考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

偏差値55前後が世間を動かす

2009年06月10日 | 教育
 55という数値がほんとに適切かどうかは、ちょっと別だけれど、2番手校で長年やっているもので、50前後~60前後かな。具体的な数値が適切かどうかはちょっと別にしても、だいたい、こんな感じかな、、というところです。
 まあ、このレベルの人の方が、70とか、75,80よりも、ずっと数多くの支持を得る考え方を示すことができるものです。それで、他人の賛同を得ることで自分の考えが正しい、と考えがちです。また、世に流布する、「大多数」の言説を本質的な疑問を抱かず受け入れるという性質を持ちます。

 共感を得るのは、多くの人と同じようなところで間違え、同じようなところで正解するからです。例えば、多い間違いは、話が進んでくると、いつの間にか「前提」がすり替わってしまっていること、それで、そのことに気がつかないことなどです。75以上になると、こういったことは少なかったり、指摘されればすぐに気がつきます。ところが、55前後は、そもそも「前提」という概念、思考の枠組みを明確に持ちません。だから、指摘されてもわからないのです。とにかく、75以上の人は、それ以下の多くの人がはまる「落とし穴」にはまらないから、つまり、思考法が根本的に違うから、多くの人の理解や共感を得ない。
 その点、ホントにちゃんとできるわけではないけれど全然できないわけではない、それなりにはできる人は、世の中の多数の人の思考法との共通点が多いから、共感を得て、しかも、偏差値55~くらいだと、俯瞰的にものを見ることはなくても--それができたら、必ずもっと良い成績がとれている--、 知識などはそれなりに多い。だから、50以下などの知識のない人の目には、彼らはものすごくできるように見える。思考の枠組みや思考の方法が目に見えないのに対し、知識は、有無や量として明解に現れ出てくるから、誰の目にもわかる。「あの人、もの凄くよく知ってるのよ。すごい」とか「アイツはものを知らない奴だな。フン。」など、知識を持つ人持たない人の誰でもが評価することができる。この点、思考の枠組みや方法は、評価の対象になりにくい。「その存在すら理解できない、わからない」人には評価出来ないからです。

 70,75,80の人の言うことは、多くは、思考の方法が俯瞰的であることが多いから、そうでない人と思考が枠組みからして全く違うことが多いので、これをしない55位以下の人にはさっぱり理解ができない。よって、共感なんてとんでもない、ということになる。逆に、55くらい、目に見える知識や具体的な方法中心にこざかしく勉強をした者には、細かい点で「アラ」の方が先に見える。「俯瞰する」というのは、細かい差異をカットすることで共通事項を見出していくという過程だから、「細かい差異」にしか目が行かない人の目に俯瞰的なものの見方とは、単なる「穴だらけ」にしか映らない。偏差値55レベルだと、勉強の方法は、細かい差異に気をつける方が最も効率的に点が取れるから、これが染み付いてそうなる。それでまた、「わかることが大事だ」という考えで勉強をすることが最も点に結びつきやすいレベルでもあるのです。知識重視と関係があるはずです。70以上の成績は、「勉強はわかることが大事だ」という考え方では決して到達できません。知っている膨大な知識をいかに利用するかが重要だからです。

 また、ふつーの人間にとって、「アタマのいい奴」は「脅威」にもなります。だって、自分に理解できないことを考えているのだから、どこでどのように自分が騙されても自分にはわからないじゃないか。これは怖いですよね、皆さん。

 それでまた、どういうわけか、このくらいのレベルの人(というか、生徒)のプライドは、かなり相当、高い気がする。知的レベルが自分以上の人間は少ない。自分以下の人間の方がはるかにずっと多いことを知っている。義務教育学校では自分は必ず「できる方」に入っているから、自分はかなりできると思っている。自分よりできる奴は人数も少ないゆえに、「あいつはちょっと別」と考えればそれで済む。(ついでに言うと、平均偏差値が50程度の高校の生徒は、模試を受けない生徒が多数を占める高校に親しい友人を持つことがよくあって、友人からは「すごくアタマが良い」と尊敬されます。ところが、平均偏差値が60を超えるような高校の生徒とは、いずれの学校の生徒とも親しい友人になることがないようです。友人がいても極めて希です。どうやら、偏差値60(かそれ以上)は、50程度にとっては関わる必要も欲望も感じない「別世界」のようすです。)

