Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

宮崎アニメと「大切なこと」

2008-10-12 01:19:32 | アニメーション
他のところでも書いたことがあるんですけど、後期の宮崎アニメ(ここでは『千と千尋』以降を想定)っていうのは、「突出したシーン」が見られるんですよ。他から浮いているシーンと言い換えてもいいんですけど。例えば『千と千尋』の電車のシーン、『ハウル』の大階段のシーン、「星をのんだ少年」のシーン、『ポニョ』の「ポニョ来る」のシーンなんかは、そういった突出したシーンだと思っています。そこは並外れて感動的だったり、作画が優れていたりするんですが、多くの場合、宮崎駿にとって大切なシーンであることが多いんです。

宮崎駿は『千と千尋』で電車を出すことにこだわりがあったそうですし、ある証言によればあのシーンは賢治の『銀河鉄道の夜』への返答だったようです。また、「星をのんだ少年」については、このブログでも以前紹介したことがあったかもしれませんが、これは宮崎駿が若い頃から抱いていたイメージ、しかもそのイメージを再現したくてアニメーターになったというほどの大切な原初的なイメージで、彼にとっては非常に大切なシーンだったはずなんです。最後に「ポニョ来る」は、NHKの番組でも明らかになったとおり、『崖の上のポニョ』という作品の骨格部分になったシーンです。あのシーンを思い描けたとき、この作品の方向性が見えたようですね。

だから、これらは宮崎駿にとって大切なシーンだったんです。ただ、それを映画の中に出すことには問題があります。例えば「星をのんだ少年」はハウルとカルシファーとの契約のシーンであるわけで、この映画にとって核になる非常に大事なシーンなわけですけれど、でもそこに至る過程がよく分からないんですね。どうしてハウルの過去にソフィーが戻ることができたのか、その説明がないんです。しかも、契約のシーンを目撃したあと、過去へと通じる扉は閉じてしまうわけです。カルシファーに通じる指輪が割れてしまったので、そのせいかなあとは思うんですが、それに対する説明が欠けているわけです。『ハウル』は意味が分からないとか、めちゃくちゃだとか、そういう批判が聞かれましたが、その一因は、こういう説明不足にあったと思うんです。もっとも、ぼくは説明が不足しているからよくない映画だとは思っていなくて、この『ハウル』なんかはぼくの中でのアニメベスト10に入ってくるほどすばらしい作品だと考えているのですが(そもそも特に説明不足だとは感じていない)。

さて、そういう説明不足、大切なシーンをひょっと出してきて、でもそれに対する説明はありませんよ、という態度は、後期宮崎作品に顕著になったと思うんです。事柄を掘り下げずに、剥き出しのまま画面に投げ出す、といった行為ですね。あるイメージを映画の中に出してきて、その前後の脈絡とかを理屈で説明しようとしないんです。千尋が乗る電車っていうのは、あれはいったいなんなのか、説明がないわけです。ぼくらはそういうことは「大切じゃない」と思って無視するわけですが、「大切なこと」か「大切じゃないこと」の区別っていうのは、ぼくらの心の中で行われるんですね。だからある種の人にとっては、説明がないことに首を傾げて、「意味分からん」となるわけです。宮崎駿にとっての「大切なこと」が、自分の「大切なこと」に一致する視聴者は楽しめるのですが、そうじゃない人たちは、おいてけぼりを食ってしまうわけです。

大まかに言うと、後期宮崎アニメでは、彼にとって大切なシーンをバーンと打ち出し、でもそれ自身の、更にはそれ以外の事柄の説明を省いているときがあります。余計な情報を削ぎ落としている、と言っていいでしょう。それは特に『ポニョ』で顕著になりました。前後の因果関係がよく分からなくなっているんですね。全体の流れから明らかに浮いているシーンが挿入されたりするのです。『ポニョ』の船上の若夫婦のシーンとかがそうですね。あとリサの行動なんかはよく分かりませんね。要するに、大切なシーンが出てくるときというのは、それ自身とそれ以外の説明が欠けているか、前後の脈絡から浮いているか(因果関係の面、あるいは出来栄えやトーンの面で)しているわけです。

もちろん、大体において前後のつながりは認められるし、説明もちゃんとなされているのですが、そうなっていないシーンが、後期宮崎アニメには出現し出した、ということなんです。初期の頃はそうではなかったのです。この頃にも大切なシーン、というか重要なシーンはあったわけですが、それへの説明はきっちりなされていたし、全体の流れの中にしっかりと位置付けられていたのです。浮いているシーンというのは基本的になかったですね。後期作品では、そのシーンの存在意義ははっきりしているけれど、でも浮いてしまっている、というシーンがあります。モノクロの映画に突然鮮烈な色が浮かび上がったときのような、まさに出色のシーンというのがあるのです。

