考えるのが好きだった

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「上から目線」と英語

2013年08月04日 | 教育
 『日本語に主語はいらない』と『英語にも主語はなかった』(いずれも金谷武洋著・講談社選書メチエ)が面白かった。筆者は、カナダでフランス語話者に日本語を教えている先生だ。つまり、現場に立って様々な問題に直面しているが、これに役立たない日本語の学校文法の不合理を嘆く。恨みさえしているかのようである。三上章という日本語には主語がないことを看破した先人の偉業を受け継いだ論考に、私は思わず膝を打った。amazonのレビューなどにはいくらか批判があるが、時折見られる内田先生に対する批判もそうだけど、「ざっくり」物事をとらえると、どうしても細かいことを捨てなければならない。専門家の批判はそれゆえのような気がする。また、文体にしろ内容にしろ、かなり恨みがましいところがあるから辟易する人がいるだろうな。まあ、私の場合は日本語話者に英語を教える現場にいるわけだから、生徒がなぜ間違えるのか、理解できないのか、という観点で読むと、意気投合しそうな気分になる。これが正直な読後感である。

 金谷先生は、英語は神の目線の言語だという。(一方の日本人の思考は、「虫の目線」である。)
 これがものすごく説得力があって面白かった。
 なるほど。
 Those who と言う表現が決してthese who でないのは、人間は神から遠いところにいるからである。(この本に書いてあることではないよ。)また、白眉は、dummy subject(この語は著者の作ではない。)である。It seemes to me that ・・ のitが何故だったのか、わからなかった説明が付く。(これは、この本で得た知識。)それなら、英語の文章読解の際に文頭副詞に着目すると読みやすくなるのも合点がいく。(これは私の推論的な理解。)

 すごい本です。一読をお勧めします。
 ただし、自分が持っている既成概念や思考法にとらわれがちの人は、理解しにくいかもしれません。ほとんど全く、「異質」な言語観だからです。
 私の場合は、養老先生の抽象・具体の思考の流れや目線の取り方を訓練されているし、また、自分がこれまで疑問に思って来たことや経験と合致するから、ものすごくすんなり理解できました。

 で、書きたかったのは、実は、ここからほんの少しのことです。

 「上から目線」が批判される昨今ですが、他方、非常に多くの人が、まるで社会全体が「英語熱」にうなされているかのようです。
 「上から目線」が批判や非難の対象になるのは、英語という「上から目線」の言語の広まりに反抗している日本人の無意識的な抵抗ではないでしょうか。

 今更、「英語」から逃れることができないかのような世の流れです。でも、「虫の目線」で暮らす日本人は、本質的に「上から目線」がイヤなんですよね。これまで「お上」頼みの下から目線で、つまり、逆に言えば上から目線も一部受け入れ耐えてきたのですが、ここまで露骨に「上から目線である英語をやれ」と言われると、「虫の目線」の日本人は無意識的に英語の「上から目線」に反応して耐えきれなくなった。その苦難が、日常生活における「上から目線」に対する嫌悪感に形を変えたのではないでしょうか。
 無意識的な理解は決して侮れません。英語が、上から目線の言語であることを日本人はちゃんと気がついているんですよ。でも、英語を拒否することはできない。仕方がないから、「上から目線はいけない」と言って、日常生活でストレス解消を図っているというのが私の仮説です。

 ついでに言うと、無意識の力は大きいです。無意識をいかに意識化して理解し、戦略にするかで結果が変わるのは、勉強でも商売でも同じでしょう。

2 コメント

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違いを知ること (taketyann)
2013-08-04 11:35:22
「上から目線」ですか…。日ごろ英語に接していない者にはピンときませんが、日米(英)の文化の違いに起因するものなんだろうな、ということはなんとなくわかります。

ずいぶん昔(昭和の時代)の話ですが、鈴木孝夫さんの「ことばと文化」を読んで、breakの意味が日本語では十種類以上もある理由について、breakという言葉の守備範囲と日本語のそれとはちがうからなのだ、という説明に目から鱗だったことを思い出します。

外国語を学ぶ意義は、まさにこういう文化や視点、価値観の違いを実感することにあるのではないかと思っています。

中学・高校の先生はこういうことも考えつつ授業をされているというのに、昨今の実用性と政治家の人気取りのことしか考えない小学校の英語教育の流れには、ウンザリです。

年に数回の研修という付け焼刃で、ただでも全教科を教える担任に英語までやらせて、国語や算数がおろそかになったら、こういう文化の違いまでわかるような子どもは育たないでしょうね。

英語がそこそこしゃべれるだけの中身のないグローバルな(?)人間を育てても、役に立つとは思えんのですが…。
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言語が制御する思考 (ほり(管理人))
2013-08-04 19:10:53
taketyannさん、コメントをありがとうございます。

お久しぶりです。

>外国語を学ぶ意義は、まさにこういう文化や視点、価値観の違いを実感することにあるのではないかと

まさにおっしゃるとおりと思います。
外国語には「道具」の側面と、おっしゃるような文化的差異を表出する側面があります。
全員が学ぶ意味があるとしたら、私は後者の重要性だと思いますが、イマドキは「道具」としての側面重視ですよね。

でも、道具として学ぶには、難しすぎます。
ナントカラーニングという教材の宣伝で、若手の有名な選手が、「・・・make a friend 」と言っていたように聞こえましたが、これ、絶対に、friends じゃないと意味をなしません。
名詞の単数、複数、また、動詞の時制にまつわる事項は、日本人にはほとんど縁のない概念だから、ものすごく難しい。そうした概念の違いは、まずは、母語がどういう考え方をしているかをしっかり意識した上でないと、習得出来ません。
また、習得の初期にヘンな、誤った思考法を獲得してしまうと、その悪い癖を抜くのが大変です。発音にしろ文法にしろ。

小学校から英語を学ばせようとする愚策は、言語や文化を、また、人間そのものを愚弄しています。

これほどの英語熱を煽っているのは、①英語の非専門家(英字新聞が全く読めない人)、②英語で一儲けしようと思っている人、③この英語熱をチャンスとばかりに名前を挙げようと思っている英語の専門家 に分類できるはずです。

本当に自分でものを考えて真摯に外国語に向かっている人は、小学校英語を、まして、教科化に賛成する人は誰もいないでしょう。

小学校の先生は本当に大変だから気の毒です。でも何より児童がかわいそう。
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