 さて、大学は、偏差値55にとって、旧帝大は無理です。しかし、その次あたりからは挑戦圏に入ってくる。がんばれば、また、得意教科などを上手く活かせばそれなりに良い所に行けるのです。しかも、選択肢がそれなりにあるから「輪切りにされた感」を彼らはさほど持たずにすむ。この点、上位の旧帝大だと「輪切り感」が意外にかえって強くなるものです。(東大の文Ⅰ、理Ⅲすいすい~の人だけは別かもしれないけど。)また、旧帝大クラスは「自分よりも出来る奴」がものすごく近くにいたり、全国に散らばっていることがなんとなく肌でわかるから、「いざ、受験」となると、余程のバカでない限り、変なプライドは捨てた方が良いことを知っている。その点、「輪切りにされた感」をあまり持たずに済んだ場合は、つまり、55前後だと、かなり永続的に「オレはできる」と思うことができる。仕事についたときには、作業能力がかなり高いので、それなりの実績を積んでいくことができる。すると、自分がもの凄く立派なことをしているような気になる。「努力」しているものだから、なおのこと、そう考え、ますますプライドが高くなる。

 というわけで、偏差値55前後~程度の「ちょっとアタマの良さそうな人」は、自分にも自信を持ち、人からの共感や理解を得ることが多いから(「人」から見れば、自分と一緒に落とし穴にも落ちてくれるわけだから共感を得て当然である)、さらに自信を持つ。「知的能力」が「自信」に非常に結びつきやすいレベルと言える。

 追記であるが、55前後は該当集団において最頻値だからマジョリティを占めるものの、念のために書くが、だからと言って、これが、彼らが世の中を動かす理由にならない。
 ここは、実に、非常に間違えやすい。「はてブ」で間違えている人が非常に多いことがわかった。
 以下は、「先生なのに偏差値が何か分かってるんだろうか。wiki「分布が正規分布に近い場合は、40から60の間に約68.3%、」人数比でみて、それは「世間」そのものじゃないですか。」というコメントに対する返答である。)
 世の中全体のマジョリティは、偏差値55前後より、ずっと、ずっと、下のレベルである。なぜなら、「偏差値」とはそもそも大学入試を受ける層が前提になっての数値である。大学受験を考えない人に偏差値はつかない。大学進学率が50%だといって、残りの50%の集団で偏差値50を超える人はどれだけか。(いないということは、決して、ない。大学に行かなくても、知的能力の高い人の「数」は多い。「割合」が少ないだけだ。)この観点でいうと、偏差値55は彼らそのものが世の中全体のマジョリティを占めているわけでは決してない。彼らは、あくまでも、「指導者層」たり得る存在として、上記のような理由で、55以下の、それこそ本当の意味での「世間のマジョリティ」を牽引し、世の中を動かす存在になるのである。彼らはあくまでも、「アタマの良い人たち」という存在なのだ。
 よって、「偏差値55が該当集団内のマジョリティだから世の中を動かす」と考える人は、それこそ、「前提を考えない」という浅薄な思考で、--今回は、偏差値55を導き出す集団がいかなる集団であるか、世の中の人すべてを含んでいないことに気がつかない点で、--、誤った思考法を取っている。で、こうした誤りは、実に、偏差値55レベルに多い、典型的な誤りである。