初期作品が、重要なシーン(核となるシーン)の説明で他の部分を固めていった、つまり付け足していったとすれば(こういう結末に持っていくためにはこういうシーンを描かなければならない、こういう性格描写をしないといけない、など)、後期作品は、そういう核となるシーンだけを作品に据えて、あとは削ぎ落としていった、というふうに考えられるのではないでしょうか。初期は増やし、後期は減らした、ということです。(これはイメージの話です。後期作品において、突出したシーンをつぎつぎに積み重ねていったと考えれば、後期作品も「増やした」、というイメージができあがります。)

ここで思い出すのは新海誠ですね。特に『ほしのこえ』。この作品では、まさに重要なシーンだけを描いて、その他の部分、つまり映画にとってノイズとなるような部分は、一貫して排除しているわけですから。この作品からは、「君に想いを伝えたい」という唯一のメッセージしか基本的には視聴者は受け取りません。一つであるだけに、剛速球のメッセージです。このメッセージに感応できる視聴者は、これだけ率直にこんなことを言われたことはないので、いっぺんにこの作品を好きになってしまうでしょうが、もしあまり実感の湧かない人だったら、『ほしのこえ』を好きになることはあんまりないんではないかと思います。その意味で、この作品は視聴者を選ぶ作品だと言えますし、また後期宮崎作品と同様の危険性があるとも言えます(「大切なこと」が監督と一致しないと楽しめない)。

ただ、今まで書いてきたことと矛盾するようですが、個人的なことを言えば、ぼくは後期宮崎アニメを見ても、説明不足だとは感じないのです。客観的に見れば、説明が不足しているかなと思うところはあっても、それを主観的に意識して、不満に感じることはこれまでなかったです。よく分からないことがあっても、よく分からないことが起きても、「そんなのどうでもいい」と思ってしまうので。たぶん理屈で見てないからだと思います。宮崎駿と感性が同じだ、などとおこがましいことは言いません。単に、ぼくの頭が論理的にできてはいないんだと思います(おまけに直感も働かない…)。

とまあ、自分のことはおいといて。
後期宮崎アニメっていうのは、細部にこだわって、ここの説明がない、意味が分からんって思うんじゃなくて、大局的視野に立って、映像をただ感じ取るっていうことが大切なんじゃないかと思うわけです。まあ、鑑賞方法は人それぞれですが、そういう見方のほうが楽しめることが多いと思うんですよね。そういうことです。3118字でした。

ル・クレジオの小説

2008-10-10 22:36:56 | 文学
今年のノーベル文学賞作家が発表されました。フランスのル・クレジオ。名前しか知らなかったので、早速、図書館に行って本を借りて読んでみました(ちょっとミーハーかな?)。

ところで、去年の受賞者は確かオルハン・パムクで、どちらかと言えばマイナーな作家でしたが、今年は日本でも邦訳のたくさん出ているわりとメジャーな作家であり、しかもフランスの作家ということで、意外性はあまりなかったのではないでしょうか。これが例えばラトビアの聞いたこともないような作家だったら、新聞も紹介に困るところですが。

さて、ル・クレジオ『パワナ――くじらの失楽園』の感想。
薄っぺらい本で、訳者は「短編」扱いしていますが、まあ長い短編か短い中編程度の長さの小説です。むしろ解説が長いですね。50ページ近くありました。
と、そんなことよりも。
とても優れた小説です。表向きは、クジラを追う船長と若い水夫の物語を、二人の回想によって語る、という体裁を取っていますが、そこに隠された意味は深い。
クジラたちの秘密の溜まり場を目指すという物語は主にチャールズ・メルヴィル・スカモンという実在の船長の回想によって語られることになります。

船長はクジラの溜まり場を発見し、クジラたちを殺戮します。その溜まり場は、「すべてが始まりすべてが終る場所」で、「秘境」であったのですが、スカモン船長が発見したことにより、人間たちに蹂躙され、殺戮の場と化し、人間の土地となってしまいます。スカモン船長率いる船は勝鬨をもって港に迎えられましたが、そのときのことを回想する今では、船長の胸に悔悟の情が忍び寄っています。発見したことによって失われてしまった秘境。とても大切な、「生命のはじまる場所」だった秘境。そして今、「あの鯨の通り道の入口をまた塞ぐ」ことを切望する船長。ここには失われた楽園への哀惜と、自分で破壊してしまったことに対する悔悛が描かれています。船長がいま思い出すのは、船に乗っていたまだ若い見習い水夫、ジョンのあの眼差しです。「どうして愛するものを殺すことができるのか」と問いかけているような。

