考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

家事と教育の外注化と専門化から、お金の話

2006年07月28日 | 教育
 スーパーに行くと、レトルト食品売り場がどんどん広がっている。レトルトカレーの売り場面積は、ともすればカレールーの売り場面積より多いのではないか。(コンビニだったら、絶対そうだ。)パック入りのお総菜も多種多様である。調味料の種類が増えている。ブランド化による醤油の種類が増えている、などというだけでなく、ポン酢一つをとっても、料理別で「湯豆腐用」「しゃぶしゃぶ用」「冷しゃぶ用」など、「○○味」だけでない用途別である。洗剤売り場に行っても、あまりに用途別に分かれているのに驚く。どうやって選んで良いのか、わからなくなるか、あるいは、考える必要がないかのどちらかだ。そんな風に、次から次へと、「より便利な」「より効果的な」製品開発が行われている現実がある。

 近頃売れた料理本に、料理以前のあれこれについて書かれているのがあるようだ。米の洗い方から、野菜の下ごしらえやらなんやかんや。ちらっと見て、驚いた。家庭で料理をしていたら自然に覚えるようなことばかりだからだ。
 昔は、料理は母親がムスメに教えたものだろう。ムスメは一緒に家事をやったりして覚えていったものだ。今は違うということであろう。料理は、本から覚えたり、学校でならったりするものに変わった。私の世代くらいから、そうなったのだろうと思う。料理が、味付けを含めて、言わば「1対1」で母からムスメに伝わるものから、「1対多」、つまり本や料理教室の特定の味が大勢の読者や生徒たちに伝わるものに変わっていった。それぞれの家庭に入り込めば、それなりにバラエティに富みはするだろう。しかし、「味の規格化」に通じ、お総菜やレトルト食品の浸潤に結びつくだろう。
 レトルト食品や外食は、「一口目がおいしい」が肝要である。それで、化学調味料使用量が徐々に増えてくる。それを「おいしい」と好む人も増えてくる。グルメブームも似たようなものだ。「おいしい」と感じる味を他人と共有できなかったら成立しない。ごく少数の高級料亭を別にすれば、ちょっとした「グルメ」は、安っぽいおいしさで誤魔化したものが多い気がする。(少なくとも私にはそう思われる。ま、そんなグルメでもないけど。)

 掃除も外注化が進んでいる。今月号アエラに詳しい。年収300万円台で外注している話が出ていた。なるほど、そうか。裕福な家庭が、あるいは、働く女性が「賢く」月に1度、清掃会社に水回りの清掃を頼む、などという記事を大分前にも読んだ覚えがあるが、今は更に進んでいるようだ。目的は、「より快適に生活するため」である。働く母親が増えてくると更に増加するだろう。
 
 言わば、掃除が得意なお母さんは(清掃会社の社員や家政婦として)ヨソのお家に行ってそこの掃除をしてお金を稼ぎ、苦手な料理は、料理の得意なお母さんが(スーパーやレストランで)作った食事に頼る、というような、家庭生活の分業化が進んでいるようなものである。

 ここで大事なのは「お金」である。お金を介在させることによって、成立する社会システムである。

 それで、子どもの教育についても同様な傾向が見られるわけである。そもそも学校の成立は、子どもを家庭の外にやることだから、教育の外注化になるが、これは社会的な要請によるところが大きいから別扱いで良い。学校で教わる読み書きは、日常生活とはかけ離れた教育環境でなければ習得できない能力だから、学校教育という構造的なシステムに問題はない。しかし、近年は、家庭教育の「外注化」が助長傾向にある。何でもかんでも、学校の頼る姿勢である。
 躾は家庭で行われるべきなのに、学校任せにしたがる人が増えている。だから、行儀の悪い子供が増えている。きちんと座る、じっと立っている、人の話を聞く、などの基本的な姿勢ができていない。で、高校生にもなって学校で教えなければならない羽目になっている。(小中学校でも習得できなかったということでもあろうが。)

 家事の外注化と似た傾向が見える。
 できないこと、めんどーなこと、あるいは、自分の苦手とすること、したくないことを専門家に任せようと判断する、そういう傾向である。
 「だって、不得意だし、したくないもん。他にやってくれる人がいるんだったら、いいじゃないの。」が多いだろう。(しかし、少なくとも、躾は代わりの人がいるワケじゃない。勝手な思いこみをしないで欲しいです。)

