考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

「昔」と「今」がいつか、って言われても

2008年09月27日 | 教育
 ある文章(ちなみにブログじゃない。)に「昔の子供は」「今の子供は」など、昔と今の傾向の違いを対比的に述べた。すると、「昔とは、いつ頃のことなのか」という疑問を呈した人がいた。

 えっとね、この語法は、「いつ頃か」という時代を問題視しているのではないのです。子供の様子が変化していることを述べているのです。

 変化しているという事実は見いだせる。おそらく誰でも見いだせるという確信がある。なぜなら、「傾向」が誰でも見いだせるからである。もちろん、10年前であろうと20年前であろうと、30年前であろうと、たぶんもっと前だろうと、今の子供のような子供はいたし、今だって、30年前のような子供はいる。しかし、大勢を占めているのはどっちだという問題意識である。

 日本史で(あ、書いたことがあるかな?)、授業や教科書で、元禄時代は元禄文化が花開いた安定した時代であると習った。しかるに、私は年表を見たら、まさに天下太平のその時代にあっても、一揆が起こっているのを発見した。しかし、天下太平は、江戸時代を概観した場合、元禄時代は、「比較的安定していた」ということであろうし、一揆にしても、江戸初期?の一揆と以降の一揆には異なる性格が見いだせるそうだ。私が見付けたその一揆は、後世の一揆の兆しだったようだ。

 まあ、世の中の変化のたいていは「正規分布状態」で起こっているのである。新しい何かが起こる。普通、これは、「予兆」とか「兆し」と捉えられるが、本当のところ、予兆とか兆しは、何かが起こったその時になされる判断ではない。それに類した事象がその後も続くとなって始めて、「これこれは何々の予兆であった」と言うことができるだけである。それまでと違った物事が起こりはじめたまっただ中でできるのは「そういう場合もある」という例外扱いすることだけで、それ以上の判断は実のところ何も出来ないのである。しかし、「例外」があちこちで、或いはその後も続くとなれば、例外は例外でなくなり「よくある事象」としてカウントされる。それで初めて、最初の例外が「兆し」だったことがわかる。で、徐々に頻度が高まり事例が増え始める。しかし、それも、上がったり下がったりしながら高まったり増えたりするだけである。よって、ピークがいつだったのかも、何だか徐々に下がり始めてきたかな、と感じ始めて、あとで、ああ、あの時がピークだったのかとわかる。数十年にわたる時代の変化、人の変化なんてそんな程度のものである。
 何が言いたかったかというと、上記、要は、正規分布のグラフを2つべる。横に並べた2つの山の左の方の下がる途中当たりに、右側の山の上がる途上の線が重なるように置いて書けば良いだけの話である。(まあ、記憶力の悪い私が歴史で学んだことの一つはこういうことである。)それで、左が「昔の子供」、右が「今の子供」と言うことになる。今でもいる「昔の子供」は、裾野が長く右(今)に伸びているということである。

 同じようなことは教育内容そのものにも当てはまる。

 「知識の詰め込みや先人の考え方の受け入れ」「自分でものを考える」は、順序で言えば、この通りである。じゃあ、「いつまでが知識の詰め込み」で「いつから自分でものを考える」のかも正規分布状態になる。否、正確に言えば、「知識の詰め込み」は右上がり状態のままである。だから、高校生になっても授業における「知識の詰め込みや先人の考え方の受け入れ」は一向になくならない。無くならないどころかどんどん増えていく。それでも、少しずつ「自分でものを考える」も増え始める。

