田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

33年前の中国訪問記(6)

2024年01月21日 | 遠い日の記憶

 10月9日(火) 杭州まで300キロ

 今日は浙江省の杭州市まで移動する。一行のうち、若い二人は合肥へ引き返す。研修生として一週間、安徽大学で中国の地方行政や福祉などについて学ぶ。当時、合肥市からも久留米の企業で研修生を受け入れていた。いま流行りの技能実習生ではない。

 朝早く山荘を出発したが、部屋にジャケットを置き忘れた人がいて途中、引き返す。公式行事も終わり、そろそろ気が緩むころである。麓にある黄山大門で一旦、バスを降りた。黄山への入り口である。

 バスは小さな町を幾つも走り抜けていく。車窓からのショット。理髪店のようだ。

 1階は合成樹脂などを取り扱う店。子どもが乗っている車は日本でいえば軽トラか。泥濘でも走れるトラクターのようなタイヤ。荷台にいろいろなものが積める。

 2時間後、歙県で休憩する。歙県は硯の産地であるが、店には立寄らない。写真はバスから降りて撮っているので、休憩した場所か。

 二日間通して走った道路はこのような、ざらついた路面だった。マイクロバスに乗っていると、クッションの利かない座席から細かい振動が伝わってくる。

 11:30 ドライブインのような店に着き、昼食を摂る。ここは杞梓里鎮という村。ホールではなく別室に案内された。たかる蠅を手で払いながら食事をしたが、ここで出された中国料理も美味しかった。火を通したものばかりで、生ものは出ない。

 食堂との仕切りがないので厨房を覗いてみた。料理人の男性が一人で頑張っていた。向こうの男性は給仕人である。中国では琺瑯びきの容器がよく使われる。高校生の時、小倉で開催された中国物産展で、琺瑯の5個組のマグカップを買ったことがある。キャンプなどで重宝した。

 腹を満たして店の前で一枚。バスは自転車が走っている道を通って来た。空き地にブロックが積んであるが、目の粗い日干し煉瓦のようなものだった。

 道の向こうに共産党の事務所と役場が同居していた。村ではこんなものだろう。隣の建物の扉には頑丈そうな南京錠がおろしてあった。

 ここはまだ歙県の山陽鎮という所である。休憩ではなく、タイヤトラブルのため降ろされた。タイヤを見ると溝は消えかかり、接地面のゴムがあちこち剥がれている。よくこんなタイヤで走ってきたものだ。稲わらを山積みにしたトラクターの様な荷車が来る。向こうにはリヤカーも見える。

 山陽鎮の町並み。二日前に長江を渡ってから、山峡の道ばかり走ってきたような気がする。村から都会に出る機会はそう多くはないだろう。通訳に、農村の人は大学を受験するのに優遇措置はあるのかと聞いてみた。返事は、その逆ですということだった。

 まだまだ杭州は遠く、山道が続く。修理は30分ほどで済み、再出発した。

 山陽鎮を出てまもなく浙江省に入った。午後3時前に、山間にある昌化という町を通り過ぎる。時折、谷を流れる川を見下ろしながら山道を走り続けた。バスでの長旅にいい加減くたびれてきたころ、青山湖というダム湖を通った。ここから道は下りはじめた。

 何という村か知らないが、車窓から。

 こういう塔を時どき見かけた。平野部に入って、ほっとした気持ちになる。

 杭州まで55キロの地点に来た。道端のところどころに、杭州市までの距離を書いた石が置かれていた。街路樹の並木が続く。

 夕方6時前に杭州市へ入る。外資系の近代的なホテルの駐車場にバスがとまった。今日はここに宿泊するのかと思ったら勘違いだった。しばらくすると、例のごとく杭州市外事弁公室の人が来た。杭州市外の車は市内に乗り入れが出来ないそうだ。バスを乗り換えるための休憩だった。

 15分ほどで新橋飯店に着いた。西湖のすぐ近くにある小さなホテル。食事のあと、西湖の畔や街路をそぞろ歩いた。日が暮れたばかりで人通りもあり、いい風情である。歩道に昔、学校の保健室や銭湯にあったような大きな体重計が置かれていた。横に小母さんが座っている。通行人の体重を計る商売である。一人が旅の思い出にと乗ってみた。料金は5角ほどだったと思う。

 

 

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