『Wikileaksは止まらない』(さがな者日重録 (さがなものひがさねろく))リンクより転載します。 ---------------------------------------------------------------- Wikileaksは止まらない -情報の均等性を求める合理化からみれば- 米国の外交文書が一斉に公開されて、なかには機密文書も多数流れており、国益をそこねたり、相手国にたいする負の影響を及ぼすことが危惧されているという。 各文書の内容についてはそれぞれ当該情報関係者、利害関係者によってその公開(暴露・漏洩)されたことの意味はことなるであろうから、第3者がとやかく言ってみてもあまり意味はない。せいぜい傍観者の覗き見趣味を満足させる程度のことだろう。 問題はこうした情報流出(暴露、漏洩)というものが時代の中でどういう意味を持つかということである。 人間社会は支配するものと支配されるものから成り立っている。この普遍図式の中に情報の取り分を位置づけて見ると、ハッキリするが、支配とは情報の占有権の強さをめぐるものだと見てよい。 歴史的にみれば、時代のイデオロギーや支配的な価値観の構築、確立、普及といったことは典型的には宗教団体の教祖の言辞、教典の確立、伝播・普及活動にみられるように、抽象的には情報の構築であり、伝播であった。教育というものもその情報伝達手段の一形態である。 われわれが今日疑問もなくあたりまえに思っていることも、実は積み上げられたきたことも含めて、構築された情報である。歴史、諸科学、伝承あらゆるものがそうである。 さて、この情報は支配するものと支配されるものとの関係に於いてみれば、支配「する」側の持つ情報量は圧倒的に支配「される」側のものよりも多い。このことは民主主義社会よりは絶対君主や王様支配の社会のほうが圧倒的に情報の取得量に於いても質においても不平等であったことを思い浮かべればよいだろう。 支配「する」側と「される」側の情報量、情報支配力は歴史をさかのぼればのぼるほど不均等であり、その差は大きかったといえる。民主主義社会は市場の完全競争モデルの前提となる市場参入者の均質情報の同時所有と同様、原理としては社会を構成する主体はみな同じ情報をもちうる平等を条件・前提としている。この均質化、均等化は富の配分に於いて徐々に中産階級層という形での均等・均質化に結びついたが、社会的、政治的な情報取得力、操作力においては市民個々人にはもたらされることがなかった。21世紀にはいるまでは、代わりにマスコミ(新聞社やTV会社等)が代理的な役割を果たしていた。 市民には情報の平等化要求の意識(知りたい欲求)はあっても、それを可能にする道具が最近までなかった。 しかし、インターネットの確立がすべてを変えた。まさに革命である。 これも合理化進展の帰結するところである。こういう流れの中でWikileakの動きをみれば、それは当然の動きであり、機密とは支配する側にとっての機密なのであり、利害関心からの位置づけでしかない。利害関心は流動的であり、実体はない可変的なものである。しかし、合理的な物的システムは普遍的な効力を持っている。支配するもの、されるものを超えて効力を持っている。ゆえに、情報は合理的なシステムの中を流れるようになるのは必然である。Wikileakの情報漏洩・公開化・開示化の流れはだれもとめることができない。 ----------------------------------------------------------------
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