考えるのが好きだった

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俯瞰と抽象化とメタ認知能力

2011年09月17日 | 教育
 内田先生ブログ、情報リテラシーに書かれている。
 今は、情報の階層化というより「原子化」が進んでいる。これは、自分が知っている情報と知らない情報の価値についての中立的なメタ認知能力、つまり、情報リテラシーを欠いているということである。「おのれの知についての知」を構成するには「集合知」が必要であるから、リテラシーの有無とは、情報についての公共的な吟味の場を持つかどうかの違いになる。情報リテラシーはこうした集合知に関わるから、極めて政治的な問題である。

 で、ほりが思うのは、1つは、内田先生は、極めて政治的な思考法を取る人だと言うこと。(わかっているけど。)
 もう一つは、メタ認知能力の育成が今の学校教育で失われてきていると言うことだ。で、このことについて述べたい。
 
 内田先生は、ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島では決して科学的真理に到達できないのは、命題の当否を吟味する場を持たないからだと書いている。情報リテラシーは、この吟味の場を持つことを意味するのだが、私が思うのは、「吟味の場」を持てない理由は、吟味の場どころか、一人一人が、そもそも厳密な手続きで精密な実験を行えないから、吟味の場の必要性に至らないのではないか、ということだ。
 内田先生はフッサールの「他我」で、自分が家の前面にいることがわかるのは、側面や背面があることを「知っている」からだと書く。で、これも、言うまでもなく極めて正しい。しかし、今の生徒は、家の前面であろうと、側面、背面であろうと、それが家の「面」であるということを観察して判断し、広く言明する能力を持たず、その価値を認識しない。あるいは、「他我」が見る側面を自分が見ている前面と関連づけない、「私は私、人が人」なのだ。
 
 ですから、私は、情報リテラシー欠如の根本にあるのは、政治的な問題以前ではないかと思うのですよ。
 
 内田先生の言葉の「原子化」はキーワードだと思う。
 イマドキの生徒に、世間一般から見てまあまあ出来る方だろうが決して「とても良く出来る」と言えない生徒に、(質問内容はけっこう何だって良いのだが)「片付いた机と、乱雑な机を比べると、どっちの方でする方が勉強がよく出来ると思う?」など、常識で言ったらそりゃ、問うまでもないだろう、という質問をすると、必ずと言っていいほど、「それは人による。」という「個別姓重視」とでも表現できるかのような返答を返す。(ちなみに、私は、アタマがくらくらして絶望的な感情に襲われる。)
 これは、「厳密な手続き」や「精密な実験」という、「誰でもがそうであると認める厳密さ、精密さ」すら認めない思考法である。「それが厳密かどうか、精密かどうかは、人による。だから、厳密さや精密さを私は断定できない」あるいは、「何であれ判断の基準が人と同じだと判断できないは断定してはいけない」のである。「家の前面」という判断にせよ、「それを家と認めるかどうかは人による。だから、決めつけて言明してはいけない」という思考法である。
 たとえが続いてくどいかもしれないが、「厳密さ」「精密さ」「家」という「言説」も、基盤にあるのはすべてが個人による「判断の結果」である。この際、彼らの思考の性癖は、常に「それは一人一人違う」という「個別」の意識で、「原子化」の根源が私には見える。

 何であれ、「個別」の認識にしか持たない思考に、「吟味」という「共通点」を見いだす概念は存在しない。抽象化能力も欠如してくる。
 そもそも、言葉にしろ何にしろ、学問や思考は「共有事項を持つ」のが目的である。それが「教育」の目的である。だから、私に言わせれば、「ゆとり教育」の「個性重視」は、まったくアンビバレントな命題を課した。それが情報リテラシー欠如という結果になって影響を及ぼした(←現在完了形)のである。
 誰が予想したことだろうか。
 根源にあるのが、私は、こうした事情だと思う。

 さらに、それに追い打ちをかけているのが、今の学校の勉強法である。
 端的に言うと、「俯瞰」という視点を持たない。
 (ちなみに、「俯瞰」は「共通点」に関わる。俯瞰の目的は、「抽象化」に関わり、「ものとものの関連付け」だから、「関連付け」「関係性」を問わない俯瞰はない。)
 
