渋谷のパルコ劇場で、観劇してきました。
青木さやかの前説で始まります。そこでも強調されていたように、今回の舞台は「喜劇」として演出されたもの。チェーホフ原作の『桜の園』にはっきりと「喜劇」と書かれているにもかかわらず、これまで日本では「悲劇」として演出されることが多かったことに疑問を抱いていた三谷幸喜が、初めてチェーホフ劇を「喜劇」として演出することになったのです。ぼく自身、チェーホフの作品には笑いの要素が多いと感じていたので、今回の公演を楽しみにしていました。
舞台の始まる前に、きれいなロシア語で観劇上の注意(携帯の電源は・・・等々)が放送され、それが日本語に訳され、というのを繰り返していたら、次第にピロシキやイクラの話になっていき、こういうどこか『煙草の害について』(チェーホフの一幕物)を想起させる脱線で、幕の開く前から観客の笑いを誘います。そして突如「それでは公演が始まります」と放送され、舞台が明るくなります。
総じて、想像以上に原作に忠実だったように感じました。それにしても『桜の園』は演出するのが非常に難しい芝居ですね。「喜劇」にしてはしんみりし過ぎているし、「悲劇」にしては笑いの仕掛けが多すぎる。今回は喜劇の要素を前面に出そうという演出だったはずですが、それでも芝居のそこかしこから滲み出してくる悲哀、哀愁、苦悶は、この原作が一筋縄ではいかないことを多弁に物語っています。しかし、三谷幸喜の演出は、『桜の園』のこの両義性を提示することに(思いがけず?)成功してしまっているようにも感じました。最初に書いたように、あるいは三谷氏が繰り返し述べているように、従来の『桜の園』は「悲劇」一辺倒で演じられてきたので、そのような笑いと涙の両義性には乏しかったかもしれません。これを、「笑い」一辺倒に逆転させてしまうことが演出家の狙いだったのかもしれませんが、でも実際の舞台を見てみると、確かに笑える箇所も満載なのですが、反対に思わず目に涙が浮かんでしまうようなシーンも少なからずあるのです。
概ね原作に忠実なので、憂愁を醸し出す原作の雰囲気がそのまま舞台上でも発散されています。大胆に台詞をカットしている箇所もあるようですから、そういう悲劇的な要素は全て削ぎ落としてしまうという手もあったはずですが、しかし三谷氏はそれを残しましたね。単に、そうしなければ芝居が成立しないという事情があったのかもしれませんが、少なくとも結果的には、笑いと涙が併存する両義的な芝居になったと思います。
「悲劇」的な側面について少々喋り過ぎたようですが、今回の芝居は、それでもやっぱり「喜劇」でした。冒頭近くのシーンから笑わせられました。エピホードフという使用人が、買ったばかりの長靴を履いて登場するのですが、この長靴が可笑しな代物で、歩くたびにピヨピヨと妙な音を立てるのです。これ、三谷幸喜の小芝居かと思ったら、そうではなく、ちゃんとチェーホフがト書きで指示していることなんですよね。完全に読み落としていました。他にも、こういった小ネタや会話の応酬で楽しませてもらいました。とりわけトロフィーモフ(藤井隆)絡みのやり取りはおもしろかったです。客席が大いに沸いた場面、いくらなんでもチェーホフはそんなこと書いてないだろと思って後で戯曲を確認してみたら、確かに「そう」は書いていない。しかし、結局「そう」いうことだと想像できる台詞は書いてある。つまり、三谷幸喜はチェーホフの書いた台詞を膨らませて、行間を読み、それを役者に喋らせているのですね。「ここはチェーホフが笑わせたかったところだ」と三谷氏が考えた(だろう)箇所は、チェーホフが書いたままの台詞ではなく、より具体的に、より現代的にアレンジして観客に差し出しているわけです。ぼくはちょっと感心しました。
適材適所の配役だったし、よい芝居でした。三谷氏には、ぜひ他のチェーホフ劇も演出してもらいたいです。