 しかるに、教育に関して、最近の問題だと思うは、学校そのものが学校教育を学校外に外注していると思われることである。
 
 昔からこれはあった。教科書はともかく、準拠の問題集から、小学校などの授業で行うテストなど、いわゆる「業者」が売り込む教材を扱う。
 そういえば、昔々、私が小学生の頃、小学校教諭だったウチの母が「テストを業者がどうのこうの」と言っていたような気がしてきた。業者が持ってきたプリントをテストとして頼る現状を問題視する発言だったように記憶する。(なにせ、コドモの頃だからよく覚えてないのだが、ぼんやりと記憶があるのだ。)

 で、今はそういうのが高校にまで入り込んでいる。ここ数年で猛烈に増えてきた「書き込み式問題集」もそれである。「プリント」に端を発すると思うが、この間来た教材屋が、「先生方の要望で、これ、このテキストに準拠させたプリント集を私が作ったんです。どうですか~?」と売りに来た。

 しかし、これも、まだかわいいものである。(もちろん、悪影響は甚だしいよ。)
 何かで読んだ。予備校の講師を学校に呼んで講習をさせるというところがあるらしい。
 おいおい。とうとうそこまで来たのかい。

 ちょっと前だが、テレビで、進学に強い伝統校復活を狙って、その時は世界史の先生だったが、予備校の先生に授業を見て貰っていた。
 なんてこった。
 内容はと言えば、(見た限りにおいて)たぶん、受験対策でしかない授業である。(教科は違うが、私だって、受験だけか、そうでないかの違いくらいはわかるさ。)学校の授業は、受験勉強だけのためではないのだ。世の中のこうした流れは、知らず知らずのうちにヒタヒタと迫り来る。ウチの生徒が言っていた。「勉強って、点を取るためにやるものでしょ? 他に何があるんですか?」中途半端なヤツに限って、そんなことを言う。
 それで、その高校は、東大合格者増加を目指しているらしいが、今年はうまくいかなかったようだ。まあ、あんな小手先の方策では無理だと思う。もっと、ちゃんと深いところから勉強をさせなきゃ、だめだと思うよ。

 進学指導に関しては、完璧、学校は学校でなくなっている。共通一次に始まった全国統一の試験のせいである。共通一次が始まるとき、私の母校の先生が言っていた。「これで、過去の卒業生のデータの蓄積が台無しになった。」自分たちで実力試験問題を作り、模試よりその成績結果を信頼し、過去の実績と照らし合わせ、合格可能性を先生たちが自ら判断していた。それが、できなくなり、外部組織に頼らざるを得なくなったのだ。
 これが、大学入試センターの影響というか、文科省が全国規模で大々的に行ったことだ。

 試験の規模が大きくなればなるほど、学校が小さくなり、無力になる。今も昔も先生たちの能力はそう変わったわけでなかろう。それなのに、活躍する場がなくなってきたと見ることができる。昨今の教員の問題も、遠因がこんなところにあるのではないか。

 代わりに全国的なデータを持つ予備校などの会社が力を持ってきている。常に仕事を探している、そんな彼らが食い込んできているのが、無力化させられた今の学校である。
 それで、教育改革で学校を取り巻く状況が変われば変わるほど、業者が喜ぶ。先生たちにできないこと、先生たちがしにくいことがどんどん増えれば、自分たちの仕事を増やすことができるのだ。

 よって、受験産業・教育産業の市場は、増大してきているはずだ。それで、そういう会社への就職者も増えてきているはずだ。大学受験に関わる会社なら、社員は全て大卒だろう。大学進学率が50%になって増加した大卒者、また大学院増加による院卒の就職者の何割かは、きっと教育産業に吸収されているはずだ。学校教育が頼りなくなればなるほど教育産業が隆盛を極め、「安泰」になる。最終的には、形骸化した「学校教育」という巨大システムの実質を握るのが最善の策になる。食いはぐれはない。(追記:最後部改変)

 以前も書いたけれど、文科省と厚生労働省は、そのように結託して就業率を上げ、失業率を下げている。(役所にもヨコの繋がりがちゃんとあるのだ・笑)
 
 話は家庭に戻るが、働く母親に代わってタクシー会社が子どもの保育園の送迎を行うところがある。(ビジネス関係のテレビ番組でやっていた。)番組でこのタクシーを利用していたのは、これも、保険の外交か、ごく「ふつー」の仕事を持つお母さんだった。月に1度か2度の利用のようだが、失礼ながらおウチだって、まさか子どもの送迎をタクシーに頼るような風ではなかった。
 昔だったら、余程のお大尽でなければできなかった、あるいはしなかったことである。「分不相応である」と、小金があってもなんらかの後ろめたさで押しとどめられていたことだ。しかし、収入が欲しいタクシー業界と結びつき、そのようなシステムができた。

