天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

桜木紫乃『霧ウラル』

2017-06-01 14:09:35 | 
坂本ヒメミの装画の、氷の山の上に立つ男女は、相羽重之と相羽珠生であろう。海は根室海峡で向こうの島影は国後島。

桜木紫乃『霧ウラル』は、昭和30年代の根室の名家河之辺水産の三姉妹の生き様を描く。次女珠生の視点でほかの二姉妹やそれに関わる人々を怜悧に描く。
珠生は名家にそむいて芸者になりやがてヤクザに添う河之辺家の外れ者。
長女智鶴は政界入りを目指す運輸会社の御曹司に嫁ぎ、三女早苗は金貸しの次男を養子にして実家を継ぐことになり、娘三人とも夫にただついていく生き方は選ばない。

小学館編集部は、本書は桜木版『ゴッドファーザー』であり、桜木版『極道の妻たち』であり、桜木版『宋家の三姉妹』であると紹介する。
まさにその通りであり、珠生の生き方は鉄火肌の姐御といっていい。

桜木のクールな文体が放つ女の処世訓はふるっている。少し抜粋する。


夜の街で、男の本心などどこにあろうと訊ねてはいけないと学んだ。女がひとたび満足ゆく答えを求め始めたら、簡単にこの時間を失うのだ。女の問いには際限がない。答えを出さないことが男の出口なら、それを塞いではいけない。芸者稼業をしていた珠生が人の罪をかぶって服役する相羽重之に惚れたとき。

男と女でいる時間を経て一対となり、獅子と牡丹に見えなければならない。自分たちはそういう間柄なのだと思った。夫には囲う女がいる。珠生はそういうことを越えて相羽珠生であることを目指す。

心が沈みかけたときは、晴れ渡った海峡と指に光るものを見る。緑が芽吹いては枯れ、雪が降っては解けることを繰り返すなか、島の遠さと宝石の輝きはいつも同じだ。
相沢組の姐御として珠生は身を飾ることを覚える。女を複数囲っている夫への腹いせもあって宝石を身につけることで憂さ晴らしをする。

珠生と夕食を一緒に摂るのは、週に一度か二度のこと。小路の家にいたときと変らない。女房も妾も、お互いの居心地の悪さの向きが違うだけで、女の居場所にさほど違いはないのだ。
珠生はいまは妻だが昔は相沢に囲われていたこともありいろいろわかる女。

多少外で遊んだとしても、「ただいま」と「おかえり」の会話がひとつあれば、夫婦はまずまずなんとかやっていけると龍子が言う
龍子は前の置屋の女将にして叔母。女の生き方を説く先輩。


愛しい男と、いますがりついて泣きたい男が、別の場合もあるのだと思った。
愛しい男は夫。いますがりついて泣きたい男は夫の部下の木村。木村と夫はともに国後島出身。夫は沈んだ船から流されて本土へ着き、木村は流氷の上を歩いて来た。

産む苦しみと産めぬ苦しみにどんな違いがあるのかを未だ正体を見せようとしない神、あるいは悪魔に問うた。夫の囲っている女スミと面会する場面。スミは夫の間に子をなしている。スミは土下座して珠生に謝る。

題名の『霧ウラル』。
ルビふうのウラルが何なのかわからないのだが、霧は効いている。
日本の野付半島と国後島が30キロ弱であることをリアルに感じさせてくれる本である。相沢組がヤクザとか裏稼業と言われるのは海峡に出没して違法操業(密漁)や秘密の取引(密貿易)をしているからだろう。
相沢組では素性はわからないひとばかり働く。
相沢にしろ番頭の木村にしろ国後島出身であるしロシア系やほかの民族も大勢本土にいたことが想像される。
昭和30年代の根室やそのあたりがいかにソ連と近く、ロシア人をそばに感じて暮らしているかが、濃い海霧を介してリアルに語られる。
桜木の静謐で抑制の効いた文章は国境の町を書くのにぴったりである。
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