聖人」だと思います.

なるほど,世の中の構成員が全員「聖人」であれば,教育の現場に「責任が云々」と騒ぎ立てる輩は居なくなるのかもしれない.しかし,現実には,世の中に存在する「聖人」の割合は驚嘆すべきなまでに少ない.私は,「そういう現実を直視した上で,我々にどういう事が可能なのか」を考量する方が,よっぽど意義のあることだと思う.

まあ,こうは言ってみても,ほり先生や内田先生らからは「そういう現実を直視した上でどういうことが可能かを考量してみたところで,なんらの有効な解決策も出てきはしないであろう.むしろ,そういう考量をしている間は,その人間は,『(現場における)なんらかの対処に出るか出ないのか』の判断を留保できるわけであるから,これほど都合のいい話もない.あなたはよくそんな「いかなる対処にも出ず,かつ,自分の倫理性を担保する」という立ち位置が存在する」ということを見つけましたね.そのことのほうにいたく感心しますよ,まったくw」と言われてしまいそうですがw

ここでの意見の違いは,「かかる考量が有効な解決策を導きうるか否か」の予想において,私はYESと答え,ほり先生らはNOとお答えになるであろうことより創出されております.ここでの意見を一致させない限り,水掛け論になりそうですね.いかがでしょう.ほり先生はやはり私の予想通り,NOとお答えになりますでしょうか.(であるならば,私は「かかる考量がいかに有意義か」を説明するためにまたガンバらなくてはならないワケですが…w)



『いじめ撃退マニュアル』は前置きなしに出してすみませんでした(思わず例が脳裏に浮かんだので書き走ってしまいました^^;).
機会があれば一読されることをお勧めします.
<参考>
http://www.review-japan.com/makuhari/include/08_004.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubusawa/support/manual.html



> >「君はどんな人間になりたいのか」
># おおっ,なんかむっちゃいい言葉に思えてきたw
> お褒め頂きましてありがとうございます。
と思ったのですが,よく考えてみると,次のようなシチュエーションも有り得ますよね.

先生)「こら,それはやってはいけないだろ.やめなさい.」
生徒)「ええー,なんで俺だけ叱るんだよ,みんなやってるだろ,ほら,あいつも,あの人も」
先生)「君はあんな大人になりたいのか?」
生徒)「へへ,そうですよ,そうですけど何か?ww」

こういう場合はどう対応されるのでしょう?
(おそらく,そういうケースは前例がなかったものと思われますが,気になったので)

要は,「俺は所詮オチコボレだよ」とグレてしまっている生徒は,こういう応答をする可能性があるだろうと予想するのですね(もっとも,この予想は素人予想なので当てになりませんがw)
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「責任の所在」よりも「なんとかしようよ」 (ほり(管理人))
2007-06-22 23:57:45
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>なんというか,弁証法的な解を発見したいというところにあるのかなあ,と.

学がなくてすみません。「弁証法」については、高校の「倫理・社会」(昔はそう言う名前の科目がありまして)のヘーゲル「正+反→合」が階層的にどんどん繋がっていくと言う理解しかありません。(というか、なぜか、この科目の授業内容で覚えているのは、奇妙にもこれだけなんですよ。多分、先生が板書したのがそれだけだったのかもしれない。笑)
「だから、よくわかんない」のが、ホンネです。(ごめんなさい。)無理解の根本的な理由がそこにあるのかもしれないです。

>『いじめ撃退マニュアル』に出てくるナベ先生のような,保身主義で,できるだけ自分の仕事を減らそうとすることに力を注ぐ教師に保護者が対峙したとき,それでも,保護者はこの怠慢教師に対して文句一つ言ってはいけないのか,ということなんですよ.

浅学にして、この本を存じません。なんとなく、想像付く気はするのですが。。。

heisanさんがおっしゃることと多少(かなり?)ずれることかもしれませんが、私が感じるのは、今の時代は、「責任の所在を問う」ことが非常に多いことです。
何かが起こったときに、原因を追及し、責任を問う。その後に、「対処する」という過程を辿る。
これは、「法的な考え方」だと思います。
(heisanさんのお考え「この世の中,責任を伴わない仕事は有り得ない.」にもこの考え方が如実に現れています。)

でも、現場は、違う。(「現場」はどこでもそうだろうけれど。)コトが起こったら、「とにかく対処する」のが先決です。で、うまくいっている学校は、責任云々より先に、「じゃあ、どうするか」を考えて対処する学校です。(「責任を問わない現場」って、案外にあるような気もするんだけれど。誰かがうまく対処して「結果オーライ」で。その方がスムーズにコトは進むでしょう。が、「外部との対応」まで広がると、「責任」が関わりますが、内部で対処できれば「責任問題」は生じないのではないのかなぁ。。)

>「生徒が本当に困ったときになんとかしてあげられること」だと思ってきました.本当にいじめられていて本人は深刻なのに,その心情を全然酌めない教師は,いい教師とはいえないでしょう.ここは,お認め頂けますでしょうか?

これはそのまま認めます。「いかに対処するか」の問題だからです。

>このあたりは,なかなかほり先生にはご理解いただけないのではないかと思いますが,具体的には,「生徒が本当に困っているのに,それを困った振りをしているだけ,と判断してしまう教師」のことです.

おっしゃられるとおり、私はよく理解してないと思います。
う~ん。「無責任だ」と言われそうですが、お書きになるような「我が子が被害にあって云々」ということまでは、考えられないのです。
比較的良い学校しか知らないので、そういうことに接してないので、想像すら出来ないというのが私の実際のところです。

私が知る限りでは、深刻な状況は知らないし(以前記事に書いた「いじめ」くらい)、コトが起こったとき、先生はそれなりに対処していたと思います。(まあ、自分自身について言えば、もう少しうまくできると良かったと反省することは多々ありますよ。表面化(生徒同士の中でも)しなかったから良かったと思うことがあります。他の先生方と共に気を配っていましたが、私は、この点、恵まれて過ごしてきています。ある程度常識的な生徒集団では、そうひどい「いじめ」は起こりませんから。親御さんもしっかりしていらっしゃるし。私は生徒に助けられていると思います。)

ただ、ちょっと言いたいのは、世間一般は「学校が悪い」と、要は「責任を追及する」。(で、マスコミがこれに乗じる。)もの凄く、この点で法的な考え方が蔓延している。
そのせいで、「対処する重要性」より「責任追及」の重さを先に感じて、結果、無意識的に「保身」に回ろうとするという悪い循環が出来かかっているとでも言うか。。

それでまた、いじめのような問題は、非常に個人的で状況的なものがあります。ほんのちょっとしたきっかっけがいじめを回避されたり、刺激されたり。
私は、これを一般化し、一律に論じる危険を感じます。
実は、それがheisanさんは否定される「線を引く」という表現になって出てきたのです。

「教師」にしても、「教師集団の雰囲気」というのがあり、事件の責任があるとされる教師も、実は、「雰囲気に載りやすい教師だった」と言うことが考えられるのです。(日本人は、「場の空気」に弱いですから。)
ある意味、「責任がある」とされた教師も、その教師集団でなければ何事もなかった可能性があるとも考えられるのです。(これを、「擁護」と取らないで欲しいですが。)だから、「何か」が起こったときの責任は、本当のところは決して一人の教師だけの責任でない。もちろん、誤解されると困るのですが、「共同責任は無責任」と言いたいのでは決してありませんよ。この点はお間違いのないように願います。「責任回避」と文脈で読まれると困ります、何も書けなくなりますから。

この「雰囲気」は、奇妙に思われるかもしれませんが、「学校」、「教師集団」には、必ずあるものです。で、これが悪いと、最悪。
この「雰囲気」は、教師同士の人間関係云々ではなく、「教育に対する姿勢」です。腐っているところはみんなが腐っている。こういうのは、外部からは絶対に見えない。内部にいても、「みんなそうだから」腐っていることが分からないのです。腐った考え方同志で「仲良しクラブ」を形成していることもある(と思いますよ)。で、多少まともな人であっても、周りが腐っていると、伝染するのです。
こういう「雰囲気」を作り替えることが出来るのは、校長です。たぶん、中に二、三人は必ずいるであろう「マトモ」な教員を校長がどのように評価するか、それで大分変わる。
或いは、教員を2、3年がかりで総入れ替えする。(これで再生した学校を知っています。)

逆説的ですが、それにまたheisanさんのお怒りを買うような気もするのですが、「責任」を問おうとするかぎり、学校は決して良くならない。責任を問うことは、事後処置であって、ほとんど予防策にならないからです。かえって「責任回避」の動きになる危険性を孕む。こう書くと、「じゃあ、泣き寝入りをしろというのか」と言われそうですが、そんなことを言うつもりは全くありませんよ。念のため。
私はただ「いかに対処するか」に重点を置き直す「視点をずらす必要性」があることを述べたいだけです。それは親も学校も、です。
(だから、私の言っていることは、「いざ」と言うときに役に立つことではないです。)

で、「腐った集団」だと、この感覚が麻痺しているのです。

>なんというか,卒業式の日を過ぎたとたんに一人前に扱われるという「形式的事実」のうちに私は,教師及び親の「欺瞞」をみます.
なぜか?
責任が回避されているからです.
>では,教師の果たすべき「明確に分かる責任」とはいったいなんなのでしょうか.

話が前後しているかもしれませんが、「道義的責任」が一生ついて回るでしょう。でも、明確な「責任」は問えない。でも、道義的責任は断じてある。ですから、教師のなり手には限りがあるのだと思います。
で、私は「それで、誠意を持ってやるしかない。それが教員のつとめだと思うんです。」と前のコメントに書いたわけなんですよ。(舌足らずですみませんでした。)

>ほり先生の話だと「でもしか先生ばかりになっても当の学校は全く困らない」となりますが,これは真実でしょうか.

生徒が賢ければ、でもしかばかりでも一向に構わないでしょう。生徒が先生の出来の悪さを補ってくれます。(私は生徒に自分の出来の悪さを補って貰うことがよくあります。苦笑)
生徒の出来が悪いと困りますね。この「出来」とは知的能力より、「人間的な出来」です。
その意味では、今の時代、逆説的に考えると、「出来の悪い子ども」が増えてきたともとらえることができるますね。(過激かな。)で、教師、生徒、親の「相乗効果」かも。みんな、出来が悪くなっている、と。

>となると,教師は,なんにも目標を掲げなくていいことになります.

「生徒の出来」が良ければ、先生のさまざまな点から、生徒は実に賢く多くを学び取ります。「生徒が持つ目標」が大事なのであって、「先生の掲げる目標」は本来二の次です。(これも過激かな。)だって、学校は、生徒が成長する場ですから。

>「君はどんな人間になりたいのか」
# おおっ,なんかむっちゃいい言葉に思えてきたw

お褒め頂きましてありがとうございます。大昔からおもっていたことです。でも、この言葉、1年生だと通じないことがある。(苦笑)
「どんな人間」=「職業」になることが多いみたい。「人間性」に通じないことがあるのですよ。

この問いは、知的能力を問いません。答えもありません。だから、普遍的に有効な問いだと思ってます。

しかし、逆に私が不思議なのは、なぜ、このような問いを他の人はしないのか、ということです。

教師も親も、出来ることには限界があります。その点で「無責任」です。(heisanさんは不満かもしれないけれど。)だったら、子どもに任せるしかない。その方法の1つがこの問いだと思うのです。
で、私は、高校生にもなれば、それまでそこそこちゃんと教育してくれば(←今はここが問題かな。)、これを考える力が生じてくると思っています。
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Unknown (heisan)
2007-06-22 20:10:31
遅くなってすみません(_)

> それから、私は、heisanさんのお考えに、「きっちりと基準を設けて線を引きたい」という心の奥底の願望を感じてしまいます。しかし、私の答えは、「それは無理です。」です。
私の願望は,「線を引くこと」ではありません.
なんというか,弁証法的な解を発見したいというところにあるのかなあ,と.

私が言いたいのは,(過激な言い方を厭わずに申し上げれば)『いじめ撃退マニュアル』に出てくるナベ先生のような,保身主義で,できるだけ自分の仕事を減らそうとすることに力を注ぐ教師に保護者が対峙したとき,それでも,保護者はこの怠慢教師に対して文句一つ言ってはいけないのか,ということなんですよ.

親の子育てもそうで,20過ぎたら時間切れで,「あとはあんた勝手にやってね」が通用してしまう.そこで,多くの教師はどうするか.「時間待ち」という作戦に出る.時間が経てば卒業してくれる,と.
それじゃいけねーだろ,時間が来るまでの間きっちり責任を全うしろよ,と思うのですが.


> 生徒より先に先生が異動希望を出すでしょう。。で、ちょっと情けない生徒集団のようにも感じます。
それはそれで真実ですが,この真実と同時に成立するもう一つの真実は,「教師が聖人化・神聖不可侵化されている」という点です.確かに,「私たち保護者は教師に,子どもを人質に取られているのだから」という視点に立てば,「教師ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」という文言の正当性も納得できます.
「評価する(立場にある)者」はすべからく「神聖不可侵」ということになります.「その評価が妥当なのか」について,評価を受ける者(子ども)や第三者(親)が口を挟む余地はありません.
これは,「専門家の言うことに非専門家はしたがわねばならない」という規則があるから正当化され得るのですが,今の世の中,この規則が揺らいでいるのですね.すなわち,「教師は専門家でもなんでもない」と考える保護者&生徒が多くなった.

経営者や政治屋さんのなかには,「教師はサービス業だ」と言ってはばからない方がとりわけ多く居られるように思います.彼らのような人に,そのような考え方はおかしいということを分からせることができない限り,「教師ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」なる原則を今後も維持していくことは難しいでしょう.

というか今の世の中,マスメディアがそのような「専門家の不祥事」ばかりを煽り立てるからか,この「専門家が信用ならない」という文脈が至るところで同時多発的に生じている気がしますね.

その典型例が『いじめ撃退マニュアル』にある教師と保護者の攻防なのです.専門家としての働きをしない教師の尻をいかにして叩くか(叩いて強制的に働かせるか)という,凄まじいほどに具体的なノウハウが書いてあります.

ほり先生はこの本に出てくるほど怠慢な先生に対しても,親は「教師ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」なる原則を守り通さねばならないとおっしゃるのでしょうか.

ここにある問題の本質は「専門家の専門性の破綻」です.そして,それが破綻したという事実認定を,誰ができるのか,誰がそれをすることが許されるのか,が焦点なのです.

私の願望は,単に「線引きをすればOK」というような,(思考における)次元の増加を予定しないところには毛頭ございません.それは,焦点が上のことにあることをご理解頂ければご理解頂けるのではないかと思います.

私は決して「グレイゾーンをなくして白黒をはっきりさせれば解決する問題」だと捉えているわけではありません.私が確信していて,ほり先生がご確信なさっていない点は「教師の神聖不可侵性が崩れることがあるか否か」というただ一点においてなのです.それが有り得ない,教師の神聖不可侵性は未来永劫限りなく崩れることがない,という立場を擁護することは,私にはできません.


> 成人した後は、それまでに親から受け取ったものでやっていけ。後は、おまえ自身の力だ。
なんというか,卒業式の日を過ぎたとたんに一人前に扱われるという「形式的事実」のうちに私は,教師及び親の「欺瞞」をみます.
なぜか?
責任が回避されているからです.
この世の中,責任を伴わない仕事は有り得ない.だのに,教師が行う仕事や親の子育てという仕事は,それの成功可否に対する責任が問われない.なぜなら成功可否の基準が曖昧だから.それが曖昧であることは認める.だが,だからといって,それを良いことに,教師や親は責任を原理的に問われないのを良いことに,グータラ三昧の教育をしていいというわけではないでしょう.もし,グータラ三昧の教育をしていいということになれば,「それほど都合の良い話(職業)もない」ということになり,我も我もと世の中の人はみんな教師業に就きたがりまくると思うんですよね.でも,現実にはそうなっていない.それはなぜなんでしょう.それは,教師にも一定の大変さ(責任の付随性)があるからに他ならないと思います.では,教師の果たすべき「明確に分かる責任」とはいったいなんなのでしょうか.

ほり先生の話だと「でもしか先生ばかりになっても当の学校は全く困らない」となりますが,これは真実でしょうか.

なるほど,グータラでどうしようもなくてサボることばかり考えているような「学校の先生」も,一定の教育効果を生徒たちに与えているならば,それでOKということになります.
となると,教師は,なんにも目標を掲げなくていいことになります.

思うに,教師に求められる能力というのは「英雄性」「カリスマ性」ではなく,「生徒が本当に困ったときになんとかしてあげられること」だと思ってきました.本当にいじめられていて本人は深刻なのに,その心情を全然酌めない教師は,いい教師とはいえないでしょう.ここは,お認め頂けますでしょうか?


> だから、私は、「教師の言うことを聞かせる」のが教育の最大の目的ではなく、「君はどんな人間になりたいのか」を自分で考えさせることが大事だと思っています。(社会を見渡せば、犯罪者もいるし、そうでない真っ当な人も大勢いるわけですから。)
これは,まさに,私がほり先生から教えられてしまった視点です.
「目から鱗」レベルかもしれません.ありがとうございます.
(どうやら私もマスメディア的な視点に呪縛されていたようです)
思えば,「君はどんな人間になりたいのか」と問いかけてくださった先生は(現役の頃を思い返してみても)記憶にないですね.
う~む…

「君はどんな人間になりたいのか」

# おおっ,なんかむっちゃいい言葉に思えてきたw
思い返せば,「法」がそういう視点に立って書き下ろされていないから,かかる呪縛に遭って右往左往してしまうという面はあるのではないかと思います.
「君はどんな人間になりたいのか」
上意下達的システムのうちに一条の光を差し入れる言葉ですね.

教師は普段はグータラでOKなのです.「本当に困ったとき」に「なんとかしてくれ」さえすれば.
ここで,本当に困っているのか,それとも,ふざけて困った振りをしているだけなのかを区別する判断能力は,教師の専門性の一部を成していると思うのですが,この種の専門性が今の世の中では瓦解し始めている.それゆえに「うちの子が困ってるのに助けてくれないなんて」と文句を言う親が出てくる.教師が「それは困っているのではなくて,困っている振りをしているだけですよ,親御さん」とご説明しても,我が子可愛さに盲目的になっている親御さんの耳には通じない.
ここから話は二手に分かれます.

(1)
ここら辺は,まともな学者が,似非学者の誤りを正す工程に似ている気がします.
例:http://puzhai.cocolog-nifty.com/zazhi/2007/05/post_c700.html
結局は地道にお話しして,親御さんにご理解いただくしかない,という結末.

