考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

痒いところに手が届く問題集

2007年01月14日 | 教育
 教材屋さんがご用聞きに来る。来年度の教材の売り込みである。
 「こんなのどうですか」と出してくるのが、これまた、「そこまでするの」というものだった。文法のサブテキスト?だが、まあ、私が生徒に「こんな風にノートを作れ」と言っている、まさに、そういった類のものが、テキストに既に付いている。例文の和訳もついている。生徒は訳を考える必要がない。
 もし、このテキストを使用するとしたら、生徒はノートを作る必要がない。で、ページを広げて、書き込みをして学習を終わる。で、熱心な生徒は、「先生、勉強したいからプリントをください」というであろう。先生は、生徒のせっかくのやる気を損ねてはいけないと、せっせとプリントを作り学習に励ませるだろう。自分でやれ、なんて冷たいことは言ってはいけないのである。生徒の期待に応える、それが教師の務めだと考えるであろう。今の教師の仕事は、生徒に方向性を与えることではないのだから。

 私は、自分で考えてノートを作る、そのことそのものが大切であると考える。しかし、教材屋さんが言うには、「先生方の希望を聞いてこう言うのを作った」のである。間違いなくそれが事実だろう。でも、こんなのを作るのは生徒の仕事じゃないか。先生や教材屋の仕事じゃないよ。

 こうして、効率性を求める熱心な教員と教材屋の努力が、日本中の子供をどんどん馬鹿に作り替える。

 冬休みの宿題を集めた。問題をノートにやってくる、と言うものである。ところが、これ、非常に見にくい。なぜなら、何割かの生徒は、問題番号をきちんと書かないのだ。例えば、「EXERCISES1 1(1)」など、きちんと書かない。(1)しか書かない。だから、(1)(2)(3)(1)(2)(3)(1)(2)なんて、並んでいる。一体、どの問題の(1)(2)なのかわからない。よって、点検が非常に大変である。ちょっとやりにくい問題は、すっ飛ばしていたりするから。勘ぐると、すっ飛ばしてもわからないように、わざときちんと番号を付けないかのようである。そう言う生徒の割合がもの凄く増えた印象である。

 教員は書き込み式問題集を使いたくなるのに、点検がラクだ、という理由がありそうだ。書き込み式だと、全部したかどうかが一目瞭然である。下手にノートにさせると、こんな風に誤魔化す生徒が出てくる。見落としだって出てくるだろう。(私だってそうだ。)「公平性」の観点で問題があると思うのだろう。きちんとやって出したか出さないかが点数化されるのだから。どれだけ力が付いたかは問われない。だから、生徒も力を付けるためにするのではなく、目先の提出点を求めてやる。よって、普通のノートにやるのなら、なるべく省力化して(飛ばせそうな問題は飛ばして)やった方が「効率的な点の取り方」になる。

 中央公論の今月号(2月号)の教育関連記事の中に面白いのがあった。未履修問題から、「未修得問題」でないことの意味を問うものだった。日本の教育は、「修得」を求めていないという内容だ。書き込み式問題集を提出させて点数化するのも同じコトである。

 平常点なんて、止めてしまえ。何でもかんでも評価するなんて、止めてしまえ。生徒が身に付けたものだけを評価せよ。それが大事なことだろう。

 教員をやっているのがほとほとイヤになる。


2 コメント

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Unknown (heisan)
2007-01-15 02:45:52
まず効率的であることは基本的に悪い事ではないと思います.
誰もいない部屋のエアコンを付けっぱなしすることがいいことではないのは明らかです(*).

学習という営みは,学習結果(結論)のみを習得しようとしても,うまくいかないものです.その結論へと行き着く試行錯誤と紆余曲折の過程をしっかり踏んでいる事が,学習結果の習得にもろに効いてきます.
ほりさんが「いたずらに効率を求めるのはいかがなものか」と考えられるときに言う「効率」とは,「学習結果の迅速な習得において,試行錯誤の過程をしっかり踏まないこと」を指して言われていると思います.が,これは結果的には効率的でないわけですね.「急がば回れ」ということかと思います.

けだし,平常点とは「私は紆余曲折の過程をちゃんと踏んでますよ」ということに関して与えられる評価ではないでしょうか.ただ,紆余曲折の過程をペーパーテストの中で評価するというのは,数学とかであれば可能でしょうが,分野によっては難しい.

また「紆余曲折の過程というのはそもそも評価する必要のないものである」という主張も考えられます.紆余曲折の過程というのは,原理的に,それに伴う学習結果のサポーティングセンテンスになっているので,学習結果を評価する事で,過程の評価も兼ねるからである.また,過程を軽視していたずらに結果を求める者は,理解が疎かになって破綻をきたし,結果的に,学習結果の習得に至らない可能性が高く,学習結果の評価によって高い評価を得ることのできる可能性は低い.よって,評価するのは結果だけでよい.

* ただ,これも程度問題で,標準的な鉛筆削りでは,木材部分のみならず黒鉛部分も削れてしまうので,紙に擦り付けられることのなかった黒鉛は非効率の印か,食事後の皿に残る僅かな栄養分が,自分の栄養にならず下水へと流れていくことは非効率の印か,エビフライのしっぽを食わないのは食料を無駄にしていることに当たるか,というとそうも言い切れないでしょう.
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目的の矮小化 (ほり(管理人))
2007-01-16 19:56:59
heisanさん、コメントをありがとうございます。

効率的とは、要は、無駄を出さない、ということなので、あらゆる点でこの考え方が出てきます。

だから、教える方も教えられる方も、要は、「想像力」の問題になる。想像力の乏しい生徒は、目先の目的だけを求め、テストなら、カンニングもあり得るし、定期テストの勉強はしても(欠点はまずい)、定期テストに出ないことはしない、受験が目的なら、受験だけに対応できるものにする、など、目的が特化矮小化するのです。
 でも、こうなるのは、それ以上の想像力がないから。で、ないもの、しょうがない。わからないものはわからない、ということになって、手の打ちようがない。だって、「それ以上の目的」は、想像しなければ「存在しない」も同然だから。

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