考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

村上春樹がわからない理由

2012年10月14日 | 教育
 私は村上春樹の読者ではない。(あらら。)しかし、村上作品のいくつか、ごく少数には目を通している。「読んでいる」とは言わない。----だって、わかんないんだもの。
 「わかんない」から、村上春樹がどういうものかを考える。「なぜ、私はわからないのか?」から見つかるヒントや答えだって、ありそうではないか。
 読み直してから書こうかとも思ったが、記憶にあるもので書く方が「わからない」ことがわかる気がする(という無責任な論です。)

 たぶん、内田先生の何かで知った気がするけど、村上春樹批判は土俗性の乏しさに向けられるらしい。(たしか、そんな内容だったような気がする。)ならば、ことのほか普遍性を併せ持ち、世界的な文学としての地位を築いて当然で、事実そうだ。
 
 思うに、村上文学は、きわめて象徴性と抽象性が高いのだろう。(もし、その通りだったら、「当たり前のことを書くな」と言われそうだなぁ。)
 非常に抽象的に、母なるものを語り(たぶん)、個としての人間を語り、世界を語るのだろう。私が感じる抽象性は、一つは、登場人物が「鼠」とか、私にとっては得体の知れないものとして描かれていることだ。
 
 なんてことのない人には、なぜここで引っかかるのかわからないだろうけれど、私は十分な読み手ではないから、この段階ですぐに「パス」してしまいたくなる。「青豆」なんて耳にしただけで、ちょっとごめん、と言いたくなる。だから読んでない。
 ちょっと関係ないけれど、源氏物語を漫画化した作品に『まろ、ん?―大掴源氏物語』小泉吉宏著という作品があるが、これには光源氏の顔が「栗」になって描かれている。この段階で受け入れられないと、この本は読めないみたいなものか。(と、国語の先生が言っていた。)こうした「引っかかり」は、勉強が出来ない生徒と同じ「引っかかり」のレベルである。彼らはこちらがびっくりするようなところですでに受け入れられなかったり、躓いていたりすることが多いのと同じだ。

 村上文学の理解が出来ない理由の2つめは、ストーリーが「夢」の中の話に思われることだ。荒唐無稽なのである(私にとっては)。生じる「事件」の象徴性がわからない。

 と、ここまで読まれた方は、「ほりはバカじゃないか」とか「アホに違いない」と思っているはずだ。できの悪い生徒と私は同じである。「わからない」のは、本当に「わからない」のである。私は彼らの気持ちがよくわかる。どうしても超えられない見えない壁が眼前にあるのだ。私は、そんな風に村上春樹がわからない。

 小説はフィクションだろうが、村上春樹の小説は、群を抜いて、フィクションである。場面設定が、具体性に乏しい。具体性に乏しい、というと誤解を招くだろう。なぜなら、生活そのものは事細かに描かれているからだ。しかし、「いつ」「どこで」の具体性がない。いつでもないときの、どこでもない場所に、身体性を持つ生身の人間がそこにいて、料理を作って、ご飯を食べて掃除をする、という生活の現実感はそこにある。そこに、彼の文学の普遍性の幾ばくかが宿っていることでもあろう。ところが、私は「いつ」の「どこ」なのかが気にかかってしようがない。私が引っかかるところはたぶん、そこだ。しかし、いや、だからこそかもしれない、村上春樹を読める人にとっては、それこそが実体験的なリアルな「手触り」がありのまま語られているととらえられるのだと思う。が、そのリアリティが私には本当にわからない。「いつ」「どこ」の具体性がないと、自分自身の中でのイメージ作りが出来ず、すとんと、彼の作品に落ち込めないのだと思う。だから、読めない。読める人は、私がここに書いていることを理解しないと思う。(「わかる」「わからない」というのは、そもそもこうした違いだと思う。)

 抽象と具体の関係だろう。村上春樹が書くのは、彼の言いたいことのエッセンスが描かれている。「抽象」とは、エッセンスで、必ず、何らかの普遍性を持つ。その普遍性から何らかの具体的な手触りを感じてイメージを膨らませることが出来る人は、村上春樹をおもしろいと思うのだろうと思う。(勝手な想像。)でも、私にはそれは出来ない。

 もし、彼が描く普遍性の「(私にとっての)わからなさ」を抽象的な普遍と感じずに何らかの具体的なものとして理解できるものが私に出てきたら、「壁」をすーっと抜け出ることが出来るように、私も村上春樹を読めるようになるだろう。

追記
 彼の小説は、「いつ」「どこ」がしっかりと描かれているそうです。(内田先生と平川氏の対談にあった。)知らなかったからかもしれないけど、全然、わからなかった。
 そのうち、読んでみようかな。

10 コメント

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文字列の読み (わど)
2012-10-15 04:26:49
この記事にコメントしていいものかどうか躊躇しました。こちらは国語の先生でもないし小説家でもなく、ただ暇にあかせて多少の小説を読むってだけの長屋のはっつあんとらさんにすぎません。
それでも応答をしないでは無責任だろうと自分を追い詰める何かがあって、今日は恐る恐るコメント欄に文字を打ち込んでいます。その何かとは、たとえば次の俳句にあります。どうお読みになりますか?

