10月5日(金) 表敬訪問
訪中した年は改革開放路線が始まって10年余り。まだ人々の間に文化大革命の記憶が残っていた頃である。既に経済特区は開設されていたが、当時の上海は急成長の前で町並みは古かった。市民の交通手段はバスか自転車が主である。大通りは自動車のクラクションが喧しい。
早朝7時にホテルを出て空港へ。車中で朝食のサンドウィッチを食べる。紙パックのオレンジジュースは人工甘味料の懐かしい味がした。通訳が、自分は汽車で追いかけて来ますと断りを言った。合肥から来るときに身分証明書を忘れたのだ。中国では証明書がないと飛行機に搭乗できないそうである。彼は後に研修生として久留米に来ることになるが、この時が初対面だった。
建設中のビル。覆いは筵のようなもので、足場が竹で組まれているのに驚いた。足が滑らないのかと思うのだが、かえって扱いやすいのだろうか。
8時に上海虹橋空港を発つ。中国のパイロットはみな軍人上がりだから、離陸すると戦闘機のように急上昇すると訪中する前に聞いていた。もちろん冗談である。中国の航空会社による空の旅はいずれも快適なフライトだった。
8時45分 合肥空港着。市関係者の出迎えを受け、マイクロバスで田園地帯を走る。市街地までは1時間もかからない。街路樹が続く中、遠くに水牛を見て中国に来たのだと実感する。稲刈りの季節だった。どこか懐かしさを覚えるのは何故だろう。宿舎の梅山飯店で荷物を下した。梅山飯店は2階建で、ホテルというより招待所のような雰囲気である。
しばらく休憩した後、市人民政府を表敬訪問。今回のメインの公式行事である。写真は途中のバスからの風景。横断歩道の信号は残り時間が表示灯の点滅で示される方式だった。いまは日本でも普通に見られるようになった。
「合肥市百貨大楼」はデパートだろう。バスの車窓から街の風景を眺める。大きなビルの傍らに土壁漆喰造りのような古い民家がある。家の前に若い女性が立っていて、琺瑯引の丼でご飯を食べている。街のなかに新旧が混在している。
この年は両市が友好都市を締結して10年の節目だった。経済や文化など民間レベルでも交流を重ねてきたので、旧知のような和やかな雰囲気である。市庁舎ではトイレを借りた。事前のにわか勉強で中国のトイレ事情に関心があったのである。衛生的で清潔だった。大の方は個室だがドアは小さく密室ではない。別の日に行った公園では、有料トイレがあるかと思えば。昔ながらの座って会話ができる水路式もあった。
中国の地方行政制度は日本とは大きく異なる。ごく大まかにいえば省・直轄市、市、県、郷・鎮という行政区画があり、末端には行政組織ではないが居民委員会がある。いずれも国や上級機関の指導下にあり独立性はない。
市庁舎からバスで移動し、人民代表大会を訪問した。日本でいえば議会にあたる。赤いカーテンの上にあるのは中国の国徽。写真ではわかりづらいが、上から五星、天安門、穀物の輪、歯車があり赤いリボンで束ねられている。後々まで、私は市共産党の委員会に来たものと思い込んでいた。
テーブルに寸胴の茶杯がある。取っ手と蓋がついていて、茶葉を入れ、葉が沈んだ頃に蓋をずらして茶を飲む。初めての経験だったがすぐに慣れた。茶杯にも大小色々あるが、公式の場ではみなこの茶器だった。
一旦、宿舎に戻る。食堂の長いテーブルで昼食を摂ったが、世話係はホテルの従業員というよりも服務員といった方がよさそうだ。滞在中は当然、中華料理ばかり食べることになるが、脂っこくはなく美味しかった。ただ米は不味くて口に合わない。お箸も大きくて慣れないうちは扱いにくい。
午後は六安路小学校を訪問した。久留米の小学校と交流を続けている学校である。子ども達の歓迎を受けた。右隅に私たちが乗ってきたマイクロバスがある。
小学校の教室で。女性は校長先生。隣に座っている少女が歓迎の挨拶を述べた。目が輝いていて、如何にも利発そうな子どもであった。
教室では日本の歌や踊り、中国琴の演奏や水墨画などが披露された。黒板には「熱烈歓迎」の大文字。
1時間足らずの滞在だったが結構楽しめた。帰りのバスの車中からの一枚。奥にいる楽隊は到着の時に盛大に演奏してくれたものだ。この子ども達もいまは壮年になっている。
子ども達と別れて友好美術館建設予定地を視察する。場所は逍遥津公園のそば。写真は公園の入り口前に出ていた簡易屋台、というよりワゴンのようなもの。日本ではよく観光地の道端でアイスクリームを売っているが、ここでは何を商売していたのか。
夕方近く、今度は歴史上の人物を表敬する。もちろん遥か、いにしえの故人である。写真は包河公園の佇まい。包公祠がある。
包公祠の入り口。
包公(包拯)は宋代の人で、清廉潔白な名裁判官として人々に親しまれている。劇や小説にも主人公として取り上げられ、日本でいえば大岡越前守といったところである。包公は合肥生まれで、この公園の辺りで少年時代を過ごしたという。
包公像。墓は地下にある。国民に親しまれていたといえば、先ごろ亡くなった李克強総理も合肥の出身である。第3の天安門事件を心配したのか、彼の葬儀の時はネットなどの規制が行われたそうだ。
夕刻から宿舎の梅山飯店で歓迎レセプションが催された。これも重要な公式行事である。両市から型通りの挨拶があったあと乾杯。末席近くに座る私の横は若い女性通訳だった。すっぽんの食べ方が分からず要らないと言うと、では私が頂きましょうと器用に食べた。高級料理だそうである。
振舞われた酒は地元の白酒「古井貢酒」。飲むと喉の辺りで蒸発すると云われる強い酒である。中国では注がれた酒は飲み干さなければならないが、酒席で失敗すると落伍者とみなされる。幸い私は酒に強い方で隣の男性から何度も注がれた。彼はマイペースで飲んでいる。よくよく見たら足元に清涼飲料水のスプライトを置いていた。上に政策あれば下に対策あり、という中国の当世ことわざを思い出した。
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