考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

目に見えない構造

2010年06月03日 | 教育
 内田先生ブログが渋滞していて、全然、読めない。
 先日、かろうじて繋がったときの記事はとても示唆に富むと思った。私は政治問題という具体として読んだのでない。
 記事の内容は、日本が対外的な問題が上手くいかないのは全て首相が悪いせいだから、首さえすげ替えれば上手くいくという幻想を抱いている。これは、自国が軍事的属国であることを決して触れてはならない、無意識に押し込めているという構造的な問題ゆえだ、とかいうものである。

 「見たくない、内部に潜む構造的な問題を人は直視しようとしない」というのを私は面白いと思った。
 近頃、どうやら先生の授業が下手だからいけない、先生はもっと授業をちゃんとやれ、という考えを持つ人が多い。この理由がわかった気がした。

 単純な理由である。

 自分のアタマの悪さ、あるいは、自分の子供のアタマの悪さを直視したくない、ということである。
 ただし、ここで言う「アタマの悪さ」は、後に定義する。(←この文、重要。)

 さて、自分のアタマの悪さとは逆に、多くの人がじっと目を向け、決して無視することがないのが、先生が行う授業である。
 授業が上手い先生は、大抵、実習生のときから上手い。(ちなみに、私は、高校教育を頭に置いて書いている。)それで、授業の上手い実習生は、大抵、そうとう頭が良いので、私が知る分だが、授業が上手い実習生は、そもそも教員になんかならないのである。(もっと高い能力を必要とする仕事に就く。)で、大して上手でもない学生が先生になるのである。世の中、そんなものである。でないと、回らない。そんなこんなで、下手な人は、いつまで経っても下手である。
 授業は才能である。そう上手くなるものでない。しかし、「経験」を積むと、生徒がどこで間違えやすいか、などの「コツ」は十分にわかってくる。この観点において、必ず「授業が上手くなる」。しかし、「うむ、この先生、上手いなぁ」という上手さは、努力とか何とかの問題ではないように感じる、うん。
 よって、ほりの結論としては、授業が下手な先生に授業を上手くやることを早急に望むのは、そもそもが不可能を可能にせよ、という無理な願いである。その先生が、経験を積んで少しは「マシ」になるのを待つしかない。しかし、その頃には、もう、とっくに卒業して、みんな、いい大人になっているはずだ。
 しかし、教員の中にも、「努力すればうまくなる。私は上手くなった」などと言う人がいる。ほとんどは、他にいる下手な人たちの中で自分が非常に優秀であることをアピールしているのである。掃きだめの中の鶴のうま味を感じているはずだ。しかし、他の人も自分と同じように努力できる素質を持っていると勘違いしている場合もある。それで、周りに要求をする。悪気が全くないだけに始末に負えない。本人も気の毒だが、周りも気の毒である。

 ↑上記、「無責任だ」「ちゃんと仕事しろ」等、反論は大いにあるだろうが、ここに記しているのは、ほり個人が見聞きした感想に過ぎない。

 それで、学校の授業について、「あの先生の授業は、聞いてもわからない」と言う生徒は、大抵、自分の能力の高め方を知らない生徒で、アタマが良くない生徒である。

 「アタマが良くない生徒」とは、自分で自分の能力を高めることを知らない生徒である。これが、「アタマが良くない生徒」の定義である。

 ここ、間違えやすいと思うので、注意していただきたいが、アタマが良くない「から」自分の能力の高め方を知らない、のでは断じてない。あくまでも、「自分の能力の高め方を知らないということが、アタマの良くないという事実を表す」のである。

 構造的な観点で言うと、誰しもが無視しているのが、「自分で自分の能力を高める重要性」だということだ。これをすっかり忘れてしまって、「私が授業がわからないのは授業が悪いせいだ、先生が悪いせいである」と言う。

 近年授業をしていて強く感じるのが、生徒の多くは「自分で自分の能力を如何に高めるか」に関心がないことである。大人の方でも、同じではないかと思う。「教えてもらえればわかる、できるようになる」という思い込みが強いのである。
 そういう人たちには「教えて貰って、確かにわかるようになったし、できるようになった」という経験があるのだろうと思う。その際の方策は、「言われるとおりに、ちゃんとやる」だろう。しかし、その際、「自分で考える」ということはあまりしていないはずである。

