虫は関節で話をするらしい。人間の関節はすべすべしているからなめらかに動くが、虫の関節には凸凹があるので、ごつごつさせて動くと言う。私のイメージでは、昔々のロボットのようなぎくしゃくとした動きだろう。凸凹をかみ合わせるから同じ姿勢を取り続けることも出来る。しかし、動かせば凸凹が擦れ合うものだから音がすると言う。だから、蟻の巣の中はさぞかし五月蝿いだろうと養老先生はおっしゃる。それで、凸凹は、擦れ合うからには摩滅する。しかし、虫は1年の命だから、摩滅してもその頃には命も終わるから構わないと言う。
なるほど。
私が「養老先生がアタマが良いと思う理由の一つに、↑こーゆーことがある。「凸凹は擦れ合うと音がする」「凸凹は擦れ合えば摩滅する。しかし、虫の寿命は短いから構わない。」
言われてみれば当たり前のことである。
なぜ当たり前なのか。それでなぜ私は感心をするのか。
養老先生は、「凸凹は擦れ合うと音がする」という「普遍」を「具体的な事例に当てはめる」からである。凸凹の摩滅と寿命の関係もそうである。
つまり養老先生は、我々の世界の「ふつーの常識」が昆虫という私などから見れば「特別な世界」にも当てはまるのだ、ということを意識化させてくれるのである。
あまりにも自然で素朴なモノの見方である。でも、私は、大事なのは、こういった感性ではないかと思う。何事も、人間が形作る世界はさまざまである。しかし、その根底に横たわる普遍的な何かを見出す素朴な「感性」は、ものを見る上で非常に大事なことではないか。
我々はややもすると、物事を切りたがる。(コトバの性質がそうだからである。)虫は虫、音は音、凸凹は凸凹と、それぞれ別物であるという見方をする。虫は「生物」だし、音は「物理」である。凸凹は「物理」もあろうが形態として「美術(造形)」である。これらそれぞれを別物として捉えて何の誤りもない。「勉強をする」ことの基本は、虫は虫、音は音、というような「切り方」をまずは覚えることにあるからだ。教科、科目が良い例だ。
しかし、本物の勉強は、そこからまた「何らかの結びつき」を再構築したり、再発見したりすることから始まる。でないと、学校の勉強だって、本当には出来るようにならないのだ。
養老先生のアタマの良さは、いったんは別物として扱われたモノに「繋がり」があることを思い出させてくれることにある。私は、養老先生は、これがものすごくうまいと思う。
私が感心する養老先生のアタマの良さの基本は、こういった点である。
なるほど。
私が「養老先生がアタマが良いと思う理由の一つに、↑こーゆーことがある。「凸凹は擦れ合うと音がする」「凸凹は擦れ合えば摩滅する。しかし、虫の寿命は短いから構わない。」
言われてみれば当たり前のことである。
なぜ当たり前なのか。それでなぜ私は感心をするのか。
養老先生は、「凸凹は擦れ合うと音がする」という「普遍」を「具体的な事例に当てはめる」からである。凸凹の摩滅と寿命の関係もそうである。
つまり養老先生は、我々の世界の「ふつーの常識」が昆虫という私などから見れば「特別な世界」にも当てはまるのだ、ということを意識化させてくれるのである。
あまりにも自然で素朴なモノの見方である。でも、私は、大事なのは、こういった感性ではないかと思う。何事も、人間が形作る世界はさまざまである。しかし、その根底に横たわる普遍的な何かを見出す素朴な「感性」は、ものを見る上で非常に大事なことではないか。
我々はややもすると、物事を切りたがる。(コトバの性質がそうだからである。)虫は虫、音は音、凸凹は凸凹と、それぞれ別物であるという見方をする。虫は「生物」だし、音は「物理」である。凸凹は「物理」もあろうが形態として「美術(造形)」である。これらそれぞれを別物として捉えて何の誤りもない。「勉強をする」ことの基本は、虫は虫、音は音、というような「切り方」をまずは覚えることにあるからだ。教科、科目が良い例だ。
しかし、本物の勉強は、そこからまた「何らかの結びつき」を再構築したり、再発見したりすることから始まる。でないと、学校の勉強だって、本当には出来るようにならないのだ。
養老先生のアタマの良さは、いったんは別物として扱われたモノに「繋がり」があることを思い出させてくれることにある。私は、養老先生は、これがものすごくうまいと思う。
私が感心する養老先生のアタマの良さの基本は、こういった点である。
「「伸び悩み」という幸不幸と人生の無駄」のコメントをまだ返せてなくてすみません(あ,物理のやつも,かな).