(2)
しかし,話はそういう「神の立場からみて,教師が正しくて親御さんが間違っている」というパターンばかりとは限らないと思います.「親の言い分のほうが真実的に分がある」場合があると言っているのです.このあたりは,なかなかほり先生にはご理解いただけないのではないかと思いますが,具体的には,「生徒が本当に困っているのに,それを困った振りをしているだけ,と判断してしまう教師」のことです.教師の立場に立てば,面倒事が存在することを認めることは,仕事を増やすだけなので,できれば認めたくないわけです.私が先般より何度も何度も申し上げているのは,まさにこの点なのです.「仕事が増えるのが嫌なので,面倒事は存在しないのだ(例:うちのクラスにいじめは存在しないのだ)と言い切る教師」と,「現にうちの子がいじめられているんですよ!」という親御さんとの格闘において,教師のほうに分があると言えるでしょうか.
そして,この格闘の真っ最中に「教師は神聖不可侵である」なる原則が大手を振って罷り通ったらどうなるでしょう.結論はこうです:教師は「いかなるとき」もサボり続けることができ,保護者はいかなる教師の横暴(理不尽に映る行動)にも耐え忍ばなければならず,わが子がどんなに被害に遭って自殺したとしても,その事実に関して教師に責任を転嫁してはならない.そんなバカな話ってないじゃないですか,というのが私の意見ですが,いかがでありましょう.
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グレイゾーンと倫理観 (ほり(管理人))
2007-06-18 00:40:43
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>じゃあ,卒業すると同時に,先生と生徒は対等になるという事実をどう解釈すればよいのでしょうか.
>しかし,その形式的事実をそのまま現実的事実として受け入れる態度のうちに,私は教師の怠慢(グータラさ)をみます(失礼!).
>こういう特殊な存在をどのように扱えばよいのか,という問いに,私は対しているわけですが,いまだかつて誰も,この私の問いに「うんうんそうだよね,それは大事な問いだよね」と共感・同意してくださった方が居ないのですね(笑).

法律では、「20歳になったら自動的に成人」と見なしていますが、まあ、それでしか線の引きようがないからでしょう。
その点、学校も、「しようがない」。3年なり12年なりの教育期間は定まっている。高校は「留年」という措置がありますが、学力においてのみです。しかも、これだってそのとおりのものかどうか疑わしい。

私、自分の親に、20歳を過ぎて「なぜもっと私をちゃんと教育してくれなかったのか」と文句を言ったことがあります。(笑)その時の親の答えは、要旨を言えば、「最善を尽くしたつもりでも、できなかったことがあったということだ。要求されたようなことまではできない。できなかった。また、親として、なぜそこまで(過保護に)やらなければならなかったのか。」でした。それで、私は、まさにheisanさんがおっしゃるような「それは親として怠慢(グータラ)だったのではないか」というようなことを言いました。(笑)で、その時の親の答えは、「親にできることには限りがある。成人した後は、それまでに親から受け取ったものでやっていけ。後は、おまえ自身の力だ。」でした。
というわけで、今の自分があります。(笑)

で、学校の先生の仕事も同じだと思いますよ。
できることにはかぎりがあるのに、今は、要求されたこと全部ができなければならないように思われている。

それから、私は、heisanさんのお考えに、「きっちりと基準を設けて線を引きたい」という心の奥底の願望を感じてしまいます。しかし、私の答えは、「それは無理です。」です。

そう、「子ども」なんて、特に思春期に時期なんて、身体も心のぐじゃぐじゃ不安定で、自分が何物であるか分からず、何をして良いのかもわからず、日々悶々とするものではないでしょうか。で、それでいいんじゃないのかなぁ。
先生に腹を立てたり、感動したり、ばかやろーと思ったり、凄いと思ったり。

>これは「教師がどれほどグータラであっても,どれほど怠慢であっても,教育上はまったく問題がない」という主張を正当化してしまいそうで,あれですが,それでもいいんでしょうか.
>生徒はなかなか教師の言うことをきかないんじゃないでしょうか.

実は、余り時間なく書いてしまっているので、あちこち書き散らしてしまって申し訳ありませんが、私は、これ、全くOKだと思ってます。
だって、でないと、「若い世代は老いた世代を乗り越えられない」ことになります。

理想論は、先生であれ、何であれ、子どもを取り巻く大人が須く立派であることですが、無理な話です。よくここに書いてることですが、傘差し運転の生徒を注意したときに生徒から「大人の人もやっているじゃないか」と言われて「そうだな、だから、君の行為が許されても仕方がないね」と傘差しを認めるか、「じゃあ、君は将来、あんな大人になりたいのか」と指導するかです。(で、私は後者。生徒はそう言われると、黙ります。)

だから、私は、「教師の言うことを聞かせる」のが教育の最大の目的ではなく、「君はどんな人間になりたいのか」を自分で考えさせることが大事だと思っています。(社会を見渡せば、犯罪者もいるし、そうでない真っ当な人も大勢いるわけですから。)
「まわりがどうだから、」ではない視点を得させること。まあ、人間は社会的な動物で、集団として「皆と同じにする」ことによって自己の生存を守る側面があります。しかし、それにしても、その集団そのものがどこに向かおうとしているかで、集団そのものの存続、および、所属する個人の生存に直に関わります。
で、人間の子どもは、大多数は、(何度か書いている気もするけど)下手なオトナより、かなり真っ当な判断をします。その力を信頼する教育を施すべきです。でも、今は、それが間違っている。(「個性を大切に」などもそうです。)「ボタンの掛け違い」が、まあ、どうしようもないんだよね。

もちろん、教師として余り節操のないことはしていけないでしょう。だから、賢い生徒は、決して「なんで先生がしてないことを俺たちがやんなくちゃなんないんだよ」と決して言いません。自分たちが教師以上に成るべき存在であることを知っているからです。

>具体的な話をすると,某高校で,「あの先生の教え方が悪い」との判断に大多数の生徒が同意した結果,生徒はその先生をやめさせるための署名運動を行ない一定の署名を得て学校に提出するに至り,裁判沙汰っぽくなっているという話を聞きました.ちなみにその高校は,「かなりの進学校」であることだけ申し上げておきます(苦笑).

前後して申し訳ありませんが、これ、あり得ると思いますよ
聞いた話ですが、昔々、公立のトップ校で、ある先生が教室に行くと、「今日は漱石の命日です。漱石について語ってください。」と教卓に紙が置いてあったそうです。で、その先生は漱石について、(もちろん、教科書や受験と関係のない一般教養的なこと)を語らなければならない。で、こういうコトがしょっちゅうある。毎日教室に行くのが恐ろしかった、という話です。で、生徒に鍛えられた、と。
ただ、「教え方が悪い」と言って首にしようとする学校は、教師が余程だったのか、それとも、公立校なら、教委が人選を誤ったか(それなりの先生を送るはずですから。)です。
で、「かなりの進学校」と言っても、どのていどなのかなとも思いますよ、正直言って。(イヤラシイかもしれないけれど。)なぜなら、この先生の授業はダメだと判断すると、ホントに賢い生徒は自分で勝手に勉強するらしいとも聞くので。(でもこれが今は昔?)で、生徒より先に先生が異動希望を出すでしょう。。で、ちょっと情けない生徒集団のようにも感じます。そんなことに労力を使うより、もっと勉強をしたら?と思っちゃう。それとも、どこか陰で糸を引く人がいるんじゃないかしら?この可能性も有りだなぁ。。。)

私の知っている人で、「?」と思われる人が公立の超トップ校に転勤しました。で、生徒の評判は、「真面目な人なんだけどねえ。」だそうです。趙進学校ですが気だての良い子が多い学校なので、「可哀想だから」と、たまに質問に行く生徒もいるそうです。先生思いの良い子たちです。

趙進学校の先生は、大変ですよ。専門知識がそれなりにないと、話にならないから。しかも、18歳の生徒の脳は伸び盛り。どんどん吸収する。
知っている人のご主人、「東大補習」をやれと言われて、1時間の補習に7,8時間の予習が必要になって、他の仕事も重なって、結局、身体が持たず、転勤希望を出したとか。
で、専門知識だけの人は、ヘンにエリート意識を持って、これもまたやっかいです。生徒に「言外に」悪影響を与える。
「困難校の先生は大変だ」の「大変さ」とトップ校の「大変さ」は全く質が異なるのです。

その点、2番手は気楽です、はい。認めます。

>それが不可能だとすると,学齢期のお子さんを持つ保護者が学校教師に対して投げつける不平不満とやらは,永遠に解消しないと思うんですね.で,その「永遠に解消しないのを分かっていてそれを放っておく学校側・教師側の態度」は,明らかに,対等な立場にある人間同士の態度ではないですよね.そこには問題はないのでしょうか?

これは、永遠に解消しないと思います。「集団と個」の対立問題を含むからです。また、保護者や子どもが持つ不平不満の「質」もあります。理不尽な要求も多いと聞きます。一般論として、その当たりをごっちゃに論じることは無理で危険す。
子どもなんて、何をしでかすか分からない存在なのだから、不平不満は生じて当たり前でしょう。あちら立てればこちらが立たず、ってかんじ。親の不満ばかり問題にされることが多いですが、教師の不満だってたくさんありますよ。こんなこと、家庭の躾の問題だろ、とか。(笑)
まあ、互いの「落ち度」が重なって子どもの問題が起こる、と見る方が良いかも。で、問題が起こったら、互いにできることから始めるしかないです。責任がどちらにあるかを問う前に。

で、また、教師と親は、決して対等になり得ない。なぜなら、教師は「権力者」だからです。

数十年前の話ですが、もうなくなった私の伯父がPTA会長(従兄弟の学校の)をしたとき、「会長さん何かありますか?」と先生に聞かれ、「子どもを人質に取られているのだから、何も言えない。」と答えたそうです。
うまくいくためのコツは、親はそう言う気持ちで子どもを学校に預けているということを教員が肝に銘じることです。それしかない。それで、誠意を持ってやるしかない。それが教員のつとめだと思うんです。

でも、最近は、親も子どもも「やって貰って当たり前」「先生は、親と子どもの下僕。だって、サービス業でしょ?」と思っている。対等、或いは、自分たち以下だと思っている。(ちなみに私なんて、校則違反のピアスを注意したら、生徒から「あんた、何様だと思ってるの」と言われたことがありますよ。苦笑)学歴だって、親の方が上だったりする時代ですから。親にしてみれば、自分以下の奴が「権力」をもつ理不尽さを感じているのかも。(笑)で、うまくいかない。

先生が権力者でなくなるのは、学校が「成績」を全く付けなったときです。子どもを評価することを一切しなくなったときです。
ところが、今は、逆。実は、子どもを評価する仕事はどんどん増えている。どれだけの労力を先生たちは「子どもの評価」に使っていることでしょう。「公正な評価」のために、「子どもの教育」「子どもの成長」そのものが脅かされているのが内実だと思いますよ。
子どもは学校に、「評価されに行っている」ようなものです。親がそれを要求するから。「ウチの子の良いところを認めろ」と。これも立派な「評価」です。
(大分端折るけど、)ボタンの掛け違えです。

(経済関連のものは、きちんと読めてないので、レス、ごめんなさい。)
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Unknown (heisan)
2007-06-17 08:51:25
「教育畑の話から出た経済っぽい話の続き」として,ここにさらに書くことはちょっとためらわれたので,自分のwebsiteに書きました.
関心のある方はご覧くださいませ.
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Unknown (heisan)
2007-06-17 07:01:00
> 内田先生も書いてましたが、経済優先の社会構造ですから、詩を吟じたり、数学を嗜むことを人生の喜びとする人間が増えては困るからです。
う~む… この辺は極めてsensitiveな問題ですよね.何がかというと,おそらく,内田先生やほり先生や,(恐縮ながら)わたくしも含めて,こういう事に関する議論に参加しているということ自体を以て,「詩歌を吟じたり学問を嗜むことを人生の喜びとする人間」のカテゴリーに分類されると思うんですよね(笑).
経済構造上の話でいけば,「そういうこと」を人生の喜びとする人間は,全く居ないと文化継承がなされなくて数百年後には,「極めて深刻な学力低下」をはじめとする色々とヤバい問題が浮上してくると思うんですよね.だから,「そういうこと」をおもしろがる人間も少しはいないといけない.ただ,「少しでいい」のか「少しじゃなきゃいけない」のかというのは,sensitiveな問題でして,「少しじゃなきゃいけない」とするとすると,私たちがこうやって議論して「考えることが好きな」ポテンシャルを持つ人間の芽を伸ばすことに一役買うこと自体,お役所から禁止令を受けても私たちは文句が言えないわけです.
ここで内田先生とかはどうやって自分の話に価値を担保しているのかというと,「おそらく,考えることが好きな人の人口に占める割合は,現在の行政が行う経済政策が実行されている以上,一定以上に上がることはないのではないか」という知見を持ってらっしゃるからだと思うんですね.
もちろん,そうでない可能性もあります.内田先生とかの本が売れに売れまくって「うんうんそうだよな,いやしかしこれは違うんじゃないか」とか考え出す人間の割合が(対人口レベルで)増えて,それらが政治施策以上にでかい効果をもたらすようになった暁には,日本では本当にいま以上にものが売れなくなって,「何が原因だ!」と国がよく調べてみたら,「ちゃんと考える人が増えたことが原因だ! そういうことをふれまくった人間(内田先生とか)をしめだせ!」となると思うんですよね.
話は逸れますが,内田先生は「周りが,自分と同じように考え/行動する人間ばかりでも世の中は安泰だ」と言えるかどうか,というようなことにしばしば言及されておりますが,私はここに引っかかるところがあって,それは何かというと,上記したように,「内田先生とか及びその仲間たち」的人間が増えまくると,本当に世の中はものが売れなくなって中進国に格下げを食らうことがあり得ると思うんですよね.だから,その意味では,「内田先生とか及びその仲間たち」的人間のカテゴリーに入るどの人間も,「自分と同じように考え/行動する人間ばかりだと世の中は困っちゃうよね」という人間であると言えることになります.私たちは,こういう議論に参加しているということそれ自体を以て,すでに或る種の「原罪」を持っているのです.この種の「原罪」をどのようにして償うかということの明確なビジョンなしに,あまり大きな事はいえないなというのが,私の(実は)思うところですが,いかがでありましょう.
# もちろん,「内田先生とか」は,そういう意味での「明確なビジョン」を"実は"もってらっしゃるに違いないということを,わたくしは一応 信じておりますが…
# 原罪っぽいものは内田先生も持ってらっしゃると思います(例:「とほほ」).ただ,私は,それに対する償いがどのような形でご行動のなかに現れているのかが分からないわけでして….私はついこの間まで,その償いとやらは,web上での発言や書籍を執筆なさることを以てなされていると考えていたのですが,上記したようなことを踏まえると,そういう行動自体がすでに原罪であるということになるので,罪は償えていないわけですね.これをどう償われるのかが私には(少なくとも今のところは)分かっていないわけです(お恥ずかしながら).


> 新規営業を「他で」開拓して頂ければよいだけの話で、教師がその会社の面倒を見る必要はさらさらないと思います。一般の会社に売り込めばいい。
これは「新規開拓場所として子どもの居るところを選んではならない」という考えのもとに成立するご意見ですね.でも,私の意見としては,仮に,そういうことが法律化されたとしても,結局ターゲットとなるのは(ターゲットとなりターゲットの大部分を占めるのは),「法的・生物学的には大人になってけれど,まだ子どもな人たち」(形式的には大人だが,取る行動は子どもな人たち)だと思うんですよね.これって何かオカシくないすか?! というのが私の意見です(原罪を自覚の上ですので,それでも喋りたいのはその先に未知かつ有用な知見が待っていると信じているからで,なんとかこういう「はしたない」発言をお許しください).


> とにかく子どもを食い物にして貰いたくないです。子どもを食い物にすると言うことは、結局は、自分で自分の首をじわじわ絞め続けることになるわけですから。

確かにその通りなのですが,「そのことがどの人間にも自覚されていない」っぽいから,今の世の中みたくなっちゃうわけですよね(例:自分の子どもにTVゲームをさせない社長).どの親も「うちの子は例外」「うちの子は俺が守り通す」と思っている.けれども,どの親も「あらゆる分野に通じたスペシャリスト」ではあり得ないわけで,そのことからして,その論法はすでに破綻している.すなわち,守り通せない分野がどうしてもできてしまう.そういう分野についても守り通すためには,自分一人の力だけで守ることを考えるのではなく,「社会に守ってもらう」という発想が必要です.
この辺がトレードオフなのですよね,きっと.「社会に守ってもらう」を前面に押し出すと,資本主義じゃなくなっちゃって,日本経済はみるみるうちに衰退してしまう.「中間的なセーフティネット」(@内田先生)を破壊する方向へ進むことと,日本経済を発展させることは同時的に起こることのような気がしません?(私はします)

「カネのためなら子どもをターゲットにしてもいい」という政治的判断がなされるための条件は,「マトモに食えるのは俺たちの世代までで,次の世代(の全体)のことなんてどうだっていいや」と考えていることである.「次の世代(の全体)の人たちが食っていくための能力」それ自体をむさぼることによって,私たちは日々の糧を得るという仕方でしか,食えないほどに,俺たちの生活はせっぱ詰まっているんだ,と,自信を持って言える人間にしか,そのような政治的判断は許されないであろう.私たちは果たして「それほどに」せっぱ詰まっているのだろうか.
「次世代を食い物にする」という仕方で,糧を得ることを許さない,としたのが近代以降の社会で,それゆえに私たちはここまで(経済的に)発展することができたと.
しかしここへきて私たちの一部の人たちは,「やはり次世代を食い物にしたほうが圧倒的においしい」ということに感づきだした.いや,正確に言えば,「次世代を食い物にすることのコスト」をいやというほど体感的に自覚していた人間の割合が激減することによって,次世代を食うことが相対的に「とてもおいしく」感じられるようになったということである.

「次世代を食い物にしたほうが圧倒的においしい」
それは事実である.しかし,
「次世代を食い物にすると,あとあと(経済発展が阻害されるなど)ヤバいことになる」
こともまた事実である.
そこで私たちの大多数は次のような選択をした:
自分たちの子は食い物にされないように俺(及び自分のプライベートな人間関係が幅をきかせている人脈)が守る.そしてその人脈外に居る子どもを食い物にする.
勝つ人間は勝ち続け負ける人間は負け続けるなどという格差構造が創出される原因は,「私たちの大多数が上のような選択をした」ことにあるのでしょうね,きっと.
う~む…
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Unknown (heisan)
2007-06-17 07:00:10
> 生徒は、「永遠に識別する能力を伸ばし続けなければならない存在である」からです。能力の伸長に終わりはないんです。
おお,なんと! そうきますか(笑)
確かにそういう見方もできる気がしてきた(笑)
しかしですね,なんというか,それはあまりに杓子定規というか,それは「形式的真実」なのですが,合理的なのは合理的なのですが….
じゃあ,卒業すると同時に,先生と生徒は対等になるという事実をどう解釈すればよいのでしょうか.そりゃ確かに,形式上は,卒業式の日までは「君たちには,かかる識別能力はない」とされ,卒業式の日以降は「君たちにはその識別能力がある」とされるのは分かります.
しかし,その形式的事実をそのまま現実的事実として受け入れる態度のうちに,私は教師の怠慢(グータラさ)をみます(失礼!).
識別する能力がある者の扱いは簡単です.対等に扱えばよいのです.
識別する能力が無い者の扱いもまた簡単です.非対等に扱えばよいのです.
しかし,「現実的事実」として存在する子どもたちは,このどちらの存在でもありません.
「識別する能力が,今のところは乏しいが,ゆくゆくは識別する能力が身に付くことを期待されている存在」だと思うのですね.こういう特殊な存在が子ども(生徒)なのです.
こういう特殊な存在をどのように扱えばよいのか,という問いに,私は対しているわけですが,いまだかつて誰も,この私の問いに「うんうんそうだよね,それは大事な問いだよね」と共感・同意してくださった方が居ないのですね(笑).
ほり先生はいかがですか? 「この問いはやはり重要な問いではない」とお考えになりますか?


