考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

グリズリーベアの'grizzly'

2007年01月04日 | 教育
 テレビで写真家星野道夫をやっていた。アラスカの自然を写真で存分に表現した方だと思う。著作のある方で、教科書で教えたことがある。撮影旅行中、熊に襲われて亡くなった。

 教科書でgrizzly bearが出てきた。Grizzlyは新出単語だった。当時は学年共通プリントを作り、授業で活用した。新出単語も入れていた。
 その課は私の担当でなかった。すると、grizzlyが抜け落ちている。指摘すると、「まあ、いいでしょう」という作成者の言葉だった。「受験単語ではないし。」「でも、教科書ですよ。教科書に出てきた単語は全部覚えるべきでしょうに。」「入れなくていいでしょ。受験とは関係ないから。もう(原稿を)作ってしまったし。」
 フロッピーディスクを借りて、結局、私のクラス分にはgrizzlyを入れた。

 途中から目にしたからよく見てないものの、テレビ番組では、この熊を「グリズリー」と称していた。私は、その当時はこの名称を知らなかった。調べた分に、辞書によってはこの熊の名称としてしか出てなかったり、身近な語とは思えなかった。しかし、だから、どうだというのだろう。授業で扱う教材である。それを受験云々で取捨選択すべきものであろうか。

 生徒がこの番組を見ていたら、どう思っただろうか。「グリズリーって、英語の教科書にも出ていたな。」私はそう思って欲しい。アラスカに行くことがあるのかないのかわからない。しかし、「アラスカの熊はグリズリーって言うんだ」、それでいいじゃないか。それが学校で勉強をしたということだろう。グリズリーを綴りから覚えようと努力して知っているのと知らないのとでは、世界観が異なってくるだろう。それで、今後も、教科書の単語が受験に出るかどうか出取捨選択されるとしたら、捉えられる世界がそれだけ小さくなることだろう。

 私はもの凄くハラが立った。たかが単語の一つと思う人もいるだろう。しかし、その人の世界観に関わる価値観の問題なのだ。それで、最大の問題は、これが通じない、ということなのだ。(とてもじゃないが、これでは英語を教えたことにもなるまい。)「受験」の名を借りた中途半端指導は嫌いである。

 

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