(これくらい長くなると,だんだん分かんなくなってくるので大変です(笑))
余裕ができたら,また,コメントとかまとめ的コメントとかを入れるつもりですので,期待せずにお待ちくださいませ.
さて,思ったことを実直に書きます(少々辛口に響くかもしれませんが,どうかご容赦ください)
> 養老先生は、「凸凹は擦れ合うと音がする」という「普遍」を「具体的な事例に当てはめる」
別に養老先生でなくても,そういうことをしている人っていーっぱい居ると思うんですけど…
(具体的に誰?って言われると,著名人のなかではすぐには思いつかないですが…)
> 養老先生は、我々の世界の「ふつーの常識」が昆虫という私などから見れば「特別な世界」にも当てはまるのだ、ということを意識化させてくれるのである
う~ん,そういうことって,別に養老先生じゃなくてもしてると思うけど。。。
してるけど,そのことを強調して言う人は,養老先生ぐらいしか居ない(と思えるほどに少ない),ということなのかなぁ…
「蟻の巣の中はさぞかし五月蠅いかどうか」とか,ちょっと想像力豊かな(ファンタスティックな)子どもなら,考えてみるもんだと,僕は思いますが…(童話とかでそういうのがありそう)
だって,「蟻の巣の中はさぞかし五月蠅いかどうか」とか考えると,わくわくしません?
わくわくすることをわざわざ考えない理由はない.
だが,あまりこういうことばかりを考えていて,そのまま大人になると,市場経済の社会のなかでは生きていけなくなる,多くの場合は.
でもそれを通り越して,養老先生くらいになると(たとえば本が売れるとか),(市場経済のなかでも)生きていけるようになる(笑
> 養老先生のアタマの良さは、いったんは別物として扱われたモノに「繋がり」があることを思い出させてくれることにある。
う~ん… わざわざ養老先生のような偉い人に訊かなくても,そこらへんの小さな子どもを捕まえて訊けば,そういうことは,いくらでもとは言わないけど,結構教えてくれると思うのですが…
養老先生は,その「子ども性」ゆえに(子どもの心から遠ざかっている)多くの人々を感心させる,ということかなぁ…
今、寝ようと思ったのだけど、パソコンが閉じてないのに気が付いて、じゃあ、ちょっとブログを開けてみようかと思ったらコメント付いてて笑っちゃったからレス付けます。(と言って、ほとんど寝ぼけ眼状態。。。)
>(これくらい長くなると,だんだん分かんなくなってくるので大変です(笑))
はあ、私もわかんなくなってます。(笑)先日、読み返したら、すんごい時間が掛かりましたよ~。
>そういうことをしている人っていーっぱい居ると思うんですけど…
著名人って、どういう人かわかんないのですが、テレビなどでしゃべってる人だと、もうちょっと、応用的なことというか表面的なことというか何というか、に私には聞こえるんですよ。だからかな。
>「蟻の巣の中はさぞかし五月蠅いかどうか」
私が感心したのは、蟻さんたちが単にカシャカシャ音立てているってことじゃなくて、それ以上掘り下げようのない蟻さんの身体構造的な観点から蟻の巣の五月蠅さを捉えてるってことです。
蟻さんの関節の内部構造(擦れ合う面に双方に瘤があるようなんですよ。)と結びつける点です。関節の内部構造がつるつるの人間だったら、あり得ない話だから。歩くたびに、腕を上げるたびにひとりでにギコギコ音をさせている人なんていないもの。
寿命の話もそう。寿命が短いから関節内の凸凹がすぐに摩滅しても構わないって発想がすごいと思ったの。
>そこらへんの小さな子どもを捕まえて訊けば,そういうことは,いくらでもとは言わないけど,結構教えてくれると思うのですが…
その辺の小さい子どもも、昆虫の関節の内部構造に凸凹があるから五月蝿いって知ってるってことですか? これはそう思えないんだけれど。
「単に音がする」ってだけなら、知ってそうだけど、でもそれは経験的なものだろうから、私は感心しない。あくまでも、「その理由」をどこまで遡らせて(或いは、掘り下げて)見るかという観点がすごいなと♪
というわけです。
じゃあ、お休みなさい。またよろしくお願いします。
こんちゅう???
