Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ル・クレジオの短編小説

2008-10-18 00:23:00 | 文学
ル・クレジオの第二短編集『海を見たことがなかった少年』を読みました。
「アザラン」はこの収録作品の内の白眉だったと思います。では、それ以外の作品も含めて感想。

「モンド」と「リュラビー」はどちらも、子どもやアウトサイダーだけに共有できる世界を大人が取り上げてしまったり、大人の無理解に子どもが苦しむ話、とひとまとめに言うことができると思います。

「竜児神の山」は原題は「生き神様の山」というらしいのですが、どうしてこういう邦題に変更したのかよく分かりません。これは、少年が山頂で不思議な体験をする話で、そこで不思議な子どもに出会うのですが、その子どもが「竜児神」だと言いたいのでしょうが、「生き神様」ではなぜいけなかったのか、だいたい「竜児神」ってなに?という疑問が湧いてきます。
ところで、山頂で少年ジョンは「黒い熔岩の塊」を見つけます。しかしそれは普通の石ころではなくて、それは「まさにこの山の形をしていた」。ジョンがのぼってきた断層も、ふもとの部分も、その石には備わっているのでした。つまり、いまジョンは石ころを見つめていて、その石ころはまさにジョンのいる山そのもので、ということはそこにもジョンがいるはずで、そのジョンは更に石ころを見ていて…という無限ループがここに構成されるわけです。実際、テクストにはこう記されています。「そのとき、またもや、ジョンは自分を取り巻く不思議な視線を感じた。未知なものの存在感が、彼の頭に、肩に、躰全体に重くのしかかっており、それは大地をすっかり覆う、暗く力強い視線だった」。この視線の正体は、ひょっとしたらこの後に現れる子ども(超自然的な存在であることを暗示)であるかもしれないのですが、しかしそうではなく、自分自身の視線であるかもしれないのです。
こういう、自分を見ている自分を見ている自分を…、というイメージは、縦に並んだ絵描きなどを連想すると考えやすく、またそれほど珍しくはないのですが、絵にしやすいですね。山村浩二がたしかこういうテーマでアニメーションを作っていたような気がします(「バベルの図書館」だっけ?)。「頭山」もこういうシュールな作品でした。アニメーションにすればおもしろくなるのではないか、などと思った次第。

一つの小説に紙面(じゃないけど)を取られすぎました。次。

「水ぐるま」はとても短い作品で、少年が自然と感応し、死者たちの王国の国王になっている自分を夢想する話。

表題作の「海を見たことがなかった少年」は、少年が憧れ続けた海へと旅立つ話。この小説ではテクスト内部の人物を語り手に設定しています。「リュラビー」と同様、海に憧れる子ども(「リュラビー」では少女)が主人公ですが、結末は大きく違います。「リュラビー」では少女は最後に人間たちの世界に帰り、大人の凡俗さに傷つけられますが、「海を…」では少年はもう二度と元の世界に戻ってきません。

「アザラン」は傑作です。この小説だけ主人公、というか中心人物は大人で、放浪者のようです。ある貧しい地区に流れてきたこの人物マルタンを巡って話は展開します。やがてこの町を移転させる計画が持ち上がり、そのときマルタンと町の人々はどうするか…。「アザラン」というのは、マルタンが子どもたちに話して聞かせるお伽噺の理想郷とでも言うべきところ。

「空の民」は自然と交感する少女の話。彼女はどうやら目が見えないらしいのですが、小説の中でははっきりとは触れられません。ただ、色についての質問や(あおってなあに?)、目で見ればすぐ分かるようなことを質問していることから、そうではないのか、と推測されるのみです。ただ、「かつて彼女はこれ以上美しいものを見たことがない」というような記述もあって、やっぱり目は見えるのかな?とも思ってしまいます。その一方で、「彼女には今突然見えたのだ、(略)青い空が目の前に」と、今までは見えなかったと思わせる記述もされています。
もともとちょっとよく分からない小説ではあって、彼女のいるのは「人間のいない国、砂と埃の国で、唯一の境界として地平線に長方形の地草があるだけ」の国の村のはずれです。そこへ兵士が通りかかって、「まず地面の黄色い大きな平原があるんだ、生えているのはトウモロコシに違いない、と思うな。赤土の山道があってまっすぐ野原のまん中まで通ってる」土地の話をします。そして兵士が去ってしまった後、少女は突然、目の前にその「黄色い大きな平原」を見るのです。たぶん少女は幻視しているのだと思うのですが、記述があいまいで、よく分かりませんでした。そういう書き方をしているのかもしれません(単にぼくの理解不足かも)。

最後に「牧童たち」。これは都会のある少年が砂漠に一人やってきて、そこで牧童たちに出会い、生活を共にする話です。しかし、最後にこの少年は、あの「リュラビー」の少女のように、都会へと帰ってゆきます。

この短編集は、既に明らかなように、子どもを主人公ないしは重要人物に据えており、またテーマも似通っています。それは例えば自然との感応、ユートピア(への憧れ/の消失)、放浪です。ル・クレジオは一貫して自然を文明よりも上位に位置付けて思考しており、この短編集では、その関係が子どもと大人の関係とパラレルになっています。

ユートピア志向は『パワナ』などにも通底するテーマで、思想的に興味深い本なのですが、ただ惜しむらくは、ほとんどの作品があまりおもしろくないということです。文章の多くが状況描写に費やされていて、しかもその文章が客観視にこだわっており、読者を引き込む魅力に欠けるのです。解説者(翻訳者)に、「これ以上単純平明な文学言語というものは想像し難いほどだ」と評される彼の文章は、しかしぼくには、そんなに単純平明なものとは思えませんでした。「空は熔岩のまわりで絶えずできたり壊れたりし、間歇的な太陽の光はいくつかの灯台の光の束のように動いていた」というような文は、構造としては単純ですが、果たして「平明」と言えるかどうか。こういう風景描写や状況描写(彼はこうした、ああした)がえんえんと続くのです。一文が短い、イメージが明確、といった、平明で簡潔な文章であれば、読みやすくもなるのですが、上記のような文が続けば眠気を誘うだけです。翻訳の問題だという気もするのですが…

また、物語としても、ほとんど起伏のないことが多く、そういう面でも読者を虜にすることはできません。「牧童たち」は、冒険小説にもなりえる作品ですが、スピーディな文章でなければ難しいでしょう。また、他の作品にも共通することですが、心理描写が非常に少ないのです。人物の心理を、客観的な状況の描写で補っている観があります。

全体的に言って、非常に興味深い本なのですが、あまり読書をしないというような人には、この短編集は読み通せないかもしれません。ただ、途中はつまらないのに、最後でなるほど、と思わせる作品がほとんどだということを、最後に付け加えておきます。


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