> 個人的な経験ですが、「権利」を主張する生徒に向上心を持つ生徒はまずいません。
これは,なんとなく分かりますね.
お,ということは,「君の主張(の根底)には向上心が感じられない」という仕方で退けることができるわけですね,教師的立場にある人間は.学校における生徒の発言はすべからく向上心がその根底にみられるものでなければならない.そうでないものはことごとく却下!(笑)

まあ,これも理屈っぽく説明すると,「相手が,根底に向上心を持つという形で発言しているかどうか」を見破る能力において,教師は完全であるという前提がある話ですね.で,「俺は向上心に基づいて発言している」と言って憚らない生徒と,「君の発言の根底には向上心が感じられない」と裁定する教師との対立で,どちらに分があるかという判断において,「常に教師の側に分があるとは限らない」というのが,私のうちなる意見なのです.
具体的な話をすると,某高校で,「あの先生の教え方が悪い」との判断に大多数の生徒が同意した結果,生徒はその先生をやめさせるための署名運動を行ない一定の署名を得て学校に提出するに至り,裁判沙汰っぽくなっているという話を聞きました.ちなみにその高校は,「かなりの進学校」であることだけ申し上げておきます(苦笑).
もし,上の話で「常に教師の側に分がある」とするならば,このような具体的な話において,教師はそもそも「生徒の提出を受け付けてはならない」ということになりますが,ほり先生的解釈では,それでOKでしょうか?


> ある生徒にとっては「ためにならない理不尽」が、別の生徒には「ためになる理不尽」になることはしょっちゅうです。逆もしかり。
う~む.
これは「教師がどれほどグータラであっても,どれほど怠慢であっても,教育上はまったく問題がない」という主張を正当化してしまいそうで,あれですが,それでもいいんでしょうか.
生徒は,「アンタがしてないことをわたしはしたくない」(アンタがグータラなのになんで私たちはグータラであってはいけないんだ?)という論法を用いることが禁止されている存在なのでしょうか?「なんで先生がしてないことを俺たちがやんなくちゃなんないんだよ」
「勉強という苦しみ(?)をともに分かち合う」ということを,教師と生徒の間で共有するんだという態度というか価値観を,生徒が教師のなかに感じることができなければ,生徒はなかなか教師の言うことをきかないんじゃないでしょうか.


> で、heisanさんの「法的に盛込めないか」というのは私は不可能だと思います。
それが不可能だとすると,学齢期のお子さんを持つ保護者が学校教師に対して投げつける不平不満とやらは,永遠に解消しないと思うんですね.で,その「永遠に解消しないのを分かっていてそれを放っておく学校側・教師側の態度」は,明らかに,対等な立場にある人間同士の態度ではないですよね.そこには問題はないのでしょうか? 「学校のことは学校の先生にまかせんしゃい.あんた(保護者)らが学校に文句をぶつけてくること自体,間違っているのだよ.」(教師談)と言っているにほかならないわけですが.「それがまかせられないからこうやって言ってきてるんじゃんか!」(保護者談)という例は枚挙に暇がないと思いますが.
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要は、教員の質の倫理観かな (ほり(管理人))
2007-06-17 00:36:41
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>しかし,「その論法が完全に正しい」ためには,「生徒は永遠に識別する能力がない存在である」という事実が予定されていなければなりません.しかし学校の目的は,そういう事実を予定していないでしょうから,「その論法は完全には正しくない」と思います.

そうです。って、何が「そう」かというと、「「生徒は永遠に識別する能力がない存在である」という事実が予定されていなければなりません.」ということが、じつは、「そう」なんです。(反感買いそうだけですが。)
ですから、私は学校の目的はheisanさんと異なり、「そういう事実を予定しているところである」と私は考えます。その方が、良い。
なぜなら、正確に言えば、生徒は、「永遠に識別する能力を伸ばし続けなければならない存在である」からです。能力の伸長に終わりはないんです。そのために、彼らは学校で「学ぶ」のです。学び続けるのです。どこまで行くかはわからないまま、おわりないまま彼らは学び続けるのです。

>「義務はあっても権利はない」などという世界は,わたくしにはなかなか想像しづらいのですが(ごめんなさい)(日本は,子どもの権利条約の締約国であったと思いますが… ピントが違うのかしら?),

学校は、子供は、ふつーの大人の異なる存在です。で、義務はあっても権利はない、とした方が、子供の成長にとっては有用であると考えます。彼らがして良い「権利」があるとしたら、「成長する権利」です。(でも、今は、これこそが踏みにじられている。)

「子どもの権利条約」に関しては、もう、何年も前になるでしょうが、「制服は子どもの権利を阻害する」などとか言う主張を持って、日本の高校生がどこか外国に行って権利を主張しようとしたら、「ここは、わざわざ飛行機に乗ってここまで来ることができる君たちの来るべきところではない」とか言われたそうです。
個人的な経験ですが、「権利」を主張する生徒に向上心を持つ生徒はまずいません。
「先生、もう、そんなことは分かっています。もう少し、高度な内容で授業をしてください。」と言う生徒は学習を「自分が成長する権利」として、「主張」をして良いと思います。(で、現実問題として、私は「小テストなんて、なぜ授業中にするんですか?止めてください。そんなの家庭学習で、自分でできますから。」と言ってくるのを待ってるのですけど。。。生徒にもそう言っているのですが、誰も同意しません。)

>「生徒のためになる理不尽さ」と「生徒のためにならない理不尽さ」があり,「この後者の理不尽さが行使されないようなシステム」がととのっていないことそれ自体なのです.

しかし、残念ながら、この両者を区別する手だてはまずありません。一見、ありそうですが、その生徒が何をどこまで目標とするかによって異なるからです。ですから、これを「システム」として構築することは不可能です。ある生徒にとっては「ためにならない理不尽」が、別の生徒には「ためになる理不尽」になることはしょっちゅうです。逆もしかり。
まあ、生徒が、自分が何を学ぼうとしているのかという自覚に依るとしか言いようがないし、「ためになる」のが、いつの話が、今すぐなのか、10年後か、30年後かにもよると思います。(「ため」ってなんですか?ということなんです。)

それで、真に賢い生徒は(アタマが良いという意味ではありません)、教師を乗り越えていくものです。私はそれを望んでいます。そういう生徒を育てていきたいものだと思います。

で、heisanさんの「法的に盛り込めないか」というのは私は不可能だと思います。
ひたすら、地道に文科省がマトモな教育観を持って教育目標を立てて教員を指導していくしかないですよ。でも、今は、これができていない。文科省が間違った教育観、人間観を持っている。で、これ、無理だと思います。
内田先生も書いてましたが、経済優先の社会構造ですから、詩を吟じたり、数学を嗜むことを人生の喜びとする人間が増えては困るからです。

>特に新規の営業開拓努力をせずに,今まで通りの制服を売り続けた結果,我が社が倒産した場合,面倒をみてくれるか?」と問われて,Yesと答えられる教師は居ないでしょう.

新規営業を「他で」開拓して頂ければよいだけの話で、教師がその会社の面倒を見る必要はさらさらないと思います。一般の会社に売り込めばいい。(でも、これが冷え込んでいるんですよね。制服の生地はとても丈夫だから、何かいい手がないのかしらね?)
「制服」が学校で果たす役割を考えれば、ある意味でその会社は「社会貢献」をしているわけです。これを認識していないから、その会社は、そんな阿呆な経営戦略を持つわけです。とにかく子どもを食い物にして貰いたくないです。子どもを食い物にすると言うことは、結局は、自分で自分の首をじわじわ絞め続けることになるわけですから。
今の日本の経済社会は、この論理がわかってないのでしょうね。
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Unknown (heisan)
2007-06-16 19:52:08
> う~ん。。。ちょっと違和感を感じました。
> そもそも「権利」というコトバ、或いは概念が学校で用いられるべきものであるのかどうか。
「権利」という言葉が不適切なのでしたら,「識別する権利があるのかどうか」を「識別することが道義的/道徳的/倫理的に許されるのかどうか」と言い換えて頂いてOKです.

> 「識別する権利」を有する前提には、「識別する能力」があるかどうかを問わなければならないでしょう。
その通りです.だから言ってることは同じなのですね,権利でも能力でも.

> なぜなら、生徒が学校に来るのは、「識別する能力がないから」です。
なるほど.
しかし,「その論法が完全に正しい」ためには,「生徒は永遠に識別する能力がない存在である」という事実が予定されていなければなりません.しかし学校の目的は,そういう事実を予定していないでしょうから,「その論法は完全には正しくない」と思います.

> 生徒に「義務」はあっても、社会通念上用いられる「権利」とは、ちょっと、何というか、「別の世界」でないかしら。
「義務はあっても権利はない」などという世界は,わたくしにはなかなか想像しづらいのですが(ごめんなさい)(日本は,子どもの権利条約の締約国であったと思いますが… ピントが違うのかしら?),仮にそういう世界(学校?)があったとすれば,その世界においては,権利に代わる用語で代替しておくのが妥当であるという意見には,なんとなーく賛成できます.

> しかし、「横暴」は現実的には「理不尽さ」と不可分であることも多いのです。
私が問題視しているのは,教師が生徒に対して行使することのできる理不尽さには,「生徒のためになる理不尽さ」と「生徒のためにならない理不尽さ」があり,「この後者の理不尽さが行使されないようなシステム」がととのっていないことそれ自体なのです.
そのようなシステムをととのえるための一手段として,「生徒による教師の監視」が挙げられるわけですが(例:生徒による授業評価),それはいかんというわけですよね.じゃあだれに委ねればいいのでしょう? そんな「監視」は教師には必要ないというのでしょうか? 教委が監視している? いや,でも,教委が現場にいないじゃない.現場にいて,かつ,教師のことをもっとも体感的に熟知しているのは,ほかならぬ生徒なのです.その生徒の意見を度外視して,なんにもしらない教委の方々が横槍的に裁量権を発揮する.ここに,現場が混乱する一要因を見出すことはできないでしょうか.
そして,もしできるとして,その混乱を終止する有効な打開策として,私は「なんとかして生徒の意見を度外視せずに済む方法を,法的に盛り込めないものか」というところに着眼しているのであります.いかがでありましょう.


> 以前、あくどいなと思ったのは、学校の制服を作っている会社が、制服用に色とりどりの替えリボン(ネクタイ)を作ってそれも売っていることでした。
まあ,制服屋さんも商売ですからね.「うちは地味にやらせてもらいますさかい」では競合他社に打ちのめされてしまう.それを避けるためには,上のような「あくどい」こともやらなきゃいけない.好きでやっているわけではないでしょう.「お前(教師)は,もし俺(制服屋さん)が,特に新規の営業開拓努力をせずに,今まで通りの制服を売り続けた結果,我が社が倒産した場合,面倒をみてくれるか?」と問われて,Yesと答えられる教師は居ないでしょう.


> 社長が、自分の子供にはテレビゲームをさせない、テレビゲームはビジネスと考えている(つまり、他人の子供には売りつける)、という話が成功談として新聞の「人物紹介」のようなコラム欄に出てました。(テレビゲームの是非はともかく、)自分の子供と他人の子供を区別する扱い方に、ばかやろー、と思いました。
リスク社会(@内田先生,2005年3月21日blog「希望格差社会」)の一例ですね.
この社会が創出する問題点に対して,山田昌弘氏は制度的解消法を,内田先生は人間一人一人がもっと賢くなることで対処する方法(=重要なのは哲学)を提案されていますが,私もここにちょっと味付けをしたいと思います.

「『喜び』は分かち合うことによって倍加し、『痛み』は分かち合うことによって癒される。」(=かつての常識)のは,或る意味常識であるが,その常識がいつしかなくなってきたということなのですが,これはなぜなんでしょうか.
私はこれは(恐らくこんなことは,すでにどこかでは共有されたためしのある知見だとは思いますが),複数の共同社会が散在するという形で実現されていた世の中が,これらの共同社会(※)を統合的に動かす仕組みとして利益社会(※)を考案し実用化しだしたことに始まるのではないかと思います.
共同社会は,「互いの顔が見えること」を前提とする社会である.一方,利益社会は,「互いの顔が見えなくても成立することができる」社会である.
そして,「喜びが分かち合うことによって倍加し,痛みが分かち合うことによって癒される」という人間集団の性質が発露されるためには,「互いの顔がみえること」がどうしても必要である.

内田氏が唱えるような理想郷,すなわち,「かかる常識の再登録」がなされるためには,日本社会全体が共同社会的なメカニズムで動いていなければならない(そうでなければ,我々は相手の喜びを自分の喜びとして受け入れることができない.).しかし,現実的にこれを実現することは極めて難しい.私たちが日常的に把握している人間の数というのは,数十から数百というのが平均的なところだろう.「日本社会全体が共同社会的なメカニズムで動く」とは,私たちが日常的に把握している人間の数が,数千万単位/億単位になることを要求するものであるから,これはちょっと実現の予想がつかない.

利益社会は,人工的に創始された社会である.よって,これを人工的に改変することもまた可能である(少なくとも理論上は).私は,現行の利益社会に適用されているルールを,「より共同社会っぽいもの」(互いに相手の顔が見えたっぽくなるもの)に改変することによって,かかる常識を我々の手の中に呼び戻すことができるのではないかと考えている.それ以外に有効な打開策を思いつかない(思いつく人がいらっしゃったら是非ご教示願いたい).

※ ここで言う利益社会は,「成員が共通の目的意識を持って結合した社会」という意味(従来的意味)ではなく,「相手の顔が見えなくても成立することのできる社会」という意味で用いている.家族でない数人で運営している会社は,従来的意味における利益社会であるが,ここでいう意味におけう利益社会でない.
(本当は,共同社会・利益社会という言葉を用いることはあまりよろしくないのでしょうが,他にいい言葉が思いつかなかったので流用させて頂きました)(顔みえ社会・顔みえない社会ではあまりにしまりがなさすぎるしw)
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権利という語 (ほり(管理人))
2007-06-13 21:18:28
>ここで私が興味があるのは,生徒は,とある横暴が「法に基づく横暴」なのか「教師のサボりたいという気持ちから湧き出た横暴」なのかを識別する権利があるのかどうかです.

う~ん。。。ちょっと違和感を感じました。
そもそも「権利」というコトバ、或いは概念が学校で用いられるべきものであるのかどうか。

「識別する権利」を有する前提には、「識別する能力」があるかどうかを問わなければならないでしょう。
となると、私は基本的に、あくまでも、基本的にということですが、彼らにその能力があると考えません。なぜなら、生徒が学校に来るのは、「識別する能力がないから」です。つまりは、未熟だから学校に来ているのです。未熟な者に権利というコトバそのものは不要でしょう。

ですから、heisanさんは、私の授業放棄の行為を「横暴」と考えなくても、生徒の中には、その未熟さ故に「横暴」と取る生徒が出てくるわけです。

学校と言うところは、いわゆるというか何というか、「法」と別の視点で眺めなければならない場所であると考えます。生徒に「義務」はあっても、社会通念上用いられる「権利」とは、ちょっと、何というか、「別の世界」でないかしら。

だから、教師のホンモノの(?)「横暴」は、教師の側で阻止しなければならないのですよ。(阻止というコトバが良いかどうかは別として。)

しかし、「横暴」は現実的には「理不尽さ」と不可分であることも多いのです。
「理不尽」とは何かを問えば、「自分の理解の範囲を超えている」ということです。となると、そもそも生徒が学校に来る目的の多くは、「それまで自分が理解していたことを越える」、換言すれば、「それまで自分にとって理不尽だと思っていたことに何らかの意味を見いだせる」「自分の世界観が広がる」ということになるでしょう。
ですから、そもそもの次元が異なるので、heisanさんの問いに私は答えることができません。

内田先生が先日のブログで、武道の話で、「フレイムワーク」について述べていましたが、この語を用いると、「子供の仕事はフレイムワークを広げること」、私のコトバで言えば、「ベクトルの軸、次元を増やすこと」になります。
だから、学校は、基本的に子供にとっては、「横暴」で「理不尽」な場所なのです。でないと、彼らのフレイムワークは広がらないし、ベクトルの次元も増えません。
ただ、この考え方は、今の時流に反しているので、---「納得させた上でやらせることが大事だ」「子供にも理解力がある」のごくごく表面的な側面、つまり、今の「納得させる」とは、「子供の理解できるフレイムワークに落として理解させて納得させろ」という考え方で、「今の君には理解できない世界があるのだから、大変だけど、君もそこに向かっていかなければならない」という納得のさせ方ではないことに問題を感じるのです。

>ここに,親の「自分の子どもが,他の大人の生存欲求の食い物にされないよう,守り抜く力」と,商売人の「必死の事情に基づいて,なにがなんでも売りつけてやると頑張る大人」の間の,利益の対立が生ずる.

要は、「拝金主義」です。で、良い親は子供を守ろうとしますが、そうでない親が昔も今もいるのでしょう。内田先生だっけ? 「学校は、本来は親から子供を守るためにできた」と書いていました。だって、子供に稼がした方が、親はラクが出来るもの。で、こういうのは貧しい外国の話だけでなく、親の快楽、遊びの対象に子供がなっていることがあるのが日本の問題でしょう。(子供を無理矢理でも芸能界に売りつけようとするなどもその類に見えます。)まあ、程度の差はあれ、食い物にしているのと同じでしょう。親が親として、子供を大人に育て上げるというコトを目標にしていない、子供の私物化しているわけです。「親としての権利」を主張して、そうしてるから尚更タチが悪い。

以前、あくどいなと思ったのは、学校の制服を作っている会社が、制服用に色とりどりの替えリボン(ネクタイ)を作ってそれも売っていることでした。で、おバカな女子高生は、「おしゃれ」のつもりで、制服のリボン、ネクタイを取り替える。会社はそれでも儲けている。
なんということでしょう、迷惑な話ですよ。

女子高生を安いお金で釣って、「モニター」として、何が欲しいか消費動向を探るとか、枚挙にいとまがない。で、ひたすら、彼女たちの要望に合わせる。(これは、彼女たちのフレイムワーク、価値観をそのまま認めるということです。子供が大人になれない理由です。)

数年前ですが、(これ、書いたっけ?)どこかのゲーム会社の社長が、自分の子供にはテレビゲームをさせない、テレビゲームはビジネスと考えている(つまり、他人の子供には売りつける)、という話が成功談として新聞の「人物紹介」のようなコラム欄に出てました。(テレビゲームの是非はともかく、)自分の子供と他人の子供を区別する扱い方に、ばかやろー、と思いました。
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Unknown (heisan)
2007-06-09 19:23:31
> 私の授業をしないという行為は、生徒の一部には「教師の横暴」と映ったことでしょうね。
いえ,私の言う「横暴」はそれとはまだちょっと違います.

「授業をしないことの正当化」と言ったのは,以前に(これは高校ではないですが),授業は専らプリントを配って自習とし,実質的に授業をしない先生というのがおられました.結局その先生は半年で移転(首?)になったのですが,これは教師の横暴ですよね(教師の「サボりたい」という気持ちから湧き出た横暴).

