稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

東亜特殊電機(現 TOA)で死ぬか思った経験

2019年09月23日 | つれづれ

(勤務時代のTOAの輸送箱、工房の片付け時に出てきた)

昭和53年から昭和59年まで東亜特殊電機株式会社(現在はTOA)に勤めた。
日本大学の生産工学部電気工学科を卒業し、初めて就職した会社で、
秋田県の担当となり、失敗を繰り返して仕事のノウハウを覚えていった。
営業職だったが、機器の修理、弱電設備の設計と製図、現場での工事など、
何でもこなした(こなさなくてはならなかった)人生の基盤とも言うべき会社である。

個人的にも、岩手県盛岡市で剣道を再開し、社内結婚もしたので、
僅か6年間の勤務だったが、いまの私の人生はここで培ったと言って良い。

東亜特殊電機株式会社は音響機器、平たく言えば拡声器の製造メーカーで、
選挙用のスピーカーから、学校やビルの放送設備、カラオケ、ホール音響、
議会用の議場アンプ、マイクなど幅広い製品を作って販売していた。

入社した時の社長は、中谷太郎という2代目創業者で、
新入社員の研修の場で一度だけ直接お話を伺ったことがある。
中谷社長はいきなり「皆さん、うちは何を売っている会社ですか?」と聞いた。
我々新入社員は突然の社長の問いに戸惑いつつも、
「スピーカーとアンプです」などと答える者もいた。

中谷社長はうんうんと頷き、一呼吸おいたあと、
「皆さん、私たちの会社は音を売る会社です」と言われた。
そしてアンプやスピーカーを売るということは良い音をお客様に届けるということ。
良い音をお客様に届けるには良い商品を作り続ける努力も必要だが、
お客様の生の声、ご要望を設計製造するほうに持ち帰ってこなければならない。
研修を終え色々な部署に配属になると思うが、
常に「音を売る」という基本を忘れてはならない・・とそう言われた。

私はひどく感銘を受け、良い会社に入れた喜び、
そして良い仕事をしていくぞと使命感に燃えたのを覚えている。

配属は岩手県の盛岡営業所。
秋田県担当となり毎週盛岡から秋田に出張した。
移動距離は1週間で400キロ~500キロ。高速道路の無い時代である。
やがて移動が大変だと秋田に駐在することになり、たった一人で駐在所勤務になった。
秋田駐在時代は今から考えれば自分自身に至らぬ点も多いのだが、
週休2日なのに休みをほとんど取らなかったり、深夜にカラオケの修理に出向いたり、
弱電の建築設備設計図面を2晩も徹夜して書き上げたりして一生懸命だった。

電気工事会社、電材会社、電気器具卸商社を中心に活動し、
設備設計事務所、秋田県庁から市町村の役場まで活動範囲は広かった。
卸商社と同行して町の電気屋さんなどキャンペーンで回ったことも多い。


(輸送箱と一緒に出てきた黄ばんだ名刺)

今でも「よくあんなことやれたよなあ」と思うのは、
ある小学校の体育館の天井アリーナスピーカーの取り付けである。

秋田県の担当になってしばらくした時に、
新築小学校の工事現場の東北電気工事の監督から電話があった。
「トーアさん、天井スピーカー付いてないけどどうするの?」
現場に駆けつけると出来上がった体育館のアリーナ中央にあるべきスピーカーが無い。
前任者が工事の手配を忘れていて、アリーナスピーカは倉庫に眠っていたのだ。
体育館完成後でも取り付け可能な壁掛け型スピーカーと勘違いしてたのだろうか?


(参考図:体育館の天井中央にあるのがアリーナスピーカー)

今から思えばどうして上司(営業所長)に相談しなかったのだろう。
金さえ出せば工事をしてくれる業者はあったはずなのに。

ともかく自分で解決しなければと考えた。
私はすぐに1升瓶2本を買って包んで工事現場に行き、
工事の総監督に酒を手渡し、鉄骨の足場を一晩貸して欲しいと交渉した。
総監督は「傷でもつけたら承知しないからな」と言ったが何とか了承してくれた。

提携している弱電屋さんは電気工事は不得手で見守るばかり。
その弱電屋さんの友人が電気工事屋だったので私と2人で足場を組んでいった。
天井アリーナまでは何段あるのか忘れたが、体育館の中央天井はかなり高い。
足場は下は広く作り、上に行けば塔のようになる。

高所恐怖症の私は2段目でも足がブルブル震えている。
1段組み立てるごとに足場にしがみついて震えが止まるのを待っていた。
ハシゴは無い。次の段に登るには足場の外側をよじ登るしか無いのだ。

それでも少しは慣れるもので、
やっとの思いで天井まで足場を組んだがそれはまだ序盤でしかない。
次にスピーカーの取り付け金具を2人がかりで時間をかけて上に上げた。
いったん降りて、次に大型の電気ドリルとコードを担いで登っていく。
一人がスピーカー金具を抑え、もう一人が天井の金具に穴を開ける。
火花が顔に降りかかるが防御用のメガネも無い。

何とか金具を取り付け、いったん下まで下りて、
体育館用のコラム形の大型スピーカ4個を分けて上まで上げる。
スピーカーの結線が終わったら最後に上から足場を分解していく。

作業は夜の9時ぐらいから明け方までかかった。
足場を元の置き場まで持っていく時には足がもつれていた。
ズボンもネクタイもワイシャツもドロドロになっていた。
心身ともに疲れ果て、次の日は仕事にならなかったのを覚えている。

私は本当に高いところは駄目で少し高いところだと足がすくむ。
それでも体育館の天井アリーナに向けて足場を組んでいく時は、
使命感で無我夢中で上まで登っていった。

いま思い出しても手に汗を握るほどである。
落ちて死んでもおかしくはなかった。
誰も知らない作業。やり遂げても誰にも褒められないのに。

まだ若い23才か24才だったからこそやれたのだと思う。
あんなことはもう二度とごめんだ。
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2 コメント

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懐かしいロゴと… (GG子猫ピロピ♪)
2019-09-23 22:20:13
先輩もよくご存知のTA-1120とトランペットSP、工場・ビルPAの基本を勉強させていただいた懐かしき戦友でした。定時のラジオ体操の音源に、自作のバッテリバックアップRAMで組んだことも。コンパクトフラッシュの音源は随分後でしたよね。なにせ当時の松○(現○anasonic)は、ライバル中のライバルでしたから買えませんでした。
ちなみに当時の職場はELBの、今でも?トップ工場でした。あのロゴに思わずコメント、失礼いたしました。
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ありがとうございます。 (粕井誠)
2020-10-06 14:02:52
コメント見逃していました。すみません。

陸の孤島のごとくの秋田県での営業でしたから、とっさの時のために、
古いTA-120Zとトランペットスピーカー、マイクは営業車にいつも積んでました。
公共の場で音が出ないのは一刻の猶予もならないですからね。
休みの日も深夜もクレームの電話が鳴らないか怖かったのを憶えてます。

現場ではラックアンプの中にSONYのカセットデッキを組み込むことが多かったです。
さすがに松下やビクター製は使わなかったですね。
顧客(電気工事屋や設計事務所)から「どうしてカセットデッキはTOAと違うんだ?」と言われて、
「SONYはTOAと提携企業なんです」と苦しい言い訳を何度かしたことがあります。
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