水夫ジョンの回想するのは、少年だった頃の思い出、特にアラセーリという名の少女奴隷にまつわる思い出です。この小説の主流が楽園の破壊にあるとすれば、少女への恋心は密かな傍流、しかし楽園の破壊を象徴しうる傍流だと言えるでしょう。少女は雇い主から逃げ出し、殺されて連れ戻されます。

水夫ジョンは楽園が破壊される前の、まだ神秘が存在していた頃のナンタケット(地名)を回想します。インディアンである彼は、スカモン船長よりも恐らく自然に結び付いた存在であり、したがってこの小説の主題である楽園の破壊は、スカモン船長という文明による、水夫ジョンにとって伝説だった秘境=自然の破壊、といった図式の中に浮かび上がってきます。水夫ジョンとスカモン船長の対照的な語りは、自然と文明との対照を意識しているのだと思います。

しかし、このような単純な二項対立には回収されないものがこの小説にはあります。それは、楽園を追求する人間の飽くなき欲望と、それが達成された後の喪失感です。このことは、何かを追い求める過程にこそ意味がある、という一般に信じられている「真理」にも通じているとみなせるでしょう。また、この小説を特に印象深くさせているのは、水夫ジョンによるまだ失われていない楽園への、少女への慕情と重ね合わされた憧憬です。単なる文明の告発やエコロジー讃歌に堕さない、文学的な「力」がここにはあります。

「世界の秘密」を探究することは、あらゆる芸術家にとっての使命のようなものかもしれませんが、ここではそれが主題とされ、更にはその喪失までも描かれています。
なるほど、ノーベル文学賞か。ル・クレジオが優れた書き手であることは確かでしょう。

ドストエフスキーが好きな人のために

2008-10-10 00:48:29 | 文学
レオニード・ツィプキンの小説『バーデン・バーデンの夏』を読みました。
大まかに言えば、ドストエフスキーについての本です。非常によく書けていて、これまで文学史の中に埋もれていたのが不思議なくらいです(この小説は古書店でソンタグが「発見」したのだという)。

ドストエフスキーの妻アンナの日記を携えた語り手が、列車に乗ってモスクワからレニングラードへ向かいます。初めは現代にいる語り手が列車から見える冬の景色を描写することから始まりますが、場面を転換させ、ドストエフスキー夫妻の旅を描き出します。そのツィプキンの文章は非常に特徴的で且つ凝っていて、とにかく息の長い文章を書きます。句点が極端に少なく、読点とダッシュ(――)が多用され、一つの文がいつまでも続くかと思わされます。そして20世紀半ばの現代を描写しているそばから、連想によってふらりと19世紀半ばを筆は描き出します。つまり過去と現在とが自由に往還するわけですが、その交通をツィプキンの息の長い文章が支えているのです。ゆるゆるとつづく一文に、過去と現在とが巻き込まれて、交互に顔を覗かせる、といったふう。沼野恭子氏の訳文も見事で、熟練の技を感じさせます。

長い文を書く作家は他にもいて、ソンタグがエッセーでも触れていますが(本書に収録)、それ以外では、例えばアンジェイェフスキが好個の例でしょう。彼の『とびはねて山を行く』や『天国の門』、特に後者は実験的とも言える小説で、基本的に一つの文だけで小説が書かれています。ツィプキンの小説はそれほど極端ではないのですが、それだけに文体を自家薬籠中のものとしているような風格があります。何より、この特殊な文体は過去と現在を、ほとんど「意識の流れ」の手法によって、連関させながらも自由に描き出すことに十全に奉仕しており、この小説にとって必然とさえ言えると思います。

ドストエフスキー所縁の場所を訪れたり、彼について思索を巡らせながら、語り手はドストエフスキーの賭博熱、夫婦のいざこざ、そして臨終の様子を描き出してゆきます。この小説にはドストエフスキーに関すること、ロシア文学に関することがたくさん出てくるので、少なくともドストエフスキーが賭博に病的なほど熱中していたという伝記的事実くらいは知っているという、最低限の知識が要求されていると言えるかもしれません。したがって、ドストエフスキーの小説を一冊も読んでいないという人にはこの小説の魅力は半減してしまうだろうし、いやドストエフスキーが大好きだという人にとっては、大いなる喜びを与えてくれる書になりえます。

