考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

同窓会という閉鎖社会

2007年01月16日 | 教育
 母校の高校は、もともとは藩校である。先年、創立百ン十周年を迎えたようだ。知らなかった。先日、地域の同窓会総会があった。まあ、卒業生はあちこちに住まっているので、めぼしいところには同窓会支部のようなものがある。近くの支部同窓会総会に初めて出席した。

 参加者は数十名。該当者が数百人いる中の何十分の一だろう。お年を召した方が多い。旧制中学の出身者もみえるようである。最後に校歌を歌った。中学の校歌を初めて聴いた。高校の校歌にしても、卒業後に歌ったのはこれが初めてじゃないか。小学校、中学校の校歌はそれなりに覚えている。しかし、高校で私は美術選択だったせいもあろうが、ほとんど覚えがない。それでも、メロディが流れ、歌詞カードを見せられると、ああそうだったと思い出してそれなりに歌えるのだから、人間の記憶力とは不思議である。

 先輩に連れられて、2次会にも行った。同郷のママが経営する店である。わいわい凄かったが、故郷が同じだから実家がどこかなど、話が盛り上がりやすい。思わぬところで、「えっ、私もですよ」と声が上がった。私の実家の隣の神社で遊んだと言っている人がいたのには驚いた。親戚がその近所に嫁いでいたのだそうだ。
 この同窓会の会長さんは、私の知っている一つ上級の先輩のおじさんだった。中学も同じだったからよく知っていた。一つ下の弟も、しゃべったことはないが知っていたから、妙な感じがした。まあ、顔を見たとき、名字が同じでお顔付きが、PTA会長だった先輩のお父さんによく似ているとは思ったが、まさかその弟さんとは思わなかった。

 偉いおじさんたちが、教育問題に関心を寄せていた。ある先輩が「大学院卒より学部卒の方が優秀だったりする。流れ大学院はだめだ。」とおっしゃっていた。
 う~む。工学部に行きたい、という生徒には、大学院まで考えろ、と言ったりするからなぁ。。教員採用試験に落ちて大学院に進んだという人もけっこういる。まあ、我々の頃は、大学院なんて余程の人しか考えなかった。しかし、今の修士は、昔の学卒程度の割合のようである。卒業生の話を聞いていると、今の時代だったら、私も当然のように大学院に進学していただろうなあと思う。
 しかし、大学院が増え、当然、大学教員の数も増えたのは、実のところは、今の世の中、かなりけっこうなものになったということである。だって、「教育」という、子供相手の仕事で、これだけの大人が関わり、しかも、収入を得て食べていっているのだから。

 話はちょっと戻るが、まあ、ここから後は、かなりイヤらしい話である。
 いわゆる「学歴」とか「学閥」にもビミョウに関わってくるハナシである。

 あの母校を出て故郷を離れて「便利」なのは、出身高校が話題になると「ああ、○○高ね。」と言う返事が返ってくることが多いことだ。高校教員だから余計にそうだろう。しかも、その際、表情が違う。ぐっとうち解けるのである。かなり嫌らしいと思う。自分も相手も。しかし、「共通の話題」たるものとして、コミュニケーションの道具になる。
 たぶん、昔は、模擬試験、それこそ進研模試とかで、全国版で、成績優秀者の名前が在学校名と共にもろに出ていた。大学によっては、入学後に「ああ、君が○○くん」ということがあっただろう。私はあの名簿で全国の進学校名を学習?した。灘なんて、高校2年が上位者に入っていた。凄い学校である。中学の先輩で、灘に行って潰れた人がいる。ふつーの脳味噌だったら危ない学校だ。可哀想だ。
 
 数百名の卒業生が近隣にいながら、同窓会に来ない、返事も出さない人がいるのは、まあ、母校で凝り固まるようなあの雰囲気に、逆に辟易しているからだろう。身近な人が「そうでない場合」、気が悪いものであろう。
 私学の卒業生の場合は、ことのほか、「この感じ」が強いことだろう。一族郎党皆そうだとなると、「そうでない人」はイヤなものであろう。

 私学も、初等教育から大学まで一貫校を持つところは、この点凄いみたいだ。有形無形の繋がりでメンバーの結束を図る。なんだかんだとしょっちゅう集まっているらしい。職業分野が違っていても、さまざまな情報のやり取り、もちろん、ビジネスチャンスの拡大からたぶん婚姻まで、メリットを受けているのだろう。同窓会が、たんなる回顧趣味的なものでなく、現実に生きているのだ。まあ、閉じた「社会」のやり取りは、外部の目にはかなりイヤラしく見える。
 国公立大学でも、職種によって相当な繋がりがあるようだ。教員の世界でもどうやらそのようだ。(私とは縁がない。)
 まあ、大学では私は落ちこぼれていたから、何とも言い難い。

 進学校でなくても、「地域の伝統ある学校」の場合、地元での勢力や権威に関係するようだ。「地元の名士」たるからには、そこの学校の卒業生でなければならないという類である。変にヨソの土地の「良い学校」を出たとしても、おそらく「名士」たり得ないのである。

 同窓会に行って、随分年配の大先輩とお話ししたりした。その同窓会で私はタマタマちょこっと目立ったので、大学の教員という方ともお話しした。大学の先生方は、結構、話が面白い。しかし、挨拶する時には反射的に「ウチの卒業生がお世話になっております」と言ってしまう。「あら、名刺を持ってないの?」と言われてしまった。ヒラ教員は、ふつー持ってないものである。
 こういう同窓会の良いところは、年齢を超えて知り合えることだろうな。この点、伝統のある学校は、有り難い。卒業生の数が多く、全く知らないもの同士でも、簡単に知り合いになれてしまうから。イヤラシイとも思うけど。

 最近、受験情報が一般誌にも出ているが、新進の進学校にこのメリットがあるだろうかと思う。(ああ、イヤラシイ。)高校にしても、進学だけが目的でない。こういう人的繋がりは、長く続くものでもあるからだ。

 でも、この記事、UPしにくい。だって、同窓の数人(ごくごく少数。この同窓会でしゃべったわけでないもの。)にしゃべっちゃったからなぁ、読まれてるんだよ、これ。(苦笑)でも、折角書いたからUPしちゃおう。


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