ある会社は、新課程、いわゆる「英語の授業は英語で」の英語の教科書(科目名は知らない。)を出さないことに決めたそうだ。
英断である。
教科書を売らなくても喰っていける会社なのだろう、だから出来た判断だろうが、様子見、なのだろう。
ひょっとしたら、全くの私の推測だが、ちゃんと英語を教えようという人たちの間に、懸念があるんじゃないのかな?
大学の先生だったら、明らかに感じているだろうし、高校教員でも、イマドキの新入生の英語力は本当にひどいと知っている。
基礎力が全くない状況だ。進学校で、本気であればあるほど、中学までの勉強方法をすべて捨てろ、と言っているだろう。
「基礎力」が何であるか、はっきり言って、単語力ではない。最大の基本は統語の能力である。しかし、現状は日本語の主語述語の関係すら認識できないから、この状態で、外国語の統語能力を身につけるのは、どだい無理であろう。しかも、本人たちは、統語の重要性にいっこうに気がつこうとしない。「言葉=単語」の信仰を植え付けられている。ストックフレーズを覚える会話表現が中心の中学英語は、「英語は丸暗記」という思考法を植え付けたのだ。さらに、ちょっと記憶力が優れていればちょっとした進学校に入学できてしまう成功体験が進歩を阻む。
こうした統語を重視しない中学の英語教育の失敗をさらに高校まで持ち込んで、どうするというのだろうか。「英語の授業は英語で」の発想に、統語の重要性は全くない。
もっとも、どんな教え方であろうと、能力の高い生徒は、統語の能力を身につけている。こうした生徒にとって「英語の授業は英語で」は、英語力を高めるのに、非常に有効だろう。しかし、そうでない生徒、おそらく、日本全国津々浦々、9割以上の中学生、高校生は、こうした机上の空論的な教育の犠牲になっている。
とにかく、今の中学生、高校生の英語の力は、ひどいよ。
繰り返しになるが、単語を知らないからではない。単語「も」知らないが、ことの本質は語彙力でない。(こうした事実に関する誤解も、問題をややこしくしている。)
「英語は単語さえ覚えればできるようになる」と思っている人には、2種類いる。統語がちゃんとわかって、その通り、後は単語力さえ増やせば力を付けることが出来る人たちと、統語力がないにもかかわらず、単語さえ覚えれば出来る、と思い込んでいる人たちで、いくら単語を覚えても、英語ができるようにならない人たちである。現在の生徒は、後者が大多数を占める。
対比的に、ある程度年齢が上の層は、意外に、「英語力=単語力」と思っている。理由は、自分たちは、国語を含めた言語の初期指導で、文法など統語に関わる教育を自然に受けて、統語力を持っているから、自分が既に身につけている統語力の重要性に全く気がつかないからである。あるいは、こうした能力は単語を覚えるうちに独りでに身につく、と考える。そのせいで、目に見えてわかる、子どもたちの単語力のなさに目をむけ、単語集を与えて勉強をすれば良いと考える。こういう人は、意外に多い。(英語の先生にも多い。)
しかし、今の子どもたちが抱える問題は、上述したように、「統語」という思考法が言語に存在することに全く気がついていないことである。
だって、教えられたことがないのだもの。母語の文法もよく知らないのだもの。言葉を分割してとらえるという思考法を全く知らないのだから。わかるわけがない。
「英語の授業は英語で」で、どうやって「統語」を教えることができるのだろう?