・・・うわぁぁぁ~~~ん。
あ、どうぞ、コメレス無しで♪
ギィー ガシャ ギィー ガシャ ガシャ ガシャ
ガッシャーン
うわぁぁぁ~~~ん。
レス無しなんてこと、申し訳なくてできません。
人の場合でも、関節を動かすときにゴキゴキ言うときがありますが、常ではありませんから、昆虫とは質が違うと思うし、ロボット?も昆虫ではないと思います。摩耗を防ぐためには、油を差すといいんじゃないかしら。(するって~と、昆虫の関節に「油」はないのかなぁ?? 養老先生に聞いてみたい。)
音の原因を、昆虫の関節内部の瘤に求めるかどうかの問題です。また、瘤があると、一定の姿勢を取りやすくなるらしいです。(この目的においては、「油」があると、滑りやすくなっていけないのかなぁ??)
どうぞお気兼ねなくまたおいでください♪
うう… そう言われると,確かに,そうではない気がしてきました.
> 掘り下げようのない蟻さんの身体構造的な観点
> 「単に音がする」ってだけなら、知ってそうだけど、でもそれは経験的なものだろうから、私は感心しない。あくまでも、「その理由」をどこまで遡らせて(或いは、掘り下げて)見るかという
内田先生が著書で(浄土真宗のやつだったかな)「或る事柄が起こる要因としてどれだけたくさんの候補を挙げられるか」ということが「人間的の度量の大きさ」と深く関係する(また,それを大きくしていくということが,大人になるということである),というようなことをおっしゃってますが(僕の解釈ではそう),これの養老先生バージョンだと思います.
なるほど,養老先生も内田先生もかなり似ていることをやってるわけだな.
# でもなんでわたしは一方には感心してもう一方には感心しないのだろう? たぶん,文章の音韻とかリズムとか使われる用語の選定とかが関係してるんじゃないかと思っています.
まとめると,養老先生の文章は,「ファンタスティックな想像力ゆえに人々の心を打つ」というよりは,やはりメインの理由は「(内田先生のそれと対して変わらない)どれだけたくさんの可能性を思いめぐらす(またそれを受け入れる)ことができるか」ということの度量の大きさにある,ということになりますね.
以前のほり先生の日記だったかと思いますが,科学系のTV番組で,或る事柄が起こる不思議ばかりを取り上げて,その理由に関する言及がない,ということにご不満を持ってらっしゃったことがあったかと思いますが,私はべつにそれもアリだと思っているんですね.
というのは,「或る事柄を不思議だと思うこと」は,その理由を考えたくなる欲求を生じさせる前提要件だからです.それなしにはそもそも始まらないわけですよ,さまざまな可能性を列挙するという人間的営みが.
むしろ,理由への欲求を上意下達的に強要することのほうが,わたしはなんかとても怖ろしいことのように思います.強要により身に付く列挙能力には応用力がないように思われるからです.
