又聞きである。しかし、かなり信頼性が高い(と個人的に判断する)情報である。
ある高校生集団が、学校対抗討論関係の全国大会に出たらしい。何かの説明で論理を綿密に組み立てて展開し、反論を企てたらしい。かなり複雑な論理展開になったという。
その反論の仕方が果たして正当だったかどうかという疑問はないわけでないが、なにせ頭脳優秀な生徒が揃っている学校で、その生徒集団の多くは極めて偏差値の高い大学を志望する者が非常に多いらしいから、まあ、複雑な論理展開が正しかったと言う前提で話を進めることにする。
彼らは勝利を確信していたらしいが、審判員が、「論理展開が複雑すぎてわからない。よって、負け。」という結論を出したらしい。
それで、彼らは学習をしたと言う。「人にわかって貰うためにはわかりやすく言うことが大切である。」と。
さて、あなたはどう思われますか。
「その通りだ。自分の主張を通すためにはわかりやすく人を説得することが大事だ。」或いは、「複雑な論理がわからないからダメ、という結論の出し方がおかしい。審判員が非難されるべきだ。」か。
もっとも、これは何らかの「ゲーム」の一種として、審判員の「気に入るように」勝利を得るために作戦を練ると言うことが常識的にあるかもしれない。しかし、である、もしそうだとしたら、あまりにも「論理」をバカにした話で、そんな大会なら、止めてしまえと言いたくもなる。(しかし今は、このことについて議論しない。)
実は、私はこの話を聞いて、仰け反ったのだ。最初に仮定したが、その論理展開が正しいということで話を進めると、たとえて言えば、こういうことである。
ちょっと前に、フェルマーの定理が証明されたというニュースを聞いた気がする。私には全く理解できないことだが、きっと凄いことだと思う。(笑)その証明は、何百ページにも渡るという。で、しかも、その正しさを理解する人は世界中でわずか数人しかいないらしい。それ以外の人は、理解できないものらしい。それでも、その証明は「正しい」のである。
これを、上記に当てはまると、審判員の判断は、「私にはこの証明が理解できない。よって、この証明は間違っている。」という結論を出したということだ。それで、生徒の学習内容は、「証明とは、誰でもわかる簡単なものにしなければならない」ということである。何百ページもの証明は、その存在自体がそもそも「あってはならないもの」ということになるのだ。
このような例を挙げると、「それは数学でしょ? 討論の内容は数学ではないんでしょ。だから、この場合には当てはまらないよ。」と考える方が多いのではないかと思う。
果たしてそうか。
そもそも論理とは、「誰が考えてもそうなる」思考法である。だから、誰でも教師は安心して学校で教えることができるのだ。数学だけの話ではない。国語でも、理科でも、社会でも何でもそうだ。だから、試験をすれば○×がつくのである。しかし、論理の習得には学習が必要で、これは誰でもできるようになるものではなさそうである。逆説的に言えば、誰でもわかることが正しい論理とは限らない、ということである。
しかし、上記審判員は「わかることでないと正しくない、まずはわかることが正しいことの前提になる」という考え方で、参加生徒も「正しいためにはわかることが大事だ、わかることが前提だ」という考え方をしている。それで、こういった考えから「わかることが正しい良いことだ」という価値観が生じた場合、必ずやこの価値観は「誰でもわかることが正しい」に変質するだろう。
それで、例えば、政治の世界においてはどうなるか。たぶん、「スローガン」が最も正しい政治方針だということになる。論理も何もない世界であろう。なんとなく「かっこいい」とか「わかりやすい」という判断で受け入れられるものだろう。これは、だれでも「わかる」内容である。下手に論理的に説明しようとすると、必ず付いてこれなくなる人が出てくる。よって、人気をとることはできなくなる。この観点において、スローガンは論理に勝るのである。で、これ、現実的に見て、必ずそうなるものだと思う。(或いは、既にそうだった? 笑)
それで、私がついつい危惧したのは、その生徒たちはひょっとしたら、将来の日本を背負って立つことになりかねない頭脳集団である可能性があるのだ。
これを「恐ろしい」と言わずして何というか。
ある高校生集団が、学校対抗討論関係の全国大会に出たらしい。何かの説明で論理を綿密に組み立てて展開し、反論を企てたらしい。かなり複雑な論理展開になったという。