一方,ほりさんがおっしゃっているのは,「法に基づく横暴」です.
ここで私が興味があるのは,生徒は,とある横暴が「法に基づく横暴」なのか「教師のサボりたいという気持ちから湧き出た横暴」なのかを識別する権利があるのかどうかです.もし,そういう権利があるとすれば,教師は「携帯が鳴った如きで授業を中断するなんて横暴だ,理不尽だ」という声にいちいち耳を傾けなければなりません.また,そういう権利がないとすれば,生徒は「いかに教師が自分のサボりたいという気持ちから湧き出た横暴」をふるっていたとしても,それに疑問を持ったり,口出ししたりすることは許されないということになります.
どう思われますでしょう?


> heisanさんがおっしゃるような「"取り敢えず正論を言う"人間が大嫌いなタイプの子」は、子供一般の中では少数派に属することが多く
確かにそうですね(少なくとも私が見てきた範囲では).
「正論反対派」な人間が大多数を占めるような集団というのは,フィクションのなかにしか存在しないのかもしれません.
そういうフィクションが作られる理由は「それがおもしろいから」以外にはないと思うのですが,同時に,これがもたらす弊害についても私たちは目を背けるべきではありません--と思う.
フィクションというのは,多かれ少なかれ,それを作る制作者側の「願望」が露見するものです.そして,そういう願望をいまの大人たちは実は持っているんだ,ということを,生徒らが悟るに至ったならばどうでしょうか.私は,こういう点での生徒らの潜在能力を決してあなどってはならないと思っています(=生徒は案外,大人たちのことをよく見ているものです).

これに対する「もっともな反論」としてすぐさま予想されるのは,「暴力シーンを見せるのは子どもによくない」「刃物を子どもに持たせるのはよくない」というような一連の主張であり,それらの主張との「よくある妥当な和解点」は,「刃物を使わせるときは監視者である大人の責任において使わせる」「諸刃の剣であることを併せて伝える」などでしょう.でも,そういった「妥当な和解点」が仮に,NHK的主張においてOKであっても,社会全体はその和解法には反対するでしょうね.だって,そういう「問題のあるフィクション」をつくることは,もうかるから.なぜもうかることが大事なのか? それは,必死だから.「俺たちも食うために必死なんだ」と言われてその事情を酌めぬ大人はいない.しかしこれは同時に,「そういう必死の事情があるならば,次代の社会の担い手である子どもたちを食い物にしてもよい」ということを認めるということでもある.こういう主張を,社会の大多数の方々はすでにお認めになっている.でも一方で「自分の子だけは食い物にされないようにする」とどの親も考えている.ここに,親の「自分の子どもが,他の大人の生存欲求の食い物にされないよう,守り抜く力」と,商売人の「必死の事情に基づいて,なにがなんでも売りつけてやると頑張る大人」の間の,利益の対立が生ずる.
私たちは,この種の利益の対立をどう見るのか(どう裁定するのか).それこそが私たちの課題ではないか.
(なんか後半は作文になっちゃいました.(今日は時間がないので)かなりはしょって書いてますが,半分くらい(?)は内田先生も言ってることなので分かってもらえるかなと思って書いています)
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付け加えです (ほり(管理人))
2007-06-08 21:41:08
書き忘れてました。

>> 「集団と個の対立」
>これは「集団=正論,理科的,絶対,…」(理想)と「個=人間関係,出世,喉が渇いた,…」(現実)の対立,ということでOKでしょうか.

いえ、そこまでは言いきらないもっといい加減なものです。(笑)

「個」とは、常に例外的な存在たり得ることが多いので、「標準」的、或いは、「平均」的な何かがあるとすると、「均質」と言える「集団」と対立することがある、ということです。「個の利益」と「集団の利益」が一致するとは限らないということです。

例えば、heisanさんがおっしゃるような「"取り敢えず正論を言う"人間が大嫌いなタイプの子」は、子供一般の中では少数派に属することが多く、「個」として存在します。となると、先生の言うことを素直に聞くのがふつーの「集団」においては例外的な存在になります。となると、彼らにとっては面白くないことが増える。

何か集団生活をする小動物で、普段は何匹かが見張りに立って他のメンバーが草を食んでいる。そこに、彼らを襲う「敵」が来る。そうすると、見張りは敵の存在を知らせ、仲間を巣に戻すなど、逃がす役割を果たす。それでうまくいくときは、良いのですが、それが効をなさないときがあるようで、そんなときは、何匹かいる見張り役の「誰か」が自ら「囮」となって、敵の餌食となる。自らを犠牲にすることで敵の目が自分の方に向き、仲間は救われる。そのような生き方で長い時を生き抜いてきた動物があるようです。(何だったかは忘れた。)
これこそ、全くの良い例でしょう。敵に向かっていった「個」は命を落とすという不利益を被る一方、仲間の「集団」は、命が助かるという利益を得る。もしも、このとき、敵の前に躍り出る「個」がいなかったら、集団全体の属するそれぞれの「個」は、自分の命が失われるわけではない。その意味では利である。しかし、逆に、長時間にわたって敵に怯えなければならない、それによって集団全体に何らかの「大きな不利益」が生じる可能性がある。(外にエサを取りに行けなくなって、皆が飢え死にしなければならなくなるとか、子供がうまく育たなくなるとか。←でもこれは単なる私の想像。)この場合は、それそれの「個」の利益を優先すること(それそれが自分の命を守る)で、集団全体が不利益を被る、ということになるわけです。

上記は極端な例ですが、授業では、常にこうした個と集団の間での「利・不利」の対立が生じます。それで出てきたのが、「個別指導」「小人数指導」などでしょう。
しかし、私の結論を言うと、まずは「集団」を基盤とした指導があった上での「個別指導」でしょうね。でも、これだって、子供のことだから、下手すると、「一斉授業でわかんなかったら、後で先生の個別指導を受ければいいや」という安易さを生まないとは限らない。そうしないための何らかの予備的な教育あるいは雰囲気作りなどの方策が必要でしょう。

じゃあ、と、最初から個別指導をすると、これはもの凄い、能力差が生じてきてしまいますよ、はっきり言って。(で、自分勝手になるような気もする。)子どもたちは、「他の子が何をどんな風にやっているのかわからない」ので、自分の相対的な能力が分からないし、大勢の子がいるからこそ生まれる「新しい刺激的な発想」を生む余裕がなくなる。
今は、教育が「先生が主役」の時代のようで、「生徒が互いに刺激し合う関係」が少なくなっているように思います。常に「先生が何を教えるか、どう教えるか」が問題視されます。教室内の「相互作用」について言うと、「先生と生徒」がそれぞれ別々に1対1の関係で結びついているような感じです。生徒同士がダイナミックに相互に関係し合うという要素が減ってきているように思います。何となくですが。(言葉で説明できるような理由はないけど。)誰かが何か発言しても、それと異なる視点の発言控える、とか。だから、一人二人続けて「わかりません」というと、「付き合い」ででもあるように「わかりません」と次の生徒も言う。(内心「先生、当てないでよぉ」って気分かな。)
教室にいながら「ビデオ授業」を受けている感じなのかな?(もちろん、私は、かなりの数の生徒を指名して答えさせて授業を進めますが。教師の言うことだけ聞いて、他の生徒の発言に関心を持たないという感じかなぁ。。なるべくそんなのを避ける発問をしてるつもりだけど。)
別に、生徒同士が討論形式で話し合えば良い授業かというと、そういうことでは全くないです。他の生徒の授業の受け方や学んだことも自分の学習の刺激とするというか。私は集団で行う授業が持つ大きな力はそう言うところにあると思います。
だから、何でもかんでも少人数ってのは、目先の理解は進んでも、大きな理解や成長には到達できないんじゃないのかななど思いますよ。(私自身が集団で受けた授業の経験しかないからかもしれないけれど。もちろん、その際には、もっと効率よく学習したいという願望はあったのですが、今思い返すと、あれはあれで良かったのではないかなと。)

集団と個の対立は、「予防接種」にも当てはまります。「ウチの子にはうけさせたくない。痛い思いが可哀想。」「万が一でも何かがあると大変だから」とか。しかし、それこそ、はしかの流行に見られるように、それが集団にとっては不利益になることがあるということです。(大学が休校になったりとか。)

こんな風に、「個」と「集団」は必ずしも利害が一致するわけではない、という、ただそれだけの話ですが、あまりにも至るところで見られるように思うのです。
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横暴 (ほり(管理人))
2007-06-08 01:40:25
heisanさん、コメントをありがとうございます。

そうですね、「卑怯」というコトバはともかく、私が言いたかったのは、「われ勝ちに」とか「自分さえよければいい」ということでない、ということです。
その点で言うと、ラットレースは、「われ勝ち」の考え方ですから、まあ、品がよいとは言えないでしょう。そうだな、「品格」ってことかもしれません。
そうなると、「テストで点を取ることばかり考えて生きる」ことは品が良いとは言えないでしょう。

で、こういうのが、「教養が邪魔をする」と言うことに繋がると思います。(内田先生がいつだったか書いていたけど。で、私も何か記事に書いた気がする。。。)その点で言うと、今は、まあ、「教養が邪魔をする」言い換えると、「教育を受けた成果で品のない行動をしなくなる」ことが意外に減っているのかな。私はそれが気になるのかもしれません。

>教師が「自分勝手な正論」(例:セクハラの正当化,授業をしないことの正当化,サボっても言い訳が通用する,など)を振り回し,生徒が文句を言ってきたときには「君たちに文句を言う"資格"はない」と言ってこれを退けることを言っています.

授業中に携帯が鳴って、授業を中断したとき、名乗り出る者がなく、生徒の中には、「携帯が鳴ったからと言って授業を止めるなんて大人げない」と反応した生徒がいたようです。彼らの考える「大人」は「人の失敗に目を瞑る」、「自分の思い通りにしようとしない」「誰にでも失敗はあるのだから許すべきだろう。」ということなのかなと思いました。(しかし、その割には、授業中によく携帯が鳴った。昼食時、昼休み時間に教室等に行くと、しばしば携帯を使っている情景があったりする。もちろん、私は取り上げる。)
でもなぁ。。教師と生徒は対等じゃないんだからねぇ。勉強さえすればいいってものではないのになぁ。。私の授業をしないという行為は、生徒の一部には「教師の横暴」と映ったことでしょうね。「真面目な生徒に迷惑だ」とか。「学校では電源を切って所定の場所で管理する」というルール違反が行われた、という意識は彼らはどこかにやってしまいます。自分に不都合なことは追いやるのです。「クラスで携帯を使うことが一般化していないか、互いにそれ、まずいよ、と言い合わなかったんじゃないのか」などと言いましたが。「朝、教室で、「おはよう、携帯切った?」を挨拶コトバにしたらどうだ?」とか。

教室の朝の連絡会に先生はちょっと遅れて行くときがあるのに(職員間の連絡が多くてなど)、「生徒の遅刻だけうるさく言うのはおかしい」とか。これも、「教師の横暴」と彼らは取っていました。小学生や中学生ならともかく、私に言わせれば、これらは「君たちに文句を言う"資格"はない」です。「遅刻をする方がトクだ、早く来るのはソンだ」と言う考え方が根底にあるわけだから。

イマドキの生徒は、「教師と生徒は対等な人間同士」と思っていることが多いので、それにまた、これに迎合する大人も多いので、彼らの内において自分にとって不都合な教師の行為は「横暴」として分類される割合は多くなっていると思います。

セクハラはともかく、昔の先生の方が余程「横暴」で「理不尽」だったことでしょう。生徒は、教師とはそんなものだと思っていた節もあったように思います。
そう言う意味では、今は、「先生」にあまりにも多くのことが求められすぎてるのかなぁ。。。

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Unknown (heisan)
2007-06-07 12:47:00
> それはやはり、藤原正彦氏の言う「卑怯」という概念を子供の頃に植え付けることでしょう
「ラットレースに勝つことだけを考えて生きる=卑怯」である,と言うのは少し言い過ぎな気がします.僕の認識では「卑怯=ずるい=同じ土俵に立って勝負しない」なので.例えば,「テストでカンニングをする」ことは「卑怯」ですが,「テストで点を取ることばかり考えて生きる」ことは「卑怯」とはちょっと違う気がします.

> 「集団と個の対立」
これは「集団=正論,理科的,絶対,…」(理想)と「個=人間関係,出世,喉が渇いた,…」(現実)の対立,ということでOKでしょうか.

> 私は「横暴教師」の一人なので、
いえ,私がいう「横暴」はそれとは違います.
そうではなくて,生徒は,教師の言う「これが世の正論なのだよ.君たち従いなさい.」というお命じに対して「お前(教師)の言うことは本当に正しいなのかよ,証明してみろよ,ああ?」と疑問を持つことが許されていないわけですが,これをいいことに,教師が「自分勝手な正論」(例:セクハラの正当化,授業をしないことの正当化,サボっても言い訳が通用する,など)を振り回し,生徒が文句を言ってきたときには「君たちに文句を言う"資格"はない」と言ってこれを退けることを言っています.これを私は「横暴」と呼んでいます.そして,この横暴を"制度的に"阻止する方法は(少なくとも今のところは)ないのです.お国は,いま,なんとかしてこの「教師の横暴を"制度的に"阻止する方法」を確立したがっているように見えますが,そもそも「教師の横暴を制度的に阻止するようなことをしてしまったのち,教育というものはまともに機能するのかどうか」というのが私の疑問なのです.
教師という仕事の価値は「制度的には横暴ができてしまうにもかかわらず,自らの意志でそれをしない」姿勢のうちにあるのではないかというのが私の考えで,この姿勢を持つことが禁じられてしまうと,教師も小役人と変わらなくなってしまうのではないか,と思うのです.
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やっぱり、理科社会 (ほり(管理人))
2007-06-06 22:56:40
heisanさん、コメントをありがとうございます。

「ラットレース」は「人間関係」の極地でしょうね。「人より抜きんでたい」という感情を持たない人は、まあ、いないでしょうから。それだけが人生の目的であるとしている人だって多いでしょう。承認欲求の一種だとも思います。

思うに、「出世」に必要なのは、高い能力でも高い見識でも何でもないんです。必要なのは、「オレは出世したい。出世するんだ」という強く欲望だけです。それを剥き出しに行動する。必ず出世しますよ~、たぶん。(笑)
ただし、それで世の中が、或いは、会社が良くなるわけでは決してないでしょう。そういった能力は問わないのだから。(笑)この成功者が、ヒットラーだったり、麻原某だったりするんじゃないのかな。

まあ、学校だって、同じことが言えるんです。周りを見て、いかなる行動が自分の出世に有利かを考えて行動する。これ、肝要。(笑)世の人はこれを「世の中を見る」と表現したりするんじゃないかな。他は、(例えば、学校なら、「教育観」のようなものは)「雑念」として捨て去る。

>すなわち,「"取り敢えず正論を言う"人間が大嫌いなタイプの子」は,先生の言うことをなかなか聞きません.この後者のタイプの子を説得する一つの方法は,桜木先生の論法ですね.

まあ、これは「集団と個の対立」の一種だと思います。
「正論嫌い」が一定割合を超えて存在すると、その社会は崩れるでしょうね。だから、学校本来の究極の使命は、実は「いかに正論嫌いの割合を許容範囲内に保つか」であると思いますよ。だから、正論を振りまく。大抵は「多数派」につくから、正論を振りまいて多数派を増やすという戦略が有効です。生徒の脳味噌は柔らかいから、「正論派」に転向したとしてもそんなに「不快」に感じないようですよ。

なぜなら、最悪は、社会がアナーキーな状態になることですから。(無政府状態、無秩序状態、犯罪多発状態でトクをする人は、まあ、ほとんどいないんじゃないのかな。)しかし、今の日本は、どっちか言うと、そっちの方向に突き進んでいるようなきがしないでないですよ。「個性、個性」の連発で。

数年前の話ですが、(今は知らない。)シンガポールの教育熱がいくら高くても、社会が良くならないとか言ってました。なぜなら、高い教育で受けたメリットを社会全体に還元せず、自分のモノとして少数の人たちが独占するだけだから、国全体が豊かにならないと。「桜木先生派」が多いということでしょう。

>「後者のタイプの子を,『人間関係』的な論法を用いることなしに,いかにして諭すか」というところにあります.

それはやはり、藤原正彦氏の言う「卑怯」という概念を子供の頃に植え付けることでしょう。自分だけ良い思いをしようとするな、弱いモノいじめをするな、とか。「法が持つような絶対」として植え付けることです。

話を元に戻して悪いですが、暑い、寒い、のど乾いた、ハラ減った、を連発する生徒が多い学校、及び、それを「仕方ないよね」と容認する学校の生徒は学力が伸びません。これはほとんど事実でしょうね。

私は「横暴教師」の一人なので、ボタン掛けろ、椅子に深く腰を掛けろ、足は机の中に入れろ、スカートを伸ばせ、学校で菓子を食うな、歩きながらジュースを飲むな、立ってものを食うな、授業中にうちわを使うな、と言います。廊下をうちわで扇いで歩いているのは見ても不快です。なぜ、皆さん、不快にならないのでしょうか。(ちなみにうちわを使っている生徒で出来の良い生徒はまずいませんよ。)はい。(笑)
まあ、上記のような状態で「世界的な敬意を得る」ことは不可能でもありますでしょうし。

それより、生徒は、なぜ小テストをしないと、勉強をしないのでしょうね。不思議でしようがない。奴らは、一体誰のために勉強をすると思っているのでしょうね。「小テストくらい、家で自分でやれ」と言いたい。私としては、「高校生にもなって授業で小テストするなんて先生の横暴だ!」という声を聞かない不可思議。

話があっちこっち行きますが、heisanさんの考える教師の「横暴」とは、どんなものでしょう? その方が興味深いです。
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Unknown (heisan)
2007-06-06 06:13:58
お忙しい中コメントにお時間を割いて頂いてありがとうございます.

> 「伝統」と「合理性」の対立については、私は、この場合の両者は、対立すべき概念ではない
> 「合理性」とは、「何らかの目的」が決まった上でしか生じ得ないもの
おっしゃる通りです.
「伝統」とは,「昔は合理的であった制度」が,世代交代の際に先達者が十分に目的を伝えなかった結果,後続者には「非合理的な制度」に映り,これが転じて「伝統」を成すに至るのだと思います.
ここで重要なのは,後続者たちの間で「自分はまだ知らないけれど,おいらの先祖はなにかスゴイ目的を持ってこの制度を打ち立てたに違いない」と「取り敢えず思う」ことで,「おいらたちは幸せに与れる」と信じられていることが,まさに「伝統というものは尊重されるものである」ということと同義である点です.
しかし,日々暮らしていくうちに,「取り敢えずそう思ったはいいけれど,全然幸せになれないじゃないか!」と痺れを切らしてしまう.
学校の場合の「スゴイ目的」は「文化継承」なので,理論上は,この目的を"身を以て"理解できれば,勉強するという不快な行動を取ることは,合理的な行動に成り得ます.でも,実際は,「この目的を"身を以て"理解できる子ども」なんて居ませんから(大人でも無理です),実際的な対処法としては「先祖はスゴイ目的を持ってこの制度を打ち立てたんだよ」と「取り敢えず思う」ことにしようね,と諭すことが最善の対応でしょうね.