>どれだけたくさんの可能性を思いめぐらす(またそれを受け入れる)ことができるか」ということの度量の大きさにある,ということになりますね
そうですね。ちょっと言葉尻を捉えるような言い方かもしれないけれど、私は、養老先生は、「どれだけたくさん」という平面的なというか量的な可能性より、やはり、「次元」というか「いかにより深く捉えるか」に思いを巡らすのが魅力だと思っています。それが「普遍」ということでしょうし、「抽象」でしょう。
で、でんじろう先生のテレビ番組のことについてですが、あの番組は「感覚」に準拠した番組だったんですよ。だから、「ショー」としての面白さを伝えていた。ですから、
>私はべつにそれもアリだと思っているんですね.
は、「感覚」重視の考え方として大いにアリなんです。
そもそも、「抽象思考」は、大脳が生じて初めて起こってきた思考法で、「感覚」に準拠する捉え方は、生物なら全てが持ち合わせている思考?だからです。
だから、学問なんかしなくても、学校なんかに行かなくても、人間生きていけるわけです。(世界を見渡すとそう言う人は今も大勢みえるでしょう。)
>「或る事柄を不思議だと思うこと」は,その理由を考えたくなる欲求を生じさせる前提要件だからです.
これはその通りです。ただ、今の生徒を見ていると、列挙だけで安心する、それ以上深めてものを見ようとしない、つまりは、「なぜ?」と言う疑問を抱かない生徒がかなりいるのです。(ウチは、ほとんどが大学に進学する学校ですが。)
私から見ると、不思議でしょうがないです。(笑)
「あれもある、これもある」で、満足するのが不思議でしようがない。(まあ、しかし、学校の先生にもそう言う人はたくさんいるのでしようがないかもしれません。)
私の感じだと、「なぜ?」と思う人の割合は、実のところ、ずっと少ないんじゃないかということです。だから、テレビで「なぜそうなるか」までを言及しなくても番組は成立する。「わぁ~、面白い」で終わっても、視聴者は文句を言わない。
逆に理由にまで言及すると、「せっかく面白かったのに、そんな小うるさいことなんて、どうでも良いじゃないか。」という反感さえ買う可能性があるでしょう、ということです。
「学校の勉強じゃあるまいし。」とか。(←どんどん妄想が膨らむ。笑)
(で、ついでに妄想を膨らませていってしまうと・笑)
「学校の勉強」は、さげすまれているんです。「理由なんてどうでも良いじゃないか」「面白ければいいじゃないか」多くの人がそう感じるているから。(くどいけれど、だから、そのような番組が成立する。)
>理由への欲求を上意下達的に強要することのほうが,わたしはなんかとても怖ろしいことのように思います.
「学校の勉強」は、まさに、この上意下達です。本来の学校は、生徒に「なぜ?」と問わせることを覚え込ませる場所です。(蔭山さんだっけ? 百マス計算でも何でもでIQが120?を越える生徒は、「なぜ?」「もっと」などの知的欲求が強くなり、教えるのが大変になるとか書いていたのを読んだことがあります。)
ですから、この件は、見方を変えると、「なぜ?」を問わせる「学校の勉強」が、いかに世間の人の大部分には身についていないか、ということの現れなんですよ。(前に書いたウチの学校の生徒と同様に。)
だから、無理矢理?理由をテレビで述べたら、heisanさんのおっしゃる「強要」だと取られる可能性が出てくるのです。
本来は、内発的な知的欲求としてあって良いはずのものだと私は思います。それが、人間だけがもつ、より深い思考法、一種の抽象的な思考の現れなのですから。
>強要により身に付く列挙能力には応用力がないように思われるからです.
