リベラルジャパンが、
ジャパントゥデイを引用して、日本は未だ、親による誘拐の避難所になっている、という記事を紹介しています。
この問題は、デビト氏などもときに指摘する点で、リベラルジャパンのマット氏はコメントは控えています。
問題は、こうです。日本では、(1)両親が離婚した場合、片方の親に積極的に面接権などが与えらていないこと、(2)与えられてももう片親が子供を確保して、もう片親との別居生活始めた場合、与えられた面接権を法的に実現する手だてがないこと、(3)これが例えば、アメリカで起きた場合、当該ケースに関係するヘーグ条約を批准していないので、片親による連れ去りがあった場合、もう片親が子供と再会し、親権を行使する機会が与えられていないことです。
問題意識としては十分正当性のある主張だと思います。
日本の場合、ジャパントゥデイが引用しているように、子供の福祉が最優先される。従って、裁判所がそうした点を考慮して親権、監護権、面会権などを付与する。暴力をふるう父親に面接権など与えたら、大変ですね。
私の周りにも離婚した人の話が多くあります。調停を通さない離婚で、母子供が同居し、休日は父親のところに子供をあずけるという人がいました。これは当事者だけの同意で成立したケースです。母親としても子供から解放される時間ができて、その方がいい。もう一つはお孫さんのケースで、調停が入ったようですが、息子さんである、お孫さんの父親に親権が付与されたケースでした。これは、お母さんが浮気をして他の男の人のところで同居しているケースでした。離婚する家族の事情はそれぞれです。
両親ともに健全な環境にありながら不幸にして離婚するケースもあるでしょう。その場合、親としての面接権を認めてもらいたい、ということになる。そして、それを実効性あるものにしてもらいたい、というのは当然の願いであると思います。
ジャパントゥデイは、国内の問題と海外で起きた場合とごっちゃに論じていますーーーわざとそうしているようにもおもえますがそれは別としてーーーが、しかし、海外での場合では、また、別な問題が生じます。記憶が正しければ、政府は他の項目について、同意できない点があるため批准していなかったように思います。
しかし、いずれにせよ、私は、彼らの訴えの仕方は余りうまくないものと思っています。彼らは、これを誘拐の概念で包摂し、北朝鮮による、誘拐と同視して、その不当性を訴えようとしていました。しかし、ジャパントゥデイが指摘するように、片親による、連れ去りは日本では誘拐を連想させない。片親の保護のもとにあるからです。そして、北朝鮮による国家をあげての暴力的に誘拐と同視することは無理があります。日本人が非常に敏感になっているこの北朝鮮の問題と結びつけようとすることはかえって反発をよぶのではないでしょうか?
ジャパントゥデイの記事ではさすがに、それは控えたようです。
しかし、これを人種差別、あるいは、日米関係問題に結びつけています。
If the breakup occurs in Japan with custody proceedings taken to Japanese family court, foreign parents must battle what critics call a one-sided and often discriminatory system that almost never awards foreign parents custody of their children.
"An American parent in Japan may not be awarded any visitation rights at all in a divorce action," explains a U.S. government official at the U.S. Embassy in Tokyo
離婚が日本で起きた場合、この国の差別的なシステムのもと、外国人は親権が与えられない場合が多々ある。
外国人だから親権があたえられなかったのか、不適切な親と判断されたから与えらなかったのか読者として戸惑います。
"People like me, and especially my daughter, we're the bridge between the two countries," Braden says, "and that fact that Japan wants to make enemies of us is a very clear demonstration of their lack of foresight on this issue."
私や娘のような存在は2国間の架け橋になるのに我々を敵にまわしたいというのか? こうした事件がはらむ問題性について気づいていないのではないか?
確かに、異なる国籍の人々が結婚し、そのお子さんたちが異なる文化の架け橋になることは貴重です。これは推進・援助してよいことであります。しかし、逆に聞きたい。離婚した片親がその望む権利を付与されなかったからといって日本を敵にまわすのですか?お子さまが感受性や価値観を身につけつつある日本、そこで友人をつくり、そこで、愛するものをみつけている日本を敵にまわそうというのですか?ーーと。
憤りは伝わってきます。しかし、まず、一方向の主張だけでは、日本の読者には説得力がない。例えば、この記事からだと、離婚した奥様の言い分もわからない。裁判所の具体的判断とその論拠もわからない。これでは逆に日本及び日本人配偶者に対する差別的な記事ーーー英語圏ではそうした一方的な記事がよくあるーーーの提示だというそしりをうける恐れもある。
なによりも間接的な脅迫的手法、直接的な憤りでは日本人の感性に訴えるものがない。古い芸能に能があります。あれなんかみても、抑制された怒りと悲しみが観衆に訴えるものがある。沈黙という「間」がその抑制された怒りと悲しみを伝えている。これは現代でも同じでしょう。拉致被害者の会がなぜ日本人の支持を受けるかというと、それが子供を奪われた親の抑制された怒りと悲しみを混在させているからではないでしょうか? イラクで拉致された女性のお兄さんが日本政府をめちゃくちゃ非難した。怒りはわかる、しかし、大変大きな反発を受けた。(勿論それだけが理由ではないでしょうが)。やはりイラクで首を切られた少年がいた。勝手な行動をする奴だ、と日本国内では非難を浴びていた。しかし、少年が抑制された声で、「すいません」といっていたビデオが公開された。彼を非難する声はなくなった。
(ところで、日本人が怒りの表現を国際化できないところに日米観の誤解が生じる一因もあると思います。)
こうしたことは文化的なものだと思います。米国などは怒りをあらわに正義を訴えればいいのかもしれない。しかし、日本ではやはり情がものいう。もっとも、情といっても韓国のように怒りや憎しみをあからさまにしすぎるとむしろ軽蔑さえされる。抑制された情に日本人の心にはうったえるものがあるのではないでしょうか?ーーー個人的感想ですが。
で、当該ケースの場合でも、「お父さんも君に会いたい」とか、「お父さんは毎日君を思っている。君の小さかったときの写真にいつも話しかけているんだよ。君に会えなくて毎日悲しいんだ、お母さんと仲良くしているかい、お父さんだって君の幸せに参加したい、娘と一緒に架け橋になりたい」といった路線でいったほうが成功するのではないでしょうか?で、それには、ということで、共同親権の問題、ヘーグ条約批准の問題などがあとからでてくる。こうすることで、平均的な日本人の親と同じ視線にたって問題を投げかけることができる。
はじめから日本という国をだし、まして、それと対立するような形の外圧方式では同調を得るのは難しいように思うのです。そうしたやりかたに、アジア人蔑視、日本人蔑視のにおいをかぎつける人ーーーそれが正当か否かは別にしてーーーも出てきかねないのではないでしょうか?
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