ほりさんの言われる「理科的な考え方」は,僕の思う「法に基づく考え方」に通じるところがあります.「学校は人間的成長を図るところ」というのは,法に書いてありますよね(最近は改悪された?).法は,全ての人々に公平に効力を及ぼしますから,その意味で「絶対的」である.

いまの学校(の先生)の多くは,「法に基づく行動」(「スゴイ目的のための合理的行動」「理想」「絶対」「理科的」)を取るべきなのに,「人間社会において自校はいかにうまく立ち回るか(「ラットレースでの勝利法」「人間関係」「社会科的」)に配慮した行動」を取っている.そういうことですね,きっと.
ここから,すべて出てきますね,「校長に威厳が必要な理由」や「師弟関係とは別枠で望まれている現実」や「腹減った,喉渇いたの合理性を認めない理由」をはじめ.

「ラットレースに勝ちたい」というのは,人間に備わったほとんど生得的な欲求ですから,これを抑えて「法に基づく行動」を人々(や子ども)に取らせるのは至難の業です.

で,為政者なら,この「人々が持つ生得的な欲求」をうまく利用して国を治めよう,と考えるわけですが,学校の場合は,「君たち(生徒)は,生得的欲求に流されず,絶対的基準で行動することを,長い時間かけて学びましょうねー」と言う.でも教師は「もちろん,そんなの所詮理想だしぜってー身に付くことはないんだけど…」と内心思っている.でも,それを言い続けることが仕事である(※).ふむ.

ほりさんの言われる「理科的」「絶対」「社会科的」「人間関係」の言葉の意味がやっと理解できたようです.

※ 余談ですが,この仕事の特質上,教師という仕事は「"取り敢えず正論を言ってみる"ことで主情的な快を得るタイプの人」が就きやすい仕事であえると言えます.そして,生徒のなかにもこのタイプの子が居て,そういう子は先生の言うことを良く聞くのですが,それとは正反対の子,すなわち,「"取り敢えず正論を言う"人間が大嫌いなタイプの子」は,先生の言うことをなかなか聞きません.この後者のタイプの子を説得する一つの方法は,桜木先生の論法ですね.「こうしようぜ,こうすることで,俺は利益を得る,お前らも利益を得る,それでいいよな」という論理です.でも,この論理(「人間関係」「社会科的」)を一律に認めるべきではないというのが,法の語るところですね.だから問題は「後者のタイプの子を,『人間関係』的な論法を用いることなしに,いかにして諭すか」というところにあります.

# 相変わらず私の問題意識は「教師の横暴を,生徒が食い止めることはどの程度許されるのか」ですが,これはまた別の機会に.
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合理性、及び、理科的考え方・社会科的考え方 (ほり(管理人))
2007-06-05 21:34:42
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>一定の知識だけをポコポコ教えてもらってハイ終わり,的な自動車学校的な場ではないはずだ--(という私の思いこみと望み)に起因します.

ご説明頂き恐縮です。この点、私も同感です。でも、今の学校は、ややもすると、と言うか、非常に高い確率で「自動車学校的」になっていると思います。生徒・保護者の「要求」が、「高卒資格」だったり、「大学に合格できる学力」ときに、「思い出に残る楽しい高校生活」だったりするからです。それぞれ、コトバで言ってしまうと当然のことだったり、そう悪いものではなかったりするから話がややこしいというか、誤解を招くのですが、これらが、内田先生のおっしゃるような「師弟関係」と全く「別枠で望まれている」という現実が問題なのです。(くどいようですが、「別枠」だから理解しにくく、誤解を招く。)

それから、「伝統」と「合理性」の対立については、私は、この場合の両者は、対立すべき概念ではないと考えます。
そもそも「合理性」とは、「何らかの目的」が決まった上でしか生じ得ないものです。ですから、大事なのは、それが「何を目的とする合理性なのか」という前提たる問いだと思います。
で、この観点で言うと、彼らの言う「合理性」とは、「お腹が空いたからふらませる」「のどを潤す」という、「動物的本能的欲求を満たすことを目的とする合理性」なのです。
しかし、私は、学校とは基本的に、動物的本能を満たすための場所では決してないと考えます。でないと、「勉強」なんてできるなるわけがありませんから。
同じ「不快」と言っても、勉強をするための不快と、「ハラ減った、のど乾いた」という不快は、異なる種類の不快でしょう。より高次の目的が何であるかと言う観点で、私はこの種の合理性を認めません。

それから、校長先生の役割ですが、小学校、中学校、それで、高校では、全く役割が異なるでしょう。
高校の場合は、「退学」他、特別指導の申し渡しという大きな仕事が陰に存在します。ですから、校長が出てくるというのは、生徒の進退に関わる余程のことなのです。よって、近すぎる距離にいて貰っては困ると思います。校長は、「孤高の人」「最終決定者」としての威厳を持って貰いたいものです。まあ、リーダーというのは、孤独に耐えることのできる人でないと、敵を持って耐えられる特質がないと難しいでしょうね。(ところが、今の時代は、これを否定する。マトモな校長先生は、たぶん、可哀想です。)

>私の頭にある(偏見に満ちた)校長先生のステレオタイプは,職員会議で「私の立場を分かって欲しい」を繰り返す人,なのですが

「立場」は、私のコトバで言うと、「人間関係」「社会科的考え方」です。これでは説得力がないでしょう。
そうでなくて、「生徒の成長」という学校本来が持つ「絶対的な役割」「理科的考え方」を持って指導できる教育観を持って説得に当たるのが「筋」ではないのでしょうか。
「学校は勉強をするところ」「人間的成長を図るところ」を前提にすれば、「勉強」も、「人間的成長をはかるもの」として捉えられることになるでしょう。それこそ、「一定の知識だけをポコポコ教えてもらってハイ終わり」の自動車学校のような場所にしてはいけないと言うことです。

ところがこれが難しいのは、多くの先生、校長にしろ、「勉強で人間が成長するわけではない」と内心で思っていることなんですよ。うん。私の経験的な確信。(笑)だから、教育方針にしろ、人(教員、保護者、生徒)を説得できるほどの確信を持って物事にあたれない。最大の問題はそこかな? で、どんどん、学校は自動車学校的なサービス業に成り代わりつつある。

heisanさんがご存じの私学の校長先生にしろ、同様ではないでしょうか。だから、マスメディアだの卒業生だのという人の声ばかり気にする。(人間関係重視の発想ね、これも。)ところが、「大学」という場所は、「世界」(外国、という社会的な意味とそれこそ学問という絶対性を重んじる理科的な意味の「世界」)を対象にする絶対性の場だから、「人間関係」ではやっていけない事情になるのですよ。で、「乖離」が生じるのではないでしょうか(、と思いました)。

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Unknown (heisan)
2007-06-02 23:59:21
二重投稿になってしまっておりすみません(管理人様,最初のものはできれば削除頂きたく存じます).
最初の部分がどうも正しく入力されません(悲).
最初の部分だけ,以下再投稿します.

<本文>
相変わらず(懲りずに)コメントをさせて頂きます(もはや,見ると反射神経的にコメントしてしまう…).
よろしくお願い致します.

私が「心から」納得していない理由は,学校とは「(内田先生が言われるような)師弟関係」が成立することが望まれている場であって,「自動車学校的な教官と教習生の関係」が成立することが望まれている場ではないというところに起因します(@『先生はえらい』).
一定の知識だけをポコポコ教えてもらってハイ終わり,的な自動車学校的な場ではないはずだ--(という私の思いこみと望み)に起因します.

> 不快を取り除くためにのどを潤してどこが悪いの?
これは,これまで多くの遵守事項(=伝統)を無前提的に受け入れてきた子どもが,より合理的に行動することのすばらしさに目覚めた結果だと思います.
ここあるのは「伝統」と「合理性」の対立です.
<本文終わり>
返信する
Unknown (heisan)
2007-06-02 23:55:59
相変わらず(懲りずに)コメントをさせて頂きます(もはや,見ると反射神経的にコメントしてしまう…(>_<)).
よろしくお願い致します.

私が「心から」納得していない理由は,学校とは「(内田先生が言われるような)師弟関係」が成立することが望まれている場であって,「自動車学校的な教官と教習生の関係」が成立することが望まれている場ではないというところに起因します(@『先生はえらい』).
一定の知識だけをポコポコ教えてもらってハイ終わり,的な自動車学校的な場ではないはずだ--(という私の思いこみと望み)に起因します.

> 不快を取り除くためにのどを潤してどこが悪いの?
これは,これまで多くの遵守事項(=伝統)を無前提的に受け入れてきた子どもが,より合理的に行動することのすばらしさに目覚めた結果だと思います.
ここあるのは「伝統」と「合理性」の対立です.

> 私は言わば、時代錯誤的なことを言っていると思いますよ。
時代錯誤的なことにもピンからキリまであると思います.例えば,「戦前の校長先生」と言えば,廊下で会ったら背筋をピンと伸ばして最敬礼すべき存在で,校長室は厳めしさの漂う場所であったでしょう(生徒との間に「決して埋まらざる距離」が存在することを,校長先生自身も,そして生徒も,それを自覚することが望まれていた時代).一方,「いまの校長先生」と言えば,朝から校門の前に立って生徒に積極的に挨拶をするような人が,模範的な校長先生として認識されている感がありますね(「生徒との間の距離は小さいほうがよい」という信念が(なぜか)尊重される時代).
この軸でみたとき,果たしてほりさんは,どのようなお立場に立たれているのでしょうか(やはり,「戦前のような校長先生こそ,模範的な校長先生であり,今もてはやされているタイプの校長先生など,生徒迎合型に過ぎず百害あって一利なしである」と思われますか?).

> 今は、「良いとこ取り」だけしようとする人が増えている。
それは,確かでしょうね…

> 採用の問題ですが、大抵の校長先生の意識は低いでしょうね。社会に迎合する考え方が多いから、たぶん、それで出世したから、「多数決」で考える。
「たぶん、それで出世したから」には笑いました(笑).
迎合型人間が出世するような仕組みになっている…

> でも、大事なのは、校長が「与えられたメンバーをどのように育てるか」です。
そこまで校長先生に期待して良いのでしょうか.
私の頭にある(偏見に満ちた)校長先生のステレオタイプは,職員会議で「私の立場を分かって欲しい」を繰り返す人,なのですが(笑)(要するに,これまでやってきた平教員とはまるで違う立場であることを痛感し,教委と平教員の間で板挟みの状態に置かれるも,これまでそのような状態に置かれた経験は殆どないのでその仕事を辞めたいが,誰も他になり手がないので仕方なく校長役を引き受けている人),これはどの程度現実に即しているのでしょう?

それから,また別の類型としては,これは私学に多いと思うのですが「校長先生は経営にやる気があるが,世の中の状況が見えていないタイプ」というのがある気がします(私は少なくとも一つの実例を知っています(母校ではありません)).どういう点で世の中の状況が見えていないかというと,ずばり「大学の現状」という点です.
まあ,私学の校長先生というのは,そのほとんどは「長らく高校(or中学)教員をやってきた人」であり,「大学の事情」につまびらかでない.だから,「マスメディア」や「卒業生からの声」と言った情報だけを頼りに,学校経営をしてしまう.その結果,大学の先生が認識している「事情」とのズレが生じて,「なんでこんな子をうちんところによこしてくるのよ!」みたいなことになる.
私はこれの問題は,「大学という世界」と「高校という世界」が色々な意味であまりにも乖離しすぎてしまっていることにあると思っています.
その元凶として,「偏差値に基づく進路選択」を生徒に半ば強制的に課してしまっていることや,「マークシート式の試験問題」が挙がってくる,こういうからくりになっていると思うのですね(飛躍あり).
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組織と個人 (ほり(管理人))
2007-06-02 11:24:32
heisanさん、いつもコメントをありがとうございます。

まあ、今回は、特別にいろいろ重なってレスを付けきれなくなって取った処置で、申し訳ありませんでした。
早速のコメントをありがとうございます。

>私がこの解に「心から」納得していないからです.).

ある意味、当然かもしれません。というか、それが普通の常識的な捉え方でしょう。人は基本的に、「個人」として生きているのであって、子供には特にその傾向が強いからです。
ですから、「生徒の立場」から言うと、「良い先生とは、自分にとって良い先生」で、あくまでも「個と個」の対応、「自分から見た視点」しかないからです。保護者にとってもそうでしょう。大事なのは「ウチの子」なのです。

だから、叱られたときの不満の多くは、「なんでオレだけ叱られなければならないんだ?」。皆が同様に叱られている場合には、「皆がそうだから」という理由で受け入れられる。
ただ、今の時代は、言ってみれば快楽志向の「一般社会」の論理で、「なんでこんなことで叱られなければならないの?」(例えば、歩きながらジュースを飲むな、と言うと、うるさいと思われる、等。のどが渇いているのだから、不快を取り除くためにのどを潤してどこが悪いの?、と言うように)と不満を抱く。これが増えている。

集団の利(というか、その集団の平均的質の向上という観点)と個が対立するのは、常のことでしょう。
なぜなら「質の向上」には、「労力」を伴います。しかし、これは、意識の低い場合には、やる気のない場合には、「不快」だから、「個」としては避けることができるなら避けたいモノなのです。誰だって、「楽しい♪」が多い方がいいもの。怠けられるのだったら、怠けていた方がラクでいいもの。で、その不快を避ける気持ちを払拭させるのが、「みんなそうだから、あなたも」が結構効く、ということです。

「立場の尊重しろ」と言い換えると良いかもしれません。なぜなら、「立場」とは社会集団内に於ける相対的な「位置」で、「個」という絶対性と離れるからです。
「親なら親らしく」、「先生なら先生らしく」と言う観点です。
しかし、これが蔑ろにされている。友達のようなお父さん、姉妹のような母娘がうらやましがられ賞賛?される時代です。先生とも「友達感覚」で、敬語なんか使わない、使うのは親近感を損ねるなどの考え方の方が、一般的にはウケがいい。堅苦しいのは緊張感があってイヤだ、というわけです。中には、「あんな先生には敬意を感じないから敬意を払わない」と思う生徒もいるでしょうが、「その人には敬語を使いたくない自分の気持ち」という「個」を尊重した考え方の現れでしょう。
私は言わば、時代錯誤的なことを言っていると思いますよ。

親なら、子供の面倒を見る、悪いことをしたら叱る、当たり障りのない好かれることばかり考えるな、時にはソンな役割も引き受けた上で、役割を果たす。先生も同じでしょうね。今は、「良いとこ取り」だけしようとする人が増えている。それが自分の能力高さを示すモノであると、或いは、当然だと、「権利」とさえ思っている方が多いことでしょう。

政治でも同じでしょうが、集団を扱う要は「いかにして納得させるか」「それで良い」「それがよい」と思わせるか、だけ。(あ、ここ、ちょっと飛んでるかもしれないけど。)
まあ、誰か書いていたような気がするけれど、日本は、「国家による公教育」を通して、じわじわと「国家」という社会集団を底辺から瓦解させる方向に向かっているのでしょうね。(地域格差が生じて当然だと思います。)

採用の問題ですが、大抵の校長先生の意識は低いでしょうね。社会に迎合する考え方が多いから、たぶん、それで出世したから、「多数決」で考える。
公立高校も私立のような「生き残り」を考えると、大多数の場合は「社会に対する迎合」が当然生じてくる。若干の学校だけが生き残る。(それはヘンだと感じる「意識の高い家庭」は、どこにでもあるから。)
それに、教員採用は、基本的に今だって、どこでも校長先生たちが面接試験とかやっていることでしょうし。その結果が、「我々は,与えられたメンバーでやっていくしかない」状況です。

でも、大事なのは、校長が「与えられたメンバーをどのように育てるか」です。それが「システムの構築」であることでしょう。で、その力を持つのは、なんてたって、校長先生です。校長が教員をよく観察して、「誰を高く評価するか」でもあるでしょう。この点で、その校長先生の「見識」、「教育観」が現れる。また、時によっては、余程口達者でないといけないかもしれませんね。文句を言ってきた教員にぱっと反論できるような。(ちなみに、私の父親はこれが得意だったみたい。昔だったから、まだ「論理」が通じる教員が多かったという理由もあったことでしょうが。)

メンバーそのものは、その意味を理解しなくても、「立場」として動くシステムの成員として働ければ良いわけ。(どこの会社でも似たようなことはあると思います。)「良い学校」は、たぶん、どこでもそうですよ。だから、例えばある先生が、その「良い学校」から転任してきたからと言ってその先生が「有能な先生」ではなかったりします。そういうものです。(言い切る。笑)

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Unknown (heisan)
2007-06-02 02:22:49
ほり先生,ご多忙のところお返事を頂けて恐縮でございます.

(1)
> 教員は、個人としての存在より、組織としての教員、先生となって、初めて力を発揮でいるものだと思います。
> 学校という場所が「組織」として、システムとして機能すれば、それは「プロの集団」たり得るのです。
まあ,それで問題が解決するなら,それでもいいんじゃないでしょうか(なんとなく消極的な言いようになってしまっているのは,私がこの解に「心から」納得していないからです.).
でも,こればかりは現場にいらっしゃる先生の言い分のほうに断然「分」があるでしょうから,取り敢えず「そういうもんかなあ」と思っておくことにします.

(2)
> 意外にお若い方がそうなんですよ。
さきの私の「換言」は失言でした(別に「頭の堅い方は年配の先生に多い」ということを特に言いたかったわけではありません).申し訳ありません(_)

(3)
> 人気があるから良いと思っている。だから、組織人として動けない。
これは,(1)でほりさんが言われていることを踏まえると,自然な結論だと思います.
よって,私の感想は「そういうもんかなあ」です(すみません).
僕が思うのは,高校教員に組織人としての役割を求めるならば,「校長に教員採用の権限を与えるべきではないか」ということですね.
前に書いたかもしれませんが,或る校長先生は「我々は,与えられたメンバーでやっていくしかない」とこぼされていたそうです.
この辺りに,教員採用の仕組みの不調をみます.

> 校長が替われば、学校なんて半年で変わりますよ。変わらない学校は、校長が悪い。
教採の仕組みが不調だから,教委と平教員の間で板挟みに遭い,心労に心労を重ねたあげく,自殺してしまったりする校長先生が出てくるのではないでしょうか(中間管理職の特有のつらさは,私もそれなりに存じ上げております).

(4)
> そんな人、ほとんどいませんよ。
わたくしが申し上げているのは(現実がどうかではなく)「理想論」です(内田先生的に言えば「憲法が何か」ということを確認しているわけです).でも,そのように言われると,少し疑問を持ってしまいます…

> 学校は、組織として一定の機能を果たせば、何とかなる。
これは,納得できる気がします.
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小手先と多数決 (ほり(管理人))
2007-06-02 00:57:29
heisanさん、コメントをありがとうございます。レスが遅くなりまして申し訳ありませんでした。

>これはなかなか笑えますね(笑

そうでしょ、そうでしょう。学習が、一種のマニュアルに載ったかのような「作業」と化しているから起こる現象だと思っています。

>基本的に,高校教員という職場には,この「プロ」があまりやってこない,と.