青木さやかの前説で始まります。そこでも強調されていたように、今回の舞台は「喜劇」として演出されたもの。チェーホフ原作の『桜の園』にはっきりと「喜劇」と書かれているにもかかわらず、これまで日本では「悲劇」として演出されることが多かったことに疑問を抱いていた三谷幸喜が、初めてチェーホフ劇を「喜劇」として演出することになったのです。ぼく自身、チェーホフの作品には笑いの要素が多いと感じていたので、今回の公演を楽しみにしていました。
舞台の始まる前に、きれいなロシア語で観劇上の注意(携帯の電源は・・・等々)が放送され、それが日本語に訳され、というのを繰り返していたら、次第にピロシキやイクラの話になっていき、こういうどこか『煙草の害について』(チェーホフの一幕物)を想起させる脱線で、幕の開く前から観客の笑いを誘います。そして突如「それでは公演が始まります」と放送され、舞台が明るくなります。
総じて、想像以上に原作に忠実だったように感じました。それにしても『桜の園』は演出するのが非常に難しい芝居ですね。「喜劇」にしてはしんみりし過ぎているし、「悲劇」にしては笑いの仕掛けが多すぎる。今回は喜劇の要素を前面に出そうという演出だったはずですが、それでも芝居のそこかしこから滲み出してくる悲哀、哀愁、苦悶は、この原作が一筋縄ではいかないことを多弁に物語っています。しかし、三谷幸喜の演出は、『桜の園』のこの両義性を提示することに(思いがけず?)成功してしまっているようにも感じました。最初に書いたように、あるいは三谷氏が繰り返し述べているように、従来の『桜の園』は「悲劇」一辺倒で演じられてきたので、そのような笑いと涙の両義性には乏しかったかもしれません。これを、「笑い」一辺倒に逆転させてしまうことが演出家の狙いだったのかもしれませんが、でも実際の舞台を見てみると、確かに笑える箇所も満載なのですが、反対に思わず目に涙が浮かんでしまうようなシーンも少なからずあるのです。
概ね原作に忠実なので、憂愁を醸し出す原作の雰囲気がそのまま舞台上でも発散されています。大胆に台詞をカットしている箇所もあるようですから、そういう悲劇的な要素は全て削ぎ落としてしまうという手もあったはずですが、しかし三谷氏はそれを残しましたね。単に、そうしなければ芝居が成立しないという事情があったのかもしれませんが、少なくとも結果的には、笑いと涙が併存する両義的な芝居になったと思います。
「悲劇」的な側面について少々喋り過ぎたようですが、今回の芝居は、それでもやっぱり「喜劇」でした。冒頭近くのシーンから笑わせられました。エピホードフという使用人が、買ったばかりの長靴を履いて登場するのですが、この長靴が可笑しな代物で、歩くたびにピヨピヨと妙な音を立てるのです。これ、三谷幸喜の小芝居かと思ったら、そうではなく、ちゃんとチェーホフがト書きで指示していることなんですよね。完全に読み落としていました。他にも、こういった小ネタや会話の応酬で楽しませてもらいました。とりわけトロフィーモフ(藤井隆)絡みのやり取りはおもしろかったです。客席が大いに沸いた場面、いくらなんでもチェーホフはそんなこと書いてないだろと思って後で戯曲を確認してみたら、確かに「そう」は書いていない。しかし、結局「そう」いうことだと想像できる台詞は書いてある。つまり、三谷幸喜はチェーホフの書いた台詞を膨らませて、行間を読み、それを役者に喋らせているのですね。「ここはチェーホフが笑わせたかったところだ」と三谷氏が考えた(だろう)箇所は、チェーホフが書いたままの台詞ではなく、より具体的に、より現代的にアレンジして観客に差し出しているわけです。ぼくはちょっと感心しました。
適材適所の配役だったし、よい芝居でした。三谷氏には、ぜひ他のチェーホフ劇も演出してもらいたいです。