『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)とは、鎌倉時代初期の日本の僧・親鸞の著作である。全六巻からなる浄土真宗の根本聖典である。
正式な表題は『顯淨土眞實敎行證文類』と記述されている。
『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう、せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)は、建久9年(1198年)、関白九条兼実の要請によって、法然が撰述した2巻16章の論文。略称は『選択集』(せんちゃくしゅう、せんじゃくしゅう)である。浄土宗は「選択」を「せんちゃく」と、浄土真宗では「せんじゃく」と呼称について差異がある。「浄土三部経」の経文を引用し、それに対する善導の解釈を引き、さらに法然自身の考えを述べている。
法然真筆の冒頭文「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為先」の書かれた草稿本は京都の廬山寺に蔵されている。
末法においては称名念仏だけが相応の教えであり、聖道門を捨てて浄土門に帰すべきで、雑行を捨てて念仏の正行に帰入すべきと説いている。それまでの観想念仏を排して阿弥陀仏の本願を称名念仏に集約することで、仏教を民衆に開放することとなり、日本の浄土教において重要な意義を持つ文献の1つである。
釈迦の立教以来千年(500年とする説もある)の時代を正法(しょうぼう)、次の千年を像法(ぞうぼう)、その後一万年を末法の三時に分けて、末法においては仏法が正しく行われなくなる、とする考え方。
日本では平安時代の頃から現実化してきた。平安初期には(まだ一般的ではなかったものの)すでに最澄や景戒には、末法であるとの自覚が見られる。一般的には、特に1052年(永承7年)は末法元年とされ人々に恐れられ、盛んに経塚造営が行われた。この時代は貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある動乱期で、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。
『末法灯明記』は、現在は末法であって無戒の時代であることを強調するものであり、これは仏教が堕落し社会が混乱している時代に育った鎌倉新仏教の祖師たちに大きな影響を与えた。
栄西や、曹洞宗を開いた道元は、釈迦在世でも愚鈍で悪事を働いた弟子もいたことや、末法を言い訳にして修行が疎かになることを批判した。そして修行に努めることを説いた。
鎌倉時代、法然を開祖とする浄土宗や親鸞を開祖とする浄土真宗などは末法思想に立脚し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし称名念仏による救済を広めた。また同時期、日蓮も末法思想を真剣に受け止め、末法であるからこそ信じて行うべき法を求め、法華経こそが正しい教えであるとし(法華一乗)、南無妙法蓮華経と唱えることを広めた。
室町時代後期、戦国時代に入ると、寺社勢力は金融の担い手となっており度々土一揆に襲われたり、千年近くかけて有力寺社が自墾・寄進で増やしてきた寺社本所領が地方豪族によって横領されるなど寺社の経営基盤が大きく揺らいだ。また、この時代の寺社の多くは土一揆に備えたことをきっかけとして施設を要塞化、僧侶は武装、僧兵と化し、日々の修行よりも戦いに明け暮れ、人を殺めるようになり、浄土真宗や比叡山のように戦国大名と交戦したものもあった。また東大寺のように施設を拠点に利用され戦乱の舞台となり焼失した事例も少なくない。人々はこうした数々の出来事を見て、まさに末世が到来した、と判断した。
加藤周一は、、「日本美術の心とかたち」の中で「八世紀の仏像は、日本彫刻史の最高の到達点であるばかりでなく、その中での傑作は、大陸においてさえもそれに匹敵する作品が少ないほどである」と評し、その傑作の筆頭に、薬師三尊の月光菩薩像をあげている。
豊満な全身の立体的なデザインを褒め、身体の量感、表情の気品さの二つの要素の「甘美な調和」を絶賛している。
薬師三尊像 【国宝】 白鳳時代
極楽は西にもあれば東にも
来た[きた](北)道さがせ
皆身[みなみ](南)にぞある
西に阿弥陀様の極楽世界、東にお薬師様の浄瑠璃世界[じょうるりせかい]があります。けれども薬師如来は東方浄瑠璃世界だけが願うべき世界ではなく、西方極楽世界[さいほうごくらくせかい]へ往生したいと願う人には、薬師の名号を聞くことによって極楽世界へ導いてあげますよとおっしゃっています。その人その人にふさわしい浄土を願わし引導して下さいます。
金堂内の白大理石須弥檀[しゅみだん]上に、中央に薬師瑠璃光如来、向かって右に日光菩薩[にっこうぼさつ]、向かって左に月光菩薩[がっこうぼさつ]がお祀りされています。薬師三尊のおわします内陣は長和4年(1015)に撰述された薬師寺縁起で「瑪瑙[めのう]を以て鬘石となし、瑠璃[るり]を以て地となし之を敷く、黄金を以て縄となし、道を堺し蘇芳[すおう]を以て高欄[こうらん]をつくり紫檀[したん]を以て内陣天井障子となす」とあり、まばゆいばかりの様相でした。まさに浄瑠璃浄土の世界です。
Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS was a British politician who was Prime Minister of the United Kingdom from 1979 to 1990 and the Leader of the Conservative Party from 1975 to 1990. She was the longest-serving British Prime Minister of the 20th century and is the only woman to have held the office. A Soviet journalist called her the "Iron Lady", a nickname that became associated with her uncompromising politics and leadership style. As Prime Minister, she implemented policies that have come to be known as Thatcherism.