というか、教員は、個人としての存在より、組織としての教員、先生となって、初めて力を発揮でいるものだと思います。
だって、生徒の反応は、「多数決」。悪いことをして叱られたとしても、一人の先生に叱られたのでは、理解できない、タダの「うるせぇ先生だから怒りやがって」と思われるだけなのですよ。でも、違う先生から同じように叱られると、それで初めて、「悪かった」とわかって、それこそ、おっしゃるように、じわじわと生き方、考え方が変わっていくものなのです。(だから、私はカリスマ教員のいる学校は、本来の機能を果たしていないと思っています。)だから、学校という場所が「組織」として、システムとして機能すれば、それは「プロの集団」たり得るのです。しかし、イマドキは、学校に「私塾」を開いて「個性」をアピールしたがる先生が意外に多かったりする。(で、それを評価する愚かな管理職がいる。)諸悪の根源はそういう感性。

>換言すれば「頭の堅いガンコじじい/ばばあ」とお見受けしてしまう方がいらっしゃるということですよね.

それがね、またお笑いになるでしょうが、意外にお若い方がそうなんですよ。個性教育を受けてきたからでしょうか。生徒と同じ感覚。友達感覚。で、人気があるから良いと思っている。だから、組織人として動けない。(学校によって違うだろうけれど。)

>「人間というものに対するふかい体感的熟知」の上に実現可能となる高度な技です.

そんな人、ほとんどいませんよ。だって、イマドキはやらないもの。
でも、学校は、組織として一定の機能を果たせば、何とかなる。
校長が替われば、学校なんて半年で変わりますよ。変わらない学校は、校長が悪い。(と私はヒラ教員として学校を眺めて思うし、自らそのように言う校長を複数知っていますよ。そのうちの一人は、自分の父親だけど。笑)

>「純粋にカネ目的の人」も教師になろうとすると

まあ、それでも、多少はマシでしょう。違うかなぁ。
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Unknown (heisan)
2007-05-27 02:44:19
いつも私が書き散らかせる場所・状況を提供してくださってありがとうございます.


> 「事務処理能力=小役人的資質=教員の能力」になりがちになっているのではないかと
これはなかなか笑えますね(笑
(って,笑い事ではないのでしょうが…
思わず,つい…(笑
# すみません


> heisanさんの想定する「能力」とは、上記のような能力ではないでしょうか?
僕が言った「能力の高い人」というのは,一言で言えば「プロ(っぽい人)」のことです.
世の中には,様々なことに秀でている人が居て,或ることに特に秀でている人のことを「プロ」と言うわけですが(もちろん,別の定義もある(それで飯を食っている,とか)),基本的に,高校教員という職場には,この「プロ」があまりやってこない,と.
(だって,プロはやっぱりそのプロ性において評価されたいと思うわけだし,高校教員という職場じゃ,頑張っても頑張らなくても評価は(ほとんど)同じだから(爆),プロはやる気をなくしてしまうわけですよ.多分.)


> 「パソコンが使える=有能な教員」
笑.もうほとんど笑うしかないですが(ぉぃ),笑うだけではなにも始まらないので,少し書きますね.
まず,私が何に笑っているかというと,その「本末転倒ぶり」に対して笑っています.
内田先生の喩えで言えば,百万円の使い道を会議で考えていたらその会議の弁当代で百万円を使い果たしてしまった人たちのように見えます.

私が考える「有能な教員」の定義は,「学習者の判断/行動基準をよい方向に変えることのできる教員」というものです.

よく大人が「あのときのことが私の人生を変えました」というようなことを語りますが,それは,その「あのとき」において,まさに判断/行動基準がよい方向へ変化したことを指しています.

教師というのは,本来,これを生徒に起こさせることが求められているのです(と僕は思っています).

ハッキリ言って,「めちゃめちゃ難しい」です.

これは,小手先のテクニックでどうにかなる問題ではありません.
事務処理能力とかの次元ではたぶん全然ありません.

「人間というものに対するふかい体感的熟知」の上に実現可能となる高度な技です.

# とまぁ,このように正論を述べた所で何も現状は変わらないので,これを踏まえた上で,現状の打開策を考えないといけないのですが…


> 私は「それ以上を問う」のが、「ヘンな人」だと思います
だいたい合ってると思います(私の感覚と一致します).
以下,すこし逸れます.
ほりさんはここで書かれていることを「愚痴」とおっしゃるけれど,この辺の感覚はきちんと分節化して捉えておく必要があるかと思います.
ずばり,「発展的愚痴」(呟き)と「非発展的愚痴」(愚痴)が存在する(…笑).
ほりさんがされているような「それ以上を問う」愚痴は「発展的愚痴」であり,多くの「それ以上を問わない」ような愚痴は「非発展的愚痴」である,と.
愚痴とは,敢えて定義するなら,「言っても仕方のないことを言うこと,またはその言ったこと」ということになるでしょう.
しかし,ほりさんがここに書き付けられている文章は,こうして世間に問われて,批評っぽいものを遣り取りされているわけですから,「言っても仕方のないこと」には該当しません.
誤解を恐れずに言えば,これは,もはや「愚痴」ではないのです.


> 「能力」に関しては、教える知識・能力に乏しい人はいますよ。
或る人が言っていましたが,「教える」うまさというのは,年功に拠らないと.
これが真実かどうかは知りませんが,少なくとも実際の多くの生徒の立場からすると,これは経験的に尤もな感覚だと思うのですね(失礼ながら).
ちなみに,これがなんでかという話は,コミュニケーション能力が云々という話になり泥沼にはまるので今回は控えさせて頂きます(笑).


> 学習能力そのものが今少しの方がそれなりにいらっしゃるというか、認識能力が広がりにくい方がいらっしゃることなんです。
随分とやんわりした言い方をされておりますが(笑),換言すれば「頭の堅いガンコじじい/ばばあ」とお見受けしてしまう方がいらっしゃるということですよね.
「生徒の頭を柔らかく導こうとする者自身が,こんなんではいけないだろ」という批判をするのはラクですが,こういう人が生み出されてしまう仕組みに目をやることも大切です.
どういうことかというと,学校(高校)の教師というのは,おおむね,教える内容が毎年決まってるわけです.
だから,そのパターンにはまって,そのパターンを毎年口から紡ぎ出せるようにしておけば,頭を柔らかく維持しておく必要性は全然ないのですね.
だから,「学習能力そのものが今少しの方」や「認識能力が広がりにくい方」が増える.

「それではいけないだろう,教師たるもの,そんな仕組みに負けず,生徒たちのために,柔らかい頭を維持しておく必要があるだろう」と,理想的な倫理を叫ぶことは簡単ですが,実・際・に・は,数ある「教師たち」という集団からランダムにサンプリングしてきて,そいつが理想的な倫理にしたがって行動しているかを調べてみれば,おそらく,してない人たちのほうが圧倒的に多いと思う.

だから,理想的な倫理をいつも守り通すことはできない人たちが教師であっても,上のような問題点を生じてしまうことがないような仕組みを発明しないといけない.
それが今日,教育業界に求められていることだと思います.


> 給料目的にしても、教員になりたいと思う人は、「うだうだしたい感覚の持ち主」に決まっているから(勝手な想像・笑)、
それはどうでしょう? 
給料を上げると,「純粋にカネ目的の人」も教師になろうとすると僕は思いますが…
返信する
うだうだうだうだした~いよ~ (ほり(管理人))
2007-05-27 00:48:08
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>私は,「うだうだしたい人」が駆逐されてしまうような,教員の職場が,いい職場だとは思いません.「うだうだするのOK」で且つ「ちょっと堅めの話も酒の席でOK」な人の割合が,教員の職場にもっと増えたら,いろいろな境遇の人がハッピーになるんじゃないかと考えています.

今の職場の忙しさは、やれ、小テストだの、平常点だの、プリント作り(近頃は教材屋のコピーが多い)だの、ノート集めだの、あるいは、やたら提出書類を求められるだのといった「うだうだ出来ない状況」が問題で、「事務処理能力=小役人的資質=教員の能力」になりがちになっているのではないかと言うことです。
で、こういったある種の言わば「事務処理」に優れた人が優秀な教員だと思われる、或いは、自分でも優秀だと勘違いしがちになること、それが問題ではないかと私は強く疑います。

例えば、「パソコンが使える=有能な教員」と思われている現実があります。(まあ、事務処理には便利な道具ですが。今も昔も、学校の成績くらい算盤で十分だったはずです。その程度の成績の出し方で十分だったはずでもあるということです。)問題は、「それによって生徒に何を学ばせる」を問わない雰囲気なのですよ。大事なのは、「何を学ばせるか」なのに、「どう教えるか」しか問われない。(学校は、「子供が学習をする場」でなく、「先生が仕事をする場」になったってことです。←あ、前にも書いたっけ。)
ついでだけど、普段の授業にパソコンはいらない。先生は黒板とチョーク、生徒はノートと教科書が、生徒の脳が本質的に活性化するものだと思います。学校で学ぶ知識は羅列的な「記号」じゃないのだから。(←この文、舌足らずかも。)

で、heisanさんの想定する「能力」とは、上記のような能力ではないでしょうか?(なんだか、そんな気がして。。)

教員の「うだうだ」は、私は、それなりに一般教養的な話が含まれると思います。職員室で、そういう会話が決してないとは言わないもの。(しかし、はっきり言って、どの程度この傾向があるかは、「かなり学校に依る」「人に依る」と思ってます。)
で、うだうだ話がどれくらいの「深み」を伴うか。羅列的な知識・事象面だけに留まるか、それ以上を問おうとするか。
たぶん、私は「それ以上を問う」のが、「ヘンな人」だと思いますが、いかがでしょうか。(その意味では、私はかなり「ヘンな人」だとおもうんだけれど。笑)

ついでにいうと、「能力」に関しては、教える知識・能力に乏しい人はいますよ。(まあ、私も昔はかなりそうだったけど。笑)そのレベルがますます下がりつつある気配があるということで。
で、理由は、というか、この最大の問題は、指導されても響かない、学習能力そのものが今少しの方がそれなりにいらっしゃるというか、認識能力が広がりにくい方がいらっしゃることなんです。それがね、困ったかなと。。

給料目的にしても、教員になりたいと思う人は、「うだうだしたい感覚の持ち主」に決まっているから(勝手な想像・笑)、heisanさんの「この作戦が遂行された場合,「うだうだしたい人」にとってはさぞかし迷惑極まりない職場へと変貌を遂げていくことでしょう.」は杞憂ではないかと思いますが。。。
というか、すでに、今の状況は、私のような「うだうだしたい人」にとってはかなり迷惑な職場環境です、はい。(苦笑)
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Unknown (heisan)
2007-05-25 12:51:03
「婉曲」というか,「曖昧」ですかね.
この表現は「曖昧」であって,本来なら回避したいのだけれども,それだと今度は分かりづらくなってインパクトが薄れてしまうから,やむなくこう言ってみた,といったところでございます(そう言えば藤原正彦氏もこんなこと言ってたなぁ).
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Unknown (トオリスガリ)
2007-05-25 10:29:56
ただし、heisanさんが、
>しいて言えば(誤解を恐れずに言えば)
とされた咄嗟の?“婉曲”は素晴らしい(笑
というのは私の単なる「美解」でしょうか。
しかし、「ありていに言えば」では、ここでは、不躾と言えましょう。
返信する
Unknown (トオリスガリ)
2007-05-25 10:15:58
↑しかし、昨日、その後だいぶ経ってから思いついたのですが、
>しいて言えば(誤解を恐れずに言えば)
私に言わせれば「ありていに言えば」(笑
(って、オマエが言うな!、でしょうね(笑)
返信する
Unknown (トオリスガリ)
2007-05-24 12:23:11
↑言われてみれば当たり前の気もするが、感服
返信する
Unknown (トオリスガリ)
2007-05-24 09:55:48
>(レス一つだけ付けました。)
ほりさんは細やかなお気遣いをされますね。

>いいですか,「うだうだOK堅めの話OKな人」というのは,「能力の高い人」ではないのです.
>しいて言えば(誤解を恐れずに言えば),「ヘンな人」なのです(笑
いやはや(笑
その先の話はわかりませんが、上記の箇所には、「クゥーーー!!!」と感嘆

返信する
Unknown (heisan)
2007-05-24 01:04:20
> 簡単です。教員の給料を上げることです。
教採の倍率を上げるという作戦ですね.
昔,「教員はうだうだしたい人がなる職業」というようなことを書きましたが,この作戦が遂行された場合,「うだうだしたい人」にとってはさぞかし迷惑極まりない職場へと変貌を遂げていくことでしょう.
これは,なんか違う気がします.
私は,「うだうだしたい人」が駆逐されてしまうような,教員の職場が,いい職場だとは思いません.「うだうだするのOK」で且つ「ちょっと堅めの話も酒の席でOK」な人の割合が,教員の職場にもっと増えたら,いろいろな境遇の人がハッピーになるんじゃないかと考えています.
でね,この「うだうだOK堅めの話OKな人」は,即「既存の教員のプライドを脅かす存在である」と判定されるわけではない,というところに,まずはご着眼いただきたいわけですね.
いいですか,「うだうだOK堅めの話OKな人」というのは,「能力の高い人」ではないのです.
しいて言えば(誤解を恐れずに言えば),「ヘンな人」なのです(笑).
そして,この「ヘンな先生」が学校現場に増えることは,学校という場に集う人たちをハッピーにするということが社会心理学の立場からも言えるそうなんですよね(@『職員室の社会心理―学校をとりまく世間体の構造』).
これを実現するためにはどうすればよいか,というのが私の投げた問いです.
返信する
それはねたぶん (ほり(管理人))
2007-05-23 23:48:32
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>問題なのは,そういった連発の行為・現象自体が,他の話題を持ち出したい人がそれを持ち出すことを禁じる効果を持つことがあることなのです.

私は、その手の話をしたがる人の割合は少ない気がします。
余程恣意的に集まったメンバーでない限り、「なんだよ、知識をひけらかす気かよ。」とか、「せっかくの酒の席だから、堅い話は止めようぜ、馬鹿話をして盛り上げて、憂さ晴らししよう」等、思っている人の方が多い気がしますよ。

># 問題提起♪

簡単です。教員の給料を上げることです。
しかし、現在は、社会情勢がそれを阻んでますね。(笑)

で、どこかの自治体で、理数系の就職がもの凄く良かったとき、良質の理数系教員確保のため、理数系だけは教員給料を上げようかという話があったそうです。でも、「没」になりました。理由は、文系ではなく、「理数系の教員が反対」をしたのです。もちろん、もっともらしい理由を付けてのことでしょうが。

なぜでしょう?自分の給料も、多分、上がるのに、ですよ。

なぜなら、自分より能力の高い新人が増えてくると、相対的に自分の地位が下がらざるを得ないからです。つまり、自分が将来「偉く」なれないからです。(これ、今までにもどこかに書いたかも。)

で、また、教員は、所詮子供相手の仕事ですからね。いくら「未来の社会作りに関わる仕事」だと言っても、所詮ね。。。

(レス一つだけ付けました。)
返信する
Unknown (heisan)
2007-05-19 01:10:47
> その手の話をしようとしたら、「硬すぎる」と言われた
> それって、こういうこと?」と演繹的に纏めようとすると嫌がられる
酒の席では,それこそ「いろんな」話があって然るべきなので,「ステキ」「キレイ」「ダサイ」「キモチイイ」を連発する時間があっても全然問題ないと思います.
問題なのは,そういった連発の行為・現象自体が,他の話題を持ち出したい人がそれを持ち出すことを禁じる効果を持つことがあることなのです.
これはいわゆる"副作用"に相当するもので,完全になくすことは難しいでしょう.
ですから,我々は,「いかにしてこの副作用を低く抑えるか」をエネルギーを投入するべきですね.

それから,学校という場所は,その機能的意義から,「その手の話」をうれしがる人たちがもうちょっとたくさん集まっているべき場所だと私は思うのですが,現実はそうではないようですね.
それは,教委の採用の仕組みに問題があると言うことになるでしょう.
では,「どうすれば」(どのような仕組みに改変すれば),「その手の話」をうれしがる人たちがもうちょっと増えるようになるでしょう?
# 問題提起♪(自分も答えをまだ知らない)
返信する
ホントは楽しい無駄な努力♪ (ほり(管理人))
2007-05-19 00:16:10
カカコケさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

無駄は、あくまでも「目的」が何であるかで異なってきて、視点を少し変えると、人間は、もともと「無駄な努力をする存在」だと思います。うん、そう。「前頭葉」なんて、究極の無駄。(笑)もちろん、これは、「生物として生きていくだけ」を考えた際の無駄ですが。
サナダムシは、極めて効率よく生きている生物のようですね。カラダそのものが小腸のようなモノらしくて、栄養をカラダに取り込み、他にすることは生殖のみ。で、世代を超えて生きながらえる。何かの本で読んで、凄いなぁと思いました。(これも養老本かなぁ?)

たぶん私は、今の学校教育の世界では、余り評価されない「無駄」をしている可能性があります。でも、本人は、それが大事だと思ってるからなぁ。。で、ここで愚痴を言う。(笑)

大学生の方ですよね。今の大学生の世代(?)は、「無駄」に対して、ものすごく敏感になっているように思います。なんだかんだ言って、「効率性」を重視する教育を受けていたから。(私は与えた方の端くれです。保証しますよ。)

>無駄な努力=みんなと違う努力
だと思ってぼくは生きています。

それで良いんじゃないでしょうか。というか、それがマトモというか。少なくとも、私はそう思います。

どうせ一人一人、存在は違うのです。努力だって、違って当然だもん。「無駄な努力」が誰にとっても同じものだと言うことは、人が持つ「目的」も「みんなと同じ」と言うことになります。(でも、無理して人と違う努力をしようと努力する必要もないと思います。)

学校教育の変な点は、個性個性と言いながら、効率良い勉強法など、矛盾したことを言っている点です。
個性なんて言う必要はなく、効率も必要ないんです。勉強も人としてのあり方も、学校で教えることは「王道」でいいと思います。どうせ、子供は勝手に軌道修正するに決まっている、というか、そうならざるを得ないのだから。その点、日本の古典芸能などの「師匠のマネをする」は理に適っています。そっくりそのままのマネなんてできるわけがないんだもの。だから、師匠を超える弟子が出る可能性があるのだし。

現在の自分はあらゆる過去の集積でしょうね。当然無駄な努力を含んだ自分がいるというわけですから。
無駄のない人生、効率良い人生なんてあるわけないもの。

今度ともどうぞよろしくお願いします。
また気楽に遊びに来てください。
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酒の席の話題 (ほり(管理人))
2007-05-18 23:45:38
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>飲み会の場で,酒の席で,そういう話(養老先生が話題に出すような話)をしたいんだけれども,どうもそういう雰囲気でない.
だから知らないうちに欲求不満がたまっている.