ここ、ちょっとよく分からないのですが。。。
これは、イマドキの勉強、羅列的な思考法に応用力がないという意味ならわかるんだけれど。「これとこれを覚えれば試験に通るよ」みたいな。
「強要」といっても、「なぜ?」を問わせる強要と、「列挙」そのものを身に付けさせる強要では、持っている意味が全く異なると思います。前者は抽象能力に繋がり、後者は感覚世界への依存だけ(つまりはどんな生き物も持っている性質)だからです。
実は私、heisanさんの「列挙」という言葉遣いには、「次元の違い」が抹消されているように思われたのですよ。
私は、「なぜ?」には、次元の違い、深さ、抽象度の違いなどが関わってくると思うんです。で、「列挙」は、私のコトバでは「羅列」とほぼ同義で、同じ次元上、同じ平面上、という感じなんです。
う~ん、これで互いの「読解」がうまくいくかどうかわからないけれど(笑)、一応、付け加えることを思い付きました。
> 私は、養老先生は、「どれだけたくさん」という平面的なというか量的な可能性より、やはり、「次元」というか「いかにより深く捉えるか」に思いを巡らすのが魅力だと思っています。それが「普遍」ということでしょうし、「抽象」でしょう。
「いかにより深く捉えるか」ということなら,養老先生以外の知識人もたくさんやっているはずですよね.しかし,それだけだと,養老先生とそれ以外を分け隔てる理由にはならない.何が養老先生独自の魅力を特徴付けているのか,というのは,やはり分からない…
> ただ、今の生徒を見ていると、列挙だけで安心する、それ以上深めてものを見ようとしない、つまりは、「なぜ?」と言う疑問を抱かない生徒がかなりいるのです。
そこで早まってはいけない,「なんでお前ら,なぜって思わないんだよ.思えよ!」的な強要をするのはヘンだろう,というのが私の言いたかったことです.
前提要件を与えて地均ししたら,あとは生徒の問題です.ただ,ほんとうに前提要件がちゃんと整っているのかどうかの判断は難しい.だから教師の仕事は,どこまでも,「思わず生徒が「なぜ」と問いただしたくなるような状況にいかにうまく誘導するか」というところに所在するわけです.
> 「学校の勉強」は、さげすまれているんです。「理由なんてどうでも良いじゃないか」「面白ければいいじゃないか」多くの人がそう感じるているから。
いつの時代にも,学校(ないしは学校の一部)を敵にすることでアイデンティティを確保している人たちというのが居ます.
「あのセンコーはホンマにどーしょーもなかったよな」とか.
世の中を安寧に保つには,「そういう人たちのアイデンティティの補強に供する」ような番組を報道したほうがいいわけですね.
そこで,「学校さげすみ物語」が登場してくるわけです.
学校をさげすむことで安心する,安定する.
学校を敵にする理由を確保するために,「「なぜ?」と思うことからの逃走」が始まるのです.
そういうこと(仮説)は,じゅうぶんに考えられます.
だから逆に言うと,ある事例を見せつけられて,それを不思議と思うか否かは,単に各自の感性の問題だけではなくて,「俺は,それを不思議と思ったら「負け」なんだ」という,否定しなければならない根拠の有無に由来している,ということも,考えられるわけです.
もちろん,ほり先生の生徒さんたちが,このどちらの理由によって「なぜ?」とあまり思わないのかは,分かりかねますが…(もちろん,どちらか一方の理由だけに限定してしまうことは,単純化のしすぎだとは思いますが)
> 百マス計算でも何でもでIQが120?を越える生徒は、「なぜ?」「もっと」などの知的欲求が強くなり、教えるのが大変になるとか
百マス計算の狙いは本質的には,「先人の「型」にハマること」です.
いちど「型」にはまって,それから,その「型」に対する疑義を主張して,「型破り」が生まれる.
だから,幼いうちから疑義ばっかり発して,「型」を受け入れることができないと,勉強ができなくなるわけです.
で,難しいのは,われわれには,(1)疑義を発さずに先人の「型」を受け入れること(「疑問に思うな!」)と,(2)疑義を発して先人の「型」を破っていくこと(「疑問に思え!」)の両方が同時的に求められて居るんですね.