 先日、テレビを見てすごいなと思った。野村が「素人に教えるなんてなぁ」とぼやきながら、バッティングを教えていた。打てない女性アナウンサーが、言われたとおりにちょっと構えを変えた。ただそれだけで、球をパーンと打つことができたのである。本人も驚いている。これを、教え上手というのだろう。さすが、一流の人である。それまでつゆ考えてなかったのにもかかわらず、瞬間的に「コツ」を思いついて実践させたわけだ。
 しかし、気を付けるべきは、「コツ」を考えついたのは野村であって、女性アナウンサーではないことだ。当たり前だと言われそうだが、彼女は、言われるままにやっただけである。確かに球は打てるようになったが、私が思うのは、彼女は、その後で自分で更に打てるようにはなるだろうか、という疑問だ。きっと、それ以上に打てるようにならないはずだ。生徒を見ていると、そう、思う。もっとも、ずっと野村の指導を受け続けることができるならどうだかわからない。一流の指導者である場合には、やがて自分自身にも「感性」が育ってくることあるだろうからだ。しかし、よほどでない限り、感性を育てるところまで行かない。今の子供たちは、中途半端なその場限りの指導の犠牲になっているように思う。言われるままにやっただけで、教える方も、ただ、言われるままにやれと言っているだけだ。できるようになっても、それは、自分自身の努力や能力の向上ゆえでないからだ。

 「やっぱり、先生がちゃんと授業をしなかったらわかるようになったりできるようになったりしないよ」と言う人は、己の能力を高める能力や感性を持たなかったり、自分自身にそのような力を持つ素質があることを知らなかったりする人である。
 気の毒である。
 
 教育において最も大事なのは、自分で自分の能力を向上させる力を持たせることである。しかし、この力の育成は、当の本人や周りで見ている人間には、非常にまどろっこしく、時間がかかり、労力がかかり、効率が悪く、自分でも何が何だかわからないことが多々あると言うことである。
 もし、自分が、そのような状況になって、耐えられるだろうか? かなり多くの人は、イヤになって止めてしまうだろう。
 私は、そのツケが今来ているのだと思う。
 特に小学校での授業時間が減ったことで、上記のまどろっこしい一見無駄に見える勉強ができなくなった。時間に追われ、先生たちも、野村のような指導を求め、小さな子供たちも親たちも、それが良い指導であると思うようになった。そうした経験しか積んでない子供たちが高校に入学してくる。彼らは、気の毒に、自分で自分の能力を高める力をほぼ全く付けずに入学しているのである。

 しかし、教育のあり方が、いつまで「野村方式」でやれるだろうか? 高校まで? 大学に入ってからも? そのままの学習方法で大学に入った生徒が、「授業でやってないことを試験に出すとはひどい」と東大で言うことになる。社会人になって、それで通用するのだろうか?
 高校生になっても、「わからないのは先生のせいだ」と言っている限り、それで、周りの大人がその「言い訳」を後押しするかのように、「先生だったら、ちゃんとわかりやすく、わかるように授業をしろ。それが仕事だろ。」と言っている限り、日本の子供たちは、「自分で自分の能力を高める」ことができず、自分の人生を切り開く能力を持たず、何でも人のせいにして自分の人生を受け容れることができないまま、面白くもない人生をすごすことになるだろう。
 
 学校の先生は、はやりの「野村方式教授法」の追求を止めたらどうだろうか? どうせ野村ほどの一流にはなれっこないんだし、やってもそもそも「付け焼き刃」にずぎないわけだから真価はないのである。そのくらいなら、生徒自身が自分で自分能力を高めさせる方法をじっくりと教えてやったら、どうか。おそらくこの能力の育成は、高校時代しか残されていないはずだ。
 子供たちと保護者は、わからないのを先生や学校のせいにするのを止めたらどうだろうか? じっくりと自分自身のアタマの悪さと向き合い、教科書を読み、辞書を引き、解答を当てにせず、悩み苦しむことである。仕方がない、わからなかったりできなかったりするのは、誰のせいでもなく、ひとえに自分の能力が不足しているからである。授業を受けながらも、先生を当てにしてはいけないのである。一見矛盾に満ちているように思われようが、これこそが教育的観点における真髄である。
 