ぼくはドストエフスキーが好きだし、それなりの知識も持っているのですが、しかし『バーデン・バーデンの夏』のよい読者ではありませんでした。というのも、この小説にのめり込むことができなかったからです。それは、ぼくのような読者を引き込む牽引力がこの小説に欠けていたからだという気がします。一言で言えば、退屈でした。なるほどドストエフスキー臨終の場面は、ソンタグも指摘しているように、トルストイを思わせる描写で読者を物語世界に引き込むことができているだろうし、賭博の場面はまるでドストエフスキー本人の小説を読んでいるような、やりきれない気分にさせられてしまいます。つまり、それだけ感情移入しているということです。しかしながら、それ以外の部分はほとんど日常の些細な描写に費やされ、ストーリーというものが存在せず、気侭にも見える連想で筆が進められていく様は、読んでいてやはり退屈に感じてしまうのです。

この小説を牽引しているのは、ドストエフスキーなのだろうと思います。そして読者をも牽引している。だから、この小説は読者がドストエフスキーに大きな関心があるということを書き手から要請されていて、当てにされているのだと思います。その意味で、読者の積極的な参加が前提にされている現代的な小説だと言えるわけですが、しかしドストエフスキーにそれほど関心のない読者、ドストエフスキーの思想的な部分にだけ関心のあるような読者は、おいてけぼりを食ってしまうことになります。ぼくはそのどちらにも当てはまりませんが、どういうわけか、読んでいる途中に眠くなってしまうのでした。

この小説にはあるイメージ、というかある行為と絵の描写が何度か反復されていて、それが読後に余韻を残すのですが、このことについては解説でも触れられていなかったので、ここで指摘しておきたいと思います。それは何らかのことを象徴しているのか(例えばドストエフスキーの死)、判断がつきかねますが、しかし小説に幅を持たせていることは間違いありません。

最後に。ドストエフスキーにまつわる多くの文学的逸話がここではたくさんさりげなく書かれていますが、それについての訳注は一切ありません。たとえそれらを知らなくても、小説を読んでいればなんとなく分かることが多いのですが、それでも注がないのは不親切にも思えます。しかし、これは訳注を付けることによって、ツィプキンの特徴的な文体のリズムを壊してしまうことを訳者が恐れたからではないでしょうか。勇気のいる試みだったかもしれませんが、ぼくはこれでよかったと思っています。

ブラザーズ・クエイ

2008-10-08 00:39:14 | アニメーション
携帯を買い換えました。前のは故障してしまったので。はじめ未成年の頃に携帯を買って、今も名義が父のままだったので、いい機会だということで自分名義に変更。しかしそうすると機種変更ではなく新規購入になるそうなので、かなり迷ったけど、でも新規にする。番号が変わるのはやだったけど。

さて、ブラザーズ・クエイの回顧展(上映会)がイメージフォーラムで行われている、ということを知り、今日行ってきました(もう昨日か)。ブラザーズ・クエイ、つまり双子のクエイ兄弟は映画界ではやはり異端の存在ということになるのだろうとおもいますが、コアな映画ファン、ないしアニメファンならば誰でも知っているかなり著名な存在でもあります。一部でカルト的な人気を誇るブラザーズ・クエイは、もともとシュヴァンクマイエルに多大な影響を受けたそうですので、彼ら(クエイ兄弟)の作風がどんなものかは、推して知るべし。

今日見てきたのは「プログラムB」で、「ギルガメッシュ/小さなほうき」「失われた解剖模型のリハーサル」「櫛」「スティル・ナハト3」そして「ストリート・オブ・クロコダイル」の5作品。

彼の創造した映像を見ていて、次のような言葉が浮かんできました。迷宮、幻想、詩情、怪奇、悪魔、物神。そして家に帰ってピーター・グリーナウェイのクエイ兄弟についての文章から、廃墟という言葉を見つけ、これだと思いました。また今考えれば、頽廃、枯渇、臓器、といった言葉が適しているように思えます。ブラザーズ・クエイの作品には、これらのイメージが一体としてあります。

彼らの作品は基本的に人形アニメですが、その人形は例えばチェブラーシカのような可愛らしいものではなく、一言で言えば不気味で、その皮膚は200年も生きた人のように、あるいは死後幾日か経過した人のように、ほとんど腐食しており、まるでさび付いているかのよう。「ストリート・オブ・クロコダイル」に登場する人形は頭が空洞で、そのまさに虚ろな目が異様に輝き、強烈な存在感を放っています。