少なくとも、身近にいる人で、そういう話を喜んでくれる人は希です。
この間、飲み会で、その手の話をしようとしたら、「硬すぎる」と言われた。(笑)

私、ふつーの世間話、たぶん、できないんです。「最近どこそこに新しい店(その他諸々)が出来て面白そうだから、行ってみない?」とか。「誰それさんが、どうのこうの。アイツ、○○とこうこうなって今、もめててどうのこうの。」の人間関係噂話。これが延々と続くようなの。
で、「それって、こういうこと?」と演繹的に纏めようとすると嫌がられる。(笑)

>・・・酒の席での話がなかなか「そういう話」へと向かわないのはなぜだろう?(多くの人がそういう話をしたがっているのにもかかわらず)

私の経験からは、多くの人はそんな話を望んでないと思いますよ。テレビ番組の内容からみても、せいぜいで政治、それも、政策より政治家の人間関係の話が主たるものではないかしら。(政治オンチの私が言っても説得力ないかもしれないけど。)
「バカの壁」が売れたのが400万?部。で、理解した人は、その何%でしょうか。養老先生の講演会が人気あるとしても、「話題の人だから行ってみよう」が多いと思います。
内田先生にしても、文章が大学入試に良く出るそうですね。でも、入試に出るということは、「それなりに難しい」ということだから、「ふつーは理解されない」と取るのが順当でしょう。

「お金」と「見た目」と「気分」に繋がる話は人気があるのかな? 安かった、高かった、ステキだ、キレイ、ダサイ、気持ちよかった、と言う「実体」にまつわる世界。(と、こんな風に、「実体」などの言葉で纏めようとする酒の席では「何だこいつ」「つまんねーやつ」という顔をされる。笑)
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はじめまして。大学3年です (カカコケ)
2007-05-18 23:25:58
ぼくも「ただ考えること」が好きなので読ませていただきました。


ついでに感想も書かせていただきます。

社会に適応するための論理(道徳とか稼ぎ方とか)を伝えようとするとき、
体験させなければ身につかないので努力をさせるのだと思いますが、
その努力が社会の論理に沿ったものであるかどうかは教えることができる人は、
ほんのわずかだと思います。
ぼくの周りにも意味不明な努力を続けている人がたくさんいます。
現在の社会の論理に沿わない意味不明な努力が、
無駄な努力と呼ばれるものです。
でも、努力というのはやってる本人は意味があると思っているので、
結果に対しては僕がけちをつけることができますが、
努力の仕方については理解を示すことはできてもアドバイスはできません。
アドバイスできるのは社会を論理で説明しつくせる人か、
感が異常に成長した人だけでしょう。

みんな少なからず無駄な努力をしているので、
無駄な努力を非難することはできません。
無駄な努力=みんなと違う努力
だと思ってぼくは生きています。

無駄な努力をするということは、みんなと違う道を進むことで、
人間性という命綱さえ放さなければみんなと少しは違う魅力を感じられる人生になるんじゃないでしょうか。
この人生に注目してくれるのは物好きな未来人のたった一人かもしれませんが・・・。
人類の多様性の一片をになっているのですから、
無駄な努力の完成系を拝めるまでは生きながらえたいです。
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Unknown (heisan)
2007-05-18 02:02:07
> だって、私の周りにこんな風に話の合う人、いないんだもん。だから、養老先生、大好き♪
自分のことを分かってくれる(と思う)人が少なければ少ないほど,その数少ない「分かってくれる」友人に向く気持ちは大きくなりますよね.
だから,もしかしたら,日本人の少なくない一部の人たちは,養老先生のような語り口で接してくれる人を日常的に(潜在的・無意識的に)求めている,というところがあるのかもしれませんね.
飲み会の場で,酒の席で,そういう話(養老先生が話題に出すような話)をしたいんだけれども,どうもそういう雰囲気でない.
だから知らないうちに欲求不満がたまっている.
養老先生の本の読者は,その種の欲求不満を知らないうちに解消できてしまう満足感を求めて,養老先生の本を読むのかもしれません.
(あ,この文章,「養老先生」の部分を,自分が愛読する本の著者名に入れ替えると,一般化できてしまいそう)

・・・酒の席での話がなかなか「そういう話」へと向かわないのはなぜだろう?(多くの人がそういう話をしたがっているのにもかかわらず)


> ネット上では「知り合い」と言わないのですね
絶対言わないわけではないと思いますが,曖昧なことは確かですね^^;


> heisan様が「大層気立ての良い女性」ではないとすれば、特に顔見知りに成りたいとは思いませんけれどもw
ww

# なんだか面白くなってきた(わくわく


> heisanさんは随分たくさんのコメントをくださっているので、読み甲斐がありますよ。
恐れ入ります(_)
返信する
いえ、全然 (ほり(管理人))
2007-05-17 22:20:24
トオリスガリさん、コメントをありがとうございます。

>私は、掲示板使いませんが・・・・・・

では、そのまま放置しましょう。(笑)
そのうち、使ってくれる人が出てくるかも。(だれもいなくても構わないし。)

>しかし、唐突に、変でしたかね。

いえいえ、全然変じゃないです。楽しいですよ、そういうやりとりも。(トオリスガリさんとheisanさんとのね。)当ブログは、「ほとんど何でもあり」ですから気にしないでください。
heisanさんのコメントを面白いとおっしゃる方は、これまでに他にも見えましたよ。

heisanさんは随分たくさんのコメントをくださっているので、読み甲斐がありますよ。

でも、トオリスガリさんも、きっと楽しい方ですね♪
今後ともお気軽にどうぞ。

返信する
変な表現ですみません (ほり(管理人))
2007-05-17 22:08:17
heisanさん、コメントをどうもありがとうございます。

>ではなくて,「どういう風に『普遍』を展開するか」という問いかけには無限の答え方があり,

なるほど。そういう捉え方がありますね。
私の場合は、うんうん、そうだそうだ、もっともだ、この人は、なんとものごとを分かっている人なのだろう、と共感しながら養老先生を読んでいます。
だって、私の周りにこんな風に話の合う人、いないんだもん。だから、養老先生、大好き♪

それから、ネット上では「知り合い」と言わないのですね。(ははは。←自嘲)お許しください。
「トオリスガリさん」は私の存じ上げない方だと思いますが。。。
返信する
Unknown (トオリスガリ)
2007-05-17 17:51:07
私は、掲示板使いませんが・・・・・・
heisan様のコメント(そのディアレクティック及びレトリックと言いますか、とまとめてしまうと矮小化になるかも知れないが)は、大変勉強になりますもので、その事を率直に申し上げたまでのものです。なお、heisan様が「大層気立ての良い女性」ではないとすれば、特に顔見知りに成りたいとは思いませんけれどもw
しかし、唐突に、変でしたかね。
返信する
Unknown (heisan)
2007-05-17 00:04:32
> > せっかくheisanさんとお知り合いになったのですから
> !?
> ほりさんはトオリスガリ様とお知り合いなのでしょうか?

んん? よくみると文意が一意にとれない謎な文になっていますね.
一読して「ほりさんとトオリスガリ様は(顔見知りという意味で)知り合いではなかろうか」と思ってしまったので,こんなことを書いてしまいました^^; すみません.
返信する
Unknown (heisan)
2007-05-16 22:29:40
> 唯脳論について、「お経を読んだら、自分と同じ事が書いてある」と思ったそうで。養老先生の言は、普遍なのです。で、普遍って、「当たり前のことばかり」。
「普遍」は「普遍」でいいのです.
その「普遍」の展開(表現)の仕方において,一人一人にとって,より「しっくりとくる」方法があって,それは一人一人違っているだろう,と.
そういうことだと思います.


> 「当たり前を喜ぶか、喜ばないかの違い」なのかな?
ではなくて,「どういう風に『普遍』を展開するか」という問いかけには無限の答え方があり,或る答え方は,僕もほりさんも両方喜ばすのだけれども,また別の或る答え方は,ほりさんしか喜ばすことがない,またまた別の或る答え方は,僕しか喜ばない,というような感じだと思うのですが.


> せっかくheisanさんとお知り合いになったのですから
!?
ほりさんはトオリスガリ様とお知り合いなのでしょうか?
返信する
掲示板復活させましょうか? (ほり(管理人))
2007-05-16 22:16:58
トオリスガリさん、コメントをありがとうございます。

せっかくheisanさんとお知り合いになったのですから、掲示板、作りましょうか?
ご自由にお使いくださってけっこうですよ。(今までも、そういうの作ったことあったし。)

書き込みがなければ放置、あれば、上に上げていきます、ということで。

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嬉しい「当たり前」 (ほり(管理人))
2007-05-16 22:13:02
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>私は彼のこの「人間くささ」については,彼の文章が多かれ少なかれ「漢文的音韻」にのっとっていることによるではないかと考えています.

なるほど。で、かつ、内田先生は、文系的な人だなと思います。論理的だけど、文学と言うか、「言葉」をちゃんとわかるというか。(というか、私が「文学」や「言葉」を理解しなさ過ぎるのかもしれないけど。(笑)まあ、養老先生だって、もちろん、文学も言葉もわかるのだけれど。あ、でも、養老先生は、言葉そのものに対する感性はちょっとまた違うな。)

>「そんなん当たり前やん.当たり前のことを言い換えただけやん.なんにも嬉しくない.」というのが,正直な感想なのです.

養老先生、唯脳論について、「お経を読んだら、自分と同じ事が書いてある」と思ったそうで。養老先生の言は、普遍なのです。で、普遍って、「当たり前のことばかり」。

>「すでに誰かが言ってることを,言い換えてみた」

確かに「普遍」は既に古典的に常に誰かが言ってますね。
私の場合は、それを知らないからかなぁ。。(笑)
初めてのことが多いです。で、とことん底の底まで下がった(か、上がってるのか分からないけど)根本を示しているのが私には新鮮なのかな。で、妙に納得できる。「なるほど思い当たる」って感じも強いです。

私の場合、内田先生は、もうちょっと上の方(養老先生が「底」としたら)の言説をされている気がして「応用編」みたいな感じに捉えてます。

>内田先生が養老先生の話を凄いと思っておられるのも,おそらく,このあたりに(それがなぜなのかの)答えが宿っているような気がしています.

内田先生は、文系だから、「根っこ」を何かもっと実体のあるモノ、「人間死んだら終わり」の文系とは異なる、何かモノ的な理系に求めたいんじゃないのかな。で、それを明示する養老先生を凄いというのではないかなぁ。

引用があっちこっち行きますが、

>そして,これに対する私の予想は,ほとんど皆無ではないか,ということです.

これ、そうでしょう、きっと。養老先生は自分勝手な感想を書いてるだけだもん♪

ところで、話はあっちこっちしますが、そうか。。。heisanさんと私の違いは、
「当たり前を喜ぶか、喜ばないかの違い」なのかな?
う~ん。。。
私の場合、置かれている環境が「当たり前」からほど遠いところにいるから「当たり前」が嬉しいのかも。(笑)

ところで、またもや、あっちこっちいきますが、「理系の物書き」と言えば、寺田寅彦を思い出しました。中学生の頃、よく読んだ気がします。面白かったですよ。良い文章だったし。まあ、今の世代の理系の物書きとは一線を画すと思いますが。(って、大人になってから読み直してないからいい加減。笑)ヒマがあったら、読み直してみたいな。今ならどんな感想を抱くだろう?

返信する
Unknown (トオリスガリ)
2007-05-16 18:24:38
heisan様
これからのご健筆も楽しみにしております。
よろしくお願い致します。
って私はこのblogの管理人ではありませんが。

(管理人のほり様、申し訳ありません。
今後こうした悪戯は致しません。ご海容のほど。)
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Unknown (heisan)
2007-05-16 17:37:22
お褒めの言葉を頂けて光栄です.
これからもよろしくお願い致します(_)
(ってここは私のblogではありませんがw)
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Unknown (トオリスガリ)
2007-05-16 10:39:49
内田樹先生のブログから来ました。heisan様のコメントは、大変勉強になります。有難うございます。
返信する
Unknown (heisan)
2007-05-16 00:18:48
> 養老先生に対する反感には、「人間としてどうかと思う」みたいな感想がよくある
アンチ養老論でマトモなものは少ない気がします(笑)
その理由は私は,養老先生の言説は「間違ってはいない」からだと思います.
ちなみに私は,養老先生のことを「人間としてどうかと思う」などとは全然思いません.
「町中にいる多種多様なおじさんのうちのの一人」だと認識しています.


> 養老先生は、その点かなりクールに見えますね
サイエンスの世界で使われる文体というのは,多かれ少なかれクールです.
それは,サイエンスの世界における文章の流通許可基準のなかには,いかなる種類の「人間くささ的指標」も存在しないからです.
私は,「サイエンスを生業とする人」で,かつ,「養老ファン」な人というのが,いったい何人存在するのか,ということに興味があります.
そして,これに対する私の予想は,ほとんど皆無ではないか,ということです.

何がいいたいかというと,養老先生というのは「サイエンスの世界における独特のものの見方を,サイエンスのことをよく知らない人たちに分かりやすく教える能力に長けた人」ではないかと思うのです.
たぶん,それ以上でもそれ以下でもない.
分かりにくいことを分かりやすく説明する方法は,無限にあると思われます.
いわゆる「養老節」と呼ばれるたぐいのものは,その方法のうちの一つではないか.
その意味では,養老先生とは,カリスマ予備校講師の一類型だとも言えるわけです(ただ,予備校講師は,教える内容が大学入試の出題範囲に限定されていますが,養老先生の場合は,この範囲を「サイエンスが扱うもの全体」,ともすればそれを越えて,「人間が扱うもの全体」と捉えられますので,その点では予備校講師と異なりますが).

内田先生は,理系(サイエンス)の人がする話の多くはわくわくする,という旨のことを語っておられますが,内田先生が養老先生の話を凄いと思っておられるのも,おそらく,このあたりに(それがなぜなのかの)答えが宿っているような気がしています.

個人的には,ここ十年で「物書き」と呼ばれる人たちのなかに,理系の人が随分と増えてきたなぁというのが私の印象ですが,この背景には,次のようなことがあると考えています;
国からの研究資金の配分がより競争的になったため,理系の研究者は,「いかに自分の研究がすぐれたものであるか」を以前以上にアピールする必要に迫られることになった.このため,「それができなかった研究者」は淘汰され,「それができた研究者」が生き残った.
次に,「それができた研究者」らのうち,一部の人は,その「より分かりやすく説明するための方法」が,サイエンスを専門としない人たちに対する啓蒙の方法として,そのまま役立てることができることに気づいた.
だから理系の物書きが増えた,と.

で,もとに戻りますが,養老先生は,この文脈において,「理系の物書き」という職種(?)を切り開かれた人だと言うことができるでしょう(多分w)(養老先生の前にも理系の物書きはいたが,メジャーではなかったと思う).


> 論理的思考の持ち主で内田先生を好きな方でも養老嫌いは存在する
私自身は,このほりさんの分析の文脈における「内田好きではあるが養老好きでない」人には該当しないと思っています.
理由は,私が養老先生の言説に感動しない(「特に感動する」ということがない)理由が,ほりさんが言われているものと違うからです.
あくまでこれは私の感性上の判断ですが,養老先生の文章は,「その他大勢の物書きたち」の文章と同程度にしか,その感動の度合においてヒットしません.
「そんなん当たり前やん.当たり前のことを言い換えただけやん.なんにも嬉しくない.」というのが,正直な感想なのです.

「すでに誰かが言ってることを,言い換えてみた」

その,たまたま「言い換えてみた」ことが,な・ぜ・か,非常に多くの読者をゲットするに至った.そうことだと思っています(笑)
(と,当たり障りのなさそうなところに落としてみるw)
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Unknown (heisan)
2007-05-16 00:18:09
> 江戸時代に鎖国をしたのはだからだ
以前,一種平和な国(一定の秩序を恒常的に維持することがシステム上保証されているような国)の多くは,近隣の凶暴な国にすぐ滅ぼされて終わる,だからそういう国は長続きしない,というような話をしましたが,その意味で言えば,江戸時代の日本というのは,島国であるがゆえに,「近隣」に当たるものを封鎖する仕組みを整えるのに容易だった,だから当時の日本は鎖国という体制を取ることで,取り敢えず何百年かは乗り切れた,ということかもしれませんね.


> 「世界観を広げるための鵜呑み」じゃないところに問題がある
> 試験のために最低限の勉強をする
> 暗記のための参考書
要するに「一夜漬け」のための勉強ですね.
一夜漬けで本当に理解してしまうひとも,ごくごく稀にいますが,たいていは,単に試験の構造的欠陥をうまく突く形で乗り切っているだけです(スタートからゴールまで行く過程において,本来踏まなければならない地雷を踏むことなく,そういう地雷をサササといかにかわすかということに精を出すひとたち).
本気で勉強というものをしようと思えば,「時間をかけることを厭わない」精神が絶対に必要です.その精神のあるなしが,「いい鵜呑み」と「悪い鵜呑み」を分ける基準となるかと思います.


> 極めて人間くさい人
私は彼のこの「人間くささ」については,彼の文章が多かれ少なかれ「漢文的音韻」にのっとっていることによるではないかと考えています.
白川老師を仰ぎ見てられることからも分かりますが,現在,「漢文の素養があることがありありと分かる文章」を書く人は本当に少なくなってしまいました.
内田先生の文章は,「100%バリバリ漢文的」とまではいきませんが,「20%くらいの頻度でときどき漢文っぽい音調が見え隠れする」文章なのですね.
100%ではないんですけども.でも20%でもあっても,現在という時代にあっては大変な絶滅危惧種だと私は思っています(笑).
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内田先生と養老先生 (ほり(管理人))
2007-05-15 21:06:21
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>「かつて重宝された職人の技が,科学技術的なものの発達により,急激に無価値化する」という構造.

「システム」が大きなモノになればなるほど、こうなる。「職人」は、「個」として存在する「感覚」世界の住人ですが、「感覚」の鈍い人も生きていけるのが完成された「システム」。文明はそれを目指していたわけ、ということですね。だから人類はここまで繁栄した。

>おそらく,技術・文明の発達にあっては,人間全体を幸せにするための均衡点なるものが存在すると思うのですね(私の仮説).

養老先生は、江戸時代に鎖国をしたのはだからだ、といってます。というか、日本は、そーゆー状況にさしかかると、遣唐使を廃止したりなど、情報の流入を管理して「幸せ」を守ったって。

>「鵜呑み」というと言葉が悪すぎますが,基本的には,鵜呑みをせざるを得ないところもあるかなぁと思います.

その通りなのですが、「世界観を広げるための鵜呑み」じゃないところに問題があると思うのです。「矮小化された目的のための鵜呑み」、試験のために最低限の勉強をする、などのような感じの鵜呑みであるのは問題。より高度なモノを目指した鵜呑みなら、良いんだけれど。
うまく伝わらないかもしれませんが、前に書いた「ごまかし勉強」の本にあるように、参考書の質が変わったのが、その典型的な現れでしょう。「より詳しく、より深い説明のための参考書」が、「暗記のための参考書」に変わった。勉強の仕方が、「より多くのことを学ぶことで基本を獲得する」のではなく、「基本だけを基本として習得する」勉強法に変わったのです。私はそれを「鵜呑み」と表現しました。(ある意味、ゆとり教育で基本を重視しようとしたことの弊害ですね。)

>(だから学校教師がこの言説に振り回されすぎるのは,学校教師に責任を転嫁したがっている人たちの思うつぼですので,それは社会全体という視点からみてもあまりよろしいこととは思われませんので,振り回されすぎないようにしてもらいたいものです^^).