その反論の仕方が果たして正当だったかどうかという疑問はないわけでないが、なにせ頭脳優秀な生徒が揃っている学校で、その生徒集団の多くは極めて偏差値の高い大学を志望する者が非常に多いらしいから、まあ、複雑な論理展開が正しかったと言う前提で話を進めることにする。
彼らは勝利を確信していたらしいが、審判員が、「論理展開が複雑すぎてわからない。よって、負け。」という結論を出したらしい。
それで、彼らは学習をしたと言う。「人にわかって貰うためにはわかりやすく言うことが大切である。」と。
さて、あなたはどう思われますか。
「その通りだ。自分の主張を通すためにはわかりやすく人を説得することが大事だ。」或いは、「複雑な論理がわからないからダメ、という結論の出し方がおかしい。審判員が非難されるべきだ。」か。
もっとも、これは何らかの「ゲーム」の一種として、審判員の「気に入るように」勝利を得るために作戦を練ると言うことが常識的にあるかもしれない。しかし、である、もしそうだとしたら、あまりにも「論理」をバカにした話で、そんな大会なら、止めてしまえと言いたくもなる。(しかし今は、このことについて議論しない。)
実は、私はこの話を聞いて、仰け反ったのだ。最初に仮定したが、その論理展開が正しいということで話を進めると、たとえて言えば、こういうことである。
ちょっと前に、フェルマーの定理が証明されたというニュースを聞いた気がする。私には全く理解できないことだが、きっと凄いことだと思う。(笑)その証明は、何百ページにも渡るという。で、しかも、その正しさを理解する人は世界中でわずか数人しかいないらしい。それ以外の人は、理解できないものらしい。それでも、その証明は「正しい」のである。
これを、上記に当てはまると、審判員の判断は、「私にはこの証明が理解できない。よって、この証明は間違っている。」という結論を出したということだ。それで、生徒の学習内容は、「証明とは、誰でもわかる簡単なものにしなければならない」ということである。何百ページもの証明は、その存在自体がそもそも「あってはならないもの」ということになるのだ。
このような例を挙げると、「それは数学でしょ? 討論の内容は数学ではないんでしょ。だから、この場合には当てはまらないよ。」と考える方が多いのではないかと思う。
果たしてそうか。
そもそも論理とは、「誰が考えてもそうなる」思考法である。だから、誰でも教師は安心して学校で教えることができるのだ。数学だけの話ではない。国語でも、理科でも、社会でも何でもそうだ。だから、試験をすれば○×がつくのである。しかし、論理の習得には学習が必要で、これは誰でもできるようになるものではなさそうである。逆説的に言えば、誰でもわかることが正しい論理とは限らない、ということである。
しかし、上記審判員は「わかることでないと正しくない、まずはわかることが正しいことの前提になる」という考え方で、参加生徒も「正しいためにはわかることが大事だ、わかることが前提だ」という考え方をしている。それで、こういった考えから「わかることが正しい良いことだ」という価値観が生じた場合、必ずやこの価値観は「誰でもわかることが正しい」に変質するだろう。
それで、例えば、政治の世界においてはどうなるか。たぶん、「スローガン」が最も正しい政治方針だということになる。論理も何もない世界であろう。なんとなく「かっこいい」とか「わかりやすい」という判断で受け入れられるものだろう。これは、だれでも「わかる」内容である。下手に論理的に説明しようとすると、必ず付いてこれなくなる人が出てくる。よって、人気をとることはできなくなる。この観点において、スローガンは論理に勝るのである。で、これ、現実的に見て、必ずそうなるものだと思う。(或いは、既にそうだった? 笑)
それで、私がついつい危惧したのは、その生徒たちはひょっとしたら、将来の日本を背負って立つことになりかねない頭脳集団である可能性があるのだ。
これを「恐ろしい」と言わずして何というか。
例えば、政治家と学者がいるとします。
政治家は、厳密さを捨てて国民の理解を得ないことには話になりません。
極端なのが、スローガンです。
学者は、正確さを期してできる限り厳密にやらなければ研究とは認められません。
当然、相手は同じレベルの知識を想定します。
前提条件(誰に向けてのものか)と目的(理解か証明か)の違いですね。
実際発表された内容と討論の目的は知りませんが、専門用語を乱発する類のものではなさそうですし、もっと高い評価を与えてもいいと思います。
♪執事さんも養老ファンですか??
