田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

銀閣寺道の屋台伝説(下)

2015年07月16日 | 遠い日の記憶

 浄土寺橋の屋台については、色々な方が回想している。

 京都在住の元大学教授の思い出である。元教授は私より9歳ほど年長であるが、学生時代は銀閣寺道に下宿していたという。

 この方は、毎晩のようにここでラーメンを食べていた。この屋台は繁盛し、百万遍に「百万石」という店を持ったが、この店は後に韓国料理店になり、後にそれもなくなったという。浄土寺橋の北西には、今を時めく「ますたに」というラーメン屋がある。彼によると「ますたに」はこの屋台のすこし後に出来たそうである。

 次は、57年前に銀閣寺で親戚の家に厄介になっていたという方である。氏の回想によると当時、既にこの屋台はあった。やはりテント張りの店で、ラーメン一杯35円。深夜になると学生で賑わい、大繁盛したために他で働いていた弟二人を仕事を辞めさせ、3人でやることになったそうである。以下、氏のブログから引用する。

 「噂では余りにも有名になり、税務署が3日間夜に張り込んで一晩の売り上げをチェックしたらしい。その時は噂が噂を呼び、一晩2000杯。伝説として長く言い伝えられた。」

 氏によると、ラーメンの味は濃厚なしょうゆとんこつ味で、にんにくと唐辛子を混ぜた薬味をお好みで入れたそうである。屋台は大繁盛し、百万遍に中華の3階建てビルを建てて、屋台は廃業したことになっている。

 次は又聞きの類になるが、京都大学の近所に生家がある大学の先生の話を伝えている。それによると、この屋台は風雨に関係なく常に同じ場所で営業していて、根性が座っていたとのこと。百万遍に移ってからは味が上品になり、薄暗い中で啜る昔のラーメンの味は消えたそうである。

 インターネットには昔、京都で青春時代を送った人々の回想記にこの屋台が登場する。人によって記憶が少しづつ異なっているが、共通しているのは浄土寺橋の屋台で儲け出し、百万遍にビルを建てたが、今ではそれも変わってしまったということである。

 ただ、17年前に京都新聞が「銀閣寺屋台伝説」と題して、本人にインタヴューした過去記事があるので、それが一番確かな話であると思う。(ここをクリックして下さい)

 伝説の舞台となった浄土寺橋のたもとは、今では銀閣寺や哲学の道に続く遊歩道が整備されていて、昔の面影はない。

 さて、私が学生時代に通ったラーメン屋台は伝説の屋台なのかどうか。屋台の様子や年代など、符合するものもあれば違うものもある。往時茫々として私の記憶もぼやけており、真相はわからない。

(追記)京都市内に住む私と同世代の方のブログにも話が出ていた。20年近くも前のテレビで、当時の屋台のラーメン屋さんを探し出してきて、ラーメンを復活してもらうという番組があったそうである。その方によると、屋台が店じまいしたのは交通の障害になるという行政の方針があったらしい。

(追記2)文中で紹介した元大学教授は銀閣寺道近くに住んでいたが、先年亡くなられた。文を引用したブログは2019年で中断したままだが、ここをクリックすれば当該記事を見られる。リンクを貼っていた京都新聞の記事はいまは削除されている。この記事を投稿してからずいぶん経った。(2024年6月)

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