どうも。(笑)
そういえば、昔は、「より良い暮らしを獲得するための学歴」など、目的がはっきりしていただけですね。

># 余談ですが,私は,内田先生ほどの「怖るべき説得力」を繰り出される方がなぜ養老論の前にはあえなく屈されてしまうのかが全く理解できない…(今後の私のテーマかも)

私の推論ですが、内田先生は、非常に論理的なだけでなく、かなり「感覚」を重視できる人で、しかもそれを文章を通して表現することも出来る方です。で、普通の感覚の人は、これを素直に享受するのです。で、惹かれる。内田先生の「人柄」などとして、「論理」を「当たりが柔らかい」というか、「さわり心地が良い」みたいな感じで受け取る。論理というか抽象も重要な彼の特性ですから、内田先生は、本当によくバランスが取れていると思います。で、かつ、極めて人間くさい人だと思います。

一方、養老先生は、その点かなりクールに見えますね。で、抽象思考傾向がものすごく強い。しかも、たぶん、突き抜けていますよ。これは「ふつー」じゃない。で、その点で、一般人の感覚と相当に外れた側面を持っているのです。だから、一般的な(というか、正常な)感覚の持ち主の方の中には、養老先生を嫌う方が大勢見える。(養老先生に対する反感には、「人間としてどうかと思う」みたいな感想がよくあるはずです。)で、養老先生の「感覚世界」は、解剖とか虫に向いている。一方、内田先生は、「感覚世界」を「人間」に開いているのですよ。だから、目を向けられた人間(つまり、読者)は内田先生には、好感、親近感を感じることができるのです。その点、養老先生は、そういう読者に温かく(?)目を向けないから、論理的思考の持ち主で内田先生を好きな方でも養老嫌いは存在する。

で、内田先生の抽象思考力も、これまた並はずれているのですよ。
でも、まあ、私は、抽象思考方向性の観点では、養老先生の方がダントツ上で、内田先生を遙かに突き抜けていると思いますよ。
養老先生の抽象化能力は絶対に「ふつー」じゃないよ。もう、「ふつーじゃない」としか言えないほどふつーじゃない。全然関係なさそうなことをくっつける能力が凄い。(だから、疎まれる。)でも、私は、そういう発想、何となくわかるんです。で、なるほどと感心するのですよ。で、たぶん、内田先生、もちろん、私以上に養老先生の発想に教えられているのだと思いますよ。

ただ、養老先生は、それを身も蓋もない言い方で表現したりするし、どこそこ構わず言いたい放題の言葉遣いで言うから、理解されないことも多く、嫌われる。(たぶん、内田先生は、公(読者の目に触れる)の場では、そんなに言いたい放題してないと思う。)
でも、内田先生は、まあ、上記に書いたような風で養老先生の抽象思考力を高く評価するから養老先生に屈するのではないでしょうか。

それと、内田先生の方が「読者にフレンドリー」ってことだと思います。特に文体が、「来る者拒まず、とにかく、歓迎する」って感じが強い。
養老先生の文体は、その点、ちょっと違う。「分かってくれる人に分かってもらえればいい。来ても特に歓迎しない」みたいに読める部分がある。
ただ、これ、あくまでも、「文体」の違いです。

養老先生にサインを貰ったとき、とても気さくで、ちゃんとそこそこ相手してくれたのには驚きましたよ。まあ、一流のというか、人気者的な人は、皆そういうところがあると思います。養老先生は、売れて、そう言う良い方向が強くなったという感じもあるかな、という気もしますが。(10年ほど前?昔の「脳と心」だっけ?NHKスペシャルで、樹林さんとの会話、そっけなかったりしたからなぁ。。)

↑私の推論です。いかがでしょうか?
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Unknown (heisan)
2007-05-15 01:41:58
> 便利で気楽な暮らしは、感情の動きが凡庸になるというか、起伏が減るというか、動きの幅が小さくなるように思うのです。
その気持ちは分かりますよ.
天気予報のおかげで,私たちは,明日の天気の情報を以前より高い精度で知ることができるようになりましたが,同時に,「明日の天気を予想するための職人芸的な勘」を培う需要は激減し,そういうことができる人はほとんどいなくなってしまいました.
こういった構造は,私たちの社会の中にはどこにでも見いだすことができますね.
「かつて重宝された職人の技が,科学技術的なものの発達により,急激に無価値化する」という構造.
そして,そのようにして「経済的には無価値化したかつての技」は,伝統の技としてのみ(非経済的な価値においてのみ),ほそぼそと生き残り続ける,か,或いは滅ぶ,わけですね.

この構造を否定したかったら文化を変えないといけない.
「便利さを敢えて抑制する社会」というのは,かつて(江戸時代くらい)の日本社会にはたしかに存在していた文化の一つでしょう(例:籠なんて乗り物は,エネルギー効率という観点からすれば非常に非効率ですが,それでも,その非効率性に江戸時代の人は意義を見いだしていた,それを効率的にすることによって失われるものがあることに気づいていた,というような話を聞いたことがあります(うろ覚えですが).).
でもそういう文化は,西欧文化の取り入れにより端へ追いやられることとなった.

どっちがいいかは一長一短です.
古来の日本文化的考え方をしていると,技術や文明は発達しない.
# 江戸時代に備中鍬が発明されましたが,あれだって,「そんなものを使っていたんでは人間がナマる!」と言い出す偉い人が居て,使用禁止されていたりしたらどうなっていたでしょう.

おそらく,技術・文明の発達にあっては,人間全体を幸せにするための均衡点なるものが存在すると思うのですね(私の仮説).
なんでもかんでも,技術・文明が発達すればいいというわけではない.
しかし,だからといって,そういったものを全く否定してしまうのもまた,人間の初段階の営みをもろとも否定してしまうようで,気が引ける(「火の使用」など道具の使用は,人間の最も初期における技術・文明であろう).


> 「ハレ」と「ケ」の違いがさほどなくなりました。
典型例は,昼夜の区別を無くした24時間営業の店の出現ですかね.


> 密度の濃い人生は、なんだかんだ、その人がどれだけ心を動かしたかではないのかなと思うんです。
ごもっともです.
私が前回,「赤ん坊がまず知るべきことは,『自分は感動する事ができるんだ』ということを体感する事だ」といいましたが,まさにこれがほりさんの言われることに相当すると思います.


> 学校の授業は、「これを覚えれば試験が出来る」に近いものになってます。これは既成の価値観を鵜呑みにすることです。
私は色々なところで「意味とか言葉とかを習得する初段階には,意味の分からない文章を素読する(又は素読に相当することをする)過程が必ず存在し,それが決定的に重要である」ということを言っていますが,これは換言すれば,「学校とは,子どもを『既成の価値観にただひたすら素読的に親しませる』ための場所である」とも言えるわけですよね.
「鵜呑み」というと言葉が悪すぎますが,基本的には,鵜呑みをせざるを得ないところもあるかなぁと思います.
「鵜呑みをしているうちに,段々とその意味がわかってくる」と言えばよろしいでしょうか.

いや,ほりさんの言われる事も分かりますよ(笑).
匙加減が難しいんですよねぇ~.


> 「わからない」から「わかる感動」があるのに、「分からないのはいけない」という価値観まで生じている。
内田先生が,「読むほどに味わいが出る文章が,入試で採択されやすい文章である」旨を述べておられますが,私はこれは授業についても当てはまるのではないかと思うんですね.
良い授業とは,どんな習熟度レベルの人が聴いていても,一人一人がそれなりに収穫を得るような授業(口で言うのはたやすいが実際は難しい…).


> だから、「何のために勉強するの?」と問う子が増えたと。
私は,「何のために勉強するの?」と言う子が増えたという言説を信用していません(笑).
これは,「学校教師に責任がある」という説を正当化するために,ある種の大人が勝手に考えた話に過ぎない,と思っています(だから学校教師がこの言説に振り回されすぎるのは,学校教師に責任を転嫁したがっている人たちの思うつぼですので,それは社会全体という視点からみてもあまりよろしいこととは思われませんので,振り回されすぎないようにしてもらいたいものです^^).


> 私は「唯脳論」に惹かれたのです。
唯脳論は,私は「間違っている」とは言いませんが,(少なくとも私は)大して感動しませんでした.
また,知り合いの哲学屋曰く「唯脳論は哲学的に問題がある」そうです.
なんで感動しないのかは,ほとんど感性の問題なので分かりませんが,「惹かれちゃう人」と「惹かれない人」がほどよい割合で混ざっていて,その割合を安定に維持できる社会が,理想的な社会の類型だと思っていますので,「自分がそれに感動しないこと」も「それに感動しちゃう人が大勢いること」も,それほど問題視はしていません.
# 余談ですが,私は,内田先生ほどの「怖るべき説得力」を繰り出される方がなぜ養老論の前にはあえなく屈されてしまうのかが全く理解できない…(今後の私のテーマかも)
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発見という感動 (ほり(管理人))
2007-05-14 23:11:39
heisanさん、コメントをありがとうございます。

>将来に見るであろう(自分は未だ知らない)目的のために,無駄(今は意味の分からないこと)をするのだと.

良い考えですね。
私は、勉強をする理由を、「これから出会う見知らぬ人のためにするんだよ」と言うことにしています。「将来、どんな人に会うか分からないのだから、今、勉強ができるうちにしっかりしておきなさい」って。大抵の子は、「自分のために勉強をする」と言うので、そうでもないよ、と。それで、「そういう考え方の人が多い社会の方が暮らしやすいでしょ」って。

># おおっ,これで「学校教育の目的」が担保できた(嬉

賛同!

>便利になると感動しなくなる?

私は、そう思っています。
で、私の言う「感動」ってのは、「当たり前に思わないこと」とか、「カラダを使ってハアハア、ゼイゼイ身を以て感じること」、「何らかの発見があること」などなど「心が動くこと」で、日常生活上のことです。「笑う喜び」だけではなくて。当然泣くことだってある。

便利で気楽な暮らしは、感情の動きが凡庸になるというか、起伏が減るというか、動きの幅が小さくなるように思うのです。
都会の生活は、五感全てで感じる刺激の種類も少ないし、大抵のことに予測が付きます。その分、心は動かなくなる。
天気予報が良く当たるようになって、「あ、雨だ。傘持ってないなぁ。しまった。」とかも減りました。そんな感じ。
便利で良いんだけれど、もちろん、だから不便さが欲しい、不便な昔の方が良かったとは言いませんが。
で、人間は、そういう便利さ、変化のなさを求めて文明を発展させてきたのだけど。まあ、矛盾。

「ハレ」と「ケ」の違いがさほどなくなりました。毎日が「お祭り」のような日常では、感動も少ないんじゃないかなと思うんですよ。
ケーキも日常、おしゃれも日常、毎日がご馳走の生活が「当たり前」で特別嬉しいことでもなんでもなくなってしまっている。「ない」という不足だけは増えているかもしれない。でも、それが喜びを生む原動力になっているとは思えない。だから、生活が平板になって、喜びも小さくなっているんじゃないのかなって。

「ハレ」は、「今日は特別」だってことだと思います。が、豊かになって、「特別」がなくなっているから、その分、感動も減ったのではないかとか。

密度の濃い人生は、なんだかんだ、その人がどれだけ心を動かしたかではないのかなと思うんです。人からの見た目が劇的でなくて構わないのです。そんなのは、全く次元の異なることで、その人が何を感じ、何を発見したかが大事ではないかというか。(で、私は「唯脳論」に惹かれたのです。)

学校の授業は、「これを覚えれば試験が出来る」に近いものになってます。これは既成の価値観を鵜呑みにすることです。「これとこれがこんな風に繋がるんだ」という世界観の変化が乏しい教え方になっている、或いは、疑問を持たせない教え方というか。「わかりやすく」も同じでしょう。「わからない」から「わかる感動」があるのに、「分からないのはいけない」という価値観まで生じている。その分、「発見の感動」「なるほど!と思える感動」が減る。だから、「何のために勉強するの?」と問う子が増えたと。(そういう内容を含めて書きかけの長文記事、1万字を越えたのがUP出来ずにあるんだけど。でも、まだ書きかけだし。笑)

私の言う「感動」は、「発見の喜び」「知らないことを知る喜び」「世界観が広がる喜び」って感じなのかな。で、これには時に「知ることの苦しさ」も含まれると思っています。

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Unknown (heisan)
2007-05-13 23:35:44
「人格の陶冶」って言うと,人によって思い浮かべるイメージにズレが出てきてしまいますね.
なんて言ったらいいでしょう.
一つの言い方は,以前も言いましたように,「(我々の生活を少なくとも今のところ幸せにしてくれている)文化の継承である」ということなのですが,これはあまりにも客観的すぎる見方なので,主観的にはどう言ったらいいかを考えてみましょう.

こういうのはどうでしょうか.
将来に見るであろう(自分は未だ知らない)目的のために,無駄(今は意味の分からないこと)をするのだと.
もし,「意味の分からないことをすることをことごとく拒否する」非常に合理的な生徒が出てきた場合は,こう言ってやると良いでしょう.
「あなたは,自分の人生の目的を全て精確に知っているのですか? おそらく,知らないでしょう.であれば,あなたは,『現在意味が分からないことをことごとく拒否する』ことはできないはずです」
# おおっ,これで「学校教育の目的」が担保できた(嬉


> 勉強に感動がなくなってきた
> 人生に「感動」が薄くなっている現れ

感動が薄くなるっていうのは,どうなんでしょう?
昔はそんなに感動してたんでしょうか?
便利になると感動しなくなる?
なんか違う気がします.

・・・.
感動している人がそばにいない?(笑)
大人が,日々感動して生きていれば,勉強とかの内容に「おおおおっ!」ていうぐらい感動していれば,子どもも自然にそれを真似て,感動してくれるようになるのでは?(笑)

小さな子ども(児童・幼児)を前にすると,自然とほほえんでしまいますが(例:赤ん坊を前にすると,イナイイナイバァをやりたくなる心境),これは,「子どもがまず知るべき事は,この世は感動に値する(笑うに値する)ということを知ることだ」という前提を,どんな大人も共有して持っているからではないでしょうか.
確かに,大人になると,その状況性から,幼児や児童であった頃ほどは感動しにくくなっていきますが,それでもやはり「『感動』というものを失うと全てが崩れてしまう」という認識は大人はどこかでもっていて,だからこそ,子どもにはまずそのことを教えてあげようとするのだと思います.
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目先の利益 (ほり(管理人))
2007-05-13 22:49:54
heisanさん、いつもコメントをありがとうございます。

>一所懸命やってるのにできない,これが難しい(どう成績をつけたらいいか)

それから、「なにもしないのにできる」のも、ちょっと付けにくいものでしょうか。(笑)ま、できるんだから良い成績を付ければ良いんだけど、その子の性格が悪かったりすると、他の子が自分は出来もしないのに真似だけしてイヤになるときがありますよ。

いわゆる「平常点」を付け始めた理由に、heisanさんがおっしゃる「一所懸命やってるのにできない,これが難しい」これがあるのでしょうね。

で、実際、その一所懸命を認めるようになった。ノート点や挙手点、というヤツです。

でもね、目先のことなんですよ、こんなの全部。heisanさんの先生は、非常に温かい方だったのでしょう。だから、目の前にいる生徒を見やると蔑ろに出来ないということになる。少しの努力も認めてやりたくなる。多くの先生は普通みんなそうだと思います。

でも、学校の目的は、そんな目先の成績じゃないんですよ。「定期テストで良い点を取ること」「通知簿が上がること」でもないんです。模試で良い点を取ることでもなく、より良い大学にはいることでもない。
うん。そう。
学校教育の「目的」は、あくまでも人格の陶冶にあるわけで、学習を通してそれをすればいい。努力を認めることが「人格の陶冶に繋がる」ってワケじゃないと思うけどなぁ。。

それから、もう一つ思うのは、勉強に感動がなくなってきたことでしょう。だから、成績など、目先の結果だけにしか「目的」を見いだせない。勉強や授業が面白かったら、まあ、「過程」が面白かったら、成績なんて結果は比較的どうでもよくなる。たとえ上がらなくても、それはそれで仕方がないと自分で納得できるものでしょう。

こう言ったことも、何でもかんでも便利になった生活と人生に「感動」が薄くなっている現れでしょうね。「結果」にしか見いだせるモノがないなんて、寂しいですよね。

>> 「限界まで到達するまでやり切った」利点
>「おじさん的あきらめ」という心的境地に至れるという利点w

そうか。私は高校生にして既におばさんでもなく「おじさん」だったのか。(笑)

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Unknown (heisan)
2007-05-13 16:44:11
いつも楽しく拝読しています.

私の昔の先生はこう言ってられました.

 一所懸命やらなくてできない場合,成績をつけるのは簡単.
 一所懸命やってできた場合も簡単
 一所懸命やってるのにできない,これが難しい(どう成績をつけたらいいか)

と,つねづね言われていました.

「やれば伸びる」「やらないと伸びない」というのは,教育業界を貫く原則であります.
まただからこそ,これに矛盾する症例(例:一所懸命やってるのにできない)にぶつかるたびに,教育に携わる者は深く悩むのであります(笑).


> もともと親から貰った能力がその程度なのだから仕方ないのである
内田先生は,基本的に非常に合理的な考え方をする先生だと思っていますが,例外があります.
それは,「なんで勉強しなくちゃいけないのか」「なんで仕事をしなくちゃいけないのか」「なんで言葉を使って,我々はこのような日常生活を送っているのか」というようなことに関しては,合理的に考えても私たちはあまり幸せにはなれなくて,「それは,我々の先人たちがそうやってきたからだよ」という非合理性におとなしく服従するほうが結果的に幸せになれる,ということをおっしゃってられると思うんですね(あくまで私の理解).

私は,この種の非合理性がどこから発露するのか,ということに興味があって,それの一つは「親の持つ性質の多くを子は受け継ぐ」という原則をほとんどの人が信じていることに由来するのではないかと思うんですね.
王家とか皇室とかいうところは,世襲が原則ですが,これの正当性を担保する論理は,(1)現状の王家制度を維持したい,(2)現在の王の性質を最もよく引き継ぐのはその子である,という2点に集約されると思います.
(話は逸れますが)このとき,その子の性質は「王の持つ王家制度を維持するための性質を良い方向へ改善することがない」と判断されれば,初代の王が一番輝いていて,その後は多かれ少なかれ滅びるばかりだ,的な末法思想的な論法になっていくのかなと思います(適当).


> 「限界まで到達するまでやり切った」利点
「おじさん的あきらめ」という心的境地に至れるという利点w


>「無駄」は「目的」と対になる考え方
特定の目的のために無駄をじゃんじゃん減らすっていう考えは,基本的にはいいと思うのですが,その特定の目的が達成されたあとのことを考えていないと,無駄は本当に無駄になり,燃え尽き症候群的になってしまうと思うのですね.
目的の先にはさらにまた目的があり,という,連鎖的に目的が存在する構造を仮定する限り(これはわれわれの人生の一種のモデル化ですが),「かつての目的における"無駄"は,いまの目的における"無駄でない"」という命題を真実化する可能性が,つねに開かれているわけです.
逆に言えば,「無駄はしょせん無駄でしかない」と考えてしまう人間は,知らないうちに,「連鎖的に目的が存在する構造」は存在しない(誤解を恐れずに言えば,一つとかごく少数の目的しか見えていない.)と仮定していることになりますね.
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