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合格最低点で合格する

2008年08月06日 | 教育
 以前、生徒と話をしてギョッとしたことがあった。どうやらその子は、簡単に言っちゃうと、「大学入試は合格最低点で受かるのが最も望ましい。よって、それ以上の勉強は無駄でしかない」という考えているようだったのだ。

 合格が不合格かという二点で考えると、合格を求めるにこれほど合理的な考え方はない。ギリギリで合格しても、トップで合格しても同じ扱いを受ける、或いは、「同じ扱いしかされない」のだから、何も高得点で合格する必要性なんてさらさら無い、目的は合格して入学することだから、別の側面から言えば勉強をすることが目的ではないのだから、最低点で合格をするのが最も効率性の高い最善の策ということになる。

 この考え方は、「入試は1点の違いで合格、不合格が決まる」とか、「いくら勉強しても、結局は点数で決まるじゃないか」という考え方に通底し、これらに由来していると見る。

 世間一般でこうした考え方は非常に受け入れられやすい。なぜなら、決して多くの真実を表さず、一面の真実をのみ拡大して単純化し、矮小化する事項こそが、大きなインパクトを持って人々の心に印象づけられるからだ。逆に、全体をなるべく多面的に大きく見る見方が、その価値観によって、どこをどのように判断するかがそれぞれの価値観によって大きく異なるので、こんな面倒でわかりにくいことは忌避される。よって、「入試は1点の違いで合格、不合格が決まる」とか、「いくら勉強しても、結局は点数で決まるじゃないか」という簡単明瞭なわかりやすさが説得力を持つと言うことになる。

 それで、この事例において、現に「1点差」で落ちる生徒が存在するという事実は、今の大人には、実は非常に印象強いのである。団塊の世代が代表になろうが、もっと若い年齢集団であっても、入試倍率が非常に高かった時期の現実では、かなりの生徒が「1点差」で落ちているからだ。そんなこんなで「入試は1点差で合否が決まるんだ」と世間で言われ続けるのだ。

 しかし、私はここに「落とし穴」を見る。

 なぜなら、大多数の合格者が「合格最低点」に並んでいるとは全く考えられないからである。「試験の点数」は、だいたい正規分布かそれに近い形を取る。一般に、数学や物理はそうならないことも多いが、それでも、受験者の層がそれなりに一定の範囲内にある集団の場合、それこそ入試問題のレベルや採点基準で正規分布、まあ、もっと単純に考えて三角形の形になって、受験者は上から下まで並ぶだろう。その際、合否の境がどこに来るのははその時々であろうが、倍率が5倍だったとしても1点、2点差で合格する受験生が合格者全体に占める割合がそんなに高いと思えないのだがいかがなものだろうか。言い換えれば、大多数の合格者は、合格最低点をかなり超えて合格するのが実態のはずである。

 だから、なぜ「1点差」にこだわるのか、なぜに合格点を大きく越えて合格することを望もうとしないのか不思議でならない。次なる学校に進学して行うのも、勉強には変わりはないのである。しかも、最低点で合格した者は、合格者集団において「ビリ」になる。ビリはビリでも合格には変わりないが、ビリは所詮ビリである。だから、なぜことさら「1点差」を強調し、言葉を換えると、「ビリ」になることを望もとするのであろうか。(ビリで、まあ、ビリでなくても下の方で合格して入学してから苦しむ学生や生徒も多くいるものである。←一般論だけど。昔の話、数十年前の話だが、高校の場合、女の子はビリで入っても付いていけるが男子は落ちこぼれると聞いたことがある。今はどうなのかな?)

 まあ、でも、私がなんと言っても、「でも、ビリでも合格は合格だから」と一言で片付けられるのがオチだろう。
 だって、「合否」だけを見ればいい単純なことは受け入れやすいから。また合格してから先のことは、受験勉強の成果と何も関係がないと思われているから。(大学はどうだかし知らないが、高校は悲惨なことになりかねないものではあるよ。)

 それで、大人がそう言うから、子供は感化される。目先の効率主義、合理主義が蔓延る時代にあって、「入ってからは、自分がビリ」の学校生活を全く斟酌しない考え方の行き着く先が「合格最低点で合格するのがもっとも望ましい。よって、それ以上の勉強は必要がない」と考える生徒の出現に繋がるのであろう。

 ちなみに私は、「38度の熱があっても合格できる実力を付けよ」と言っている。(そのくらいの気概と実力があってもいいだろう、ということだ。)
 「出題傾向が変わったから失敗した」も言い訳にならない。合格最低点で合格することが正しいことであると考えていたのでは、ちょっとの体調不良や変調に、運悪く公共交通機関が止まって遅刻した、などというときに間に合うまいとも思うのだ。


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