 卒業式犬を連れてっていいですか

笑い飛ばすのもありです。こどもが作ったものだろうと判断するのも許されます。これは俳句というより川柳だでもけっこうでしょう。
ところで、犬の種類はなんでしょうか。土佐犬だったら、その卒業式は誇らしげな式典でしょう。胸に抱けるほどの子犬だったら? その子犬にもボクの卒業式を見せたい見てほしいと願ったのなら? 実はそう読んだために卒業までのボクと子犬の関係に思いをはせ、ついには卒業までのボクの孤独感に身をつかまれたのでした。この読みは唯一の読みではありません。土佐犬でもいいわけだし、卒業式だってボクのとは限りません。

こうして読みの現場とは、書かれた文章を読んでいるというより、文章と強く共振する読者自身を読んでいることが可能性として見えてきます。こう表現するかぎり、先生方が日々提出される報告書や教育論のペーパーは、正確に一方向の読みを誘導しようとするため、うえにあげた俳句とは根本的に違う文字列だとわかってきます。
ですから、俳句よりストーリー性の強い小説にも似たような特徴があると推測できます。逆にそうした特徴を持ちえない文章を優れた小説とは認知できません。

こうして小説と呼ばれる文字列には著者の意図に忠実な読みなどあるわけはなく、その意味で「理解できる」「わかる」読み方もありえないことになるでしょう。

この小説の意味はこうだと誰かがいった;そんな体験はございませんか。そしてその体験は20世紀のもの(ないし残滓)だったでしょう。こうして東西を問わず、20世紀の人類はある一方向へと精神を誘導されていったのではないでしょうか。ところがいまやユダヤ人のホロコーストは歴史的な知識として知ってはいても、ユダヤ人やイスラエルへの民族的な同情や憐みなどは歴史のなかで擦り切れています。

こんな俳句はどうでしょう。
 約束の寒の土筆を煮てください
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すみません (ほり(管理人))
2012-10-15 23:11:00
わどさん、コメントをありがとうございます。

韻文の解釈は、なんとなく苦手です。感覚がずれてる。(笑)
別に、楽しんで読む分には、何でもOKだと思います。国語の試験じゃあるまいし。
でも、書いた人は、やっぱり、何か言いたいことがあったんじゃないのかなと思います。なら、そこに至らないと、ちょっとでも申し訳ない気がします。
作品は、作者の手を離れると、独立して歩き出すものでしょう。だかといって、「後は好きなように解釈させていただきます。」は、ちょっと申し訳ない。

村上春樹は、私は、楽しめないんです。好きな人は、ぐいぐい入り込んでいくのでしょうが、私は、「疎遠」なまま。(苦笑)
彼は人類的な無意識的な世界を描くのがうまいように思いますが、私は入れない。(無意識的な世界への迫り方では、、養老先生の世界なら、どんどん入っちゃうんだけれど。)

「約束の~」は、意味深な句のようですね。(ググっちゃった。)あんな昔の管とは思いませんでした。
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なんだか安心しました (せり)
2012-10-15 23:52:55
突然ごめんなさい。私も同じように感じていたので、こちらのブログ記事を読み、ホッとしたというか… 安心?しました。

ファンである主人が買った本、読みましたが、青豆… ウーン最後まで読みましたが、六冊読んだ時間は私には、無駄な時間?

とにかく、感性が違うのでしょう。こちらのブログに出会え…良かった。
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おっじゃましまぁ~す♪ (50cent)
2012-10-16 00:11:50
・・・えっと、実は・・・一度本屋さんでペラペラと・・・眺めてみて・・・それっきり・・・でっす♪

ご承知のように、オツム空っぽでぇ~ 一匹見掛けたらの奴ですからぁ~

ぼくにはムズ過ぎて、お手に負えないのだと・・・固く信じておりました・・・ほっ本当だお。

昨夜、“村上春樹”+“語録”で検索してヒットしたものを幾つか拝読させて頂いたのですが・・・

やっぱ、ご無理でしたぁ~

諦めて、早く忘れようっと♪

しっつれいしましたぁ~
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好きなように解釈すること (わど)
2012-10-16 10:53:30
楽しめない理解できない好きじゃないことをふくめて、自分の「好きなように解釈」しているだけかも知れないと気づく読みが他者を理解するためのきっかけになるのではないかと申し上げています。
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ようこそ (ほり(管理人))
2012-10-16 23:47:17
せりさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

私も、安心します。(笑)

読んだ時間は無駄にはなりませんよ、
と思っています。
だって、村上春樹が書くものがどんなものかがわかったのだから。
またいつか、読む機会があるかもしれません。そのとき、違う感想を抱くかもしれませんから。