Originally a research chemist before becoming a barrister, Thatcher was elected Member of Parliament (MP) for Finchley in 1959. Edward Heath appointed her Secretary of State for Education and Science in his 1970 government. In 1975 Thatcher defeated Heath in the Conservative Party leadership election to become Leader of the Opposition and became the first woman to lead a major political party in the United Kingdom. She became Prime Minister after winning the 1979 general election.
Upon moving into 10 Downing Street, Thatcher introduced a series of political and economic initiatives to reverse high unemployment and Britain's struggles in the wake of the Winter of Discontent and an ongoing recession. Her political philosophy and economic policies emphasised deregulation (particularly of the financial sector), flexible labour markets, the privatisation of state-owned companies, and reducing the power and influence of trade unions. Thatcher's popularity during her first years in office waned amid recession and high unemployment, until economic recovery and the 1982 Falklands War brought a resurgence of support, resulting in her re-election in 1983.
Thatcher was re-elected for a third term in 1987. During this period her support for a Community Charge (popularly referred to as "poll tax") was widely unpopular and her views on the European Community were not shared by others in her Cabinet. She resigned as Prime Minister and party leader in November 1990, after Michael Heseltine launched a challenge to her leadership. After retiring from the Commons in 1992, she was given a life peerage as Baroness Thatcher, of Kesteven in the County of Lincolnshire, which entitled her to sit in the House of Lords. Thatcher died on 8 April 2013, from a stroke.
仏像は、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像のこと。仏(仏陀、如来)の原義は「目覚めた者」で、「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」の意である。初期仏教において「仏」とは仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ(釈尊、釈迦如来)を指したが、大乗仏教の発達とともに、弥勒仏、阿弥陀如来などの様々な「仏」の像が造られるようになった。
「仏像」とは、本来は「仏」の像、すなわち、釈迦如来、阿弥陀如来などの如来像を指すが、一般的には菩薩像、天部像、明王像、祖師像などの仏教関連の像全般を総称して「仏像」ともいう。広義には画像、版画なども含まれるが、一般に「仏像」という時は立体的に表された丸彫りの彫像を指すことが多い。彫像の材質は、金属製、石造、木造、塑造、乾漆造など様々である。
2012年10月09日10時42分
『宗教後のキリスト教=教会の終わりと新しい霊的革新の誕生』の著者ダイアナ・バトラー・バス氏も、同様の見方。米国中南部の「バイブル・ベルト」と呼ばれる地域の保守的な宗教文化の中で新たな展開を見せられる、として、「心の広い、進歩的な心を持つ人たちのための役割があると思う。その人たちが素晴らしい『反体制文化』をもたらす」と言う。
ユニテリアン・ユニバーサリスト協会は、いわゆる南部での成長がめざましい、と同派の「証し専門家」の1人レイチェル・ウォルデン氏が語った。
調査機関「ピュー・センター・フォア・ザ・ピープル・アンド・ザ・プレス」の調査に、市民の約2割は、特定の教派に属していない、と回答するが、同派は、このグループに訴えようとしている。
シカゴの「メドヴィル・ロンバート神学校」のリー・バーカー校長も、ユニテリアン・ユニバーサリストは、まさに時と所を得た、として「わたしたちは、教会の価値と文化の価値に関心を持たれる時代に際会している。すぐに無くなってしまうとは思えない」と言う。
(CNN) 米国で特定の宗教を持たない人が増加し、5人中1人に上っていることが、9日に発表された世論調査機関ピュー・リサーチセンターの調査で分かった。
それによると、特定の宗教を持たない米国人は過去5年間で25%増加。特に若者の場合、1990~90年生まれの層の34%、81~89年生まれの層の30%が無宗教だった。
無宗教の米国人推定3300万人のうち、1300万人は、無神論者、または神の存在は証明できないとする不可知論者を自認している。
特定の宗教を持たなくても68%は神の存在を信じると答え、37%が神は「スピリチュアル」な存在だが「宗教的」存在ではないと回答。5人に1人は毎日祈りをささげると回答した。
18~29歳の層では、特定の宗教を持たない人のうち無神論者と不可知論者がほぼ42%を占め、キリスト教徒(18%)やカトリック信者(18%)よりはるかに多かった。
この傾向についてピューの専門家は、宗教を持たないことを恥とする意識が薄れ、「以前から宗教心がそれほど強くなかった人の多くが、自分は宗教を持たないと公言できるようになった」と分析している。
東大寺は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺である。現別当(住職・220世)は、北河原公敬。
金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。