迷宮のイメージが強いと思ったのは「失われた解剖模型のリハーサル」という作品(字幕が出なかったからこの作品だという絶対の保証がないのですが)です。黒白のコントラストがはっきりしているこの作品には、他の多くの作品と同様、特にストーリー性も感じられません。ただ、迷宮的な建築物の内部をひたすら映します。そこには人型の人形がおり、建物には何やら線が引かれ、球が揺れ、畸形の人形がいます。フォーカスの調節でそれらの物体を神秘的なものにしています。なるほど、全てに意味を求める立場からは、こうした映像は「意味が分からない」と片付けられてしまうかもしれません。しかし、それにただ見入る者は、確かに異界へ誘われ、日常とは切り離された世界を目撃しているのです。

彼らは畸形の人形を用います。なにも人形アニメは可愛らしい人形だけ、あるいは人型の人形だけを使わなければならないわけではないのです。

ぼくはシュヴァンクマイエルが好きではないので、彼らの作品もどうかなあ、と思っていたのですが、この不思議な世界は評価できますね。もう一度シュヴァンクマイエルの作品を見直せば、別なふうに考えるようになるかもしれません。

ところで、「ストリート・オブ・クロコダイル」はポーランドの作家シュルツの「大鰐通り」が原作。ぼくは平凡社ライブラリーの一冊を持っているのですが、未読。密度の非常に濃い彼の文章に恐れをなしているからです…でも近いうちに読んでみようかな…

オリンポスの果実

2008-10-05 23:09:24 | 文学
田中英光『オリンポスの果実』を読みました。

今からちょうど10年くらい前、この本を読もうとしたことがあったのですが、どういうわけか読めずじまい。大学を卒業した今、読むことになったのでした。気になっていた作家と小説ではあったのですが、どうも積極的に読む気にはなれず、そのうち忘れかけていましたが、最近立て続けに古書店でこの小説を見つけ、それで、読んでやろうという気が沸々と湧いてきたのです。まあ、買わずに図書館で借りたのですが。

さて、裏表紙の解説に「200枚にわたる小説が終始”彼女”のことで持ちきり、ひたむきに好きだと言い通しの小説というのも一つの奇観であり、わが文壇にただ一つだけ許されたともいいうる稀有の作品である」と書いてあったので、相当ひどい小説なんだろうと思って読み始めたら、そんなことはない。最初、支給された背広を失くして狼狽する「ぼく」の姿が描かれて、そこにはまだ恋は頭を覗かせていません。冒頭、愛しい人への呼び掛けで始まるこの小説が、恋愛小説の観を呈するのは、もうしばらく物語が進んでからです。

ボートのオリンピック選手である「ぼく」は、オリンピックに出場するため船でロサンゼルスへ渡航しますが、その途次の船の上で、熊本秋子という同い年(20歳)の女性に出会います。彼らは次第に打ち解け、仲良くなるのですが、折から船上で男女が会話することを禁止する令が出され、また彼らの仲を嘲弄し嫉妬して、「ぼく」をからかうチームメートに悩まされ、彼らの関係に冷や水が浴びせられます。彼女と親しく接することができなくなった「ぼく」はそのことに思い悩み、彼女への思慕を募らせます。彼女のことで苛められる「ぼく」は弱い気質の持ち主なのでそんなチームメートに対し強い言葉を言えず、いよいよ孤独に彼女のことだけを想います。

やがてオリンピックが開催され、日本チームは敗れ、帰途に着くのですが、そのあいだも「ぼく」は彼女の姿ばかりが目に付きます。結局、彼女と再び親しい言葉を交わすことができないまま横浜に帰港して、彼らは別れ離れになってしまいます。

小説は、些細な出来事をちりばめてそれを描写しながらも、基本的には彼女を想う「ぼく」の告白に占められているのですが、彼女への愛を語るというよりは、彼女のことでチームメートから嘲弄されている描写に重きが置かれているようです。「ぼく」は気の弱い人間で、代表団の背広を失くしただけで、死なんかな、とふらりと思ったりもしてしまうので、悪口に対してもひたすら耐えるだけです。そこにいじらしさを感じてしまいます。もっとも、すぐに自殺を考える性向はたぶん田中英光自身に由来するのでしょうが、あまりにも短絡的なので、そこは共感するよりはむしろ滑稽に感じてしまうほどです。かぼそい精神の表れであるとは理解していますが、描写をもう少し工夫した方がいいように感じました。しかしチームメートの悪口には耐える「ぼく」の姿は、やはりいじらしいですね。

