今日の覚書、集めてみました

いつの間にか、10歳になりました。

「君が代」イギリス源説@テレグラフ

2005-08-31 08:53:32 | Telegraph (UK)
『君が代』の起源はイギリスだ、とウリナラのような事を言っていますが、まあ、内容的には別にOffendされる必要もなく………イギリスと日本の仲は、実はアメリカと日本の仲よりも古くて深いのよ、なんて事は、今更言われなくともわかっているわけで、ワタクシのようなもともとアングロファイルな人間としては、「そうか、そりゃあ良かったね」で済むわけですよ。

最初の半分がなければ、ね。

なんだ、お前等、イギリスのパブリックスクールの方がもっと厳しい教育してるだろうが。東京都が、国が食わしてやってる教師と生徒に「国歌の時は起立して歌いなさい」というのは当然以外の何物でもないだろう。いやなら高い金出して私立行けよ。もっとも、私立の方がビシッとしてるんでないか?

はっはっはっ、こういうところはイギリスも日本も似たり寄ったりかもしらんが。

そりゃあね、あんた達の「Department of Education & Science」、元DES教育省ってのは、センセー連中の労組の為に作って、奴等の給料がパブリック・スクールの優秀なセンセー方のそれに近付くようにつくり、DESの2,000人をこす官僚の飯の種として作っただけで、
生徒も親もどうでもいいさ、俺達の子供はパブリック・スクール入れるもんね
ってなわけだったんだろうが。そんな馬鹿政策でシングルマザーの山を作り、少年犯罪やら少年ホームレスを大量生産した国から云々言われる筋合いはこれっぽちもない。

ほんと、お前等、自分等の事棚に上げるのは天才的だな。

1. Briton who gave Japan its anthem
By Colin Joyce in Yokohama
The Telegraph: August 30, 2005

Nothing divides Japan, a country that sees social harmony as a supreme public virtue, more bitterly than its national anthem.
国歌ほど、社会の調和がこの上ない公的美徳であるという見解を持つ日本を、激しく分けるものはない。

Nationalists force the song into Japanese public life, demanding that Kimi Ga Yo (His Majesty's Reign) be played at every school ceremony. Tokyo's local government insists that teachers stand and sing what is essentially a hymn to the emperor or face fines and suspension.
ナショナリスト達は「君が代」があらゆる学校式典で演奏される事を要求して、この歌を日本の公に強制する。東京都は、教師達は起立し、本質的に天皇への賛美歌であるものを歌うか、罰金と停職処分だ、と強要する。

But a large minority associate the tune with the militarism and deification of the emperor that drove Japan to the catastrophe of the Second World War.
しかし、大部分のマイノリティは、この曲を軍国主義と、日本を第二次世界大戦の破滅へと追いやった天皇の神聖視を、関連付けている。

Even Emperor Akihito stepped into the debate last year, saying that it was "not desirable" that respect for the anthem be imposed on reluctant Japanese.
昭仁天皇でさえ、国歌への尊敬を、そうしたくない日本人へ課す事は「望ましくない」、と言って昨年この論争に踏み込んだ。

Almost completely forgotten, however, is that the origins of this contentious piece of music can be traced back to John William Fenton, bandmaster of Britain's 10th Foot Regt, 1st Bn.
しかしながら、ほぼ完全に忘れ去られている事実は、この人騒がせな曲の起源が、第十歩兵連隊第一大隊の楽長であったジョン・ウィリアム・フェントンにまで遡る事が出来る、という事だ。

Fenton arrived in Japan in 1868, the year Japanese modernisers overthrew the medieval shogunate and replaced it with a constitutional monarchy.
フェントンは、日本の近代主義者達が中世の幕政を倒し、立憲君主制と挿げ替えた1868年に、日本に到着した。

His regiment, later renamed the Royal Lincolnshire Regt, had come to protect the small foreign community in Yokohama from samurai diehards bitterly opposed to the foreigners' presence on their soil.
その後ローヤル・リンカンシャー・レジメントと名前が変えられた彼の連帯は、横浜の小さな外国人社会を、外国人の存在に反対する頑固な保守主義サムライ達から護衛する為にやってきた。

During his three-year stay Fenton established Japan's first military brass band, ordering the instruments from London and composing what was intended as its first national anthem.
彼の3年間の滞在中フェントンは、ロンドンから楽器を取り寄せ、最初の国歌になるべき曲を作曲して、日本で最初の軍楽隊を創立した。

Historians record that 30 cadets from Satsuma, in Japan's far west, were staying a short walk from the park where Fenton's band rehearsed and performed. Fenton also became the instructor for the Japanese group, whose average age was 19.
歴史家達は、日本の遥か西方にある薩摩から30名の士官候補生が、フェントンの軍楽隊がリハーサルをしたり演奏したりしている公園から直ぐ近くに滞在していた、と記録する。また、フェントンも、平均年齢19歳の日本人グループの教官になった。

"He must have been an extraordinary man with great patience. He had to teach people who had never even seen or heard brass instruments," said Ryu Saito, a historian and president of the Yokohama Arts Foundation. "He brought them to the level where they were good enough to be Japan's first military band."
「彼は我慢強い非凡な人だったに違いない。一度も楽器を見た事も聞いた事もない人々に教えなければならなかったのだから」
と、歴史家であり横浜芸術協会会長のサイトウ・リュウが言った。
「彼は彼等を日本最初の軍楽隊として十分なレベルまで導いた」。

Fenton also convinced the Japanese that to become a modern nation state they needed a national anthem. He talked passionately to his pupils about the importance of God Save the Queen in British life and urged them to find a suitable poem in Japanese, which he would set to music.
また、フェントンは日本人に、近代国家になる為には国歌が必要だ、と納得させた。彼は、英国人の人生においてどれほど『God Save the Queen』が重要であるか、情熱的に生徒達に語りかけ、彼等に彼が曲をつけるべき(国歌に)相応しい日本語の詩を見つけるよう励ました。

Captain Iwao Oyama chose a 10th-century poem that prayed for the longevity of the "Lord", usually assumed to be the emperor.
オオヤマ・イワオ隊長は、通常天皇と考えられる『我が君』の長寿を祈る10世紀の詩を選んだ。

The excited Japanese pressured Fenton to complete the score in less than three weeks and the band had just days to rehearse before its debut performance in front of the emperor in Tokyo in 1870.
喜び勇んだ日本人はフェントンに楽譜を3週間以内で完成させるよう迫り、1870年に東京で天皇の前で初演奏を行うまで、楽隊はリハーサルにはほんの数日しかなかった。

Ten years later Japan replaced Fenton's composition with one by a Japanese composer. This version, still used today, was commissioned by one of Fenton's pupils and retains the same words.
10年後、日本はフェントンの作曲を日本の作曲家の曲に替えた。
今日も使われているこのバージョンは、フェントンの生徒の一人によって依頼され、歌詞はそのまま残した。

Fenton's regiment left Japan in 1871 but he stayed for a further six years as a bandmaster with the newly formed Japanese navy and then the band of the imperial court.
フェントンの連帯は1871年に日本を去ったが、彼は更に6年間、新たに結成された日本海軍と、その後は皇室の楽隊の楽長として滞在した。

His wife, Annie Maria, died in 1871 aged 40. Her grave is in Yokohama Foreigners' Cemetery. Fenton's fate is unknown.
彼の妻、アニー・マリアは1871年に40歳で亡くなった。彼女の墓は横浜の外国人墓地にある。フェントンの運命は知られていない。



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