そんなの、考えてみるまでもない。できっこない。
繰り返しになるが、「統語」という概念があって、最も基本的な英語の統語法を既に身につけている生徒は、全く、問題がない。後は「表現の幅」を増やせば良いのだから。しかし、そうでない生徒は、土台がないのだから、できるようになるわけがない。
大人になって、本気になったとき、最初から、やり直さなければならないのである。それで、「英会話」学校で、おそらく「文法」を教えることになるだろう。会話だって、文法が正しくなければ、使える英語にならない。(「経済効果」としては、その方が有効なのだろうね。日本の社会は、本当に豊かなのだろうね。)
まあとにかく、こうした本末転倒した勉強法は、私の目には、人間の思考力が、どのような物から成り立っているか、全く、わかってないからできるのだろうなと思う。(ちなみに、私は、ちゃんと、わかっている。だから、私は、持って生まれた能力の割に、よく勉強が出来た。今風に言えば、最大限に、効率的、効果的に勉強をしていた。)
世の中の人は、本当に、ちゃんと勉強をしてこなかったのだろうなと思う。だから、こんな変な方策に引きつけられるのだろうな。
上記の会社は、余裕があるのでもあろうが、それなりに考えているのだろうな。(下々としては、かなり興味深い展開である。)
ちなみに、私は、英語は教科書が変わっても、教えるべきことは変わらないと考えている。ただ、教科書によって、使いにくい、使いやすいは、ある。この意味で、だんだん、本当に教科書が改訂されればされるほど、時代の波で泡と消える、くだらない教材、教えにくい教材が増えている。
ある教科書会社が、「復刻版」を出した。もちろん、今だったら、検定に通らない。副教材としての販売なのだろう。現行教科書よりも使いたいと思ったりする。教科書の「復刻版」が「教材」として出てくる、会社が出したくなるなんて、世も末世だよ。(本屋に、歴史教科書が売っているが、あれは復刻版ではない。話は違う。)今の教科書はダメだ、という証左であろう。(ブラックリストならぬ、ホワイトリストのたぐいかも。)
英断である。
教科書を売らなくても喰っていける会社なのだろう、だから出来た判断だろうが、様子見、なのだろう。
ひょっとしたら、全くの私の推測だが、ちゃんと英語を教えようという人たちの間に、懸念があるんじゃないのかな?
大学の先生だったら、明らかに感じているだろうし、高校教員でも、イマドキの新入生の英語力は本当にひどいと知っている。
基礎力が全くない状況だ。進学校で、本気であればあるほど、中学までの勉強方法をすべて捨てろ、と言っているだろう。
「基礎力」が何であるか、はっきり言って、単語力ではない。最大の基本は統語の能力である。しかし、現状は日本語の主語述語の関係すら認識できないから、この状態で、外国語の統語能力を身につけるのは、どだい無理であろう。しかも、本人たちは、統語の重要性にいっこうに気がつこうとしない。「言葉=単語」の信仰を植え付けられている。ストックフレーズを覚える会話表現が中心の中学英語は、「英語は丸暗記」という思考法を植え付けたのだ。さらに、ちょっと記憶力が優れていればちょっとした進学校に入学できてしまう成功体験が進歩を阻む。
こうした統語を重視しない中学の英語教育の失敗をさらに高校まで持ち込んで、どうするというのだろうか。「英語の授業は英語で」の発想に、統語の重要性は全くない。
もっとも、どんな教え方であろうと、能力の高い生徒は、統語の能力を身につけている。こうした生徒にとって「英語の授業は英語で」は、英語力を高めるのに、非常に有効だろう。しかし、そうでない生徒、おそらく、日本全国津々浦々、9割以上の中学生、高校生は、こうした机上の空論的な教育の犠牲になっている。
とにかく、今の中学生、高校生の英語の力は、ひどいよ。
繰り返しになるが、単語を知らないからではない。単語「も」知らないが、ことの本質は語彙力でない。(こうした事実に関する誤解も、問題をややこしくしている。)
「英語は単語さえ覚えればできるようになる」と思っている人には、2種類いる。統語がちゃんとわかって、その通り、後は単語力さえ増やせば力を付けることが出来る人たちと、統語力がないにもかかわらず、単語さえ覚えれば出来る、と思い込んでいる人たちで、いくら単語を覚えても、英語ができるようにならない人たちである。現在の生徒は、後者が大多数を占める。
対比的に、ある程度年齢が上の層は、意外に、「英語力=単語力」と思っている。理由は、自分たちは、国語を含めた言語の初期指導で、文法など統語に関わる教育を自然に受けて、統語力を持っているから、自分が既に身につけている統語力の重要性に全く気がつかないからである。あるいは、こうした能力は単語を覚えるうちに独りでに身につく、と考える。そのせいで、目に見えてわかる、子どもたちの単語力のなさに目をむけ、単語集を与えて勉強をすれば良いと考える。こういう人は、意外に多い。(英語の先生にも多い。)
しかし、今の子どもたちが抱える問題は、上述したように、「統語」という思考法が言語に存在することに全く気がついていないことである。
だって、教えられたことがないのだもの。母語の文法もよく知らないのだもの。言葉を分割してとらえるという思考法を全く知らないのだから。わかるわけがない。
「英語の授業は英語で」で、どうやって「統語」を教えることができるのだろう?