政治家と学者の違いは、養老先生がどこかで書いてます。
>>国民の理解を得ないことには話になりません。
これは、選挙を意識した考え方ですね。近頃は皆そうのようですが。
養老先生は、このくらいは最低限にできるだろうと言うこと、みたいなことを書かれていたように思います。
討論としては、「ゲーム」だったと思います。今後の方策を考えるとかそういうのではないと思います。
「もっと高い評価を」というのは、誰に対してか、私、わからなかったので、すみません。
私が思ったのは、その高校生は、複雑な論理を組み立てることができるほど優秀なら、どうしてそんなに容易に論理を放棄できるのだろうか、ということでした。
今後ともよろしくお願いします。
そうですよね。それで、審判員に疑問を持ちました。
フェルマーの定理の証明も、数ページでできる、かつ、だれでも理解できる、と言うことになるからです。
「討論」というのは、論理的に正しいことを言えばよいというものではなく、そこには平たく言うと「相手方を言い負かす」ということで決着がつくわけです。
つまり、相手のレベルにある程度合わせる技量も必要になるはずです。
必要以上に論理的であったりしてはいけないのはもとより、場合によっては「厳密ではなくても(多少の論理的厳格さに欠けていても)相手を納得させる」ことが求められる場面がある…というのが、よくある「討論」というものかと思います。
それが正しい討論のあり方かどうかは別のこととして。
この件に関しては、ただ「審判員のコメントに芸がなかった」ということではないかと思いますが。
政治家と学者については、心理学の「ペルソナ」の概念が頭にあります。
人格の使い分け、みたいな。
>もっと高い評価を
ああ、すみません。
頭のいい高校生たちにもっと高い評価をあげてもいいかな、という意味です。
コメントを簡潔にしようとするあまり切り詰め過ぎました。
>討論としては、「ゲーム」だったと思います。
ゲームですか。
ならレベルが上の人に合わせるべきでしょうね。
学生には少しハードルが高いぐらいでちょうどいいでしょう。
他の学校の学生たちにも内容を理解できる人はいたでしょうし、審査員のいうような理由で勝たせてもらっても、私なら嬉しくありませんね。
よってたかって「理解できない」と主張すれば勝ち、じゃあまりに理不尽ですw
この話を聞いたときは、審判員に対する疑問が強くあって、次に、まあ、負けたせいだからではありましょうが、審判員に対する非難よりも「簡単に言うことが大切だ」という(私には安易に見える)結論を出した(見ず知らずの)高校生に「待った!」を掛けたくなった、という気持ちです。(笑)
>>それが正しい討論のあり方かどうかは別のこととして。
この視点を持ってほしいな、ということです。
相手を説得する、というのは論理ではなく、「人間関係」「政治」ですから、特に、学業修行中の人たちには何でもかんでも人間関係に帰結させて欲しくないな、と。
♪是非、養老先生をお読みください。視点が、切り口が面白いんですよ~。で、具体と抽象が見事に繋がっている安定感。
頭の良い高校生には、論理の重要性をしっかりと学習して貰いたいです。安易に捨てないで~って。
>>よってたかって「理解できない」と主張すれば勝ち、じゃあまりに理不尽ですw
うんうん、そうなんです。しかし、今の世相がそのような。これ、今どきの生徒の感覚です。「わからん、知らん。」ですませる。