 たぶん、小学生が嫌がる「読書感想文」が第一のそれだろう。小学生が感想文を嫌がるのはもっともな話である。なぜなら、彼らにはまだ「自分でものを考える」習慣も訓練も何も行われていないわけだから、何を基準に考えて良いのかもわからない。書く方法も身に付けて無いのだから、まあ、とにかく、慣れていないのだから、もともとその才能のある子でもない限り嫌がるのが常である。私だって、大嫌いだった。作文、感想文、みんな苦手、キライ。だから、小学生の時「○○大学の何々学部には卒論がない」と聞いて、ただそれだけの理由で、是非ともその大学のその学部に入りたいと思った。(大学に行くつもりはあった。)もちろん現実は違った。
 ちょっと前だけど、「クローズアップ現代」で「ネットのコピペ問題」を取り上げていた。大学生のレポートと小学生用の感想文サイト(写せば良いだけのサイト)の話だった。小学生の感想文サイトの主催者が「小学生が感想文を嫌がる。今しかできないことをやると良い。感謝のメールが来ている」と言う。私は、なんてヤツだと思った。「今しかできないこと」が感想文を書くことであろう。まあ、感想文には是非があるのも知っているが、それでも、うんうん苦労して、「はて、自分はこの本を読んだとき、何を思ったのだろうか」とふりかえることそのものも重要な過程ではないのか。これがないことに、書くという作業もない。遠足だってなんだって、「面白かった」「いやだった」が小学生のふつーの思考であろう。というか、私はそうだったのだけど。「面白かった」としか感じてない子供に「どこがどのように面白かったのか思い出せ」というのは、過酷だが、それでも言われれば何かは答えるものである。その過程が大事である。(ところで話は変わるけど、このサイトのコピペは止めてね。著作権は管理人の「ほり」にあります。「引用」の場合は、ちゃんとアドレスを明記するなり出所がどこか、見た人、読む人にわかるようにしてください。私は内田先生と違うから・笑)

 中高生になると、文章を書いたり発表したりする機会も増える。(あ、今は、小学校の方が多いかも。)まあ、大学入試に「小論文」なんてものもあるが、それで、自由英作文なんてものもあるが、私は受験に課題とする効能を信用していない。思考力がまだ十分に整ってない生徒に通り一遍の安直な「作文でっち上げ方法」を教え込み、植え付ける無理を感じる。
 ただ大事なのは、「文章を正しく書く訓練」であるとは思う。だから、題材はなんだって良いのだが、恒常的にやらせるのならば、精々で文章の要約や歴史でも理科でも良い、学んだことを特定の視点で纏める論述問題であろう。それで中高生の考える訓練は十分ではないのだろうか。薄っぺらな知識や方法で、独創的な思考が出てくるわけがない。
 思考が複雑になってくると、それだけ「考えられなくなる、表現できなくなる」事態も生じる。自分が学んだことについて特定の視点で纏める場合であっても、どのように表現して良いのかわからない、などの苦痛が伴うことが多い。(だから、生徒は記述問題を嫌がる。)「わからなーーい」という苦痛に対する耐性の問題でである。こういった訓練は必ず必要である。また、いわゆる学習したことでなくとも、自分の経験に照らし合わせて物事を捉える訓練をするのもいいことだ。なにかをもとに「これって、どういうことなのだろう。私ならどうだろう。」と考える体験も人を成長させる。よって、私は1年に1回程度の「読書感想文」の宿題はあった方がよいと考える。まあ、生徒の感想文を読むと、彼らの考えがいかに浅薄であるかがよく分かる。
 で、「自分でものを考える」なんて、大学に入って、大人になってからで十分である。自分を見てそう思う。大学で自分で物事を考える真似事をし(ただし、コピペは「真似事」でない。)、本当に自分でものを考えることが出来るのは、まあ、凡人には30も過ぎてからであろう。それまでは、どこでどのようにあがこうと、口から出る言は所詮借り物でしかない。言うなと言うほどのことでもないが、その認識を持った方が、自分の物差しを持って本当に考える力が付くのではないのかと思う。人生は長い。


2 コメント

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Unknown (madographos)
2008-09-28 11:43:55
TBありがとうございました。おっしゃるとおりです。こちらからもTBさせていただきました。
良かったです (ほり(管理人))
2008-09-28 12:03:19
madographosさん、TBとコメントをありがとうございました。

「学校教育を考える」に触発されて記事を書くことが(TBしてなくても)よくあります。
今後も示唆に富む内容を楽しみにしています。

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