 とにかく、総じて見えてくるのは「お金」の問題である。目先の仕事、生活費の大切さである。だから、この上ない説得力がある。だれも抗することができまい。

 「外注化」は、「専門化」にも関わる。
 
 子供に水泳を教えたのは、昔は親だった。今は、スイミングスクールである。確かに泳ぎはうまくなる。昔聞いた話だが、体育の教員によると「全然違う」らしい。
 「餅は餅屋」の発想である。

 これは良いのか悪いのか。

 内田先生は、お金の計算がダメらしい。税金に困っていることをブログに書いたら、救世主が現れたらしい。自立は一人で何でもすることではなく、頼れる人がいることで、自分の分を人にやって貰い、自分も人の分をやることだ、自分一人で何でもするのは、孤立である、などちょっと前に書いておられた。

 これは、分業制を取ることに他ならない。それで、これが大規模に行われるのが「お金」を媒介とした「社会」である。家事や教育の外注化と同じである。介護関係では、自治体によって「ポイント貯金」等のシステムを取っていることころもあるようだ。(数年前にテレビでやっていた。)お金の代わりだ。

 内田先生の場合は、内田先生を中心として、ちょっとした共同社会ができたと言うことだろう。それで、先生が言いたいのは、「自分の力で自分を中心とする共同体を作るのが自立だよ」ということだろう。これはこれで、もっともである。隣近所の助け合いに近いものだろう。

 しかし、これが、非常に大規模な形で、見知らぬ者同士で行われているのが、「お金」を介在させる現代の「社会」なのだろう。経済社会とでも呼べるものか。それで、分業化専業化が進むと、互いの関係が入り組んで複雑になる。相手にすべき対象の幅も増える。ますます顔は見えなくなる。(物々交換をしにくくなる。)それで、お金が介在する余地が大きくなる。

 結局、お金の問題に収束する。それで、あくせく働き、働いて得たお金がまたその方向で循環し、止まらなくなる。

 もともとは、たぶん、「より良いもの」を求めてのことだった。しかし、欲望が止まらない。こういった欲望は、個別的な部分的な、具体的なものである。しかし、私たちはたぶん「総体」的な存在である。それで、幸せなのかしら。


2 コメント

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ただいまー (syu-)
2006-08-02 22:50:44
なんか、いない間に長文エントリを連発していますね~うーん、なんというバイタリティー、敬服いたします。



教育産業は隆盛ですが、それは学校あってのこと。なければもっと激しい潰しあいがあってもおかしくありません。比較の対象を同業者ではなくて、学校にすり替えることで生き残りが容易になるような感じがします。錯覚ですがw。学校をどうなさいますか?ミディアムレアー、プリーズということで、学校教育が混乱している状態にはちょっと複雑な感情をもちます。どういってよいかわかりませんが、塾と学校の関係ってあまりよいとは思えないんですよね。
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おかえりなさい~ (ほり(管理人))
2006-08-03 01:14:26
syu-さん、お帰り早々のコメントをありがとうございます。



帰郷、楽しそうでしたね~。人気のない神社でごろんなんて、良いなぁとか、コメントしなかったけど、楽しみに読んでましたよ~。



>>それは学校あってのこと。



彼らにとって一番やりやすいのは、学校が、建物と時間だけがあって中身のない状態であること、形骸化して教育が機能していない状態が、最も好ましいでしょう。中身だけ取って代わるのが一番おいしい。公的な仕事をしながら公的な責任を負わなくていい。



このブログ、読者の方の中に、塾関係の先生も見えると思うんですが、私は基本的には塾を認めません。学校がダメだから、こんなに塾が繁盛するのです。で、最大の問題は、「公教育って何だ」ってことです。



塾は塾で、昔から「学校だけではダメです」みたいなことを言って生徒集めをしていました。学校は集団教育の場ですから、趣旨は異なり、ゆえに、昔は塾の生徒になる対象者が限られていました。

ところが今は、「全ての子供」を対象に生徒集めができるご時世なのです。で、現に、そうしているはずです。これ、社会構造的に見て、絶対に変ですよ。

「全ての子供」を対象にするのは公教育でしょう、ってことです。それがうまく機能してないから、皆が皆塾へ行こうとするわけです。



ところで、今は楽しい(?)夏休み。ちょっと時間に余裕があります。う~れしいな~♪ってとこです。



さっき、syu-さんのとこ、読んできました。胸がきゅんとなります。いいね、あったかい家族。すごく充実、充電されたようですね。残り半年、頑張って~、応援~♪♪



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