読む前は、恋しい人のことをくだくだと饒舌に語り続ける小説だろうと予想していましたが、実際は、簡潔で明朗な文体で、考えていたような粘着性はなく、すっきりと清潔感がありました。そしてこれは案の定、「ぼく」はプラトニックな感情だけを吐露しています。狙い済ましたラストの一文には賛否があるかもしれませんが、ぼくはこういう若々しい作為は嫌いではありません。『オリンポスの果実』は田中英光の処女小説です。

ところで、河上徹太郎の解説はいかにも古い。次のような一文は、いかがなものでしょう。「スポーツというものは何といっても実生活の中で「遊び」に過ぎないのだから、生命を賭けた文学の対象にはなり難い筈のものである」。もしこれをイチローが読んだら、などと想像してしまいました。また、田中英光の性格と経験を作品に反映させて考えるやり方も、今となってはあまりにも古い。こんな文章を載せるよりは、もっと作家の経歴を紹介するか、小説を解読する解説を載せたほうがいいだろう、と思います。

少し脱線してしまいましたが、この小説は一言でいえば青春小説でしょう。「ぼく」と秋子との関係を「恋愛」と名付けてよいのか分からないので、「恋愛小説」とは言わないでおきます。そうだ、少しニヒリスティックに言えば、「妄想小説」でもよいかもしれません。男の。女性がこの小説を読んだら、どんなことを感じるのでしょうか…

イヴの時間

2008-10-05 02:26:17 | アニメーション
吉浦康裕の新作アニメ『イヴの時間』が今ネットで見られます。
この人はもともと個人でアニメーションを制作していた人で、CGを多用しています。代表作は『ペイル・コクーン』だと思いますが、『イヴの時間』は別の短編アニメ『水のコトバ』を発展させたような内容になっています。人間とアンドロイドが共存する世界で、両者を平等に扱うとある喫茶店が舞台。

『イヴの時間』がネット上に公開されるという情報は、以前に雑誌『CGWORLD』で知り、それから気にかけてはいたのですが、今日まで見ていませんでした。その雑誌では、『イヴの時間』において、全てCGで作り出した背景と2Dの登場人物との絶妙な融合が目指されている、というようなことが書いてありましたが、確かに特別な違和感はなく見られますね(余談ですが、『西洋骨董洋菓子店』は違和感がありました)。ただ、登場人物の輪郭ががたがたになっているのは、鉛筆で描いていないせいなのでしょうか?

現在は第二話まで視聴できますが、第一話の光の使い方に、これまでの吉浦康裕にはなかった要素を感じました。窓から光が差し込んでくる、印象的なカットなのですが、どこか新海誠チックとも言えそうです。

これから話が発展していきそうな予感を第二話は感じさせて終わります。吉浦康裕のストーリーテリングの才能、物語構築力の手腕がどれほどのものか、見てやろうという気でいます。ありがちな展開にはなってほしくないですね。

何話までつづくのか知りませんが、見るのが大変なのでなるべく短めなのを期待…違うか(漫才師「ものいい」ふうに)。

ハウルとソフィーの動く城

2008-10-04 01:50:10 | アニメーション
金曜ロードショーで『ハウル』を見ました。

初めて劇場でこの作品を目にしたとき、いきなり若いソフィーが登場していたことに驚いたものです。当時、公開前日までの予告CMでは、お花畑に立つソフィーが斜めむこうを向いて、こちら側に顔を向けようとする瞬間(しかし振り返らない)を連発で映していたので、「ソフィーってどんな顔なんだー!」とかなり気になっていて、その興味が映画のほとんど最初の部分で満たされたので、肩透かしを食らったような気分になったのでした。

最初に見終わったときは、この映画は「詩の論理」で作られているのではないか、いや「愛の論理」ではないか、などと思いを巡らしたものです。それというのも、通常考えられているような物語の論理では成り立っていない作品に思えたからです。

今日、改めて見てみると、もう内容を熟知しているため、論理がむちゃくちゃというふうには感じられませんでした。ソフィーにかけられた魔法の不思議、つまりソフィーが年をとったり若返ったりする現象の不思議も、ソフィーの外見が彼女の気持ちの有様を反映していることに気付いた今では、とても心地良く受け入れられます。このような魔法を考え出した宮崎駿はすごい。

突然終わってしまうラストも、知っていれば違和感なく見られますね。伏線もなく急に隣国の王子が出てきたことは、確かに首を傾げたくなる人の気持ちは分かりますが、それすら問題なく受け入れてしまえます。