 試験内容、方法、勉強法の非常に多くが、羅列的な「知識の集積」「解法の集積」である。「頻出事項・頻出問題」が重視される。「試験に出ないことはする必要がない。無駄である」という発想で、しかも、「入試」は、5割か6割出来れば合格出来るものだから、いかにして、5割、6割を取るかを問題にする。全部する必要はない、と言うより、全部するのは合格を目指す勉強としての「効率」の観点では全くの無駄なのである。しかも、よほど出来の良い生徒でない限り(たとえ、出来が良かったとしても)この無駄を省く効率志向思考法が毎日の勉強法に入ってきて、「何をやるか」が「何はしなくて良い方が効率的か」の発想につながり、「俯瞰して全体を結びつける」という「メタ認知」を欠くのである。
 こうした俯瞰の能力は、特定集団内で個別に見れば、「あの子よりこの子の方が俯瞰の能力が高い」などの相対的な高低としてわかる。そのせいで勘違いしがちになるが、「集団全体の平均レベルといった水準」の観点で明らかに言えるのは、前の段落で述べた方策では決してメタ認知能力が高まらないという事実である。
 大事なのは、「高まらない」点である。
 つまり、今の勉強は、「マス」の視点で、生徒一人一人が持って生まれた俯瞰などのメタ認知能力を高める方向でされていないのである。

 (なぜ、これがなされないかというと、まだまだ理由を述べることは出来るが、面倒になった。これ、下手にすると「いたちごっこ」が生じるんだよね。)

 と言うわけで、今後も引き続き、「メタ認知能力」は、危ぶまれます。だって、そんなもん、だれも大事だと思ってないもんね。それどころか、「あってはならない」んです。「自分と人は違う」と、多くの人が小さい頃から教え込まれているのだから。

 もう1つ言うと、「必要だからやる」「必要性を感じさせる」という教育指針?から、「自分が必要としないことは無駄」という発想に繋がり、「自分が知らないこと」にエネルギーを使うのは、効率が悪い、やってはいけないことと思うんです。(この意味では、極めて整合性のある思考法です。)
 今は、「効率」「無駄をなくす」「必要性」がキーワードの時代です。「見える化」と言う言葉もあったっけ? 「見えないもの」はダメ、認められないんですよ。

 ちなみに、こうした社会現象を教育の観点で述べると、必ず、「学校教育がそこまで影響することはない」とおっしゃる方がいますが、それは、個別の次元の話です。(ま、学校が社会の影響を受けてそうなったのですが。)
 「マス」として見た場合は、必ず、影響を及ぼします。しかも、目に見えない形で。それを私は、上記に言語化して目に見えるように表現しました。

 でも、ここに書いたことを理解してくれるのは、「メタ」「俯瞰」「抽象」を理解している人だけです。

3 コメント

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Unknown (Unknown)
2011-09-19 03:18:20
>だって、そんなもん、だれも大事だと思ってないもんね。

にはドギモを抜かれました。はじめて舞城王太郎の小説に出会ったときみたいに。けっして諦めようとしない先生のパワーには、いつも読者のほうがタジタジ。失礼ながら、もう50を目前にしていると想像できる女性の「なでしこ」っぷりとは、なんなのでしょう。と、つい日常にヘナヘナとなりがちなおれも反省しているところです。

>この際、彼らの思考の性癖は、常に「それは一人一人違う」という「個別」の意識

ところで、この意識を何と呼べばいいのでしょう。いろいろあるんでしょうが、やっぱり高度に発達した資本主義社会における「個人主義」ではないかと思われます。養老先生の言葉をお借りすれば、極限まで肥大化した脳化意識でしょうか。高度に発達した社会が、むしろ人間の社会化や集団化を阻害して、夏祭りや町内会を衰退させる、などの傾向を助長するのでしょう。

ただ、社会の高度化は、文化を全面的に開花させるのとは違って、実にさもしい方向へと社会の構成員を誘導していくようにもみえます。つまり、自分だけが「食える」方向へと。食えるものが高級フランス料理か一杯500円のラーメンかは関係ありません。ただただ「食える」方向の個人的な模索。

すこし思いつきでコメントしたかもしれませんが、内田先生は、そうした社会をどのように改善していけばいいのかを考えていらっしゃるのではないかと受け取っています。ほり先生もがんばってください。応援しています。
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Unknown (わど)
2011-09-19 03:19:23
うわ、↑のコメント。わどでした!
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中途半端な大脳皮質 (ほり(管理人))
2011-09-20 23:41:02
わどさん、コメントをありがとうございます。

わどさんがおっしゃるように、養老先生は、新皮質は進化の途上にあるから、欲望を抑制できないんだ書いてます。それが資本主義に如実に表れ出てくるのでしょう。

内田先生は、「マス」に対する見方とご自分の周りの人間に対する見方を使い分けている気がします。
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