考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

久しぶりの謡のお稽古でした

2005年09月26日 | 能楽
 (以下、長い割に中身はないです。)
 ずっと休んでいたものだから、お稽古日がいつなのか、わからない。
 奇異に聞こえるかも知れないが、能楽関係のお稽古は、カルチャーセンターでない限り、曜日も日にちも定まってないのが普通だ。なぜなら舞台人の先生の演能予定によって稽古の日が決まってくるからだ。能は、歌舞伎のようにぶっ続けで興行が行われることがない。突然のある日、1日だけという公演の仕方で、能楽師は恒常的にチームを組んでいるわけではなく、皆がてんでバラバラの「自営業」だから、どうしてもそうなる。

 というわけで、一番仲良しの人に電話で聞いて、やっとわかった。先月も休んだが、先月は先生が直々お電話下さった。それでも休んだものだから、さすがに今月は電話がなかった。

 さて、久しぶりのお稽古だが、思ったより、ちゃんと謡えました。小謡で、短いものですが、3ヶ月ほど、家でも全然練習してなかったので、どうなることやらと心配でしたが、「謡」も身体を使うもののようで、身体が覚えていてくれたようです。半年ほど前からある程度しみこんでいたのか、声の調子にも「実(←どう表現していいのかわからないけれど、私のコトバだとこうなる)」を込めることができるようで、自己満足です。

 通常の謡のお稽古は、「節」を習い覚えるのが中心のようです。だから、たいていの方は、節などを間違えずに謡えるようになれば仕上げてしまったことにする。でも、私は、ダラダラいつまでも、「まだここがちょっとわからない」と言って、実際に、私は音痴で、なかなか音程を覚えられないからですが、しつこくしつこく、お習いします。(この文もダラダラしてますねぇ。苦笑)

 私は、「謡」は発声、それも技術的なものも含めて、何というか、「中身」というか、そんなのがないと、聞いても面白くないと考えます。

 能楽の趣味がある人は、古典の味わいや文学の典雅な面白さを求めるようです。だから、謡曲の文言や物語性に感銘を受けるようで、そのための機会を得ることが能楽の鑑賞だったり、自分が舞い謡う喜びになったりするようです。

 しかし、私の場合は、多少特異でしょうが、声の面白さ、声の音楽性、舞の身体性に大きな関心があるのです。もちろん、能楽鑑賞の際には、謡曲集(古典文学の全集本に入っています。)でしっかり読み、テーマを探り、曲趣を想定します。その上で、演技者がテーマをどのように表現したかを見て取るわけです。それで能の面白いところは、演技が単なる仕草だけで表現されるものでないことです。それはもう、言語では表現できません。(だから、そのために舞台に載せるのでしょう。)
 他の舞台芸術でも同様なことが言えるでしょうが、能ほど極端なものはない。制限された、禁欲的とも言える動きを通して演者は表現をする。それで、演者によって発せられるものがこんなにもと言えるくらい大きく異なり、受け取るべきものが一変する。
 私が能に惹かれるのは、する側も見る側も、共に感性を研ぎ澄ませた上で対峙する点でしょう。ある意味で、観能は、私にとって真剣勝負でした。(最近は良い能を見に行ってないので、過去形です。)

 まあ、かっこいいことばかり書きましたが、もちろん、私の謡稽古は、全くそんなレベルでありません。(当たり前です。あら、恥ずかし。)それでも、自分としては、ただ節が謡えればそれで良いという考えになれません。
 で、先生には迷惑な話でしょうが、同じ謡を何度も何度も気が済むまでお温習いするわけです。声の続き方でも、ちょっとした息の出し方でも、いろいろ試みて挑戦するわけです。(ちなみに、こういう細かいことは、先生は教えてくださいません。先生の声から「聞き取る」ことができるだけです。また、もちろん、「試みる」だけで、できているわけではありませんよ。笑。)

 しかし、この日は、さすがに小謡を仕上げて、昨年秋に中途半端になっていた「紅葉狩」を再開しました。昨秋に始めた曲ですが、さぼりにさぼって、春になり、さすがに秋のものを謡う気になれなかったのです。(ただ、演能そのものは、余り季節を問わないものです。季節のものをその季節に演じる傾向が出てきたのは、ごく近年の傾向のようです。)それで、全く違う小謡に浮気して、秋になって戻ったわけです。

 で、1年ぶりだし、余り練習してなかった曲なので、それでも節は何とかできそうでしたが、「声」が浮つき、自分のものになっていない。ついさっきまで謡っていた小謡と、エライ違いです。自分で謡っていて、非常に気分が悪い。

 これではいけません。ちゃんと練習しなければ。でも、一体いつまでかかるでしょう。何年がかりでしょうね。ははは。。。

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