考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

効率重視という魔のスパイラル

2008年09月28日 | 教育
 私は真面目な生徒だったから、英数古漢は必ず予習をしていた。ちゃんと予習をしていれば、大体わかった、と思う。で、たいてい、授業中に復習をしていた。でも、それでやっと本当にわかると思えた。何の教科か忘れたかが、一度ろくに予習をせずに授業を受けたことがあった。わかることはわかった。でも、身に付かないと思った。だから、ちゃんと予習をしていく必要性を感じた。

 生徒を見ていると、だから、この子たちは勉強が出来ないんだなぁとしみじみ思う。
 私みたいに、ちゃんと予習をして、それで更にちゃんと授業を受ければ必ずよく分かる、習得に至る本物の理解に繋がるのに彼らはそうしない。ああ、もったいない。
 予習をしてきてもそれだけで満足げで、授業中にそれ以上の学習をしようとしない。ノートに書いてあればOKとでもいった風情である。そうじゃないんだ、と言っても、なかなか通じない。で、予習無しでも結構わかれば、まるで、予習は無駄と考えるているかのようだ。まあ、予習ができてるとそれなりにわかるから、それで満足し、学習停止状態に入るようである。彼らの目的は「わかる」ことであって決して「習得する」ことでないのだ。だから当然といえば当然の所業である。

 もう一つ言えば、試験前にきちんと復習をする。それも、最低2回は同じことをする。そうすれば、記憶にも長く残り、模試であってもそれなりにできるようになるというものだ。「お、これは、問題集のあの問題と似ている」「この単語は構文集で覚えたものだ」--じゃんじゃん出てきているのに気が付くことが出来る。でも、気の毒に、多くの生徒は「気が付かない」のである。模試を真っ新の状態で受ける。模試は模試、定期試験は定期試験で「対策が異なる」、だから、受験の仕方も違うと思っているかのようだ。

 彼らの勉強の目的は、その時々によって異なるのである。「今回は試験対策」、「今回は授業の予習」、「今回は提出」になったから、目的が少しでも異なればやることの全てが異なると考える。興味深いのは、目的が「習得」という学習における根幹から悉く外れているのである。
 だから、たとえ習得した内容であっても「共通項」として捉え扱う術も力をそもそもから欠く。よって、皮肉なことに、頑張ろうとすればするほど、目的と学習方法が尚更に細分化し、「やっぱり大事なのは試験対策」という、一見効率的に見えながら実は最も効率の悪い「魔のスパイラル」に陥る。で、これにはまればはまるほど、彼らは保護者共々教育産業に貢献し、日本の失業率を下げ、経済の活性化と熱帯雨林の破壊を促すのである。

 ふむ。
 このように考えると、スーパーの洗剤売り場でも、調味料売り場でも、種類がどんどん増えてきているのと何ら変わらないんだなぁ。
 なるほど。

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