そんなの、考えてみるまでもない。できっこない。
繰り返しになるが、「統語」という概念があって、最も基本的な英語の統語法を既に身につけている生徒は、全く、問題がない。後は「表現の幅」を増やせば良いのだから。しかし、そうでない生徒は、土台がないのだから、できるようになるわけがない。
大人になって、本気になったとき、最初から、やり直さなければならないのである。それで、「英会話」学校で、おそらく「文法」を教えることになるだろう。会話だって、文法が正しくなければ、使える英語にならない。(「経済効果」としては、その方が有効なのだろうね。日本の社会は、本当に豊かなのだろうね。)
まあとにかく、こうした本末転倒した勉強法は、私の目には、人間の思考力が、どのような物から成り立っているか、全く、わかってないからできるのだろうなと思う。(ちなみに、私は、ちゃんと、わかっている。だから、私は、持って生まれた能力の割に、よく勉強が出来た。今風に言えば、最大限に、効率的、効果的に勉強をしていた。)
世の中の人は、本当に、ちゃんと勉強をしてこなかったのだろうなと思う。だから、こんな変な方策に引きつけられるのだろうな。
上記の会社は、余裕があるのでもあろうが、それなりに考えているのだろうな。(下々としては、かなり興味深い展開である。)
ちなみに、私は、英語は教科書が変わっても、教えるべきことは変わらないと考えている。ただ、教科書によって、使いにくい、使いやすいは、ある。この意味で、だんだん、本当に教科書が改訂されればされるほど、時代の波で泡と消える、くだらない教材、教えにくい教材が増えている。
ある教科書会社が、「復刻版」を出した。もちろん、今だったら、検定に通らない。副教材としての販売なのだろう。現行教科書よりも使いたいと思ったりする。教科書の「復刻版」が「教材」として出てくる、会社が出したくなるなんて、世も末世だよ。(本屋に、歴史教科書が売っているが、あれは復刻版ではない。話は違う。)今の教科書はダメだ、という証左であろう。(ブラックリストならぬ、ホワイトリストのたぐいかも。)
そうですか。
そうした世間の事情、存じませんでしたので、正しい情報の提供をありがとうございました。
来年度採用の教科書は、「英語表現」は、これまでの「ライティング」と副読本的な文法を折衷したようなものですね。
「オーラル・コミュニケーション」を引き継いだようなものは少ないです。この科目は、一体何だったのでしょう。
日本人にとっての英語教育は、他の国での外国語教育と異なるのではないかと思うこの頃です。
関係ないけど、教科書会社でも教育出版社の方たちは忸怩たる思いをなさっているのではないかと思います。
だって、大方は、教員より専門家だろうに、良いテキストを作りたいと思っているのに、通じないから。
「先生の学力」が落ちている思っているだろうな。(でも、顧客の悪口になるから表だって言えないでしょう。)
サイエンスライターの竹内薫さんが国語の教科書のための文章を書いたら、現場から要望が出て、氏は小学校の先生の脳みその中を疑ったというようなこと、何かで書いておられました。で、書くのを断ったらしい。
ああ、そうだろうな、そういうことも大いにありうる、と思います。(だって、どんな生徒が先生をしているか、わかるから。)
またお気軽においでください。