氣楽亭 日乗

大阪生まれで奈良県広陵町の長閑で氣楽な田舎暮らしの氣功師が氣ままに綴る懐かしい昭和の年代記です。

宮田 征典 「八時半の男」

2012-06-07 13:11:05 | 懐かしい思い出
「宮田征典」投手「日本大学」から1962年に読売ジャイアンツに入団。
巨人に入る予定の日大の同級生「竹中惇」が中日ドラゴンズに引き抜かれた為に代わりの選手を求める巨人「川上哲治監督」の要望に
より「宮田」が入団することになりました。
この時は3年で辞めて実家に戻るつもりだったという。
その3年目に肩を脱臼して戦線離脱しそのことを父親に報告するとそのまま辞めて家業を継げと言われる。
が「宮田」はその言葉に反発しまず故障した原因を考えた。
それが肩回りの筋力が弱いことだと判ると鉄アレイや自作の器具でトレーニングを積みその結果抜群のコントロールを得る。

心臓に疾患を持つために先発投手として長いイニングを投げることが出来ず当時の「藤田元司」投手コーチの勧めもありリリーフへ専念。
当時はセーブ制度がなく先発中心の時代でリリーフ投手が登板する試合は敗戦試合であることが往々にしてあった。
「宮田」は持ち前の伸びのある直球やドロップの握りを微妙に変えて様々に変化させる「ミヤボール」そして正確な制球力で
同点試合・勝利試合に多く登板します。

1965年は69試合に登板し20勝(うちリリーフで19勝さらに現行の規定ならば22セーブを達成)投球回数164回2/3の好成績を収めた。
400勝を目指す現役晩年の「金田正一」の後を受けてロングリリーフすることも多く登板イニング数が伸びた一因と思われる。

後楽園球場の場内アナウンスを担当していた「務台鶴」が宮田が登板する時間帯が「午後8時30分(8時半)」前後であることに気づき
「宮田さんはよく8時半頃に登板するのね」と発言したことがきっかけになり「8時半の男」との渾名が付けられた。
20勝目は10月6日「阪神タイガース」戦で8回から2イニングを走者を出さずに抑えて達成する。

なんとも懐かしい「八時半の男」でした・・・