2003年03月24日
再び集団的自衛権について
太田述正コラム#0110(2003.3.24)
<再び集団的自衛権について>
1 集団的自衛権が行使できないという憲法解釈を日本政府がとっていると称していることは事実ですが、日米防衛協力等の際の自衛隊の運用等は日本による集団的自衛権の行使を前提として行われており、建前と実態が乖離しています。(例えば、コラム#57、#58及び2参照。)
2 日本は「多国間安全保障の枠組み」に既に入っています。朝鮮国連軍地位協定(1954年)がそれで、日本と米国のほか、英、加、豪、ニュージーランド、南ア(以上英国系)、フィリピン(米国系)、フランス、イタリア(以上英米の当時の「養子」)の計10カ国が加盟しています。(拙著「防衛庁再生宣言」(日本評論社)86頁参照。)
すなわち、朝鮮半島有事に関しては、日本は中立国としての立場を法的にあらかじめ放棄しており、北朝鮮は日本を攻撃する「権利」があります。
週刊金曜日編集部2013年09月25日 17:38無意味な「集団的自衛権行使」――無理に解釈改憲しても米国は喜ばず
(田岡俊次、8月30日号)
「集団的自衛権はあるが行使はできない、というのがおかしい」と右傾メディアや政治家は言ってきたが、実は日本は六〇年以上それを行使してきた。一九五一年に結ばれた日米安保条約(旧安保)の前文は、「国連憲章はすべての国が個別的及び集団的自衛権の固有の権利を有することを承認している。これらの権利の行使として」、日本が米国の駐留を認めることを明記している。同盟条約を結んで、外国軍に基地を貸すこと自体が集団的自衛権の行使だが、法制局は「自衛権は国際紛争解決の手段としての武力行使はしないから合憲」との論理を補強するため「集団的自衛権行使」を「海外での武力行使」と狭く解釈して使ってきた。
集団自衛権はすでに行使している、というわけですね。ここらへんは、集団自衛権は、「ある」が「行使できない」というのと、「行使している」が「行使の仕方、範囲が制限されている」という意味論的な議論であろう。
いま論じられる集団的自衛権行使の四類型の1は、「公海上で行動中の米軍艦の防護」だが、その場合に海上・航空自衛隊が米軍艦を守る目的が日本の防衛ならば、個別的自衛権の発動だろう。類型の2は「米国に向うと見られる弾道ミサイルの迎撃」だが、北朝鮮から米国西岸に向かうミサイルはロシア沿海州上空からカムチャッカ半島上空を通過し、米国東岸へはほぼ真北に飛び北極圏を経由する。日本のイージス艦がロシア上空のミサイルを迎撃するのはほぼ不可能だ。グアム、ハワイを攻撃するなら日本上空を通るが、それと引き換えに北朝鮮は米国の報復攻撃で滅亡するから、抑止は十分効いている。類型の3、4はPKOでの武器使用規制の緩和、広範な後方活動だが、これは本来集団的自衛権とは別の話だ
なるほど、
米国も警戒する「安倍のリベンジ」(1/2)
文藝春秋 10月10日(木)10時35分配信
政府内では内閣法制局を中心に、(1)は、「日本有事として防衛出動が下されていなければ自衛隊法第82条の弾道ミサイル等に対する破壊措置に基づいて迎撃され、警察権の行使に該当。日本の領空を通過する場合には個別的自衛権により対応可能」、(2)も「自己の管理下にある状況なら、自衛隊法が定める『武器等防護』で対処できる」との解釈が支配的だ。
と、こちらでも、政府のいうような事態を想定しても、現状のままで、十分で、わざわざ、集団的自衛権云々をいう必然性はない、と同様なことが言われている。
となると、実際に自衛隊が集団的自衛権を行使するようなケースは何か。
と、問いたくもなろう、というもの。
それを検討した結果、最も可能性が高いのは「日本の周辺事態」との見方に集約されてきた。政府は公言しないが、具体的には朝鮮半島有事に加え、中国と台湾の紛争を想定している。こうした事態に米軍と一緒に自衛隊が正面で戦う。それが考え得るシナリオである。
なるほどーーーならば、集団自衛権は不要であろう。
――(2)に続く
そもそも自衛隊による敵基地攻撃能力の一方的な保有は、「矛」の米軍と「盾」の自衛隊という役割分担を大きく変容させる。
「米国の軍事的な傘から、日本が擦り抜けていくことになりかねない。自衛隊が日本防衛以外で前線に立てないがゆえに、日本は米軍に施設・区域を提供している。対等な関係になれば、米軍基地の不要論が高まる」(政府関係者)
このように調整を欠いたまま、集団的自衛権の行使を容認し、自衛隊が敵基地攻撃能力まで保有することに対してこう懸念する声も米側には根強い。
集団自衛権は不要だが、日本の平和、他国による脅迫、脅威、攻撃に対する自衛のための敵基地攻撃能力ができるような国内法の整備が喫緊の課題であろう。