 念のために言うけど、上記は「人格」「人柄」「人の価値」とは全然別の視点で書いてます。

 コメント等後の追加等多々あり。

12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
実証ぬきの感情論でいきます (わど)
2009-06-11 11:56:52
無視、無理解、罵倒、軽蔑、すべてOKでございます。
ハッキリいいますけど(暴言の予告w)。
一科目あたり高校三年間で必要な基本知識の量なら、たかが知れてます。基本知識を生徒に体系立てて説明するだけなら一年は多すぎるくらいでしょう。そして、それだけで、入試用の基本問題は何とか解けるものです(←暴論)。
何故それができるかというと、高校卒業の時点でコレだけのことが理解されていることが望ましい、って決めた人間がいるからです。高校三年間に必要な基本知識や基本の理解度は、人間社会や自然が拒否ることもできず押し付けてくる知識や理解度とは根本的に異なった、いわば低レベルの人為的なものにすぎないのです。そしてそれが高校ゲームの基本ルールです。
このルールには日本独特のクセがあって、狭い土地にギッシリと詰め込めるだけ詰め込む傾向が見られますので、膨大そうにみえる知識の前で溜息を吐く人とか、「膨大」を売りにして金儲けに走る人とか、いろんな変人が現われたりします。こんなガラクタ知識も基本体系から俯瞰すれば、なーに、たいしたことはない。
なので、こちらとしては、【超簡単な基本体系+ガラクタ知識】からなる低レベルの日本・高校課程のうち、はじめの半年or一年で【超簡単な基本体系】の部分を終わっちゃうのはどうでしょうかと提案いたします(←暴言)。
残りの二年間は、もちろん遊び、じゃなくて解析学、非ユークリッド幾何学とか、仏語の基本文法とか、村上春樹の演説(@エルサレム)について考えるとか(これ、入試問題のトピックになるかも)、宇宙船の発見や製造のため徹夜するとかに使ったらと思うのですが。きっとダメダメ意見なんでしょうね。主張の基本は、なんで生徒も教師も(バカ学者の人為的な教育課程に振りまわされなきゃアカンの? にあるのですが・・・。
返信する
なるほど! (madographos)
2009-06-11 19:17:25
いろいろと思い当たるふしもあり,「なるほど!」と思って読みました。ありがとうございました。
返信する
暴言でもないと思います (ほり(管理人))
2009-06-12 00:38:38
わどさん、コメントをありがとうございます。

この記事、顰蹙ものだろうと思って今まで書かずにいたのですよ。
もう、何年も前から、ブログを始める前から、ずーーーっと思ってたのですが。。
コメントをいただけると思いませんでした。

私の場合は、高校の勉強が難しくて仕方が無く、大変でした。ですから、「超簡単な基本体系」とは思えません。それに、ずっと高校生を教えていて、例えば、英語の文が「主語+動詞」であることを理解させるのに、1年生だと半年かかってます。読むにしても、書くにしても、ぱっと思い付いて利用するのが、彼らは難しいようで。。

でも、頭の良い人には、簡単なのだろうなと思います。
ただ、「スピード」は重要です。ある学校は、大変優秀な生徒を集めているのですが、もの凄く授業スピードが速い。それで、落ちこぼれるというか、低学年次に基礎が十分に培われない。で、月並みな学力になってしまったりする。生徒が気の毒です。

それで、半年、1年で基礎全てをする、というのは、ちょっと、、と私は思います。体感して理解するには時間が掛かるからです。
私だったら、無理です。私は、高校生のとき、こんなに勉強したら、アタマが悪くなっちゃうと思ってました。昔のことだから進度が割にゆっくりでも、能力の限界。それでも、フランス語を囓ったりしてましたが。(結局、身につかず。でも、英語と似てる語が多いなと思いました。当時は、語源に遡っての勉強なんて、全くなかったし。)

余裕のある生徒には、いっぱい本を読んだり、活動をしたりして、いろいろなことに思いを巡らせるような10代の青年らしい生活をしてもらえると良いなと思います。受験勉強が勉強の目標じゃないから。

