考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

見性体験と唯脳論

2006年01月04日 | 養老孟司
 禅の修行をしていると、見性(けんしょう)体験と言うのをするときがあるそうだ。早い人は修行の3年目でもあるようだ。
 あるお坊さんの場合は、座禅を組んでいて鐘の音が聞こえてきたとき、金色の音波が見えたそうだ。幻覚である。その翌朝、雀がチチッと鳴いたとき、聞いているのは自分だが、自分はないという体験をしたそうだ。修行の方向が正しいということのようだ。
 石がどこかにカツンと当たる音を聞いて悟る、ということもあるそうだ。
 「無の体験」によって自分の知覚が変わり、世界が変わるという。 

 こんなの全部、唯脳論じゃないか。養老先生の言ってることと同じだ。だから、養老先生は、自分の考えていることは全部お経に書いてあったと言うんだ。

 だれでも、石の「カツン」を聞いて悟れる訳じゃない。その人がそれまでどうやって何をし、何を求めていたかによる。全部、その人自身の知覚の問題だということだ。

 本に書かれた唯脳論と禅の修行の違いは、禅の場合、「身体」を先に出していることだ。どういうことかというと、禅の修行は、まず、肉体を極限まで酷使し、飢えさせる。そのことによって、精神が、つまり、身体全体からひっくるめた脳という臓器が変容しやすくなる、あるいは脳の意識という働きが身体の変容を知覚しやすくなるのだろう。(←「あるいは」なんていう言葉でつなげたけれど、前者と後者で考え方の基本が全然違うよね。)上記金色の音波の見性体験は、臘八大摂心という数日間の不眠不休の座禅修行のときだったらしいから極限体験が脳(あるいは意識)を変えるということになる。

 養老先生は、禅の修行をせずにわかったんだから凄いなぁ。ご本人に言わせると、「解剖が修行」だったということになるのだが。

 ただ、「禅」とか「修行」という言葉を使うと、「=宗教」となって、現代人(日本人)には抹香臭さをイメージさせて「違う世界、私たちとは、現実とは関係がない」ということになる。

 しかし、「知覚」という言葉を使えば身近になるだろう。世界を「知覚」しない人は誰もいない。で、ブラックボックスだなと思う。入力があって、出力する。過程は、人によって違うから、ブラックボックスである。また、自分が行う判断も、自分で「感じて」、「考えて」、これこそ当然だと言動しているわけだが、その過程は、自分の外部に立つと、やはりブラックボックスであろう。自分で自分の全てを意識できるわけではない。しかし、ボックス内の過程がどうなっているかをある程度意識できたり出力が予想できることが「自分を知る」になるのだろう。で、多くの人に当てはまる入出力の過程を探ることが「人間を知る」ことになるのだろう。

 禅の修行でこのようなことが起こるのも、知るべき人間の特性の一つのはずだ。「無思想の発見」に書いてあったと思うけど、お釈迦様の時代は現代ほどモノはかなったから自分をよく見た、自分について考えたとかいうけど、禅の修行僧は、新聞もテレビも見ないものらしい。で、自分と向き合って己を知れ、ということだろう。

 ところで、私は新奇探索傾向が少ない。(笑)どこそこに新しい店ができたとか、今はこういうサービスをしている、とか何とかいう情報には疎いし、あまり興味もない。あれもある、これもある、と言う世界が苦手だ。その代わり、少しの情報(入力)でもいろいろ考えるのが好きだ。それでも考えるべき(と思われる)ことは、自分でついて行けないほど広がっていく。
 どっちが良いとか悪いとか言う問題ではない。が、私はマイノリティだと思う。人間のマジョリティは、新奇探索傾向が強いモノだから、(だから、人類の祖先はアフリカの森を離れて未知のサバンナに降り立ったのだ。)「ふつー」の人は、情報過多すぎる現代社会では、意識的に「遮断する機会」を得ることが今の生活に必要なんじゃないかなと思う。いくら新奇探索傾向が強いからと言って、情報量は多すぎるのだ。(で、より多くの情報を得たいと思う人の一群が、ひょっとしたら、新しい種へと進化していくかもしれないな。デザイナーチャイルドとかからね。まあ、でも、最終的には、身体との関係、つまり物理との関わりをどうするかだろうな。)
 
 で、子どもの場合の情報との関係は、、、。

 (あ、これ以上、考えるの無理。えねるぎー切れ。ここから先は教育問題になるなぁ。。 私ってやっぱり「先生」なんだね。(笑))


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