 こうした思考法の転換は、かなり困難であると思う。今まで経験してきた教育の種類と全く相反するものだからだ。しかし、自分で自分の能力を高める能力は、心のどこかで自分がバカだからだと思って、時間をかけ、悩み苦しまなければ決して身につかないのである。子供たちは、この能力なくして自分の人生を歩むことはできない。勉強が本当にできるようになることは勿論ないし(←「点数が取れない」と言う意味ではない。)、自分で考えることのできない人間になる。遠く長い人生において、自分でなぜかわからないままどういうわけか上手くいかない事態に陥り、不満だらけの毎日を送る羽目になるのが落ちである。

 さて、あなたは何を望みますか?

4 コメント

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Unknown (スマイル)
2010-06-04 07:16:30
ほり先生自身にどんな定義があっても、生徒のことを「あたまが悪い」と表現する、その無神経さにあなたの教師としての資質が問われます。
自分自身をどう捉え、生徒や保護者をどう捉えながら教師をしているのかは、その言動に表れ出るものです。

どんなに理屈があっていて、理論正しく書こうとも、あなたの教師としての資質は???????です。

そこが、本当は一番大切な部分である。
 (ほり(管理人))
2010-06-04 22:34:10
「アタマが悪い」のが、そんなに悪いことなのでしょうか?
アインシュタインだって、ニュートンだって、アタマは悪いんですよ。(記事があるはず。)
誰だって、人はアタマが悪いんです。その真実から目を背けて賢くなることはできません。
賢くなる生徒は、自分の愚かさやアタマの悪さを知っている生徒です。

私は、努力をしないほうがずっといけないように思うのですが。。。

勉強ができない生徒の非常に多くは、「自分のアタマは悪くない、自分はアタマが良い」あるいは、「自分はちゃんとわかる」と思っていることです。うぬぼれているんです。これがいけない。

ところで、このブログは、ほりの教員としての資質を問うためのものではありません。
教員の資質について言いたいことがあるのでしたら、どこかご自分のスペースで自説を展開してください。
はじめまして、かな? (みっふぃ)
2010-06-07 00:33:04
かなり前からブログ読ませていただいています。今回、多分、初めてのコメントです(「覚えよう!」とかなり意識しないと覚えていられないたちなんです・・・)


この記事を読んで、「そうだよなぁ」とか「なるほど」とか思い、「なんとなく←(この気持ちが上手く表現できないんです)」コメントしたくなったので書きます。

私自身、「頭が悪い」とは自分で言いませんが(あまりに自虐的かな、と)、「仕事ができない」から、なんとか人並みにできるように努力している、と同僚によく話します。

「なぜできないのか」の原因を知り、それが自分の苦手な部分であれば、それを補う方法を考え、やってみる、それでだめなら、また別の方法を・・・・


自分を成長させるためには、まず「自分のこと」をよく知ること。そして、良い部分は大事にし、伸ばせるなら伸ばし、弱点は克服、もしくは得意なことでカバーしていけばいいのかな、と今は考えています。


先生の授業が下手でも、生徒自身が「なんとか理解したい、わかりたい!」と思えれば、先生に食い下がって教えてもらおうとするのかな。



あまり変な文章にならないよう、何度も読み返し、書いたつもりですが、わかりにくい(誤解を招くような)文章でしたら、すみません・・・
お久しぶりですよ、確か。 (ほり(管理人))
2010-06-07 00:52:01
みっふぃさん、コメントをありがとうございます。

いつだったか、どこでだったか覚えてませんが、一度はコメントを戴いてます♪ うん。
意外な感じのHNだったから、記憶に残ってます。(ブログも、拝見したことあります。)

>自分を成長させるためには、まず「自分のこと」をよく知ること。

そうそう、ホントに、そうです。そういう「目」を持たないことに、成長しません。

>やってみる、それでだめなら、また別の方法を・・・・

こういう試行錯誤も大事です。それが、その子、その人を作り上げていくものだと思います。
でも、イマドキは、「最初に結論ありき」を良しとするから、成長に繋がらない。うろうろすることを無駄だと見なす。
人生の結果なんて、あるわけないのに、変です。

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