あの「星をのんだ少年」のシーンは最高ですね。宮崎アニメ史上、いや世界アニメーション史上、燦然と輝く名シーンだと思います。ノルシュテインやペトロフ、ゼマンの作品にも詩情がありますが、この「星をのんだ少年」は、まさに詩情が泉のように溢れかえっているシーンです。「わたしはソフィー!」と彼女が叫ぶ瞬間、ぐっときて、涙が出そうになりました。

ところで、初めてハウルを見たとき、「ハウルは自分だ」と思ったのです。こんなことを言うとおこがましいように聞こえてしまうかもしれないのですが、そう思ってしまったのです。実際、ぼくは顔が少しハウルに似ています。嘘です。
似ていると思ったのは(顔ではなく)内面です。外見ばかり気にしているところとか。正確に言うと、ハウルと似ていると思ったのは「ぼく」ではなく、「ぼくら」です。現代日本の若者を見事にハウルとして形象化していると思ったのです。

ハウルよりも自分に似ていると思ったのは、ソフィーの方です。いつも全てを諦めていて、老人になった方がしっくりくるところ。ああ、これは自分のことだ、宮崎駿は、今の若者の姿を描いたんだ、と思ったものです。そして、なんだかうれしくなったのでした。それと同時に少し哀しくなったのでした。理由は分かりませんが。

映画の最後、ハウルとソフィーは城に乗って地上の遙か上空を彼方へ飛んでゆきますが、どこか閉じられた世界を思わせます。そしてバックに流れる「世界の約束」は別れの歌。ただ、この詩は何度読んでもはっきりとは理解できません。「あなた」と別れた後の気持ちを歌っていて、明日をまた生きてゆこう、という歌に聞こえるのですが、何より「あなた」を大切に思っているようです。「あなた」は思い出のうちにはいなくて、自然の中に宿っている、という。これって死別の歌ですか?「あなた」と過ごした昨日から今日が生まれるという言葉には「あなた」への思い入れの強さが窺えます。でも、その「あなた」とはもう別れてしまった…

なぜ、このような内容の歌が、ハウルとソフィーとが仲良く飛んでいるラストの映像に重なるようにして流されたのでしょうか。いわば、映像では関係の成就を映し、音楽では別れを鳴らしているのです。これは、「人生のメリーゴーランド」にかけて、出会いと別れを同時に語ってしまうという離れ業なのでしょうか。

いまだに、このラストがよく分かっていないのです。人生を、世界を描いたのだ、と理解することもできるのですが…

いずれにしろ、『ハウル』は大好きな映画です。大傑作だと個人的には思っています。

アニメ・トリビア~ルパン三世~

2008-10-03 00:57:21 | アニメーション
アニメ・トリビア第二弾。前回は『ルパン三世 カリオストロの城』でしたが、今回は『ルパン三世』全般です。

『ルパン三世』を知らない日本人はほとんどいないと言ってよいほど、これは有名なアニメであるだけに、「ルパン」について詳しい人と普通の人との知識差は大きいのではないでしょうか。そもそもトリビアルな知識というのは通の人にとっては常識であることが多いので、「これはトリビアだぞ」と堂々と情報を紹介するのは難しいのです。ここでは、「普通よりちょっと知識のある人」に照準を絞って話を進めてゆきたいと思います。

さて、「ルパン」をあまり知らない人にとっては、パート1とパート2に続いて、ルパンがピンクのジャケットを着ているパート3が存在していることも驚きになるかもしれません。さらに、この作品が製作されたのは「ルパン8世」がお蔵入りになったことが影響していること、また放送開始が3月3日という「3」にちなんだ日にち(1984年ですが)だったことを知れば、一層驚くかもしれません。

新ルパン(パート2)の第145話と最終155話に宮崎駿が脚本・絵コンテ・演出で参加していることは、いまやあまりにも有名になったので、さすがにこの事実を殊更に強調することはしませんが、その最終話にラムダというロボットが登場しており、そしてそのロボットの造形が『天空の城ラピュタ』に出てくるロボットとそっくりであることは、知らない人も案外多いのではないでしょうか。

ところでこの最終話「さらば愛しきルパンよ」には、偽ルパンが登場して、本物のルパンが正体を現すのはラスト近くになってからなのですが、これを見て、新ルパンに出てきたルパンは全て偽者だった、と深読みするファンもいるとか。また、最後の富士山のシーンは、宮崎駿が絵コンテを描いているときに尺数を間違って急遽付け足したシーンだという(絵コンテを何度も描き直したらしく、そのせいで間違ったのではないかと推測されています)。