受験勉強は、「枠内」の学習なんですよね。いつも生徒に言ってます。ただ、生徒の目には、もの凄く膨大に映る。
生徒にそう思わせた方が、トクする人たちがたくさんいるのは事実でしょう。偏差値55レベルがそういう人たちかな、というところです。
返信する
そうでしょ (ほり(管理人))
2009-06-12 00:43:56
madographosさん、コメントをありがとうございます。

同感していただけて幸いです。
返信する
同意 (とーり)
2009-06-15 10:58:20
ものすごく同意です。

例外的に出来る人は、エントリにあるように俯瞰的で、見えている範囲が広い。問題の適切な再定義まで出来るので、意思決定の選択肢が広い気がします。
逆に、ほとんどの人は、手元しか見ない傾向が強いように見えます。

要するに、認識している世界が違うように見えます。

ただ、この種の観察結果の開示を嫌う人もいるので、感情的な反論もどきを投げつけられるリスクがかなりあるような気がします。どんなに「人格とは別です」と書いていても、人は無意識のうちに、現象と人間性を結びつける傾向があります。たとえ但し書きを書いていても、誰かの苛立ちの感情は消えません。

かなり勇気が必要だったのではないでしょうか。その点にも敬意を表したい気持ちです。
返信する
世界観をどう変えるか (ほり(管理人))
2009-06-15 22:57:31
とーりさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

いきなり失礼かとも思いますが、とーりさんは、どこでこの記事をお知りになりましたか?
昨日のアクセスIP数が600近くあったので、びっくりしました。(今までの最高は、「「頭が良い人」ってどんな人?」のときのIPが800以上だったときでした。)

>かなり勇気が必要だったのではないでしょうか。

はい。
勇気が要りましたよ。ですから、ブログを開設してからずっと、今まで、書かなかった。
でも、私もけっこう良いトシになってきているし、まあ、いいかな、と。

>ただ、この種の観察結果の開示を嫌う人もいるので、感情的な反論もどきを投げつけられるリスクがかなりあるような気がします。

特に、このレベルの方の中には、プライドが高い方がかなりみえます。
劣等感の裏返しかもしれません。良い高校に行ってて、大学はそこそこ、とか。(あ、露骨に書いてしまった。)で、良い高校を自慢していたり、今の仕事状況を自慢したり。
それで、人には、重箱の隅を突っつくような指摘をして自分の優位性を顕示しようとしたり。
リアルワールドで、ときに出会います。大抵、知的能力が大したことがない人です。

で、知的レベルと人格は、本当に、全く、関係がない。でも、自分の都合(?)の良いように一般化したがる人が多い。

教育の目的は、世界観を変えること、より広く大きくすることであると、私は思っています。もちろん、これは、座学だけでできることではありませんが。
教育は、単なる知識や方法の集積ではないのです。確かに、知識と方法があれば、誰でも生きていくことは出来る。でも、それだけで生きようとすると、必ず行き詰まることが起こるでしょうね。社会情勢だけで人が死ぬわけでないと思っています。

誰かがどこかに書いてましたが(全く覚えがない)、この2000年の歴史を振り返って、「人間は少しずつ賢くなってきている」と。
未だ、その途上にあるのが、偏差値55が世間を動かす現実でしょう。偏差値55の考え方は、それくらいの人のレベルだけでなく、それ以下の大勢の理解も得やすい。

そうそう、偏差値70、80以上の人で、知的レベルが大したことがない大勢の人を動かす人は、高度な思考で彼らを動かしているのではなく、他の能力を使っているのです。人間的魅力、カリスマ性、テレビ写りの良さなど、私に言わせるとある種のphysicalというか動物的な魅力ですね。(それが政治家なのでしょうね。)

人間が持つ能力は、さまざまですから、これはこれで賛美すべきものです。
しかし、人間特有の能力は、やはり「論理に関わる知的能力」でしょう。ですから、人間だけが「学校」を作る。