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どうも~♪ (ほり(管理人))
2012-10-16 23:50:35
50centさん、コメントをありがとうございます。

意外でしたね。。。
(と、かってに人を決めつける発言はよくありません。)

にしても、けっこう、わからない人はいるもんですね。
わぉ。
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わからないことからわかること (ほり(管理人))
2012-10-16 23:53:17
わどさん、コメントをありがとうございます。

「なぜわからないか」を考えたら、いろいろわかるこtが出てきた気分です。

なるほど。
わかる人は、そういう点でわかっているのかな、と勝手に解釈してます。
聞いてみなけりゃ、わからなけれど。

なんであれ、発見はおもしろいです。
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時間が空いていますが… (ちーぼー)
2014-02-09 07:37:41
12年の投稿に、今更コメントを投稿させて頂きます。とても、興味深いので、目に留めて頂けたら幸いです。

多分、読書の楽しみ方の好みに寄って、楽しめるタイプの作者が変わるのかと思いました。
私は、読書の楽しみは作者に共感することにあると、とても単純なものだと思っています。
私は林真理子さんの本はあまり好みのものではないのですが、それは、林さんが物語の筋自体を楽しむタイプの本を書かれるからなのかと思います。

みんな生きていると、世の中や自分が生きるということに対して漠然とした、モヤモヤを抱えて生きていると思いますが、村上春樹さんの本は、そういったものを物語に乗せて、言語化してくれてることで、読書に『それってこういうことだよね』『こういうのって変じゃない?』って提示してくれるんだと思います。
例えば、ねじまき鳥クロニクルの中で、
『私はまだ十六だし、世の中のことをあまりよくは知らないけれど、でもこれだけは確信をもって断言できるわよ。
もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の大人はみんな馬鹿よ』
という一節があります。
これを見たとき、私はすごく感動しました。私が日頃感じていることそのままズバリだったんです。
というのは、楽観主義を否定するわけではなく、現実世界の悲劇性を見ないように振舞うことは賢いと言えるのかな?という、漠然としたモヤモヤ、ポジティブシンキングがあたかも正しい姿勢かのような、世の中の風潮に疑問符を投げたからです。脇役の16歳の女の子の言葉に乗せて、です。
なので、物語がどう動いて行くかということも、小説を楽しむ上でとても大切な事で、推理小説が好きな方なんかは、このタイプがお好きなのかと思います。伊坂幸太郎さんの小説もどちらかというと、物語の構成の上手さを楽しむタイプかと思います。
なので、村上春樹さんの小説が好きな方は、本を読むことから、人生を必死に生きるためのヒントをもらいたい、救われたいという気持ちが、少なからずある方であるというだけなのかなと思います。なので、私は物語の設置かどれくらい現実的、具体的であるかは、そもそも、そんなに問題ではないと思うタイプです。

村上春樹さんが、影響を受けた作家では、F.スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、トルーマン・カポーティ、サリンジャー、夏目漱石など、似たような、作家が生きるために小説を書いていたというタイプの人が多いです。

でも、だからと言って、単純に物語を追って楽しむ方の本の読み方の方が、ああである、こうである、というのは、おかしな話で、ただ単純に好みの問題かなぁと思いました。

長々と、投稿からズレた時期にコメントをさせて頂いたこと、お詫び申し上げます。
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なるほど (ほり(管理人))
2014-02-11 14:22:47
ちーぼーさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。
レスが遅くなって申し訳ありません。

ちーぼーさんのおかげで、村上春樹を好む人の思考の幾ばくかが想像できるような気がしました。
ありがとうございます。

>みんな生きていると、世の中や自分が生きるということに対して漠然とした、モヤモヤを抱えて生きていると思いますが、村上春樹さんの本は、そういったものを物語に乗せて、言語化してくれてる

きっと、こういう観点なんだよなぁ。
非常に多くの人が、たとえば歌の歌詞でも、論語の言葉でもなんでもに共鳴したり、感情移入をしたり、納得したりする観点も同じじゃないのかな。
「言葉」を通して理解する感受性なのだろうな。
しかし、私が入り込める範疇は、たぶん、きわめて狭い。
能楽が好きなのも謡の文言に惹かれることより、旋律や響きに共鳴する気分が強かったりすることに通じます。言葉ではなく、旋律に人生の意味や感情や無常を感じたり、など。井上陽水が好きなのは、旋律と声の響きが好きだからだし。松任谷由実が嫌いなのは、声の響きとメロディーがが好きじゃないからだし。以上の共通点は、「言葉」が介在してないことです。

また、外国人作家の感性にたぶん、私は共鳴しにくいのだとも思います。
なんかね、感性の根源が自分と違うような気がして共通する基盤をもてないのだろうなぁ。

ちーぼーさんのおかげで自分を再認識することができました。ありがとうございます。
また、興味があったらお立ち寄りください。


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