Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

生まれ出る悩み

2012-01-27 01:32:42 | Weblog
中学生、高校生、大学生となるにしたがって、どんどん可能性が広がっている気がする。ずっと昔そう言った人がいた。ぼくはそれは違うと思った。というのは、人間は成長するにしたがって次第に可能性を失ってゆくものだからだ、と考えていたから。これは、実は宮崎駿の思想を下敷きにしている。彼は次のようなことを言った、人間は生まれ落ちた瞬間に、可能性を失ってしまったのだ、別の時代に生まれてくる可能性を。

これを敷衍すれば、別の時代のみならず、別の国、別の人種、ひいては別の生物にだって、ぼくらはなれたかもしれない、そういうふうに考えることができる。更に、生まれ落ちたときぼくらは総理大臣や、生物学者や、建築士や、栄養士や、弁護士や、SF作家や、高校教師や、外科医になれる可能性を秘めていた。ひょっとしたらテロリストになる可能性だってあった。でも、ぼくらはそういった「可能性の皮」を一枚一枚脱ぎ捨てていった。最初は「何にでもなれる」はずだったのに、いつの間にかぼくらには選択の余地がほとんど残されていなかった。ぼくらは様々な可能性の中から自分の人生を選択してきたように思っているけれど、でも本当は、ただ何となく歩いてきたのに過ぎなかったのかもしれない、目の前の道を。

いや、これは「ぼくら」の物語ではないかもしれない。あくまで「ぼく」の物語であり、人生だ。例えばぼくは、受験する大学を自分で選んだように見えるかもしれない。うん、確かに自分で選んだ。でも、実は選択の余地はほとんどなかったようにも思う。それまでのぼくの境遇、そしてそれによって狭められた視野と思考、大学の選択はそういったものの賜物であり、ぼくが自分の意志で為したように見えることは、結局のところ自分の意志などでは全くなかったような気がする。そもそも意志というのは、確固たる自我から発生したものではなく、曖昧模糊としたものだ。ぼくはそのときそうせざるを得なかったからそうしたまでで、何かを選び取ったわけではないのだと思う。

「どんな大人になりたいですか?」と尋ねられた子供の頃のぼくは、具体的な職業を想像することはせず、ただ「どんな人間になっていたいか」ということに思いを巡らした。少年の時分、ぼくはクールな人間にも憧れたし、陽気な人間にも、豪胆な人間にも、自由気儘な人間にもなりたいと欲した。どれか一つに絞り込むことはできなかった。ぼくは大人になるための選択をしてこなかった。でも例え絞り込んでいたとしても、それはやはりぼく自身の意志ではなかったのだと思う。そのときに読んだ漫画や小説、付き合っていた友人たちの影響で、ぼくはきっと選択するふりをしただけだったと思う。

次々と、刻一刻と可能性を奪われてゆくこの世界で、ぼくはほとんど何も選択をしてこなかった。もし選択しているように見えたのだとしたら、それはぼくが「ふりをする」ことが上手かったか、あるいは単にその人がこの失われてゆく可能性について知らないか、どちらかだと思う。可能性の皮が次から次へと剥がされてゆく中で、ぼくには益々選択の余地がなくなっている。大人になるということは、為すべきことを為すだけの存在になってゆくことではないか。

この世に生まれ落ちる前、ぼくには無限の可能性があった。でも生を享けたその瞬間、ぼくの可能性は制限されてしまった。そして数年も経てば、それはほとんど数え上げることができるほどにまで減ってしまった。でも、ぼくはそれを別に残念だとは感じない。ただ目の前に伸びている道を歩かされているだけだとしても、ぼくはそれを悔いたりはしない。失われた可能性は、想像力によって贖われるのだ、という意味のことを宮崎駿は言っているけれど、ぼくには想像力がなくたっていい。ぼくは選択しない。掴み取らない。自ら進んで歩まない。「君は選択しない道を選択しているんだよ」という詭弁にも耳を貸さない。というのは、選択といってもそうせざるを得ないからそうしているだけだから。

なぜ、選択したいと望むのか。それを手に入れたいと希求するのか。ぼくらは皆、この世に生まれ落ちたときに既に膨大な可能性を失っている。失ってしまっている。いずれ死に収斂するこの生において、ぼくはただ何となく生きる。失われた可能性を嘆くことすらせずに。選択できるものなんて初めからほとんどありはしない、そう感じながら。もちろん、選択することが可能な強力な人間も存在するのかもしれない。でもぼくは、ただ時間の進行に背中を押されて歩くだけみたいだ。