~ pain and sorrow
先生、帰ってきて 29歳高校教諭、生徒捜して津波に
2011年3月18日
「母さん、葬式してやれずごめん」火葬場で別れの祈り
2011年3月19日
「よくがんばったね」…声詰まらせ遺体と対面の家族
2011.3.18 12:29
命をかけ津波通報、宮城・岩沼市の若手職員
「会えると信じていた」20時間漂流の女性、家族と再会
2011年3月19日
大津波で妻と息子を失った市職員 「負けないで」と被災者に呼びかけ
2011.3.18
私は死ねない 息子が残した命のためにも 宮城・石巻
2011年3月19日
被災者の心を癒す“お掃除娘” 宮城・女川町
2011.3.18
ノートもカバンも泥まみれ「でも早く学校行きたい」
2011年3月18日
・・・・・瓦礫のなか泥に汚れた鞄を持ちながら、なんてきれいな笑顔なんだ。
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動画
中島みゆき サーモンダンス 夜会vol.14:24時着00時発
歌詞
「・・・・・生きて泳げ 涙は後ろへ流せ・・・・・」
先生、帰ってきて 29歳高校教諭、生徒捜して津波に
2011年3月18日
小野寺さんは、学校にいた生徒を避難させると、自分の車に乗ってプールをめざした。同僚の教員に「水泳部員を捜しにいく」と話していたという。
プールは海岸沿いにあった。小野寺さんが向かって間もなく、大津波が堤防を乗り越え、街をのみ込んだ。プールも近くの建物もすべて流された。水泳部員の大半と小野寺さんは行方が分からなくなった。
「自分のことは常に後回しだった。彼女らしいと言えば、彼女らしいです」。夫で、隣町の県立大船渡高校教師、浩詩さん(43)は話す。
「母さん、葬式してやれずごめん」火葬場で別れの祈り
2011年3月19日
母親は南三陸町の実家で津波に遭った。連絡がつかず、佐藤さんが地震の2日後に家を見に行くと、1階寝室でがれきに埋もれているのを見つけた。自分で、町の遺体安置所に母を運んだ。
「よくがんばったね」…声詰まらせ遺体と対面の家族
2011.3.18 12:29
遺族は棺の小窓を開け、遺体の顔を確認。本人とわかった瞬間、むせび泣いたり、「苦しかったね。よくがんばったね」などと声をかける人もいた。
34歳の1人息子の遺体を確認した無職の女性(64)は「思っていたよりも顔がきれいで、寝ているようだった。今でも眠りから覚めてくれないかと思っている」と涙を流した。
命をかけ津波通報、宮城・岩沼市の若手職員
遺体の安置所となった市民体育センターは、多田さんが勤めた市役所の目の前。功治さんが両親と共に訪ねると、兄は変わり果てた姿で横たわっていた。ほとんど傷もない、まるで眠っているような姿に、母はその場に泣き崩れた。その時、遺体安置所内に親族を捜しに来ていたお年寄りらから、こんな話が聞こえてきた。「私たちが助かったのは、若いお兄ちゃんが避難を呼びかけてくれたから」
先を読んで仕事ができるムードメーカーで、職員の間で若手のリーダー格だった多田さん。「市民への対応も親切だと定評があった」と同僚は振り返る。
仙台市内の多田さんの実家を訪ねて謝罪した岩沼市の井口経明市長(65)は、若い職員の死に「非常に申し訳ない」と肩を落とす。多田さんをかわいがっていた税務課の星厚雄課長(57)は「仕事を全うしすぎだ」と目を赤くはらして語った。
功治さんは「兄がいなければ、もっと被害者が増えていたに違いない。昔から正義感があり、危険を顧みずに、最後の最後まで頑張ったんだと思う」と涙をぬぐった。(清水健一郎)
(2011年3月19日14時35分 読売新聞)
「会えると信じていた」20時間漂流の女性、家族と再会
2011年3月19日
仕事先の雄勝病院で津波にあい、約20時間後に水浜集落にたどり着いた友美さん。高台にある佐藤一行さん(69)夫婦の自宅に運ばれたが、この集落もライフラインや市中心部との交通網が途絶え、孤立していた。佐藤さん方には、ほかに近くの11人が身を寄せていた。
被災者たちは起きあがれないほどに衰弱していた友美さんを看病し、「きっと家族が捜している」と励ました。林道が開通すると、友美さんは、佐藤さんの車に乗せてもらい、自宅に向かった。水没の跡が残る我が家に、家族の姿はなかった。
あきらめて佐藤さんの家に戻ると、みんなが飛び出してくる。「ご両親が来てるよ」。父の浩章さん(47)と母のまゆみさん(47)の姿が見えた。友美さんを捜し求めていた両親は、親戚を通じて、娘がこの集落にいるという情報を得てやってきた。
「友美、友美」。両親は娘を抱きしめ、声を上げて泣いた。「会えると信じていた」と友美さん。乏しい食料を分け、命をつなぎとめてくれた佐藤さんたちを、両親にこう紹介した。「私の第二の家族だよ」(
大津波で妻と息子を失った市職員 「負けないで」と被災者に呼びかけ
2011.3.18
『最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。
いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。
被災されたみなさん。
苦しいけど
負けないで!
名取市職員 S』
私は死ねない 息子が残した命のためにも 宮城・石巻
2011年3月19日
地震が起きた時、江利子さんは智史さんの妻(27)と市の中心部で食事をしていた。若い夫婦は、1週間前に結婚したばかりだった。
河口に近い吉浜で働いているはずの智史さんを心配し、2人で急いで車で戻ったが、津波で道が破壊されていて進めない。車の中で一夜を明かした。
翌日、がれきを乗り越えながら数キロ歩いて、やっと吉浜に近い避難所にたどり着いた。遺体となっていた。智史さんの妻は長い間、遺体のそばを離れず、生きる力を失ってしまったように避難所で寝込んだ。
・・・・・
智史さんの妻のおなかには6カ月の赤ちゃんがいる。「智史が残してくれた大切な命。私は、この子のためにも生きないといけない」
被災者の心を癒す“お掃除娘” 宮城・女川町
2011.3.18
雪が舞い、厳しい寒さや物資の不足、慣れない生活のストレスが被災者を襲うなか、宮城県の女川町立第二小学校避難所で、廊下をほうきで掃く“お掃除娘”が被災者の心を和ませている。
「きれいきれい」。慣れない口調と手つきでほうきを使い、廊下のほこりや泥をはいているのは、同町清水町の漁師、今村豊一さん(42)と美和さん(36)夫婦の二女、摘希(つみき)ちゃん(1)だ。摘希ちゃんが掃除をすると、みけんにしわを寄せて行き交う被災者の顔がほころぶ。
ノートもカバンも泥まみれ「でも早く学校行きたい」
2011年3月18日
2年生の一人は、後片付けに訪れて自分のかばんを見つけた=18日午前、岩手県大船渡市の綾里小学校、諫山卓弥撮影
・・・・・瓦礫のなか泥に汚れた鞄を持ちながら、なんてきれいな笑顔なんだ。
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動画
中島みゆき サーモンダンス 夜会vol.14:24時着00時発
歌詞
「・・・・・生きて泳げ 涙は後ろへ流せ・・・・・」