田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

病院聖堂前の降誕模型

2022年12月21日 | 街角の風景
 カトリック系の総合病院に行った時。敷地の聖堂前にキリスト降誕の模型が置かれていた。クリスマスの前を待降節といい、こうした降誕場面の模型が飾られるそうだ。  この聖堂は福岡市大名町にあったものを移築した。明治中期の建築で、煉瓦造りの天主堂としては日本でも古い建物らしい。数年前の待降節に、この聖堂でパイプオルガンによる大バッハの曲を聞いたことがある。  この聖堂にはかすかな記憶がある。小学生 . . . 本文を読む
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田園のティラノサウルス

2022年12月12日 | 街角の風景
 筑前町の道の駅に行く途中、曾根田川のほとりにゴジラに似た巨大な像があった。  ティラノサウルスの藁かがしだった。かがしは案山子のこと。大勢の人が見物に来ている。毎年、地元の若者が稲刈りが終わったあとの藁で作っている。骨組みは角材と竹。  前にある車は、映画ジュラシックパークの、追いかけられて車で逃げる場面を再現したものらしい。車内に案山子の人形でも居れば、より臨場感が増しただろう。 . . . 本文を読む
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商店街の大道芸

2022年11月26日 | 街角の風景
 先週末、中心市街地の駅前や広場、通りで大道芸のイベントがあった。いつもは閑散としている商店街も人通りが多い。  通りにいろんな芸人がやって来て子ども達は後を追う。  この日はイベントなので人々はそれを目当てに来ているが、特に舞台があるわけではない。路上で芸が始まる。口上で通り行く人の好奇心を誘い、自分の芸に引き込んでいく。  この日の大道芸は日本の辻芸ではなく、西洋風。アクロバ . . . 本文を読む
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ブリヂストン通り

2021年12月27日 | 街角の風景
 久留米城の大手門近く、三の丸があった所に「ブリヂストン通り」と彫られた石碑がある。昭和31年に当時のブリヂストンタイヤが1.2キロにわたる道路を建設し、市に寄付したことが記されている。いまでは市によって通りは延長され、主要な環状道路の一部をなす。  右側はブリヂストンの工場。ここは会社発祥の地であり、マザープラントと呼ばれていた。左手には明善高校のグラウンドやレストランなどの店舗がある。両 . . . 本文を読む
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草野町の山辺道で

2021年11月04日 | 街角の風景
 耳納北麓を走る山辺の道で。農家の庭先にある無人販売だが、人形が売り子をしていた。昔、母が縁側の軒下に渋柿を吊るしていたのを思い出す。 . . . 本文を読む
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ある老舗食堂の閉店

2021年10月14日 | 街角の風景
 久し振りに来たら入り口に閉店のお知らせが貼ってあった。この店は昭和6年の開業というから90年の歴史がある。食堂といっても丼物の店で、親子丼と肉丼が絶品だった。小皿に二切れの沢庵漬けがつく。   店内は昭和の佇まいで灰色にくすんでいた。古びた木のテーブルにつくと、お婆さんがお茶の入ったアルマイト製の小さな薬缶を持ってきてくれる。奥の三和土には竈があり、大きな羽釜で飯を炊いていた。グルメ . . . 本文を読む
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秋の雲

2021年09月16日 | 街角の風景
 昨日の朝、秋の雲が広がっていた。風があり、空気は乾燥していて日陰を歩くと心地よい。今年は秋の訪れが早いのか。このまま爽やかな秋が来てほしい。月が替われば、また街歩きや野歩きを始めたいと思っている。         . . . 本文を読む
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村の鎮守

2021年09月11日 | 街角の風景
  都市近郊の田んぼの中に神社がある。ここは小さな町を一歩出たところ。左にある住宅は新興の小さな分譲団地である。  鎮守の神様は村の守護神。車を走らせていると小高い所に鎮座する氏神様をよく見かける。平地では町はずれの田んぼの中に鎮守の森をつくることもある。この神社は八幡宮で昔でいえば村社、いまは字として名前が残る村の鎮守である。  応神天皇を主祭神としているためか、拝殿前の狛犬は . . . 本文を読む
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田園地帯の巨大藁かがし

2021年01月29日 | 街角の風景
 久留米から筑前町の道の駅に行く途中、田園の中に巨大なゴリラがいた。  高さは7メートル。鉄骨の支柱に地元の稲作の藁で胴体を作っている。夜は目の赤いライトが光るという。  かがしは案山子のこと。数年前から若者たちが数十人がかりで毎年、テーマを変えて作成している。そばを流れる川は曾根田川。岸辺に砂地があり水遊びが出来るような清流です。藁かがしの展示は今日まで。   &n . . . 本文を読む
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明治時代の号砲台

2020年12月11日 | 街角の風景
 明治22年の市制施行後、正午の告知は市役所屋上の鐘によりなされていた。だが同40年の第18師団設置後は、砲兵隊の号砲により正午が告げられるようになり、市民はこれをお昼の「ドン」と呼んでいた。当時、午砲台は全国各地にあった。  写真は都心部の民家敷地に残る号砲台の記念碑。号砲台は師団司令部の近くにあり、碑は明治43年の建立。題字は初代師団長の筆によるもので、一般的な「午砲」ではなく「号砲」と記さ . . . 本文を読む
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