あ、こう言うと、「未開人も人間だが、学校はないだろう、だから、この人は全てを見通して言っているわけでない、一面的なものの見方だ」と言う人が出てくるでしょうが、私は、こういう思考法こそ。偏差値55のレベルだと思っています。(「人間」をどのように定義しているか、という理解です。定義は時と場合に因って異なります。だから、国語の試験が成立する。)
返信する
こんな師がいたらなあ (くろ)
2009-10-15 21:09:38
たまたま見つけてしまった記事でこれほど鋭い見解や意見に出会うとは…。

まさに「おっしゃる通り」かと。私はおそらく(というか完璧)偏差値55人間の枠に入ります。周りからの異様な支持を頼りに安心感を感じ、プライドが高いそぶりを見せないくせに本当はすこぶる高く、自分より上は別物、義務教育時代が自慢の歴史…など。頷かずにはいられないものばかり。ここまで「偏差値55人間」を鮮明に書き上げて浮かび上がらせるなんてすごい。
そんな私は今、受験生です。
やはりプライドは捨てて…入れる大学を狙うべきか


随分と日付が以前の記事ですが思わずコメントしてしまいました。これからもブログ運営頑張ってくださいね。
返信する
勉強、頑張って (ほり(管理人))
2009-10-16 00:31:49
くろさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

くろさんは、ひょっとしたら高校生ですか?
オモテで、何も断ってないのですが、で、いきなりで申し訳ないですが、このブログ、管理人の主義で、社会人か大学生でないかぎり、少なくともコメントは控えて貰いたいと思っているブログなんです。

パソコンの画面でなく、リアルワールドで、友人や先生と語らって、身体感覚で様々なことを学んで貰いたいからです。でないと、本物の思考も深まりません。
それに、こんなブログより、読むべきものは、---まあ、私が高校生など若い人に読んで貰いたいと思うのは古典ですが、---たくさんあるでしょう。そっちの世界を大事にしてください。それで、勉強を頑張ってください。
大学に入った暁に、またここに来てくださいね。

試験は水物です。どうなるかわからないから、今はとにかく勉強をするといいですよね。どこまで伸びるかわからないから。
頑張ってください。
私は自分でものを考えて、それで文章化するのがならいになっています。少なくとも、中学高校と、一生懸命に勉強をし、それが思考の基盤を作ってくれたと思っています。
くろさんも、今が勉強のチャンスです。頑張ってください。
返信する
通りすがりですが。 (nick)
2009-12-09 16:15:23
偏差値というのは、周りと比べるからこそ
出てくる数字で、その数字を見て自分が
そのあたりかと認識するんですよね。
周りと自分を比べて、自分はちょっと
できるなぁ、なんて思っている人間っておそらく、ほとんど全ての人間が結構そんなことを思いながら生きているんじゃないでしょうか。

分野によって自己認識は違うかもしれない
が、誰でも一つはそういう分野を持っている
に違いない。じゃないと生きていけないはず。
思春期ってとくにそうじゃないですかね。

だから分野を限らなければ、偏差値55レベルの(と認識している)人っていうのは
かなり多くの人間にあてはまる話なんじゃないですかね。

あと、世間を動かしているのが
偏差値55くらいの大学に出た人
っていうことならば、それは当然で
まず人数が多くて、そこそこ良い会社に
入って、まぁまぁ出世しやすいわけで
それで世間で発言が通る地位にいるっていう
簡単な話じゃないんですかね。
返信する
主旨 (ほり(管理人))
2009-12-09 21:10:51
nickさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

>分野によって自己認識は違うかもしれない
が、誰でも一つはそういう分野を持っている
に違いない。

これはまさにおっしゃるとおりだと思います。

>周りと自分を比べて、自分はちょっと
できるなぁ、なんて思っている人間

この考え方がまさに偏差値55なのですよ。自分以下しか目に入らない、入れようとしない態度です。
その他お書きになった内容も、まさにそれこそが偏差値55的な判断であり考え方だと私は思います。

この記事では、私は、なぜ「>それが当然で」あるかについて論考したのです。
返信する

コメントを投稿