この矛盾をどう解くか,これが難しいんです.
> >強要により身に付く列挙能力には応用力がないように思われるからです.
>
> ここ、ちょっとよく分からないのですが。。。
すいません,舌足らずでした.
ただ,僕の言う「列挙」は,ほり先生のおっしゃる「羅列」と同義であると思っていただいてOKだと思います.
>「いかにより深く捉えるか」ということなら,養老先生以外の知識人もたくさんやっているはずですよね.しかし,それだけだと,養老先生とそれ以外を分け隔てる理由にはならない.何が養老先生独自の魅力を特徴付けているのか,というのは,やはり分からない…
えーっと。。それは、私の無知と教養のなさ故に、養老先生しか知らないからです。(笑)私が読んで理解できる範囲では養老先生がダントツ。タマタマ出会った養老先生(の考え方)を私は大変気に入ってしまっただけの理由です。
養老先生は、「自分の書いていることはお経に書いてあった」とおっしゃってるので、そのうち、私はお経が好きになるかもしれません。(笑)
>「なんでお前ら,なぜって思わないんだよ.思えよ!」的な強要をするのはヘンだろう,というのが私の言いたかったことです.
えっとー。言いづらいですが(笑)、私は平気で「強要」してます、はい。まさに「なぜって思えよー」って、授業でやってます。うん。しょっちゅうです。「なぜ?」としつこく問い続けるのが私の授業のスタイルかもしれない。
「「なんで、ここで筆者は、こんなことを書いてるのか?」って自分で思うようになれ。そう考えるようになれば、勉強は必ず出来るようになる」と力説さえしてます、はい。「へ?」って顔をする子と「あ、そうか」という顔をする子がいます。後者は伸びます。
>だから教師の仕事は,どこまでも,「思わず生徒が「なぜ」と問いただしたくなるような状況にいかにうまく誘導するか」というところに所在するわけです.
私の場合は、一見「誘導」に見えることはあっても、実際は「強要」です。まあ、勉強は誘導されてするものじゃないと思ってるので。(笑)
>ほんとうに前提要件がちゃんと整っているのかどうかの判断は難しい.
これ、整ってないと思います。理由は、heisanさんがおっしゃる
>だから,幼いうちから疑義ばっかり発して,「型」を受け入れることができないと,勉強ができなくなるわけです
今の小学校って、「納得させる」教育をやってると思います。これは、「疑義に答える」ことです。つまり、前提として「疑義を発することを既に認めている」わけですから。
と、イヤなことだとすぐに「なんで?」と疑義を発する理由がよく分かる。彼らが受けた教育の「成果」です。
>(1)疑義を発さずに先人の「型」を受け入れること(「疑問に思うな!」)と,(2)疑義を発して先人の「型」を破っていくこと(「疑問に思え!」)の両方が同時的に求められて居るんですね.
小さい頃は、(1)でいいのです。そのあとで、(2)に入ればいいのに、今は「納得させる教育」を小学校の時からやってるから順番が後先になるのでしょう。だから、先生や親の言うことを聞かない子が育ち、他もうまくいかない。
内田さんのブログから巡ってここをみました。
さて、ひとつだけ疑問。
養老先生の頭がいいということですが、わたしは虫の例はちょっとおかしいと思います。
つまり頭のいい人はどこかにそれに見合うだけの頭が悪いところがある。突っ張っているところと緩んでいるところが必ずある。
その場合、その両者が絡んで出てくるとどうしょもなくおかしい。
凸凹が擦れ合って磨耗するとすればそれは鉱物などでできた「機械」だけです。生物の細胞は新陳代謝を繰り返すから凸凹が擦れ合っても磨耗することはない。
だから凸凹と磨耗と虫の命をむすびつける論理にはある種のほころびがある。
頭のいい人はそういうほころびに気がつかない。めちゃくちゃ頭のいい人はそういうほころびに気が付き、阿呆なたとえ話を自戒する。
と思いました。