しかし、これは勘違いではないのかもしれません。
近藤さん――近藤喜文さんは、その画文集『ふとふり返ると』の最後の画に寄せる文章の中に、与謝野晶子の歌を引用しています。「清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵会う人皆美しき」が元の歌ですが、これを、「今宵会う人みな幸せ」と書いているのです。「美しき」から「幸せ」へ。これは、勘違いでしょうか?それとも意図的な変更でしょうか?いずれにしろ、「幸せ」と書いた近藤さんの心持ちが、なんとなく分かるような気がするのです。その画の舞台は三の酉の宵で、画面手前に、飾り立てられた小さな熊手を持つ幼い少女と、彼女を優しく見つめるお父さんの様子が印象的に描かれています。人でごった返している中、幸福感のようなものが画面からこちら側に漂い流れてきます。近藤さんはこの風景を歩き、「今宵会う人みな幸せ」と感じたのに違いないのです。
近藤さん、高畑勲監督が言うには、『ひょっこりひょうたん島』のドンガバチョの歌も、別の歌詞で覚えていたそうですね。「きょうがダメならあしたにしまちょ」という歌を、「きょうがダメならあしたがあるさ」という風に。
近藤さん、あなたは、持病の肺疾患に苦しめられながら、ひたすら絵を描き続けましたね。無口だったと関係者は言います。しかしその絵には底抜けに明るいものがあったとも宮崎駿監督は言います。きっと、「あしたがあるさ」と考えるような、真摯な前向きさが近藤さんの根っこにはあったのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この文章は、ぼくが何年も前にワードで書いたものだ。どこに発表するという当てもなかったけれど、近藤さんの監督した『耳をすませば』へのとめどなく溢れる愛情を、ともかく何らかの形にしたかったのだと思う。今ぼくはこの文章に少し加筆することで、何年も前の思いをネットへと解き放とうと思う。・・・
・・・近藤さん、あなたは「イバラード目」の持ち主でした。あなたの眼差しのフィルターを通して見られた世界は、忽ち「幸せ」に変貌してしまうのです。その世界を変えてしまう目は、偶然も意図も超越してしまっているのでしょう、あなたの「勘違い」はもはや必然の結果であり、あなたの眺める世界では、幸せが形作られてゆくのです。
もうすぐ、命日。
近藤さん――近藤喜文さんは、その画文集『ふとふり返ると』の最後の画に寄せる文章の中に、与謝野晶子の歌を引用しています。「清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵会う人皆美しき」が元の歌ですが、これを、「今宵会う人みな幸せ」と書いているのです。「美しき」から「幸せ」へ。これは、勘違いでしょうか?それとも意図的な変更でしょうか?いずれにしろ、「幸せ」と書いた近藤さんの心持ちが、なんとなく分かるような気がするのです。その画の舞台は三の酉の宵で、画面手前に、飾り立てられた小さな熊手を持つ幼い少女と、彼女を優しく見つめるお父さんの様子が印象的に描かれています。人でごった返している中、幸福感のようなものが画面からこちら側に漂い流れてきます。近藤さんはこの風景を歩き、「今宵会う人みな幸せ」と感じたのに違いないのです。
近藤さん、高畑勲監督が言うには、『ひょっこりひょうたん島』のドンガバチョの歌も、別の歌詞で覚えていたそうですね。「きょうがダメならあしたにしまちょ」という歌を、「きょうがダメならあしたがあるさ」という風に。
近藤さん、あなたは、持病の肺疾患に苦しめられながら、ひたすら絵を描き続けましたね。無口だったと関係者は言います。しかしその絵には底抜けに明るいものがあったとも宮崎駿監督は言います。きっと、「あしたがあるさ」と考えるような、真摯な前向きさが近藤さんの根っこにはあったのでしょう。
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この文章は、ぼくが何年も前にワードで書いたものだ。どこに発表するという当てもなかったけれど、近藤さんの監督した『耳をすませば』へのとめどなく溢れる愛情を、ともかく何らかの形にしたかったのだと思う。今ぼくはこの文章に少し加筆することで、何年も前の思いをネットへと解き放とうと思う。・・・
・・・近藤さん、あなたは「イバラード目」の持ち主でした。あなたの眼差しのフィルターを通して見られた世界は、忽ち「幸せ」に変貌してしまうのです。その世界を変えてしまう目は、偶然も意図も超越してしまっているのでしょう、あなたの「勘違い」はもはや必然の結果であり、あなたの眺める世界では、幸せが形作られてゆくのです。
もうすぐ、命日。