宮崎駿はこうして新ルパンに決着を付けたのですが、ルパンの映画は製作されてゆくことになります。そこで監督の候補に挙がったのが、あの押井守。1984年のことです。これがいわゆる「押井ルパン」。しかしこれは幻の作品になってしまいました。というのも、脚本が読売TVや東宝のプロデューサーたちに反対され、この話は立ち消えになってしまったからです。しかしどういう内容だったか、ということは押井守自身が語っていて、それによれば、「最終的にルパンなんてどこにもいなかったという話」になる予定だったそうです。全てが虚構だとする物語で、こうしてルパンに完全にとどめを刺すつもりだったと言います。ルパンは「カリオストロ」でもう既に終わっていた、というのが押井守の自論です。

押井ルパンは結局完成せず、かわりに作られたのが『バビロンの黄金伝説』。これはルパンのアニメーション映画の第三弾で、パート3のスタッフが参加しています。いま、「アニメーション映画の第三弾」と回りくどい言い方をしましたが、それというのもルパンの映画版の最初の公開は、実はアニメーションではなく実写だからです。アニメ版の劇場映画第一作は、周知のように「ルパンVS複製人間」ですが、これが公開されたのが1978年。ところが実写版はこれに先立つこと4年、1974年に劇場公開されているのです。その名も『ルパン三世 念力珍作戦』。そしてキャストは、驚くなかれ、いや驚きたまえ、次元に田中邦衛、銭形に伊東四郎だった!しかし悲しいかな、あまり話題にはならなかったそうです。

ぐだぐだと書いてきましたが、へ~、そうなんだ~と思ってくれる人が一人でもいてくれたらうれしいですね。

笑顔のキューピッド

2008-10-02 02:01:54 | 文学
ヴィクトル・スリペンチュック『笑顔のキューピッド』を読了。
作家は1941年生まれの、現代ロシア文学。「現代ロシア文学」などと言うとなんだか重々しいですが、実際は軽やかな短編集です。

表題作「笑顔のキューピッド」は高校生くらいの少年少女の恋を描いた青春小説。
「戦勝記念日」は孤児を引き取ろうとする村長と孤児の少女との触れ合いを描く。
「甘いシャンパンの味」は水難した小さな子どもとその父親の姿を描く。

いずれも感触は児童文学。子どもが重要な位置を占めていて、その心理を浮き上がらせてゆきます。最後の「甘いシャンパンの味」は悲しい話ですが、いちばん児童向きかもしれません。

ただ、この本には脱字が散見され、そこは残念です。また、内容が児童向けなので、ルビを振るなりした方がいいのではないか、と思います。子どもが読めるように。それと、翻訳に問題があって、「私」と「僕」とが混用されているように見受けられたのですが、どういうことでしょう。使い分ける必要のないところで、混ざっている。それで混乱してしまいます。

この作品集が文壇でどのような評価を受けているのか、文学史にどういうふうに位置付けられているのか、といった疑問は、解消されません。というのも、この本には解説がないので。訳者の黒田有里佳という人がどのような経歴なのかも分かりません。そのかわり、この本にはロシア語の原文がそのまま付いています。本の前半分が日本語、後ろ半分がロシア語です。詩だったら対訳というのがありますが、小説で原文を全て載せてしまうというのは珍しいですね。誰に必要なんでしょうか…

表題作「笑顔のキューピッド」は一番楽しめました。短い中に色々な要素を詰め込んでいて(恋愛、喧嘩、事故、冒険、詩と死、教師との対立…)、それらが十全に描かれていないためにやや掘り下げ不足な印象を与えます。加えて話の展開に目まぐるしさを感じてしまい、作品としてはたぶん優れた出来ではないと思いますが、どこか青春の多幸感があり、心を慰められます。

「戦勝記念日」を読んでいるときは集中力が欠けてしまっていて、ぼんやり字面を追っていたので、あんまり印象に残りませんでした…

「甘いシャンパンの味」は会話が多用されていてとてもおもしろかったです。ただ、海の中での父親と子どもの位置関係がいまいちよくつかめませんでいた。子どもを支えながら立ち泳ぎをするなんて芸当は無理だと思うので、父親はボートの残骸に片手でつかまっていたんでしょうか?どこかに描写があったのなら、見落としていたようです。
悲しいラストですが、ちょっとお決まりのような気がしないでもありません。

総じて、小学校の図書館などで借りて読みたい小説ですね。ルビさえ振られていれば…