田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

33年前の中国訪問記(4)

2024年01月15日 | 遠い日の記憶

10月7日(日) 黄山へ

 今日は黄山まで行く。当初は飛行機の利用を検討したらしいが、諸事情でマイクロバスでの移動となった。中国の内地を陸路で旅する機会はめったにない。

 朝早く、6時過ぎに宿舎を出発する。黄山まで370キロ。2時間ほどで合肥の東にある巣湖の近くを通過した。巣湖は中国の五大湖の一つで、琵琶湖よりも大きい。ピンボケの写真だが、高速道路を建設中だった。当時、この国の道路事情は悪かった。都市間を結ぶ道路は道幅が狭く、日本でいえば簡易舗装のレベルである。私達のバスは、そんな道を猛スピードで突っ走る。

 巣湖を過ぎてしばらく農村地帯を走る。稲刈りの季節だが、農業用機械は見当たらない。荷台の櫓に白い鶏を満載した車とすれ違う。突然、バスが止った。道路一杯に敷物をして刈り取った稲を並べている。何ごともなく、バスは再び走りだした。しばらくして、あれは通り過ぎる車を利用した脱穀ではないかと思い当たった。

 9:20。長江の渡し場に着く。上海の河口から数百キロ上流である。対岸に霞んでいるのは蕪湖市の街並み。

 写真の、川に浮かんでいるフェリーに乗船したのか、よく覚えていない。大きな渡し船といった方が適当である。

 乗船を待つトラックの列。当時、中国ではまだ自家用の自動車は普及していない。運転手は高級技術者として遇されると、ものの本で読んだ。

 道端ではゲームに興じている。駒は大きな碁石のようなもの。中国では屋外で将棋を楽しむ人達を見かけた。私が子どもの頃、夕方にもなると近所の米屋の店先で縁台将棋が始まったものだ。

 物売りのテントも出ていた。

 出航したフェリーから渡し場を振り返る。乗船客用の覆いのある通路があるだけで、建物や施設のようなものはない。対岸の蕪湖までは15分である。蕪湖市の街並みの様子は記憶にない。蕪湖を過ぎると一路、南下して黄山に向かう。

 午後1時近く、経川鎮に着く。写真は昼食を摂った経川賓館。食事の時にビールを頼んだが、こちらではビールは冷やさずに飲むそうだ。

 女の子と仲良しになった。都会のホテルとは違い家庭的な雰囲気だった。

 賓館の前に池がある。向こうにある中国独特の屋根は四阿のようだ。池では少年が竹竿で魚を釣っていた。のんびりとした雰囲気である。

 

 経川鎮を出発して再び田舎道を走る。名も知らぬ村を通り抜ける。

 

 途中、道を間違えて細い山道に入り込んでしまった。運転手が舌打ちをして、いま来た道を引き返す。夕方の5時過ぎ、ようやく黄山の山麓に着いた。観光客のための旅荘が建ち並んでいる。合肥を出てから11時間。桃源賓館で荷を下ろす。

 この日は、途中ずっと田舎道を走ったが、印象深いのは人家のない田園でも街路樹の並木が延々と続いていることだった。

 宿舎には黄山市外事弁公室の幹部が出迎えに来ていた。歓迎というよりも、中国では管轄の行政区域外ではこうした手続きが必要なようだ。

 

 

 

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